2018年12月28日(金) |
題:坂部恵著 「仮面の解釈学」を読んで |
なかなか知的に刺激的な本である。著者は哲学専攻らしい。西洋や日本の古典文学に通じていて、本書は仮面の解釈に加えて、書きおろしの日本の古語を題材にしたエッセイ的な章も加わっている。章題として、T〈おもて〉の解釈学試論、U仮面(ペルソナ)の論理と倫理に向けて、V日本語の思考の未来のために、Wしるし・うつし身・ことだま、の四つに分かれていて、また細部に分割し記述している。
T〈おもて〉の解釈学試論の細部を構成する、1〈おもて〉の境位、2〈かげ〉についての素描をなど読むのは、最初なんとなく息苦しい。硬直的な文章がやや理解を妨げる。それを乗り越えると、著者の思想は一貫している。思想を変奏させ言い換えて書き続けているとも思われる。思想的には西洋と日本の哲学者が問題にしていることを〈おもて〉から記述していて魅惑的で、とても知的に刺激を受ける。著者の古語などを含めて多彩に表現して極めんとする姿勢がより魅惑を増して伝わってくる。簡単に思想を言えば、〈おもて〉には〈かげ〉が付き纏い、もしくは〈うら〉の世界があって、これらは通じて相互に行き来しているのである。更に、西洋哲学と日本の古典に通じた著者の知識が、日本語の論理性を考慮し、〈うつつ〉と〈うつせみ〉、〈われ〉の世界を紐解いていく。いわば、主体性を問題にして、他者と交流する共同存在としての基盤へと思考を向かわせ、しるしや差異(ことなり)、事成りについての意味するものと意味されるものの二重化などについて考慮しているのである。
ここで著者の言葉を使用して、最初の〈おもて〉なるもの思想について纏めたい。即ち、次のようになる。仮面なるおもてには素顔としての自我と世界の背後の原素顔の神と神的世界が見透かされている。現前化する神的世界が神の死によって、自我主体も死んで、もはや人間も剥き出しの素顔のない仮面、仮面のない素顔になり、何の陰影も深みのない世界へと移っている。もはやいかなる意味においてもおもてではないのである。真のおもてなる感覚は、自我と世界が現実の生きた接触を取り戻して、変身や他の領域への転身を行えるのであり、もはやそれができない。おもてとは主体ではなく述語としての性格を持つが故に、主―客を逃れた場面でこそ意味と心を得て生きることができるのである。なお、述語とは主語的に自己同一的な〈実体〉の論理にはとらわれない、自在に変身を遂げつつ〈こころ〉を統一するものなのである。
著者の主張で納得できないところが何点かあるが一つだけ示したい。『わたしにとって、他者(ないしは〈他者の他者〉以外のものではなく、他者性につきまとわれるこののない純粋な自己、自己への絶対的な近さ、現前、親密さなどというものは、本来、どこにも存在しない』(82頁)ところが純粋な自己はあるのである。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」になる言葉と同等に言うなら、他者性につきまとわれることのない「絶対純粋的自己同一」となる。それは著者がたびたび取り上げる死の中にある。死以外にもあるだろう。まさに人間は死ぬが故に、死と言う臨死的な体験の内に、例えばエロシチズム、例えば競技する時や試験を受ける時の自己集中、例えば超人などにおいて、自己は自己たり得る。あまりにも自己過ぎて自己を忘却しているが故に自己は自らの自己の内にて、もしや無化しながらも運動しているのである。これは、著者の仮面の二重性の問題にも関連してくる問題である。仮面などあり得ずに、もしや無表情であるかもしれないが素顔だけの自己が、著者が示す自らを失った現代社会において純粋自己として、自己回復の手段があることを指し示している。これは他者構造なる存在論における他者と自己との問題である。自己が他者との共存の中に生きているこうした状況において、完全に自己が自己たり得るかの問いともなる。
難しいことは置いといて、日本語などが著者にどう言い表されているか簡単に紹介しようと持ったが上記の変奏であり止める。何度も言うが、本書は張り詰めた知的な緊張が伝わってくる良い本である。
以上
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2018年12月21日(金) |
題:マンシェット著 中条省平訳「愚者が出てくる、城塞が見える」を読んで |
思いもよらず良い本である。楽しく一気に読むことができる。ハードボイルド的な小説でありながらソフトである、ソフトな文章でありながらハードな筋書きである。本書の帯には訳者によって次のように書かれている。『人間存在の脆弱さという主題や、緻密きわまる小説の構成、そして、繊細かつスピーディでありながら、ときとして病的なまでに偏執的にたたみかけるのが、マンシェットの文体の魅力だ』これは正しい。そして『クールな快楽と戦慄。暗黒小説の傑作!』とは言いすぎであろう。常に横帯は売らんがために誇張して表現する。暗黒小説ではないのである。
この暗黒と呼ばれる小説の筋書きは簡単なものである。精神を病んでいたジュリーは企業家で富豪のアルトグに雇われ、アルトグの甥ペテールの世話係となる。彼は常に正常さとはかけ離れた者を雇い入れている。甥の後見人となって莫大な資産を思いのままにしているが、自らの資産にするためには甥のペテールを殺さなければならない。こうしてアルトグが雇入れた殺し屋トンプソンらに誘拐されたジュリーとペテールは凄惨な逃走劇を繰り広がる。ジュリーはとんでもない事件を引き起こし警察に捕まえらえそうになりながら、遂にアルトグの昔の起業家仲間のフェンテスの城塞に逃げ込む。始まる銃撃戦。結末は書かないでおこう。
本書の魅力は何と言っても文章のクールさにある。クールさとは知的であり、それに情感がさりげなく込められて魅力的な文章が、ダイナミックな行動と相まって読者を物語の世界に引き込むのである。強欲なアルトグ、見境のない殺し屋トンプソンが、極端に言えばジュリーの恋人とさえ思われてくる。彼らと恋をしても戦いながら無茶な逃走していると見える。ただ、アルトグの昔の起業家仲間、哀愁を帯びたフェンテスだけが、ジュリーの真の支援者であり恋人と成り得るはずである。城塞での最後の戦い、彼らの最後、ジュリーとペテールの最後はこの物語の結末としては当然のことであろう。
何と言っても本書の素敵な文章は、出来事を中心に描かれている。それに走る、走り出すと止まらない、でも心理を含みハードボイルドでありながら、文書を削いで無駄を削りながら詩情豊かである。本書に謎はなくて推理小説は言えない。と言って純粋な文学でもない、やはり暗黒小説(ロマン・ノワール)なのであろうか。著者ジャン=パトリック・マンシェットと「O嬢の物語」の編者ガニマール社のドミニク・オーリーと関係、それに本書の題名「愚者が出てくる、城塞が見える」とアルチュール・ランボーとの関係、特に翻訳者の中原中也との関係もある。「季節が流れる、城塞が見える」との中原中也の訳をもじったものが本の題名なである。いずれにせよ、純粋に読むことだけを楽しむことができる。
なお、著者には「殺戮の天使」、「殺しの入挽歌」、「眠りなき狙撃者」という傑作が勢ぞろいしているとのこと。わくわくしてくる。
以上
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2018年12月14日(金) |
題:エルンスト・マッハ著 須藤吾之助 廣松渉訳「感覚の分析」を読んで |
エルンスト・マッハは初めて読む。マッハは哲学者と言うより物理学者である。いや両方であるのだろう。とても関心を持って読み始めたが、何となく読むのがおっくうになる。きちんと読めば分からないことはないはずで、でも、全十五章あるうちの初めの二、三章を読むと何となく分かるけれども読む気力が湧いてこない。つらつら眺めている。別に読み終える予定もない。頁をめくっているうちに終わる。廣松渉が「マッハの哲学―紹介と解説に代えて」と題して、詳しく本書について論じている。この解説を読むとマッハについて分かった気になるから不思議である。
廣松渉と言えば「世界の共同主観的存在構造」を読んでいる。この本を簡単に紹介すると、現象世界の客体的な一面、即ち、所与及び所与以上の或るものと、主体的な一面、即ち、私としての意識と誰かとして意識を持つ主体の自己分裂的自己統一とを、四肢的構造として捕らえると感想文には書いている。なんか面倒な文章で理解しにくかったから読もうとして少しは理解できたのか。そう言えば、ドゥルーズも初めにサルトルにとても知的な関心を寄せていたと書いていたのを思い出す。なぜ、モーリス・メルロ=ポンティなどに関心を寄せなかったのか。ポンティはサルトルのような派手さがない。「行動の構造」を読んだ時も幾分退屈であった。哲学とは何かしらの知的なもしくは感覚的な刺激を受けるものとして読むのなら、サルトルは派手さもあり、また十分知的な刺激を受ける哲学者だったのである。この刺激とは反論したくなって頭の中で論理を組み立てることである。そういう意味でサルトルは刺激を与える格好の先達だったのであろう。マッハは派手さがなく知的刺激を受けないのである。ただ、派手さはなくともポンティの哲学的内容は素晴らしくて過小評価されているに違いない。
メルロ=ポンティも感覚ではないけれど知覚に関して「知覚の現象学」なる本を書いている。けれどまだ読んでいない。でも「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」、「メルロ=ポンティ コレクション」は読んでいる。「感覚」と「知覚」については、科学と科学哲学が感覚、知覚を正しく評価しないといけないと述べている、知覚はメルロ=ポンティにとって人間の存在形式の基本的様態なのである。知覚領野の自然な特性と肉体を持って地上を移動しなくてはならない生物は、異質的な空間の観念によって理解しなければならないと彼は述べている。異質的空間とは人間が世界に投げ出されている状況であり、人間は精神プラス身体という存在ではなく、身体に具現した精神であるという考えに至っている。この考えはメルロ=ポンティの思想の核と思われ、置き去りにされていた身体性を、特に知覚をメルロ=ポンティは思想に取り入れて、そして、メルロ=ポンティは他者を含めた存在論へと向かうのである。
ここでマッハの感覚論を知り得た限り解説も参考にして簡単に紹介したい。マッハは要素と言う言葉を用いる。諸要素とは色、音などの感覚に他ならない。即ち、要素=感覚である。物、物質、物体なるものは自我さえ、空間や時間も要素から成り立っているとマッハは主張する。古めかしい文章であるが『諸要素が自我をかたちづくる。私〈自我〉が緑を感覚する、ということは要素緑が他の要素(感覚、記憶)のある複合体のうちに現れるということの謂(い)いである。』謂いとは意味の事である。即ち、客観的実在について知り得るのは、それが主観に働きかけて感覚を生じさせ得るためである。ただ知り得るのはこの感覚によるのみであり、言い換えれば客観的実在についてはいかなるものであるかは不明である。この時の感覚がどこにあるかといえば頭の外である物のある場所である。なぜなら、主観に働きかけて感覚を生じさせる客観的実在そのものに固執すれば物自体を定立する必要がある。でも、それは無理であり感覚を通じてのみ知ることができるためである。
解説で廣松渉はリンゴを例にとりこの辺りを、カントの物自体の影響を受けたマッハの物自体の考え方を説明しているが省く。つまり、客体(客観―色、形等々の複合体)――感覚――主体(主観―感覚器官、中枢神経等々、分解すればやはり要素の複合体)とした時、感覚は諸要素として客観と主観をも構成していて、客観は主観との依存関係を離れて存在しない。また、客観なくしては主観もなくて、諸要素がすべて汎用的相互関係のうちにあり関連している。この関係を離れて諸要素は自から存在するものではないのである。そしてこの要素間の所与連関こそを追求すべきなのである。
ここまで書いて読み返してみると良く分からなくなる。思い切って、簡単に分かりやすく言えば感覚とは包括的な概念で、客観的実在なる物の場所にも居て主観も構成する多様な要素から成り立っている。この要素とは、異なった性質を持つ成分、元素、もしくは素子、因子のようなもので、それぞれが関数的に関連して成り立たせている。即ち、感覚を構成する要素を通じて世界を観ることができる、いわゆるマッハの要素一元論なる世界観に結びついているのである。こうしてマッハは認識活動、概念と判断や認識と誤謬、思惟経済などを語っているが、これらの考え方についての説明は省略する。
こうしてみると実在論へと向かうメルロ=ポンティの方が断然に分かり良い。マッハの哲学を読み解くのは難しい、というより今もって良く分からないでいる。それほど得るものは少ないかもしれない。同じくマッハ著の「空間と時間」の方が、ベルグソンの空間と時間概念との絡みもあって読んだなら面白いかもしれない。
以上
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2018年12月7日(金) |
題:ジョルジュ・バタイユ著 西山修訳「非―知」を読んで |
ジョルジュ・バタイユの文章は、バタイユ自身も言っているが、哲学を装いながら哲学的ではなくて、でも中心をずらしながらも何かしらの哲学の周りを回っている。それは哲学では真正面から取り上げない問題でありながら、でも哲学的な問題でもある。緻密性を欠いた文章は核心の周りを回りながら、その周りの風景を描写しながら、情感としての感性に盛んに訴えて、でも、その訴えが真に迫ってきて重要であると認識させられる。重要どころかまさに哲学的な問題があるのではないかと知らされるのである。こうしたバタイユの特性が遺憾なく表れているのが本書「非―知」である。
本書「非―知」はそれほど長くはない本で、まずT非―知についての講演からなり、U非―知についてのエッセイ、V非―知の未完了の体系、草稿からなる。言わば非―知とは何かをバタイユ自身が語り、そしてその体系的な表現を記述しようとしたその草稿だけが残されている。「非−知」の内容、その論点はそれほど難しくはない。非―知とは対象との関係で、つまずきの種であり、何かひっかかるものである。ヘーゲルが述べた絶対知を所有した時にこそ非―知にたどり着けるものなのである。即ち、自分が何も知らないとして、知っている者の世界を明らかにする考察を続けなければならないと主張しているのである。更にバタイユは死と思考の死との関連、非―知の彼方にある意に反して被る知、思考の死の教えという知について述べる。更にベルグソンの笑いを取り上げて、信仰と笑いが啓示という最大限の知として与えられる宗教的体験と同様の豊かさをもつ非―知について述べている。聖なるもの、エロシチズム、恍惚と不安との非―知との関連を話したいと言い、ヘミングウェイの「老人と海」における主人の道徳、至高であり続けること、更に反主知主義に話が移る。結局、非―知においてのみ、この知の彼方においてこそ我々は無知の権利を手に入れることができると主張しているのである。
U非―知についてのエッセイではもはや文章は抒情詩の趣を持ってくる。『言葉から沈黙を作ろうとしたが、知についてもおなじことで、知は広がってゆくにつれて非―知のなかに消えていく』『絶対知の内容は、それが非―知と等しい性格をもつというとうことを明らかにしている』などの文章が印象的である。そして抒情詩の趣が激しくなる。『わたしは何ものも受け入れず、何ものにも満足しない。わたしは知るべくもない未来に入って行く。わたしのうちには、わたしが再認しえたものなど何もない。わたしの陽気さはわたしの無知に基づいている』これは無―知の証としての抒情詩なのだろう。でも、Vで示すように構想と草稿があって相応な記述をバタイユは予定していたのである。
V非―知の未完了の体系は、草稿であり短いながらそれなりに記述されている。ニーチェの「権力への意志」の副題として「すべての価値の価値転換の試み」は、体系として目次案がいくつも紹介されながら、アフォリズム(箴言)として記述されている。ニーチェは体系だった記述が嫌いだったから、書かれることはなかったに違いない。同じく構想を示しかつ草稿を記述した「非―知の未完了の体系」の目次にも、ニーチェに関する項を設けているのは偶然ではなくて、バタイユはニーチェから強い影響を受けている。この影響は倫理性、宗教を超えたものであるに違いない。
結局、バタイユが書こうとした非―知とは、絶対知が形成されるその瞬間から始まる。つまり絶対知とはもはや何も知らないことであり、この思考の円環のうちに知の不在が沈み落とす内的な体験なのである。悪夢やときには重い病に伴う病状に似て沈鬱で無力であり、懊悩以上に刑苦な体験である。そして概念の不在に時間の不在、言い換えれば存在と意味の無効化も含んでいるかもしれない。逆に、いわば現代における非宗教的な概念とも言え、現代の思考の根底条件を表現しているとも言えるであろう。この非―知が我々の思考を取り巻く状況としての社会などの環境条件、更に哲学などの知と、非―知の状況も加えてより考慮する必要があると捕らえることもできる。良く分からないがバタイユもそう願っていたのだろうか。きっと違うだろう。なぜなら非―知そのものを問題として、非―知の内に埋もれ、陽気さのうちの知の不在の内に沈み落とす内的な体験をして、無知の権利を手に入れることだけをバタイユは望んでいると思われるためである。
以上
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2018年11月30日(金) |
題:ジロドゥ著 二木麻里訳「オンディーヌ」を読んで |
初めて読む作家の作品である。戯曲とは知らなかった。初めは少し文章や話の筋が歪んで会話が乱暴ではないかと思っていたが、読み進めるうちに主人公なる水の精、オンディーヌの身が気になってくる。何かを風刺していながら、その何かも見え隠れして分かってくるのであるが、それを超えて、この作品の魅力が少しずつ伝わってくる。それは感激するように確かなのではない、微温的に緩やかにオンディーヌの身を心配するとともに心の内に密やかに育まれてくる。どこへ行くのかオンディーヌは、戦いに負けていずこへと去って行くのか、また現れるのであろうか。この活性化する物おじしない水の精は苦難を超えて自らの意志で永久に生きながらえることができるのであろうかと、とても心配になってくるのである。
著者ジドロゥはフランスの作家であり、外交官として勤務し創作活動を続けて戯曲で成功をおさめる。この「オンディーヌ」を含む一連の戯曲を通じて国民的作家になったらしい。1880年生まれで他には「トロイ戦争は起こらない」などがあるとのこと。それ以上は分からなくてよい。なぜなら微温的ながら心に残るこの一冊はジドロゥという作家を十分に表現しているためである。本書は三幕からなる。第一幕では、十五歳の水の精オンディーヌは騎士ハンスと会い男の美しさに魅せられて結婚することにする。でもハンスは未来の妻ベルタを探している。第二幕は宮殿である。王を目の前で、オンディーヌはハンスはベルタと結婚できないと宣言する。王妃にもオンディーヌは自らが水の精と打ち明ける。ハンスは決して「裏切る」ことなどしないと言うが、でも遂に王の前で結婚できないとベルタに謝る。ベルタは王の娘でありながら漁師の娘として育てられていたのである。ベルタはもはやハンスの子を宿している。第三幕では、ベルタラン伯爵と「裏切り」を行ったオンディーヌが裁判にかけられる。もはやハンスはベルタと結婚式をあげることにしている。でも、オンディーヌを愛している。そしてオンディーヌから愛されている男でもある。水の精の王はハンスが死に、オンディーヌは人間世界の記憶が消えると宣言する。こうしてオンディーヌの目に前でハンスは死に、オンディーヌはハンスを見てきれいと言い、生き返らせれないと知ると、とても残念と言うのである。
ざっと筋を述べたが、出演者が多数いて、会話が飛んでいることもあって、詳しく読まなければなかなか筋書きの太い幹を捕らえるは難しい。この水の精オンディーヌの話はジロドゥ以前にも語り演じられていて、本作品との関係、並歴史的な繋がり、並びに本作品の優れている点や読みどころに、本作品に散りばめられている寓意や時空間的配置を、最後に「解説 虚構の中世の時空と論理」と題して、訳者二木麻里が詳しく説明している。これを読むとなかなか奥の深い伝統を受け継いだ作品であることが分かる。
なんと言っても、本書の魅力はオンディーヌそのものにあるのだろう。物おじせずに自由に飛び回るようにして自らの欲望を叶えていく十五歳の少女。オンディーヌは決して裏切ってなどしていない。裏切ったのはハンスである。水の精を裏切ったハンスは死と言う罰を受けなければならない。自然界の掟の厳しさは、どこの世界にもあり物語として何もが通じている何かがあるのだろう。裏切りとは異なるが、どこかの場面で誰が望んだのか忘れたが後ろを振り返るなという願いがあったことである。この願いは必ず成さなければ咎を受ける。毒蛇に咬まれて死んだ妻を取り戻そうとするオルペウスは振り返ってしまい妻の最後の姿を見る。イザナミの要望にも拘わらすイザナギは振り返って蛆虫の湧く腐乱したイザナミの肉体を見るのである。また、蛇や鶴なる真の姿を見られた妻は常に夫の前から消え去るのである。
こうして本書を読むと、どうしても神話が読みたくなる。北欧神話やインド神話が良いだろう。なお、本書の物語の人物や戯曲構造の複雑さについては、先に述べた二木麻里が「解説 虚構の中世と時空の論理」の中にとても詳しく書いているので、そちらを読む方が良い。
以上
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2018年11月23日(金) |
題:コンスタン著 新庄嘉章訳「アドルフ」を読んで |
本書を読んでいてうっとうしくなる。すぐに読むのを止めたい、でもできないのである。何と言っても本書に表現されているのは閉塞感であろう。主人公の思考と分離した優柔不断の他者を思いやる、もしくは自らを格好よく見せる行動ゆえに、見栄から手に入れたはずの女に執着されても捨て去ることができない。というより、自らがなぜか関わってしまいのっぴきならない状況に陥っていくのである。きっと、この小説は上手であるに違いない。フランスのいわゆる不倫恋愛小説を何冊か読んでいるが、その原本とも言える。そして本書以外は、その不倫な関係の破滅、死を持っての清算、年老いての再開などなど結末はそれぞれであっても、その過程としての恋を成就していく心理、恋の葛藤、嫉妬に罪悪感などを散りばめていて、読んでいて実に楽しいものであった。
ところが、本書を読むと憂鬱になってくる。アドルフが伯爵の美貌の面影を持つ公称愛人、内妻と言うべきか、エレノールを手に入れようと思った途端に、それほどの障害もなくエレノールはアドルフのものになる。すると、もはやアドルフはエレノールに飽いている。父の忠告を受け入れてすぐさま逃げ去りたい。でもエレノールは自らの子供たちを捨てても、財産を捨てても、アドルフについてくる。それを振り切れないアドルフは、自らが嘆かわしい。若い女にも他の女にも関心を向けないのである。エレノールは父の復権によって、もはや死んだ父の財産を受け継ごうとする。このポーランドの地にて二人は暮らすことになるけれど不幸である。エレノールは社交界を催すがドルフだけを愛していて、アドルフは父の忠告に従って、エレノールと手を切る手紙を既にしたためている。こうしたアドルフの動向を知ったエレノールは病気になり、遂には苦しみの内に死ぬ。アドルフは死ぬ前に探していたエレノールの手紙、見つからずに死んだら焼却するように指示していた手紙を図らずも読むのである。
何度も言うが、本書の憂鬱さと徹底させた心理描写には感嘆するしかない。訳者があとがきで この小説は、女性の恋愛心理を描写したものというよりは、むしろ、男性の複雑きわまりない利己主義を冷たく鋭く分析したものと見るべきであろう と述べているのはきっと正しいだろう。それより、「近似値の恋」と題して、堀江敏幸が この物語が「エレノール」と呼ばれなかったところに、悲劇があるのだ と述べているのが、的を射ている。エレノールが主人公であれば女性の心理描写を重点に記述されただろう。また、訳者が『アルベール・ティボーデはその文学史の中で、「半世紀の間、フランス心理小説は、この静かで控えめな物語を作り変えたり、書き足したり、変曲したり、近代化したりすることをやっていた」と言っているのは、けだし肯綮を射ている』というのももっともなことだろう。そしてスタンダールの「赤と黒」、メリメの「二重の誤解」の文体に通じるものがあると言い、ジイドの「女の学校」とラディゲの「肉体の悪魔」の文体を連想させると述べている。本書は恋愛小説のお手本のようなものであるに違いない。
コンスタンは1767年生まれであるから、相当に古い作家である。この「アドルフ」を今まで読んできた恋愛心理小説と比較したいとも思うが、その気が一向に起こってこない。たぶん、読んでいる小説の量が少ないためであろうか。でも、優柔不断な男を描いた恋愛小説は西洋や日本にも結構あるが、これほどまでに意志薄弱で心理がすぐさま逆転する自己喪失した男の暗い姿を描いた小説は本書以外知らなないのである。
以上
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2018年11月16日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一監修「ドゥルーズ・コレクション T」を読んで |
この「ドゥルーズ・コレクション T」は「無人島1953−1968」、無人島「1968−1974」、「狂人の二つの体制1975−1982」、「狂人の二つの体制1983−1995」から、監修者の宇野邦一が哲学的発想力の観点からテクスト選び、新たに訳したものである。上記の四つの本は、3年以上前に、図書館から借りて読んでいるが、内容は殆ど忘れている。でも、本書以上にたくさんのことが記述されていた気がする。本書の哲学的内容として、宇野邦一は「生成と時間の論理」、「潜在性の論理」をあげているが、ベルクソンの示す「持続」と「差異」が空間と時間の概念に結びついて「生成」と「潜在性」を主要テーマとして本書は記述していると言うこともできる。無論、細かなテクストも結構ある、エッセイみたいなものも含まれている。ドゥルーズ没後二十年の記念オリジナル・アンソロジーとして出版されている本であり、新訳と言う点を除けば、本書よりも上記四つの本を読む方が良いだろう。ドゥルーズが繰り広げた思想がもっと広範囲に記載されている。
ただ、私みたいに上記の本を持っていずに読むととても良い。ドゥルーズは何年かぶりに読むと言うことで、最初理解できずにいたが、次第に慣れてくる。読後にはネットで調べなどしたが良い経験になった。いつかドゥルーズの全作品を再読したいと思っているために、ドゥルーズの概念は少しでも頭の内に入れておくのが良いのである。ただ、本書は国家と経済に関する話、即ち逃走線や抽象機械やコード化、それに有名な器官なき体や意味論など、発想力よりも概念化された思想についてはまったく触れていないので注意する必要がある。なお、本書は「発想の軌跡」として10のテクスト、重要なのは「ドラマ化の方法」、「何を構造主義として認めるか」、「内在―ひとつの生・・」、更に「哲学者たち」として9のテクスト、重要なのは「ベルグソン、1859−1941」、「ベルグソンにおける差異の概念」、「彼は私の師だった」がある。この師とはサルトルのことで、ドゥルーズがはっきりサルトルを師と述べているのである。
これらテクストで示された概念の内重要と思われる点に関して簡単にまとめたい。「ドラマ化の方法」とは、簡単に述べると力動による理念の現動化がドラマ化の方法なのである。この理念は、感覚しうる形も機能も持たない諸要素間の差異的=微分的関係の比でなりたっている。そして理念は異化=分化によって現働化されるのである。ここで差異とは事物の本性上の差異の事であり、微分化される場(即ち差異化する場)において差異的である。この考え方は生物学的〈理念〉や社会的諸〈理念〉を思い浮かべると理解しやすくなる。あらゆる場で差異的なものが異化=分化することになると言っているにすぎない。こうしてドゥルーズは個体化との関係を述べて、個体化の場のふところに抱かれた時空的力動こそが、理念を、様々に異化=分化された対象のかたちで現働化するように決定すると論じている。
「何を構造主義として認めるか」では、構造主義として認めるべき七つの規準を述べている。「内在―ひとつの生・・」では、超越論的場はわたしを持たない意識の質的な持続として提示され、主体や客体に向かわせる意識ではなくて、純粋な内在平面によって定義される。そして、この内在平面がひとつの生によって定義されるのである。ひとつの生とはひとつの存在に向けること止め、ひとつの生の中に自分を置き続ける絶対的な直接的意識であり、潜在性、特異性、出来事からなる。このため、内在平面そのものも潜在的である。特異点とは、差異的=微分的な関係比には「特異性」の配分があり、特別な点「特異点」と通常点とに割り振りされて対応する。この特異性こそが現働化されるのである。
ベルグソンについて書かれた「ベルグソン、1859−1941」、「ベルグソンにおける差異の概念」が、一番厚みがあり、本書の中核的位置を占めている。ベルグソンと言えば、空間と時間、そして持続との関係が大きな問題になる。本書では、持続、記憶、エラン・ヴィタールを取り上げ、まず直感から論じ始める。これはドゥルーズ著「ベルグソンの哲学」と同様の始まりである。詳しくは分からないが、これらのテクストに同一、もしくは類似性があるかもしれない。そして差異と弛緩と収縮が加わる。簡単に言えば、持続とは各瞬間において差異化するものであること、持続は過去と現在とに差異化すること、また過去と未来に向かうことであり、それぞれが持続、記憶、エラン・ヴィタールに対応するのである。「ベルグソンにおける差異の概念」では、傾向、強度、無秩序、錯覚なども問題となる。静的な宗教、動的な宗教も加わる。でも、空間と時間、持続が差異と絡んで主要に論じられている。ドゥルーズの主張を簡単にまとめると次になる。抽象的な時間が空間と持続の混合物であること、またもっと深い地点では、空間そのものが物質と持続、物質と記憶との混合物なのである。持続とは何なのか、持続とは自己に対して差異化していくものである。物質は、反対に自己に対して差異化せず、繰り返されるものである。自己に対して差異化する、差異化するそのものが、それ自身ひとつの事物となり、ひとつの実体となっている。つまり実在的な時間とは変質であり変質は実体であるのである。更に持続とは潜在的なものである。また、差異もまた一種の反復であり、反復はすでに差異なのである。この辺りは「差異と反復」と同じである。
そして、ドゥルーズはこう結んでいる。ベルクソニスムは、差異の哲学であり、差異の実現の哲学である。そこでは、差異が姿を成して存在し、それが新しさとして実現されるのだ。なんともかっこいい言い方である。
以上
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2018年11月9日(金) |
題:最果タヒ著 「星か獣なる季節」を読んで |
この「星か獣なる季節」の、月並みに平凡に幼くて、でも屈折して抗いながら折れそうに繊細な心を、示唆に富んで描く文章そのものが、この文章が描く青春そのものがとても好きである。ライトノベルとは思えない、味と深みがある。17歳の感情と行動が繊細にかつ果敢に展開されている。著者の実感からなのか、観念ではない実在的な重みが作品の底に敷き詰められていて、ラトノベル的な五人の殺人事件を起こさなければならなかった青春の心と行動を描く小説として堪能できる。その筋書きも緻密さに満ちている。無論、若干の小さな欠点があるが述べることなど必要ない。更に、本書は「星か獣なる季節」が前半部にあたり殺人が起こるあらましを述べている。「正しさの季節」が事件後の生き残った者たちの思いを描いている二部構成で、小説全体の構成的な仕上がりも、カミュ作{異邦人}と同様に完璧といえる。でも、こう言っても分かりはしないだろう。それには他の同様な作品と比べるのが分かり良い。でも、この手の作品は吉本ばななの何かしらの作品、川上未映子の「ヘヴン」くらいしか読んだことがないのでそれらを参考にしたい。
ただ、吉本ばななの作品は純に青春小説的な青春を描いた作品だったと思うし、川上未映子の「ヘヴン」は明らかな失敗作である。これらを比較対象にするのは何か気が引ける。でも、読んだ当時の感想文は正直なはずで、あるかと思い探してみたら、吉本ばななの作品はなかったが、「ヘヴン」は若干書いていている。もう十年も前の偽りのない感想である。加筆修正して柔らかく論調を修正して掲載するするつもりが、かえって幾分批判の論調が強まったかもしれない。
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以下、約10年前に書いた「ヘヴン」の感想文である。文章は若干修正されている
内容は簡単に述べると斜視の少年とダザイくて汚い女の子(ロンパリと生ごみ)とが苛めにあう話である。書評ではこの苛めを通して、哲学的世界が広がっているように書かれていたが、あまり期待していなかった。その通りにありきたりのお話のように思われる。明らかに意図する所が表わされていない。というより、著者の資質そのものが通常の日常的感覚から派生して、日常の表面を撫でさすっているだけと思われる。川上さんには期待していて残念なことではある。
天国も地獄もここにある、ここがすべてだ。こうして僕たちにゆく場所もなく、ただひとつの世界しか生きられない、選べる世界などない、ということが著者の主張だと理解している。つまりこの現実は耐えて生きていかなければならない、その通りでそれ以上何も述べることはない。当り前のことを述べているに過ぎない。斜視の手術をし終えたあとで見るこの世界が、ただ美しかったとは、架空の世界ではないこの現実である。この現実に著者は美しさも含めてある種の奥行を持たせようとしているのだろうか。私はもっともっと、この現実の歪みを、斜視を通して極度に歪ませて欲しかった。この現実を、文章に行動も含めて鋭利に乱雑に破壊的に記述して欲しかったのである。
ありきたりなこの現実の表層上に彼女は立脚している。斜視の目に映る世界がピカソの絵のように、相対性原理の時空のように、この歪んだ現実が表現されることを期待していたのである。これらが描き切れていないことは読む前から薄々感じていたが、歪み狂うこの現実の上に立っていない観念的な悩みでしかない、そのようにしか描き切れていない作品である。観念を織り込ませて作り上げた小説は、よほどの技量がないと読者を納得させることはできない。文章が空回りして文字面だけを追って読者は小説の中に入っていけないのである。
細かいようだがこの「ヘヴン」には「涙」という言葉が何回でてきただろうか。その数の多さ。僕もなぜか中途半端に描かれていて優柔不断である。もっと悩ませたらいい。コジマの肉体にもっと悩んでもいいし、苛める奴らを殺すことに悩ませてもいい。その他は省略。
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つまり「ヘヴン」は「いじめ」という観念を小説化しているのに対して、「星か獣なる季節」は観念と言うより、17歳の多感な若者の感性を小説の題材にしている。今思うと、もはや記憶でしかないが、「ヘヴン」は「いじめ」られる側を描こうとしたが、著者はむしろ「いじめ」る者の方が好きと思われる。結局、作品が作品の目的と内容を違えて表現されているために実感が乏しくなっている。むしろ徹底した「いじめ」を描き切れば良かったのである。最後の男女の場面は、傘の柄が二人を突く刺し通すくらいに徹底しなければ「いじめ」なる悪は描けない。著者の思い描こうとした観念を著者の文章そのものが裏切っている、それ以上に自らの悪への嗜好を明晰に観念として把握していなかったために生じている。この悪を認識して描こうとすれば相当な倫理の欠如を要求する。でも、著者の文章が裏切って倫理の欠如を表現できない。著者は観念として温め育ていていた悪を捨て去るか、悪そのものから逃げ去るしかないのである。このように「ヘヴン」は観念に基づいて書いた観念小説でありながら、観念を深めることができずに、どうしても半端な拵え物になっている。
