を読んで
2025年6月15日(日)
題:夢野久作著 「ドグラ・マグラ」「少女地獄」を読んで

日本には三大奇書があるという。夢野久作著「ドグラ・マグラ」、中井英雄作「虚無への供物」、小栗虫太郎作「黒死舘殺人事件」である。ドグラ・マグラ」と「虚無への供物」を読んだが、圧倒的に「ドグラ・マグラ」が面白くて質の高い本である。。発刊当時の本書の宣伝文句は<日本一幻魔怪奇の本格探偵小説><日本探偵小説界の最高峰><幻怪、妖麗、グロテスク、エロテシズムの極>と裏表紙に書いている。その通りである。ただ、それ以上に何かを感じさせる文学作品でもある。上下巻であるけれども、下巻の方が文体の走りも良く謎が解き明かされていく過程が面白い。でも本当に謎が解き明かせたのかどうかは定かではない。いったい何が謎であったのか。

探偵小説の筋を書くの難しい。でも、おおざっぱに書いてみたい。胎児は夢を見る。数十億年の生命の進化の歴史を夢に見ている。そして心理の裡に遺伝しているのである。本書の主人公は、精神病患者として自らが誰であるか知らないまま、精神病院に閉じ込められている。「・・ブ―――ン・・」という音がする。隣の部屋から「お兄さま、お兄さま・・」と言って壁を叩く女がいる。主人公の従妹である。美しい許嫁であるこの少女を殺し、母親も殺している。でも主人公は自分が誰なるかを思い出すことができない。若林法医学者は殺した少女を甦らせることによって、正木精神医学者は主人公に誰であるかを思い出させることによって、彼らは壮絶に心理遺伝の研究の成果の奪い合いしている。でも、もはや正木精神医学者は自殺する決心をしている。精神の解放治療場における患者たちが引き起こした大悲惨事ばかりのせいではない。師と仰ぐ医学者の因縁の命日がくるためでもある。こうして正木精神医学者は遺書を主人公に見せて、自らを思い出させようとする。主人公の狂気の源は絵巻物にある。正木精神医学者は若林法医学者から主人公の母親を奪い関係することによって、既にこの絵巻物を手に入れている。この絵巻物は千年前に書かれた狂気の画家の筆による六美人図である。即ち、死から腐乱していく肉体の遷移を描いた図なのである。ただ、誰が主人公にこの絵巻物を見せて発狂させたのか、誰が母を殺したのか、主人公は自らを思い出すことによってしか解決できないのである。「・・ブ―――ン・・」という音が、出だしと同様に最後も主人公に聞こえてくるのである。なお、博士たちの母親との関係を含めた権力争いや、それ以上に六美人図の故事についても詳しく書きたいのであるが、長くなるので止める。

「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は本書の中に説明があるが、方言のようでもある。詳細は本書を参照のこと。さて、本書の感想であるが難しい。読んでいる最中にはマゾッホの作品を思い浮かべたが、マゾッホの作品で一番面白かった「毛皮を着たヴィーナス」や「魂を漁る女」以上に、<幻怪、妖麗、グロテスク、エロティシズム>が優れているのである。特に絵巻物、なんと絵巻物を再現させる少女のエロティシズムには圧巻される。フーコーの「狂気の歴史」やジル・ドウルーズの「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」に、資本主義社会においては誰もが狂人であると記述されている、この先駆けの作品とも捕らえられる。即ち、ポスト構造主義哲学の先駆的な文学作品とも言えるのである。でも、きっと違うであろう。なぜなら、胎児は数十億年間の生命の歴史を夢に見る、その夢は資本主義を越えた生命そのものの根源を体験しているため、もっと人間そのものの本質にかかわっている、もはや胎児の夢は生命の誕生に関わってくる。

なお、本書を読み解いた本が数冊あるらしい。ネットで調べると映画もある。また研究論文もあるらしい。それ以上に、夢野久作の他の小説を読む方が良い。いずれにせよ日本の探偵小説の三大奇書の一つであるとのことは確かにそうである。これらに加わる作品もあり、すると四大奇書、五大奇書とも呼ぶようである。最近この作品と同等な質を持つ「QJKJQ」という奇書が発刊されたとの新聞記事もあったと記憶している。

この「ドグラ・マグラ」について言えることは、精神は不確定性を備えている脳髄によって実現されているということである。そして自発性ではなくて他発性によっても、夢を見ることができることである。遺伝子などが絡むと自発性と他発性との区別はなくなり、夢を見ること、精神における狂気の発現とは、不確定性を確定させるある種の秩序を示している。もはや因果律に従って脳髄が支配される以外の何物でもない。自発性も他発性も含めて、必ず原因があってこの精神に何らかの結果が生じているということでもある、こうした不確定性ではない因果律に基づいた精神の構造があるという思いが募ってくる。

言い換えれば、幾つもの夢を、もしくは多層化した現象を記述すれば、「ドグラ・マグラ」のような作品は容易に生まれて出くるのである。私は、本書「ドグラ・マグラ」を高く評価し過ぎているのかもしれない。調べると、「QJKJQ」という作品の内容が紹介されていたが、殺人が多すぎて読む気がしなかった。そこで、夢野久作という作家をもっと知りたかったため、彼がどういう表現をしているかもっと確認したくて、まずこの「少女地獄」を読んでみたのである。彼は、探偵小説作家と称されているが、そこからはみ出ている何かがあるのであろうか。一般的に純文学とか大衆小説として区別することは好きではないが、夏目漱石や三島由紀夫に谷崎純一郎は純文学でありありながら、一方、大衆小説家でもある。文体の質が高ければどちらにも成りえるのである。夢野久作の文体は若干彼等より劣る。やはり大衆向けの探偵小説家なのかと思いながら、では、これらの作家と異なっている点は、また江戸川乱歩などとはどう違うのか知りたかったためである。

夢野久作は、先に述べたようにマゾッホに似ているところがあると思っている。ドゥルーズのようなマゾッホ論を書くためには、夢野久作の作品が描く本質を切り開くための概念を必要とする。この概念を見出したかったために読んだことも理由の一つである。でも、この概念を得ることは容易ではないし、夢野久作論を書くつもりもない。ただ、彼の内に流れる血流の何かしらの真実の成分を概念の一部として捕らえたいとは思って読んでいる。この真実なる成分はやはり、彼が父に言われて著者名として「夢のような奇譚」を描く作家、「夢野久作」なる作家名を選んだことから、夢なる非現実的な幻想が彼の根幹を成しているのだろうか。

どの作家であっても、作家を支配している倫理感を取り除いて好きに描けるとしたら自らの欲望や果てしのない夢を描くと推測できる。非現実的な夢の世界でのみで展開されるのではない、現実的に実現できる欲望を孕んでいて、まさに現実に実行されようとする作品が多数生まれ出てくるであろう。でも、作品の記述は許されても現実に実行する倫理観は払拭できずに、現実には実行できるはずもなくて、マゾッホのように欲望は宙吊りにされる。むしろ、現実的な実行は不可能であって、眠りの中の夢が処理する自慰行為そのものが記述されるだけなのかもしれない。こうした概念的な話は推測でしかないが、夢野久作の欲望は重層的に折り畳まれていて、その一つ一つがを確かめれば彼の本質が見えてくるであろう。時空を添えながら、一つ一つを解きほぐした層を夢として並べれば夢野久作なる作家論ができあがるはずと安直に思いながら、作家論の記述は諦めたい。

ただ、それは今行わない。夢の層が整理できていないためである。別途、一つ言いたいのは夢野久作の文体の独自性である。厚みを削り、薄く軽めに流していく魅力的な文体が現実であっても夢を呼び込むのか、夢の中でさえ現実と錯覚させるのか、夢の中そのものを出来事と表しているのか、この文体と「徹底された肯定の論理」の関係性に注目したい。即ち、夢野久作の夢の中に潜む肯定された欲望を一枚ずつ剥ぎだすことであるが、それは今は行わない。

