2017年12月29日(金) |
題:石牟礼道子著 「苦海浄土」を 読んで |
本書については、だいぶ以前にテレビで放送していた。読んでみたいと思っていたが売り切れで、入手したのは最近である。無論、本書は水俣病について書いている。こうした本の評価はなかなか難しい。幸い、渡辺京二が「石牟礼道子の世界」と題して、彼女が自身の生い立ちを記述した作品を含め、彼女の文学世界について的確に言い表している。渡辺京二の主張を簡略化して間違いを恐れずに言えば、彼女は幻想的詩人であり、彼女の個的な感性には共同体的な礎がある。この礎が人間の共同体的なありかたとその向こう側の世界を描こうとしていた時に、共同体を破壊する水俣病に出会い詩人の魂が内部からほとばしり出て、人との関係が切り落とされた自己と同じ境遇にある、これら同族をうたうことによって自己表現の場を得たのである。そのため本書はドキュメントでも聞き語りでもなくて、石牟礼道子の私小説であるとの主張である。この主張は本書を読む限り正しいと思われる。原田正純が「水俣病の五十年」と題して、水俣病の発生と闘争の歴史を書いている。本書の中でも取り上げているが、特に認定の難しさと見舞金の患者を縛り上げた契約条項が印象的である。原田正純が水俣病の原因の究明と裁判の経緯を書きながら、最後に実験学としての「水俣学」の学問的講座に、市民も参加できる最初の貴重な「カギ」が「苦海浄土」であると述べていることが印象的である。なぜなら、文学的な側面をまったく排除しているためである。
本書を読んだ第一印象は、病苦や貧困に悩まされながらもこの日常を純朴に生きる人々の姿に感動を受ける。でも、古来より伝わる出来事と心情の叙事詩的な簡明さや鮮明さによって描かれた文献と比較すると物足りないのである。それは本書の構成が患者の描写のみならず水俣病の病状の経過観察や市民運動の活動なども多く占めて、多彩に記述されているためであろう。なお、本書には続編があるらしく、その内容は確かめていない。もし、純粋に病者の話としてまとめていれば大いに異なった印象を持つはずである。そういう意味で本書は過剰な内容を盛り込もうとしたために、一部文学的には破損されたのかもしれない。いや、過剰であるからこそ学問的講座の貴重な「カギ」と成り得る文学なのである。こうした文学的評価について以下に記述する。文学とは何かという問いにもなるのである。
まず、水俣病の病状の経過観察や市民運動の活動は、病者の話に割り込み押し入って邪魔をする。個々の病者の話のうちの幾つか、山中九平少年の行政諸氏への依怙地な態度、解剖時に立ち合う内臓の物質な生々しさも良いけれど、仙助老人の時計のように正確な散歩が崩れてしまう、それでも一日三合の焼酎を飲む話の方が好きである。それ以上にあねさんと呼ばれる著者が、九竜権現さまを拝み、爺さんの話を聞きながら細い少年の体を抱き寄せ姿は思わず目を潤ませる。ゆき女が言う「舟の上はほんによかった」と言う言葉はどんな他の言葉より、不知火の海の青さの輝く平面に豊かな漁が行えて、心穏やかに日常生活を営んでいる住民の姿が浮かんでくるのである。こうした病者を中心にした、むしろ病者と住民の記述のみにまとめることができたはずである。更に、誰もが病気に強い不満を漏らしながらも憎しみを抱いていないのは稀有な例である。渡辺京二の主張に基づけば、この原因は石牟礼道子の感性から生じている。彼女の感性に共鳴する感情しか描いていないのである。
手元に無いが、デリダ著「ならずものたち」では原爆被害者は自然災害のように感じているとの記述が確かにあったはずである。だが、そんなことはない、憎しみを抱いているはずである。著者の「あとがき」に、死に行く患者の吐く言葉として、「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。・・上から順々に、四十二人死んでもらう。おくさんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」とこ記述があって、憎しみが表れていることに少し安堵する。おくさんがたにも飲んでもらうという所が憎しみの深さを表している。
ここでやっと気が付いたのであるが、私が足りないと思っていたのは、こうしたルサンチマン(憎悪)の感情なのである。自然への感謝や病苦とともに憎悪の感情、さらに自死や他殺の感情である。柳田国男の「山の物語」では、食うに困った子供たちが殺してくれと親に頼み、子供たちは斧で首を刎ねられている。こうした親思いの感情と同等な、数知れない感情の渦が病者には取り付いている。そうした諸々の感情を束ねて表現しなし「水俣苦海浄土の世界」として綴れば、より普遍的な文学作品となったであろう。先に述べたように石牟礼道子の感性が色濃く反映して題材を取捨選択しているのである、これはとても惜しまれる。病者の出来事を事実に従って記述していけば、裏表紙に書いてある「患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽な記録を綴った」のではなくて、「患者とその家族の苦しみを自らのものとして、壮絶かつ清冽に綴った苦海の物語」として記述されるに違いない。
本書のゆき女の章に石牟礼道子は「決して往生できない魂魄は、この日から全部わたしの中に移り住んだ」と述べている、つまりもはや病者自身に成り切った著者自身の感性に基づいた私小説と言う、渡辺京二の主張が正しいと思えるのはこのためである。そして何度も言うが著者の感性に従い本書は記述されているのである。もし作者として病者から乗り移ったさまざまな感性を取捨選択せずに叙事的に記述すれば、もっと広範囲に病者の思いを描いた普遍的な作品になることができたはずなのである。ただ、ある日突然稀有な現実に飲み込まれた著者に、書く術とその記述範囲の的確さまで求めることは無理なのであろう。つまり本書は石牟礼道子文学であって、この文学は渦中に身を置いた人間が綴ると言う、小林多喜二のプロレタリア文学と同根の文学であるはずである。ただ小林多喜二は感情を抑えて、より客観的に描いている。本書は水俣病という渦に巻き込まれた著者の感性に基づいた魂の叫びに他ならない文学である。そして、病状の経過観察や市民運動の活動も加えることによって水俣病文学、その講座テクストとも言える文学なのである。こうしてみれば、文学とは私が思っていたもの以上に幅広いものであり、著者の関心や好みなどで形式と内容を選択でき、また新しく形式と内容を創造できるはずである。
雑誌か何かで著者の詩を何篇か読んだことがある。とても良かったと記憶している。もしや石牟礼道子の世界に入るのは詩から行うのが良いのかもしれない。魂そのものに直に触れることができるためである。最近、著者は亡くなっている。ご冥福を祈りたい。
以上
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2017年12月22日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ著 杉村唱昭訳「政治と精神分析」を 読んで |
久しぶりにドゥルーズとガタリの本を読む、もうドゥルーズの著書で読んでいないのは、「シネマ1 運動イメージ」と「シネマ2 時間イメージ」くらいである。できるだけ読んだ本の感想を記述して理解するように努めていたが、どれだけ理解できているかは分からない。むしろ、記憶がおぼろになり、理解できないまま忘れ去っていることも多いのではないだろうか。この本を読んだ時に、ガタリの硬直な理解し難い文章のせいもあるが調べないと分からないこともあったし、この著書の思想を下地にして展開された、「千のプラトー 上」の「いくつかの記号の体制」を読んでみると、遥かに緻密で難かしくて、とても十分程度では細かに理解できなかったのである。
以上、述べたように本書は精神分析と政治を主に、シニフィアン(記号表現であり意味しているもの、シニフィエの記号内容であり意味されているものとの対語)の位置の絡めて論じている短い四つの論文を掲載している。ドゥルーズと言うよりガタリが主体になっている本である。まあ、ドゥルーズとガタリは精神分析と政治を主テーマに「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」を記述したのであり、その先駆けとしての論文である。本書の四つの短論文とは「精神分析と政治」、「精神分析に関する四つの提言」、「言表の解釈」、更に「制度におけるシニフィアンの位置」である。
これらの短論文についてその内容を短く紹介したい。「精神分析と政治」では欲望の政治と革命的政治を精神分析の観点から論じている。革命的ではない欲望が政治経済的目標であり、フロイト主義やマルクス主義ではこの欲望の政治が十分に論じられていないと言う。無意識とは正の価値しか持ちえない、流れと強度の論理なのであるとガタリは主張する。このフロイト的な精神分析は出発のときから無意識の欲望を断罪しているのである。純粋な強度としての欲望は主体も客体も知らない、それは流れであり強度なのである。男や女、子供と成人などの二極的なシステムにきりちぢめられた個人的な言表行為に対して、集団的言表行為とは、つまりリビドーの集団的補給とは、社会的な間口を広げて、たえず拡大する多数多様性の世界に結合するのであると結んでいる。これこそが欲望の政治を実現するとガタリは言いたいに違いない。なお「制度におけるシニフィアンの位置」にも関連する記述がある。
「精神分析に関する四つの提言」はドゥルーズが記述したもので、表題の通りに四つの提言を行っている。1)精神分析は無意識を切り縮め破壊し払いのけている。欲望には主体もなく対象もない、ただ流れだけが欲望自体の客観性となる。2)記号(言表)が多様体(欲望)を共示し、流れを導き、欲望の物質的な生産である。3)精神分析には解釈と主観化の二つの機能があるが、この機能を実現させる機械は病を維持し増殖させる技術であり、オイデップスとか去勢とかの精神分析のコードはそのために作られたものである。4)真の反精神分析的分析の問題は、無意識的欲望がこの経済全体の形態にどのように性的に備給するかを証明することである。「言表の解釈」ではハンスが述べる馬などの話を精神分析家が解釈し上下段位分けて記述している。どこかで読んだ記憶があり省略する。
「制度におけるシニフィアンの位置」は「千のプラトー(上)」の「いくつかの記号の体制」の導入編みたいなものである。図も異なっていて「いくつかの記号の体制」の方がはるかに緻密に記述されている。ガタリの文章では、形式を素材または意味の上に投射するとき、ある実質が記号的に形成される。この記号の形式的構成は意味された内容の形式化に結びついていると述べている。つまり、簡単に述べると、記号は形式(音声や文字など)と実質なる意味(伝達する情報や意図)に不可分に結びついているのであり、いわゆる表現と内容が意味作用として関係しているのである。この記号の表現と内容はシニフィアン、シニフィエと呼ばれるものである。ガタリは非記号的に形成された素材があることを主張して、この素材が記号的に形成された実質と切断されることによって、シニフィアンの記号学や非シニフィアン的記号論とも異なった非記号論的コード化も含めて三つに分類して説明するのである。