それに対して「星か獣なる季節」は17歳なる多感な感性を描こうとして、現代的な地下アイドル、憧れに恋、学校での男女の機敏な振る舞いなどを、5人の殺人事件をポップに含んでいながら真実味を持たせている。これは著者の感性が若者に寄り添っているために、むしろ著者自身の思いなのか、いかに殺人事件が馬鹿々々しくとも、17歳という星か獣になる季節、できそこないの季節の正統な悩ましさを、表層であっても描き切ることができている。無論、機微に短文にて区切り、単語などを配置転換させるなどの言語表現が小説全体の表現を下支えているのはいうまでもない。著者がこの小説で訴えていることにとても関心がある。それは現象を、出来事を見る目の空無さである。一文だけ引用する。『ただわかるのは、だれも正しいわけじゃない、間違っているわけじゃない、そんなことはどうだっていいんだ、ということなんだ』(142頁)
この文章は心の拠り所とする倫理からの明らかな逸脱を示している。「どうしようもなった」のではなくて、「そんなことはどうだっていいんだ」とは絶対的に確かな拠り所とする倫理などありえない、心から追い払われていることを示している。無論、行為としての表現は殺人を犯してもその具体的な描写は殆ど何も書かれていない、でもこの文章が表現することは正しいだろう。つまり、心や行動は常に機微に動いて渦を巻いて反転し強弁する、心そのものを描いているためである。著者はこうした機微な17歳の心の運動を必死になって綴ろうとする。こうした著者の態度と感性が心の絶対的な支え所を失った若者たちに支持されていることはなんら不思議ではない。
著者の表現は、大人へ潜り抜けなければならない年齢があるなら、その移ろいゆく齢の季節を描いている。この季節は軽蔑すべき季節である。先に述べたように本小説はそれほど甘くはない。ある種のニヒリズムが流れていると思うのは錯覚なのだろうか。デカダンやシニカルな小説以上に、ライトノベルながらニヒルさを潜ませている。直感ながら、この虚しさは、17歳を過ぎても、37歳を過ぎても、57歳を過ぎてさえ纏わり付いているだろう。なぜなら、著者は若者の心理を描きながら、むしろ年齢を無関係に人間に寄り添う感性を持っているためである。すると軽蔑すべき季節は、根を持つ落葉樹であっても、移ろいゆくたびに季節などあらかた失って、根無しの枯れ木になる。ニヒルさは常に深まって行かざるを得ないためである。ただ、著者には深めようとせずに表層を徘徊する何らかのジレンマも持ち合わせている。もしかすると著者は哀愁に媚びてエレジーに陥ることをせずに、ただ生きることの切なさを切々と書いているのだろうか。根源的な深みへの到達をどうも拒否している、この深みとは登場人物の本心の表出である。登場人物はこの深みを果たして持っているのか、持っていて隠しているのか。心の奥底に隠されているとしたなら、ニヒルさなのか、人間への切ない感情なのか、むしろこの感情の枠内に押し込めようとする抑圧する力、もしくは解放する力なのだろうか。この辺りは著者の資質の根源に触れる問題であり、これら各種のバランス性とともに、著者の作品を読み進めていけば明らかになってくるかもしれない。
「ヘヴン」が天国を約束しているならば、「星か獣になる季節」は救いようのない地獄を約束する。でも、著者はこの地獄をこそ楽しみ、言葉に情感の正義と律動の賢しさを装わせて、すこぶる滑らかな筆使いで、幾分歪ませた文章を懸命に綴っているに違いないのである。この「星か獣になる季節」にこそ何らかの文学賞をあげたい気がする。果たして貰っているのだろうか。
以上
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2018年11月2日(金) |
題:モラヴィア著 関根英子訳「薔薇とハナムグリ シュルレアリスム・風刺短編集」を読んで |
初めて読む作家であるが、イタリアの作家であるらしい。脊椎カリエスを病み長い療養生活を送っているが、小説や評論、旅行記など多彩なジャンルで活動し、欧州議会の議員にもなっているようである。「無関心な人びと」などの長編ではなくて、本書は短編集である。表題の「薔薇とハナムグリ」など、全15の作品からなる。半分くらい読んで幾分飽きてくる。現実を超えた奇抜な発想を持ち、この幻覚的な発想が表現力豊かな文章に支えられているが、如何せん表層的であり、風刺的であり、読めば種と仕掛けが容易に分かってしまうのである。特質すべき点は「薔薇とハナムグリ」のようにエロシチズムに支えられている作品があることである。ただ、このエロシチズムは濃密さ、濃厚さを保ちながらも、それ以上に進展し何かを訴えることはない。
「薔薇とハナムグリ」は、ハナムグリという昆虫は薔薇の奥部に侵入してエロシチズムを感じ果肉を食するのを習性としている。主人公の娘は初体験の日に、母親にハナムグリとして真っ当に行動するように諭されながらも、キャベツの方に魅力を感じてキャベツの内部に深く侵入してしまう。後で誰かがキャベツに入り込んだと母親に知らされるが、娘は薔薇は気持ちが悪いわと言ってさっと話題から逃れる、それだけの話である。こう単純にモラヴィアの作品を言い切ると何も記述できるなくなる。他の作品を紹介したい。「部屋に生えた木」では巨大な木が部屋の中に生えてきて夫人はとても愛しているけれど、夫は毛嫌い、夫人の仲間は冷笑する。「怠け者の夢」では、恋する男は愛する女と会うけれど、常に幻想や幻覚に満ちていて、何一つ愛を告げられるままいつの間にかベッドの上に寝転がっている。たぶん、読んだ限りでは現実と夢想の間の境目が溶け込んでいて良い作品であるけれども、やはりそれ以上の何かを感じさせない。
「精麗閣」は結婚式の会場で、いつしか誰もが天井から吊り下げられて運ばれていくのである。「夢に生きる島」では夢を現実とするモグラの怪物なる王様がいる。「ワニ」では招かれた部下の夫人は、上司の夫人や召使が背中にワニをぴったりと張り付かせているのを知り、自分もそうしたいと望むようになる。「疫病」では何やら疫病が流行っていて著者は何かを論じている。こうしてみると、まさに、「シュルレアリスム・風刺短編集」という言葉が的を射た表現であるのだろう。超現実的な描写であり、その描写の目的は風刺であり批評であり、それ以外の何物も持たない。もっとシーニュや象徴性や謎に味を加えて記述していれば、全部の作品に目を通すことができたに違いない。シュルレアリスムと言えば、アンドレ・ブルドンの精神の奇妙な不安定的な状態を記述した作品の方が好きである。
シーニュや象徴性に富んだ作品としてはフランツ・カフカなどがとても優れている。モラヴィア奇怪さに傾斜しすぎていて、日常に目を留めない。彼は日常の子細なことにシーニュや象徴性を見出さないためであろう。日常こそ、非日常を含みきっと本物の奇怪さに富んでいる。この日常の奇怪さを表現すれば、もしくは日常から奇怪さを抽出して日常に再び組み入れて表現すれば、作品としてもっと深みを加えることができたはずである。奇怪さが存在論的な深みを消して単に風刺的な作品としてしか見られずに、残念なことでもある。でも、こうした作品が好きな読者も多数いるはずである。
以上
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2018年10月26日(金) |
題:ツァラ著 塚本史訳「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」を読んで |
ずっと以前、アンドレ・ブルドンとトリスタン・ツァラの詩を読んだことがある。ブルドンは難解で何を書いているのか分からなかったし、ツァラの詩も奇妙奇天烈で得体が知れなかったことを思い出す。ただ、こうして「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」に掲載されているツァラの詩を読むと、それほど高度でもない。単に肯定も否定とも拒否して、表現の枠内にて言葉を構わずに無意味に無作為に使用してダダと叫んでいるようなものである。一般に、ダダとは肯定者であると同時に破壊者である。自らの述べていることに対してさえも否定的であるが故に、シュールリアリズムへと吸収されていったことも当然と言うことができよう。
ブルドンの「シュールリアリズ宣言」が無意識のうちにおける自動記述など相応に理論だっていたのに対して、「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」では、ただ、ダダと宣言しているだけの反芸術運動である。なお、ダダは、1926年キャバレー・ヴォルテールの開店に始まる。言わば戦争への嫌悪感がキャバレー・ヴォルテールに芸術家を集めて反戦の意志表示をして、新しく始まったお祭り騒ぎに「ダダ」という二音を与えることになるのである。この運動は世界に飛び火する。この辺りの経緯も、ツァラとブルドンの時間的な推移に従った仲違いや仲直りも理解するのはやぶさかではないが、ごめん被りたいというのが本音である。なお、本書「ムッシュー・アンチピリンの宣言 ダダ宣言集」とは、第一次大戦中のチューリッヒと戦後のパリで、1916年から1922年にかけて6年間のツァラのダダの宣言、評論、詩を集めて訳したものである。
こうした文章で説明するよりも文章で示した方が分かり良いであろう。なお、本書は「ダダ宣言集」、「ダダ評論集」、「ダダ詩集」の三篇からなるが、「ダダ評論集」における「ダダに関する講演」が分かりやすくダダについて述べていて、これを引用して示したい。無論「ダダ宣言集」における文章の方が圧倒的に破壊する力を有していて、彼らの情熱と馬鹿さ加減の両方を知ることができることは留意しておく必要がある。引用する文章は次である。『ダダはひとつの精神状態です。だからこそ、ダダは人種や出来事によって姿を変えるのです。ダダはすべてに適応します。でも、ダダは何ものでもありません。ダダは「はい」と「いいえ」が出会う一点です。もろもろの人間的な哲学のお城で厳かに出会うのではなくて、ただ単に、街角で犬やバッタと出会うように。ダダは、人生のすべてと同じくらい役に立ちません。ダダは、人生の模範となるような気取りを少しも持ち合わせていません。ダダは処女の黴菌で、理性が言葉や約束事で満たすことのできなかったあらゆる空間に、空気のようなしつこさで入り込むのです』と割と冷静に的確にダダを言い表しているのである。
「ダダ評論集」では言語表現を歪曲させながら、でも相応に能力があるせいか的を射て論じている。知らない作品の方が多いが、「ロートレアモン伯爵あるいは叫び」などは、ダダの文章が的確に溶解して粘液質的に言い得ている。けれど、文章は引用しない。「ダダ詩集」では「サーカス(1917)」などが良い。なお、中原中也の「サーカス」はこの影響を受けた作品なのだろうか。日本でも結構ダダの影響を受けた詩人がいる。何人かを読んだことがあるが、あまり魅力を感じないのは残念である。いわゆるダダとは表層を走った一瞬の亀裂・爆発のようなものだったのだろうか。
以上
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2018年10月19日(金) |
題:深沢七郎著 「楢山節考」を読んで |
この本はずっと以前に読んでいるはずであるが、さっぱり記憶にない。改めて読み直してみることにする。読後の直感的な思いは、深沢七郎という作家は泥臭く武骨で義を尊びながら、作品はそれほど質が高いわけではない、ただ「楢山節考」のみが上手く書かれた作品であるとの思いである。無論、一作品だけでも良質な作品が描かれればすばらしいことである。本書「楢山節考」では複数の短編が掲載されていて、「月のアペニン山」、「楢山節考」、「東京のプリンスたち」、「白鳥の死」の四作である。「月のアペニン山」は妻の精神疾患を悪魔がくると呼び暮らしている、その妻との離婚の話である。「東京のプリンスたち」は東京で暮らす若者たちの姿である。「白鳥の死」とは正宗白鳥の死に関する感想である。だが、あまり関心を惹かない。最初に述べたように「楢山節考」だけが上手く描かれている。
「楢山節考」は姥捨ての話である。おりんは、姥捨ての時期が近づいているのを知っている。息子の辰平は捨てに行かなくとも良いのではないかと思っている。こうしたおりんの家族思いが前半に描かれている。辰平の後妻を娶り、この後妻への魚とりなどの教育をする。何より十軒しかない過疎の貧しい村では食料の確保が大切なのである。孫の一人が娘を孕ませ家に引き入れてくる。この孫におりんは冷たい、娘が大食漢なのである。年老いても健康な歯がおりんは気に入らいない。自らが石で歯を打ち砕いている。芋泥棒をした一家の消滅などの事件を経て、おりんはその年の内での姥捨てを辰平にお願いする。きっぱりと前倒しに自らの命を諦めるのである。背板に背負われながら死人があちこちに転がっている山の深くへと、おりんは登って行く。楢山はそそりたつ山の坂でありながら、一方では絶壁である。筵の上に座り辰平の背中を押しておりんは帰らせる。辰平は帰りながら雪が降っていると知る。雪が降るのは良いことなのである。それを知らせに辰平は掟を破っておりんに再び会いに行く。こうしたおりんに対して同い年の姥捨てにあう又やんは、息子に縛られ谷に突き落とされるのである。辰平が家に帰るとおりんの帯や綿入れは既に孫たちが使っている。
著者の描くおりんに対して、私は幾分嫌悪感を覚える。同じ年の又やんの往生際の悪さに較べて、共同体の倫理に凛と従うおりんを美化しすぎている。義によって切腹する武士を書いているようなためであろうか。確かに共同体では食うに困ると、経済学者ハイエクも示しているが、東北地方での間引き、娘売りなどがある。南アメリカのある民族では、生まれ出た者を生かすか殺すかは長老たちの決議によって決められる。死ぬと定められた赤ん坊は一晩泣き明かした母によって蟻の巣へと埋められる。柳田国男の「山の話」では子供たちが食って行かれない知り、殺されることを願って斧で首を刎ねられる話がある。つまり「楢山節考」はこうした共同体における掟を純に守る者として、おりんなる老婆をとても美しく書いている。こうしたおりんの義は著者の義に他ならないであろう。著者の義に対して読者は何ら文句などつけようがないために、ただ幾分嫌悪感を覚えるだけなのである。
「楢山節考」なる作品にては、おりんの共同体に対する義が、芋泥棒や縛られて谷に突き落とされる又やんなどと対比させて明確に示されている。また食料不足を背景にした家族愛も捨て難い味がある。でもこうしたおりんの態度は真実さを込めて書かれていればいるほど、どうしても滅入ってしまう。それは共同体の掟を絶対視する、もしくは掟を絶対視する者を美化する著者の倫理観が受け入れ難いためであろう。この義に納得できないためである。これを論じ始めると長くなるために記述はしない。本作品の文章としては前半が若干もたもたしているけれども、後半の超現実的、シュールリアリズムとも呼ぶべき楢山の描写などは天国もしくは地獄を想像させてとても良い。おりんは天国に行くであろう。どうしても山を登る描写が天国へ導いていると思われてならない。おりんは御仏に抱かれるのである。でも、彼女にとってそれはどうでも良いことである。共同体や家族が永らえ生き続けることができれば、それだけがおりんの願いである。著者はこの願いを共同体の掟と連動させて美化している。こう思われてならないけれども、もっと違った面で好きになれないのではないだろうかとの思いある。それは、おりんが本当に望んでいることは違うのではないか、もっと生きたいと思っていたけれども作者が無理やり殺してしまったのではないかとの思いである。まあ、作品は読者に創造できない、著者だけが作り出すことができるのである。
以上
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2018年10月12日(金) |
題:フローベール著 生島遼一訳「感情教育」を読んで |
う〜ん、この作品はどう評していいか分からない、というより迷うのである。フローベールの明晰性に富み簡潔に具体的に即物的に記述する文章は、或る時には感情を高揚とさせて心理の襞に入り込んでくる、また抒情性にも富んでいる良い文章なのである。一方、物語的には人妻への永久の思慕、愛人たちとの葛藤と言う愛を描きながら、フランス革命にも話が及んでいる。この愛と革命と言う主題が分裂的でうまくかみ合って伝わってこない。主人公がなぜ革命に入り込まなければならないのか、仲間たちも含めて説得力を欠けているのである。これはフローベールの傑作「ボヴァリー夫人」がエンマの退屈な日常を脱して愛と情欲を満たすための一途な行動を描いた上質な作品を読んでいるために生じているのだろうか。そうとも思えず、この「感情教育」そのものに内在している問題なのだろう。どうもこの「感情教育」とはフローベールの人生譚でもあるらしい。そのために数多の人間が登場してはさまざまに描かれていて、幾分分散気味なのである。
簡単に筋を紹介したい。法学生フレデリックはアルヌー夫妻に出逢い夫人に恋をする。この恋が中心のテーマで、結局フレデリックはアルヌー夫人と関係する機会を取り逃がして、奔放で情熱的なロザネットや選挙目当てにダンブルーズ夫人と関係する。これらの女たちの馬鹿さ加減にうんざりしてフレデリックを慕う金持ちの田舎娘ルイズ嬢に会いに行くと、ルイズは友人デローリエと既に結婚しているのでる。もはやアルヌー夫人は破産していなくなっている。この恋愛話に革命の話が加わっている。社交界などで知り合ったさまざまな人間や愛憎や不倫の話が加わってくる。それぞれが混合して話が進んでいて良く分からなく時もある。それほど辛抱強い読者でないために、読み飛ばすことがあるためである。印象的なのは二つの死の場面だろう、ロザネットに産ませた子の死、ダンブルーズ夫人の夫の死の描写は簡潔でありながら繊細である。夏目漱石の「行人」における雛子の死を書いた文章に近い写実性を持っている。
特筆すべき点は、この「感情教育」の最後に落ちが二つついていることである。もう年老いたアルヌー夫人が身をまかせるつもりやってくる場面と、若き日にデローリエと娼婦小屋に行った時の話である。アルヌー夫人との出会いは印象的な切なさがある。デローリエとの思い出話は幼き時の笑い話である。いずれも悠久の時を感じさせずにはいられない。フレデリックはこうしてみると、もはや長き人生を全うし得ているに違いない。この「感情教育」なる作品は、湧き出てくる感情を手なずけるというより、時の経過を指し示していると思われる。でも、やはり、あっさりし過ぎていて「ボヴァリー夫人」のような濃密さが欠けている。というより濃密さを欠いた写実主義的な自然主義的な文章でありお話である。けれども言い知れぬ味があるのは確かである。
この文章はカミュの「異邦人」に幾ばくか似ていると思われる。サルトルは「異邦人解説」でカミュの文章を『・・章句相互に組織することをしない。章句は純粋に並置される。とりわけあらゆる因果関係を避ける。因果関係は、小説のなかに説明の胚芽のようなものを導入し、瞬時の間に純粋な継起とは異なる秩序を築くからだ』と説明している。確かに章句を並置して組織しないと、因果関係の秩序が組み込まれず、純粋な継起に従ってのみ行動することになる。まさしく「異邦人」のムルソーはこの契機に従ってのみ行動している。この「感情教育」は、そこまで徹底していなくとも、フレデリックにそうした傾向があるのは否めない。この「感情教育」の文章に因果関係を持ち込むと、少なくとも島崎藤村の「破戒」に似た波乱な因果の結果が待ち受けていたはずである。「感情教育」と「破戒」とは情緒の点で似通っているとも思われる。写実主義的な自然主義的な文章でありながら、自ずと言い知れない情感を含み不意に読者の感情に訴える時があるためである。こうした文章論はもう少し調べないと良く分からない。それにしても、エンマの情熱的な不倫を描いたフローベールが、結局結ばれることのなかった永久の思慕を書いていたとは意外にも思われるが、そこを追求するにはもう少しフローベールを読んでみないと分からない。
以上
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2018年10月5日(金) |
題:木田元著 「木田元の最終講義 反哲学としての哲学」を読んで |
本書を読んで木田元と言う人に感嘆する。文学も含めて、とても本を読みこなし哲学を我が物にしているのである。ハイデガーの「存在と時間」は何十回も丹念に読んでその度に新しい発見をしているのだろう。経歴も変わっている。闇屋にて儲けて農林専門学校に入っても農業などするわけがなく、何をすべきか絶望しかかっている。キルケゴールを読んで「存在と時間」を知り、この本こそ、時間構造に着目した人間構造を捕らえていると知り、「存在と時間」を読むために東北大学の哲学科に入学するのである。ただ、農専出であり語学など相当苦労したらしい。でも努力が報われている。こうした個人的な経歴や性格などは記述を続けると長くなるので省略する。本書は哲学に対するまとめともなっている。簡単ながら内容の質が高くて、それでいて平易な文章である。
本書は最終講義としての「ハイデガーを読む」、最終講演として「哲学と文学 エルンスト・マッハをめぐって」、更に最終講義・補説として「存在と時間」をめぐる思想史の三つからなる。マッハをめぐる力学的物理学から現象学的物理学への遷移とそれにまつわる文学論も面白いが、何と言ってもハイデガーの「存在と時間」の裏話こそが特筆すべき話である。反哲学とはここから出発しているのである。なお、力学的物理学とは絶対的時空間内での質点の運動なる力学的世界こそが究極の実在であり、われわれの経験に与えられる物理的な現象は、そうした形而上学実在のわれわれにとっての現れ、現象にしかすぎないとする考え方である。これに対して現象学的物理学は、現象の背後にある形而上学実在を否定し、あくまで単なる現象として捕らえようとする考え方である。
さて、「存在と時間」の裏話とは、記述するのはなんだか気が引けるが、本書の内容は何度も幾つもの本に記述しているはずであり、簡単に紹介したい。著者の主張によると「存在と時間」は失敗作なのである。それもハイデガーは失敗に気付いて途中で投げ出した本なのである。ハイデガーはニーチェに触発されて、プラトン/アリストテレスからヘーゲルまでの哲学の全体が間違っていたと、少なくとも不自然な考え方をしていたと考えていたらしいのである。ニーチェはギリシア人の自然観を明らかにして、それ以降の哲学を批判している。即ちギリシア人は、ものはおのずから生成し消滅するものだと見ていた。彼らの自然観は、存在=生成である。ところがプラトンはあると言うことを作られてあるとみる。存在=被制作性とみて、自然を単なる材料の提供物と考えていたのである。ハイデガーはニーチェを受け継ぎ、存在了解としての存在=生成を、存在概念に時間的意味が含まれるとして、人間の時間性を含めて精緻に記述しようとしたのである。
ハイデガーの企ては人間中心主義的な近代文化の克服であり、近代批判という意味を持っているのである。ところがハイデガーは人間がみずから自分自身の生き方を変え、存在了解を変えることによって果たそうとした。即ち、人間中心主義的世界の克服を人間が主導権を握って果たそうと、近代主義の手法をそのまま用いようとしていたのである。これは明らかにつじつまが合わなくなる。結局、あることについての了解を自由に変えることのできる存在了解という概念が間違っていて、存在の生起という概念をハイデガーは使うようになる。人間が存在に対してもつ関係について考え方が変わるのである。つまり存在について何らかの意味で理解を持てるということではなくて、存在の方から自ら意味を持ち現れてくるものなのである。自らを了解できる者に批判などできるわけがない。もう一度言い換えれば、存在があるものに在ることが了解できるのではなくて、存在はあるものに生起してくるものなのである。
更に著者は、ハイデガーは「存在と時間」の構成の構想が当初異なっていたと述べている。即ち、西洋哲学の批判、即ち反哲学の批判をまず行い、その後時間を含めた人間存在について記述しようとしていたとする。ところが、せかされ慌てて記述した書物となってしまう。中途半端に途中で記述を投げ出した書物であり、ハイデガーが自らの矛盾に気付いて記述出来なくなった書物なのである。こうした書物がなぜ脚光を浴びるようになったのか。著者は当時の第一次世界大戦後のドイツの言語的状況を指摘する。過激な言語の革新、酷薄な絶滅への暴力的な言語があり、ハイデガーの書物もこうして例に漏れず暴力性を含んでいるとする。無論、人間存在の思考の斬新さや緻密さが脚光を浴びる源にあることは間違いない。ただ、密やかに含まれる暴力性は反哲学への批判と相まって、ハイデガーにナチズムなる組織を利用すると同時に、大胆にも啓蒙しようともしていたとも述べている。大学総長就任の件もこうした観点から理解できるのである。レーヴィットの「共同存在の現象学」のハイデガー批判、即ち、現存在、存在者と存在、それに存在者全体との関係が逆転させられているとの見方とも繋がっている。こうして著者はずる賢いハイデガーの人間性を嫌いながら、「存在と時間」なる偉大な失敗作を褒め称えているのである。
最後に、どう感想を書いても何もが理解できているわけでもなくて、哲学書とは何十回も読まなければ、読んで理解しようとしなければ、哲学書相互の思想的関係性を問わなければ、良く分からないものなのである。本書「木田元の最終講義 反哲学としての哲学」を読むと、こうした読書と著作と講義を通じて簡明に書かれた薄い本が、哲学思想の大元を記述しているのは驚くべきことには当たらない。長年の労苦の結果書かれた、中身の濃い、良い本となるのは当たり前のことなのである。
以上
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2018年9月28日(金) |
題:プルースト著 高遠弘美訳「消え去ったアルベルチーヌ」を読んで |
本書はプルーストの短編かなにかと思っていたら、「失われた時を求めて」の第六編だった。「失われた時を求めて」は数度読んでは挫折している。たぶん、第一編の「スワンの家のほうへ」の途中まで読んだのだろうか。まったく記憶にない。「消え去ったアルベルチーヌ」を読んでみて、プルーストを称賛する人の多いことがいまさら納得できたのである。これがプルーストの文体なのか、とても素敵な文体を味わうことができたのである。訳者は前口上ととして「失われた時を求めて」の全体の構成を、四百字原稿換算で一万枚を超える大作の内容を丁寧に説明している。なるほどこれが「失われた時を求めて」なる小説の全貌なのか、確かに二つの道があり、「花咲く乙女たち」がいる。こうして、私なる主人公はマドレーヌの匂いから記憶を取り戻して、むしろ覚醒してと言った方が良いのか、乙女たちや侯爵夫人、無論母や祖母に、さまざまの人との出会いがある。この出会いがもたらす心理的な葛藤に反発や消沈に苛立ちなどが記憶の中にあるのか、私にはまだ判然としていない。でも、記憶は出来事を甦らせても、記憶から甦ることのない出来事の方が多いはずである。
本書「消え去ったアルベルチーヌ」はプルーストが死の直前に自ら手を入れた最終稿とのこと。即ち、もう既に訳されている「逃げ去る女」なる元の原本があるとのこと、この原本から2/3ほど削除し、アルベルチーヌとの直接的な心を動かしめる行動や会話を省いて、純粋にもはや姿のないアルベルチーヌとの心理的な齟齬や反発に葛藤を描いているのが最終稿「消え去ったアルベルチーヌ」であるとのこと。即ち、アルベルチーヌの現実的な姿はもはや見えずに、手紙にて知らされる心理のみがあり、主人公なる私は、出て行ったアルベルチーヌとの結婚の許しも得ているし戻ってきて欲しい、でも同性愛者として嫉妬もしているし、むしろ心を掻き毟られる女としてきっぱり分かれてしまいたいとの思いもあるのである。逃げ去った先に友人を送り状況を探ろうともする。でも、アルベルチーヌは馬に振り飛ばされ木に打つかって死んでいる。こうして主人公なる私は母にヴェネツィアに行き次第にアルベルチーヌを忘れていくのである。
なお、主人公は「花咲く乙女たち」の一人、ジルベルトとの恋が終わり、乙女たちの一人、アルベルチーヌを呼び寄せて共に暮らしていたのである。「消え去ったアルベルチーヌ」は純化されていると訳者は言うけれど、「逃げ去る女」の方が話としては面白いかもしれない。でも第五編「囚われの女」を読めば、アルベルチーヌとの直接的な関係が心理や行動も含めて分かるかもしれない。いずれにせよ、プルーストの場合、意識の流れなる心理を中心に描いていて、直接的な行動は心理に影を落とすものとして意味があるのである。
こうしたプルーストの文体は長文も結構あって、良く読まなければ分からない箇所もある。谷崎潤一郎の小説の文章にも長文があるが、明晰でありすぐに分かり得るのと異なって、よく読まなければ曖昧さもあり意味深くもあり流れる意識を描いた文体なのである。意識は文体によってその波打つ心の内を表し得る、この意識が反映して奔流するかつ肯定して前に進もうとする、流れるままに描いた文章なのである。サミュエル・ベケットのようにこの宙の謎を問い詰めるような反語や短文を書き連ねた文章でもないし、バージニア・ウルフのように意識の瞬間的な断絶性を指し示すのでもない。プルースト独自の文体なのである。まあ、本書「消え去ったアルベルチーヌ」は200頁と短いため読み通すことができたが、全編を読み通せるかは自信がない。なぜなら、もはやプルーストの文体が分かって、全編を読むことはそんなに意味のあることではないためである。ただ、「花咲く乙女たち」と「囚われの女」は機会があれば読んでみたい。そう言えば、ジル・ドゥルーズの著作「プルーストとシーニュ」の感想文も書いていて、読み直して本感想文を書くべきであったが、マドレーヌ味をシーニュとして甦る記憶が主テーマになっていたはずである。
以上
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2018年9月21日(金) |
題:ロダーリ著 関根英子訳「猫とともに去りぬ」を読んで |
初めて読む作家である。表紙の帯には『あまりにも幻想に、笑い転げる。イタリアン極上ファンタジー短編』と書いてある。どんなものかと読んでみると、面白くはなくて笑い転げることができない。幻想的というよりも童話に近い。著者ジャンニ・ロダーリは児童文学者で、詩人、ジャーナリストであったらしい。なるほどと納得する。奇想天外な話はどうみても童話に近くなる。でも強制的で無理に話を押し付けてくる。本書は全部で16編ある。最初の2編「猫とともに去りぬ」と「社長と会計係 あるいは 自動車とバイオリンと路面電車」を読むとと、もう読むのを諦める。と言うより斜めにしか読めなくなる。
簡単に「猫とともに去りぬ」の筋書きを紹介すると、年金生活を送っていた男が猫になる。猫集会が開かれ伝書猫が旅たち、猫がこの世界を占拠する。猫おばさんを待ちわびる。これらの猫も自らが人間だった過去を持っているのである。でも孫娘に呼ばれる、おじいちゃんと見抜かれている。そして猫になった逆の方法によって人間に戻るのである。「社長と会計係 あるいは 自動車とバイオリンと路面電車」では、この題に散りばめられた単語が交錯していて、社長が会計係の持つ自動車に嫉妬する話である。
「ピザの斜塔をめぐるおかしな出来事」での書き出しの文章を紹介したい。『ある朝のこと、カルレット・パラディーノは、いつものごとく、ピサの斜塔のあしもとで観光客に土産品を売っていた。すると、金と銀に光る巨大な宇宙船が上空にあらわれ、停止した。しかも、宇宙船の胴体からなにやら出てくるではないか。どことなくヘリコプターにも似たその物体は、奇跡の広場の芝生に着陸した』こうした文章を、その意味を即座に受け入れる度量など持ち合わせていない。なぜ、「ある朝」であり、「ピサの斜塔」であり、「金と銀」で「宇宙船」で「着陸」するのか、出だしにたくさんのことが書かれていて、継ぎ足しの接続詞が多くて押し付けがましい、言葉の暴力である。なんたって「鏡の国のアリス」突飛さだってきちんと読めている。出だしの文章が上手くて読者を惹き付けた作家もいた。すると、この訳文が原文を正確に訳しているか知らないが、あまりにも飛び跳ねすぎて、踊りすぎて、無駄な単語と語尾を無理やり入れ込んでいる。これを普通の素直な文章に変えたなら良いのにと思う、私なりに原文は知らなくとも修正はできる。加筆修正するのは好きだが、今回修正した文章は示さないことにしたい。
ずっと以前、夏目漱石の文学論を読んだ記憶がある。F(観念)+f(情緒)とは何を指し示していたか。当時の日記から引用すると、『凡そ文学的な内容の形式は(F+f)なることを要す』と記述されている。『Fは焦点的印象又は観念を意味し、fはこれに付着する情緒を意味す』なのである。こうして「文学論」は科学的方法を持って、心理的な説明や意識に感覚を論じることから始まる。まるでベルクソンの意識や感覚論やスピノザの精神や感情論を彷彿させる。確かに彼らの影響を受けて漱石はこれらの思想を自らの思想の内に咀嚼し、自らの思想として展開している。意識について詳しく論じていることこそが、文学論というより哲学論に近い印象を持たせている。
これを詳しく説明することはしないが、漱石は文学的な内容の形式と、文学作品の記述について相応の内容を要求している。私はこの漱石の要求は正しいと思っている。無論、これは個人的な見解であって、文学作品として文章が記述されていれば、どれも作品として認めても良い。詩形式で記述していれば何もが詩であり、文章形式で記述したお話であれば何もが小説となる。読者それぞれの作品に求めるものは異なるのである。でも、明らかに作品には質的な差異、それも大きな質的な隔たりがある。ショウペンハウエルの「読書について」を読むと、商業主義に基づいた似非の出版本を非難していた。これは詩や絵画にも通じている。でも、こう厳しく言っても致し方ない。文学とはもはや一つの嗜好に過ぎないから自らの思うままに書けばよいはずである。
文学作品とは広範囲な形式を内容とを持つのが本来的な正しさである。ライトノベルがアメリカで流行っているとか。日本でもきっと流行っているであろう。それは漱石の示した厳粛な定義が、残念ながらもはや文学と定義としては正しくとも理想論になっているとしか思われない。文学作品とは軽いポップなノリも、雑文的な仕上がりも何をも含むと言えば、どれもどれもが文学作品となる。でも、構いはしない。作品の多様性こそが認められるべきなのである。そして、作家は読者の機嫌を損じないようにおもねいて書いて良い。なぜなら小説とは商品であり、消費者の嗜好に合わせて記述すれば売り上げが増え、利益率も高くなるのである。でも、自らの思うままに書いて結果は気にしないのが一番良いはずである。
以上
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2018年9月14日(金) |
題:大城道則編 「死者はどこへいくのか 死をめぐる人類5000年の歴史」を読んで |
題名に惹かれて読んだ本である。無論、ルドルフ・シュタイナーの「神秘学概論」のような壮大な霊魂の話を期待したわけではない。ただ、魂の行方が何処に行くのか気になっただけである。一般的に著者が多数居ると知識の断片的な切り張りになる恐れが多分にあり、本書もその例に漏れず説明的な文章によって書かれていて、大元の思想を欠いているがゆえに読むとどことなく虚しい。編者は「死生観」を考察したものと「はじめに」記しているが、難しくて無理だと放棄している著者さえいるのである。死者がどこに行くかなど分かりはしない。死者の魂が薄らぼんやりと見えてくることすらない。結論から述べると、本書よりも柳田国男の「先祖の話」、鈴木大拙の「日本的霊性」、折口信夫の「死者の書」、川崎定信訳「チベットの死者の書」、ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」、阿満利麿の「宗教の深層」などなど一人の著者による本の方が、魂や霊魂に関して話がまとまっていて読みやすいし、読んで楽しい。また知識は偏りながらも深まるはずである。特に日本で言えば「先祖の話」が、死者の魂が盆や正月や先祖神と絡んで記述されていて魂の在りかが分かる良い本である。
本書は、旧約聖書、ギリシア・ローマ、エジプト、イスラム教、インド、日本先史時代、古代日本人、近代日本人の合計八の記述からなる、それぞれの別の著者による論考と言うよりエッセイのようなものである。無論、それぞれ専門家が書いているために読み流してもそれなりに幅広い知識は得られる。特に関心を引いたのが、エジプトにおける「死者の手紙」や息を口に吹き込む「開口の儀礼」、イスラムにおける美しき処女、いわよるフーリーの火獄などの歴史的事実や、日本における「死=母に抱かれる」というという魅力に満ちたな思想的な指摘である。イスラムにおける死とエロシチズムについては大いに関心を引いてもっと記述して欲しかったと思っている。