もう結論を書いてしまったので簡単に本書の内容を簡単に紹介したい。本書は「少女疑獄」、「童貞」、「けむりを吐かぬ煙突」、「女坑主」の四つの短編からなる。「少女疑獄」は手紙を形式にとり、三つの作品からなる。嘘つきながら誰からも好かれる美しい看護婦の話「何でも無い」、殺人鬼運転手を恐れながら愛している女車掌の話「殺人リレー」、高等女学校での校長などの不道徳を暴き立てるため、かつ自らを弄ばれて怨念にかられた女生徒自身が黒焦げ死体になる話「火星の女」の三つである。

「童貞」はもはや貧窮して衰弱死しそうな男が外娼の体に触れると、ダイヤモンドではなくて女を欲しがっていると間違われる話である。「けむりを吐かぬ煙突」は伯爵未亡人の正体は慈善家ではなくて少年を連れ込み弄び地下室の井戸に捨てる、その発酵する悪臭が煙突から抜け出る構造になっている、この伯爵未亡人を調査し対峙する新聞屋の話である。「女坑主」は外国にて爆発させる爆薬を所望するいい男と一夜を楽しみながらも、この虚無主義者の一党を警察に通報する巨大な権力を持つ女坑主の話である。

一番良いと思ったのは、女車掌の話「殺人リレー」である。短いながらも殺される恐怖を感じながらも殺人鬼運転手を愛している女が簡明に真実味を持って書かれている。後は「けむりを吐かぬ煙突」である。もっと心理描写を入れれば良い作品になり得たかもしれない。ただ、このように伯爵と名が付けば、夫人は自らの底知れぬ欲望を常に満たす必要があると、陰湿で残忍な行為であっても実現できるのであり、この点で夢野久作の視点は正当性を持つ。「童貞」も男に外娼の体を一部であっても触らせたい。是非とも触らせて肌触りを感じさせたかった。夢野久作には強く特異な倫理観を持っていたのかもしれない。肌と肌との接触行為の描写があまりないような気がする。

本書の主作品である「何でも無い」は、少女の行為を納得させながらも内容はそれほどでもない。看護婦なる少女の特異な嘘をつく性格がもう少し心理的に浮き彫りにされるべきであると思うが、これは「ドフラ・マグラ」にも通じる夢野久作独特の作品に心理を込み入らせない作風に通じているのかもしれない。その他の作品は荒唐無稽であったりして良く理解できない。ただ、「女坑主」の山全体が光線に輝くそのことが、警察に知らせる暗号であるという発想には感嘆する。こうしてみると夢野久作の作家たる所以は心理描写と文体の淡泊なる点にある。淡泊であるからこそ過酷で残忍な筋であっても、現実ではない非現実な夢の世界として、むしろ徹底的な現実の欲望を実現する肯定の論理を描いた作品として捕らえることができるのかもしれない。なお、「少女」という言葉には混合したイメージを含まさせているが、これについては別の機会に記述したい。

以上

2025年5月18日(日)
題:モーリス・ブランショ著 粟津則雄 出口裕弘訳 「文学空間」を読んで

ガストン・パシュラールの「空間の詩学」が後半良くなってくるのに対し、本書「文学空間」は前半が良くて後半が少し冗長となる。全体的には独自の視点から記述した内容は良いのであるが、その記述内容は少し特異であって、かついくらか分かりにくい。原文が悪いのか、それとも訳文が良くないのか、いや単なる理解不足のせいなのかもしれない。なお、独自の視点とは、文学空間の接近は到達不可能な中心地点へ限りなく近づこうとすることである。こうして言語論や孤独論を語り、死の空間との結びつきを強調し、昼―夜論や芸術論を展開することである。こう言っても良く分からないであろうゆえに、まず本書の構成を述べると次のようになっている。T「本質的孤独」、U「文学空間の接近」、V「作品の空間と作品の要請」、W「作品と死の空間」、X「霊感」、Y「作品と伝達」、Z「文学と本源的体験」、「補遺」と章立てされている。

本書で論じられるのは詩人が多いが、マラルメ、カフカ、ランボー、ヘルダーリン、リルケなどなどである。まず初めに、作品の孤独について、また書くことについて述べる、次に、作家が日記という備忘録を付けるのは、生きている自らを確かめるために事実を必要とするためと述べている、なるほど多くの作家が日記をつけている理由を納得させられる。こうして作者が孤独であるこの「空間」は時間が不在であり、錯乱と狂気に従わせるものであり、また隔たりによる眩暈であり幻惑が君臨するとブランショは断言する。こうして本書は作家が「本質的孤独」のうちに書くことの意義について論じることから始まるのである。

文学は、特に詩は『くりかえしのあの全くの無力性、何ひとつ生み出すことのない長々しさに耐えている』であり、書く人とは『終わりなきものの絶えざるものを「了解」した人間』なのである。こう述べてブランショはマラルメについて現実性に関わる「なまの言葉」と事物を遠ざけ消し去る「本質的な言葉」の二つの言葉から論じる。そして、言語には無が活動しているのであり、この言語は己を無化することで呼び戻される全体そのものであり、この全体のなかで己を不在化する能力を持っていると言う。簡単に言い換えれば、作品の全体において言葉は無化することで表わすことをせずに、自らは不在となるのである。

この能力は自己破壊行為でありながら、これこそがマラルメ作「イジチュール」の至高の瞬間に立ち会わせ、真理性を与えていると言う。マラルメの空間的な中心地点であり、彼の文学的な経験はこの地点に絶えず立ち戻させるのである。こうしたマラルメ論や書くことと絶望の観点から論じたカフカ論は読み応えがある。なお、カフカの場合、絶望によって書き始めるが絶望は極限を持たずに、書くことは真の絶望に届かないのである。カフカの日記や作品を丹念に読み解いたこのカフカ論はとても良い。なお、カフカの空間とは砂漠であり、追放され荒野を彷徨することである。

続いて「作品と死の空間」にては、特にリルケについて、己を無化することにさえ満足することのない、芸術と死の関係を論じている。ブランショにとって、死の無の空虚の終わりなき、無名の存在たる、私の死が主テーマとなってくるのである。話は変わるが、先日、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」を読み始めると、初めに死について論じられている。「宗教の理論」は別途感想文を書いているがとても良い。バタイユにとって生産物の剰余の消尽という主題が宗教の中心に位置づけられている。なお、バタイユの論じる死とは投げ捨てておくべきことであり、ブランショの死もきっと打ち捨てておくべきであり、それほど関心は引かないのである。

死とエロスにあまり共感を呼び起こさないのは意外な感もするが、時代や年代に相応した感性を携えた概念や思想が関心を引くのであり仕方がない。ただ、ブランショの死の考え方には、不在化と虚無や夜が結びついていて、一度丁寧にその内容を調べ直す必要があるかもしれない。きっとシュールリアリズムに拘わらず、二度の世界大戦を目の当たりに経験した者と経験の無い者とでは、死に対して太陽系と銀河系の渦巻く中心ほどに途方もなく隔絶した感覚や思想を持つのかもしれない。でも、衛生兵として出兵したトラークルの死に迫った狂乱の散文詩はとても良かったと記憶している。もしや、表現される文体そのものに起因しているのかもしれず、書いていて良く分からなくなってくるために死についての考え方は放置しておきたい。