「非記号論的コード化」とは記号論的実質の構成とは無関係に機能する自然的ともいうべきあらゆるもののコード化である。「非シニフィアン的記号論」とはポストシニフィアン記号論であり、意味作用を生産する使命を帯びていない数学的記号、音楽的、芸術的といった類にものである。最後の三つ目は「意味形成の記号学」として、前シニフィアン的記号学とシニフィアンの記号学に分けられている。記号とものごとは言表行為の個人化された作用因子の主観的な抱え込みとは無関係に相互に配備を行い、そして言表行為の集団的配備はひとつの集団的な言葉をすえつけるのである。こうして欲望の集団的配備はもはや法、責任性、超自我の無意識的報復など従来と関係を持たないひとつの主観性をあらわすものとなる。こうなると欲望は打ち砕かれることはなくなるのである。こうした観点から制度の分析とは制度と社会の総体のなかにおける欲望の位置を保護し整備することになるほかない、とガタリは主張するのである。
確かに分かったことは、記号論は構造主義哲学に含まれるというより、別途の対象として読み解き調べなければ、理解は常に困難性を伴うということである。
以上
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2017年12月15日(金) |
題:レイ・カーツワイル著 NHK出版編「シンギュラリティは近い 人類が生命を超越するとき」を読んで |
題名にひかれて読んだ本である。今まで脳科学など科学本を読んでいるが、本書はそうした科学の進歩が人類にもたらす結果を、特に脳とコンピューターとの結合が人間の脳の能力を飛躍的に高めて、もはや人間が非人間となるかもしれない、私なる私が非人間的部分を多数含んでもはや誰であるか分からなくなるかもしれない、そうした未来の予測を描いた本である。ただ、倫理学的な側面は大幅に省かれて、科技術的な面からのみ書いている。なお、本書はNHK出版による主に脳の観点からまとめたエッセンス版である。今まで読んできた脳科学などの本のエッセンスをコンピューターの進化と合わせて、より具体的に詳細に記述している。脳科学の進化に関する今日までのおおまかな思想を知っている人には特に目新しいものはなくて退屈であるけれど、人体への影響などの具体的記述は、初めて読む人には驚くほど新鮮に映るかもしれない。
なお、著者はシンギュラリティを信じるシンギュラリタリアン(技術的特異点論者)と自ら述べているが、この特異点とは生物たる人間が、自らが作り出した科学技術と融合する臨界点であり、人間的であっても生物なる基盤を超えている地点である。即ち、ナノボットは粒子状に小さくなり血管に入り込むと、脳も含めて人体はそれまでの生物学的な限界を超えて作動できるのである。これを主張するために著者はまず指数関数的に進化するコンピューター技術を説明する。詳細は省くが歴史上に生じたDNAの情報やテクノロジーなど六つのエポックを説明する。そうして脳の仕組みを合わせて人間に生じること、世界の戦争に生じて作動するロボット化などを含めて本書では展開するのである。最後に意識の問題などを取り扱っているが、少し触れているだけで物足りない。
著者権などさまざまな観点から本書の内容は、これ以上説明しないしない方が良いと思う。私は特異点という言葉は好きではあるが、この宇宙においても、哲学においても特異点が多様に論じられている。著者の述べる特異点はアナログ的でどこか曖昧性や謎に満ちていて、点ではなくて、ある帯域即ち幅を持っていると思われる。ただ、こうした特異点の性質がどうあるべきかを論じることは無意味あり、人間は未来において今現在から信じられないほど変容していくことは、著者が述べるように確かなはずなのである。ただ、この変容は再生医療やクーロンなどに誰しもが思いもつかない技術も加わって、本書が述べる以上に複雑怪奇に生じるはずなのである。
以上
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2017年12月8日(金) |
題:モーリス・メルロ=ポンティ著 滝浦静雄 木田元訳「行動の構造」を読んで |
メルロ=ポンティの主要な著作物を読むのは初めてである。落ち着いてしっかりと地に足をつけた文章は奇をてらったところがない、きっとまじめで一貫した論理的な思考の持ち主なのであろう。なぜか、訳文のせいだろうか、ベルグソンの文章ように美文調でもないし、ドゥルーズの文章ように難解性や誌的抒情性を含んでいずに、意気込んで読むこともできず、少々飽きがきてしまう。それに丹念に読まなければ難しくなるのである。きっとメルロ=ポンティの思想の重要性に対してそれほど脚光を浴びないのは、こうした地味な文章のせいかもしれない。もしや、サルトルのようにショー的な派手さがなくて、少しばかり性格的に地味であるのかもしれない。でも彼は相当に高評価を得ているはずなのである。コレージュ・ドゥ・フランスの有名な哲学講座も担当している。いずれにせよ思想はその中身が大切だと言っても、一気呵成に読めないのは辛いものがある。
それに本書はアルフォンス・ドゥ・ヴァーレンの「序文」がメルロ=ポンティの記述内容を明確に要約している。これを読めば、難しいがおおよそは分かる。哲学を専攻する以外の者には、本書の本文は斜め読みしても一向に差し支えないないはずである。なお、「行動の構造」と「知覚現象学」はメルロ=ポンティの学位論文であるとのこと。他の主要著作物としては「意味と無意味」、「シーニュ1、2」、「眼と精神」、「心身の合一」、「ヒューマニズムとテロル」などがある。感想文としては、「序文」の内容を紹介して、本文は必要があればコメントしたい。
「序文」では副題として「両義性の哲学」と名付けられているが、メルロ=ポンティの思想とは、まさしく身体という物と眼差しという意識とが二元論を超えて世界内に存在する両義的な実存哲学なのである。簡単に述べると、ヴァーレンは、物〈=即自〉、純粋意識〈=対自〉として、ハイデガーやサルトルの存在論を批判する。人間の意識が知覚や感覚を通じて論じることが大切なのにも関わらず、ハイデガーは数行しか触れずに、知覚が自明なものとして予め判断され、「つねに−すでに−そこに」あるのに無視していると述べている。サルトルの存在論では、意識は存在者の無化において露わになる「存在の無」であり、この無に対象が浮かび上がり対象を認識するのである。これが「対自」である。この「対自」は何らかの「即自」即ち物なる肉体に嵌め込まれて、自己の事実性を切り取るものである。現象学の観点から述べると、人間が体を持ち住む世界において現実とは主観の探求に応じて立ち現れる現象である。つまり、世界内存在においては「即自」と「対自」の二元論では説明できない、むしろ成り立たないとヴァーレンは主張し、メルロ=ポンティによって新たな実存哲学が確立されたと述べるのである。こうして「行動の構造」がゲシタルト学説などの科学的探究、科学が採用している存在論的な観点からは理解できないと、同じ科学的な経験の水準から懸命に証明しようとしている。一方「知覚の現象学」では、心理学などのデータを頻繁に巧みに使用しているとしても、フッサールの現象学に基づいて捕らえられている、「行動の構造」よりも完全化して、自然的で素朴な経験の平面に記述されているとヴァーレンは述べているのである。以下おおまかな目次を示して、必要ならコメントすることにする。
第一章 反射行動
ゲシタルトの概念はある種の自然的全体の記述的特性をあらわすにすぎないとメルロ=ポンティ主張するのである。「有機体自身が、自分の受容器の固有の本性に応じ、神経中枢の閾に応じ、諸器官の運動に応じて、物理的世界のなかから自分の感じうる刺激を選ぶのである」(33頁)が基本概念となり、反射行動について論じている。つまり「知覚されたものは、知覚されたもの自身によってのみ説明されえる」のである。ピアノの鍵盤や楽譜とメロディーがこの章だけではなくて、他の各章に現れるのは興味深い。
第二章 高等な行動
パブロフの犬の実験などを通じて条件反射と異なった高等な行動の行動について説明している。行動の経験においては対自と即自の二者択一を超えているのである。こうした観点を意識や認識の秩序の観点から述べている。詳細不明。
第三章 物理的秩序、生命的秩序、人間的秩序
『構造とかゲシタルトという概念に助けられて、機械論も目的論もともに放棄されるべきものであり、「物理的なもの」と「生命的なもの」と「心的なもの」とは三つの存在力ではなくて三つの弁証法を表すものだということに気付いた』と記述があるように、メルロ=ポンティはヘーゲルの影響を受けており、この時の弁証法とはそれぞれの意識であり、この三つの秩序を重ね合わせることはできないのである。
第四章 心身の関係と知覚的意識の問題
表題のごとく身体と意識、更に感覚的なものにつての哲学的実在論に基づいて、詳しく論じている。
以上、おおまかに述べたが、だいぶ端折って読んでおり、細かな論理の筋道は皆目分からない。一度メルロ=ポンティの紹介本を読むか、再読するしかないであろうけれども、そこまで行う必要があるのか、自らにもよく分からないのである。それにしても、哲学とは思想そのものと、それを表現する文章があいまって読ませるものだと初めて知ったのである。
以上
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2017年12月1日(金) |
題:ポー著 佐々木直次郎訳「黒猫・黄金虫」を読んで |
白石かずこの詩集「浮遊する母、都市」を読んでいたら、ポーの詩「大鴉」の題名が記載されていた。確か、中井英夫の「虚無への供物」では「大鴉」の詩が重要な意味を持っていたと記憶している。ポーとは何者なのか、時々何かの雑誌などで取り上げられる作家である。たぶん読んだことはない、そこでこの「黒猫・黄金虫」と「ポー詩集」を入手して、「黒猫・黄金虫」の全編と「大鴉」の詩だけを読んでみたのである。結論から簡単に述べると、沈鬱さと憂鬱さに病的な心理が侵食している。何に対してなのか、ポーの貧しく悲惨な人生が生み出したものなのか、何かしらの思想や恋愛の破綻なのか、この世界の不条理や不合理さ、無慈悲さに打ちのめされて、表現せざるを得ないためなのか。それにはポーの作品をそれなりによく読んでみないと分からないはずである。
「大鴉」なる詩を読んでみると、どうしてもディキンソンの詩を思い出してしまう。詩の題名:This World is not Conclusion(この世界は終わりではない)に記述されている、小さな秘密がこの世界に鴉となって姿を現したのだろうか。吉行理恵の詩「青い部屋」に書かれている雨戸を叩く気違い婆さんも思い出してしまう。大鴉とは姿が見えない気違い婆さんなのだろうか。関連した詩はこれくらいしか思い出せないし、知らない。もしかしたら「青い部屋」とは「大鴉」を原型にしている詩なのかもしれない。ディキンソンの小さな秘密とは恋であり愛であり、この世界でもある抽象化したものであるのに対して、大鴉はその正体は分からずとも形象化されたものである。形象化されて謎を秘めてやってくるのである。ポーの詩ではこのように鴉なる姿をもって現れ出てくることが重要である。でも、この姿に何が秘められているのかは良く分からない。また、ポーの文章が緻密に、繊細に表現していることが大きな特徴である。まあ、ポーの詩は機会があれば全部読んで、別途感想文を書きたい。