日本における「古事記」を中心にした「死=母に抱かれる」思想については少しばかり感想を述べたい。「古事記」とは作成された物語であり、「黄泉の国」とは作り出された概念である。「日本霊異記」とは聖人(天皇制)を正当化する霊異な出来事を記述した書である。では、なぜ穢れた黄泉の国と「日本霊異記」の説く因果応報と極楽浄土がほぼ同時期に両立し得たのか。それは概念が思想としてのみとして作動するのに対して、因果応報と極楽浄土は日常生活に密着しているが故にすぐさま溶け込んだためであろう。また、縄文時代のストーンサークル(環状列石)が共同体社会における厳粛かつ尊い儀式を表しているとするなら、死者に対する思想も受け継がれているはずであり、死者は穢れた「黄泉の国」に行くよりも、尊い先祖の霊として奉られるはずである。このため再度言うが、仏による因果応報と極楽浄土の思想がもたらされると、縄文時代から続く死に対する共同体の思想との親和性にゆえに、すぐさま日常世界に広まり規範として受け入れられたのである。
共同体の原理は厳しさと同時に安らぎをもたらすはずであり「黄泉の国」の穢れとはほぼ無縁である。即ち、イザナミが母なる生の神であると同時に「黄泉の国」の「黄泉津大神」として死の神になる、この暗く穢れた「黄泉の国」の死の神に、死者は抱かれるはずはないのである。この神は概念であり、いわば感覚的に心に内在する神である。著者が言質として引用する三島由紀夫は、ある著書で暗い地の底の国に引き込まれる感覚を記述していたことがある。こうした感覚は人によって生じる特有の感覚であって一般的ではない。従って「楢山節考」における三島由紀夫の「母の暗い母胎に引き込まれる感覚」という言質は「楢山節考」に対する三島由紀夫の感覚であることに注意しなければならない。この言質は三島の「楢山節考」に対する見方であり、「楢山節考」では母を背負って果てしなく山を昇って行くために、むしろ天国や極楽浄土に近くなるとが一般的な読み方であろう。従って、死して土に還る、もしくは蓮の葉に乗ると言うのが一般的であり、恵みの母に抱かれるか極楽に往生するはずなのである。即ち、母なる「黄泉津大神」ではなくて、言わば西洋的に言えば大地の母なるガイアに抱かれる、もしくは成仏して仏様なる極楽に抱かれると言うのが適切であろう。
こうしてみると「死生観」とは空間と時間の連続性の視点を持って解かなければならない。「死生観」は独自に生まれ、相互に浸透して、また育まれる。それは共同体という暮らしの場を明るみに出すであろう。「古事記」を例にあげるならば「黄泉の国」とは空間的に地続きである。イザナギとイザナミが諍って死者と生者の数を互いに述べた後、遮断の岩は取り除かれて、「黄泉の国」は母を恋してスサノオも行くし、誰もが行く所となる。またイザナギが還ってきてイザナミの穢れを禊ぐと、多くの神々も生まれるでてくる。生んだ母は誰かなどと野暮な問いはしないが、命はこのように時間と言う系譜に連続して生み出されて、生み出し終えると死に至るのである。インドとイスラムの「死生観」は共鳴して、インドの「死生観」は日本という空間に持ち込まれて育まれる。そういう意味で、本書は「死生観」を思考するトリガーとしての意味は果たしている。でも、死者がどこに行くべきか思想のまとめは無いし、死者もどこに行くか迷っている。
以上
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2018年9月7日(金) |
題:シュペルヴィエル著 永田千奈訳「海に住む少女」を読んで |
本書はシュールに現実的である。つまり、幻想的であり幻覚的でありながら、まるで童話を読むように優しさや悲しみに満ちている。また、過去の物語を変奏させて情感に訴えてくる作品でもある。本書の作者シュペルヴィエルは1884年にウルグアイに生まれている。幼い時に両親を失い、伯父夫婦に引き取られてフランスで学業を終え、ウルグアイと行き来する生活を送っている。訳者の解説では、南米から見たフランス、死後の世界から見た生者の世界、動物の世界から見た人間の世界があり、これらの複眼的な視点は両国の行き来を通じて生み出されたのではないかと述べている。
本業は詩人であるようで、詩集「船着場」、「重力」、「無実の囚人」、「未知の友」などがあり、堀口大學、中村愼一郎、飯島耕一、安藤元雄による翻訳があるとのこと。飯島耕一、安藤元雄とは懐かしい。飯島耕一は確か、縦横に浮かびあがってくる言語感覚が現実を知的に切り開いて詩を書いている。安藤元雄の「黒い瞳」には驚かされたものである。箱に詰められて帰って来た恋人は、箱を開けると黒い瞳だけになっている。この黒い瞳が液体となって流れ出すのである。超現実を上手く現実に引き戻して、かつさり気なく情感を潜ませて安藤元雄は詩を書いていた気がする。ただ、シュペルヴィエルの詩を読む気はあまり起ってこない。なぜなら、読まないうちから判断するのは良くないが、童話的で幻想的であるが故に、ある種の鋭さを欠いていると思われるためである。
さて本書は「海に住む少女」、「飼葉桶を囲む牛とロバ」、「セーヌ川の名なし娘」、「空のふたり」、「ラニ」、「バイオリン声の少女」、「競馬の続き」、「足跡と沼」、「ノアの箱舟」、「牛乳のお椀」の十作品からなる。なんといっても良いのは「海に住む少女」、次いで「セーヌ川の名なし娘」、それに「足跡と沼」であろう。これら十作品を読み解く鍵として、訳者の解説に「少女」、「海」、「動物たち」、「死後の世界」、「悪意」、「孤独」を挙げて、簡単ながら掲載された十作品を区分けしている。詳細は本書の「解説」を参照のこと。
これ以上述べることはないが、先に述べた三作品の筋書きだけは簡単に紹介したい。「海に住む少女」は海に道路が続いていて、町があり少女が住んでいる。少女が初めて人間の鳴らした貨物船の音を聞いて、「助けて」と叫んだことに、貨物船が去った後愕然とする。少女はこの言葉の意味を知っており、苦しむ。死の力を持って自らを連れ去ろうとする。でも、この少女は娘を失った一人の船乗りの幻想から生まれ出た少女なのである。「セーヌ川の名なし娘」はセーヌ川の川底に暮らしている死んだ娘の川の底で起きるいわば恋物語である。「足跡と沼」は日常雑貨の行商人の話である。安全カミソリの値段を値切る男が、行商人の首にナイフを刺す。男は行商人の死体に石を結んで沼に捨てる。でも浮かんでくる。こうして死体は幾度も浮かぶと沈むとを繰り返して、ある時警察に知られて捕まるのである。
先に述べたが、本書は鋭さを欠いていて、文章のめりはりが無くて、知的さも抒情性も牧歌性も今一つの感がする。無論、叙事性は持っていない。原文を読んでいずに訳文を読んでいるためかどうかは良く分からない。ただ、「海に住む少女」だけは、少女の悲しみが海の街の幻想に込められていてとても良い。本書は「光文社古典新訳文庫」の一つであるが、この文庫シリーズに関心の引くものが多くて、本シリーズの文庫本を何冊かは読んで感想文を書いてみたい。
以上
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2018年8月31日(金) |
題:ピエール・ショルデロ・ド・ラクロ著 武村猛訳「危険な関係」を読んで |
う〜ん、どうなのだろうか。たぶん、この本は傑作なのだろう。でも、結末がばたばたと進んで味気ない。もっと別な結末を想定していて裏切られた気がする。ピエール・ショルデロ・ド・ラクロは、訳者の解説によると、1741年生まれ。本書は心理小説であり、スタンダールの「赤と黒」に繋がったとも述べている。本書の裏表紙の言葉を一部引用すれば『貞淑な夫人に仕掛けた巧妙な愛と性の遊戯・・子爵を慕う清純な美少女と妖艶な貴婦人。幾つもの思想と密約が潜み、幾重にも絡まった運命の糸が、やがてすべてを悲劇へと導いていく』その通りである。だが、この悲劇な結末が本書の心理小説としての面白みを欠いているのである。でも、悲劇へと至るまでは、微細な心理を描いた小説としてとても面白い。十名ほどの書簡のみにて表現されているこの表現形式が、心理を相手によって巧みに異ならせている。このことがそれぞれ各人の心理を浮き彫りにして、心理表現に深みを与えているのである。こうして本書を読んでみると心理とは画策すれば思うままに導けると信じることができ、少し以前まで言われていたマインドコントロールができるものなのであろう。ただ、本書は細かい字で約600頁もあり、読むのは結構辛抱がいる。
簡単にあらすじを紹介したい。浮名を流す女たらしのヴァルモン伯爵は姦計に長けたメルトイユ侯爵夫人とは昔恋人同士であった。今でも手紙のやり取りをしており、清純な美少女セシルを性に目覚めさせるように依頼されている。でも、ヴァルモン伯爵は信仰に厚く貞淑なツールヴェル法院長夫人を口説き落とそうと画策している。メルトイユ侯爵夫人はもし法院長夫人を口説き落とすことができれば、自ら自身を与えると約束する。ヴァルモン伯爵はダンスニ―騎士に恋しているセシルを、うまく騙して手に入れる。セシルの心はダンスニ―騎士にありながら、もはや体はヴァルモン伯爵の物なのである。一方、ツールヴェル法院長夫人はヴァルモン伯爵に恋心を抱かせても、居場所を変えるなど手ごわくてなかなか落ちない。そのツールヴェル法院長夫人もその信仰深さをヴァルモン伯爵に利用され、終には貞淑さを奪われる。もはや彼女の心も体もヴァルモン伯爵のものとなる。これがメルトイユ侯爵夫人の嫉妬心を煽る。彼女は自らを得たければ、ツールヴェル法院長夫人を捨てるように要求すると同時に、ダンスニ―騎士と仲良くなる。ヴァルモン伯爵はメルトイユ侯爵夫人を得たくて、要求通りの手紙をツールヴェル法院長夫人に送り、無慈悲にも夫人を捨てる。彼女は気が触れて重い病気になる。ダンスニ―騎士はヴァルモン伯爵のえげつないやり方を知り決闘を申し込む。そして、ヴァルモン伯爵は死に、またツールヴェル法院長夫人も救われずに死ぬ。セシルは修道院に入る。メルトイユ侯爵夫人は痘瘡にかかり美貌を奪われる。と同時に過去の社交界での姦計が逆作用して皆に後ろ指を指され、かつ嘲笑われる者になるのである。
本書の読みどころは何と言っても、ヴァルモン伯爵とメルトイユ侯爵夫人なる二人、企みに長けた陰謀家の同士のメルトイユ侯爵夫人自身の体を賭けた心理的な戦いで有ろう。また、それ以上に、ツールヴェル法院長夫人の恋に落ちていく心理的な過程であろう。この心理はヴァルモン伯爵との手紙ではそれほど現れないが、伯母などに送る手紙ではより鮮明に表れて、もはや恋に落ちて逃れようとしても逃れられない心のさまが明確に綴られている。そしてヴァルモン伯爵がツールヴェル法院長夫人を抱くシーンである。本小説は性的な描写は極端にない。ツールヴェル法院長夫人を抱く場面、及びセシルを抱く場面のみが短いながらある。罪の意識を取り払ってツールヴェル法院長夫人の抱く場面はとても印象的である。この三人が主役であり、セシルとダンスニ―騎士は脇役である。
作者は最後に関係者の誰にも死など与えて、姦計する者、放蕩する者に罰を与えている。ただ、読者の希望としてはヴァルモン伯爵とメルトイユ侯爵夫人とを直接会わせて対決させて欲しかった。姦計に長じた二人の悪役は最高のクライマックスを演じることができる。これらの者がそれぞれの心と体にどういう結末を導き出したかとても関心がある。無論、この結果は、その時の思い出として手紙に綴れば良い。とても惜しまれるのである。でも、本書ではツールヴェル法院長夫人が捨てられまでの心理描写は息も継がせずに読むことができる、とても優れた作品である。日本の小説では芥川龍之介の「藪の中」が互いの口述が異なっていて面白いが、単に事実の不鮮明さを記した作品である。ところが本書は心理が輻輳して、かつ相手によって現れ出てくる心が異なってくるところが、またこの心が事態の推移に従って変奏していくところが、とても上手く記述されているのである。
谷崎潤一郎と渡辺千萬子との手紙のやり取りを読んだことがある。息子の嫁に送る谷崎の親心と下心とは良く分からず、本書の心理に比べようもないが、でも、手紙によって心を描いている点ではとても関心を引く。無論、本書の方が心の暗躍や葛藤と苦悩や救いを明瞭に記述している。谷崎潤一郎と渡辺千萬子とがどういう本心を秘めていたかと言う点で関心を引くのである。つまり手紙による文章は文字によってしか伝えることができない。視線の瞬きや悩ましい吐息や高揚としてくる肌の色などの表情が無いために文章の表現によって、相手の心を引き付ける魅力もまた悩ましさも増幅してくるのである。つまり文章と文章の不足部分を上手に利用して、想像力を掻き立て相手の心を引き付けることができる。三島由紀夫の「レター教室」を読んだことがあるが、もう忘れている。でも恋文も相手によっていろんな書き方ができるはずなのである。余計なことながら三島由紀夫の失敗作と言われている「鏡子の家」もこの「危険な関係」のような構造になぜしなかったのか。鬼才にすれば、鏡子と四人の男との関係は単純すぎる。脇役の女が一人いたはずであるが存在が希薄であった。主人公の男女二人に、複数の男女を絡ませれば、複数の心理が入り乱れ葛藤する良い作品になったはずなのである。それにしても夏目漱石の「こころ」は優れた作品である。作者が意図的に隠した心の部分が今もって謎に満ちて、でも赤裸々な告白として心に響いてくるのである。いったい漱石は「こころ」で何を言いたかったのであろうか。今もって謎である。
最後に、この「危険な関係」は良い作品であるが惜しまれる部分もある。いずれにせよ、完璧に傑作な小説を描き上げることは難しいことでもある。
以上
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2018年8月24日(金) |
題:マルキド・サド著 澁澤龍彦訳「ソドム百二十日」を読んで |
もう半年も読まずに暖めていた本である。期待していたが、読んで拍子抜けしてしまう。本書は「ソドムは百二十日」、「悲惨物語」、「ゾロエと二人の侍女」の三作品からなる。「ソドムは百二十日」は物語の始まりだけが書かれていて、城館で繰り広げられる性的倒錯な核心の物語は書かれていない。「悲惨物語」は佳作な作品であるが、結局、悪徳が美徳に跪く内容である。「ゾロエと二人の侍女」はサドの記述とは思わないほど、質的には低い。澁澤龍彦の「初版あとがき」では、「ソドムは百二十日」は『本書に収めた部分は、作品の序章にあたる部分の全訳であり、作品全体との比率において眺めれば、ほぼ六分の一弱ということになる』と作品全体があるような記述になっている。
そこで、ウィキペディアフリー百科事典で調べる。「ソドムは百二十日」は序章と第一部のみが完成しているらしい。第一部は「単純」であり、本書には掲載されていない。更に「複合」、「犯罪」、「殺人」と全部で五つの章から成り立っている。「序章」では金持ちで淫蕩な四人の男が、それぞれの娘と結婚して、それら妻たちや誘拐した若くて美しい少年少女、手助けする強蔵、語り女たる監督老女、胸糞悪くなるような容姿の召使女などが選ばれ、城館へと閉じこもるのである。そして、この城館で暮らす規則が書かれている。こうして「ソドムは百二十日」では、語り女の語りを毎日聞き、悪徳を伴う淫蕩行為を行い毎日暮らすのである。この語り女たちの語りはウィキペディアによると、1人150話で合計600話にも及ぶとのこと。つまり「ソドムは百二十日」は「千夜一夜物語」のように、日々物語を聞き、奇怪な性交や残虐や殺人などの悪徳を成すのである。でも、構想だけで描かれてはいない。いや、調べると、驚いたことに翻訳本がある。入手して読もうと思ったが、叙事的で陰惨と残酷の規則性に満ちて、声なき声の調べが叫び声となって文字を揺さぶり肉体を苛んでくるため、体調の良い時に読みたい。
他の作品では「悲惨物語」は良い作品である。悪徳と美徳との争いが、心理的な葛藤を中心にして、それぞれの倫理観を示し書かれている。あらすじは次のようなものである。主人公フランヴァルは美しい妻を娶る。その妻が産んだ娘ユージェニーを隔離して独自の教育を行う。妻は娘を奪い返そうとして、道徳家なる母や母の知り合いの聖職者クレルヴェル師に救いを求める。でも、主人公は娘ユージェニーに父を求めるように策略的な教育を施して、唯一、父だけを求めさせ肉体的関係を持つのである。これを邪魔する妻を友人ヴァルモンに誘惑させ、不倫を盾に娘との関係を認めさせようとする。でもヴァルモンの誘惑は失敗し、ヴァルモンは娘ユージェニーに恋するようになる。これを知った主人公はヴァルモンを射殺してしまい、罰せられる情勢のため逃亡する。逃亡の際に娘に自らを選ぶか母を殺すか問い掛ける。当然娘は母を殺すと答える。逃亡中に主人公は盗賊に襲われる。死に際に偶然にも聖職者に会い、妻が死んだと聖職者に告げられる。するとフランヴァルは自らの悪徳の非を認めるのである。
なお、妻フランヴァル夫人は悔恨した娘ユージェニーが母の体の上に身を投げ出したと同時に息絶えている。娘ユージェニーも悔恨と苦痛と絶望の激甚な衝撃によって死んでいる。これは作為的な悪徳の非なる描写でもあるのだろう。本書の見どころは、妻フランヴァル夫人の夫への献身的な愛にある。誘惑にもその過度な噂や偽の証拠にも負けず、娘と肉体的に関係する夫にも従いながら不道徳な娘を取り戻そうとする、貞淑で純な気性そのものである。そしてこの貞淑な美徳そのものを嫌う夫フランヴァルの娘を我が物にして妻を貶める計画的な行動である。この計画性こそが破綻する。この物語は「悲惨物語」ではなくて「破綻物語」でもある。計画の破たんはサドには珍しいが、文章は結構精緻であり良い。ただ、なぜサドがこうした悪徳の非を描いたか不明である。
なお、西洋では近親相姦は倫理なる悪徳とほぼ結びついている。日本の昔の物語では、例えば「源氏物語」などでは倫理と近親相姦との結びつきはない。当時、日本では腹違いの兄弟姉妹は結婚が認められている。エジプトなどでは兄妹婚そのものが認められていた時もあったはずである。いずれにせよ、ジョルジュ・バタイユのエロシチズムとは死への接近であり、禁忌への侵犯によって生じるとの主張は正しい。でも、サドには禁忌と言う概念はない。サドの夢とは主体と客体の合一であり、諸存在の限界を超出ことによって、欲望の客体と欲望する主体とが一体化することに他ならないとバタイユは述べているが、幾分疑問である。以前にどこかで書いた『サドにあっての言語的描写は、まずサディストが持つ個人的な嗜好を描写する、これが非個人的な要素に高揚として指令し、非人格的な暴力を純粋理性の観念とする。個人的要素を脱して恐るべき論証性と一体化させるのである。これには、制度を必要とする。制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことである』との説明の方がしっくりとする。
以上
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2018年8月17日(金) |
題:アルチュール・ランボー著 鈴木創士訳「ランボー全集」を読んで |
「猫町」と「巴里の憂鬱」に続いて、ランボーの「地獄の季節」を読みたい。もう、既に、何年か前に本書を購入し、そのまま放置している。読んでみると、小林秀雄訳「地獄の季節」と比べ、当然なことに訳が異なっていることに気付く。本書では「ある地獄の季節」となって、「ある」が付加されている。鈴木創士の解説では、相応に理由がある。フランス語の理解できない者には受け入れるしかない。昔、フランス語を独学していたことを思い出すが、一年もしないうちに挫折してしまった。まあ、致し方ない。読み比べると、鈴木創士の訳の方がよさそうに思われる。言葉とリズムが美しい。従って、本書を読むことにする。
詩編はすらすら読めるのに、「ある地獄の季節」と「イルュミナシオン」もいいなと思いながら読めるのに、読後に何もイメージが浮かんでこない。「猫町」や「巴里の憂鬱」の散文詩でもそうした傾向があった。でも、確かにある種の情景は浮かんでいた。これは、「ある地獄の季節」が情景を含んでいない、心の思いを率直に述べただけに起因するのではない、何か理由があるはずである。すると、小林秀雄訳「地獄の季節」はイメージが浮かびやすくするために、言葉と言葉とを繋げ結び付けていることに気付く。きっと意訳しているのだろう。鈴木創士訳の「ある地獄の季節」では、読んでいる時にはすぐさま納得する。けれど、どうしてもイメージが浮かんでこない。綴られている言語間に距離がある。ただ、全体とし呪詛し苛んでいる心だけが、声として言葉として残響してくる。これらの文章の引用は避けたいが、サミュエル・ベケットの言語表現に幾分近いのではないかと思われる。
鈴木創士の解説では、これを「乱調」の詩学と指摘していて引用させてもらう。『制作年代は本文の末尾に詩人自身が記しているとおり一八七三年である。つまりこの作品はランボーが十九歳のときに書かれたのだが、別の見方をすれば、一方で驚くべき早熟さ、いや、いや早熟という言葉ではほとんど何も言い表したことにはならないような成熟と老獪を、同時に叛逆のみずみずしさや狷介孤高とともに、混乱や激情のなかにあって示すものになっているのである。そのためにはどうあっても「新しい言語」が必要だった。つまり「ある地獄の季節」は、詩人が身をもって体得した「乱調」の詩学をシステマテックに実践した第一の作品であると言うことができる』新しい言語とは、訳者の述べるイメージを超えた視覚や韻律を超えた乱調であるばかりではない、シーニュの欠如である。象徴や概念の欠如である。ただ、叫ぶ声だけが、言語だけがある。
こうした詩人を論じることなどできない。モーリス・ブランショやジル・ドゥルーズを調べてみたが、マラルメやカフカなどについては結構論じられているが、ランボーは少ない。マラルメには「骰子の一擲」や「真昼や真夜中」などの概念があり、カフカは作品そのものが象徴となっている。サミュエル・ベケットでは木霊し響き渡る言葉そのものがシーニュである。ブランショを少し調べたが「文学空間」において『ランボーが、詩による決定的結末が強いるかずかずの責任を、砂漠の中にまで逃れてゆくのはこういう時だ』と述べている。こういう時とは芸術家が感じる『自分が世界から自由なのでなく世界を奪われている・・自己を支配しているのではなく自己から離れ去っている』と感じる時である。これだけではあまりにも素っ気ない。
ドゥルーズが「批評と臨床」の「第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」の一つとして、ランボーの「〈私〉とは他者である」を取り上げている。主体と言う狂気は蝶番のはずれた時間に対応している。これは時間における〈私〉と〈自我〉との二重の背き合わせであり、時間こそが両者を関係づけ縫い合わせている。ここでドゥルーズが論じるランボーの文章を引用したい。『木がヴァイオリンになるのも仕方がないことです!・・銅が目覚めるとラッパになっていたとしても、銅の落ち度ではありません・・』(「批評と臨床」70頁)である。同一個所を「ランボー全集」の書簡集から引用すると『「私」は一個の他者です。木ぎれが自分をヴァイオリンだと思い込んでも仕方がありませんし、・・もし銅が目覚めてラッパになっているとしても、銅には何の落ち度もありません』(「ランボー全集」470頁、477頁)
このランボーの表現はアリストテレス流の解釈である概念―対象関係の鋳型であるとドゥルーズは指摘する。即ち、概念としての諸形式=形相(ラッパ−ヴァイオリン)は現動態にある形式で、対象としての諸素材=質量(銅−木)の方はただ単に潜勢態である質量であるような関係である。一方、カントはある意味先に進み、〈私〉とは概念でなくすべての概念を伴う表象である。〈自我〉とは対象ではなく、自身の持続的な変動に無限の変調に自らを関係づけるところのものなのである。概念―対象関係はカントにおいても存続しているが、もはや鋳型ではなく変調を構成するような〈私―自我〉の関係に二重化されているとドゥルーズは述べている。この概念−対象が時間と現象の新たな形式的諸関係を生み出していくのである。
ランボーの偉大な表現の力を獲得する思い出の場なる概念―対象なる鋳型の構造とドゥルーズが記述する時、はっとさせられる、とても明確にランボーの言語を言い得ている。ランボーでは私なるものが心や物に結びついて、ある種の枠にはまった型構造を指し示していて、言葉による形式変換が頻繁に行われているのである。形式変換とは〈私〉を他者として押し付ける、分断された心の冷ややかな言語操作上の機械的な規則性である。この規則性は時間とともに変動し変調することがない、固定的なものである。
まあ、こうした面倒な話を続けるのも良いが、難しくなるから止めほうが良い。ランボーの詩はただ単に読んで楽しむのがいい。それにしてもこの「ランボー全集」は厚い。持ち運びなどせず、寝床だけで密かに楽しめということだろうか。注釈のない薄い本もぜひ出版して欲しいものである。
以上
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2018年8月10日(金) |
題:ボードレール著 三好達治訳「巴里の憂鬱」を読んで |
この「巴里の憂鬱」は「悪の華」に大いに関係がある。でも、「悪の華」は読んだことがあるけれども、忘れてしまっている。「悪の華」が、宗教や人間への悪魔的な誘惑や誹謗や卑猥さをあからさまに表現していたとしても、散文詩詩のみを楽しもうとする者にはそれほど重要なことではない。そのため、この「巴里の憂鬱」のみを読んだ感想を記したい。ただ、訳者の三好達治の「あとがき」によると、「悪の華」と「巴里の憂鬱」の両方に関連もしくは重複する部分は三十ケ所にも及んでいるとのこと。また、本の作成された年代は知っておきたい。「悪の華」の初版は1857年、そのうち何篇かは風紀紊乱の咎で削除を命じられている。一方、「巴里の憂鬱」は1855年に最初の何篇かが発表されて、その後10余年にわたり死の直前まで発表は続いたらしい。生きているうちに「巴里の憂鬱」としてまとまることはなかったのである。「悪の華」なる詩集と「巴里の憂鬱」なる散文詩は、ある時期並列して記述されて、ある種の補完関係を持っているに違いない。
何と言っても、ボードレールなる詩人の値打ちは近代詩に与えた影響であろう。ランボーやヴェルレーヌやマラルメを始めとして、日本においても多くの詩人が影響を受けている。萩原朔太郎にも影響を与えている。「巴里の憂鬱」では、巴里の風景を描写しながら、過半の作品が主体の感情や倫理観が確たる位置を占めて、小話のような散文詩にも作者の機知や憂鬱に情熱や退廃さが綴られていて、作者は本書の内に揺るぎなく存在して言葉を発して思うままに自らを表現しているのである。思い出すのが「紫式部日記」の出だしの文章である。風景描写の中に自らの心情を忍び込ませた文章とは明らかに異なって、「巴里の憂鬱」では感性を持つ主体が風景から明確に独立して孤立存在している。まあ「紫式部日記」と比較するのは、文学が異なり過ぎてあまり良いとは思われないが・・。もっとも、紫式部は消息文ではあからさまに清少納言や和泉式部を批判し、かつ自らの境遇を悲嘆している、これは「巴里の憂鬱」以上に、紫式部の自己表現の冴えたるものであろう。そういう意味で「巴里の憂鬱」は批判や悲嘆ではなくて、あくまでも客観性を保ったボードレールの憂鬱と美意識と倫理観を表現しているのである。
「巴里の憂鬱」は長年書き続けていたためか、前半と後半では、訳文であるため定かではないが、文章の質が明らかに異なっている。前半では修飾語が多くて文章を色取ってさまざまの風景や心情が混濁していて文章に勢いがある。後半では修飾語を削り落ち着いて小話となって読みやすくなっている。なお、この「巴里の憂鬱」には、詩人としてのボードレールの散文詩への情熱や期待も込めて書かれている。序文としての「アルセーヌ・ウーセイに与う」では『音楽であって拍節も押韻もなく、しかも魂の抒情的抑揚のため、幻想の起伏のため、意識の飛躍のために、適用するに足るべく十分に柔軟にして且つはまた十分に錯雑せる、詩的散文なるものの奇跡を、そもそも我々のうちの何人が、その野心に満ちた日において夢想しなかっただろうか?』と記している。「異人さん」なる小品では、何が好きだと言って祖国や親類兄弟でも美人でも金でもない、雲が好きだと書いている。この素敵滅法界の雲とは言い得て妙である。雲とは散文詩の事であろう、というより詩好きな束縛を受けない発想の自由な魂である。朔太郎が「猫町」などで引用したのも詩の好きな者として当然なことだろう。
関心を引いた作品を何点か紹介したい。「二重の部屋」では幻想と快楽の王座に夢の女王があらわれ安らいでいる。やがて幽霊が入ってくる。諸々の夢の女王は消え去って、惨憺たる記憶が甦ってくる。この陋屋、倦怠の住居、家具、痰によごれた暖炉など廃屋の悪臭を放つ諸々は、私のものであって、時間とともに恐怖や悪夢に憤怒などの呪詛の行列が還ってくるのである。これは二重性を持つ部屋ではない、時間が支配していて生きることを強制する懊悩な部屋なのである。この懊悩し説明し難い恐怖を呼び起こす部屋こそがボードレールの特徴を言い表している。「群衆」では詩について述べている。『眼に触れる偶然の者に、行きずりの未知の者に、詩の憐憫と、魂が残りなく自らの与うるところの、この神聖な淫売、この言語に絶した饗宴に較べるならば、人が恋愛と名づけるものは、実に遥かに小さく、遥かに狭く、遥かにまた弱々しい』と言っている。恋愛とは比較にならない詩への情熱があるけれど、この情熱は自らの生きることとの戦いでもある。戦うべき相手とは誰か、時間がもたらす出来事、この出来事に含まれる邪険さと罪への誘惑があり、現在や未来に犯した罪への償いでもある。魂がこれらを思うままに飲み込んで、自らを思うままに汲み尽くせて他者に供与できることこそが、神聖な詩の精神的な饗宴となるのであろう。
「紐」では少年が縊死したその紐を手に入れたい母を描いている。「情婦の画像」では少年たちが娘について語っている。「源氏物語」の「雨夜の品定め」を思い起こさせるが、簡単な娘の容貌などの評価ではない。恋愛がもたらす恐怖であり、自らを完全無欠さから解放させる娘の死などの話ある。生命の時を塞いでこうした話を続けるためには更に酔いが必要であり新しい酒を運ばせる。「貧民を撲殺しよう」では老人を殴り殺すと、老人の屍が立ち上がって私を微塵に殴りつけてくる。この老人の誇りと生命を回復させ、私の哲学的学理に従うと誓約させる。この哲学原理とは、他人と同等であることが証明できるものが他人と同等であり、自由を征服する者が自由に値することである。最後の「エピローグ」がボードレールの詩情を表している。その一部を引用すると『この心満てり、我れ今山上に立つ。ここよりして能く都の全景を眺め讃うべし。病院、娼家、煉獄、地獄、徒刑場。・・我れは汝を愛す、原罪の首府!・・』
こうして読んでみるとボードレールは悪を愛しながら、むしろ正常な感覚の持ち主である。他者との関係性は残忍さではなくて通常である。悪魔とは比喩である。錯乱などない。彼は幻覚ではなくて現実を見ている。悪とは彼の生きた時代への嫌悪なのだろう。悪とは彼に内在する正統な倫理観である。彼がどのような人生をたどったか知らない。でも、エクリチュールで見る限り、まっとうに熱烈に詩を愛する者である。「巴里の憂鬱」における散文詩は確かに近代の詩の礎ともなる形式を持っているに違いない。それは主体が綴る主体の位置の確かさと心情の確かさにある。ただ、言語は解体されずに修飾されている。過度な修飾は次第に発散しながら、作品を綴るに従って収束してきて普通の散文に近くなる。最後に一つだけ、本書には老婦人が結構出てくる。この老婦人と老人が大きな役割を担って、美しい女と混在していることが、群衆よりもこの「巴里の憂鬱」を魅力的なものにしている。
以上
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2018年8月3日(金) |
題:萩原朔太郎著 清岡卓行編「猫町」を読んで |
萩原朔太郎を代表する散文詩「猫町」を含めて、18作品が掲載されている。詩人朔太郎の詩的能力が散文にも如何なく表わされている。初めて読むのが意外な感がするほど、これら作品にはなじみがある。また、「青描」も読んだかどうか記憶に無くても、猫が朔太郎に及ぼした影響をうかがい知ることができる。編者清岡卓行がこの作品の詳細な紹介と背景、同様な作品として、ブルジャノン・ブラック著「ジョン・サイレンス」の中の一遍として同名作品「猫町」を紹介している。ただ、なぜ犬ではなくて猫なのか。その辺りは論じていない。ただ、朔太郎の詩「Omegaの瞳」における「・・それがお前の、本当の人格であった。/ひとが猫のように見える。/」との詩を紹介している。犬が吠えて、ひとが猫であるのは朔太郎の先験的な感性のようにも思われる。
本作品「猫町」の内容紹介は、感覚的な文章のため実際に読まないと伝わらないであろう、ただ、簡単に述べると、いつしか美しい町に足を踏み入れると、町の街路に充満して、猫の大集団がうようよ歩いている。この幻覚もすぐさま治まったのか、猫のようなものの姿はどこにも影さえ見えなくなる。こう単純して話すこともできる。本書「猫町」は、T、U、Vの三部に分かれていて、それぞれ趣向が異なっている。Tはこの「猫町」や「ウォ―ソン夫人の黒猫」を含めた幾分長めの三作品からなる。「ウォ―ソン夫人の黒猫」は夫人が帰ると部屋の中央の椅子にいつも黒猫が座っている。この黒猫を夫人は撃ち殺す、するとどうなるのか。Uでは、一、二頁程度の短い作品が十三作品ある。Vでは散歩を綴る「秋と漫歩」と、老いた思いを綴る「老年と人性」の随筆みたいな二作品からなる。
この「猫町」という本をどう評価したら良いのか。幻想的、感覚的で優れているけれど、どう切り込めば良いのか。編者の清岡卓行は朔太郎の生きた時代の軍国主義や彼の人生生活と関連させて解き明かしている。ただ、これは当たり得ているかもしれないし、皮相的かもしれない。もっと実在的な何かが潜んでいる、これと絡めて論じなければならないだろう。つまり、朔太郎の人生を知らない人は、作品そのものエクリチュールから解く必要がある。この「猫町」にはすざまじい集中化するエネルギーがある。なにげなく旅を語って町に入ると、穏やかであった町が死屍の臭気に満ちて、気圧が高まり凶兆を示す。そして一点に凝縮して、猫、猫、猫、猫、・・で満ち溢れる。これは三半規管の喪失にかかったのであり、狐に化かされたと思うと、平静さを取り戻す。作者は胡蝶の夢を語り、でも確かに見たと信じている。作者が信じているからには「猫町」はあると信じるしかない。
でも、これでは謎解きにはならない。では、なぜ犬ではなくて猫なのか。この簡単に思われる問題だけを論じたい。このために、朔太郎の詩を少しばかり調べて数編を掲載したい。まず、犬に関する詩として「悲しい月夜」である。
悲しい月夜
ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる。
波止場のくらい石垣で。
いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。
次は「青描」の序文の一部と青描なる詩である。
私の情緒は、激情といふ範疇に屬しない。むしろそれはしづかな靈魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聽く横笛のひびきである。
ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反對する。すべての「官能的なもの」は、決して私の詩のモチーヴでない。それは主音の上にかかる倚音である。もしくは裝飾音である。私は感覺に醉ひ得る人間でない。私の眞に歌はうとする者は別である。それはあの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。それは感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁である。遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。
青猫
この美しい都會を愛するのはよいことだ
この美しい都會の建築を愛するのはよいことだ
すべてのやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この都にきて賑やかな街路を通るのはよいことだ
街路にそうて立つ櫻の竝木
そこにも無數の雀がさへづつてゐるではないか。
ああ このおほきな都會の夜にねむれるものは
ただ一疋の青い猫のかげだ
かなしい人類の歴史を語る猫のかげだ
われの求めてやまざる幸福の青い影だ。
いかならん影をもとめて
みぞれふる日にもわれは東京を戀しと思ひしに
そこの裏町の壁にさむくもたれてゐる
このひとのごとき乞食はなにの夢を夢みて居るのか。
「青描以後」における「猫の死骸」なる詩も紹介したい。
猫の死骸
海綿のような景色のなかで
しつとりと水気にふくらんでいる
どこにも人畜のすがたはみえず
へんにかなしげなる水車が泣いているようす。
そうして朦朧とした柳のかげから
やさしい待ちひびとのすがたがみえるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯体の衣装をひきずり
しずかに心霊のようにさまよっている。
ああ浦 さびしい女!