夜と昼の関係については注意しておく必要がある。絶対的な現実性が欠けている真夜中こそが過去が未来の極限に触れて到達している時刻であるとブランショは言う。即ち死の瞬間そのものでありながら、この瞬間は現存せずに、もはや絶対的な未来の祝祭になると、マラルメの作品「イジチュール」を引用しブランショは主張する。この真夜中とは夜の体験そのものでもある。そして、昼は夜に結び付けられていて、すべてが夜の中で終始する。一方、昼は夜を一掃し自らの支配権を確立し、昼のさなかに夜は経過しなければならないとも述べている。昼は昼と夜との総体となり、昼のものでもある夜は夜の掟を持つために真の夜でもある。また昼に対抗する夜の掟を持たないもうひとつの夜は昼の中でのみ体験できる。この夜とは、破られるかもしれない秘密であり暴かれるのを待っている暗黒の夜である。このもうひとつの夜についてブランショはカフカの小説を例にとり、獣に危険の本質が姿を現す夜ではなくて、聞こえるこぼれ出る音が止むことがない、聞こえてくる夜と説明している。この昼と夜との関係を簡単に言い換えることはしないし、できない。結構分かりにくいが、夜が昼を終始させ、昼は昼と夜の総体であることである。正確に知りたければ本書を参考のこと。

「霊感」の章は冥界に妻を迎えに行き振り返るオルフェイスの話を終えると、文章が冗長になってくる。『飛躍は霊感の形式、あるいはその運動である』とし、『今なおアンドレ・ブルドンが、自働記述の価値を一貫して肯定しながら主張しているものこそ、霊感のこうした様相である』と述べているが、彼の主張する「霊感」とは、涸れることのない呟きなのである。「霊感」とは、欲望を頼りとして、自身の源泉に立ち返ろうとする言葉なの運動なのである。また、作品による伝達とは読むことによる作品の歓待であり、「諾(ウィ)」なのである。「文学と本源的体験」では、芸術の現況について、存在論と追放の観点などから述べているけれども、なんとなくしっくり理解することができない。

モーリス・ブランショについては「来るべき書物」を読んでいるが、機会があれば紹介したい。基本的にはシューリアリズムやヌーボーロマンの脇に聳え立っている、少し古びた巨大な評論家といった位置づけになるのだろうと思われる。ただ、到達不可能な中心地点へ限りなく近づこうとする文学的空間や言語や死に不在論を熱く語る文章は読み取りにくいが、まどろこしくて読み飛ばしたくなるが、批判したくなるが、その心情は実に熱く読者に接近してくるはずである。なお、文学論については、エクリチュールから論じたロラン・バルトや心の治癒の観点から述べたジル・ドゥルーズの「批評と臨床」、夏目漱石の「文学論」にデリダのグラマトロジー(書記学)などを読んでいるが、ブランショも含めて、誰もが熱く雄弁に語っている。この「文学空間」については、幾分辛口で書いたが、これらの文学論を比較するとまとまりが良く、「来るべき書物」とともに熟読すると文学論の幹にもなる重要な著作物とも思われれる。

以上

2025年4月20日(日)
題:ハン・ガン著 斎藤真理子 訳 「すべての、白いものたちの」を読んで 

だいぶ前、ノーベル賞や芥川賞の作品を読んでいた時期がある。でも、あまり面白くなくてその後はまったく読んでいない。今回ハン・ガンの感想文がたくさん掲載されていて読んでみようと何気なく思った。ただ、本は購入するのではなく図書館から借りるのである。購入してもよいが、すぐに捨てたくなるのは本が可哀そうである。「少年が来る」、「菜食主義者」、「すべての、白いものたちの」の三冊申し込んだ。借りたい人がたくさんいて、一年以上かかると思っていたら、この「すべての、白いものたちの」は、数か月で借りることができた。なるほど、短い詩文の集まりのような簡単な文章で、すぐさま読み切ることができた。借りた人たちの誰もがそうだったに違いない。

たくさんの人が、内容を紹介しているので、本書の説明は省きたい。けれど、いつも行っていることで簡単に済ませたい。私自身が忘れないためでもある。本書は「私」、「彼女」、「すべての、白いものたちの」の三章からなりたち、それぞれの章は題名のついた短い散文から構成される。散文詩ふうな形式である。各章の内容を言えば「私」とは生まれ付いた姉がすぐ死ぬ悲しい話が主であり、「彼女」とは私の話であり、そして、最終章の「すべての、白いものたちの」に結びついていく。なお、これらの章は入り組んでいる。白いものたちとは、都市やビルにおくるみや雪に月などなど、この世界の白さの情景である。私と姉が交錯するなど構成に工夫がされている。

結論から言うと、もう少し言葉を充足させて厚みを持たせたら良いと思うのであるが、作者の趣向だから仕方がない。でも、作者の思いが純粋に伝わってくる良い作品である。姉と私との重なり合った描写の二重性、母の誰も居ない家でも早産、そして姉の死、死なないで、死なないでと泣き叫ぶ母の声が全編を通じて響き渡っている。私は留学先でのナチ戦争の痕跡、雪の降る季節の情景に夜の空などを眺めて心に刻み、作者として言葉を紡いでいくのである。この「すべての、白いものたちの」の最後の文章、『「すべての、白いものたちの」中で、あなたが最後に吐き出した息を、私は私の胸に吸い込むだろう』という文章が印象的である。

本書の構成は時間的倒置・同時性を踏まえて、主体そのものの存在性を描いている。分かり難いと思われるが、すぐに思い付いた言葉であるためである。即ち、過去が現在そのものと同時にあり、もしくは過去が現在を作動させている。そして、私なる主体は、姉が死んだからこそ姉を補填しているのではない、独自なものとして姉や母を慰めることができる存在者なのである。そして白さを多様に描いている。この穏やかな白さは、死なないで死なないでとの母の必死の叫び声を根底に潜ませている。この声がはっきりと聞こえてくるほど、作者の視点は作動が少なくて、動かないものに向けられている。この白い世界は静まり返っていて紛れもなく動かない、死が間近にあるのだ。というより死を内包している。

ただ、逆に白くこの世界が埋め尽くされているからこそ、死なないで死なないでと叫ぶ母の声があるからこそ、立ち向かう力も与えられるのだろう。再度、最後の文章に触れるが、『あなたが最後に吐き出した息を、私は胸に吸い込むだろう』とは、作者が白い世界に取り込まれるというより、白い世界を内在化して、母の言う死なないで、という切ない言葉を実現させようと生き続けるように見える。この記述に対する回答は逆に死に赴くと解釈しても良いし、どちらであっても構わないのである。私は死を白い世界として内在化させて作者は生き続けると思っているが、読者が作者の情感にどう共感するかは分からない。この情感に共感すれば読者は死なないで生き続けることができし、むしろ逆に死に赴くこともできるのである。無論、多くの読者は、息を飲み込む白い情景をただ単に思い浮かべて、繊細な文章だと感嘆しながら読み終えるのかもしれない。

もう少し、丁寧に私の存在について書けば、私は姉と立場を入れ替えて記述されており、姉は私の主体性、つまり存在を奪う者である。『だから、もしもあなたが生きているなら、私が今この生を生きていることはあってはならない。今、私が生きているなら、あなたは存在してはならないのだ。闇と光の間だけ、あのほの青いすきまでだけ、私たちはやっと顔を合わせることができる』(153頁)という文章は、あなたが死んでいるからこそ、現実には私の主体が奪われずに保たれていると言っているに等しい。もし、あなたが生きているなら、私が今この生を生きていることがあってはならない、とは仮定の話でも希望の話でもない。私が生きて主体を持ち存在して、私たちは私の青い記憶の中でのみ会うことができるのである。私は死んだあなたとそっと会い、無言で会話することができるのである。