「黒猫・黄金虫」は五つの短編からなる。簡単に内容を紹介したい。「黒猫」は、殺した妻を壁に埋めると、殺した黒猫に代わりにもう一匹の黒猫が現れて壁の内で鳴いているのである。「アッシャー家の崩壊」は、古色蒼然とした家に住む兄が病弱な妹を殺して、仮埋葬として礎壁に埋める、その妹が扉の向こうから血の付いた白い着物を着て現れて、兄に倒れ掛かるのである。「ウィリアム・ウィルソン」は、ウィリアム・ウィルソンなる奇怪な人物に付け狙われ邪魔される私が、鏡を見ると私の姿がウィリアム・ウィルソンになるのである。「メールストロムの旋渦」は他の漁師の行かない大きな渦巻のある好漁場のみで漁をする兄弟が、不運にも渦に巻き込まれて弟だけが助かる。「黄金虫」は海賊の宝を捕獲した黄金虫を元に紋様の謎を解いて獲得することができる話である。
こうしてみるとポーは怪奇や幻想に恐怖、悪夢に探検ものなど多彩なジャンルに及んでいる。日本では江戸川乱歩や夢野久作などにその影響を見て取れるはずである。彼らの作品はそれ程読んでいないために評するのは無理があるが、直感的にはポーが精神的な欠損や病者の趣があり自己内省を含んでいるのに対して、江戸川乱歩は自己内省性を含まない怪奇性や残虐性が強い精神と行動の嗜好性を描いている。夢野久作では同様に描きながら幻想性が豊かに拡がり、「ドグラ・マグラ」という傑作を生み出している。まさに幻想性が怪奇と精神疾患の内に結実しているのである。文学を、単純に自己を投射・投影することのできる純な文学と嗜好を満たす欲求・嗜好型の文学に分けると、ポーの作品は純な文学に近くて、江戸川乱歩の作品は嗜好型の作品が多いはずである。夢野久作はどちらかというと嗜好型になるだろう。文章で言えば、ポーがより緻密に繊細に描いているのに対して、江戸川乱歩の文章はそれに近づこうとしているのか、似ていると思われる。夢野久作は軽妙で短文である。だからこそ、「ドグラ・マグラ」のように凄惨な場面を描きながら、夢を見ているように映像が浮き上がってくる、鮮明さを持って浮き上がってくる夢の不可思議さがあるのである。
いずれにせよ、小説作品にはそれぞれの好みがあり、自らの好きな作品を中心にして読むのが良いはずで、誰もそうしているはずである。ただ、そうした作品を見出すことが一番難しい。
以上
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2017年11月24日(金) |
題:モーリス・メルロ=ポンティ著 菅野盾樹訳「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」を読んで |
モーリス・メルロ=ポンティの名前は知っていたが、著作物を読むのは初めてである。本書を読むと彼の思想はなかなか良い。彼の一番有名な著作物は「知覚の現象学」である。これはきっとレビィナスの「実存から実存者」に匹敵する、いやそれ以上の存在論であるのかもしれない。彼は若くして、53才にて死んでいる。本書は彼のラジオ講演の草稿に手を加えたものである。訳者の解説によると「思考の形成」を主テーマとしているとのこと。ただ、ラジオ講演のためか簡潔過ぎて分かりにくい、それを訳者菅野盾樹が注釈として補いメルロ=ポンティの思想を解説しているが、的確で分かり良い。このためメルロ=ポンティの思想が納得できる。メルロ=ポンティはサルトルと同期で、親交や離反などがあったらしい。ただ、これらは原点たる自らの思想に基づいた結果として生じたものであり、それぞれの思想の核心を押さえれば良いはずである。ほぼ、読んでいる哲学者は、スピノザ、ベルグソン、ドゥルーズの三人だけであるが、できればメルロ=ポンティも加えたいものである。ただ、彼の評価は低いのか文庫本で出版されているのは少ない。単行本は大きくて読みにくい。少しずつでも読んでいきたいものである。
本書「知覚の哲学 ラジオ講演1948年」は六つの講演からなる。それぞれの講演の題目の紹介と必要がある場合には、その内容も示したい。なお、講演ごとに訳者菅野盾樹の注釈が付いているのである。この注釈が、先にも述べたが講演内容を超えてメルロ=ポンティを中心に添え、哲学や芸術など広範に付け加えて解説していて、もしや本書はこの訳者によるメルロ=ポンティの解説・紹介本とも思われる、というよりそのはずである。
第一章 知覚的世界と科学の世界
「知覚」と「感覚」では「知覚」が上位概念である。知覚はメルロ=ポンティにとって人間の存在形式の基本的様態なのである。本章ではデカルトの論じた蜜蝋を取り上げ、科学と科学哲学が感覚知覚を正しく評価しないといけないと述べている。なお、蜜蝋は物質の「力」であり、物質の実在的で恒久的な核であると述べている。また知覚と科学の関係は、現象と実在との関係とも述べている。
第二章 知覚的世界の探求――空間
現代絵画を取り上げて論じながら、知覚領野の自然な特性と肉体を持ち地上を移動しなくてはならない生物を等質的な空間ではなくて、異質的な空間の観念によって理解しなければならないと述べている。異質的空間とは人間が世界に投げ出されている状況であり、人間は精神プラス身体という存在ではなく、身体に具現した精神であるという考えに至るのである。たぶん、メルロ=ポンティの思想の核と思われる。置き去りにされていた身体性を、特に知覚をメルロ=ポンティは思想に取り入れているのである。
第三章 知覚的世界の探求――感知される事物
受肉した主体の私と外的対象とのやりとりが基本となる、即ち対象は私たちにある種のふるまいを象徴するものであり、私たちにこのふるまいを想起させて反応を惹き起こすものなのである。訳者の注釈ではサルトルの「対自」と「即自」の思想を引用してこの辺りの考え方を詳しく論じている。
第四章 知覚的世界の探求――動物性
私たちが生きている世界は単に事物と空間から作られているのではなくて、生物と言うある種の物質的断面が、事物に関する固有な臭覚を描き始めているのである。動物が世界を形態化する力の中心にいて、その動物には行動という属性がある。こうした動物世界の光景を視覚として得ることができるのである。
第五章 外部から見た人間
私たちは他者との経験のうちに生きているのであり、このふれあいの後に実存の感覚を持つのである。人類は個人の総和では無くて、互いに理解しあうことが保証されているわけでもない、人類は原理的に不安定なものなのである。そして、社会における相互関係とは主人と奴隷の関係なのである。
第六章 芸術と知覚的世界
絵画や詩などの芸術に関して述べている。絵画は世界の模倣ではなくて、それ自体が世界なのである。詩においては観念の表意作用や意味機能ではなくて、詩句に表わされたものとは、眼差しに現されるような方法と同等なものである。また小説は可感的な事物、運動状態の事物なのである。
第七章 古典世界と現代世界
現代思想は未完成であり両義的であるという二重の性格を持っている。ものごとが単一の語で名づけられるのを拒むような状況にあるのである。
以上
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2017年11月17日(金) |
題:フッサール著 長谷川宏訳「現象学の理念」を読んで |
フッサールの著書を読むのは初めてである。現象学とは様々に述べられかつ応用されているが、その大元の思想を知りたかったためである。本書はフッサールが現象学的還元を述べた最初の文言であり、手探りで発想し思考を巡らせている、その巡らせる思いが伝わってくると訳者が「あとがき」にて述べているが、その通りである。思想の輪郭がそれなりに伝わってくる、けれどもまだ輪郭がぼやけていて思考の深度は深まっていない。ただ、本書は五回の講義をまとめたものであり、時間的な制約などがあったとも考えられる。まあ、著者自身が記述した現象学の紹介本として読めば、それなりに理解できる。ただ、もっと現象学がどういうものであるか知りたければ、フッサール自身ではない、他者の解読した紹介本を読む方が良いと思われる。本書を含めたフッサールの著者物の難解さや長文のためである。なお、編者ヴァルター・ビーメルの「緒論」の記述では、1907年にゲッチンゲンにて行った講義であり、その後フッサールはゲッチンゲン大学の哲学の正教授なれなかったとのこと、カントの理性批判を土台として現象学の思想が生み出されてきたことなどが述べられている。
簡単に五つの講義内容について示したいが、その前に「五つの講義の思考のあゆみ」が簡明に講義の概略を述べているので、用語説明を含めて、この思考のあゆみを説明したい。なお、説明にはできるだけ本文を引用したい。『 』は引用文である。
1) 「五つの講義の思考のあゆみ」
『事象そのものを的確にとらえる認識の可能性に反省をめぐらすとき、われわれをなやますさまざまな難題。たとえば、それ自体として存在する事象と認識の一致はいかにして確信されるのか、認識はいかにして事象そのものに「的中する」のか。事象そのものはわれわれの思考の動きや、動きを規制する論理法則にどのように干渉するのか。論理法則はわれわれの思考の法則であり、心理的な法則であるが。』こうした認識批判の方法が現象学なのである。『認識批判の方法は現象学的方法であり、現象学は普遍的な本質論である。』こうして現象学的考察が三段階を追って説明されていくのである。
そして、デカルトの懐疑思想が出発点となり、『思考の存在、直感的で直接的な把握と所有は、すでにひとつの認識であり、さまざまな思考は第一に絶対的にあたえられるものである』とするのである。そして『思考の直感的な認識は内在的であり、・・数理科学などをふくむ客観的な学問の認識は超越的だというわけだ』ということで、『絶対的に与えられるのは還元された純粋な現象だけである』こうして『一切の基礎をなすのは、絶対的な所与の意味を把握すること、あらゆる有意味な疑いを排除した所与の絶対的な明晰さの意味を把握すること、ひとことでいえば、絶対的に直感し、ほんものを把握する明証性の意味を把握することにある。デカルトの懐疑考察の歴史的意義は、いわば明証性の発見にある』して、認識現象と認識対象との相関関係がみられて、現象とはあらわれとあらわれでるもの二重の意味を持っており、認識の現象学はこの二重の意味での認識現象の学問なのである。
2) 講義一
認識と認識意味と認識対象を反省、批判する、本質を解明することが現象学であり、哲学の新たな次元ともなるのである。
3) 講義二
認識の内在性こそが認識の出発点となる。超越的なものではない。なお、内在とは認識体験のうちに実在的に内在するという意味である。また内在には絶対的で明晰な所与、明証的にあたえられる普遍的なもの、ほんものとしてあらわれるものがあり、これらは実在的には意識を超越しているのである。
4) 講義三
『現象学的還元の途上で純粋な現象が対応し、その現象は体験の内在的本質を絶対的な所与として開示する』のである。なお、還元とは心理学的な自我や個人の体験を直感によって反省することにより、純粋な現象として得ることである。現象学は認識の可能性や価値判断の可能性を、直感的な考察にという枠内で、本質分析や本質探求から行う学問でもある。この講義三は一番内容が深い。