「あなた いつも遅いのね」
ぼくらは過去も未来もない
そうして現実のものから消えてしまった。・・
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
掲載して初めて、朔太郎の詩にはいくつかの形式があることを知る。また犬と猫の違いが少しばかり見えてくる。「悲しい月夜」では、犬は作者と別物であり、犬に訴えている。でも、犬とは作者に他ならないだろう。「青描の序文」では、私の眞に歌はうとする者は・・・遠い遠い實在への涙ぐましいあこがれである。朔太郎は自らが実在であることを憧れている。実在とは、感覺でない、激情でない、興奮でない、ただ靜かに靈魂の影をながれる雲の郷愁であり、あの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――である。なお、雲とはボードレールの「パリの憂鬱」からの引用だろう。「青描」では、おほきな都會の夜にねむれるものは・・かなしい人類の歴史を語る猫のかげである。「猫の死骸」では泥猫の死骸を埋めてやらなくてはならない。こうしてみると、猫はまったく作者と別物でありながら、死んだら埋めなくてはならない。ある種の象徴なのである。
犬は単なる犬である。けれど、猫は象徴化されている。猫は作者の影を帯びた象徴であり、かなしい人類の歴史を語る一疋の青い猫のかげである。死んだら埋めなければならないこの猫のかげは実在する。実在するとは、あの艶めかしい一つの情緒――春の夜に聽く横笛の音――であり、この音を聞く激情や興奮ではない、感覚そのものを歌はうとする者が実在することである。朔太郎は自らの感覚を信じて実在したい。「猫町」は幻覚であっても、幻覚する者の見た幻覚は実在者の幻覚である。決して虚偽の実在者ではない。幻覚を見た者は実在するのである。「虚無の歌」では、私が生きそして有ることを信じたいと述べている。朔太郎は自らの感覚を、その感覚を有する者が実在することを、更に実在する肉体に意味があることを信じたい。ただ、肉体は性欲を有する。やにくもに襲ってくる。このため意味は空中分解して肉体は粘体物のように崩壊する。死を望んでいるのではない、死と隣り合わせに肉体は溶解して崩れ去り性欲を満たすのである。
朔太郎の散文詩は詩に比べて素直であり客観性に満ちている。でも詩は強烈に感覚的である。主体の感覚された言葉が渦のように巻きこんでくる。有無を言わさず読者を巻き込んで粘質に纏わりついてくる。判断の余裕などなく読者は飲み込まれる。詩とはそういうものであるけれど、特に朔太郎の詩は強烈である。ただ、掲載した詩をみても分かる通りに年代に従って揺らぐ波がある。この波の動きを解き明かすのも面白いに違いない。朔太郎は否定も反抗も破壊もしない。ただ知覚し表現するだけである。でも意味を求める。哲学的な実在の意味でもある。彼の散文には哲学的用語が用いられている。だが哲学は意味を与えない。「虫」なる作品では鉄筋コンクリートの意味を求める。誰も教えてくれず怒っているが、ある時突然虫だと分かる。コンクリートがきんこんと鳴くためであろう。牡蠣の表象が女の体であるように、コンクリートが虫であることは当然なことである。
「群衆の中に居て」では、群衆は孤独者の家郷であるとし、ボードレールと共に歌いたいと記述している。詩「青猫」における都会とはこうした孤独者にとって、しづかな靈魂ののすたるぢやであるのだろう。ボードレールの影響も見受けられる。先に述べた「雲」は「パリの憂鬱」の「異人さん」からの引用である。異人さんは雲だけが好きである。「田舎の時計」では時計は動いていずに永遠な時間がある。先祖の霊魂と共に暮らしていて変化などなにもない。無限に実在している空間だけがあると記している。結論は誠に簡単になって、萩原朔太郎の詩や散文詩は実在の意味を問いかけている。常に存在の根拠を求めているのである。諸感覚とは実在者に付随したものではなくて、朔太郎にとってはまさに諸感覚こそを幻覚こそを実在させている実在者がいるのである。そして猫とは象徴である。猫とは、朔太郎自身であり、都会であり、孤独であり、女であり、魂であり、肉体である。この猫の死骸は現実とは異なったへんてこな景色のなかに埋めなければならない。
こうしてみると、犬に比較して猫は多様に象徴されて使用されているのが分かる。この象徴の一つ一つを調べるのも良いであろう。では朔太郎の実在への意味の問いかけはどうなったのか。ずっと以前に大岡信著による「萩原朔太郎」の感想文に書いているが、「氷島」などでは、虚無と寂寥と漂泊の悲傷を見て取れ、望郷の念が深まっている。これは問いかけの放棄であり、存在の忘却へと繋がっていくのだろう。ただ、そう簡単に片ずけるわけにもいかず、朔太郎の著作物をたくさん読んで解き明かしていかなければならないだろう。本感想文はまだ中途半端な結論の状態にある。
以上
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2018年7月27日(金) |
題:モリエール著 内藤濯訳「人間ぎらい」を読んで |
この種の本はずうっと以前から知っているが、騙されるような気がして読むことなどしななかった。ただ、何の気なしに読んでみたのである。すると、この戯曲の質の高さに驚くと同時に感動する。戯曲は会話からのみ成り立っていて、小説などを読むと、会話の質が作品そのものの質に結びついていることが多い。この戯曲では会話が登場する人間そのもの性格や複雑な心理を浮き彫りにすると同時に、これら人間が入り組んだ関係性を持っていて、悲哀や愛や正義や滑稽さにうちに生きていることが良く分かるのである。17世紀のフランスの作品で、作者モリエールは弁護士の資格を得ながら、劇作家として俳優として活躍したようである。このモリエールの略歴や作品の説明や評価などは訳者解説として記されていて、悲劇を喜劇へと昇華させたと言う訳者の記述はそのまま受け入れることができる。
本書の内容を簡単に説明する。主人公のアルセルトは純粋に正義感に満ちていて、融通など利かない貴族である。この純情な男が未亡人のセリメーヌへの恋の虜になる。セリメーヌはアルセルトへの愛を誓いながらも、他の男たちから言い寄られてご満悦していて男たちを傍に侍らせている。アルセルトの親友フィンラントはこの女への恋を止めるように諭すが、聞き入れることなどない。またセリメーヌの従妹のエリアントはアルセルトに秘やかに恋しているが、表立っての行動などせずに、むしろアルセルトの恋を彼の思いとして認めている。アルセルトの恋敵のオロントはセリメーヌへ愛の詩を捧げる。この詩をアルセルトは質が低いと評価して、法廷闘争にもなる。あることからセリメーヌが多数の男たちに手紙を出していることが分かる。その内容は男を批評する辛辣なものでありかつ褒めている、俗物性を丸出しにしたようなものである。セリメーヌに裏切られてアルセルトはエリアントへ愛を打ち明けるが受け入れられるはずがない。こうして親友のフィンラントがエリアントへ愛の告白をする。するとアルセルトは悪女であってもセリメーヌへの恋を諦めきれないでいる。人里離れて暮らすならばセリメーヌを許する言って誘う。でも断られるのである。人里離れて暮らすアルセルトの計画を、フィンラントはエリアントと一緒になって壊そうとする。
本当に会話文にて人物描写が的確でその性格までも浮き彫りにされている。アルセルトの頑強な純情さと迷走した恋ゆえの心変わり、セリメーヌの悪女らしい行いと言い訳の見事さが際立って良い。セリメーヌの知的で妖艶な美貌までが伝わってくる。また、友人フィンラントの親友への思いやり、エリアントの気高い優しさも良い。そして恋敵のオロントの詩に対する評価ゆえの法廷闘争が物語の筋に芯を与えていて、筋の展開を妥当にかつ優れたものにしている。その他の登場人物も、セリメーヌの友人の美貌を欠いたアルシノエ夫人がセリメーヌと互いに誹謗中傷する言い合いも面白い。だが、何といっても、最後にもはやエリアントへ心を通わせたフィンラントが、アルセルトを救い出そうとするセリフが本戯作を悲劇から喜劇へと転換させている。このため、このセリフは省略するが、まさに正義と恋の虜になった男の悲劇を喜劇として眺められるのである。
この「人間ぎらい」なる戯曲がこうも質のものだとは知らなかった。サミュエル・ベケットやサルトル、阿部公房などの戯曲を何作品か読んでいるはずが、記憶などまったくない。三島由紀夫の「近代能楽集」のみが若干記憶に残っているけれど、多少なりとも筋などに無理があったはずである。それにしても、小説においても会話が重要になるのは言うまでもない。無論、散文詩や叙事詩ではこの限りではない。これらの詩などには会話ではなくて、文章そのものの表現の質が問われているのである。
以上
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2018年7月20日(金) |
題:ラディゲ著 中条省平訳「肉体の悪魔」を読んで |
本書の題名は以前から知っていたけれど、読むことはしなかった。騙される気がしたためである。今回初めて読んでみて、やはり騙されたと思った。それほど内容に深みのある作品ではなかったためである。でも、訳者による解説に、この種のエロティクな作品についての紹介があり、その系譜ともども参考にはなったのである。本書の文章は上手である。なぜこの上手な文章が作品の深みに至らないのかしばらく考えた。著者が若いため青臭い匂いがするだけではない、筋書きがダイナミズムを持たないためでもない、なにかしらの欠陥があるはずなのに、なぜか良く分からなかった。でも結局、会話文のあまりにも正直さと、地の文の心理描写と出来事との絡みが混濁してしまって区別がつかないことにあるではないかと思っている。
内容を紹介したいがあまり把握していないために裏表紙の紹介文を引用したい。『第次一大戦下のフランス。パリの学校に通う15歳の僕は、ある日、19歳の美しい人妻マルトと出会う。二人は年齢の差を超えて愛し合い、マルトの新居でともに過ごすようになる。やがてマルトの妊娠が判明したことから、二人の愛は破滅に向かって進んでいく・・』なお、僕はマルトが産んだ子を自分の子か疑う。出産予定日の2ケ月前に生まれているためである。夫なるジャックの子かもしれない。マルトは目がそっくりと僕の子だと訴えている。でも、その後、弟たちはマルトが死んだと伝えてくるのである。
訳者中条省平の「解説」では、フランス文学の恋愛心理を描いた作品にはファイエット夫人が書いた「クレーヴの奥方」やスタンダールの「赤と黒」があり、一方官能小説にはラクロの「危険な関係」があるとのこと。「破廉恥三人組」とはラクロ、サド、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌであること。コンスタンの簡潔ながら残酷の極みである恋愛小説「アドルフ」があること。本書は「クレーヴの奥方」の二十世紀版であることなどが記されている。訳者はバタイユの「マダム・エドワルゼ」やコクトーの「恐るべき子供たち」も訳しているとのこと。両方とも読んでいるが、それなりに読めて良い作品であったことは記憶している。また、三島由紀夫がとても本作品を褒め称えていたことなども記されている。
三島由紀夫が褒めていたとは意外な感もする。本書で訳者も指摘しているが、主人公がマルトの友達をマルトの留守中に酒を飲ませて犯そうとする場面の、行為を遂行しようとする主人公の心の無感動さ、硬い心であることは確かな恐ろしさがある。現実にも、年に一二度はこうした無機質な心ゆえの殺傷事件が起こっている。性的暴行については数知れず起こっているに違いない。この無機質に無感動な心が三島由紀夫を刺激して褒め称えさせたのかもしれない。例えば、「午後の曳航」には確か鶏を無感動に解剖する場面があったはずで、三島由紀夫にはこうした残虐な行為に心が伴うことを嫌っている、そもそも彼の文章は心を剥奪して伴わせないことを基本にしているはずである。ただ、「潮騒」なども純な青春小説もあるが、基本は心を隠すか装飾して表現する文章なのである。もう忘れたが「潮騒」だって、そう心を純に露わに表現などしていないはずで、登場人物たちの記述された行動だけが純粋なのかもしれない。
そういう観点からすると本書の会話の一例をあげるが、こうした直接的な思いを述べるほど馬鹿げた会話はない。『あなたが現れる前は、わたしは幸せったわ。婚約した人を愛していると思っていたのだから。彼がわたしのことをあまり理解してくれなくとも許せたわ。わたしが彼を愛していないと分かったのは、あなたのせいよ。わたしの義務は、あなたが考えるようなものじゃない。夫に嘘をつかないのではなくて、あなたに嘘をつかないことなの。帰って、そして、わたしを悪い女だと思わないで。・・・』なお、本書における父母兄弟の役割は重要である。優しく理解のある父に対して小うるさい母。父母との関係は普通逆であるはずなのに、なぜこうなのか。こうあるからこそ、本書は気味が悪いのである。少年からの脱皮における母の愛情の不足と父の愛情の豊かさこそが主人公を無感動に無機質にしているのかもしれない。ツルゲーネフの「初恋」における父への尊敬の念とも異なっている、この謎を解くには、良くは分からないが心理学に頼らなければならないのかもしれない。
以上
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2018年7月13日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ著 加賀野秀一訳「哲学の教科書 ドゥルーズ初期」を読んで |
本書は若き日のドゥルーズの著作物である。「キリスト教からブルジョワジーへ」と「本能と制度」である。ドゥルーズがどういう著作物へ関心を寄せていたか、これらを通じてドゥルーズの思想の源を知ることができる。「キリスト教からブルジョワジーへ」はドゥルーズ自身の論文である。詳しくは述べないが、世界の中における内的生活が、他人たちの顔なる外部を通じて擦過すること、つまり精神と自然と国家を論じながら、キリスト教とブルジョワジーが結びついていることを記述している。「本能と制度」とは高校教師であったドゥルーズがベルグソンやマルクスなど六十六編のそれぞれ一頁あまりの短文を集めたものである。高校での教科書として使用したに違いない。本能とは欲望であり、それが制度とどのように絡んでくるかを生徒と論じようと編纂したに違いないテクストである。
訳者加賀野秀一が最初に「はじめに−ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」として本書とドゥルーズ思想とを絡ませて論じている。また、訳者は「キリスト教からブルジョワジーへ」と「本能と制度」でも序文を書いて内容を紹介している。訳者加賀野秀一はドゥルーズとはあまり個人的には関係がなかったようである。「はじめに−ドゥルーズの出発点 若きドゥルーズへの遡行」を読んで、久し振りにドゥルーズに関する著作物を読むせいか、ドゥルーズの思想を忘れたというよりをあまり理解していないことに気付いて驚いたものである。やはり集中して読み、あるテーマに絞り論述するのが一番理解するうえで役に立つと思われる。この訳者の記述で一番関心を引いたのが「内在面」である。「潜在的なもの」と「可能的なもの」がサルトルからの影響があったことを初めて知る。
「内在面」とは、確か「千のプラトー」の語彙説明で書かれていたが「器官なき体」であり、可能性や多様性とも結びついていたはずであるが、結構やっかいな概念であり、詳細は調べてみないと分からない。訳者の述べる『概念は出来事であるが、内在面はそれら出来事の地平である』との言い方が的を射ているかどうもすぐには判断を下せない。『・・可能的なものは実在的なものに対立し、したがってそのプロセスは実在化=実現であるのに反して、潜在的なものは実在的なものには対立せずに、そのプロセスは現実化であるあるからだ』であるのはそのように思われる。サルトルからの影響であるらしいけれど、初めて知るような、知っていたような気もするが、今更調べる気も必要もないと思われる。
ここで「本能と制度」におけるドゥルーズ自身の序文を引用したい。『本能と呼ばれるもの、制度と呼ばれるもの、これらは本質的には、満足を得るための異なった手段を示している』である。「誰の満足」と問うて批判は可能であるけれども、その他の批判も可能であるけれども、言い得ていて妙である。この文章はドゥルーズの思考と表現の原点が示されている。なお、体制と力の関係に関する私の解釈を述べたい。体制が一極を集中する力をすさまじくさせると構成する要素のそれぞれや体制そのものに歪みが生じて分散化させて反作用する力を生み出させる。この作用反作用の力が社会学的にも成り立つことを指し示すことができるのである。
ドゥルーズの著作物は、ほぼ読み終えているため、主要著作物を読み返せば、また新たに発刊された「ドウルーズコレクション」なる文庫本も合わせて読んでみると、ドゥルーズの思想の全体が見えてくるかもしれない。なお、「本能と制度」における六十六編の引用短文は少ししか読んでいない。マルクスがこのような文章を書いていたとは驚きでもある。少しずつ読み進めれば、新たに読みたい魅力ある著者を見出すことができるかもしれない。
以上
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2018年7月6日(金) |
題:マルクス・ガブリエル著 清水一浩訳「なぜ世界は存在しないのか」を読んで |
初めは真面目に読んでいて少なくとも論旨は明確であり、何かしらの新しさがあると思っていたけれども、読み進めているうちに新しさなどなくて、ただ単にそれまでの哲学的概念を拾い集めて、言い直しただけの付け焼き刃的な思想とも思われ読むのを止めてしまった、もしくは少しばかり拾い読みしただけである。世界が存在するかどうかなどどうでも良いことであって、私たちが生きているそのことこそが問題になるのである。その生きる場を世界と呼び、それがあるかないかなど不必要なことである。なぜなら、主観が捕える世界はどう言おうとも必ずあるのであり、主観と客観の立つ位置と役割をどう捕えるかの古くからある問題なのである。これを新しい概念として捕えるのは簡単にはいかない。いくはずがないのである。まるで新しく生み出した概念のように世界が無いと主張する、この本を購入して損をしたそんな気がして仕方がない。言葉の言い換えにしか過ぎない虚偽の言表なのである。ここでは著者の論旨を簡単に紹介して、若干の批判すべき点を記述する。
著者の主張では、世界とは起こり得る事象のすべてを包括した全体であり決して現れることはない。なぜなら、我々はつぎはぎされた小さな世界に住んでいるためである。宇宙そのものも全体の一部分しかない。世界とは物や事実の総体ではなくて、存在するすべての領域が現れてくる領域なのである。そして存在するとは意味の場に現れ出ることである。なぜ世界は存在しないのか、無限に数多くの意味の場があるけれど、この意味の場に起こり得る事象のすべてを包括した世界そのものが現象として現れ出ることなど不可能のためである。こうして著者は例として魔女を取り上げて、魔女は地球上の意味の場に現れ出ていないために存在していないと主張する。こうして、著者は自然科学の世界像や宗教や芸術の意味などについて論じているが残念ながら殆ど読んでいない。
なお、著者は一元論(スピノザ)の超対象や二元論(デカルト)の心身を否定して、多元論(ライプニッツ)のモナドに賛同する立場と自らを説明している。こうしてみると、著者の立場はある種経験と事実を重んじる、多元論者かつ唯物論者であるとも思われる。こうした著者の思想に対する批判を幾点か記述したい。無論、著者自身が答えを導き出しているのもあるが、後半を読んでいないために、誤解も含まれているかもしれない。また本書は話しかけるような易しい文章で書いているために、著者の本来の思想を捕え損なっているかもしれない。でも、本書が舌足らずで説明不足であることは確かなのである。
1. 意味の場は対象の配置や秩序があって規定される、かつ数多くある場であると著者は主張するが、神の持つ属性やハーバマスの断片なる思想と同様の思想と思われる。この意味の場は隔離断絶しているのではなくて、それぞれに浸透し連関することのできる場でもあるはずである。即ち、蝶の羽ばたきなるカオス理論を著者は否定しているが、蝶の羽ばたきはどの場にも浸透し影響を与えて台風になることもできる。それぞれに対象の配置や秩序を持つ独立した意味の場に、存在者は二つ以上に別に存在できるのではなくて、同時に存在できるのである。
2. こうした著者の思想はデジタル的である。意味の場なる領域はデジタル的に区分されて隔絶しているのではない。先の述べたようにこの場は浸透し関連しているのである。例えば、オートポイエーシスの細胞は隔絶しながら、光を受容するなど外部からの影響も受けることができる。従って、この場の理論はアナログ的でなければならない。著者はゲーテの色彩理論を取り上げているが、この色彩とは光の波長に従ってアナログ的に遷移するものである。パソコンのように五千万色に区分されるものではなくて、アナログ的に遷移して数知れず存在するものである。
3. 意味の場の意味が良く分からない。用語集では、意味とは対象が現象する仕方のこと、との説明がある。また、存在することとは何らかの意味の場のなかに現れること、との説明がある。即ち著者は予め意味なるもの、もしくはこの意味なるものを持つ場があると暗黙の内に認めてしまっている。たぶん人間が生まれ出た時にある種の歴史を含む環境の中に既に存在していると言いたいのかもしれないが、意味とは生まれ出た者がまた獲得していくものである。著者の思想は静的であり、むしろ動的に存在を捕えなければならない。存在とはダイナミズムに満ちたものである。極端に言えば存在とは無の場に現れ出て意味を獲得して行く者である。この辺りの説明をもっとして欲しい。特に意味についての説明が必要である。また、現れるとは何か。現れ出た者の存在論的意味を詳しく論じなければならないだろう。
4. 魔女は意味の場に現れ出ないために存在しないと著者は言い切っているが、魔女はむしろ我々にとって存在する者である。著者の説明には言語論と主体なるものの意識の説明があまりなされていない。即ち、著者は経験科学の場に重点を置きすぎていて、意識が織り成すまた言語が表現する像の虚偽なる論理性を無視しすぎている。無論、これらを含めて存在論を論じるには大変な労力を必要とする。でも、包含してなさなければならない。即ち、著者の説明は表層しすぎて不必要なものを切り捨てている。先に述べたように意味や現れ出ることなどの重要事項を十分に説明しなければならない。丸い四角と言う表現が正しいか、著者は即座に否定するだろうが、この根拠を言語論と意識から明確に説明しなければならない。
5. 一番の問題は「包括した全体である世界は存在しない」ということだろう。これは断片化した世界の裏返しの表現であり、むしろ存在しないことを強調するあまりに、著者の主張を希薄化させて、主張の真実性に疑問を抱かせる結果になっている。我々は包括した全体があることを知っている。「包括した全体である世界は存在する」のである。例えば、不可算無限や加算無限の全体がどうなっているかなど分かりはしない。ただ、全体は確かにある。存在するすべての領域が現れてくる領域が世界とするなら、こうした世界も確かにあると言い切ることができる。言語の言い回しではない、モナドとは世界全体の状態の影響を受けて、それぞれのモナドが対応し表すことのできるものであり、世界がなければ成り立たないものである。
6. 更に付け加えるならば、意味の場があるなら非意味の場もある。世界を包含関係の図で表すならば、意味の場に世界は現れることはできない。なぜなら意味の場と非意味の場を包含して成り立たせているのがこの世界なのである。存在が意味の場に現れ出るとは、むしろ意味を獲得するためであろう。これらの場に境界は無くて密に結びついていて、ただ、意味の密度が異なっているだけである。すると存在とは意味を獲得すべきものであることも、きちんと説明できる。まさにダイナミズムに存在の諸形式を表現できるけれど、何度も言うように意味なる意味を措定しなければならない。それによって存在の存在形式ばかりではなくて、存在の表現も内容も行動も表現可能となるはずである。
哲学の面白さは論理の明晰性を持って謎を解いて感銘を与えることになる。また、ある種の哲学書は詩的な言語で書かれている美しいものである。そのどちらとも本書を読んで得られなかったのは残念である。ただ、今後、真に「新しい実在論」を記述することを期待したい。
以上
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2018年6月29日(金) |
題:ポーリーヌ・レアージュ著 澁澤龍彦訳「O嬢の物語」を読んで |
本書は以前読んだはずであるが、まったく記憶にない。読んでいくと質の高いエロ小説かと思い退屈であり、飛び飛びに読んでいたが、最後に第二の結末があるとの記述があると知り、本小説の恐ろしさに気付いた。未刊の小説とも言え、もし本小説が完璧に完全に記述されていたら、本当に稀有な世紀的な作品になったと言えよう。第二の結末とはステファン卿に捨てられたO嬢は死ぬことを選び、ステファン卿もこれに同意するのである。なお、作者なるポーリーヌ・レアージュは女性の匿名作家であり、序文に「奴隷状態の幸福」を記したジャン・ポーランが本書の訂正に拘わっていたらしい。
簡単に不確かながら、あらすじを紹介する。恋人ルネにロワッシー館に連れられたO嬢は、ルネを含めてどの男たちにも奴隷的に奉仕するように調教される。皮の首輪ときついコルセットと囚人の腕輪をして、奴隷として男たちに奉仕してかつ思いのままにされ、罰として鞭打たれる。ロワッシー館にはこのように調教される女たちがいる。O嬢は奴隷として奉仕しながらも、ルネに対する愛情を失ってはいない。世のどの男たちにも仕える女としての証の指輪を手にはめて、O嬢はロワッシー館を出る。その後O嬢はルネに紹介されたステファン卿に乞われてルネからステファン卿の所有物となる。O嬢は写真広告社のモード部門で働いており、モデルのジャクリーヌをロワッシー館に誘うことを要求されている。またO嬢は、アンリ・マリーに尻に烙印を押され性器に鉄輪を嵌めさせられ、完全にステファン卿の奴隷となる。そしてO嬢は夜の舞踏会にふくろうの仮面をつけ、鎖に引き付けられて登場する。石か蝋でできた人形か別次元の存在と思われて、誰も言葉をかけても無駄か言葉をかける勇気がない。翌朝誰もがいなくなると、ステファン卿と司令官がかわるがわるO嬢を犯すのである。これが最後の場面であり、文章である。そして、その後にO嬢のステファン卿に捨てられる、第二の結末があるとの短い文章がある。
この「O嬢の物語」の文章の特徴は緻密さである。心理的にも性的奴隷としての奉仕の描写も共に繊細にかつ緻密に綴られている。ただ、O嬢にまだ心理があることが驚きでありながら、その心理描写はまだルネを愛しているなどの一般女性の心理から逸脱することはない。性的奴隷が受けるお仕置き行為も奉仕する行為も、脚や肘に尻の位置などが複雑で読んでいても良く分からない。こうしてみるとO嬢は人間の普通の女性としての特徴を持ち振る舞っていると言えるが、その心理や行為の緻密な描写は逆に退屈な文章ともなって、読むに耐えなくなる。サドの硬直的な文章と対極に居ながら両者ともに冗長な文章と言えるであろう。ただ、サドの思想を語るなどの文章は凄惨な場面の前戯的役割を果たしている。また人間をモノとして扱うサディズム的な行為を記述する簡単明瞭な文章は、まさしくサディズムの正統性を指し示していると言える。一方、「O嬢の物語」の文章はまだ人間としての感情と繊細な感覚を持ち合わせていて、O嬢はモノではなくて人間である。奴隷状態に陥りながらも人間としての心理を持ち、感性を自らに従えているのである。
無論、マゾッホの「毛皮を着たヴィーナス」のように、O嬢は錯乱に陥ることはない。「毛皮を着たヴィーナス」作品は、読みやすい文章で作品的にも混濁する女性の意識が明確に表現されている良い作品である。男主人公の理想とする「超官能的」を実現するために女性を育て、そのように女性は育ち鞭をしならせるが、それが育てられた結果であるのか、女性がそうした天分を持っていて、男主人公によるきっかけにより目覚めたのかよく分からない。最後の女主人公の手紙によると、不健康な男主人公の治癒するために女主人公はこの鞭打つ役を演じていたのであり、もっと強い男に憧れておりこうした男を見出してこの男に仕え去って行くのである。本書の著者の教訓は明確である。『女は男の奴隷になるか暴君になるのかいずれであって、・・女が男の同行者になるとすれば、女が権利において男と同等になり、教養も労働も男に匹敵するとき』なのである。つまり、「毛皮を着たヴィーナス」ではまだ権利において男と同等であり、女性はモノではなくて明らかに人間の女性として取り扱われている。つまり、「O嬢の物語」はサド文学とマゾッホの文学のちょうど中間に位置している。
「家畜人ヤプー」もモノ化もしくは奴隷化していく過程を示しているが、この過程を描いている前半は恐ろしいけれど、後半はそれほど恐ろしくない。文章は科学的にかつ文学的に克明に描いているが、描けば描くほどモノ化に慣れて来る。一方「O嬢の物語」はモノ化して過程が深化する、その過程が恐ろしくもある。恋人の恋人でありながら、奉仕する人間としての指輪をはめ、焼印を押され、鉄輪を嵌められる。そして仮面だけで舞踏会に登場する。でも隷属化していても感情を持ち、意志にて自らの処遇を決めることができるのである。「家畜人ヤプー」のリンが隷属化に慣れて自らの意志を失っていくのに対して、O嬢は自らの身の処置を自らで下すことができるのである。
この奴隷化した女がまだ意志を持ち、ステファン卿に捨てられて死ぬことを選ぶという、この書かれなかった結末はとても恐ろしい。もはやモノであるものが心理を持ち自らの処置に決断できるとは、今までの書物には書かれていなかったことである。サド文学では通常の心理は一切省かれている。O譲の死の選択は自らを実現するために未来に向けて投企する「実存主義」の裏返しとも言える。即ち、本「O嬢の物語」は意図していなくても「実存主義」の批判の書にもなっている。感想文を長く書いているために簡単にこの本書に秘められている批判の内容を思いつくまま説明したい。
サルトルの述べる対自存在とは、未来に向けて自らのあろうとするものになろうとすることである。脱自によって己を超越することなのであろう。即ち、対他存在として他者のまなざしにモノになると苛まれながらも、未来において自らの成ろうとするものになるために存在は実存として投企する。自らの成ろうとするものとは何か。自らの実存が本質を獲得することである。ところが他者の存在によって、即自化されている奴隷状態の自己が対自存在として投企できるかどうかが、まず一つ目の疑問である。きっとO嬢はまだ対自存在としてあるのだろう。では対自存在として未来に向けて投企はずの実存が本質として死を選ぶことを、実存の投企と言えるのだろうか。自らの成ろうとすることが死なる即自的な存在であるモノであるというのはおかしくはないだろうか。これが第二の疑問である。投企とは肯定的な本質を獲得するいうことであると思っていた。だが、実存は本質に先立つのではなくて、もはやモノとしての存在する実存がある。これは人間の本質が逆に実存に先立っていて、人間は本質を既に獲得しているのである。即ち、人間存在が実存として可能性に満ちたものではなくて、即自なモノとして充足している。こうした即自物が自由意志で自らを死なせるという投企を行い得ることがものすごい皮肉である。
こうした疑問を本書が問うているかは定かではない。無論、こうした疑問は私が勝手に生み出したものである。「O嬢の物語」は1954年に発刊されている。サルトルの「存在と無」は1943年に刊行されている。いずれにせよ、「O嬢の物語」の方が後に発刊されているが、決して「実存哲学」の批判の書ではないだろう。結果的に「O嬢の物語」の記述内容が「実存主義」の批判になっているとの思い込みだけがある。それにしても奴隷が、死を選択するとは、人間的に自らの最後の処置を決断できるとは、実存的な投企を超越した反超越とも言える投企のあることが、本書を傑作、もしくは傑作となることができるとの評価を与えるに以外ない。良い本なのである。ちなみに女性なる覆面作家は、女にもてるジャン・ポーランを振り向かせるために本書を書いたとのこと。この事の真実性、また真実であるならこの切ない愛の思いの結果については知らない。
以上
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2018年6月22日(金) |
題:エーリッヒ・フロム著 渡会圭子訳「悪について」を読んで |
ジョルジュ・バタイユ著「文学と悪」では、簡単に述べるとエロシチズムが奥深いものとして死の介入に起因するものが悪であると指摘している。こうしたバタイユの論調は他の著作物も含めて、なかなか興味深いものがあり好きでもある。根源的な死と生との境界として捕らえるエロシチズムはまた暴力や禁忌とも結びついている点はとても納得できる。ただ、どこか哲学的には薄い感じがしないこともないし、文章も単調さがみられる。存在論的な広がりがないためであろう。存在論的にはリュック・ナンシーが、もう殆ど忘れたが、人間の存在は悪を根源とするとした著作物を記述していたと記憶している。ただ、忘れているためにまた調べなければならないが。
そういう意味で言えば、エーリッヒ・フロム著「悪について」は精神学的かつ哲学的に記述した内容の深いものである。ただ、その分析的な手法とその内容の深さは評価できても、バタイユのように悪に偏執していずに正当に論じているため、巫女的な神がかった宗教性が失われている。と言っても、本書の価値を失わせ貶めるものではない。逆に、正当に客観的に論じているために、公平な判断を読者に委ねているとも思われる。無論、フロムも人間の内に潜む悪を認めている。フロムはこの悪を「衰退のシンドローム」として、対極にある「成長のシンドローム」を説くのである。そして、フロムは人間ばかりではない道徳律に縛られない国家が悪を導く可能性についても論じている。
何度も言うが、フロムは人間の内部に破壊的な力がることを軽視できなとして、その内在的な力を認めている。彼はこうして、第一章「人間――狼か羊か」、第二章「さまざまな形態の暴力」、第三章「死を愛すること 生を愛すること」、第四章「個人と社会のナルシズム」、第五章「近親相姦的な結びつき」、第六章「自由、決定論、二者択一」の六章から悪について論じている。暴力については「遊びの暴力」、欲求不満や羨望と嫉妬から生まれる「反動的暴力」、目には目をに従った「復讐の暴力」、無力者にとって生産的行為の代用である「補償的暴力」について論じている。『人間が破壊的でサディスティックな暴力の潜在性を持つのは、人間が人間であってモノではないからであり、生を創造できなければそれを破壊する必要があるからである』と述べているのはとても関心がある。真実に違いない。諸々の人間が生を創造しているからこそ、他者にとって人間は破壊するモノとなると言えるのだろう。原初の残虐性(血の渇望)の暴力を指摘して、生の確認と超越と述べている点は、バタイユの思想と直結している。