つまり、本書は、私が生きる、生きる者であるという決意もしくは事実を表現していると受け取っても良い。私があなたと共に生きると希望しないのは、単に事実でないためではない。当然、私は姉と一緒に生きて、ままごと遊びや鬼ごっこをして楽しい時間を過ごせるはずである。そう望まないのは、この世界が白く塗り潰されていると私が強く認識しているためであろう。白い世界であるからこそ、希望ではなくて過去の記憶や遺物がより多く表現されている。後から生まれた弟たちは少しも表現されていない。作者がこうした世界観の持ち主であるかは、他の作品を読めばもう少し詳しく理解できるだろう。でも、なぜ二人は同時に存在できないのかという問題は、もう少し極論化することができる。即ち、消え去った姉がいるからこそ、青い宇宙のすきまのみが残り、物語も残ることができる。消え去るものがあるからこそ、この世界は成り立ち、すがりつくような声や悲しみの声が充満しているからこそ、この世界の悲しみは消え去ることがないのでる。

以下は、まったく余分な感想になる。白い世界という意味で言えば、「白髪」と言う表題で、次のように記述されている。

もう一度あの人に会いたいときが来るとしたら、きっとそのとき。
若さもなく肉体もなく、
何かを熱望する時間がすでに尽きとき。

この表現は、私の記憶では、かの有名な「ヴォバリー婦人」を書いたフロベールの「感情教育」の最後を思い出させる。若さも肉体もない老人が若き日の思い人に会う。ただ、黙ったまま何事も起こらずに時間は尽きて、老婦人はゆっくりと立ち上がり去っていくのである。主人公は遠ざかるその老婆の後姿を静かに見送っている。何とも言えない哀愁に満ちた悲しみがある。「すべての、白いものたちの」の作者には、白いものへのイメージが白髪以上に、死装束である。白い世界に死を重ねて描いている。この作者が短い文章で、フローベルの長編の結末を見抜いている。というおり、年老いたの者の思いが綴られていて、死が過去に生じたことであると同時に、時間を経て未来にも生じることをやんわりと指し示している。でも、この簡単な文章はどこか薄い。

実は、三冊、全部読んで感想文を書こうと思ったが、後二冊は一年以上待たなければ入手できないので、この一冊で彼女の読書感想文は終えたい。私は小説には、言語の、それも新たな言語論を想起させることを求めている。もしくは、生の過酷な境界を描いていても良いが、そういう小説はなかなか見当たらない。ハンガンの作品は、それなりに質の高い叙情作家である、と今現在は思っており、上記の私の目的とする小説には該当しない。彼女の他の小説を読んで、でこれ以上の異なった感想を持ったならば、また読書感想文を書きたい。

以上

2025年2月16日(日)
題:ヒューム著 上野邦夫 小西嘉四郎訳「人性論」を読んで 

ヒューム自身の著作物を読むのは初めてである。以前、ジル・ドゥルーズ、アンドレ・クレソン著「ヒューム」を読んだが、内容についてはあまり記憶がない。感想文をまとめていなかったのかもしれない。今回ヒュームの「人性論」を読むことにしたのは「人性」が何を語っているのか、それなりに理解したかったためである。無論、ヒュームが示す観念連合なる概念は知っているが、その奥にあるヒュームの人性に関する根本的な考え方を知りたかったためである。結論から述べると、文章が幾分硬くて読解しにくく読みにくかったのであるが、ヒュームの道徳についての考え方に納得することができた。なお、この「人性論」の著書としてどの本を選ぶのか、全訳ではないけれど中央クラシック版「ヒューム 人性論」を選択した。思想全集などの本は訳の質や文字の大きさなどの観点から読みにくいためである。

まず、本書の目次を示したい。記述内容が分かるためである。最初に「原因と結果と自由と」と題して、一ノ瀬正樹が論じている。細部を除いた目次は次のようになっている。

諸言
序論
第一編 知性について
第二偏 情念について
第三篇 道徳について

つまり、人性として人が本来備えている自然な性質が、知性、情念、道徳として記述されている。スピノザの「エチカ」は、神から始まって人間の行動と感情を、そして人間の自由と至福へと至る思想を数理学的に証明するのと異なっている。ヒュームが人間の知覚、特に観念に基づいて認識するのに対して、スピノザは理性によって認識する。ただ、両者共に因果の本質は必然性にあると見做している。スピノザは汎神論者として批判や迫害を受けている。なお、ヒュームも無神論者の嫌疑をかけられている。ヒュームはこのスピノザの理性に基づいた哲学を読みこなし、影響を受けている。この両者の哲学内容の比較検討は、相当の論文や著作物があるはずで、それらを読み参照して頂きたい。

一ノ瀬正樹が論じている「原因と結果と自由と」では、ヒュームの哲学の主要観点としての経験論を解説している。これを読めばヒュームの言葉ではないが、本書の概略は殆ど分かる。即ち、形而上学では、原因結果の関係については経験不可能な事柄について扱う学問であると捕らえられていた。この原因と結果の関係を一ノ瀬正樹は電車と操縦桿、ドラムと音などの例を提示しながら、自明な現象であると思われがちだがその解明の困難さを指摘している。このため「私たちの事実」として経験の観点へと問題の変換を行うことの必要性を述べる。即ち、原因結果の関係を「認識論」の問題ということに捕え直していくことである。ドラムを打てば音が出るのは、原因と結果に子細な事実として解明する以上に、経験としては自明である。こうして「形而上学」を認識論の場へ移し替えたヒュームの功績は大きいのである。

以下、「原因と結果と自由と」では、ヒュームの「人性論」の記述内容を簡単にまとめている。時間がなければここだけを読んでも良いが、分かりそうで分かりにくいのが難点である。一つだけ大切なことをあげておくと、「自由意志」と因果的必然性の問題である。ヒュームは「人間の行為に原因と結果の必然的結合がなければ、正義や道徳的公正と適合するように罰を科するのが不可能である」と書いている。即ち、ヒュームの自由論は、自由と必然、あるいは自由と決定論が両立するという考え方で、「両立主義」として現代の自由意志論に大きな影響を与えていることである。考えてみれば、自由に行為しても偶然の結果が導かれるわけではなく、結果は因果的必然性に結び付けられているものなのである。つまり自由とはどの行為が許されていても、どの行為も必然的に結果を導いてくる。また、自由と言っても、自由な選択も先行する諸原因に影響を受けて決定されているのである。つまり、元々「自由意志」と因果的な結果なる考え方に何かしらの相違があったことになる。なお、「自由」については、カント、ベルグソンやサルトルなど数々の哲学者が論じているがここでは取り上げない。「意志」の代わりに、自己の基準を把持していて行動することこそが「自由」という考え方が多い。

「諸言」では知性と情念について公表し、ひきつづき「道徳」、「政治論」、「文芸論」を吟味したいとヒュームは述べている。「序論」では、人間性を経験と観察を基礎として研究の対象とし、観念の本性を明らかにしたいと述べている。

「第一章 知性について」 では、人間の心に現れる知覚を「印象」と「観念」に区分けする。「印象」とは「観念」よりも勢いよく飛び込んでくるものであり、「観念」とは勢いのない思考や推論、これらの心象を示すこととする。また、「印象」には「感覚」の印象と「反省」の印象とにヒュームは区別する。印象が感覚機能を刺激して、快や不快を生じさせる。この印象がふたたび写し取られ観念として残るが、欲望や嫌悪などの新たな印象を生むと反省の印象ともなる。ヒュームはこの反省の印象が対応する観念に対して生じ、感覚の印象よりも先になると述べる。この辺は分かりにくいが、人間の心の本性と原理を解明するには、まずこの観念を説明しなければならないのである。

先に述べた勢いのない思考や推論、これらの心象としての観念が連合していく。単純な観念は想像によって分離され、想像によって観念を呼び寄せ連合を生じさせる。この別の観念へと移らせるには「類似」、時間的もしくは場所的「近接」、そして「原因と結果」の三つがある。このような観念連合は複雑観念として、「関係」、「様相」、「実体」とに区別できるのである。この観念連合を取得していくのが人間の経験なのである。