5) 講義四
志向と対象性との関係、純粋直感と明証性などについて述べている。なお、本質把握は実際現前としてあるような知覚ばかりではなく、幻想知覚においても行うことができるのである。
6) 講義五
思考と思考対象、記号対象や思考的対象も含めて認識と認識対象の相互の関係を改めて述べている。
著者、現象学についての知識はこのこのくらいの理解で良いのかもしれない。実は、メルロ=ポンティが現象学の影響を受けていると知り、本書を読んでみたのである。たぶん重要なのは『事象はあらわれのなかに、あらわれによって存在し、かつほんものとして与えられるのである』また『知覚という現象は、内在の内部で、あらわれとあらわれでるものを区別するように要求する』即ち、認識の内に対象が在る、この対象は対象そのものとの関係は区別する必要があり、認識の内に対象が存在する、この対象の存在の所与を元に現象学は行われるのである。
以上
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2017年11月10日(金) |
題:ゲオルク・クニール、アルミン・ナセヒ著 館野受男、池田貞夫、野崎和義訳「ルーマン 社会システム理論」を読んで |
確か、どこかで良いと紹介されていた本である。読んでみると簡潔に書かれているが密度が濃くて確かに良い本である。ルーマンの社会科学的なシステム理論を紹介した本であり、この社会システム理論はオートポイエーシス理論に基づいている。河本英夫のオートポイエーシス理論を何冊か読んでいるが、またハーバーマスのコミュニュケーション理論を若干読んでいるが、これらを読んでいなければ理解するのに相当手間取ったに違いない。そして、文章の密度が濃くて、読み終えて分かったつもりになっても、細部がどうにも思い浮かんでこない。言い換えれば、上っ面だけを理解していたような気もする。もし、もっと詳細を知りたければ、理解度を深めたければ、難解と言われるルーマンの著書そのもの、もしくは他の解説書に当たらなければならない。また、この社会システム理論は「意味」や「出来事」など哲学的な内容も含まれていて面白いし、その思想は斬新でもある。ドゥルーズの「意味の論理学」における「意味」と比較検討すると良いけれども、その時間的余裕はない。なお、本書は各章の項目毎に、簡単ながら基本概念をまとめていて、それが心憎いばかりに上手である。なお、ルーマンは行政官として働いていながら社会科学者に転向している。主著「社会システム」は1984年に発刊されている。脱構造主義とも、脱中心主義として親和性があるようであるが、詳細は分からない。
さて、この社会システム理論を理解した限りに簡単に紹介したい。社会システムとは指示し合う行為から成り立ち、出来事や状態の総体として捕らえる。このため複雑性が増大する、人間の受容能力には荷が重すぎるのである。この時、社会システムは複雑性を縮減して人間の複雑性の処理能力との間を媒介する。つまり、社会システムはこの世界の複雑性を縮減することにより、より人間の能力を拡大するのである。ルーマンの「機能―構造理論」において、この世界の縮減が社会科学機能主義に重要な意味を持つのである。更にルーマンはこの縮減などを含んだ「機能―構造理論」をハーバーマスなどとの論争を通じて、一般社会システム理論へと展開していくのである。なお、ルーマンの「機能―構造理論」においては、システムと環境との相違を問題にしている、これらのうちにすべてのものは区別されるべきものなのである。ただ、世界だけは例外であり、自らを限界できる外的なものをもたずシステムとは言えず、また環境でもない、世界はシステムと環境との統一されたものとも言えるのである。
このシステムと環境との区別は、オートポイエーシス理論に基づくものである。オートポイエーシス理論では、有機的な細胞のように、自らを再生産し保存する閉じられたシステムであると同時に、外界からの物質の交換も可能とする開かれたシステムなのである。つまり自律的に作動するが自足的ではない、閉鎖性と開放性を持つシステムなのである、この点は留意しておきたい。さらに神経システムが世界への直接的な経路を持っていず、認知と知覚の過程は現実自体の像を与えるのではない、システム内部的な構成物を作り上げるものとする概念も重要である。これら生物システムの社会システムへの適応がルーマンなどによって行われているのである。特にルーマンがオートポイエーシス概念を社会システムへと一般化するのである。有機体システムや神経システム、心的システムなどは閉鎖的であり、人間が他の人間とコミュニュケーションすることはできない。ただ、ルーマンによれば社会的な出来事が固有のコミュニュケーションを産出し、継続的にコミュニュケーションできる。つまり社会システムはコミュニケーションをコミュニュケーションに結びつけるオートポイエーシス的なシステムなのである。なお、コミュニュケーションは個人や集団の意識にも還元することができない、また思考することもないのである。これら考え方、及び心的システムと社会システムの構造的なカップリングなどの詳細は本書に記述されているので、そちらを参照のこと。
さて、意味をめぐる問題である。ルーマンの考えによれば、心的システムと社会システムは意味を構成し使用するシステムである。両者ともこの意味によって複雑性を加工するのである。ただ、これら二つのシステムが融合しているということではない。意味とは選択によって起こる出来事であり、不断に崩壊、強制されて新しいものを選び出しそれを現実化する「現実性」と、そのとき選択されなかったものも後に現実化される「可能性」とを指し示すものである。このため、時間的に異なる取り扱いを許し、現実性を提示されるさまざまな可能性にそって処理することができる。従って意味は自分自身を推進する過程を統一したものであり、顕在化の過程と潜在化、再顕在化の過程と再潜在化の過程を統一したものなのである。
もう一度社会システムについて述べると、社会システムは継続的にコミュニュケーションからコミュニュケーションを生産するオートポイエーシスなシステムなのである。そして、ルーマンはコミュニュケーションを情報、伝達、理解という三層の選択過程を互いに結合するものとする。情報は可能性からの一つの選択であり、情報はコミュニュケーションという出来事に構成されたものであって、社会システムはこの究極的な要素であるコミュニュケーションをさまざまな出来事として問題にする、即ちコミュニュケーションの不断の再生産を行い、自らを持続させるシステムなのである。なお、構造という考え方は、システムのオートポイエーシスが任意の要素ではなく、特定の諸要素をより蓋然的なものとする、特定の諸要素だけに継続されうるようにするものである。
だいぶ長くなったので、システム概念における観察概念だけを示したい。社会システムは観察するシステムであるという概念は重要である。観察と言う操作は、「区別すること」、「指し示すこと」の二つからなる。区別してそのどちらかを指し示すことでもある。本書ではこの観察について詳述しているが、観察についての観察、即ち二次的観察とは自分自身の観察操作を観察することができるのである。これは自分が見ることのできないものを見ることができないということを、見ることができるのである。なお、本書はこの後「社会の理論」として「社会構造と意味論」、「統一性と差異」、「人格、包摂、個人」など項目を設けてそれなりに詳しく書いており、また「リスク」や「道徳」や「批判」など社会診断を行っており、興味深い。
いずれにせよ、本書は紹介本でありながらその内容を完全に把握するのは無理である。それにしてもルーマンの「社会システム理論」にはとても関心を寄せる。なお、この後ジル・ドゥルーズ著小泉義之訳「意味の論理学」を読んだ感想文の一部を再掲しておいたけれども、長すぎるので削除した。感想文を書いているのは忘れないためであり、少しは思い出すことができて時には役に立つものである。
以上
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2017年11月3日(金) |
題:小林多喜二著 「蟹工船」を読んで |
本書もだいぶ以前に読んだことがあるが、さっぱり記憶がない。そこで読み返したものである。プロレタリア文学なるものがどういうものであるか、知りかったこともある。結論から述べると、プロレタリア文学とは文学と称せられているものの、文章の力はいたって簡素である。けれども我慢して読み進めていくと妙に現実的な、奇妙とも思われるリアリティがある。まさしく、現実そのものを、もしくは現実におけるある種の欠如を描いているに他ならない。このことは文章が簡素と言うより、簡潔・明瞭であって質が高いと言うことだろうか、良く分からない。小林多喜二は官憲に拘束され、29歳で獄死というより虐殺されている。当時のストライキをして反抗する労働者に対して、資本家たちを擁護する日本帝国主義は、過酷さを超えて壮絶に社会主義運動家に弾圧を加えていたのである。
本書の内容を簡単に紹介する。蟹工船とは川崎船(小型の発動機付き漁船)が集めてくる蟹から、缶詰を作る母船である。そこでは監督などの支配者にこき使われる船員や漁夫がいる。監督は成果をあげるために容赦なく非情に、これら労働者たちをこき使う、そして反抗する者や病弱な者たちを痛めつける、彼らはおとなしく従うしかない。柱に縛り付けられ殺されてしまう者もいるためである。でもこれら労働者たちは中積船から仕入れたストライキなどの情報をもとに、結束して立ち向かい監督を拘束する。すると、ロシアの監視船から守るはずの駆逐艦の兵隊がやってきて彼らを痛めつけ拘束する、逆に監督を解放するのである。それでも彼らはサボタージュするなど負けない、最後は成算などなくとも、生きるか死ぬかだと言ってもう一度闘うために立ち上がろうとするのである。
船の中での生活は奇妙にも夏目漱石作「坑夫」と一致することが多い。虱や南京米に「坑夫」では確かジャンボーと称していた葬式・通夜である。それに本書では薄暗がりの中で行われる男色や家族からの手紙、贈り物に喜ぶ漁船員たちの姿が簡潔に加えられている。「坑夫」が暗くて深い坑道に落ちていくなら、本書は地獄の底と板切れ一枚で接している糞壺での生活であり缶詰つくりの作業である。なお、作業そのものについてはそれほど描かれているわけではない。むしろ、監督の非情さやそれに対抗する労働者の反抗と心情を描いているのである。
もう一遍の「党生活者」はちらっと眺めただけで読んではいないけれど、格段に文章の質が良くなっている気がする。解説を読むと、「蟹工船」は多喜二の二作目の出世作であり、工場の労働争議の計画を書いた「党生活者」は彼の死後発刊されたものでるらしい。やはり描写などの点で優れているとのこと。それにしても、この過酷な弾圧に対してこうしも抵抗できる点を、どうしてなのかと問う以上に感嘆してしまうのである。漱石は「坑夫」で、あくまで聞いた話を題材にして客観的かつ情感を含んで描いている。確かソルジェニーツインの「収容所群島」などでは労働そのものの描写に主体の情感が相当に加わっていたはずである。でもこの「蟹工船」では、奇妙なことに書き手の主体の思いはストライキなどの抵抗に若干現れているけども、むしろ主体が消えている、居ないのである。ただ、事実のみが荒々しい文体で描かれている。文学的にはこの主体のなさが事実をより強調させているのか。抒情的ではない、叙事的なことを書いているのは、今まで読んできた近代の日本文学の中には無かったように思われる。