フロムは生に逆行して精神的な疾患を成す本質的な悪として、「ネクロフィリア(バイオフィリアの対語)」、「ナルシシズム」、「母親への共生的固着」を取り上げている。ネクロフィリアはいわゆる屍姦、この(女性)の死体を性交のために所有したいということである。このネクロフィリア的な人間の力に関する特徴は、人を死体に変容させる能力であり、性が生命を生み出すことができると同じようにして、この力は生を破壊できるである。生が恐れているのは生の本質的な無秩序であるとの記述はとても納得できる。フロムはC・G・ユングやヒトラーなどについてネクロフィリアと論じている。一方、スピノザをバイオフィリアとして称賛している。
フロムはフロイトの学説を有益なものと述べているが、そのうちの一つがナルシシズムである。ナルシシズムは自己愛であり、性欲や生存欲と同じくらいに激しい。新生児のまだ現れていない現実と精神障害者の現実がなくなった場合のナルシシズムを説明しながら、強大な権力を握った者の正常と異常の境界にある特殊なナルシシズムを、ヒトラーやスターリンなどに見ることができると述べている。彼らはナルシシズムを常に高めなければならない。そのために数多くの人を殺して、数多くの女と寝るのである。更に集団的なナルシシズムについて述べるが、集団的なナルシシズムの病理は個人的なナルシシズムと同じく客観性と合理的判断の欠如である。ナルシシズムを克服するには、科学とヒューマニズムが大切とフロムは述べている。
次に「近親相姦的な結びつき」について述べるが、フロイトは近親相姦が母への愛情が発達の初期段階にある男女どちらにも共通していて、前ヘラス文化の母権性の特徴に近いとしか述べていないとフロムは言う。フロムの主張を結論から述べると性的衝動は母親への固執の原因ではなくその結果であるとする。母との近親相姦的結びつきは、母の愛と保護を切望することが多いが、母への恐れの表れでもある。特に女の子の性的な愛着は父親に向けられる一方で、「母親への共生的固着」として母親に向けられる。普通、すぐそばにいつも母親のように世話を焼き、ほとんど何の要求もせずに待機している存在、無条件に頼れる人を必要とする。ただ、母たる存在は生を与えるものであると同時に生を破壊するもの、愛する者であり恐れられる者である。もっと深いレベルの母親への固着は、近親相姦的共生である。共生とは母親との胎児の関係であり、二人精神病である。この母親へ愛を求める願望と破壊性の恐怖とも、フロイトの性的な結びつきよりもはるかに強いとフロムは主張するのである
近親相姦的共生とナルシシズムは、ネットフィリアに結びつけられる。子宮や過去に戻りたいという願望は、同時に死と破壊の願望である。このフロムの生と死と破壊の主張はジョルジュ・バタイユのエロシチズムの思想よりも、精神病理学的であり説得力があり、思想としては的確に捕らえている。これら三つが混じり合うと「衰退のシンドローム」と呼ぶものになるのである。ここで著者はヒトラーの日記などを取り上げ、この顕著な例を説明する。こうしてフロムは「自由、決定論、二者択一」について論じる。意志の自由という観点から人間の本質を追求する。即ち、意志の自由という観点から、決定論者は意志の自由はないとし、逆に非決定論者は自由があるとする。自由とは必然として行動するのではなく、二者択一とその結果の自覚に基づいて行動できることと定義することができるとする。フロムはスピノザ、マルクス、フロイトなる決定論者と言われる者たちが、変化と変革をめざす人々だったことを忘れてはいけないと述べる。特にフロムのスピノザ礼賛は、スピノザの善なる思想が「成長のシンドローム」への根幹をなす思想であるために違いない。
フロムが「成長のシンドローム」への必要性を説くのは重要である。ただそれ以上に重要なのは『悪は人間的な領域を超えて、非人間的な領域へ移ろうとする試みだが、それは実に人間的なのだ』として、『悪は人間的であり、退行と人間性の喪失を起こす可能性があるかたこそ、私たちの誰の内部にも存在する』と認めていることこそが、より重要なのである。フロムの悪に関する鋭い分析には感嘆する。ジョルジュ・バタイユも負けそうである。フロムは共同体以上に国家の悪について論じているのが良い。ただ、心理学的な記述であり、当然ながら、宗教的な神秘性は持ち合わせていない。
以上
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2018年6月15日(金) |
題:廣松渉著 「世界の共同主観的存在構造」を読んで |
初めて読む著者の著書である。どうも、その後の思想の礎となる初期の基礎的な論文集を集めた本であるらしい。でも、結構まとまりがあって人間存在の共同主観的な思想が息吹いている。レーヴィットが記述した「共同存在の現象学」の「君」と「わたし」よりより確かに、共同主観的な人間の存在構造を捕らえている。ただ、外国語の単語がそのままspellingされことが多くて厄介である。基礎的な思想を捕らえ損なうと後を読んでも良く分からなくなる、そうした欠点があっても、著者の思想は確実に植えられた芽を花咲かせようと歩んでいる。主体と客体(主観と客観)の思想が時の流れと共に、他者との関係性に結びついて、他者や歴史に繋がろうとしていると述べている時、少しずつ哲学的な思想も変遷していると実感することができる。存在の構造とはこうした視点の転換によってもしくは新たな思想によって変貌していくのであろう。無論科学的な進歩が人間を取り巻く環境を変えて世界は変わり得て、人間そのものの存在の構造も変わり得る。環境の変化は哲学を変え得る、既に変え得ている。更に未来における人間の改良と生産を思考する時、哲学に圧倒的なコペルニクス的な転換を迫るに違いない。この時に哲学は存在し得るのだろうか。存在するという以上に、思考するのは人間ではなくて機械であるのかもしれない。いずれにせよ人間なる基盤が揺らぐと良く分からなくなる。倫理学の観点からはこのシンギュラリティのために思考を開始していなければならない。きっと無駄にはならないはずである。
少し横道に逸れてくだくだ述べたが、簡単に本書の内容を紹介したい。本書には可能性が秘められている。それはこの論理的な思いの丈が記述を繰り広げていくと、この世界が躍動する可能性でもある。本書は、TとUに大きく分かれていて、Tでは序章として「哲学の逼塞状況と認識論の課題」、第一章として「現象的世界の四肢的存在構造」、第二章として「言語的世界の事象的存在構造」、第三章として「歴史的世界の協働的存在構造」が記述されている。Uでは「共同主観性の存在論的基礎」、「判断の認識論的基礎構造」、「デユルケーム倫理学説の批判的継承」が記述されている。そしてそれぞれに著者の注釈や解説がついていて精読すればより詳しく知ることができる。
著者の思想は古代ギシシャなどの世界観かから始まる。近代に至ってこの近代的世界観が解体期に逢着している。認識論的に言うことの詳細は省くが、近代的「主観―客観」そのものの超克が必要なのである。著者はこれを「人間の意識が本源的に社会化され共同主観化されている」問題として捕らえ、解を求めていくのである。認識論的省察が開始された最初に遡り現象学的な認識に基づく存在構造の確認から著者は始めている。なお、著者はゲシュタルト心理学を支えとするが、メルロポンティはこの心理学を批判していたはずである。この詳細はそれぞれの著書を精読しないと分からない。間違いを恐れず著者の主張を簡単に紹介したい。著者の主張によると、『フェノメノン(現象)は即自的に、その都度すでに、単なる感性的所与以上のあるものとして現れる』のである。即ち『意識は必ず或るものを或るものとして意識するという構造をもっている。すなわち、所与をなまのまま受け取るのではない。所与を単なる所与以外の或るものとして、所与以上の或るものとして意識する』のである。例えば記号の例を取り上げているが、記号とはインクの染みや単なる音だと受け取らずに、記号が表す或るものを意識する。なお、この意識構造を著者は二肢的な構造と捕らえている。こうして著者は論を進めて、意識の志向性の命題なる「意識は何か或るものについての意識である」という考え方を超克して、『意識とは、何かしら或るものを所与以上のあるものとして措定する、何かしら或るものの所与以外の或るものとしての措定である』との結論に至っている。
この現象は必ず誰かに対してあるだけではない、任意の他者に対してもある。同時に、この現象は主体の側に「誰かとしての誰」という二重化的構造を持たせる。例えば、私的な例をあげると、サッカー選手たちは試合という現象を共同に持ちながら、その試合中に他の選手の動きの意識を構造として持っている。もっと歴史的な意味合いを込めれば、これを著者は伝達によって成されると述べている。例えば成人になる儀式を考えるが良い。「誰かとしての誰」として成人の意識は文化的に伝達されて成されている。著者は子供の例を取り上げ『子供は人々が或るものとして捕らえるその仕方をわがものとし、人々と同化していく。こうして或るものとして捕らえる仕方、いうなれば意識作用の発現する仕方が共同主観化されるわけである』と述べる。こうして著者は現象世界の客体的な一面、即ち、所与及び所与以上の或るものと、主体的な一面、即ち、私としての意識と誰かとして意識を持つ主体の自己分裂的自己統一とを、四肢的構造として捕らえる。この四肢的構造こそが重要な概念である。これらの構造が密接に関係しているとして、著者はその後の哲学的論を展開していくのである。
なお、なお、この最初の四肢的構造を論じているのが第一章の「現象的世界の四肢的存在構造」である。第二章として「言語的世界の事象的存在構造」、第三章として「歴史的世界の協働的存在構造」は表題の示すように、言語と集団におけるが協働に関して論じられている。Uの「共同主観性の存在論的基礎」は著者の基礎的な考え方を示すものである。「判断の認識論的基礎構造」、「デユルケーム倫理学説の批判的継承」はそんなに面白くはなかった。いずれにせよ、第一章の「現象的世界の四肢的存在構造」を理解できていればこれらは容易に読むことができる。機会があれば、著者の野性味溢れる素の論文ではなくて、外国語のスペルのでてこないきちんとした論文を読んでもみたい。何と言っても本書は初期の論文集を集めたものなのである。でも、良い本である。
以上
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2018年6月8日(金) |
題:ジョルジュ・バタイユ著 山本功訳「文学と悪」を読んで |
「文学と悪」について、8人の作家について論じたものである。エミリ・ブロンテでは、最初に登場する作家としてバタイユの悪の考え方そのものも論じている。ボードレールとジュネについては、彼らについてサルトルが論じた作品を引用し批判を加えながら、バタイユ独自の論を展開している。これらの章については精読しなければ良く分からなくなる。そもそもバタイユの文章には時々分からない記述がある。ミシュレ、ウィリアム・ブレイク、サド、プルースト、カフカについては作家についての普通の感想書きのようなものであるけれど、鋭い指摘も含まれている。
この「文学と悪」以前にバタイユが記述した「宗教の理論」と「エロシチズム」については読んでおく方が無論良い。けれども、本書「文学と悪」は哲学・宗教的な内容には深入りせず、あっさり記述しており、本書だけで理解可能である。ただ、バタイユの思想を知っていると理解が深まる箇所はある。ジュネに関する記述では、「宗教の理論」と「エロシチズム」では書かれていなかったバタイユの思想の核心が描かれていると思っている。これらの作家についてバタイユが論じている内容を簡単に紹介したい。なお、前書きでバタイユは文学の表現するものは悪―悪の極限の形態―であるが、その悪こそ至高の価値を持つものであり、むしろ道徳の不在ではなくて、「超道徳」を要求するものだと述べている。「文学と悪」という表題のため、時々文学論がでてくるのも当然としても、この文学論は結構面白い。
1. エミリ・ブロンテ
エロシチズムが奥深いものとして現れる死の介入こそが、バタイユの述べる悪を誘引させるものなのである。「嵐が丘」の主人公たちは、肉欲を度外視して記述されているが、この悪を完璧に表した作品とバタイユは述べている。文学とは掟への背反のたわむれでもある。文学とは道徳律への背反として危険なものなのである。エミリ・ブロンデには社会にどんなに和合して協調しても弱まることのない聖なる暴力への夢想があったと述べている。即ち「嵐が丘」は少年時の王国である不可能と死を(バタイユはこのように言っている、きっと子供時代の社会の外にある基礎的な生の条件の至高性を示していると思われる。社会的な大人たちの理性的な因襲に従うと失われるものなのだろう)、この失われた王国をふたたび見つけ出そうとする呪われた者の反抗の物語なのである。
2. ボードレール
詩が主体と客体との、人間と世界の融合を成さしめることができないのに試みる、この悲劇を存在と実存とを結合させようとする気違いじみた欲望であるとサルトルは述べているとバタイユは言い、反論する。詩こそが人間が諸事物の反映だけに還元されている宿命性からの脱却する可能性を持っている。詩は諸事物と意識との一体化を望むという点で不可能を望むものであるが、諸事物の反映だけに還元されてしまわない唯一の方法とは、この不可能性をのぞむことにこそあるのである。こうしてバタイユはボードレールがこの不可能性を欲していたと述べている。この章とジュネの章がサルトルの論文の批判という形式で表現されて、さっと読んだだけでは理解がやや困難である。
3. ミニュレ
ミシュレの作品「魔女」について、過剰と融合、笑いと涙、呪術と供犠、魔女と悪魔、善と悪などの観点から記述している。生を持続させることは善と結びつき、生の強烈さとは価値として定義することができる。この価値についてバタイユは生を持続させる善ともかつ悪とも、善悪の彼岸に位置づけられるものであるとして、社会集団や少数者を関係させて論じている。この「魔女」なる作品を人間的な意味に富むこの世界を汚辱の中から拾い上げたと称賛しながら、一方彼女たちをこの世界の外に位置づけずに合法化しようとして下婢にでっちあげたと非難している。
4. ウィリアム・ブレイク
「ブレイク詩集」を取り上げながら主に詩と宗教性について論じている。
5. サド
サドはフランス革命時にバスティーユ宮殿の牢獄に閉じ込められていた。牢獄に閉じ込められていたからこそ、妄想を逞しくすることができたと述べている。サドの夢とは主体と客体の合一であり、諸存在の限界を超出ことによって、欲望の客体と欲望する主体とが一体化することに他ならないとバタイユは述べている。この論旨は疑問である。
6. プルースト
プルーストの若かりし時の社会主義との関係から始まり、道徳と禁制、虚偽と忠実さや反逆などの観点から記述している。未来への関心とは、明日のことを思い煩う弱さとは、現在の瞬間の享楽という原理からは真っ向から対立するものである。
7. カフカ
初めにカフカの父親の圏外への逃避の試みと小児性について論じている。カフカとは生きる力を失った者であり、この力を失った瞬間に現れてくるカフカの力の超過分とは、苦悶である。カフカは美徳を向こうに回した闘争を通じて苦悶を味わい、そして至高性の象徴としての死の悦楽を味わうのである。なお、カフカの作品における、社会的な面と親子の間の性的な面と宗教的な面とを区別して考えることができると指摘しているのは意味深い。
8. ジュネ
サルトルのジュネ論を引用し批判して論じている。ここで注目したいのは、文学は霊的交通の戯れであるとする観点である。人類とは孤独ではない諸存在の霊的交通によって成立するものである。弱い意味での霊的交通とは夜と等価値であり、散文的な意志の伝達がむなしいものとあきらかにされる時の交通である。一方、諸客体の世界が対立して不可能的なものとして存在する主体性が万人に共通なものであると直感することによって、自分の態度と行動とを自分の同胞たちのそれと交通できるのである。この二種類の霊的な交通の判別は難しい。ただ、実存とはさまざまな意識の多様性とそれらの霊的交通の可能性のうちに明らかにされ、至高性とはつねにこの霊的な交通である。この霊的交通もしくは至高性とは諸禁制によって限界づけられている生の枠内で与えられている。霊的交通とはわたしたちが悪、即ち禁制への侵害に結びついて、侵害へ走るというただひとつの条件でしか実現のされないものである。ジュネの文学は悪を至高性としながらも孤独に身を置き、他者と実在するものが茫漠として無縁なものであるため、霊的交通を拒否している。即ち、自分自身に事物の存在性を付与する、即自的な存在であり、自分を実体として「石化させる」ことを欲したのだとバタイユは指摘する。この時、バタイユが述べている思想の根幹が垣間見えてくる。即ち、悪によって霊的交通を行うことにより、さまざまな人間が実存できることである。悪によってという条件を示しながらも、この他者と交流する実存的な思想は文学を超えて理解する必要があるだろう。もう一度「宗教の理論」を読んで確かめなければならないが、それはひとえに共同体において他者との実存的な諸関係がバタイユの思想の根底にあることの確認である。
最後に、悪と善についてである。通俗化した善の悪への増長、通俗化した悪の善への転化とはいったい何を意味するのだろうか。本書を読むときっと答が書いてあるかもしれない。
以上
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2018年6月1日(金) |
題:アベ・プレヴォー著 青柳瑞穂訳「マノン・レスコー」を読んで |
古本屋で偶然見出した一冊である。「ある貴婦人の回想録」なる全20編の一つとしての長編小説ということで、かなり有名な作品であるらしい。正式な題名は「騎士グリュウとマノン・レスコーの物語」とのこと。不貞と浪費の限りを尽くしても、なお汚れを知らぬ少女のような娼婦マノンと裏表紙に書いてある。このマノンのために貴公子デ・グリュウは賭博や詐欺など働き罪を重ねて落ちぶれる。結論から言うと、ドストエフスキーの「白夜」を読んだ後では、幾分退屈な作品である。なお、十八世紀の作品であり相当に古い。
簡単に筋を紹介したい。中庭にて偶然会った美しいマノンにグリュウは情火をあおられて逆上してしまうのである。マノンは尼になる、グリュウは十字軍に入る予定が二人は手を取り合って逃走する。でも、すぐさまマノンは金のために別な男にも身を任せる。そうしたマノンの裏切りに愛想をつかしグリュウは聖職者になるつもりが、神学校の公開試験の時にマノンはやってきて、魅惑的な肢体と切ない哀れな言葉で再びグリュウを虜にする。こうして二人の生活が始まるがマノンの娼婦性は変わらずグリュウは罪を犯し続ける。結局マノンは逮捕され、他の女たちと移送されるなどして労苦に満ちた植民地に送られるが、また二人して逃亡する。結局マノンはこの逃亡中に死んだようである。
なぜ幾分退屈な作品であるか、幾つかの要因がある。ただ、根本的には会話も地の文も率直に言えば、ありきたりに説明的であるためであろう。古来の叙事詩的な簡明さの響きを持ち合わせていないし、ロマン主義的な荘厳な構築物でもない。いわば両者の間に挟まっていて、それらしく心理を伴わせて書いているだけである。当時としては受け入れられたかもしれないが、もはや古臭くなっている。特に重要なのが、マノン・レスコーの妖艶な姿を含めた心理の娼婦性が見えないことにある。無論、彼女は行動して話もする。でも彼女の精神構造も含めて全体像が見えてこない。裏表紙には『汚れを知らぬ少女のような可憐な娼婦マノン。・・永遠の女性像に新しいタイプを加えた』と記述されているが、そのようには思われない。彼女に関する記述が薄い。マノンの会話は彼女を浮き彫りにしない。逆に、グリュウの方が分かり良い。マノンに狂わされる心情・理性はそれなりに理解できる。娼婦なるマノンの悪徳・心理が適切に描かれていなければならない。娼婦性を存分に発揮させる文章が欲しいのである。
本書の良い所は、グリュウの父親など少数者が、グリュウの道徳性というより破滅する行動そのものを問題視する。けれど、マノンの弟も含めてマノンの行動を倫理性の根底から非難する者がいないと言うことである。非難者がいなければ倫理は倫理とならずに何事も正統化される。一般的に倫理とは絶対的なものであるが、多数者の意見と捕えても良いはずである。この作品はこの倫理性を問いかけていると言えるかもしれない。でも結論は何ら示されていないし、問い掛けそのものが在るのかさえ疑わしい。ただ、単に物語る文章だけが綴られているのである。
以上
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2018年5月25日(金) |
題:ドストエフスキー著 小沼文彦訳「白夜」を読んで |
ドストエフスキーの長編は疲れるため主に短編を読んでみたい。この「白夜」はそう意味で言えば手軽に読める作品である。でも、裏表紙に書いてある『ドストエフスキーには過酷な眼で人間の本性を凝視する一方、感傷的夢想家の一面がある。ペテルブルクに住む貧しいインテリ青年の孤独と空想の生活に、白夜の神秘に包まれたひとりの少女が姿を現し、夢のような淡い恋心が芽生え始める頃この幻はもろくも崩れ去ってしまう』というのは少し言い足りない。現実と幻想がヴェールで包む白夜に現れた少女の謎に満ちた心理に翻弄される哀れに夢見る男の話であるが、この少女の本心はなんであったのか。現実と幻想の境目にいる可愛らしくも小悪魔的な少女は、饒舌でありながらその存在さえ希薄である。その少女に恋を告げた途端、少女は他の男に連れられて現実からも幻想からも去ってしまう。本小説の主要テーマとは淡い恋を心含んでいても、この現実と幻想の境目に生きている人間たちとその心にあるに違いない。それ以上に、ヴェールに包まれたこの世界そのものの幻覚的な存在構造を表しているとは言いすぎであろうか。過酷な心理小説を書くドストエフスキーの純粋に感傷的な一面が現れ出ていることは確かである。また、見方によってはこんな馬鹿げた話を感動する作品に仕上げるドストエフスキーの手腕は見事である。
「地下室の手記」では愛する娼婦が訪問して来ると抱いてしまう、そして思わず金を差し出すという不合理な現実的な心理を描いている。でも「白夜」は少女の心理も現実さえも謎を秘めたまま消え去る。少女を幻覚していたのか、それとも実在していたのか不確かなまま物語は終わる。この現実と幻覚との境界の曖昧さが作品の質をすごく高めている。あらすじを簡単に紹介したい。主人公なる男は少女を荒くれ男から救い出して会うようになり、互いの話をする。男は引きこもりであり恋を夢見ている話をする。ナースチェンカという名の少女は決して恋してはいけないと言い、身の上話をする。祖母にピンどめされて孤独に暮らしていたが、祖母の下宿屋に間借り人として若い男が暮らし始める。この男に「セヴィリアの理髪師」の観劇に誘われて行く。もはや少女は男に観劇に誘われることを待ち焦がれるようになる。そしてこの若い男がモスクワに行く段になって一緒に連れていってとせがむ。主人公なる男はもう愛していると告げていて、少女にも受け入れられている。一緒に暮らす約束もしている。結局、男が再び会いにやって来ると約束を取り交わす。でも、少女はこの若い男はもう戻って来ているのに会いにこないと嘆いている。主人公はこの二人の仲を取り持つ。若い男は居ないのかなかなか現れない。でも或る夜、稲妻のように男は現れて、愛しあう二人は主人公の目の前から去っていくのである。
本作品の魅力は何て言っても会話であろう。それはドストエフスキーの魅力であるのかもしれない。相反し交錯し変貌する心理が会話の内に見事に描かれている。地の文において交錯し矛盾することは許されない。でも心理は相反するのであり、矛盾することこそが会話における真理である。日本の作家で太刀打ちできるのは夏目漱石くらいであるかもしれない。ナースチェンカの心理の本質はどこにあるのだろう、彼女の本質は本質を持たないことである。娼婦的な策略と巧緻性に満ちた少女と言ってはいけない。彼女も主人公の男と同様に夢を見ている。幻想ではない現実的な夢である。この夢に従って本質を溶解させて、本質を変貌させることこそが少女の本質であると言うこともできるだろう。少女は蝶のように変態する、本質と言うより類まれな変わり身の早い能力を持っている。本質とは可能性に満ちた能力であるとするなら、少女は確かに本質を身に纏い心に備え付けている。
ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」は読んだことはないが、いや読んでもすぐに挫折したか忘れたけれど、本書はドストエフスキーの限りない本質を表しているに違いない。それは心理の澱みながらも流れ移り行く、かつ渦巻く波のような動きである。この波が重って押し寄せて来る言語空間の緻密さであり饒舌さである。ナースチェンカが告げる言葉の声がこの空間を伝わって今なお残響している。
以上
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2018年5月18日(金) |
題:二葉亭四迷著 「平凡」を読んで |
二葉亭四迷の「浮雲」は良かったと記憶している。彼の他の作品を読んでみたかった。「浮雲」の何が良かったか、漱石と比較して『それは恋や愛をめぐる意識を含めた社会・文明への懐疑が同質であるためか良くは分からないが、漱石はこの懐疑を「虞美人草」以降深めていくのであり、優れた作品を記述していくのである。二葉亭四迷については他の作品を読んでみないと良く分からないが、確かに近代的な小説の原点とも言える作品を書き近代文明を批判している』と以前の感想文には記述している。本書は「平凡」、「出産」、「雑談」、「余が序文一致の由来」、「余が翻訳の標準」、「余は懐疑派だ」、「余が半生の懺悔」が掲載されている。無論、分量からすると「平凡」が圧倒している。他は表題通りの内容が記述されている。そこで「平凡」のみを紹介したい。
「平凡」とは著者の人生が平凡なことを意味していている、たぶん実話的なのだろう。幼児の時分のポチとの思い出から始まっている。前半では上京してからの話が主となり、「浮雲」の登場人物のお政や娘のお勢が、伯母さんと雪江さんとなって登場している。この伯母さんと雪江さん話が「浮雲」の題材になったのだろう。雪江さんを恋い慕うなど殆ど同じである。後半では下宿屋の居候として来たお糸さんに贈り物などしてやっと好い仲になったかと思うと、もうその朝には父の危篤のため帰省する。既に死んでいる親父と対面するのである。女への羞恥心と情欲の話、加えて他の作品にも記述されているが、四迷独自の文学論も結構語られている。本「平凡」なる作品は、割と短めの全体的にはまとまりのない作品である。
それでもこの作品は二葉亭四迷独自の生きた文章がある。思いと感情が小気味よく動的に書いた文章である。文学論というより小説論は面白い。小説とは色恋を漁するものあって、それがゾラやツルゲーネフなど西洋の影響を受けて、『性欲の発展の描写が巧みに潤色されて』高尚がっていると述べている。この高尚がる仲間もできる。でも『人生に生命を託して人生と共に浮沈上下せんでも、人生の活気に触れんでも、活眼を持って活勢を機微の間に察し得んでも、どうかして人生が分かるとしても、友のいうような文学は、どこかだれかが空想した文学で、文学の実際ではない。文学の実際は人間の堕落を潤色して、惰弱な人間をさらに惰弱するばかりなのだ』と主張しているのである。
ではなぜ書くのか、文壇に居るのか。『わたしは自然だ人生だと口には言っていたけれど、ただ書物でそんな言葉を覚えただけで、意味が良く分かっているのではなかった。意味も分からぬ言葉をもてあそんで、いや言葉にもてあそばれて、あたら浮世を夢にして渡った。詩人と名が付きゃ、皆普通の人より勝ってるように思っていた』のである。『政治家になってあたら一生を物質的文明にささげてしまうより、小説家になって精神的文明の貢献した方が高尚だ』と言いながら、『いわゆる物質的文明は今世紀の人を支配する精神の発動だと、なぜ思われなかったのであろう?』と懐疑するのである。
小説への懐疑は、物質と精神との乖離へと発展している。この『いわゆる物質的文明は今世紀の人を支配する精神の発動だと、なぜ思われなかったのであろう?』と言う物質が精神の発動だとする発想は斬新である。二葉亭四迷が、なぜこの発想をもっと推し進めなかったのか残念である。もうこれ以上言うことはないけれど、二葉亭四迷とは思っていた以上に明快な人物と思われる。いわゆる真底に懐疑的でも晦渋でもない、楽観的とも割り切り主義者とも疑われる。ただ、率直な物言いの文章表現には新しさがある。
以上
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2018年5月11日(金) |
題:鶴岡真弓著 「ケルト/装飾的思考」を読んで |
ケルトとイコンは長い間謎であった。それが本書を読んだ動機である。その結果、おおよそケルトついては何かが分かった。イコンも画集を入手しておおよそ分かった。ケルトの国とはアイルランドである。アイルランドの地理的・歴史的辺境性がケルト文化に影響を与えたと思われ、ヨーロッパの地方的な文化であることは確かである。ヨーロッパの模範的な造形美術から逸脱しているように見えるかもしれない、このケルトの美術は、言語、宗教、神話とともに不可解性や異形性を持ち自らの歴史を雄弁に語ってくれる。特に装飾本の紋様を手始めにかつ中心に据えて、著者はケルト文化について図や写真を掲載しながら詳細に記述している。ケルトの装飾と思考が分かる良い本である。
文学的観点から少し記述すると、ジェームズ・ジョイスはダブリン(アイルランドの首都)を強く意識して惹かれながら作品と人生もまた螺旋を描いていると著者は指摘している。ジョイスと言うと「ダブリンの市民」を思い出す。ダブリン市民の日常生活を小話としてまとめた本である。ただ、どうしても通読できなかったことを思い出す。今から思うとツルゲーネフの「猟人日記」のような抒情性を欠いていたかもしれない。このジョイスの影響を受けたサミュエル・ベケットもまたダブリンの生まれで、英語を捨て仏語にて小説を記述するようになる。ただ、こうした文学的な観点は、ケルトの紋様の間に書かれたちょっとした小話でもある。
修道院にて行われた写本は挿絵(イラストレーション)と装飾(イルミネーション)である。現存する最古の「ダウルの書」では、挿絵はなくて装飾された頁のみがある。装飾頁とは福音書の先頭に描かれている生き物を象徴した「象徴頁」と、多彩な文様を描いた「カーペット頁」と、それに文字が装飾された「装飾頭文字の頁」からなる。掲載された図を見せることができず残念であるが、紋様が渦巻きに描かれた「カーペット頁」が特に注目を引く。著者も紋様の蠢きと述べて詳細に論じている。いわば本書の中核的な紋様なのである。「ダウルの書」の後の「リンディスファーン福音書」ではこれら装飾が更に繊細かつ高度化している。
こうして著者は「ケルトの想像力」や「渦巻紋様の神秘学」、「ケルトの想像力」、「北方動物の変容主義」、「組紐空間の呪縛」、「世界の紋様」などと題してケルトの美術の装飾的な思考について語っている。渦巻紋様と関連させて、捻じれ、絡み合い、増殖文体としてジョイスの文学手法を評しているのは興味深い。「渦巻紋様の神秘学」や「組紐空間の呪縛」について紹介したいが長くなるので割愛する。ただ、紋様について著者が引用したアンリ女史の文章を引用したい。『ケルトの紋様の扱い方はきわめて独特である。ケルト美術はその歴史を通じて、彼らを脅かす二つの脅威からつねに逃れようとする欲望に支配されている。すなわちケルトは、生きているもののかたちを直接的に写し取ることからも、紋様を明確な幾何学的形象に仕立てて硬直化させることからも逃れようとするのだ。ケルトはこの両方の脅威にひるみながら、二つの落とし穴に嵌るまいとしてその中間を蛇行していく。ケルト美術の横溢性と、捕らえようとすると巧みに身をすり抜けさせてしまう荒唐無稽性は、この動揺の限りない繰り返しから生まれるのである』との文章は的確でありまことに関心を引くものである。
著者はさらにアンリ女史の文章を引用する。『生命と幾何学との間を揺れること、それがケルト的装飾の基本法則である』この引用した文章を解説する著者の文書も美しい。一部を紹介すると『彼らにとって美的形象とは、実在と夢想が寄り合ったかたち、その二つの価値の境界にあるものであった。そしてこの特別の形態は、紋様と自然のかたちの融合によって実現されるべきものであった』なぜ境界にあるべきなのか、関心は尽きない。組紐の空間も面白いけれども、最後に一つだけ著者の文章を引用して言いたいことがある。それは『人類が外界を形象化するとき、・・抽象的な形象で世界を記号的に記録することから始めた・・』ということである。始まりは具象ではなくて抽象であると著者は主張しているのである。
以上
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2018年5月4日(金) |
題:ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳「夜と霧」を読んで |
この「夜と霧」はずっと以前から読んでみようと思っていたけれど、やっと読むことができた。副題としてあるのか「心理学者、強制収容所を体験する」のである。従って過酷なまたは凄惨な描写は全くない。基本的には心理と心理に基づいた行動が記述されている。一行の記述がとても重い箇所もあるけれど、全体としては著者の人間味ある優しい眼差しと心理的な説明が支配している。著者が生き残ったのは本書を読むと分かるが様々な偶然と著者の信念に基づいた行動の結果である。それに著者が医者としてチフス病患者の世話をしていたことが大いに関係しているに違いない。なお「夜と霧」とは夜と霧に紛れて人間が運びされることを指し示している。どうも本書は改訳であり、その前の題名が「夜と霧」でそのまま題名を受け継いだらしい。詳細は不明。
小説ではないため論評はできないし、心理学は疎いためこれまた解説もできない。ただ、本書を読んで結構、極限状態における心理状態等を知ることができたのは幸いである、この点を簡単に箇条書きにまとめるだけにしたい。なお、本書の内容をこのように紹介できるか、著作権のからみもあり、機会がくれば本感想文は削除を予定している。
1) 歯を磨かず栄養も不足していたのに、歯茎は以前よりいたって健康であったこと。不衛生な状態にも拘わらず、傷口も化膿しなかったこと。人間は何事にも慣れる存在であること(27頁)
2) ばたばたと人が死んでいく状態で死をまったく恐れなくなること。ガス室はおぞましいものではなくなり、自殺する手間を省いてくれるものとなること(29頁)。一方で確か生き延びることそれだけを望むことと記載もあったはずであり、矛盾しているが両方とも正しいに違いない。