「この第一章 知性について」 では、以下、私にはそれほど重要な思想が見当たらないので、主な章題(節題)だけを記述し残しておきたい。「空間と時間の観念の無限分割性について」、「存在と外的存在の観念について」、「知識について」、「蓋然性について、つまり原因と結果の観念について」、「なぜ原因はつねに必然的なのか」、「原因と結果に関する推論を構成する諸部分について」、「感覚機能と記憶の印象について」、「印象から観念への推理について」、「観念もしくは信念の本性について」、「信念の原因について」、「その他の関係とその他の習慣の結果について」、「信念の影響について」、「偶然による蓋然性について」、「哲学の懐疑的体系とその他の体系について」、「理性に関する懐疑論について」、「人格の同一性について」、「本編の結論について」である。

「第二偏 情念について」 では、情念にも直接的な情念と間接的な情念がある。直接的な情念とは善あるいは悪、快あるいは苦からじかに起こるようなものである。間接的な情念とは誇り、卑下、野望、高慢、愛、憎しみ、羨み、憐れみ、悪意、寛大など、他の諸性質を伴なって生じるようなものである。ヒュームは観念がこれら情念を生み出すものとし、情念が呼び起こす観念と、情念が呼び起されるときに視線が向かう観念とを区別する必要があると言う。こうしてヒュームはそれぞれの情念が自己を対象として持つのは、自然な特性によるだけでなく、原初的な特性によるものだとする。つまり心の気まぐれから生じるのか、心の成り立ちから生じるのかということを考慮している。言い換えれば、自然がいくつかの印象の間、および観念の間に引力を与えて情念が生み出されると言っても良い。また意志と直接的な情念についての関係を考慮するが、理性が生み出すものではく、また、理性と情念が対立しあったり、意志や行為の支配を巡り争ったりすることはない。欲望など善や悪を生む情念と、善や悪から起こる情念があることには留意が必要となる。なお、善は「喜び」を生み、悪は「悲しみ」、「嘆き」を生じさせる。

「第三篇 道徳について」 では、道徳的な区別は理性に起因しないとする。哲学のうち実践的な部類に道徳は区分けされるため、道徳は情念や行為に影響を及ぼし、知性の冷静な、心を動かさぬ判断の範囲を超え出るものと想定されている。理性は真または偽を見出すことであり、情念、意志作用、行為とのかかわりを含んでいない。道徳的な正しさと堕落は、印象か観念からなる知覚によって判定される。従って、道徳とは判断されると言うより感じられるというほうが適切なのである。またその快、不快の理由を示すことで、徳あるいは悪徳を十分解明していることになる。こうしてヒュームは道徳的な善と悪とを区別する特殊な快または苦についていかなる原理に起因するか、と自らに問いて答えている。答えの一つに自然的の中に探すべきと言う、

つまり、徳の感覚は人為的であり、悪の感覚は自然的と述べている。このことは、徳は人為的に生み出されたものであり、悪は自然発生的に行われる人間の性があると理解すべきである。

また、正義と不正義の考え方も重要である。道徳的な性質を見出すには内面を見る必要があり、つまり行為を生み出した動機をこそ称賛や是認の対象とすべきなのである。いかなる行為も、その行為を生むある動機が、行為の道徳性についての感覚とは別個に人間性のうちにあるのでなければなければ、有徳つまり道徳的に善とはなり得ないとヒュームは言う。こうして思考を続けて、まったくの純粋な人類愛、つまり各個人の地位、職務、自分自身との関係性といったものとかかわりのない人類愛のような情念は人間の心にはない。

この考え方を推し進めると、正義や不正義は自然に起因するのではなく、人為的に、教育と人間のしきたりから必然的に必然的に生じるということを認めなければならないとヒュームは強調する。ただ、共感こそが、すべての人為的な特に徳に対して支払われる尊厳の源ともなるのである。心の情念や作用には特有な感じがあり、この感じは快か不快である。快を感じれば有徳であり、不快を感じれば悪徳なのである。この特有な感じは情念のまさしく本性をなすものである。公共の善は共感こそが、徳を備えている人の善の傾向もわれわれの共感こそが価値を引き出すのである。

人間が案出した概念はほとんどが変化を受けやすい。というより捻じ曲げられて気分や気まぐれでどうにもなる。ただ、社会が形成されるそのものの初めから利害は紛れのなくあるものであり、このことが正義の規則を揺るぎのない、不変なもの、少なくとも人間性と同じ程度に不変なものたらしめているのである。再度述べるなら、紛れもなく人間社会における利害こそが正義を定めているのである。

そして、最後にヒュームは人間性についての最も抽象的な施策でさえ、たとえどんなに冷たく、面白みがなくとも、実際的な道徳に役立つものとなると言うのである。こうしたヒュームの道徳に対する考え方にはとても共感する。即ち、人間にとって道徳とは初めから持っていずに、人間が共同社会を作り暮らしていく中で定められた施策のようなものである。そして、人間は、自然的には自らの利害関係には有利な立場を選択しようとする。それは悪であっても構いはしない。こうした人間の本質に関わる点について、ヒュームが人間性の自然的なものと人為的なものとに区別し見抜いている点に感銘する。また、概念が移ろいやすい点も見抜いていた点にも感銘するのである。

以上

2025年1月19日(日)
題:倉橋由美子著 「反悲劇」を読んで 

倉橋由美子とは懐かしい。ずっと以前、「スミヤキストQの冒険」という小説を読んだことがある。通常、読んだ小説の内容は記憶しているが、本小説については良かったのではないか、という微かな思いしか浮かんでこない。内容は思い出せないのである。最近は、時々、昔読んだ小説を読んでいる。今回は「スミヤキストQの冒険」ではなくて「反悲劇」を読んだ。全部で、短編小説が五つある。その内、「水郷にて」と「河口に死す」の二つを読んだ。著者倉橋由美子のあとがきには、次のように書いている。趣旨を簡単に述べると、小説とは市井(しせい)のつまらない人間の「起こりうること」を書くものとなっている。神々や英雄に霊の出てくる叙事詩や悲劇に能とは「あり得ない」、「起こり得ない」ことに属していて、市井の小説とは対立する以上に超えたものなのでる。

著者は、悲劇と小説に対する一連の批評として、これらの短編小説を書いたらしい。なお、これらの小説は英雄たちの本来は反小説的である悲劇のミュトス(非現実的な、空想的な物語)を小説の中に直接「移植」する試みともなっている。「水郷」はヘラクレイトスと息子ヒュロスに彼らの妻になったイオレとの関係、「河口に死す」は「コロノスのオイデップス」の内容の移植を行っていると著者は述べている。つまりはギリシア悲劇の物語の筋を模倣して現代的な小説を書いたのである。他の作品を読んでいないので分からないが、不倫や近親相姦の筋書きとなっている。本書を読んでも小説を批判しようとする著者の意図が見えてこない。著者は作中人物の自分の「自由意志」と自分を捕らえている「運命」とにこだわって書いたと述べているが、その点はわずかながら読み取れる。ただ、それほど重要な批判にはなっていない。著者が言うように、著者が神の位置にいて記述している、ただ、それだけなのである。悲劇を現在に移植するなら現在の問題を浮き彫りにしなければならない。そもそも悲劇とは何か。小説とは何かという問題から考慮しなければならないというのが、私の強い思いである。