やはり本作品はプロレタリア文学として、プロレタリアの現状を描き、抵抗するプロレタリアを描いた貴重な作品であると思われる。更に付け加えようとしたが、記述すべきことが何も浮かんでこない。ただ、「党生活者」も読んでおけばよかったと思う。
以上
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2017年10月27日(金) |
題:沼正三著 「家畜人ヤプー」を読んで |
ずっと以前に読んだ本である。とてもよかったと記憶している。ただ、内容は殆ど忘れている。サドやマゾッホの作品を読んでいるために、もう一度読んで内容を確かめたかったのである。結論から述べると、やはり良い本である。ただ、良いのは前半で後半は少し緩慢である。それは日本人瀬部麟一郎がマゾ化し、婚約者たるドイツ人クララがサド化していく過程が描かれるというより、彼らが連れ込まれた40世紀のイース宇宙帝国について、オロチなど古事記の内容の言い換えや20世紀以降のこの世界の状況が描かれて、もはや、彼らのサド・マゾ化していく心理過程が希薄化しているためである。著者によると本書は「地球編」の半ばであり、この続編が彼らの相互の心理や隷属・主人関係を克明に記述しているとのこと。でも、この続編はどうも沼正三ではない、もう別人が書いているのである。角川文庫発刊の本書のみが沼正三が書いているらしい。従って、本書以外の作品はもう読まないことにしている。著者は文学や物理化学に通じていて相当の博識である。文章もゆったりと穏やかで上手である。サドの作品のように凄惨な場面はない。それは文章のゆったりとした穏やかさと、悪徳に殺伐な場面がただ単に説明的に書いているためであろう。本書は奇譚小説であり、冒険小説であり、推理小説であり、心理小説であり、幻想小説であり、風刺小説であり、人情小説であり、通俗小説である。
簡単に内容を紹介したい。日本人瀬部麟一郎と婚約者たるドイツ人クララは、40世紀のイース宇宙帝国からやって来て、20世紀に遭難した円盤艇に偶然遭遇する。そこに乗っていたイース宇宙帝国の高級貴族ポーリンと一緒にイース帝国に行くことになる。イース帝国は白人が上位であり、その白人も貴族と平民に分けられる。黒人は半奴隷であり、その下に先祖が日本人なる家畜人たるヤプーがいるのである。ヤプーは白人のための便器や椅子などに改造される人間家具である。こうして麟一郎はリンとして、もはや貴族なるクララの家畜人として仕えるようになっていくのである。婚約者として麟一郎を愛していたクララも次第に家畜人ヤプーの女主人として振る舞うようになり、麟一郎もリンとなりクララを女主人として敬い崇拝の対象とする、家畜人として改造されていくのである。そのマゾ化していくともいえる過程の心理は簡単に記述されているが読み応えがある。なお、イース帝国は女上位の社会であり、男は今の社会とはきっと逆に女に奉仕する、貞操帯を嵌められることもある。この白人・女性優位の社会でクララはリンをもはや家畜とみなして、ポーリンの弟なるウィリアムズと結婚するのである。本書の大部分はこのヤプーの人間家具なるもへの改造やその機能・役割を詳細に描いていて、後半になるとより一層多くなり読むのに疲れてくる。これも、本書の冗長な原因の一つである。ただ、日本の未来の予測も記述されていて、ここでは述べないが、なかなか面白くて、鋭い所がある。
この小説をどう評価すれば良いのか、ドゥルーズのサド・マゾ論に従って、超自我と自我の関係からすると、白人には自我のみがある。超自我たるものはもはや自我の内に埋め尽くされていて、むしろ白人貴族同士は人情に満ちている、人間的に交流する暖かなもしくは競い合い敵意を持つ人間関係を持っている。彼らは純粋理性を否定も肯定もしない、思いのままに行動するだけである。そして、法はイース帝国に絶対的に支配しているけれども、ポーリンのように高級貴族は時には原住民たるヤプーを持ち帰りクララを高級貴族とするなど逸脱が可能である。だが、この逸脱がそれほど問題になるわけではない。快楽は自然に欲求のままに行われる、イド(もしくはエス)さえ自我の内の埋め込まれていると思われる。ただ、家畜人ヤプーに自我や超自我はなく、むしろ主人のオシッコを飲むと感嘆する無意識に本能的なイドにのみに支配されている。本書が問題にするのは、もはや物化したこの家畜人ではない。リンおよび日本人が物化していく過程そのものを類まれな風刺として捕らえていて、さまざまに物化する人間と社会を考慮していくことを、暗に要求している。それはこの現実世界おける現実そのものである。まさにサドが大衆の肉体を消尽するのと同じことと言えよう、ただ本書では日本人のみが消尽の対象となっているだけである。
ここまで記述すると言いたいことの大部分は記述されている。この後は、簡単に箇条書きにてまとめたい。
1) この奇妙な幻想社会は読み進むにつれて心の内にへばりつき、通常の社会構造とも受け止めることができる。すると、それほど恐ろしいものではない。仮想の世界でありながら、もはや現実の世界とも受け止めることができるのである。
2) 階級社会では常に消尽する人間を必要とする。この消尽すべき人間は常に増殖して数を増やしておく必要がある。
3) この階級社会は安定的な制度を必要とする。ただ、制度を支える概念は不安定なものであり、絶えず変動するために、法の支配に基づくものであったとしても崩壊することがある。何らかの手立てを加えて、新たな概念によって絶えず法を修正し、社会構造を変革し再修正して、制度を安定的に維持する必要がある。
4) 技術の進歩によって絶えず人間は物化する可能性がある。例えば、AIやタグにナノポッドによってであるが、人間は自らの手によって人間たることを、即ち知・情・意をあっさりと放棄することがあり得る。
5) 人間の心は変わり得る。クララのように貴族なる白人が家畜人から神として奉られることも、家畜人として自我を喪失して神を称えるだけのイドを持つようになることも、技術によって変身は早いのであり、その覚悟と方策を持っている必要がある。
6) 家畜人たるヤプーは日本人をマゾ化していながら、単に日本人だけではない、普遍的なマゾ化である。マゾ化と言うより人間そのものの物化である。これはサドの思考と同じである。マゾッホの観念や契約とは関係がない、マゾッホはまさに人間的な倫理において思考しているのである。
7) もしやこの小説は人間主義、即ちヒューマニズムを描いているのではないのか。逆説的なヒューマニズムである。アンナ・ハーレントが「全体主義の起源」で述べたように孤独な大衆こそが全体主義を生み出す、まさに物化して心を閉ざして崇拝する孤独な人間の姿を人間主義の観点から描いているとも言える。なぜならもはや自我を持たずに熱狂的に崇拝する人間こそが一番幸福なためである。つまり、クララを含めた貴族は、常にこの物化した人間が起こすヒューマニズムの回復を常に監視し、問題を把握し考慮して対処する必要がある。
何項目かにわたって述べたが、まだ少し考えだけで書き落としている点もあるかもしれない。もう一度考え直して気付いた時には、改めて感想文を書き直したい。なお、前回の日記の有島武郎「或る女」で谷崎潤一郎と三島由紀夫の文章を掲載したが、彼らのどちらかが沼正三とも考えたのである。本書の文章は谷崎潤一郎に似て穏やかに静かに書いているけれども、やはりリズムがことなる。結局、どちらでも無いようである。作者は誰かなど詮索するのは止めたい。本書の解説に作者と思われる人物が指摘されている。
以上
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2017年10月20日(金) |
題:有島武郎著 「或る女」を読んで |
ずっと以前に読んだ本で、とても良かったと記憶している。その良かった感触をまた味わいたいと思っていたが、残念ながら読めないのである。約600頁のうち100頁程度斜めに読んで挫折する。そのため、いつもは、小説の筋を自分の文章で記述していたが、本書は裏表紙の筋を引用したい。本小説の評価も不明である。というより、斜め読みする限り葉子の心情は恣意的であり造形的である。漱石の「虞美人草」における藤尾の観念性や二葉亭四迷の「浮雲」お勢の肉感性に比較して、人間らしく描かれているが、その心情は良く分からずに、作り話としてモデル化した衝動的な女とすら感じる、この葉子の心情が作者の思うほど浮き彫りにされていないのである。
あらすじは次のようなものである。『美貌で才気溢れる早月葉子は、従軍記者として名をはせた詩人・木部と恋愛するが、2カ月で離婚。その後、婚約者・木村の待つアメリカへと渡る船中で、事務長・倉地のたくましい魅力の虜となり、そのまま帰国してしまう。個性を抑圧する社会道徳に反抗し、不羈奔放に生き通そうとして、むなしく敗れた一人の女性の激情と運命を描きつくした、リアリズム文学の最高傑作のひとつ』と裏表紙には記述されている。
読めない原因をあげると、ずっと以前、誰か詩人が指摘していたが、「〜た。〜た。・・」と過去形で繋ぐ文章であるためである。古文における過去の多様な表現に比較して、現代では過去の表現はこの一つしかなくて、この「〜た」文で繋ぐとリズムが失われるのである。更に著者はこの「〜た」文に、多様に説明や修飾語を入れ込み、一文に何をも押し付けるためにとても読みにくい。読めない最大の原因は、きっとこの無駄な修飾語や比喩が多いためであろう。作者の主観的な比喩を入れると、同感する読者以外にはとても読みにくいのである。でも、感性的に同感する読者にはとても魅力な文章に映るのかもしれない。
例を11頁から引用したい。ぱっと開いたページである。『葉子は四角なガラスを嵌めた入口の操戸を古藤が勢よく開けるのを待って、中に這入ろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻のように鋭く眼を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、痩せた中年の男に視線がとまると、はっと立ちすくむ程驚いた。然しその驚きは瞬く暇もない中に、顔からも脚からも消え失せて、葉子は悪びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現れように、軽い微笑を右の頬だけに浮かべながら、古藤に続いて入口に近い右側の空席に腰を下ろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指を何とも云えない好い形に折り曲げた左手で、鬢の後れ毛をかき撫でる序に、地味に装って来た黒のリボンに触って見た。』葉子の心はとても良く分かるけれども、文章としてはとても無駄が多い。