3) 過酷な状況における悲惨な者たちを眺めるのは見慣れた光景となり、心が麻痺してしまうこと(35頁)。感情の鈍麻や内心の冷淡さや無関心さが生じること(37頁)。
4) 夢を見ることによって、食べ物や煙草、入浴などの素朴な欲求を満たすこと(46頁)。
5) 栄養不足では体が自分自身をむさぼり食うこと。即ち、有機体がおのれのたんぱく質を食らい、筋肉組織が消えて、骸骨が皮を被ったような状態になること(49頁)
6) 食べ物が不足して飢えた者の心のなかに起こる内面の葛藤や意志との戦いは体験した者にしか分からない、想像を超えていること(50頁)
7) 栄養不足により性欲はきれいさっぱりなくなること。入所初期を除いてホモセクシュアルな行為は見受けられないこと(52頁)
8) 宗教への関心に目覚めると、そのみずみずしさや深さに心打たれること。ささやかな祈りや礼拝が行われること(55頁)
9) 愛(伴侶などに思い馳せること)は人が人として到達できる究極として最高のものであること。究極の状態においても心が満たされること(61頁)。この愛は生身の存在とは関係ない精神的な存在であること。生きていること、共に在ることとも無関係であること(64頁)
10) 些細であってもユーモアがあること(71頁)
11) かまど(ガス室)がない収容施設に居ることがとてつもない喜びであること(74頁)
12) 寝る前にシラミ退治ができることはとてつもない喜びであること(77頁)。
13) 集団の中に消えようとすること。これは自らの身を守ることでもある。例えば集団の真ん中に居れば目立たくなり、親衛隊員の目を引かなくなる(83頁)。
14) 質問に対してはおおむね本当のことを言い、余分なことは答えないこと。例えば商業を問われたた「医師です」と答えて、専門医であることは言わないなど(89頁)。
15) 人肉食が始まったこと(91頁)。ただその後の精神状態については何も書かれていない。
16) 収容所においても精神の自由があること。感情の消滅を克服する、感情の暴走を抑えている、自分自身を見失わない人がこの極限状態においても、少なからず居たのである(110頁)。
17) また収容所のような生活においても意味があること、苦しむことも運命も死ぬことさえも意味があること。収容所で生きしのげないなら苦しみに意味がないのではないのである。単に抜け出せるかどうかに意味がある生など、もともと生きる値にしないのである(113頁)。同様の記述(139頁)
18) 死ぬことを悟り内面の深化する女性の言葉。内容は省略(116頁)。
19) 生きる屍としての実感。なにもかもがどこか幽霊じみた非現実的なものに思えてくる。もうこの世界はないかのような感覚を持つようになること。そして内面生活は追憶するようになること。ただ内面の成長はできること(120、121頁)。
20) 自分の未来をもはや信じることのできないものは破綻する。この破綻としての発狂は突然生じてくる、何もしなくなる、ぴたりとも動かなくなる、心をわずらうことはもうしない(126頁)。
21) 生きる意味を百八十度転回する必要があること。即ち、生きることが私たちから何を期待しているかが問題となる。生きることから何かを期待するのではないのである(129頁)。意味が取りにくいが、生きることは時々刻々の要請をみたす義務を引き受けることにほかならない。また、生きることはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的なものであると後の文章にあることから、生きていることとは具体的な要請を義務として果たさなければならないものなのである。生きているそのことが何らかの要求を満たしてくれるものではないと理解したい。収容所における生の意味とはそうしたものなのだろう。
22) ありがたいことに未来は未定である(137頁)。
23) 解放された後に経験することは強度の離人症であること。すべては非現実で不確かで夢のように感じられること(149頁)。
以上、箇条書きでまとめたが、書いているうちにこの本の持つ厚みと重みに気が付く。それは各文章の意味することである。と同時に、こうした現実があったということと、それを経験した事実があったということである。「ありがたいことに未来は未定である」ということ言葉を逆に「恐ろしいことに未来は未定である」と述べれば何を意味してくるのか。そう言い換えることに、大きな違いなど無いであろう。常に未来は現実の内に渦の小さな蕾を秘め、良くも悪くも突然大きな渦を巻いて襲ってくるものなのであろうから。
以上
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2018年4月27日(金) |
題:ツルゲーネフ著 佐々木彰訳「猟人日記」を読んで |
ツルゲーネフは「初恋」を読んでいるが、良い作品である。この「猟人日記」は二葉亭四迷が絡んでいると知って読んだものである。どの本を仕入れるか迷ったが、結局古い二冊組にせず、全集を購入したことは間違いであった。「猟人日記」は猟人たる男の農村などで経験した話をまとめたもので、全二十五編からなる。本書では八編しか掲載されていない。即ち「ホーリとカリーヌイチ」、「エルモライと粉屋の女房」、「ベージンの野」、「狼」、「歌うたい」、「あいびき」、「生きているミイラ」の八篇である。仕方がないので、二冊組は別途仕入れる予定である。
それにしてもツルゲーネフのリリシズム(抒情)は奥深い。特に農村での下層農民の暮らしぶりに人生の悲哀や労苦を含めて記述する文章は澄んでリズムがあり、ロシアの農村生活が目に浮かんでくる。著者の目は猟人たる私を通じて事実や出来事を正しく記述し、かつ暖かみを含み農民に寄り添っている。ただ、ドストエフスキーのような鋭さに富み真実を抉る文章はあまり含まれていない。粘質で憂鬱に苦悩する人物も描かれていない。ツルゲーネフの場合、内面に沈潜している心は行動などの表層の言葉によって表されていることが多い。それがまた登場人物の内面を的確に透かしてみさせる。「初恋」を読んだ時もそうであったと記憶している。
二葉亭四迷は「あいびき」を訳したらしい。若い娘が林の中で男と会う。男は主人に従って都会に出かけるために娘に別れを告げに来る。娘は男に騙されていたのである。でも、娘は男に愛の言葉を降り注ぐ。精一杯縋り付くようにして泣き崩れながら、男に翻意ではない、最後のお別れの言葉を求める。けれど、男は何も言わずに去って行く。「エルモライと粉屋の女房」は昔小間使いをしていた女の色濃い沙汰が主人の怒りをかい、暇を取らされる。女は粉屋に見受けされ粉屋の女房になる。猟人の供をするエルモライは昔この女の主人の家に出入りしていて女を見知っている。そして二人は設営した野天の桶に腰かけて懐かしい話をする。「ベージンの野」は夏の夜に焚火する少年たちの死人や霊に魂や白い狼を含んだ怖くもあり肝を冷やす話である。この恐怖感は死と密接に結びつている。「死」はいくつかの死について書いている。「生きているミイラ」は昔美しかった女が、皮と骨の動けない体になって横たわり生きている話である。でもこの女は心穏やかに満足している。
こうした話は日本の小説では見かけない。どうして書けないのだろうかというより、民話などに口承されて書かれているのか。明治以降の日本の小説は基本的には海外からの技法の導入によって書かれているけれど、成功した例は少ない。結局「猟人日記」は、良くは分からないが、近代の日本の小説というより、近松門左衛門や井原西鶴など江戸時代の義理・人情や色濃い沙汰・心中に近いのかもしれない。いずれにせよ、ロシア文学とは奥深い。そういう意味でロシア文学を専攻するたちが結構いることの理由が初めて分かる。ロシア文学を読めば魅了されずにはいられなくなるのだろう。
以上
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2018年4月20日(金) |
題:横光利一著 「旅愁」を読んで |
やっと「旅愁」を読むことができる。上下あわせて1000頁以上の大作である。結論から述べると、相当の力作でありながら、凡作ともいえる。作品としては「上海」の方が優れている。それは、横光利一自身が述べる「純文学にして通俗小説」という小説論から外れた作品であるためである。即ち、あまりにも日欧文化の比較や科学論、歯切れの悪い長い会話などが記述されていて、純文学とも通俗小説とも言えず読者を退屈させるためである。また、主人公のカトリックと古神道に引き裂かれる気持ちや恋人への思いが良く分からないためである。これについては、夏目漱石の作品などと比較すればよいであろう。漱石は文化や科学を記述しながらも上手くまとめている。男女間の機微な心理の描写も上手である。それらに比べて、本作品はそもそもテーマがなんであるか、良く分からない。200頁くらいまではきちんと読んでいたが、後は流し読みをしている。
簡単に本書のあらすじを示したい。本書は5編に分かれている。第1編では主人公である矢代耕一朗と久慈、宇佐美千鶴子と早坂真紀子などが船旅で出会い、パリにて文化論などを論じながら食事を共にする外遊生活のありさまを書いている。矢代は久慈の語学教師のアンリエットの語学指導を受けることになる。第二偏では矢代は千鶴子に誘われて椿姫の歌劇を見に行く、といっても千鶴子はピエールと一緒なのである。観客席は個室で鍵もかけ愛を語ることもできる。彼らがどうなるのか矢代は心配する、一番臨場感のある場面である。こうした矢代はチロルの氷河を千鶴子と旅しながら親密度を増していく。第三篇では矢代の帰国後千鶴子と会い結婚の話を進める。第四篇では矢代の父が死ぬ。矢代の父は武家の出なのである。東北出身の母は法華経を信仰している。また矢代は千鶴子の母にも会う。第五編では父の故郷の九州に行き父の納骨をすると同時に親族に会う。最後の「梅瓶」では一同のものが集まり話に弾む。なお矢代の論的であった久慈は千鶴子を諦め真紀子と関係を持っていたが、もはや真紀子は船で一緒だった別の男と仲良くしているのである。
本小説の題名「旅愁」の意味は第二偏(上、309頁)に記載されている。『とうとう自分も日ごろ軽蔑していた旅愁にやられてしまったと思った』との通りに、旅での疑似恋愛のことを指している。第二偏(上、529頁)に矢代と千鶴子の会話にその詳細が示されている。ただ、会話の文章として大きな矛盾点を抱えている。は少し長くなるが引用する。『「僕もいろいろなことをお話ししたいんだが、外国にいちゃ、何と言ってよいか、とにかく言うことすることに間違いが多いですからね。しかし、帰ればきっと僕はお会いします。僕は間違いないつもりなんですが、どういうことであなたが困られるか分からないから、それでつい、これだけは慎む方が良いとそんなに思いましてね」すると、突然、千鶴子は言いかねた顔色に変わって来て黙った。矢代は自分の言ったことが言いたいこととは遠く、何か千鶴子の決心も間違いだと匂わせている全く別な言葉となって変わっていそうに思われ、これは大変なことを言い出したものだと思わず言葉を飲んだ。事実、どこの国にいようと、結婚する意志に変わりのあろう筈がないと思っている千鶴子に、初めて打ち明ける危険な真相であってみれば、それに気づけば、千鶴子とて気付かない前より二の足を踏み考えるにちがいなかった。「でも、あなたそんなこと、本当に思っていらっしゃるんですの。あたしが間違うなんて?」伏目になって悲しげにそう言う千鶴子を見ながら、矢代は、それではまだ気づかれなかったかと、胸撫でおろす気持ちになるのだった。しかし、何かすぐ真面目に答えなければならぬとすると、話は意外な傷口をますます切り開いてゆくばかりだった。「間違わないと言うのは、僕の方のことを言うのですがね」こう言って矢代は笑いにまぎらしたついでに、投げ掛けた暗影を一挙に揉み消す曖昧な力をさらに引き出そうと努めながら、「つまり、あなたの方が間違いを起こし易いというのですよ」「なんだかあたしにはよく分からないわ。みんなこちらの間違いだなんて。そんなこと――」』
この文章は会話であるにしても、あまりにも曖昧である。間違いを「決心の間違い」と「肉体の間違い」に区別して記述すべきである。無論、矢代は結婚の決心の間違いだけを述べている。そして自らの真意はこの決心を取り消そうとしているのである。そして決心には「矢代の間違い」と「千鶴子の間違い」があるが、矢代も千鶴子も説明文もあまりにも皮相的に理解、記述しているのである。矢代が「千鶴子の決心の間違い」を言いながら「千鶴子の肉体の間違い」を起こす可能性に気付いていない。「椿姫」のオペラで「千鶴子の肉体の間違い」に矢代はひどく恐れおののいていたのではないのか。千鶴子は「決心の間違い」と気付いていて、さらにこうした非情さを続けて言う矢代に千鶴子は怒るか嘆き悲しむべきである。なお、後述されている千鶴子の言葉に矢代の懸念を理解する言葉があり、かつ地の文にも『後から襲ってくる不幸よりも、不幸を未然に防げたという意味にも解せられる千鶴子の力なげな様子が・・』と記述されているのは、結婚の約束の不履行を案じて結婚の約束をしないことであり妥当である。更に説明文では、矢代の言葉を『何か千鶴子の決心も間違いだと匂わせている』と記述しているが、その通りの言葉を矢代は発したのであってこの文章は必要ない、トートロジーであり要らないのである。こうして、矢代と千鶴子と説明文が入り混じって意味の表層だけを記述し、雰囲気が伝わってくるが真実味の無い文章が混じっているのである。横光利一の文章は感覚的でとても良いのであるが、こうした意味の取れない文章が混じっている時がある。きっと心理描写には向かない文章とも思われるのである。
一番気に掛かっていたことを書いたので、後は簡単に箇条書きにしたい。
1) 本書「旅愁」が何をテーマにしているのか分からない。文化文明に科学や数学、カソリックや神道を論じるのであれば、夏目漱石が行ったように猫や犬に書かせればよいのである。「旅愁」の恋愛が本国の日本にまで持ち帰って、なぜ悩まなければならないのか。「旅愁」としての恋愛は外国にそのまま棄て去って帰国すべきではないだろうか。
2) 横光利一は男と女の肉体の関係性を両極端に描き過ぎる。矢代と千鶴子が何度も結ばれそうにいながら結ばせないのは意図的すぎる。久慈と真紀子は簡単に結ばせたではないのか。それに、登場人物がロボット的な機械動作であり、性格の違いが良く分からない。特に、千鶴子と真紀子は乙女と人妻の属性の違いがあるだけで、女として浮き彫りにされていない。ただ、千鶴子にカソリック、真紀子にヒステリックを与えたのは良いのかもしれない。幾分区別がつくためである。無論、男と女に肉体的な関係を結ばせるか結ばせないかは、描く作者の自由である。ただ、筋に従って拵え物でない、真実性をリアリティを与えて欲しいのである。
3) 涙も簡単に流させて、その心境があまり伝わってこない。「道徳派」の論じる道徳も良く分からない。(下 264頁)
4) GHQに文章をいじくられたとのことであるが、確かに西洋を批判する文章は変えられている。また他の濃密な感覚的文章も簡明な文章に変えられている。でも西洋批判の思想には関係しないと思われて、なぜこうも変えられているのか変更の主旨が良く分からない。ある種の誰かの意図があったのかもしれない。
5) 矢代の優柔不断さや懐疑が真実味を帯びて伝わってこない。横光利一の作品では女に惚れられる男のみを描いていることが原因であるのかもしれない。二葉亭四迷の「浮雲」では派手で軽はずみな女に恋慕する男や、夏目漱石の各作品では、男が女を好きになる作品が多い。漱石の場合、遂には女を奪う作品も結構ある。即ち、心に負い目を持ちその負い目に苦しめられるのである。日本と西洋の文化の狭間に矢代が苦しめられないのは、負い目を背負っていずに、ただ、日本と西洋の違いのみに捕らわれているためかもしれない。時代の表層を見ただけでは真に時代を表す作品は書けないのである。負い目を背負えと言うのではない、女に惚れられる男は真実に欲しいものを知らないのである。真実に欲しい女を選び出すことのできない男は、時代の真の姿を見抜くことなどできるはずがないのである。
つまり、作品が長くて冗長であり事件性に乏しくて、心理を描き切れなくて読むのに飽きてくる。そのことが本作品の最大の欠点である。無論オペラ劇場や氷河の探索場面など良い箇所もあるため、うまくまとめることができなかったのは作者の筋書きのまずさにある。というより、いろんな思いを込めたかったのであろう。そう言えば、大岡昇平の作品も結構批判した点もあるが、作品それ自体としてはまとまっていた。長い作品は最後まで飽きずに読み続かせる術に長けていなければならない。それに心理描写がそれなりに納得できるものでなければならない。それ以上に、長編作品には強力な筋の構成力が必要とされるはずである。
以上
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2018年4月13日(金) |
題:ジョルジュ・バタイユ著 澁澤龍彦訳「エロティシズム」を読んで |
ジョルジュ・バタイユの「宗教の理論」は若干難しいながらとても良かったと記憶している。そこで本「エロティシズム」なる本も読むことにしたのである。実は既に読んでいたのかもしれない。写真集とも言える「エロスの涙」ともども蔵書として持っていたからである。読んでみると、その思想はむしろ簡単であっけらかんとしたものである。死とエロティシズムとの親和性などは知っていたし、個体の連続性、非連続性も知っていたためであろう。こうした思想をベースにした他者の否定が自らの否定に繋がるとのサド論もおおまか予想のつくものである。レヴィ=ストロースの親族間の定義の理解の困難性なども「悲しき熱帯」を読んでいて知っていたことなどが、本書の理解を容易にさせたに違いない。
すると、本書は「エロティシズム」そのものの定義を確認することにある。一般的に「エロ」とは好色や扇情とも受け止められる。この「エロ」が「エロティシズム」して昇華されると、現実的な肉体の振る舞いにあるのか、想像の内に表れてくるものなのか、宗教などの内に隠されていたものが露見してくるのかが問題になる。本書の「序論」ですぐさまおおよその定義を示してくれているのは幸いである。少し長めながら引用すると次の文章である。『エロティシズムについては、それが死に至る生の称揚だと言うことができる。適切に言えば、これは定義ではない。しかし、私はこの言い方が何よりもよくエロティシズムの意味を伝えていると思う。正確な定義が問題ならば、たしかに生殖のための性的活動から出発しなければなるまい。エロティシズムは、その特殊な一形式なのである。生殖のための性的活動は、有性動物と人間とに共通しているが、しかし明らかに人間だけが、みずからの性的活動をエロティックな活動たらしめたのである。すなわち、エロティシズムと単なる性的活動を区別するところのものは、生殖や子供への配慮につながる自然の目的とは独立した、一つの心理学的な探求なのである。・・生命の再生産への配慮とは独立した、この心理学的な探求の目的は、死とも無縁でないのである』
こうしてジョルジュ・バタイユは「序論」にて、「エロティシズム」を記述していくが、おおまかな論理は次のようなものである。個体として生殖された存在は非連続である。ただ、非連続な存在な私たちにとって、死は存在の連続性という意味を持ってくる。即ち、生殖は存在の連続性のために活を入れるのであるとバタイユは述べている。言い換えれば、死があるからこそ非連続的な個体は生殖して存在として連続性を保つことができるのである。こうして生殖は死に緊密に結びついている。生殖も死も魅惑的なものであり、その魅惑によってエロティシズムを支配している存在の生殖と死について語るべきであるとバタイユは主張するのである。こうしたバタイユの論理は簡単に書かれているためか分かりにくいが、生殖はこの非連続な存在に活を入れて存在の連続性を保つためにエロティシズム足り得ると言うことなのだろう。単純に言えば行為として渇望し欲望を発露するためであろう。死は結果として生じるものなのである。即ち、『エロティシズムについては、それが死に至る生の称揚だと言うことができる』の文章の死に至る生の称揚とは、当たり前であるが、生きている側に心理的に生じていることだということである。バタイユ自身はこの『死にまで至る生の称揚とは、・・死に対する挑戦、死に対する無差別な挑戦なのである。生とは存在への接近である。かりに生が死ぬべきものだとしても、存在の連続性は死ぬべきものではない』としてすべて生きている側の意識として捕らえている。
更にバタイユは、私たちは失われたこの連続性への郷愁を持っていると述べる。いわば連続性への脅迫観念でもある。この郷愁が肉体、心情、神聖な三つのエロティシズムを強制するとして語り続けるのである。なお、この三つのエロティシズムについての問題は、存在の孤独と非連続性とを一つの深い連続性の意識に代えることだと言う。この連続性の意識への郷愁がなぜ生じるのか、バタイユは自我によって認識できるというものではなくて、体験によって与えられるものだと言う。神秘的な宗教的な体験である。なお、この連続性という概念は哲学的には結構述べられていたと記憶しているが、バタイユは宇宙まではいかずに、生命や共同体など狭義に使用していることには注意されたい。非連続から連続への過程で存在全体へ活を入れるのは、暴力である。この相手の存在への侵犯が肉体的なエロティシズムである。このようにエロティシズムの内部に活動しているものは、常に組織化された形態を解体しようとする作用なのである。また融合でもある。ランボーの詩「また見つかった/何が。永遠が/海と溶け合う/太陽が」を取り上げ、詩はエロティシズムの各形態の同じ点に、無差別なものに、区別された対象の混淆に私たちを導いていくと述べていることが印象的である。
こうして第一部「禁止と違反」、第二部「エロティシズムについての諸研究」が記述されているが、その内容は自ずと想像のつくものであり、読んでみて事実そうであったことは言っておきたい。禁止とは違反を伴うものであり、この禁止と違反がエロティシズを生むことも承知の通りである。具体的な例は取り上げない。
以上
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2018年4月6日(金) |
題:大岡昇平著 「野火」を読んで |
良い作品だとの評判で読んでみたが、確かに小気味いい、歯切れのよい文章は魅力的である。簡単にあらすじを述べると以下のようなものである。病気のために軍隊を追放され、あてがわれた数少ない芋を持って再度病院向かう田村なる一等兵は病院に入れぬまま、同様の境遇にある仲間たちとしばらく病院の外で暮らすけれど、爆撃によって別れる。飢えに悩まされながらも南方の島にて孤独に生き延びている。野火とは病院に行く途中にて見た島民が畑を焼く煙である。この野火は単純に野を焼いている煙かもしれないし、誰かに敵の存在を知らせる伝達手段であるのかもしれない。島民の女に見つかり、獣みたいな驚きの声をあげたために殺してしまうこともある。本書の後半では、田村一等兵は飢餓に悩まされながらも他の兵士と船に乗り逃亡するために一人バロンボポンの岬に向かう。ただ何者かの視線を感じている。この視線は以前の病院の仲間である。彼らは田村一等兵を獲物として狙っていたのである。彼らと同様に田村は人肉を食らう。ただ、人肉嗜好に陥ることはない。彼はこの仲間を殺して記憶喪失に成り俘虜となって救出される。でも結局帰還後は精神を病むことになる。こうした主人公田村一等兵の心理と行動をレイテ島の自然描写を含めて本書は記述している。田村一等兵の観念として重要なのは十字架を含めた神概念と記憶に拘わるベルクソン思想、そして野火に拘わる観念であろう。それ以上に、彼の心の奥底には秘められている倫理的な観念がある。
結論から述べると、本書は佳作であろう。文章は良いけれど「武蔵野夫人」と同様に筋に無理が見られる。些細なことではあるけれども納得のいかない記述がある。他のよく読まれる小説作家には見られない強引な筋書きである。横光利一の「上海」のように漫画的に芳秋蘭との恋愛が描かれていても納得できる、そのように筋を作者が恣意的に選んでいて、彼らには恋愛心理があったんだと思い納得するしかない。でも決して矛盾ではない。ところが大岡昇平には人物の行動と心理の間に認めることのできない乖離が存在するのである。「武蔵野夫人」で記述した感想文を引用すると以下のようなものである。『道子と勉が風雨の高まりによって否応なくホテルに一泊するが、接吻はするけれども、道子が体を開いていくけれども、物音がして、「いけません」という道子の魂の声を聞いたような気がして、勉は行為を中止するのである。漱石の「行人」の同じ場面と比較すると、「行人」は行為を行わないことが自然であるが、この場合行為を持たないことの方が不自然である。なぜなら、勉は女子学生などと多数の関係を持っていたのである。そして「はけ」に来て道子と一緒に住むようになって、恋と同時に抑えられない欲望を自覚している。道子も彼への愛を認めているのである。これは作者の心理よりも筋を重視した結果であろう。そもそも勉なる復員兵の性格が曖昧であるために起因している』このように大岡昇平の小説には筋が無理に作られていると思われてしかたがない。これは作者が小説を書くに際に筋に固執して心理をお座なりに書いているか、拵えものとして書いて心理としての真実性や、客観性を備えた筋を無意識に犯しているためであろう。
例えば漱石の田山花袋への拵えものなる批判は次のようなものである。『拵えものを苦にせらるるよりも、活きているとしか思えぬ人間や、自然としか思えぬ脚色を拵える方を苦心したら、どうだろう。拵えた人間が活きているとしか思えなくなって、拵えた脚色が自然としか思えぬならば、拵えた作者は一種のクリエーターである』無論、田山花袋と比較にならないほど大岡昇平の方が文学的質は高い。でも、過去に兵隊の経験があり、この経験を記述したとしても「野火」は拵えものなのである。文学作品には一貫した真実性が求められ、拵えた筋書きが当然なことと思わせなければ質の高い文学作品とはならない。即ち作者はクリエーターでなければならないのである。ここでは本書の価値をおとしめるつもりはなく、本書の筋書きに恣意的とも言える不一致や矛盾があるため、その指摘を行いたいのである。きっと本書が声を大にして言いたいのは、戦争という極限状態そのもの対する激しい怒りに満ちた非難であろう。それは極限状態を生み出した者、遂行する者、従わなければならない者も含めてこの極限状況そのもの対する激しい嘔吐や嫌悪感である。この世界に対する呪詛とも怨念とも言える、体と心に染み付いた著者の執念と憤怒こそが本書「野火」を書かしめたに違いない。更に付け加えるならば、著者は倫理観を問いながら既にその答えを見出している、そしてその倫理観を頑強に保持し続けているはずである。ただ、本感想文では本書の拵えものとしての性格を露わにするために、その欠点だけを箇条書きにて簡単に示したい。文学作品では漱石の言うように拵えた脚色、即ち心理や筋書きは作為的ではない、自然な描写と思われるような創作でなければならないのである。それが本書には欠けているのである。
1) 前半では性的な因喩や会話が結構記述されている。島民の女が驚いた声をあげて男が逃亡した時に、田村一等兵は例え女が死んでいたとしても、なぜ一時的にも捕獲しなかったのか。性的な因喩の多さは、女の捕獲を前提に記述されていると思ったけれど、田村一等兵は女には飢えていなかったのだろう。後半の人肉を食する出来事の前ではもはや女は些細なことでもあるのかもしれない。でも比喩は筋書きを予測させるものなのである。
2) これは一番重要な点であるが、既に死んでいると認識している(48頁、61頁)、死を予感している、死に向かっている(68頁)田村一等兵は、人肉を食らったとしても道徳的に苛まれるだろうかという点である。無論、人間は矛盾に満ちているため自らが半ば死んでいても、飢餓のために死人を食らおうとすることは十分にあり得る。ただ、死肉に手を伸ばそうとすると左右の手が拒否と肯定とを示す分裂症的な動きを示すだろうか。この左右の手の動きは恣意的な不自然な筋であり、観念的に描きたかったために違いない。本書では教会の記述があるが、キリスト教の左右の手の価値が異なることと関連しているのかもしれない。
3) 『草や木や動物を食べていたが、それらは実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである』(135頁)こうした田村一等兵の観念はある種正常とは思われない、異常である。こうした観念は自らが人肉を食することを拒否するものではない。むしろ正当化しているために異常なのである。つまり田村一等兵は人肉を食することで倫理的に悩むことなどないはずである。即ち、もっと正当な倫理的観点から心理も含めて正確に記述して、整合させて欲しいと切に望むのである。
4) 人肉を食らう仲間を殺す時の文章である。『私は怒りを感じた。もし人間がその飢えの果てに、互いを食い合うのが必然であるならば、この世は神の怒りの跡にすぎない。そしてもし、この時、私が吐き怒ることが出来るとすれば、私はもう人間ではない。天使である。私は神の怒りを代行しなければならない』こうした田村一等兵の心持はもうありきたりの倫理感に戻り、神に成り代わって人肉を食らう者、嗜好する者を殺すことに罪など感じない、むしろ罰しなければならないのである。このため殺人は無論正当化できるはずである。
5) 言い換えれば、これら人肉を食べた仲間を殺して精神病に陥るであろうか、発狂するであろうかと言うことである。上述したように著者の論理では気違いになるはずなどない。つまり、これまでの一連の筋の流れでは、拵えた脚色が自然ではなくて齟齬を生じているのである。即ち、田村一等兵は倫理的に苦吟する必要はない。苦吟するならば、もはや死んでいるはずの自らも含めて殺すべきである。なぜ、田村一等兵は発狂して精神病に陥るのであろう。人殺しをしたためか、人肉を食らったためか。無論、戦争などの極限状態において発狂する人間は少なからずいるはずであろう。けれど、論理や倫理感からのみで発狂などしない、精神的な極限状態に耐えられなくなったために発狂しているはずである。その精神状態を描くには本書のような明晰な文体では描くことができない。理由などなく突然発狂する心理を表現する文章は、明晰ながら錯乱する文体であるはずである。
6) 無論、人間の観念は整合性を欠いて矛盾に満ちている、そのような矛盾に満ちた文章を書く時もある。それが作家でもある。でも、本書の筋は観念に満ち溢れていてあまりにも矛盾している。帰還した後も妻は精神医と逢引している。女は淫売であると田村一等兵は言っているが、むしろ淫売の妻の肉体を貪り食うのが田村一等兵にとって最良の筋なのではないだろうか。「武蔵野夫人」の最後では、道子の死を知った帰還兵なる勉が一種の怪物になると記述されている。たぶん、怪物とは単に性に溺れるのではない、ある種の道徳や価値の破壊を含んでいると思われるけれど、まず妻の肉体を貪り破壊して殺すべきなのではないだろうか。田村一等兵は妻の心を殺すだけではない、肉体を殺さなければもはや本物の精神病患者ではないはずである。この最後の精神病棟での話は蛇足に近い。でも、本小説を成り立たせるには必要不可欠な説明すべき点もあるのだろう。それなら、もっと田村一等兵なる精神病患者の真実の心理をより詳しく書かなければならない。
7) 最後に、本書に記述されている野火の意味である。野火とは兆候なのである。それを見た順序、その数が継続して兆候が具現化してくる。著者は『実は彼等を食べたかったのかもしれなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったのかもしれなかった』と結んでいる。つまり、野火とは食らうべき人間が居る場所を示していると書いて、やはり矛盾を言い表している。本書では、人肉を食べては嘔吐する嫌悪感を示しながら、人肉を食べたい欲望なる倫理観も指し示しているのである。これらの倫理観はどちらも無効とすべきなのであり、記憶の欠如も精神の錯乱もありはせずに、これらもすべてを無効として発狂させるのが本来的な正当な筋書きである。もしや本書のさまざまなこうした矛盾は、ありきたりの倫理観を覆って隠すために著者がさまざまに混乱させ作り出しているために生じているのかもしれない。何度も言うが、人間の心持が自然に描かれていないために、また倫理観を多層に多重に含んで表現されているために、本書はある種作為的な、拵えものの作品であるという批判は免れないはずである。
つまり、結論として本書は状況小説であり、観念小説でも事実や経験小説でもない、著者のこの状況に対する憤怒が書かせた作品である。でも、拵えた作品であることが惜しまれる。
以上
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2018年3月30日(金) |
題:横光利一著 「上海」を読んで |
横光利一の初期の長編である。初めて読む、横光利一の長編作品である。女や男の人物描写の類似性や説明的な会話など細かな欠点はあるけれども、これらの欠点を超えた良い上質な作品である。植民地上海における志那や日本や英国、インドにロシアにアメリカ人などの人種と言語のるつぼ、資本家と労働者階級の対立、特に工場におけるストライキと街頭騒動に忍び込んでいるマルクス主義、雑然と退廃しながらも活力ある生活圏、売婦と踊子にトルコ風呂、材木や綿糸の商売に暗躍する人間たち、各国の争い、そして男と女の愛の純粋性とすれ違いなどが重なって描かれていて、上海という混濁した街とそこに生きる日本人のアイデンティティーとが重なり描かれている。本書の最後の記述はまだ終わりではない、まだ記述し続けなければならない。そして決してこの記述に終わりがくることがない。なぜなら上海という街は姿形を変えて変貌し生き続けているために更に描写し続けなければならないためである。
横光利一の「序」では、本書の作成動機を『私はこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、むしろ自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいという子供っぽい気持ちから筆をとった』と述べている。でも、五三十事件なる歴史的事実に基づいて忠実に記述しているつもりが、出版の都合上、概観を描く以外に許されない不便を感じたとも述べている。五三十事件とは『1925年、日本人が経営する上海の紡績工場で労働者が解雇され殴打されたことに、上海の労働者や学生が抗議し、それをきっかけに引き起こされた流血事件である』横光利一は実際に上海に一箇月程度旅行して街を観察していたようである。しかし、本書はこの五三十事件を超えてある種の普遍性を持って描かれている。それは先に述べたように圧倒される上海という混濁した街とこの上海に生きる男女を斬新な感覚的な文章で綴っているためである。切り口を以下のように分けたい。切り口を分けると説明が容易になるためである。1)心理を極力排除した感覚的な文章による既存の文学からの脱却、2)プロレタリア文学との関係、3)日本人としてのアイデンティティーの追求、4)愛と愛の崩壊というより愛と恋愛の不成立、5)ニヒリズムであるか、などを切り口として論じてみたい。
