日本には三大奇書があるという。夢野久作著「ドグラ・マグラ」、中井英雄作「虚無への供物」、小栗虫太郎作「黒死舘殺人事件」である。ドグラ・マグラ」と「虚無への供物」を読んだが、圧倒的に「ドグラ・マグラ」が面白くて質の高い本である。。発刊当時の本書の宣伝文句は<日本一幻魔怪奇の本格探偵小説><日本探偵小説界の最高峰><幻怪、妖麗、グロテスク、エロテシズムの極>と裏表紙に書いている。その通りである。ただ、それ以上に何かを感じさせる文学作品でもある。上下巻であるけれども、下巻の方が文体の走りも良く謎が解き明かされていく過程が面白い。でも本当に謎が解き明かせたのかどうかは定かではない。いったい何が謎であったのか。
探偵小説の筋を書くの難しい。でも、おおざっぱに書いてみたい。胎児は夢を見る。数十億年の生命の進化の歴史を夢に見ている。そして心理の裡に遺伝しているのである。本書の主人公は、精神病患者として自らが誰であるか知らないまま、精神病院に閉じ込められている。「・・ブ―――ン・・」という音がする。隣の部屋から「お兄さま、お兄さま・・」と言って壁を叩く女がいる。主人公の従妹である。美しい許嫁であるこの少女を殺し、母親も殺している。でも主人公は自分が誰なるかを思い出すことができない。若林法医学者は殺した少女を甦らせることによって、正木精神医学者は主人公に誰であるかを思い出させることによって、彼らは壮絶に心理遺伝の研究の成果の奪い合いしている。でも、もはや正木精神医学者は自殺する決心をしている。精神の解放治療場における患者たちが引き起こした大悲惨事ばかりのせいではない。師と仰ぐ医学者の因縁の命日がくるためでもある。こうして正木精神医学者は遺書を主人公に見せて、自らを思い出させようとする。主人公の狂気の源は絵巻物にある。正木精神医学者は若林法医学者から主人公の母親を奪い関係することによって、既にこの絵巻物を手に入れている。この絵巻物は千年前に書かれた狂気の画家の筆による六美人図である。即ち、死から腐乱していく肉体の遷移を描いた図なのである。ただ、誰が主人公にこの絵巻物を見せて発狂させたのか、誰が母を殺したのか、主人公は自らを思い出すことによってしか解決できないのである。「・・ブ―――ン・・」という音が、出だしと同様に最後も主人公に聞こえてくるのである。なお、博士たちの母親との関係を含めた権力争いや、それ以上に六美人図の故事についても詳しく書きたいのであるが、長くなるので止める。
「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は本書の中に説明があるが、方言のようでもある。詳細は本書を参照のこと。さて、本書の感想であるが難しい。読んでいる最中にはマゾッホの作品を思い浮かべたが、マゾッホの作品で一番面白かった「毛皮を着たヴィーナス」や「魂を漁る女」以上に、<幻怪、妖麗、グロテスク、エロティシズム>が優れているのである。特に絵巻物、なんと絵巻物を再現させる少女のエロティシズムには圧巻される。フーコーの「狂気の歴史」やジル・ドウルーズの「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」に、資本主義社会においては誰もが狂人であると記述されている、この先駆けの作品とも捕らえられる。即ち、ポスト構造主義哲学の先駆的な文学作品とも言えるのである。でも、きっと違うであろう。なぜなら、胎児は数十億年間の生命の歴史を夢に見る、その夢は資本主義を越えた生命そのものの根源を体験しているため、もっと人間そのものの本質にかかわっている、もはや胎児の夢は生命の誕生に関わってくる。
なお、本書を読み解いた本が数冊あるらしい。ネットで調べると映画もある。また研究論文もあるらしい。それ以上に、夢野久作の他の小説を読む方が良い。いずれにせよ日本の探偵小説の三大奇書の一つであるとのことは確かにそうである。これらに加わる作品もあり、すると四大奇書、五大奇書とも呼ぶようである。最近この作品と同等な質を持つ「QJKJQ」という奇書が発刊されたとの新聞記事もあったと記憶している。
この「ドグラ・マグラ」について言えることは、精神は不確定性を備えている脳髄によって実現されているということである。そして自発性ではなくて他発性によっても、夢を見ることができることである。遺伝子などが絡むと自発性と他発性との区別はなくなり、夢を見ること、精神における狂気の発現とは、不確定性を確定させるある種の秩序を示している。もはや因果律に従って脳髄が支配される以外の何物でもない。自発性も他発性も含めて、必ず原因があってこの精神に何らかの結果が生じているということでもある、こうした不確定性ではない因果律に基づいた精神の構造があるという思いが募ってくる。
言い換えれば、幾つもの夢を、もしくは多層化した現象を記述すれば、「ドグラ・マグラ」のような作品は容易に生まれて出くるのである。私は、本書「ドグラ・マグラ」を高く評価し過ぎているのかもしれない。調べると、「QJKJQ」という作品の内容が紹介されていたが、殺人が多すぎて読む気がしなかった。そこで、夢野久作という作家をもっと知りたかったため、彼がどういう表現をしているかもっと確認したくて、まずこの「少女地獄」を読んでみたのである。彼は、探偵小説作家と称されているが、そこからはみ出ている何かがあるのであろうか。一般的に純文学とか大衆小説として区別することは好きではないが、夏目漱石や三島由紀夫に谷崎純一郎は純文学でありありながら、一方、大衆小説家でもある。文体の質が高ければどちらにも成りえるのである。夢野久作の文体は若干彼等より劣る。やはり大衆向けの探偵小説家なのかと思いながら、では、これらの作家と異なっている点は、また江戸川乱歩などとはどう違うのか知りたかったためである。