余分な修飾語などを少しでも省くと次のような読みやすい文になる。『葉子はガラスを嵌めた入口の操戸を古藤が勢よく開けるのを待って、中に這入ろうとして、八分通りつまった両側の乗客に鋭く眼を走らした。左側の中央近くに新聞を見入っている痩せた中年の男に視線がとまると、立ちすくむ程驚いた。然しその驚きは瞬く暇もない中に消え失せて、葉子は悪びれもせず、取りすましもせず、軽い微笑を右の頬だけに浮かべながら、古藤に続いて入口に近い右側の空席に腰を下ろし、青年を見返りながら、小指を何とも云えない好い形に折り曲げた左手で、鬢の後れ毛をかき撫でる序に、地味に装って来た黒のリボンに触って見た。』だいぶ読みやすくなる。
これを更に削って句読点を入れると次のようになる。『葉子は入口の操戸を古藤が開けるの待ち、中に這入ろうとした。両側の乗客に鋭い視線を走らせると、痩せた中年の男を見出して、立ちすくむ程驚いた。葉子はその驚きをすぐさま消し去り、悪びれもせず、取り澄ましもせず、軽い微笑を右の頬だけに浮かべながら、古藤に続いて入口に近い右側の空席に腰を下ろした。青年を見返りながら、小指を何とも云えない好い形に折り曲げた左手で、鬢の後れ毛をかき撫で、地味に装った黒のリボンに触って見た。』だいぶ簡潔な文章になる。ただ、葉子に関する表現は若干削がれているのかもしれない。
谷崎潤一郎も長文である。「細雪」は、でも、とても良かったと記憶している。同じく11頁から文章を引用する。『井谷というのは、神戸のオリエンタルルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、縁談の世話をするのが好きと聞いていたので、幸子はかねてから雪子のことを頼み込んで、写真を渡しておいたところ、先日セットに行った時に、「ちょと奥さん、お茶に付き合って下さいませんか」と手の空いた隙に幸子を誘い出して、ホテルのロビーで始めてこの話をしたのである。実はこちらへご相談をしないで悪かったけれども、ぐずぐずしていて良い縁を逃してはと思ったので、お預かりしたったお嬢さんのお写真を何ともつかず先方に見せたのが、一箇月半ほど前のことになる。』流れるような良い文章である。無駄な修飾語や比喩がなくて、事実を書きながら登場人物の心が透けてみえてくる。
三島由紀夫の文章も引用したい。「仮面の告白」の10頁である。『坂を下りて来たのは一人の若者だった。肥桶を前後に担い、汚れた手拭で鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて来た。それは汚穢屋――糞尿汲取人――であった。彼は地下足袋を穿き、紺の股引を穿いていた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。まだその意味とて定かでないが、或る力の最初の啓示、或る暗いふしぎな叫び声が私に呼びかけたのであった。それが汚辱屋の姿に最初に顕現したことは寓喩的である。何故なら糞尿は大地の象徴であるから。私に呼びかけたものは根の母の悪意ある愛であったに相違ないから。』この文章そのものがここでは仮面を持つ若者と対比した比喩なっている点に注意したい。確かに分かり良い文章であるけれども、「根の母の悪意ある愛」という言葉は、ある種の想像を抱かせてもその意味は良くは分からない。でも、それが関心を引いて読み進めていくことができるのである。三島由紀夫はこうした謎の言葉を含んで読者を引き付けて読み進ませる手法を用いることがある。また小説の出だしと結末の表現が上手な作家でもある。
こうしてみると、小説でも詩でも文章による表現は難しい。記述した人の人柄などが滲み出てくるものである、という教訓じみた話ではない。有島武郎の「或る女」の評価が難しいわけでもなくて、一般的に自然主義文学なるものの本来的なリアリティの欠如である。では本来的なリアリティとは何か。考えはまだ定まっていないけれども、ただ、リアリティとは、現実におけるある種の現実の充満と欠如であることは確かであろう。即ち、単純な現実の写実化された描写ではなくて、充満と欠如を含んだ現実の現前化が必要なのであろう。絵画からから考えると解がでてくるかもしれない。
以上
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2017年10月13日(金) |
題:二葉亭四迷著 「浮雲」を読んで |
新聞に意志薄弱な男の小説とした紹介記事が掲載されていて、面白くないと読むのをためらっていたが、読んでみると大違いで、近代日本における記念碑的作品であるとの評価も大いに頷けるのである。確かに意志薄弱とも言えるが、それは近代日本における夏目漱石と同等の懐疑を原点にしているためである。漱石の「虞美人草」より優れているかもしれない。「浮雲」の出版は明治19年、「虞美人草」の新聞への掲載は、明治40年であり、20年以上も前の作品であるけれど、漱石はこの「浮雲」を参考にして書いた作品もあるように思われる。それは恋や愛をめぐる意識を含めた社会・文明への懐疑が同質であるためか良くは分からないが、漱石はこの懐疑を「虞美人草」以降深めていくのであり、優れた作品を記述していくのである。二葉亭四迷については他の作品を読んでみないと良く分からないが、確かに近代的な小説の原点とも言える作品を書き近代文明を批判しているのである。
「浮雲」の簡単なあらすじは次のようなものである。内海文三は父の死後、叔父の家に引き取られて学校卒業後官職につく。叔父の園田の妻お政や娘のお勢と一緒に暮らしている、文三はお勢に恋心を抱いている。お勢も気があるようであり、お政も将来は結婚させるつもりでいる。ところが、官職を首になると同時に状況が一変する。同僚だった課長に媚びる本田昇が来訪するようになり、お勢と仲良くなる。お勢にも昇への嬌態が表れてくるのである。お政にも失職を虐められて、かつお勢の本心を疑う文三にはいかんともし難い。だが、お勢の心を確認するまでは叔父の家を出ることはしない。お勢に近づき自らへの愛を確認しようとした時、お勢の袖に触れる。お政はこうした男女関係の疑わしい行為はするものではないと、お勢を咎める。一見ハイカラを装い常々母と意見を異ならせるお勢は、以後文三ばかりではなくて昇とも親しくしなくなる。文三と激しい言い争をしたためか、昇はその後訪れなくなる。お勢の嬌態をさんざん見せつけられた文三は気まずいまま、それでもまだお勢に恋している、今度こそお勢の心を確認するため話を聴いてもらおうと、聴くことができなければもう家を出ようと思い、二階に登っていくのである。以上は二巻までのあらすじであり、第三巻以降は中断され記述していないということ。
二葉亭四迷の文体は上手である。多少戯作文の名残をもちながらもリズムがあり、一気に読ませてくれる。そして、その内容のリアリズムさや文明社会への問題意識は、後に生まれる自然主義をはるかに凌駕している。四迷はロシア文学に精通していて、ロンドンからの帰国途上の洋上にて、肺炎のため45歳で死んでいる。漱石よりも若くして死んでいるのである。四迷は夏目漱石と同じ新聞社に勤めていたとのこと。亡くなった際、漱石は四迷の妻に手紙を送っているとのこと。文芸欄の主筆だった漱石と四迷の間にどういう交流があったのかは、調べんないと分からない。
それ以上に、文学的な問題としては、四迷の漱石の与えた影響である。たぶん、私には漱石の作品に少なからず四迷の作品が影響を与えているはずだと思われるのである。それは、先に書いたように、恋や愛における意識を含めた社会や文明の懐疑が同質であるために同じ筋になるのか良くは分からないけれど、確かにあるはずである。あまりにも類似点が多すぎる。この「浮雲」で例に取り上げると、「認識」と言う言葉が何度も出て来る。漱石は「意識」という言葉がキーワードになっている。「彼岸過迄」の嫁を貰う気のない須永と千代子の確執と、逆に嫁に貰いたい文三とお勢の確執する関係も似ているとも言える。第三巻が記述されていればどうなるかは分からないが。むしろ、第三巻が記述されなくてよかったと思っている。文三が優柔不断のまま終わっているためである。当時、問題意識を持つ男たちはきっと優柔不断に描かれなければならなかったのだろう。もしや第三巻が描かれれば「それから」の優柔不断な大助が三千代とともに暮らすために職探しに否応なく出掛ける後半部と同じ筋書きになったと思われる。「こころ」の先生とKとの関係は文三と昇の関係を進展させたものである。また「虞美人草」の藤尾の観念性と対比させられるお勢の肉質性など、勘ぐれば結構あるのである。
そもそも、両者ともに恋愛における諸問題をなぜテーマに取り上がるのか。漱石はそのバリエーションをなぜ深化させていくのか。恋愛小説こそ人間と人間の諸関係や社会との諸関係・軋轢を小説として書きやすいことは確かである。両者ともにこのテーマを選択した理由はさまざまにあるはずであり、関心を持たせるのである。ただ、言えることは、漱石が諸問題の解を得ようと必死になっていたのに対し、二葉亭四迷は「浮雲」そのものの記述のうちに既に解答らしきことを書いている。お勢のハイカラや高潔性の影に隠れている移り気や、派手で軽はずみな性格を文三はきっちりと見抜いている。けれど、お勢を諦めることができないのである。この社会における上司への媚びも必要だとしている。ただ、それは文三にはできない、社会構造を認めながらも文三は反発する。派手に軽はずみな性格を見抜ぬいていても固執するのである。これは漱石と同じ心的葛藤や文明批評へと通じるはずでありながら、その解を朧ながら既に見出していると言っても良い。もはや見抜いたものにどう行動するかの問題に移っている。漱石は問題の本質が見抜けずに苦悩し続けるのである。人生の最後になって「道草」や「明暗」にて、漱石はやっと心の内にわだかまる問題を冷静に穏やかに客観視できるようになり、解が仄かに見えてくるのである。
いずれにせよ、二葉亭四迷の作品をもっと読まなければ四迷と漱石に絡んだ謎解きはできない。それ以上に近代日本の文学作品や古典文学をもっと読んでみたいし、メルロ・ポンティなどの哲学作品や経済書や科学書も、詩集も読んでみたいし、もはや支離滅裂である。どこかで、なにがしかの整理をしなければならないのであるが、そうしたまとめとなるはずの文章の記述は調査などに手間がかかり、面倒であり嫌でもある。
以上
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2017年10月6日(金) |
題:阿部公房著 「砂の女」を読んで |
読んでみて驚いている。昔は感動していた小説が、無念であるけれども、まったくの駄作に思われてしかたがない。少し考えてみたが、文章や内容そのものの陳腐さと観念なるものの流動性に起因するものと思われる。つまり、もはや本小説の観念は殆ど陳腐化されているし、記述している文章は乾燥していて、情緒や律動性も持たない説明文になっている。例えば、観念小説では、ミシェル・トゥルニエの「フライデーあるいは太平洋の冥界」のように、生きた文章を持っていなければならない。それ以上に、謎に満ちているこの世界を、謎に満ちてかつ明晰に描き切らなければならない。この描かれている謎なる世界が明晰に解釈を迫ってくることこそが観念小説なのである。