なお、「水郷にて」は父が愛していた少女を妻として娶った主人公は、飛行機に乗ってでかけた妻の行き先も知らず、講義先へ出張する。空港で飛行機の墜落する幻影を見る。出張先で少女と懇意になり、なぜか一緒に帰京することになる。すると到着した別の飛行機から妻に似た人が降りて来るという話である。「河口に死す」は老いた主人公高柳は、息子が妻に産ませた娘、たぶん孫なる麻子と故郷の河口に三十年ぶりに帰郷する。河口に近い土手の上の旅館を買っていて、終の棲家とする手筈が整っている。離れはラブホテルとなっている。旅館の二階の窓からは懐かしくも河口が見える。河口は埋立地が広がり工場が並んでいる。荒地の海や松林も見える。懐かしい友人と酒を酌み交わし、麻子は友人の息子と花見見物や海水浴などデートをする。麻子の水着姿が見せる白い肌や脚に高柳はときめいてくる。昔、橋の下に乞食の母親と娘が住んでいて、少年高柳はこの娘に関心を持ってからかっていた。でも、娘は父の妻になったのである。もはや義母となってもこの娘に、実は高柳も子を産ませている。橋の下に老人もいて空洞の眼窩を持ち主人公の未来を予言していた。麻子は友人の息子と知り合い恋人関係らしくなると、すぐさま恋の主導権を握っている。彼には口付けなどを許している。主人公高柳の秘密を記述したノートを麻子は既に見ている。デートの帰りにずぶ濡れになって帰宅した麻子は、高柳の口を唇で塞ぎ彼の胸に顔を埋めて、本当に高柳の娘なのかと尋ねる。本当だと答える以外に高柳は方法を持たない。この家を発ちたがる麻子に、高柳は夏の間留まっていると言う。麻子は子供連れのお姉さんから連絡があって、彼らが来ると忙しくなると言う。彼女は浴衣に着替えて西の山の上に残っている太陽を見ている。太陽は黒い河口に並ぶタンクをあかあかと照らし出している。

さて、ギリシア悲劇とは合唱隊を伴なった演劇である。無論、喜劇もある。三大悲劇詩人として、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスがいる。昔、私はギリシア悲劇全集を持っていて、少しは読んだこともある。実家に置いていたが処分した。なんと言っても、ソフォクレスの「オイデップス」に描かれた、父を殺して母を妻とする悲劇が有名である。「コロノスのオイデップス」では、遂にオイデップスは死ぬことになる。「河口に死す」では、死が待ち受けている高柳老人を描いている。高柳は死を達観している。オイデップスの子の悲劇を描いた「アンティゴネ」は死んだ兄に砂をかけ葬ろうとしたアンティゴネは地下牢に閉じ込められて死ぬ。死者への礼節を無視した残酷な物語でもある。このギリシア悲劇は全貌が広大すぎて、私の知識で論じるには無理がある。一方、シェイクスピアの悲劇もある。このシェイクスピア悲劇は神々や英雄ではない登場人物を描いているが、感情の奥底が深くてとても悲しい物語である。

さて、小説は、悲劇や喜劇、市井の人間を描いても、何の題材であっても、根本はエクリチュールがなせる表現である。エクリチュールが表わす言語空間の中で、表現と形式との内に読者を引き込み酔わせる、その感覚的なかつ知的でもある表現は、もはや小説ではなくて文学と言わなければならない。小説ではなく文学こそが問題であり、主テーマとなる。従って、倉橋由美子は悲劇を反小説として書き換えて問題を摺り替えている。悲劇が反小説でも小説であっても構いはしない。ただ、現在の話に書き換えることで、小説もしくは文学の問題が何なのか明らかにしなければならない。彼女の書き換えは、小説もしくは文学の問題を明示できずに置き去りにしている。小説の題材として、ただ、ギリシア悲劇を選んだと言っても良い、問題の根本が捕らえられていないと思われる。

ここで、問題の根本を解決しようとする文学に関わる論説を紹介したい。倉橋由美子はこうした論説を参考にして、反小説と言う概念を深めなければならなかったのである。一つはロラン・バルトの「エクリチュールの零度」、もう一つは、ジル・ドゥルーズの「批評と臨床」における文学論を少しばかり紹介したい。彼らは文学を根本から捕らえる思考を行っている、と私は思っている。また私の文学に関する考え方は、彼等の影響を多大に受けている。倉橋由美子はサルトルを結構読んでいるみたいなので、サルトルの文学論を参考にしても良いのである。

バルトのエクリチュール論はサルトルの影響を受けるなどして揺らぎがある。同時代の作家たちに共通した規則や習慣などの集合体としての〈言語体〉や、作家の個人的な体験から生じる〈文体〉から独立した〈エクリチュール〉なるものがあるとバルトは主張する。エクリチュールとは文字を書く作法とでも言おうか、書くということが皆に暗黙の裡に同意されていた共通の言語体の空間の中に入ることで、先行する習慣から純化した形で自らの世界を再構築することでもある。というより、モーリス・ブランショの意見に従えば、その場所を空けるために古い空間内部を破壊することでもある。ブランショに従い言い換えれば、この文字が消滅しもはや非在の地点へと文学を連れて行くことが、バルトの言うクリチュールの零度の地点でもある。彼らの話は面倒なので、簡単に言えば、まず、文学とは人間的な主体と言語の問題であり、先に述べた偶像が君臨し先入観が支配する空間から逃れ出て、自らの本能的に語る孤立的な言語体に立ち戻ることでもある。

バルトの思考ははサルトルの影響に従い、著述家は書くことによって、未来に向けてアンガージュ(投企)する、と言うことになる。ここで、再度、簡単に言うと、文学とは自らの言表・言語にて記述されて埋められる空間である。そういう意味では、倉橋由美子は反悲劇として自らの小さな文学空間を作ったのかもしれない。ブランショは「文学空間」にて、確か最後にマラルメの詩を褒め称えるが、詩の言語形式こそ最高の文学と述べていたと思う。私も同じ思いを持つ。こうした文学作品の推奨できる代表例として、私は、詩人多田智満子の翻訳したアントナン・アルトー著「ヘリオガルバス または載冠せるアナーキスト」を取り上げたい。

さて、ジル・ドゥルーズの「批評と臨床」では、彼は文学とは不定形や未完成の側にあると言い、書くこととは自らを生み出す生成変化にある。つまりドゥルーズの使うエクリチュールと言う言葉は、あらゆる生き得るあるいは生きられる素材から溢れ出す一つのプロセス、つまりこれらを横断する生の移行であり、生成変化なのである。書くことによって人は女に−なり、動物や植物に−なり、知覚し得るものに−なると言う。この生成変化に基づいた言語論は長いため省くが、重要なのは、文学、エクリチュールの最終的な目的は錯乱の中から健康を創造することにあることである。民衆−人民のために、生の可能性を解き放つことにあるのである。

作家は自らに課した絶えず逃げてゆく臨海点に到達したとはとても言えない、自らの生成変化を完成したとはとても言えないのであり、書くことそれは作家ともはや別のものになることである。ドゥルーズは強烈に言う、文学的な書物を生み出す者のうち、自らを作家と称することのできるものは、狂人の中にさえわずかしかいない。逃げて行く臨海点を追い駆けて行く作家は孤独であり、狂気持ちであり、死の海が近づいてくる。結構、作家に自殺者が多いのはこうして自らを追い詰め、追い駆けては捕まえることができずに、生に行き場を失っていくためとも推測され得る。