夢野久作は、先に述べたようにマゾッホに似ているところがあると思っている。ドゥルーズのようなマゾッホ論を書くためには、夢野久作の作品が描く本質を切り開くための概念を必要とする。この概念を見出したかったために読んだことも理由の一つである。でも、この概念を得ることは容易ではないし、夢野久作論を書くつもりもない。ただ、彼の内に流れる血流の何かしらの真実の成分を概念の一部として捕らえたいとは思って読んでいる。この真実なる成分はやはり、彼が父に言われて著者名として「夢のような奇譚」を描く作家、「夢野久作」なる作家名を選んだことから、夢なる非現実的な幻想が彼の根幹を成しているのだろうか。
どの作家であっても、作家を支配している倫理感を取り除いて好きに描けるとしたら自らの欲望や果てしのない夢を描くと推測できる。非現実的な夢の世界でのみで展開されるのではない、現実的に実現できる欲望を孕んでいて、まさに現実に実行されようとする作品が多数生まれ出てくるであろう。でも、作品の記述は許されても現実に実行する倫理観は払拭できずに、現実には実行できるはずもなくて、マゾッホのように欲望は宙吊りにされる。むしろ、現実的な実行は不可能であって、眠りの中の夢が処理する自慰行為そのものが記述されるだけなのかもしれない。こうした概念的な話は推測でしかないが、夢野久作の欲望は重層的に折り畳まれていて、その一つ一つがを確かめれば彼の本質が見えてくるであろう。時空を添えながら、一つ一つを解きほぐした層を夢として並べれば夢野久作なる作家論ができあがるはずと安直に思いながら、作家論の記述は諦めたい。
ただ、それは今行わない。夢の層が整理できていないためである。別途、一つ言いたいのは夢野久作の文体の独自性である。厚みを削り、薄く軽めに流していく魅力的な文体が現実であっても夢を呼び込むのか、夢の中でさえ現実と錯覚させるのか、夢の中そのものを出来事と表しているのか、この文体と「徹底された肯定の論理」の関係性に注目したい。即ち、夢野久作の夢の中に潜む肯定された欲望を一枚ずつ剥ぎだすことであるが、それは今は行わない。
もう結論を書いてしまったので簡単に本書の内容を簡単に紹介したい。本書は「少女疑獄」、「童貞」、「けむりを吐かぬ煙突」、「女坑主」の四つの短編からなる。「少女疑獄」は手紙を形式にとり、三つの作品からなる。嘘つきながら誰からも好かれる美しい看護婦の話「何でも無い」、殺人鬼運転手を恐れながら愛している女車掌の話「殺人リレー」、高等女学校での校長などの不道徳を暴き立てるため、かつ自らを弄ばれて怨念にかられた女生徒自身が黒焦げ死体になる話「火星の女」の三つである。
「童貞」はもはや貧窮して衰弱死しそうな男が外娼の体に触れると、ダイヤモンドではなくて女を欲しがっていると間違われる話である。「けむりを吐かぬ煙突」は伯爵未亡人の正体は慈善家ではなくて少年を連れ込み弄び地下室の井戸に捨てる、その発酵する悪臭が煙突から抜け出る構造になっている、この伯爵未亡人を調査し対峙する新聞屋の話である。「女坑主」は外国にて爆発させる爆薬を所望するいい男と一夜を楽しみながらも、この虚無主義者の一党を警察に通報する巨大な権力を持つ女坑主の話である。
一番良いと思ったのは、女車掌の話「殺人リレー」である。短いながらも殺される恐怖を感じながらも殺人鬼運転手を愛している女が簡明に真実味を持って書かれている。後は「けむりを吐かぬ煙突」である。もっと心理描写を入れれば良い作品になり得たかもしれない。ただ、このように伯爵と名が付けば、夫人は自らの底知れぬ欲望を常に満たす必要があると、陰湿で残忍な行為であっても実現できるのであり、この点で夢野久作の視点は正当性を持つ。「童貞」も男に外娼の体を一部であっても触らせたい。是非とも触らせて肌触りを感じさせたかった。夢野久作には強く特異な倫理観を持っていたのかもしれない。肌と肌との接触行為の描写があまりないような気がする。
本書の主作品である「何でも無い」は、少女の行為を納得させながらも内容はそれほどでもない。看護婦なる少女の特異な嘘をつく性格がもう少し心理的に浮き彫りにされるべきであると思うが、これは「ドフラ・マグラ」にも通じる夢野久作独特の作品に心理を込み入らせない作風に通じているのかもしれない。その他の作品は荒唐無稽であったりして良く理解できない。ただ、「女坑主」の山全体が光線に輝くそのことが、警察に知らせる暗号であるという発想には感嘆する。こうしてみると夢野久作の作家たる所以は心理描写と文体の淡泊なる点にある。淡泊であるからこそ過酷で残忍な筋であっても、現実ではない非現実な夢の世界として、むしろ徹底的な現実の欲望を実現する肯定の論理を描いた作品として捕らえることができるのかもしれない。なお、「少女」という言葉には混合したイメージを含まさせているが、これについては別の機会に記述したい。
以上
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