この話を進めるために簡単にあらすじを紹介したい。複数の男女が断章ごとに主役となるが、主人公は参木であろう。参木はお杉、芳秋蘭、宮子、ロシア人オルガ、競子などと関係性を持っている。関係性とはこの世界において相互に認識していること、あるいは肉体的な関係を持っていることである。参木は銀行に勤めている、不都合なことに上司の横領の証拠隠しを行わざるをえない。彼は自らが活きていることは親孝行のためだけだと思い、死を願っているニヒリズムに浸透されている。けれども、ある種純な生き方をしている男である。つまり上司の不正を正して職を失い、女たちともみだりに肉体関係を持たない。うぶなトルコ風呂の湯女お杉を好いていて嫁に欲しいとも思っている。一方昔の恋人競子の夫が死に競子が日本から上海に来ることも願っているのである。お杉は参木を好いているばかりに女主人から怒りをかい解雇される。そして、参木の部屋に行き、そこに居た甲野か参木なのか暗闇の中で純潔を失うのである。どちらかが分からない、彼女は参木にすがり付くことができずに売婦に身を落とすのである。
もう一人の重要な女性、芳秋蘭は工場に勤めている工作員である。美しい女であると参木たちの仲間では噂になっている。騒動を通じて参木は芳秋蘭と知り合いになり、思想などを論じる以上に、芳秋蘭と参木は心を通わせるようになる。芳秋蘭は参木を愛しているのである。だが、共にいる時間は少なくて、参木は争議現場を訪れては芳秋蘭の姿を探している。彼女から別れを告げるかのような、もし生きていたなら訪れてくれという場所を記した紙片を受け取りながら、もう会うことができない。宮子は踊子で多数の外人の愛人を持ちながらも参木を好いている、一方軍人の父が殺された過去を持つオルガも参木を好いている。オルガはある男の愛人であり参木に押し付けられたのである。上海は騒動を通じて食物が手に入らなくなり、飢餓状態になる。参木も飢えながらお杉の部屋を訪れる。やはり何も食べるものがない。暗闇の中でたぶんお杉だろうと思いながら参木はお杉を抱いてやらなかったことが一番の悪事だと思いながら、寝床の中に誘うと、ぽってりとしたお杉の体が寄ってくるのである。
以上、女たちを中心にあらすじを示したが、上海と言う街の喧騒としたかつ労働争議が多発して混沌とする状況の中で実りない淡い恋役を芳秋蘭が演じているなら、お杉は参木に生きるうえでの根底的な安らぎを与えてくれる、でも体を張って生きている、娼婦に身を崩した哀れな女なのである。芳秋蘭が概念的であるのに対して、お杉には暖かな肉感性がある。このお杉の柔らかな肉感性の方が良く描かれている。これは、本書の特徴を、いやむしろ横光利一の特徴をよく表しているに違いない。長くなりすぎるので簡単に示すが、2)プロレタリア文学との関係、とはあまり関係のない文学である。解説によると横光利一は大いに関心を示したようだが、実際プロレタリア文学の最盛期に描かれた小説であるけれども評価は低かったようである。小林多喜二の「蟹工船」と比較すると一目瞭然である。「蟹工船」では具体的に争議が描かれていて資本家と労働者は敵対関係にある。その点、「上海」なる作品は曖昧模糊とした群衆の争議を描写しているだけである。無論、思想的な話も結構加わっている。でも、それは会話で相手の心理的な攻撃材料として欠点を探して突こうとしているだけである。こうした横光利一の視点が「機械」などプロレタリア文学ではなくて、心理小説へと移って行ったのは当然であろう。
1)心理を極力排除した感覚的な文章による既存の文学からの脱却、とは文章を読んでみれば良く分かる。例を取り上げたいが止める。日本では珍しい文章であり、アルフレート・クビーン作「裏面」などを思い出させる。3)日本人としてのアイデンティティーの追求、とは上海における日本人であることである。このアイデンティティーに関しては論じないが、人間としてのアイデンティティーへと横光利一は移行していくのである。4)愛と愛の崩壊というより愛と恋愛の不成立、とは難しい問題である。逆説的に言えば参木とお杉とは困難な状況において愛が成立しているはずである。それはぽってりと柔らかな肉体においてである。谷崎潤一郎の腐乱していく肉体とは異なった生きた肉体であることが肝要である。谷崎の初期の肉体とも異なっている。妖しさや魔性を欠いていて、柔らかな暖かみのある肉体なのである。ただ、最後の場面にてお杉の体を暗闇の中で抱く時、一瞬、癩病に罹っているのではなかと恐れたが、抱き寄せるだけで小説は終わっている。たぶんそういう病状は無いに違いない。5)ニヒリズムであるか、確かに参木はニヒリズムを内包している。このニヒリズムは上海において生じているのではない、生きていくうえでの誰もが感じるニヒリズムである。彼のニヒリズムは生きていく上で、どういう結末を迎えるのか、横光の「旅愁」などの作品を読んで論じてみたい。
いずれにせよ、横光利一は確かに読みたくなる作家である。もっと評価されても良いと思うけれども、こればかりは如何ともし難い。上海にも行ってみたいものである。混沌と混濁した街は小ぎれいな近代都市にきっと変貌しているだろう。本小説の名残りのような貧民街が残されているかは知らない。
以上
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2018年3月23日(金) |
題:レーヴィット著 熊野純彦訳「共同存在の現象学」を読んで |
初めて読む哲学者である。著者は本書の題名「共同存在の現象学」の通りに、人間存在の構造は互いに共に在ることであるとして、主に〈私〉や〈きみ〉の人称の観点から論じている。訳者熊野純彦の「解説」では、レーヴィットは名高い存在論哲学者ハイデガーの最初の弟子であったらしい。そしてハイデガーの批判者でもある。ハイデガーの存在論での「共同現存在」では、世界内存在としての世界を共有する現存在は〈ひと〉である〈自己〉として存在して、共同存在の積極的な可能性としての〈私〉や〈きみ〉の相互性の存在の視点が欠けているとレーヴィットは批判するのである。ハイデガーの「存在と時間」の草稿をレーヴィット読んでいて、「存在と時間」と同じ時期に、この「共同存在の現象学」における存在論を書いていたことである。そして、ハイデガーはこの「共同存在の現象学」なる教授資格請求論文を認めるのである。
こうしたとハイデガーと他の哲学者を含めた関係や手紙のやり取りは面白いけれどもそれほど関心を引くものではない。レーヴィットは日本にも滞在して1936年から哲学を講義していたとのこと。それよりも熊野純彦の「解説」は本書の解説も含めて詳しく記述されているが、一番関心を持つのは、レーヴィットのハイデガーへの批判の先鋭化である。存在と存在者とのとの関係がハイデガーにおいて転向する点を指摘する。確かこの思想の変遷は別の哲学書でも読んだことがあるはずであるが、引用するとハイデガーの思想が『現存在は存在者の全体へと自らを開き、そのことで存在者がなんであり、いかにあるかがが、その存在において開示される』であったが、『存在がおのれ自身を与えることによって存在者全体のなかに明るみが初めて開け、それが現存在の脱自的実存を可能にすることである』(496頁)と変わるのであり、現存在と存在との関係における微妙な差異があるのである。つまり、現存在、存在者と存在、それに存在者全体との関係が逆転させられているのである。
この変化はハイデガーの総長就任演説にて示されている。即ち、現存在の役割の本来的な生起とはかけ離れて、ナチズムの運動に期待したドイツ的な現存在への変革へと繋がる演説をハイデガーは行ったのである。この思想の変化を私流の言葉で述べれば、現存在が存在へと開示されるボトムアップであったはずが、トップダウンとなり存在から現存在が実存可能となるのである。即ち現存在は存在者全体へ自らを開示するのではなくて、存在者全体があらわれて初めて自らの存在に意味ある明るみが差してくるのである。レーヴィットの痛烈な表現によれば『ハイデガーの総長就任講演を、読者に想起させる必要があったのは、政治的行動が哲学的思考と一体化することがあるのを示すためではない、事情によれば思考は、その思考自身の特定の前提を暴露するような実践的帰結を生むことを示すためである』帰結が前提とする思想を暴露するという言い方は本当に過激である。このハイデガーの総長就任講演に関して多くのことを知りたければ、多くの著書が記述されているはずである。もしやハイデガーの実存思想の存在の本質を見失った存在の「頽落」こそが、まさに思想の頽落的な状態であるとさえ思われるのである。この総長演説こそ、哲学が政治におもねったと言われてもいかし方ないだろう。弟子であり愛人でもあったアンナ・ハーレントの「悪の陳腐さ」という言葉で正鵠を得ながら、友人などの非難の合唱となった絶望的な状況とは大きく異なり、ハイデガーは自らの保身を行ったとも受け止めることができるのである。
少し寄り道をしたが、本書「共同存在の現象学」はフォイエルバッハの次の三つの問いに答える形で展開している、なかなか面白い奥深い記述をしている著書である。
1) 或る者はどのようにして、他者たちのなかでひとりの〈きみ〉とであうのか。
2) 〈きみ〉は現実に、ひとりの〈私〉にとっての〈きみ〉にすぎないのか。
3) 〈私〉は現実に、ひとりの〈きみ〉にとっての〈私〉にすぎないのか。
もう詳細は述べないが、人間の生の自然的なかつ精神的な人間存在の存在論的な基底として捕らえる「両義性」という概念には注意したい。この存在論的両義性は、両義性の哲学ともいえるメルロー=ポンティの哲学とは異なって、共同相互存在や道徳とより多く絡んでいるためである。また、ジョルジュ・バタイユ著「宗教の理論」にて示される社会との関係もあるけれど、レービットの共同相互存在がバタイユの社会へと至る礎となっているとは思われない。この「宗教の理論」の内容を簡単に示すと次のようなものである。世界における単独な個別性を持つ人間が事物へと還元されて不安に感じている、この人間が供犠や祝祭を通じて内奥性・内在性を回帰させるのである。供犠や祝祭は労働生産物の激烈な消尽であり、暴力性であり、この世界から外に出ることである。この世界はレーヴィットの「周囲世界」や「共同世界」として述べられている「世界」とは異なっていながら、とても関心を引くものである。いずれにせよ、存在論的な世界と宗教的な世界とでは、存在論的に捕らえるか宗教的現象として捕らえるかの違いはあるはずである。
いずれにせよ、共同に存在するとの思想は、他者構造を扱う哲学というより、この社会にもっと広くて深く根付いていると思われる。
以上
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2018年3月16日(金) |
題:ツルゲーネフ著 神西清訳「はつ恋」を読んで |
どうもロシア文学は苦手である。でも、ドストエフスキーなどはとても良い。なぜ苦手なのか、文体が饒舌なためだろうか、苦悩や絶望していても生きる命が躍動し過ぎているためだろうか。つまり、絶望しても恋愛が破綻しても人間たちは生き生きとして悩み苦しみ、表情に富んで表現されているのである。それとも、ただ単に文章が長すぎるためであろうか。でも、長すぎて読むと飽きて疲れてくることもあるが、一気に読むこともできるのである。他に原因があるのかもしれない。
本書は短いし手っ取り早く読むことができる。ツルゲーネフの描写力あふれる文章はやはりとても良い。以前読んだ時には、父親の後妻に恋したと思っていたが、違っていた。あらすじは、ヴィラジミールは隣に越してきたジナイーダに16歳の時、恋をするのである。年上のジナイーダは魅力に溢れる女性であり、幾人もの取り巻きに囲まれて女王然としている。当然、ヴィラジミールも恋の虜になり苦しむことになる。ところが、ジナイーダの様子にも苦しみが見え始める、冷たいながらも尊敬し憧れていた父といつしか密会している。ヴィラジミールの苦悩は頂点に達してジナイーダの偽りの愛を非難する。でも、ジナイーダは愛しているのは嘘ではないと言いながら、罪深いものがいっぱいあるとも言う。ある日父は縋り付くジナイーダを鞭にて振り切ると、ヴィラジミール一家は引っ越しをしていくのである。後年、ヴィラジミールはジナイーダが結婚して近くにいることを知るが、ジナイーダ会わないでいる。そのうちに、彼女はお産で死んでしまうのである。
本書の魅力は表現力に富んだ文章にて、はつ恋に苦しむヴィラジミールの心理を描いていることである。ただ、冷静かつ勇敢な父に、恋するジナイーダのはつ恋も裏書されていることが、より一層恋の苦しみを表している。裏書とはジナイーダと父との恋愛感情が記述されていず、ただ行間にて表現されているためである。年上の母にうんざりしている父がジナイーダに目を付けたことは記述されている。母の狂った嫉妬も記されている。ただ、ジナイーダと父との心理は、その行動も含めて極力排除されて描かれていない。このことが、ヴィラジミールばかりではなくて、女王然として気取っていたジナイーダの恋の苦しみを彷彿させ、本書のはつ恋に深みを与えているのである。
訳者神西清の解説では、ロシア十九世紀の文学は静かな深い憂愁が特質を表していると述べて、デンマークの文芸評論家ゲオルグ・グランデスの文章を引用している。ツルゲーネフの悲哀はスラヴ民族の憂愁、ゴーリキは絶望の憂愁、ドストエフスキーは虐げられた人々、罪びとへの同情の憂愁、トルストイは宗教的宿命観、更に加えてツルゲーネフを哲人と称し人間を愛する憂愁だと述べている。哲人という言葉はふさわしくないとも思われるが、まさしくツルゲーネフが人間を愛していることは本書を読めばおおよそ分かり得る。誰も悪人は居ずに、それぞれが行動を起こした結果に善悪の規範もない、ただ人間が居て行動を起こし、その行動の結果を含めてどの人間の生も肯定しているためである。
こうしたロシア文学が「憂愁」の一文字で語り得るのか、調べるには並大抵の努力では成すことができないはずであるけれど、なかなか関心の引くテーマである。更にロシア貴族文化の崩壊とソビエト、更にソビエト崩壊後の文学を調べるのも良いのであるけれど、ロシア文学まで手を広げるとすることが多くなりすぎる。たまに短編でも読んでみたいと思っている。
以上
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2018年3月9日(金) |
題:森鴎外著 「渋江抽斎」を読んで |
森鴎外の文章が質的に高い、特に史伝ものでは文章の質的な極致に達しているとの評価があり、それを確かめるために読んだものである。森鴎外の他の作品で、「高瀬舟」は教科書にも記載されている。弟殺し、それも自殺しようとして死にきれない弟を殺し殺人罪にて島流しにされる男が喜んでいるのを見て、高瀬舟にて島送りする役人がその心境を尋ねることで成り立っている作品である。金も貰って島送りにされることで安定的な生活をできることを男は喜んでいる。ある種の明鏡な心境をこの男は得ているのである。役人は男の喜んでいる姿を見て、妻子を養う自らのあくせくした境遇に思いを馳せている。一般的には安楽死の問題が取り上げられるが、それ以上に日常に生きる者の日常に没した生活と超日常なる明鏡な心境との対比が明晰に描かれている点が評価されているのであろう、でも良く分からない。子細は省くが、島流しにされる男も役人の心情もよく理解できずに、作者独特の論理・倫理に従った話としてしか思われない。彼らの心境の対比が恣意的でいけないのである。島流しにされる男の心境を役人は黙って聞いている方が、作品としては明晰にかつ賢明な筋になるはずである。
「雁」は、妾なるお玉の医学生岡田に寄せる淡い恋、心を打ち明けることもできない恋の物語である。偶然に投げた石が雁に当たって食べようとする岡田と彼の友達、この岡田にお玉は恋心を告げることもできなくて岡田は洋行するのである。お玉と岡田の出会い、蛇との絡み、お玉の身の上話など文章も静謐に描かれていて、とても良い作品である。ただ、雁が石に当たって死ぬ、この雁を食するとは話に無理がある。あまりにも偶然性を強調しすぎている。蛇に襲われるところを助けても既に死んでいるなどの他の筋の方が良いであろう。森鴎外の作品は「舞姫」や「ウィタ・セクスアリス」などのリアリテイに富んで幾分切迫する作品もある。ただ、これらの作品も良いのであるが、どこか客観的で外側から眺めている感を免れ得ない。
つまり、夏目漱石の種荒唐無稽さを含み逸脱しようとする動的な文章、更に自らの心の内に巣くう何ものかを覗いて追及しようとする作品、主観性が際立ち抉り暴いて前のめりに心の内を伝えようとする作品とは明らかに趣向が異なるのである。そしてたぶん、この「渋江抽斎」を読むことによってその違いが明確にされるのである。森鴎外は心を表立って表すことをせずに、史伝の中に自らの身と心を安住させたのである。一方夏目漱石は作品の中に自らの身と心を葛藤させたその経緯を書いたのである。従って、結論から言えば、森鴎外の静謐に質の高い文章とは、自らをこの世界の外側に置いてわずかに対象物に心を吐露させながら、事実を客観的に記した文章である。自らの位置を現実から離して、現実逃避と言ってよいのかもしれない、自らを対象物に投影して隠居させた文章である。ただ、その穏やかに静かな表現はなかなか捨てがたい味があることは確かである。
渋江抽斎(1805−58年)は、鴎外が「武鑑」(旗本、幕府諸役人等を記載した名鑑風の書)を通じて知った弘前の医官である。本書「渋江抽斎」は同じ医者として、また文学など学問好きとして鴎外が惚れ込み交友関係や学問内容、記述した書、趣味並びにその人生の軌跡、妻に子や孫に至るまでを断章形式で記述した350頁程度の史伝である。固有名詞や漢文単語などが多くて読みにくい点もあるが、親族を語る時などは平易である。特に四番目の妻五百(いお)が後半の主役となり、その子陸(りく、別名長唄の師匠なる勝久)や保さんとは直接会っている。もしやこの作品は文武に優れた五百の史伝とも思わせるほど、五百に関する記述は舞姫に熱をあげた鴎外の余熱を微かに潜ませているのである、と言ってもあくまでも客観的で冷静な文章には変わりはない。五百は渋江抽斎の三番目の妻の死後、仲介者を通じて自らを売り込み嫁入りしたのである。時に、渋江抽斎が40歳、五百が29歳である。五百の強力譚、見事な処世術については本書に記述しているため省略する。また、本書は渋江抽斎の死後も子やその子孫へと話は続いているのである。
鴎外の渋江抽斎への愛着、五百の逸話など引用したい文章は結構あるが、鴎外の淡々とした良質な文章の内の一つだけぜひ引用したい。『抽斎が後(のち)劇を愛するに至ったのは、当時の眼より観れば、一つの癖好であった。どうらくであった。ただし当時において然るのみではない。かくの如きに物を観る眼は、今も教育家の間に、前代の遺物として伝えられている。私はかつて歴史の教科書に、近松、武田の脚本、馬琴、京伝の小説が出て、風俗の頽廃を致したと書いてあるのを見た』鴎外はさりげなく今日の教育家を批判しているのである。
夏目漱石の文章が「動態」であるとするなら、鴎外の文章は「静態」であろう、これら静・動の定義については省略する。また漱石が「狂気態」であるとするなら、鴎外は「正常態」であろう。「渋江抽斎」が精緻な静態であるのに対して、漱石の「文学論」は死んだ子を産んだのであり、「行人」の虫眼鏡でしか見られない小さな字は狂乱なる狂気態であるはずである。いずれにせよ鴎外は国と一体になった役人の立場にあって、諸事あろうとも医官としての役目を十分果たし国に尽くしたのである。一方漱石は英文学にて国に尽くすことができずに、むしろ英文学に裏切られ国に裏切られたのである。こうした立場の違いが文学とその作品の内容の深度に大きな違いをもたらしたはずである。作品の内容の深度とは、強度なる動力性、心理なる意識の流れの瞬間性、ある種の遮断と連続性とがシームレスとに分かち難く溶け合っているかどうかの作品評価の基準である。こうした観点から両者の作品の内容と深度とを解き明かすことができるはずである。
余分なことながら、今まで少しばかり読んだ作家から近代における日本の文豪を選び出すと、夏目漱石と谷崎潤一郎がずば抜けて存在する。なお、文豪と長編作家であり、動力性と瞬間性や連続性を強力に兼ね合わせて持っている作家である。
以上
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2018年3月2日(金) |
題:谷崎潤一郎著 「少将滋幹の母」を読んで |
谷崎潤一郎の作品は、「刺青」などの短編や「痴人の愛」、「春琴抄」、「鍵」、「細雪」を読んでいるが、「少将滋幹の母」なるこの作品が気になっていて、読んでみたのである。すると、谷崎潤一郎の一面に新たに魅せられる。たぶん、谷崎の作品を区分けすると、「吉野葛」などの短編に代表される抒情と郷愁に満ちた世界、「痴人の愛」や「鍵」などの作品における精神に打ち勝つ肉体の欲望、「春琴抄」における精神と肉体の解き難き融合、「細雪」における日常における連続した時間の内に存在する肉体、これらに分けられると思っている。ところ、この「少将滋幹の母」は肉体への欲望が肉体の崩壊へと繋がっている。そして、そこはかとなく母への郷愁を混ぜて、作者は作品の内に入りながら語り部となって、文章はきめ細やかさを欠くように粗く見えながらも、大胆に迫ってくる力強さがある質の高い作品になているのである。
「痴人の愛」や「鍵」などの単に肉体の欲望を描いた作品は他の作品に比較して作品の完成度は落ちるが、この「少将滋幹の母」は他の作品に比較して完成度がとても高い。崩壊する肉体への捨て難い愛着・執着かつ執念・怨念を美しさと醜さとを織り交ぜて書いているからに他ならないからであろう。あらすじを簡単に紹介する。なお、本小説は「今昔物語」など平安期の古典に題材を得ている。「少将滋幹の母」とは大納言国経の妻である。年老いた国経はこの若くて美しいこの妻を愛し寝床を常に共にしている。国経が若い妻に生ませた子の一人が少将滋幹なのである。ところが本作品の最初に登場する兵衛佐平定文、字を兵中という在原業平と同等なこの色男は、国経の妻と過去に密通している。左大臣藤原時平に問いただされて兵中は仔細を言わざるを得ない、事情を知った藤原時平は国経に贈り物などして宴を儲けさせるのである。そして、国経を酔わせて若くて美しい唯一の宝物を捧げ出させる。平中は悔しくてたまらず、時平の邸に住む若い母に子なる滋幹が訪れる時、滋幹の腕に歌を書くなどしてよりを戻そうとするが無理なのである。
そして、大納言国経は若き妻を失った悲しさ、辛さ故にか不浄観に陥っていく、その姿を滋幹は見聞きするのである。夜な夜な墓場に出かけて、腐りゆく若い女の死骸に国経は見入っている。なお、不浄観とは滅んでいく肉体を知って悟りを得ることであるけれど、国経は決して悟りを得ることは無い。この国経は滋幹に対して母のことなどについて語らう、でも滋幹は美しい母を、腐りゆく死骸に擬して思い込もうとする国経を許すことはできない。国経の死後一年後に藤原時平は死に、その後時平の一門は滅びていく。少将滋幹は時平以後の母の行方に思いを馳せている、もう幾余年過ぎただろうか、川の辺の清水の流れ、山吹の黄色い花の咲く庵の前で母に会い地上に跪いて、下から母を見上げ、膝にもたれ掛るような姿勢を取り、甘えているように近づき母の袂で涙を拭うのである。本書の読みどころは、時平が若き妻を奪う場面のリアリテイさと腐りゆく死骸に見入りながら忘却しようとする国経の若き妻の肉体への執念である。
谷崎潤一郎について肉体と肉愛は切っても切り離せない。それに心理が微妙に絡んでくる。芥川龍之介は谷崎純一郎のこうした性向を批判する。筋(プロット)論も加わってくる。これには触れないでおこう。もう記憶が薄れている。でも、谷崎潤一郎を論じる場合に肉体は避けて通れない。ただ、レヴィナスが示すように受肉した身体性と知覚の構造から論じる以上に、谷崎潤一郎の場合、身体性が知そのものと結びついている。知とは精神であり心である知性である。無論、谷崎潤一郎には、身体性の即ち肉体の優位性がある。肉体に執着する心があり、一方心を占有し狂わせようとする肉体があるためである。ただ、肉体を語るその時のこれら肉体と知との相互関係、即ち両者の揺らぎの強度によって谷崎の作品の性格が決まっているに違いない。「痴人の愛」や「鍵」など作品が他の作品に比較して劣るのは肉体の優位性からのみ記述しているためである。心が知へと昇華して知が溺愛する肉体を語る時、「春琴抄」や「細雪」やこの「少将滋幹の母」なる傑作が生まれているのである。無論、身体性と知だけの空間ではない、谷崎潤一郎には空間を彩る平安朝文学や日本文化や風景など稀に見る知性の広がりがあり、これらが作品を彩って豊かに仕上げている。もしや、レヴィナスが述べている他者へ向けて発せられる言語、即ち谷崎のこの言語からなる文章構造そのものがある種の肉体を持つ生命の連続する意味を表しているのかもしれない。こうした谷崎潤一郎の世界を論じるには、並大抵の力量ではできない。まあ、読者は彼の小説を読んで楽しむだけで深入りするのを避けた方が良いのかもしれない。調べるにはあまりにも多くの時間を必要とするためである。
そう言えば「不浄論」で思い出したのが、夢野久作の「ドグラマグラ」における腐乱していく死屍を書き写した確か六枚の遷移図である。絵は永代に伝えられる秘蔵の家宝でもある。谷崎が描いている死屍は知覚に訴えて知を覚醒させるその場限りの死屍である、これが生々しくとも、ある種の幻覚とも錯誤される一過性であることが救いになるのではない、この一過性が死屍の絵画と同様に永代性を兼ね備えている点に注意したい。なぜなら読者の頭の中に叩き込まれるためである。谷崎を論じるには、身体性と心との関係の揺らぎとして、言い換えるならば量子力学的な位置と運動力の関係に基づいて論じるのが一番良いのかもしれない。たぶん、この関係性が作品構造を解明させるには役立つはずである。この揺らぎに郷愁や歴史伝統性のパラメーターを加えれば、作品ごとに相当に理解し得る関係・関連図を描き切ることができるはずなのである。それでもきっと谷崎を解き明かすことは難しいに違いない。
以上
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2018年2月23日(金) |
題:フルーベール著 生島遼一訳「ボヴァリー夫人」を読んで |
誰もが褒め称えていた小説で、ずっと気に掛かっていたが遂に読んでみる。とても面白くてすぐさま読んでしまった。ボヴァリー夫人の不倫小説であるとのことであったが、確かにそうなのであるが、読後感はまったく異なっている。とても詩情に富んだ素敵な文章で律動感も良くて、決して色情狂の女を描いたのではない、何かもっと秘められたものが表現されている。本小説は1851年に発表されている。スタンダールの「赤と黒」は1830年に、バルザックの「谷間の百合」は1836年に発表されている。ゾラの「居酒屋」は1876年に発表されている。スタンダールやバルザックの伝統的なロマン主義小説というより、ゾラの自然主義小説に近い。ゾラの小説は「獣人」しか読んでいないが、たぶん「居酒屋」の方の主人公の破滅と同様の筋なのかもしれない。なお、本書は風紀を乱すとして裁判沙汰になっている。法廷に立ったフルーベールは「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったとのこと、結局無罪を勝ち得ている。なお、本小説ではエロチックな直接的描写は少ない、ボヴァリー夫人が何処で性的な関係を結んだのか、考えなければ分からないこともあるのである。
あらすじを簡単に紹介する。主人公ボヴァリー夫人こと、エマ(別の訳書ではエンマ)は修道院の時代から熱い恋を夢見る情熱家である。医者シャルルと結婚するが、真面目だけが取り柄の退屈な男で、次第に熱い愛を求めるようになる。若い司書レオンとの互いに秘めた思いは実らず、金持ちのルドルフと関係を持つようになる。ルドルフは遊び屋でボヴァリー夫人は結局棄てられる。ボヴァリー夫人は子を生むなどして貞淑に夫に尽くしていたが、レオンと偶然再会する。たちまちレオンとの情熱的な愛にのめり込んでいくのである。大金を惜しげもなく浪費し結局膨大な借金を抱えてしまうけれど、公証人に身を任せてうやむやになどしない、結局服毒自殺をするのである。
この小説の何と言っても良い所はフルーベールの詩的な文章であろう、風景も心理も詩情豊かに繊細に綴られている。エマの描写を読むとエマの美しさが、白い肌の美貌の夫人の溜息や息遣いが聞こえてくるのである。まるでフルーベールは自らの描くボヴァリー夫人を視姦しているようである。そして心の動きが巧みに描かれてその行動が納得できる。この小説はスタンダールやバルザックのロマン主義小説とは明らかに異なっている。もうだいぶ前に読んでこれらの小説の内容は殆ど忘れているが、たぶん筋立ての大きな枠組みは薄らぎ、謹厳さも自直さも出世欲も失われている。また、ゾラの自然主義の簡潔明瞭に筋を書いている小説とも異なっている。生島遼一はカフカやプルーストの二十世紀の作家に繋がっているとの評論家たちの見方もあると述べているが、それとも異なっているかもしれない。カフカのように抽象化して現実を描写し直すというより、物語を限りなく現実に近づけて現実そのものを描いているためである。読んではいないけれども、マドレーヌ味のプルーストに繋がっているかは分からない。
日本で言えば、志賀直哉や田山花袋といった自然主義文学をはるかに凌駕している。ただ、島崎藤村の「破戒」だけは「ボヴァリー夫人」の質の高さに限りなく接近している。島崎藤村そのものが詩情に満ちたかつ的確な描写力を持っているためである。でも「破戒」のハッピーエンドが物語を描くことに安んじているのに対して、フルーベールは決して安んじることなく客観的な描写に徹している。生島遼一はこの「ボヴァリー夫人」なる小説を『これは単純な女の一生の物語ではなく、思想の文学なのである』と述べているが、まさしくそのように思われる。この思想とは「この世界は謎など秘めていずに確かに在る」ということである。カフカがこの世界の謎を描いているとしたら、フルーベールは、因果は連鎖して生じてきてこの世界を満たしている、謎などない、ということでもあろうか。従って読者はボヴァリー夫人の美しさに酔いその死を嘆き悲しみながらも安心することができる。それは不道徳な夫人が自らの情熱にかまけて死を選んだという安易さにあるのではない、この世界にこの現実に秘められていることなどない、思い描き行動を起こすことによって確かな現実の肌に触れてこの内に生きていることが唯一の真実として認めることができることである。従ってシャルルの汎用な真面目さが報われないことを嘆いてもいけない、レオンやルドルフの女遊びを非難してもいけない。この唯一の現実世界に人間は確固として生きていて、この世界に蠢き悩んで苦しんでいても、世界の内にこの現実は確かに在るのであり、この現実の内に人間は存在していて思うままに夢を描き行動できるということである。これは実存主義のアンガージュマン(投企)とは異なっている点は注意されたい。投企とは自らの決断において自らを未来に向けて自らに成ろうとするのに対して、確かに投企するけれども、自らは欲望によって自らをはみ出るのである。因果律の網の目が張り巡らされているこの世界の内にて行動すれば、自らの思いもしない結果が因果に満ちて訪れてくるということでもある。
無論、フィッツジェラルドの述べる「人生は崩壊の過程である」とも異なっている。人生は生成の過程でもあり崩壊の過程でもあると言うべきで、両義性を持つものである。アルコール中毒や不倫は崩壊の過程と言うよりむしろ生成の過程と言う方が正しい。まさにこの世界に孕んでいる因果律を呼び起して自らを思うままに生成しているためである。この生成が崩壊や破滅を導いたとしても、因果律を完全に把握などできないためであろう。因果の網の目は複雑に張り巡らされていて、逆に自らの人生を幸福にできる結果もあるはずなのである。以上は単なる感想であるが、この世界の因果律と自己の投企と生成や崩壊との諸関係は機会があれば再考したい。それにはこれらの言葉の定義と共に、この世界の因果律とは何であるかきっちり見定めなければならない。
以上
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2018年2月16日(金) |
題:堀口大學著 「月下の一群」を読んで |
本書「月下の一群」の初版は1925年(大正14年)に発行されている。もう100年近く前である。掲載されている詩人は66人、全作品は340篇である。とても多い数である。知っている詩人は少ない、また知っている詩人の作品であっても、現代語訳とはとても異なっている。堀口大學の訳は古文調である。ただ、「海調音」よりも幾分現代語に近い、甘い香りのする訳である。ロマン派ばかりを集めたわけではないはずでありながら、異なった詩人の詩も同一訳者の手に掛かると同一語調の匂いになっている。
いずれにせよ恋に愛が中心である。語調が似ているため詩人を区別し見分けるのが大変である。でも、対象を見て感じる詩人が自らの感じ取る感性を疑うことなく信じていることは確かである、つらく切なく絶望的に語ろうともロマンシチズムに似た甘さがあるのである。従って眺め読んでいるとどことなく安心して、懐かしさに浸ることができる。即ち、まだ言葉やこの世界や人間に対する懐疑や錯乱や破壊が表現として生じていないためである。精神分裂症患者に似た狂気や拒食症に似た拒絶や嘔吐が表れていずに、本書における言葉は生きていて鼓動するリズムを失ってはいずに、正しく時を刻み流れているのである。極端に言えばこの世界の深く暗い底も覗き込んでいない、またこの宙の空虚な空間に否応なく位置して、心に秘めて渇望する、秘めて欲望し廃棄する、もはや失われている私も世界もまた無いのである。
ただ、こうした全般の話は、後半になると少し毛色に異なった詩人が表れて、少しリズムが狂い錯乱を忍ばせていて、読む者を喜ばしてくれる。主だった詩人や詩作品について評論したいが、どうもどれを選べば良いか分からないため、ただ気に入った幾人かの詩人の詩を何作品か引用し紹介したい。全体の詩から見るとロマンシチズムに似た甘さが少し変調している詩である。
ロマンチック
フランシス・カルコ作
樹木と空と煙と
美しい背景
やがて林の奥で
鳴り出すさびしい角笛
長い時がたつ
風はすすり泣きながら
破れた鎧戸に
雨を打ちつける
風が黙す
轍のあとの泥を
かいでいた驢馬が
急に嘶き出した
評)そんなに変わっているわけではない、少しばかりの抒情を含ませた基本は風景の描写である。でも、風景に装飾された主観的な抒情が密やかに伝わってくる。
行っておいで
ポオル・フォル作
行っておいで
つらいのは残るわたしだ
わたしの色香があせようと
お前は少しもかまはぬのだ
そこにいる三人の子供さえなかったなら
わたしもお前を忘れることが出来るだろう
行っておいで
つらいのは残るわたしだ
お前は本意なく自家にいる
三人の子供は、お前によく似ている
行っておいで
つらいのは残るわたしだ
わたしの目は青い
子供たちの目は黒い
子供たちも、お前のように
ちょっと来ては、私を愛撫して
さうしてまた行って了う
行っておいで!