最後に本小説について気になる細かな点を、二つばかり言いたい。一つ目は、高柳少年と眼窩の き出しになった老人との会話の内容などの記述についてである。人間が万物の尺度とか、人間を超えた力を神と呼ぶとか、そうした知性的な定義は記述しない方が良いと思う。小説とは基本的には状況の描写だけである。感性や感情に行動を加えた状況のみを記述すべきである。例えば、横光利一の短編はとても優れているが、「上海」に始まり「旅愁」などに至ると、政治に神などの宗教を論じる会話が長々と続き退屈である。この知性部分を除くと、とても優れた作品になっている。また、サドの「悪徳の栄え」は陰惨な描写が多数あるが、政治論なども長々と続いて退屈だと言っている人もいる。ジル・ドゥルーズによると、優れた小説は人間の境界を描いているとも言っている。境界とは生きていく上での苦難であり、生から墜落しそうな崖っぷちにでもある、もしくは肌の内の熱い沸騰する血液を抱えているとか、そうした生と死との狭間に置かれている人間の状況の描写でもある。無論、そうした状況を描ける作家は少ない。知性的な表現を記述するより、この境界を目指して記述すべきなのである。

二つ目は、「方丈記」という言葉である。「水郷にて」と「河口に死す」の両方に出てくる。「方丈記」は、主に火災や地震などの自然災害を、客観的な視線で描いた作品である。方丈の庵に住んでいたため、どうにも達観した境地にいた人物である。反対に、神々と英雄の話は、感情的にも肉体的にもどろどろとしている。従って反悲劇に登場する人物もどろどろと描いた方が良い。高柳老人は逆に麻子を抱き締めても良かったのである。「方丈記」の作者のように達観した書きっぷりは、どうにも合点がいかない。反悲劇は、反哲学も、反小説に、反芸術などは、「反」という言葉を付くと、不思議になにかしらの高級感が漂ってくるは真実である。でも、最後に再度言うが、小説における真実はエクリチュール、即ち作者そのものが長年に渡って会得し描写できる文章そのものの内に押し込められている。同時代の作家たちに共通した規則や習慣などの集合体としての〈言語体〉や、作家の個人的な体験から生じる〈文体〉から独立した〈エクリチュール〉へと向かい、そうした文章が新しく露わにする諸感情や諸感覚を含んだ諸経験によって描かれた小説を読みたいものである。

なお、最後に本小説そのものはなんとか認めてあげたい。時間と空間が過去と現在が密着して溶解している感覚が生じる。そして、河口の描写で、埋立地が広がり工場が並んでいる。荒地の海や松林も見える、茫洋とした簡単な描写ながら混沌とした河口に不気味さを感じるためである。

以上

2024年12月15日(日)
題:三島由紀夫著 「花ざかりの森」等の作品を読んで 

「花ざかりの森」は三島由紀夫が16歳の時に書いた短編である。記憶をたどっているのか、海を眺めて時代を駆け巡る個別の女たちの物語である。輪郭が薄くて詩的イマジネーションを描いているとも捕らえることができ、才能を感じさせる作品である。「百万円煎餅」は百万円と書かれた煎餅を購入して食べ歩きして、屈託なく街歩きを楽しんでいる若い夫婦は、意図的に記述されていないが、エロショーを客前で演じて暮らしを成り立たせている。なお、登場人物の名前を夏目漱石の作品から引用している点が関心を引く。建造は「道草」の健三、清子は「明暗」、それにおばさんとは世話焼きの「坊ちゃん」の婆やのことでないだろうか。「百万円煎餅」の清子夫婦は子供を欲しがっている。でも「道草」の健三は清子夫婦が望む赤ん坊を既に抱いていて、妻から揶揄されている。余分な話をすると、漱石はなぜか大作家たちに忌み嫌われている。谷崎潤一郎は随筆で「明暗」を激しく批判していたし、大江健三郎は軍国主義を批判した小説「水死」で、劇団員が壇上から人形を投げ捨て「こころ」を野次っていたして逆に批判され、公に釈明せざるを得なくなった。三島由紀夫は安倍公房との対談で森鴎外と比較して漱石の傍若無人な作品および正確性を欠く言葉を批判していた。こうした漱石批判を、江藤淳ならば、何と評するだろうか、

さて、他の作品では、「憂国」は結婚したてのため、二・二六事件に誘われなかった中尉とその妻との、事件後の狂おしい交合と中尉の割腹自殺を描いている。自殺の場面の描写は詳細であるが、交合の場面のエロス性は抑制的である。というより過剰であるとも不足とも取ることができる。サドやマゾッホから比べれば不足であるだろうし、川端康成や谷崎潤一郎と比較すれば過剰である。なお割腹場面を読むと、モーリスパンゲ著「自死の日本史」に書かれている武士道における死を思い出す。この著書も相当詳しく自死の手順と肉体の状況を記述している。この作品を参考にしなくとも、こうした描写は推測にて創造することができる。なお、「憂国」」はあとがきにて、本人がとても褒めている短編である。情熱を削いで客観的に記述しようと努めている。つまり、三島は死に際を冷静に描いて幾分酔いながらも、そうした素振りを見せることは無い。でも、自らの死を覚悟していたのかもしれない。

他の中編小説「美徳のよろめき」、「獣の戯れ」、「午後の曳航」などは、基本的に不倫小説の読後感の残らない作品であり、「夏子の冒険」や「潮騒」は楽しんで読める娯楽作品である。珍しく「潮騒」は純潔な恋愛を描いている。「鏡子の家」は失敗作品と言われているが、そのようである。女主人公なる鏡子を通じて、男四人の異なった思想を紹介しようとしたのかもしれないが、分裂した内容で四人は相互に相関などしない。鏡子が個別に対応するだけである。確か、最後に一番若い男に体を許した後、家に帰った途端、鏡子は飛び出てくる犬に迎えられ、元の日常を取り戻されることが作為的である。「近代能楽集」では知性を使いすぎて、もしくは駄洒落を好んだのか、返って平凡な作品になっている。例えば「熊野」では、母の病気と言い里帰りするが、男に会うためだったとの筋書きは新鮮味はない。

戯曲は「サド侯爵夫人」を読んだがとても良い作品であった。三島には会話文を駆使して、説明調に陥りがちな小説に代わり、情緒・感情をより豊かに表現できたのかもしれない。「金閣寺」、「仮面の告白」などの有名な作品は記憶が曖昧で感想の記述を省きたい。なお、代表作「豊穣の海」では、「春の雪」の高貴な身分の男女が織り成す恋物語がとても良かったと記憶している。輪廻転生の結末として、「天人五衰」では本田が最後の締めくくりに、「もう記憶のたどり着かないところに来た」みたいな言葉で終わっているのが印象的であった。本来ならば、この「豊穣の海」の全四巻だけでも読み直して、三島由紀夫の作品の感想文を書くのが良いのかもしれない。もし、他の作品も含めて読む機会があったならば、この感想文を書き直すつもりである。

読んだ作品をほぼ並べたが、「花ざかりの森」など三島由紀夫の短編は、どうもどこか何かが欠けている。つまりは三島の意識が物語を超えたこの世界の全体を把握しているのに、その意識の一部、切れ端を投げ出して書いているようにみえる。無論、この話は長編にも通じていて、長編では、なぜか切れ端は継ぎ合わされて見える。きっと、物語の全体を組み立てた規則正しい枠組み・設計図に基づいて記述しているために違いない。三島の作品は、自らの倫理観を下敷きにし、言葉一つさえも厳密に選択した美的感覚のうちに文章を起こし記述しているのが特徴的である。このためか、自律的かつ説明的な文章に感じられるのだろう。稀に、意図的に「百万円煎餅」のように必要事項の記述を欠如させるユーモアも、彼は持ち合わせている。といより、他作家を模したエロショーを描写するほど無神経ではなかったということである。