本書のあらすじを簡単に述べると、昆虫採集に来ていた学校の先生が、砂の中に閉じ込められる。この砂の中の家には女が居て、一緒に住むことになる。どうもこの家は、この家の属する部落、もしくは村の他の一部の家と共に、共同体に押し寄せて来る砂を除去する防波堤的な役割を担っている。その代わりに部落から食料などの支援を受けているのである。彼らは部落から監視されている。砂の穴に落ち込んだ男は女と性的関係を持ちながら、女がおもねっても、砂を除去する労働を行いつつ脱出の機会を伺っている。そしてある機会に縄はしごを伝って逃走に成功する。だが、塩あんこという泥沼に浸かって、部落の人間に助け出される。無論、穴の中に戻される。その後、男はラジオを手に入れ、水を留め置く装置のことなどを考えていて、逃げ出すのはまた明日にでも考えれば良いと思うようになってくるのである。
本小説の最大の欠点は、非日常の世界に日常の道徳や価値観を持ち込んでいることである。男は同僚が行方不明を警察に通報し探してくれると信じている、学校の先生は偉いなどの通俗的な思考を随所に述べて叫んでいる。でも、カフカの「審判」や「城」などでは、日常的な世界の価値観は非日常的な世界では絶たれている、もしくは持つ意味や価値を変えられていて、読み始めるなり、すんなりともはや非日常的となっている日常世界へ入り込むことができるのである。この非日常的世界では喜びや悲しみなどの感情だけがある。そして「砂の女」と題名するからには、女が概念的ではなくて生きて描写されなければならない。本書での女の描写はありきたりであって、特にどうということもない。会話も当たり前であって、砂を運び出す女の執念を、穴に閉じ込められて生き続けられない自らの運命を、「これしかないのよ」と言うような機械的な言葉で言うだけである。生きた言葉で語らなければならない。女が妊娠したと記憶しているが、その喜びなど運命に生きる女を適切に表現しなければならない。適切とは存在が迫ってくる肉感的か、逆に薄い紙ぺらのような希薄な存在のどちらでも描くことができるはずである。
観念は移り行くものである。例えばマルクス主義や実存主義はもはや昔の思想であるし、砂ももはや昔のイメージである。ただ、新たなイメージや観念を砂に組み入れれば、この砂はまったく新しいものとして甦るだろう。そうした砂に対する斬新な観念が求められる、もしくは普遍的な物のイメージとしての砂の描写が必要とされるのである。「?」なる疑問符の多い文章は味気なくて質が落ちる。メタファーも安直である。本小説の着眼点はとても良いはずなのに、もはや本小説は古臭いものになっている。できればこの着眼点を元に本小説を描き直してみたい思いが募る、けれどもそこまですれば越権行為になるかもしれない。こうして昔読んで本を再読すると評価は変わる、ただ、ここまで落胆させられたのは初めてである。
阿部公房の「ここに幽霊がいる」などはサミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」などから着想を得ていると思われてしかたがない。サミュエル・ベケットの小説は殆ど読んでいるけれども、阿部公房の作品はほんの一部しか読んでいないために、良く分からない。こうしてみると名作と呼ばれる作品は、いつ読んでも色褪せることのない文章力と感受性を備えていると痛感させられるのである。文章力そのものが感受性や観念を含んでいて色褪せないに違いない。
以上
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2017年9月29日(金) |
題:大岡昇平著 「武蔵野夫人」を読んで |
大岡昇平は初めて読む。エロチックな小説だと思っていたが、確かに恋愛・不倫を描いているけれど、エロチックな場面は無くて心理小説である、むしろ観念小説であるかもしれない。結論から述べると、文章のぎこちない部分が多数あり、心理描写が曖昧で説明的であり自然描写も関心を引かない。また出来事の推移も作為的であり、野心作でありながら失敗作であると思っていたが、後半にかけては妙に引き付けて読ませるのである。もしかしたら失敗作ではない、と言って成功作でもない、ある種の佳作であるのかもしれない。ただ、夏目漱石の意識の流れなる心理描写に比較するとやはり劣る。心理小説としては説明的であり失敗しているけれども、漱石が葛藤の内に生きるのに対して、大岡昇平は人間的諸関係をダイナミックに生きてかつ自然に破壊できる強さを秘めていて、この強さは太宰治などと同等のニヒリズムに陥ると言うより、大岡昇平の他の著書を読まなければ分からないが、生きる力・生命力に強く結びついているとも思われる。
本書のあらすじを述べると以下のようなものである。最初に「武蔵野夫人」小説地図として、中央線の武蔵小金井から青梅線、それに多摩湖鉄道に狭山丘陵が貯水池なども含めて掲載されている。本小説で記述される地域である。そして、国分寺駅から離れた小川の領域の丘陵が「はけ」と呼ばれて、そこに住む人々が主人公である。秋山道子と夫の忠雄、それに大野富子と夫の英治に、復員兵の若き勉が主人公であるが、武蔵野夫人とは道子と富子を指している。二人は対照的な性格である。富子は奔方で多数の男性と関係を持つことができる。一方道子は古風で夫との間も上手くいっていないけれども、愛する勉とも関係を持つことができない。こうして物語は進み、富子は言い寄る道子の夫のフランス語教師の秋山と関係を持つ。道子は偶然勉と二人きりの夜を過ごすけれども、わずかに抵抗する。このため勉は関係を持つことを諦め、互いに将来に向けての愛の誓いを立てる。こうした諸般の理由により勉は「はけ」を離れて一人暮らしを始める。そうして彼らに経済的な問題が生じる。富子の夫なる大野の経営が行き詰まり、道子の財産の一部を譲り受けた秋山が大野に融通するのである。道子の財産も貸し出される。こうした落ちぶれた状況に、富子は娘の雪子とともに大野から逃げ出す算段をする。だが、姉に断られ、富子に執着する秋山と一緒に都内の旅館に逃れる。秋山は既に道子に離婚を主張しているのである。道子は二人の関係を知っており、残された土地の権利書とその書き換え委任状も、もはや持ち出されているのも知ることになる。愛する勉に財産を残すためには、土地が売られる前に死ななければならない。遺言状にて権利の一部(2/3)を好きな者に与えることができるのである。こうして道子は薬を飲み自殺を図る。もはや酒に酔い盛りのついた雌犬になっている富子に逃げられ、家に戻って来た秋山は勉の名をうわごとに呼び続ける道子を見る。そして、道子は死ぬ。富子は勉の部屋に行き関係を持つ。この部屋に大野がやって来て不貞の妻を引き取ると同時に、道子の死を勉に知らせるのである。
ここで良い点と悪い点を箇条書きにて示したい。続けて書くと長くなるためである。
『悪い点』
1) 心理描写が多視点的でかつ説明的である箇所が多くて、分かるためには時間を要する。その心理についても拵え物である、作られた心理であることもある。例を示したいが、たくさんあるので止める。
2) 「恋ケ窪」の恋の文字によって、道子が明確に勉に対する恋を認識するも拵え物である。ある種の別な場所、品物、視線や行為にした方が納得しやすい。
3) 道子と勉が風雨の高まりによって否応なくホテルに一泊するが、接吻はするけれども、道子が体を開いていくけれども、物音がして、「いけません」という道子の魂の声を聞いたような気がして、勉が行為を中止すること。漱石の「行人」の同じ場面と比較すると、「行人」は行為を行わないことが自然であるが、この場合行為を持たないことの方が不自然である。なぜなら、勉は女子学生などと多数の関係を持っていたのである。そして「はけ」に来て道子と一緒に住むようになって、恋と同時に抑えられない欲望を自覚している。道子も行為そのものを認めているのである。これは心理や筋を重視した結果であろう。そもそも勉なる復員兵の性格が曖昧であるために起因している。
4) 土地の権利書と委任状を奪われ、勉に財産を残すために、道子が決断すること。そういった理由で自殺を決断することもありうるとは思われるけれども、なにかしらの絶望や失意、例えば勉への愛の絶望のために自殺する方が納得しやすい。そもそも、道子は夫の秋山が戻れば夫婦として暮らしても良いとも思っているのである。こうした交錯し混乱した心理を無理なく自然に記述するには、作家に相当の力量を要求するはずである。
5) 極端に言うと、総じて登場人物が機械的で生きていない。これは道子と富子はわりと良く描かれているけれども、彼女たちの本心・本質が見えてこないために起因する。彼女たちは対照的に描かれ、作者の意図に従った心理と行動が書かれていて、その真の心の内が見えてこないためである。微妙な女たちの心理は作者の観念の元に上書きされて、彼女たちは登場人物としてただ筋書き通りに生きているのである。
『良い点』
1) 道徳なる観念が個人的に、もしくは共同体として保持可能であるかどうかという点。更にその道徳の破壊の結果何がもたらせるかに、思い馳せらせる小説として読める点である。
2) 道子は薬を飲んだ後、一時甦らせると思わせながら、結局死なせたこと。これは良く分からないけれども、残忍さ以上に、ある種の意味が含まれていると思われる。
3) もはや奔放に狂気に陥っていると思われる富子を夫なる大野に引き取らされている点、更に道子の死を知った勉が一種の怪物になると大野が感じている点である。たぶん、怪物とは単に性に溺れるのではない、ある種の道徳や価値の破壊を含んでいると思われるのである。
最後に、こうして記述してみると、本書は佳作の域を超えていないと思われるけれども、大岡昇平なる作家は質が高いと思われ、別の作品も読んでみたい気にさせる。全くの別の話になるが、心理小説としての「明暗」は優れている、その結末が記述されていないことが惜しまれる。大岡昇平を知るためには、やはり「野火」を読まなければならないのかもしれない。
以上
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2017年9月22日(金) |
題:島崎藤村著 「破戒」を読んで |
読んでみると、驚いたことにとても面白くて、質の高い文章であり、かつ作品だったのである。短時間に読み終えることができた。実は、本書は志賀直哉の「暗夜行路」と同時に入手していたが、「暗夜行路」の面白しろみの欠けた特異な文章の作品を読んで、自然主義文学はとても読めないと放置していた。これまた「蒲団」なる故意に拵えた作品を読んでその意を強めていたが、「蒲団」が「破戒」なる作品に影響されて作られたものであると知り、自然主義文学を読む最後の機会として、この「破戒」を読むことにしたのである。読んでいる最中は、なぜか夏目漱石の「坊ちゃん」や「彼岸過ぎまで」が思い浮かんでくる。きっと、「坊ちゃん」の学校と言う環境のなかの出来事と重なり、「彼岸過ぎまで」の静かな文章が、本書の出だしの文章と似ているためであろう。ただ、本書の後半の文章はとても走り出して、躍動感も含んでいる。夏目漱石が島崎藤村について述べた文章は見出せなかったが、漱石はこの「破戒」はすぐに購入して読み、とても褒めていたとのことである。なお、この「破戒」は、漱石が「吾輩は猫である」を発表当時の作品であるらしい。