わたしは操を守りませう!
行っておいで
思い出は私のために残るだろう
わたしのジャンよ、行くがよい
他の愛がお前を呼んでいる
わたしのジャンよ、行くがよい
海は美しい女だもの
評)去る夫に妻が言葉を投げかけているのか、平凡な詩と思われるけれど、青い目と黒い目、美しい海の女、そして伝わってくる妻の愛の思いが気に入ったのである。
雪
フェルヂナン・エロル作
雪がふる、雪がふる、地の上に
影がふる、影がふる、地の上に
落葉は何処へ行ったのか?
落葉さえ死んでしまった
そうしていま雪と影がふる
錆びた金槌で、悪戯な天使たちが
戸を叩いているらしい
少しづつ私たちを殺す天使たち
地平線の上には、ひくく垂れたわびしい雲・・・
暗い雲のように、人家はみなとざされて
そうしてそこらじゅうに、雪と影がふる
評)雪と影が降るのは天使たちが殺そうとしているせいなのか、静まり返っている村と人家が思い浮かんでくる。次郎と太郎の屋根に雪が降る詩を思い出すけれど、陰翳はまったく逆の方角に向いている。
以上
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2018年2月9日(金) |
題:プラトン著 久保勉訳「ソクラテスの弁明 クリトン」を読んで |
本書「ソクラテスの弁明 クリトン」はクセノフォーン著「ソクラーテースの思い出」よりも密度が高くて、ソクラテスの思想を明確に表している。ソクラテスの弁術を通じて彼の真意とするとことが細やかに表れている。ただ、本書はプラトンの創作も一部加わっているとも言われている。「ソクラテスの弁明」はまさに裁判におけるソクラテスの弁明を書いたものである。「クリトン」は死刑と決まったソクラテスにクリトンが脱獄を勧めるが、国の定める法律に従うとして、ソクラテスは拒絶するのでる。
「ソクラテスの弁明」では、神を信奉しているソクラテスは、巫女を通じてソクラテス以上の賢者は一人も居ないと信託される。こうしてソクラテスは自らの人間的な智によって他者の無智を暴いている。このため他者の誹謗と憎悪を受けることになったと裁判にて弁明する。この弁明時のソクラテスは毅然としている、他者よりも智に優れているとして少しの揺らぎもない。神がかっているとさえ思われるのである。もし憐れみを請えば彼はアテナイ人であるため減刑されることも有り得るのに、彼は自説を曲げることはしない、自説を通すことこそが神からの信託を守ることでもある。『思うに、人はいかなる位置にあっても、それが自ら最良と信じたものであれ、もしくはそれが指揮者によって指定されたものであれ、それを、危険を冒しても、固守すべきであり、恥辱に較べては、死やその他の事の如きは毫も念頭に置いてならないのである』と述べるソクラテスの主張は一貫している。
更にソクラテスは内なる声が聞こえてくると述べる。『私には一種の神的で超自然的な徴(声)が表れることがある・・内に一種の声が聞こえてくるのである』どこか神秘的ですらする。こうした者は、本当に正義のために戦わんと欲する者は、政治に就いてはならないとする。政治家は正義ではないのだろう、即ち、私人として生活すべきであり、公人として活動してはならないのである。ソクラテスはこうして政治家にならずに説法者となったのである。そして『違法決議をした諸君と行動を共にするよりも、むしろ国法と正義の味方となってあらゆる危険を冒すべきであると信じた』と述べて、ソクラテスは自らの主張を曲げない。このため彼に有罪の判決が下る。少しばかりの弁明に続いて、第二回の投票が行われて死刑の判決が下される。
死刑の判決を受けてもソクラテスの主張には変わりがない。『何かの不足があったために私は有罪となったのであるが、それは言葉の不足ではなくて、厚顔と無恥と、諸君が最も聴くのを喜ぶような言葉にって諸君を動かさんとする意図の不足である』 『死を脱れることは困難ではない、むしろ悪を脱れることこそ遥かに困難なのである。それは死よりも疾く駆けるのだから』そしてソクラテスはこう結ぶ。『しかしもう去るべき時が来た――私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれかがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰よりも知る者がない』こうしたソクラテスの言葉は神がかっているというより、徹底した自らの論理もしくは倫理を信奉しているが故に発せられているに違いない。
「クリトン」ではクリトンの脱獄の勧めに対して、国家と法について論じている。ソクラテスは神を信奉している。そして自らの内の声に従うことを自らの第一の役目としている。ただ、国家はソクラテスを育てた恩人でもある。ソクラテスの思考には、当時の都市国家が大いに影響しているのである。この辺りの都市国家の歴史や紛争についての記述は省略。つまりソクラテスははアテナイ人として育まれ権利を都市国家に守られていた。でも、自らの内なる声に従って無智を暴けば、無智であると説法を行っていること自体も含めて、もはや国家を欺いていたのである。この国家なる恩人が法に従い死刑を宣告したならば、もはや命を惜しみ背くことなく潔くそれに従うのことを選ぶのである。なぜなら国法を滅ぼす者こそが、ソクラテスが罪状として訴えられた青年を滅ぼす者であり、秩序ある国々と最も方正な人々とを避ける者なのである。こうしてみると、ソクラテスは最初から矛盾を犯していたのである。ソクラテスは自らの信念により説教を行い最初から国家を欺いていた、法を犯していたのである。その矛盾を死刑を宣告した国家の法に従うことによって、やっと自らを国と法との矛盾から解放することができ、潔い最期を迎えることができたのである。
国家(国法)と個人との関係はいつの時代も問われている問題である。例えば夏目漱石は「私の個人主義」において、国家と個人との関係を一方が増大すれば他方が縮小する、この均衡を図ることが大切と述べていたはずである。ただ、漱石は国家よりも個人を選んでいる、漱石は国家に尽くそうとして逆に国家に裏切られていたと感じていたはずである。こうした体制も含めて国家(国法)と個人との関係はいつも最適な均衡を保つように、解を求めなければならないのだろう。もし解を求めずにどちらかの一方に偏り均衡が破れると破綻する、まさに世界のどの国々においてもきっとこの法則は成り立っていると思われる。
ソクラテスとは智の代表者であり、自己矛盾などとは関係ないと思っていた。即ち、最高な規則である国法に従い死ぬことを単に選んでいたと思っていたけれども、自らの内に矛盾を含んでいてそれが死刑によって解消されるとは思いもしなかったのである。けれど、神が憑依しているソクラテスが矛盾を抱えているはずなど決してない、国法を遵守するそのことが自らの正しきことの証になると単に判断したものと思われる。いずれにせよ、毅然としたむしろ神の憑依したソクラテスの明晰に弁舌する姿は美しい絵になるに違いないと思われる。
以上
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2018年2月2日(金) |
題:クセノフォーン著 佐々木理訳「ソクラーテースの思い出」を読んで |
ギリシア哲学とは、哲学書を読んでいると良く引用されるが、良く分からぬものである。哲学的な系譜も複雑である。ソクラテスが中心にいてその前期、その後期と分けられるようである。どうも、日本大百科全書によると、ソクラテス以前では、ヘラクレイトスは世界を生成し消滅する存在者として捕らえる、即ち存在者とその存在者を成り立たせる非存在者との相克と拮抗が動的に調和して世界を成り立たせているとする。これがロゴス(ことば、構造)である。また、パルメニデスは感覚的なものの背後に不変不動な存在が理性に対して具現するとして、感覚に現象する生成・消滅する事物の成り立ちを自然の内に求めるように展開したと記述されている。
ソクラテスはこうしたヘラクレイトスやパルメニデスの考え方に基づいて哲学の端緒を開き、即ち徳の問題、人間が善くなることとして、人間の行為の根拠の問題へと移していくのである。人間が自分にとってもっともたいせつなこと(善)をまだ知らないということを悟り(無知の知)を誰にも尋ね、探求する。これが愛知(フィロソフィア―、愛知)である。ソクラテスの弟子プラトンは、人が魂の目をもって内に見うるものにこそ真実在があると考え、これをイデアideaと呼ぶのである。このイデアが哲学書を読むと良く論じられている。自己の外に、感覚を通じて触れうるものは、いつも生まれてくるとともに、いつも過ぎ去っていくもの、流動変化を免れない影のようなものである。この見える感覚界から見えないイデアの世界に転向していく魂の動きが愛知(哲学)とな。なお、プラトンの弟子アリストテレスは存在の現象が感覚的経験に与えられるとする点で、自然学者の立場に立ち戻っている。
ギリシア哲学の系譜を簡単に文章にまとめたが、まだまだ良く分からないものである。一番良いのは、ギリシア哲学に関する本を一冊読むことであろう。ただ、そこまで詳細に知る必要もないとも思っている。まずはソクラテスを知ろうとして本書を選んだのである。無論、プラトン著の「ソクラテスの弁明」も読むつもりである。ソクラテスは国家の神々を信奉せず、新しい神を輸入し、また青年を悪化せしめたとの罪状を被せられて処刑されるのである。本書はソクラテスの弟子クセノフォーンがソクラテスの行動と言葉を思い出として書いたものである。クセノフォーンはソクラテスの処刑時には軍務に服していて立ち会ってはいない。従って本書は書題の通りにソクラテスに関する思い出なのである。どの場面や質問にソクラテスがどう答えたかが主な記述になっている。プラトン著の「ソクラテスの弁明」に比較して、ソクラテスの思想の奥を捕らえていないとの評があるが、クセノフォーンは哲学者ではない。ただ、ソクラテスの言葉と態度からソクラテスの雰囲気が伝わってくる。
ソクラテスの思想を表していると思われる文章の内から一つだけ紹介したい。『彼は正義をはじめにその他のすべての徳も智であると言った。なんとなれば、正しい行いやその他のすべての徳性によって行われる行為は、みな美にして善であるからであった。そして美にして善なるものを知る人々は、それを措いてほかのものをえらぶことを決してしないであろうし、またそれを知らぬ人々はそれを行うことができず、たとえ行おうとしても失敗するのである。こうして、智者は美にして善なることを行うが、智者ならざる者は行い得ず、行おうとしても失敗するのである。されば、正義およびその他の一切の美にして善なることは徳によって行われるのであるから、正義およびその他の一切の徳が智であることは明らかだというのであった』これらクセノフォーンの文章に表されていることはある種伝わってくる。でもソクラテスの思想をどの程度に正確にかつその質も含めて展開しているかは分からないのである。
余談になるが、本書を読んで気付いたのであるが、ソクラテスの論法にはある種の特徴があると思われてしかたがない。例えば正義に関する論争において、「君が正義とは何である意見を述べないうちは、いかなるものか決して聞かせない」と論争相手はソクラテスに言い張る。ソクラテスにとって「言葉よりも行為の方が値打ちがある」のであり、「不正なことを避けるのは正義」なのである。更に論争相手はソクラテスに「君は正しい人が何を行うかを言わずに、何を行わないかを行っている」と指摘する。この反論は正しくソクラテスの思考の論理を言い表している。言ってみれば、ソクラテスの論理には抱合関係の言い回しの妙があると思われて仕方がない。正義なる「何」の抱合関係である。即ち、正義+不正=全体の行為であり、正義=正義1+正義2+・・正義nである。「何」として、正義1や正義2に正義nだけを指し示すと、「正義⊃何」となって、不足している正義を指摘され論争に負けるのである。「不正なことを避けるのは正義」として「何」を不正でないものと言えば「正義」として何ら不足することはない。まあ、これはソクラテスの言葉を良く分析しないと確定できないであろう、単なる思いつきである。
やはりギリシア哲学に関する解説書をまず一冊読むことが、ギリシア哲学を少しは知ることになるに違いない。
以上
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2018年1月26日(金) |
題:横光利一著 「機械、春は馬車に乗って」を読んで |
横光利一の作品も読んだはずであるが、どうも記憶がない。一番有名な「機械」を読むことにする。驚いたことに長編と思っていたのが、本書は短編集であって、10作品が掲載されている。「御身」、「春は馬車に乗って」、「時間」、「機械」、「比叡」の五作品を読む。またまた驚いたことに、横光利一の作品はとても優れているのである。私の感覚にはとても合うのである。どうも川端康成などと共に新感覚派と言われているらしい。この感覚の新しさは文章に的確に表れていて、川端康成などとは比較にならない斬新さがある。ただ、川端康成の誰にも読まれる作品とは異なって、横光利一の作品は詩文とも言えるところがあり、誰にも受け入れられるわけではないだろう。現代においてもこの斬新さは通用するはずであるけれども、受け入れるかどうかは定かではない。でも、作品発表後、横光利一は相当人気があったらしい。志賀直哉と同等に文学の神様であったらしいが、本当かどうかは分からない。
あらすじを簡単に記述する。「御身」は姉に娘が生まれ、叔父さんになった男の娘を溺愛する話である。なお、御身とはこの赤子なる娘のことである。「春は馬車に乗って」は肺病やみの妻を介護する男の妻との言い争い、苦悩、憂愁を書いた作品である。病弱の妻の寝ている部屋に夫が贈られてきた花束を持って入る、この花が馬車に乗って春を運んでくるかのように思われるのである。「時間」は劇団員女四人に男八人が宿賃を払えずに置き去りにされる。病弱な女一人を背負い、雨降る中、この者たちが宿から逃げ出す話である。追っ手を恐れながらぬかる道をもめ合い空腹であっても逃げる。時間とは胃袋に詰める量とも思われるのである。「機械」とはプレートを化学薬品で作る製造所での、金を知らぬうちに落としてしまう主人、その主人の技術はだが確かで、製造技術が盗みだされると勘ぐる私と他の雇人との疑心案戯、特に特注品を受注した後の一人を加えた三人の肉体的かつ心理的に複雑に絡み合う争いを書いたものである。やっと納品できると主人は金を落として失う。もう三人は酒を飲むしかない、でもその酒に毒が入っているのである。機械とは現実を明瞭に計っているものでありながら、鋭い先端を持っているものなのでもある。「比叡」は夫婦して旅に出かける。無論、比叡山である。
「解説」で篠田一士が書いている短編と長編の話は面白い。文士は貧乏で短編を書き雑誌に掲載して高評価を得て、金を稼がなければならない。長編はその合間に書くのである。この短編と長編を、構成等を含めてそれぞれ上手に書く作家的能力を兼ね備えている一人が横光利一である。確かに横光利一の短編を読む限り、感覚的に斬新な文章であり、前にも言った通りに現在でも十分に通用する斬新さがある。もう一つ、「四人称設定」と横光利一が称した「機械」における四人の心理の絡み合いは、プルーストやジョイスの小説が日本に紹介された後に生み出された手法であるとのこと。なお、篠田一士は志賀直哉の影響を受けながらも独特の文体を生み出した横光利一の美学、倫理観を若干述べているが、省略する。それにしても横光利一はもっと評価され読まれるべき作家であると思われる。
「自然主義文学」や「プロレタリア文学」や「白樺派文学」よりもこの「新感覚派」の文学の方が私には好ましく見える。ただ、「新感覚派」の文学を調べないと分からないし、横光利一だけが好ましく見えるのかもしれない。長編「上海」と「旅愁」だけはぜひ読んでみたい。
以上
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2018年1月19日(金) |
題:ヘミングウェイ著 福田恆存訳「老人と海」を読んで |
実はメルヴィルの「白鯨」を読みたかったが、手元になかったためこの「老人と海」を読む。薄くてすぐに読み終えることができたのは幸いである。ヘミングウェイの著書は「日はまた昇る」もしくは「武器をさらば」を読んでいるはずであるが、あらすじもその時に感じた思いもすっかり忘れている。こうした老人の執念を書いた内容の小説の評価は難しい。
あらすじは簡単なので裏表紙の記述を引用したい。『キューバの老漁夫サンチャゴは、長い不漁にもめげず、小舟に乗り、たった一人で出漁する。残りわずかな餌に想像を絶する巨大なカジキマグロがかかった。四日にわたる死闘ののち老人は勝ったが、帰途サメに襲われ、舟にくくりつけられた獲物はみるまに食いちぎられてゆく・・。徹底した外面描写を用い、大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作』とある。ただ、次の重要な点が欠けている。不漁が八十四日も続き、一緒に漁を四十日続けた少年が、両親の説得にその後舟に乗らなくなり、サンチャゴは一人で漁を行っているのである。それでも少年は餌や朝食や暖房など老人の世話をしている、この老人一人で漁をしているときの出来事なのである。サンチャゴはこのマグロとの熾烈な戦いにおいて少年の助太刀がないことを数えきれないくらい嘆いている。少年は心配していた老人の帰港を喜び、暖房など優しく世話をして、また老人と海に出かけていくことにする。サメは大きな尻尾をつけた巨大な骨となって、潮と共に港の外に出されるのを待っている屑にしか見えないのである。
「大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作」との記述は、あらすじとしても批評としてもまさしくそうであるのであろう、でもうがった見方をすれば見当違いなのである。徹底した外面描写を用いるのはそうであるが、孤独の内に流れる老人の秘めた人恋しさが本書の根底に流れている。共同体社会を気嫌う老人は、負けず嫌いで闘かい勝ち抜くことしか考えていない。また老人は人の助けなど求めていない。ただ、何気ない優しさを受け入れてしまう老いた者の悲しさ、肉体的に衰えた者の世話してくれる若者へ知らず内に芽生えている許容心や依頼心が少なからず描かれている。そして闘った後の残り物は何ら価値を持ちえずに屑である。過重な労力よって得られた骨は巨大な屑であってもはや捨て去るしかない。ただ、この無意味な労働がニヒリズムを生み出すこともなく、またしても生の躍動へと繋げている点が関心を引く。それは、少年と一緒になってまた獲物を捕らえようと海に闘いにでかける日々が来るためである。
ヘミングウェイは短銃自殺しているはずであるが、その原因も、本作品や他の作品との関係も知らない。ただ、もしやこの「老人と海」はヘミングウェイの心に描く理想郷との推測も成り立つ。共同体の日常社会における人間たちの心理や性やその他の葛藤などが、少しも描かれていないためである。勝手な推測は止めて、福田恒存の「老人と海の背景」の要旨を紹介したい。20頁以上ある長文であり、本書の位置づけを良くまとめている。簡単に要旨を述べると、アメリカにはだだっ広い空間だけを描いた作品しかなかった。この空間へ脱出できることが現実にたいする信頼を生み出して、社会問題は解決できる、解決可能なものなのであるとの信頼感を持つが故に、福田恒存はアメリカ文学を共感できなかったと言う。一方、ヨーロッパの文学では内面的世界を描く個人主義的な壁にぶち当たっていた。精神を精神によって、自意識を自意識によって否定している文学なのである。この否定によってある種の抒情が生み出されていると述べている。
ヘミングウェイは自意識や精神を認めていないが、自意識を自意識によって否定するのではない、肉体や行動への無意識的な信頼によって自意識を否定しているのである。従って抒情は生まれずに、ハードボイルド・リアリズム、即ち肉体的な行動が生み出すアメリカ文学の伝統を受け継いでいる。そして、この作品は客観的な外面描写によって、彼自身の肉体的行動とそれに付随した言葉しか述べない理想像とも言える人間を描くことに成功しているのである。ヨーロッパ文学は自意識の文学という陥穽から逃れ出たいために、このヘミングウェイの外面描写や行動性を礎にした文学を高く評価したのである。
メルヴィルの「白鯨」ではどう描かれているのだろうか。本作品の大魚との闘いに苦闘しライオンの夢を見る老人ではない、きっと白鯨を追う唯一の執念に満ちた老人の姿が描かれていると期待したい。
以上
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2018年1月12日(金) |
題:カミュ著 窪田啓作訳「異邦人」を読んで |
本書の出だしは「きょう、ママンが死んだ」である、はっきり記憶している。最後は、あまりにも暑かったために男を射殺するのである。ただ、こうした記憶は曖昧でほんの一部でしかないことが、読むにつれて分かり愕然としたものである。最大の記憶違いは、第一部と第二部に分かれていて、とても良い作品と思っていたのは第一部であり、射殺した結果の続きが第二部に書かれていたのである。全体的に見れば、文章は少し甘みがあるけれども簡明でリズミカルでとても良い。こうした作品を評価するのは難しい。カミュとサルトルとの関係を思い出す。サルトルとの「反抗的人間」に関する論争ではない、サルトルの「嘔吐」や「出口なし」などとの文学作品との比較評価である。サルトルの作品は彼の哲学的思想と一体となっており、カミュの少し抒情的な文学作品とは異なっている。そして、サルトルはカミュの作品も細かく論評しているはずである。この論評を読んでみたいけれども、もはや、この「異邦人」のみの単独な作品として感想文を書きたい。「反抗的人間」もサルトルの作品もおぼろな記憶しかなく、読み直す気力もないためである。
本書のあらすじはこうである。なお、第一部は太陽の光と影、海と砂の匂いが満ちていてリズムのある文章である。この第一部は「きょう、ママンが死んだ」で始まる。主人公ムルソーは勤めを休み養老院にて行われる母の葬儀にでかける。金銭的に貧窮していたため母を養老院に預けるしかなかったのである。棺の蓋など開けず母の顔は見ない。次の日、旧同僚のマリイと海に行き、自らの部屋に泊める。ムルソーはアパルトマンで生活をしており、女衒屋とも噂される男とも親しく話している。男は情婦なのか女ともめている、女の背後にはアラビア人の男たちもいる、この男たちとも争っているのである。誘われるまま、女衒屋の友達の海辺の小別荘にマリイと一緒に行き、ムルソーは男たちとの諍いに巻き込まれる。女衒屋の男の逆上を恐れたムルソーはピストルを預かる。それが結果的に、ムルソーが一人でアラビア人に会ったときに、撃つことになる。一発撃ち動かなくなり、更に間を置いて四発撃つのである。第二部では裁判が開かれる。ムルソーが死んだ母の顔を見ない、次の日に女と関係する、四発の射殺の残虐性、動機は「太陽のせい」など言う、通常の倫理から外れた行為により死刑を言い渡される。ムルソーは死を恐れてはいない。神父が諭しても理解できない。ただ、処刑の日に大勢の見物人がやって来て憎悪の叫び声をあげることを望んでいるのである。
本小説は不条理小説と呼ばれているが、題名の通りに「異邦人」なる男の小説である。この異邦人とは、欲望が彼を動かし行動させるけれど、感情など世界との関係性は持っていない。当時のフランス文学・哲学界での思想の流れと無関係ではない作品である。ただ、それを述べるのは結構調べなければならず時間がかかるために感想は簡潔に述べたい。スピノザは身体性と精神の自己保存の衝動が欲望であると述べている。喜びや悲しみも含めて欲望は根本的な感情の一つであり、自己の維持に有益なもの求めようとする努力である、この有益なものが善なのである。ここで「欲望」なる言葉の意味が異なることに注意されたい。ムルソーには皮肉にもこの本来的な欲望なる感情が欠如していて、自己保存とは無関係な衝動によってのみ行動している。自己を保存させるこの欲望なる感情の欠如こそが、ムルソーにこの世界との倫理的な関係性や意味性を失わせているのである。メルロ=ポンティの述べる欲望とはこの世界とのやり取りを導く能動性を意味している。この世界とは環境であり人間であろう。ムルソーにこうした欲望も無くて能動性は喪失している。やり取りの無い卑小化したこの世界、断ち切られたこの世界しか彼にはないことになる。たぶん、ムルソーの世界は太陽の光と影、海と砂の匂い、女の体が満ちているだけなのである。
不条理とはこの世界そのものが意味を失っていることのであり、こうした世界では人間は異邦人にならざるを得ないとの主張があるかもしれない。けれども、こうした考え方はありえない。なぜなら、もともとこの世界は意味を保有していず、人間がこの世界に意味を付与しているためである。ムルソーはこの世界に意味を付与できない、人間的条件を満たしていない欠落した人間である。こうした異邦人は人間がこの世界に存在し始めてから夥しく居たはずである。ただ、だからと言ってどうということもない。そのまま人間として生きていける。極端な行動さえ起こさなければ、特異な孤独な風変わりな人間として生き続けていけるはずなのである。だが、カミュはムルソーに無意味な殺人を起こさせた。その結果、法の裁きを受けることになる。
なぜカミュがこの第二部の裁判を描いたのか、この世界における法的根拠の希薄性や流動性、道徳倫理上の固定観念や恣意性、信仰心の欠如の表現、というよりムルソーの異邦人としてのこの世界や人間たちとの関りも含めた詳細な性格付け、即ち関係性の欠如にあったと思われる。小説の構成上、射殺したからにはその結果を描かなければならない。第二部に裁判の経緯とムルソーの性格付け、特に処刑時の多数の観客が訪れを希望する記述によって小説の濃度が増し作品としての完成度が高まっている。事実、この小説の評価を高めているのは第二部があるためであろう。でも、第二部は記述する必要がなかったとも思われる。たぶん、第一部の殺人後、仲間や敵ともめ事を起こして逃走するか、殺させるか、警察に突き出されればよいはずなのである。恣意的な裁判を欠落させることによって、小説は不条理な人間の心理を含まない行動のみを浮き彫りにする。法廷を含んだ異邦人なる心理の記述は、逆に不条理や異邦人を書き過ぎていて通俗化させているとも言えるのである。
この第二部に描かれる裁判もカフカの「審判」と比較すると面白い。「異邦人」の裁判は正当な法廷の欺瞞な裁きによる刑の確定である。これに対してカフカの「審判」では欺瞞な法廷の審理を尽くさない裁判による、刑の執行である。「審判」の方がはるかに恐ろしい。はるかに不条理である。主人公は「異邦人」と違って刑の執行を望んでいないのに殺されるのである。結局、「異邦人」は太陽の光と影、海と砂の匂いが満ちている、この世界に人間は無意味に、不条理に無償に生きているということを示そうとしただけなのか。今読み返してみると、明らかに不合理である。なぜなら、そうした無意味さが「不条理」という言葉を流行らせても陳腐化している、もはや「不条理」という言葉は古いのである、と言う以上に、こうした無意味な現実は常に変わらず昔からあったのである。この無意味な「生」ということを明確にしたことで、「シジフォスの神話」も含めてカミュは歴史的な「不条理と異邦人」の概念の比較によって評価されるべきなのだろう。
ただ、今から思えば、論争に負けたとしても、きっとサルトルの述べる「革命」よりもカミュの「反抗」の方が正しい行動であり得ると思われる。でも、本当に正しいのだろうかと疑う時もある。なぜなら革命の側の規律と監視の厳しさが反抗の側の脆弱な多様さをいとも簡単に打ち負かすことができるためである。規律と監視の厳しさが内的に閾値を超えて不満の爆発や決起という事態に至らない限り、多様性がそこそこ認められる限り、経済が順調に発展しさえすれば束縛を受けても「革命」は結構住みやすいとも思われるためである。良く分からなくなるのは、「反抗」側の多様な議論が何も生み出していないように、徒労であるとも思われるためでもある。こうした思いは「反抗」が真実の「革命」の姿を知らないために生じているのかもしれないが、良く分からないのである。
以上
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2018年1月5日(金) |
題:坂口安吾著 「白痴」を読んで |
確かに読める、読めない作家が多い中で確かに最後まで本書は読める。ただ、何篇か読むと、同じ内容で飽きがくる。こういう作家の評価は難しい。本書は七つの短編を集めたものである。ほほ同じ時期に書いたものであるらしい。「いずこへ」は女を所有し、その女の従妹やスタンドの女と関係しながら、自分はどこに行くのだろうと嘆息する男の話である。「白痴」は自らの押し入れに入り込んだ白痴女との生活と空襲時の逃走の話である。一番良い作品である。「母の上京」はお好み屋の母娘や女として生きている男との関係が記述されている、この女として生きている男の思わぬ行為によって母の待つ部屋に入り込んでしまうのである。「外套と青空」はある男の妾に招かれる、外套を脱がないこの女を抱き締め情熱的に関係する、青空の下でも外套を着ている時と同様に熱く情交するのである。「私は海をだきしめていたい」は不感症の女と海に行くと、海に女が飲み込まれていく幻覚に襲われる、海と言う肉体を見るのである。「戦争と一人の女」は夜の空襲が始まってから被害の大きさに逆にもう戦争を憎まなくなる多淫な女が、複数の男に言い寄られながらも、一人の男と一緒になって空襲時の惨禍を逃れる話である。珍しく女が主人公であるが、文体は男そのものである。「青鬼の褌を洗う女」はさまざまな男に言い寄られながら、高年の専務の妾となり暮らす女の話である。この女の相撲の関取との浮気や処女を守り通す女と男の話などを含めているけれど、結局女は夜這いをかけてくるのが鬼であっても一緒に居たいと思っている。男に媚びながら生きたいと願っているのである。こう思いながらも女は専務の寝顔を優しく見詰めている。
福田恆存が坂口安吾は私小説の処世術を打破したいと願い、感傷を排除した観念小説を書いている、観念と現実のギャップがあることが彼に小説を書かせていると述べている。彼の述べる観念小説の意味が分からずに、観念小説とはもっと違った小説に用いるべきであり放置したい。また、夢想と現実の差がはなはだしくて、坂口安吾をロマンチスト評している。これもたぶん異なっているであろう。一見そう見えるが坂口安吾がそう装っているだけで、女の肉体を突き抜けた向こう側に、夢や理想や花咲く乙女や文学的に至高な魂の境地を求めているわけではない。むしろ、この世界に物質的な肉体が在ることを認めている現実主義者なのである。肉体が他者なる男と女を結び付けて現実に生き続けることを、生き続けなければならないことを明確に自覚し、そして実行している現実の肯定者なのである。戦後の闇屋上がりの強烈な生のダイナニズムを保有して、他者を含めた生の肯定者なのである。この肯定者は狂気も自殺も淫売や殺略さえ、ロマンさえも生の一部として飲み込んでいる大きな器であり、生命のダイナニズムそのものの内に生きているのである。魂などなくて交接する肉体だけを保有している女たちも、この物質的な肉体を保有するが故に彼と共に生きていける。肉体は神秘でもなく下劣でもなない、現実に生きていく故での確固たる位置を確保しているのである。坂口安吾が魂と声高に叫ぶのを間違えて捕らえてはいけない。彼は魂を信じていないし、かつ肉体へ欲情だけを求めているのでもない。うがった見方をすれば、肉体を含めて更に魂さえ含めて肯定しようとしているのである。こうした考えをまとめるには「堕落論」を読んでみなければならないが、まだ読んでいないために仮の考えにしておきたい。こうした考え方は、モーリス・メルロ=ポンティの「心身の合一」の思想の入り口の近くまで坂口安吾がやって来ていることを示している。肉体のイメージが強烈であるために見逃しやすい点である。更に坂口安吾には肉体が示す他者との共存関係がある。この話は後にて示したい。
坂口安吾のこうした文筆生活の源の思想を以上のように理解しても、彼の作品の質が高いという保証は与えない。むしろ、作品の質は並であってそれ以上でも以下でもない。文章力が特に優れているわけでもない、少し長ったらしくて冗長気味であり、呆れ返るほどの詩的さを欠いた、緊密さを欠いた散文なのである。そして、どれもが同じ作品に思われる。無論同じ時期に書いたためにそうなったとしても、テーマを変えることができなくとも、もう少しバリエーションを与えても良かったのではないか。これは坂口安吾の作家としての感性の間口の狭さを如実に示している。女を海に変えても、ただ文字面を海に変えただけで、波の音や磯の香りがしないのである。これは感性の間口の狭さよりも描写力の欠如に起因するのかもしれない。焼夷弾に焼かれた街並みや死体の描写もそれなりの生々しさが迫ってくるが緊迫感も押し寄せてくるが、焼死体をどうしても見に行くという登場人物の執念を目のあたりにすると、この執念には驚くけれども、描写力は負けているはずである。
こうした欠点を補って余りあるのが他者との関係である。「白痴」における文章を引用したい。『伊沢は米軍が上陸して重砲弾が八方に唸りコンクリートのビルが吹き飛び、頭上に米機が急降下して機銃掃射を加える下で、土煙と崩れたビルと穴の間を転げ回って逃げている自分と女のことを考えていた。崩れたコンクリートの陰で、女が一人の男に押しえつけられて、男は女をねじ倒して、肉体の行為に耽りながら、男は女の尻の肉をむしりとって食べている。女の肉はだんだんと少なくなるが、女は肉欲のことを考えているだけだった。・・女が眠りこけているうちに女を置いて立ち去りたいとも思ったが、それすらも面倒くさくなっていた。・・明日の日に、たとえば女の姿を捨ててみても、どこかの場所に何かの希望があるだろうか。・・夜が白んできたら、女を起こして焼跡の方には見向きもせず、ともかくねぐらを探して、なるべく遠い停車場をめざして歩きだすことにしようと伊沢は考えていた』この文章を読むとある種の哀切を感じる。女と一緒に行こうと考えるのは捨て去ることの面倒くささではない。希望を持てる保証がないためでもない。肉欲のみを考える女の尻の肉が食えなくなるためでもない。この女ではない別の女の肉を食べることもできるのである。それでも伊沢はこの女と一緒に行こうと考えている。安吾がいくら稚拙に否定の文章を並べよとも、この行為は伊沢の女への愛着のためであると考えるのが自然である。それは安吾が否定しようとする精神そのものが成させる他者への愛なる関係なのである。即ち、福田恆存が否定した感傷であり哀切なのである。こうした他者との関係を示した一文を見ると、坂口安吾は他者との共存の思想の持ち主であると言うことができるだろう。この他者との共存関係は男であっても本書内に見出され得るはずである。
以上
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