なぜ三島は、世界の全体を把握しているのに短編は彼の意識の一部、長編においても切れ端を継ぎ合わせたようにしか見えないのだろうか。結局、三島が把握している世界とは、欠如に満ちているためである。充満していながら空虚に矛盾に満ちて存在しているためである。世界は作動し蠢き阿鼻叫喚を発してそれらを五感で捕らえているのに、三島には欠如もしくは空虚としか感じられなかったのである。それはこの世界を捕らえる三島自身の心の内側から起因している問題でもある。皇国史観や政治論争に文化・文芸論争など数多く発言し行動を起こしても、現実に実在しているこの世界を、肌で感じ取る実感を三島は持つことができなかったのである。このことを言い換えれば、書くべき小説のテーマを持ち合わせていなかったということである。三島の作品群を読んで感じられるのは一貫したテーマの欠如である。先にあげた漱石では幕末から明治への文明開闢の苦悩、谷崎では肉体の醸し出す実在感の匂い、大江では魂と魂を入れる体制との格闘がテーマとなっている。敢えて言えば、三島のテーマとはエロスと死なのだろうか。でも、この重いテーマは作品を描く世界観として把握できていても、三島の作品群では、切れ切れにしか描けずに、この切れ切れを継ぎ合わせるしか小説を記述させる方法を持たないのである。この三島のテーマについて次に説明したい。

さて、私は三島の小説は通俗小説もしくは大衆小説と思っている。漱石も大衆小説を描いているが異なるテーマ性が文体と相まって読者層への響きが異なる。従って、三島の文学については、横溝正史の小説と共に語りたい。両者共に通俗的な娯楽作品を書いて、たくさんの読者を得て、共通する根源的な体験・思いがあるためである。隙がなく修飾語の豊かな三島由紀夫の文章と横溝正史の長々しく冗長した文章との違い、物語の導入や結末を含め、起承転結に意外性を含ませている三島由紀夫の小説と、殺人を最後まで成し遂げさせて解決する横溝正史の謎解き探偵小説とを比較すると、当然のことながら三島由紀夫の方が質的に高い。では、なぜ横溝正史を選んだか。エロスと死が共通して浮かび上がってくるためである。そして、彼らは戦争から死を免れ死んでいった者たちに罪の意識を感じていたに違いない。戦争への実際の参加・不参加に拘わらず、戦争によって生じたこの日本の退廃を自らの命の中に深く刻み、空虚・虚脱感を抱えながらも、小説の創作によって新たに生き続ける営みを行っているためである。そして日本の心身共なる復興を強く願っていたに違いない。でも、三島は心の内に自らの死の望みを強めていき、横溝は連続殺人による死の記述を深めていく。そして、彼らは小説の記述に、心と身体の奥底からのエロスと死とを同居させ発現させていくのである。

無論、三島由紀夫にとって死とは、モーリスパンゲ著「自死の日本史」に書かれている武士道における死である。罪を犯しながらも尊厳を持った自死である。終戦後、三島は戦争に参加できずに国のために戦わなかった敗北者であるため、既に述べたように死の望みを強めたかもしれない。でも、彼の役割は、やはりまず死ぬことよりも、敗戦国日本を再生するために戦わなければならなかった。死の希望を胸に秘めながら、思想や小説による発信を、日本の国の体制の再構築の発言を、自らの役目として自覚して生き続けなければならなかったのである。それが、死の欲望を実現せずに生き続けることにも繋がっている。ただ、ある日三島が自死したのは自らの思想を拡大するため行なわれたのか、元々秘めていた死の希望を実現させたるめなのかは不明である。たぶん、小説も含めて成すことがなくなったためかもしれない。私は、「豊穣の海」の作品の完成が彼の創作欲望を断ち切り、同時的に私的な自衛活動「盾の会」の決起を呼び、死を自らの内に呼び込ませたと思っている。この辺りの詳細な研究は仔細に行われていて、結構な論文が発表されているに違いない。でも、三島の死の発現は、川端の「禽獣」に描いているような陰湿な死の欲望よりも乾いていて好感が持てる。敗北者ではなく自己発現としての死の決行とも捕らえることができるためである。

次に死とエロス性について述べる。三島由紀夫は「サド侯爵夫人」のあとがきで、女の優雅、貞節等々は、ジョルジュ・バタイユの「エロスの不可能性」へ向かって敗北してゆくと述べている。バタイユにとって「エロシチズム」とは死すべき個体の人間が、子孫を残すために纏い結びつけているものがエロスである。三島がバタイユの影響をどの程度受けたかは定かではないが、根底の思想が異なっていることには注意が必要である。小説の中で、三島は不倫である不毛なエロスを描くことが多い。純粋な愛のエロスを描いたのは「潮騒」くらいである。無論、子を産むためにエロティシズムはありながら、誰もそんな目的のためにエロスを描き浮彫りにはしない。死に向かって敗北していくものでもない。三島は、「憂国」にて表現される愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合作用は私がこの人生に期待する唯一の至福である、と書いている。従って、三島が述べていた「エロスの不可能性」とは、もしや。エロスが発揮できても、生命が連続性を持たずに消滅していくことを指しているのかもしれない。「憂国」の激しい交合は死へ向けた華麗な最後の舞いなのである。

横溝正史は三島の不倫やエロスを超えて、凌辱、強姦の場面が多々ある。無論、純愛も含まれているが、悲惨な性交渉によって生まれた子供が主役の座に登場してくる。戦争の傷跡と村の古くからの因習や闘争が時を経て現在の殺人へと置き換わってくる。横水正史のエロさは三島由紀夫とは異なった、バタイユの「エロティシズム」に関連し、なぜか個体なる人間の連続性に繋がっている。ただ、この連続性が殺人事件を起こしてしまう。このように、両者ともに通俗小説を書きながら、その小説の質やエロスに違いがありながら、同様に戦争の傷跡を負っている。三島は何も成し得なかった欠如の意識として、横溝は殺人を侵す罪として、作家の胸底に深く潜んでいたと思われる。なお、三島のエロスは横溝のエロスに比べて何度も言うように、表現する言葉を繊細に選択している。凌辱、強姦という言葉の使用の有無ではなくて、単なる不倫であるためでもない。三島の文章表現が理路整然として性的な心情や行為は、微細さを含ませながら婉曲的かつ直接的で、彼の倫理観に従った文章表現であるためである。三島は、「サド侯爵夫人」のあとがきで、もっとも下劣、もっとも卑ワイ、もっとも残酷、もっとも不道徳、もっとも汚らしいことをもっとも優雅なことばで語らせることに自信があったと述べて、エロスの表現に自信を覗かせている。ただ、この自信は彼の文章と言葉の倫理の内から逸脱することは無い。下劣と言うよりむしろ上品なのである。

三島は言う汚らしくて優雅な表現とは、例えて言うなら、ジュリエットやジュスティーヌの嗚咽と卑ワイな言葉の代わり、上品で優雅な規律正しい言葉を使うのである。たぶん、汚らしくて優雅な表現とは、私の知る限り、ポリーヌ・レアージュの描く「O嬢の物語」が最高である。何よりも、愛する男に捧げるために書いたという動機が切なさを感じさせる。さて、最後に言うが、三島由紀夫の死とエロスなどの思想を、より詳細に記述する必要を感じない。なぜなら、先に三島の小説のテーマを死とエロスではないかと述べたが、彼のテーマは事件ものを含めて、その時々に作り出すものだからでもある。何度も言うが、結局三島は記述すべき小説の主なるテーマを持っていなかったと言うべきである。彼はこの世界を把握していたが、それは空虚であり、かつ彼はこの世界では弱者であり、除け者でもあり、常に死が彼の心の内に秘めていたのである。無論、日本を含めた世界の文学や文化に時事や自己の精神などを含めた小説はテーマとは言えない。テーマとは作家の内に内在して一貫して貫く重い課題なのである。言い残すとすれば、それ以上に重要なのは、三島の小説そのものが現代に通用して、何らかの問題を提供して議論を巻き起こすか、既に議論を巻き起こしていて活発に議論されいるかである。彼の作品がまだこれらを解く鍵として読み続けられているかである。また、私が本当に三島の作品を読んで、新たに感想文を書くかである。

以上

日記2015