本書のあらすじを簡単に示すと以下の通りである。瀬川丑松は小学校の教員である。血筋は穢多である。父からこの出身を絶対に言うなと固い戒めを受けている。友人、土屋銀之助と共に校長に言うことが多くて好かれていない。校長は代議士になろうとする高柳や親族の教員文平などと丑松を追放しようと丑松の粗探しを始める。同じ穢多出身の蓮太郎の思想に共鳴して丑松は彼の著書をよく読んでいる。牧夫をしている父が牛の角に刺されて死ぬ。彼は父の転地へと帰り父の葬儀を行うと共に、改めて父の戒めを確認するのである。代議士になろうとする高柳と行き帰りが一緒になる。高柳は穢多の大尽なる娘と結婚して、選挙資金を得ようとしていることが分かる。この父の地にて、丑松は初めて蓮太郎と会う。蓮太郎は同じく代議士を目指している市村の応援をすることにしている。穢多の娘と結婚した高柳は互いに事実を隠そうと丑松に持ちかけるが丑松は煮え切らない。このため高柳は丑松を見放して、文平に丑松は穢多出身であると漏らす、こうして丑松が穢多の出であるとの噂が広まる。代議士を目指す高柳は同じ代議士を目指す市村の演説会に与太者を引き入れる、結局蓮太郎は刺されて死ぬのである。この蓮太郎の死ため初めて丑松は父からの戒めを破る決心をする。同じ教員仲間であったけれど、退職して不遇な境遇にある敬之進の娘、お志保に対する忍ぶ恋も諦めて、丑松は退職届を校長に提出する。そして、生徒の前で自らは穢多であると述べ今まで隠していたことを謝罪する。校長の画策は成功するのである。丑松は蓮太郎の未亡人と共に東京に出ることになる。銀之助のとりなしで、丑松はお志保とも将来を約束する仲になる。娘を高柳にやった穢多の大尽はこの地を逃れて、テキサスで牧場を経営する考えらしい。それも良いなと思いながら丑松は去る者となる、残るお志保を見やり、乗った橇は雪坂を滑り出すのである。
ショーペンハウエルは「読書について」で、小説の良さは文章力によると述べていたが、同じ考え方を持つ者として、「破戒」における文章力は、島崎藤村が詩人でもあったせいか、とても質が高いと思っている。簡潔にして明瞭であり、かつ詩的なのである。牛の屠殺場面やお志保の啜り泣きの掻き消える箇所や、風景の描写力など、多少の欠点のある個所もあるが、補ってあまりある描写力である。解説で野間宏が藤村は千曲川などにて生活や自然の描写力の訓練をしていたとのこと。これは「千曲川のスッケッチ」なる本にて出版されているが、良い文章は訓練しなければ身につかないらしい。本書は、穢多を主題にしたせいか、思想的な観点からいろんな批判を受けたらしい。初版では「穢多」としているが、発売禁止の処置も受けて、「部落民」と言葉を変えたりしていたとのこと。野間宏は封建的な明治の社会の圧力を受けて、新市民(穢多のこと)になったとはいえ苦しまなければならなかった穢多や下級武士などを引き合いに出し論じ、この時代において新しい思想を求める人間追及の文学を、自然主義文学を確立したという点で大いに評価している。ただ、本書が、人間が皆平等であるとの思想、その根拠にたどり着いていないという点で批判している。思想とは流動的なものでありこの野間宏の指摘は当たらない。公娼との熱愛を描いた作品も数多くある、ただ公娼が同じ人間であるとの思想を根拠として持っていないと批判しているようなものである。
ただ、この批判に一理はある。なぜなら、本書は丑松と彼を取り巻く人間たちとの人情小説であると思うためである。哲学的存在論的な深さに基づいて面白いわけではない。人情的な観点とは「坊ちゃん」に由来する学校での戦いを、穢多という人間差別の問題を題材に書いているためである。これ以上は論じない。人間存在の話がややこやしくなるためである。ただ、「坊ちゃん」が面白いように「破戒」も面白いというだけである。両作品の比較は難しいが、戯画化し単純な「坊ちゃん」の方がなぜか人情的に深みがある。たぶん、「坊ちゃん」が悩んでなどいない、存在論を無視して気の赴くままに生きているためであろう。清のためだけに生きているためであろうと思われる。
以上
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2017年9月15日(金) |
題:田山花袋著 「蒲団」を読んで |
長年、読んでみたいと思っていたが、この際、中短編なので時間を必要とせず、思い切って読んでみる。志賀直哉作「暗夜行路」は内容が乏しくてほとんど読めなかったけれど、本書も若干の風景描写などを除いて、会話や心理描写などの文章は粗くて繊細さに欠ける。それでも、短編のせいか、興味本位のためか、読まなければならないという義務のためか読めたのである。ただ、如何せん、自然主義文学のさきがけの作品として評価は定まっているらしいけれども、質の高い作品ではない。
あらすじは、中年で疲れ切り性欲に飢えた小説家、竹中時雄に、小説家希望の若い女性、横山芳子が地方から東京に出てきて弟子入りする。時雄の生活は芳子を迎えて希望に満ちる。彼は芳子が自らに好意を寄せていると思いながらも、行動に移すことはない。ただ、芳子には女学校時代に見知った男が大阪に居て、田舎に旅行した時から付き合い始めている。師匠の立場をわきまえ、時雄は芳子や男を諭し彼らの行く末を案じる心積りもある。一方、彼らが性的関係を持ったかとの疑念が常に彼を苦しめている。結局、芳子は性的関係を結んだと認める。時雄は父親と相談し、芳子は父親と一緒に田舎に帰ることになる。その芳子の居なくなった部屋の行李の中から蒲団を取り出して、時雄は染み込んだ女の油と汗のにおいに懐かしみ、蒲団を敷いて寝る。そして、冷たい汚れた襟に顔を埋めて泣くのである。
本書が何を主題にしているのかが良く分からない。女弟子と関係を結びたいなら、時雄と芳子の描写を心理的な繊細さを加えて描写しなければならない。中年男の疲れ切った生活を描くなら、妻や子に暮らし向きも含めてその生活状態をより詳しく描写しなければならない。芳子を奪われ悔しいなら、その悔しい思いを丁寧に描かなければならない。本書は、性的関係を持ったかどうか、つまり、今はやりの一線を越えたかどうかだけが問題となっているのである。結局、筋ばかりがあって、それを文章に表現しようとして出来損なっている作品なのである。まさか、女が関係を持ったと師匠なる時雄に手紙にて白状することはないであろう。一番の問題は、芳子に自らの思いが無くて類型的な一般的な個性のない女なのである。芳子は男とともに逃げ出したとばかり記憶していたが、田舎に帰るとは思いもよらなかった、関係を持ったと告げるならば駆け落ちしなければならないだろう。つまり筋が練れていないのである。
「解説」にて、福田恆存が厳しく批判しながらも、自然主義文学とのさきがけとして認めている。ただ、田山花袋については「文学青年」と称している。小説家としては認めていない、この文学青年とは芸術家の才能なくして芸術家に憧れる者のことである。巻末にこうした厳しい批評が掲載される作家の作品を読んだのは初めてである。まあ、福田恆存は厳しい故に仕方がない、自らの本当の思いを書くはずである。夏目漱石は「田山花袋君に答う」で、独歩も加えて、拵えものについて論じている。この「蒲団」なる作品を拵えものと断じている。『拵えものを苦にせらるるよりも、活きているとしか思えぬ人間や、自然としか思えぬ脚色を拵える方を苦心したら、どうだろう。拵えた人間が活きているとしか思えなくなって、拵えた脚色が自然としか思えぬならば、拵えた作者は一種のクリエーターである』漱石らしい文章である。拵えるには創造性が求められるのである。
たぶん「蒲団」を読み通せたのは、一線を越えたかどうかを、作者がどう処理するかの関心からだけであろう。ただ、読ませることができるのは作者の技量でもある。こうした通俗小説で面白いと思ったのは、川端康成ではなくて三島由紀夫である。彼の「美徳のよろめき」は今でも読後の感情が残っている気がする。通俗な筋が、三島由紀夫の手にかかると、粋な文学になるのである。結局、小説は筋よりも文体が読ませるのだろう。ショーペンハウエルが「読書について」で記述しているように、『文体は精神の顔である』のであり、その書き手の精神の質が如実に表に現れるのである。
以上
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2017年9月8日(金) |
題:ゲーテ著 木村直司訳「色彩論」を読んで |
ゲーテとは多彩な才能を持つ人であって、本書は科学的な箴言形式の色彩に関する著書である。結論から述べると、色と感情との関係などが客観的に書かれて興味深いものであるけれども、どうもあまり読む気が起こらずにさっと眺めただけである。並行して、モーリス・メルロ=ポンティの「知覚の哲学」を読んでいて、こちらの方には、解説者がこの「色彩論」を取り上げ、メルロ=ポンティの知覚の哲学に、何らかの影響を与えたような記述があったように思われる。この「知覚の哲学」の方が面白い。色彩と感情との関連以上に、知覚とこの世界や人間存在、つまり心や体との関係が記述されているためである。
この「色彩論」は大きく分けて「科学的方法論」と「教示論」の二つから構成される、約500頁弱の本である。「科学的方法論」では、カントの著書「純粋理性批判」などの哲学やニュートンの著書「光学」などについて、経験や科学、自然の面から自らの意見を述べている。光や偏光の概念を否定し、ニュートンの理論を批判しているのは意外である。どうもゲーテの科学論は手法等に問題を孕んでいて、あまり評価されていないようである。ずっと以前、どういう著書であったか忘れたが、日本の科学者がプリズムに光を当てて分光し、照らし出された色彩を見て、涙が自然と溢れたとの記述があったことを思い出す。涙の源が、この自然の仕組みに対する感動であったのか、遥かな昔のニュートンに思いを馳せたためか分からないが、自然に溢れる涙を理解できるのである。
「科学的方法論」は約100頁と短いのに対して、「教示論」は約400頁と長い。光、色彩と目の機能との関連から始まり、目との反作用なる生理的色彩、無色もしくは半透明など物理的媒介を介した物理的色彩、対象そのものに属している化学的色彩と分類して、なおかつ色彩の感覚的精神作用などについて論じている。黄色、赤色、青色、緑色、これらの混合色について知覚された色彩が及ぼす精神作用は関心をそそる。でも、これらの文章は、色彩そのものと精神との関連が必要とされた時に読みたい。文章があまり魅力的でないためである。
訳者によると、この「色彩論」が不評だったのは、近代科学の手法を用いていないこと、物理的な判断の誤り、ニュートンへの攻撃の三点をあげている。近年物理的正しさを記述しているとの再評価の機運もあるとのことであるが、ゲーテそのものを知ろうとしているのかもしれず良く分からない。いったいゲーテとは何者なのだろう。「ゲーテ詩集」は持っているが読んでいない。「若きウェルテルの悩み」は読んだが忘れた。「ファウスト」はたぶん読んでいない。よくゲーテとダンテを間違えるが、ダンテが若くして死んだ人妻ベアトリーチェを描いた「神曲」の方に関心がある。単なる憶測であるが、ダンテとベアトリーチェの関係は夏目漱石の大塚楠緒子の関係と同じに違いない。ただ、ベアトリーチェは永遠の女性であるけれども、漱石には「清」と「清子」を除いては、永遠の女性はいずに我の強い女性が描かれている。
以上
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2017年9月1日(金) |
題:ホルクハイマー、アドルノ著 徳永恂訳「啓蒙の弁証法 哲学的断片」を読んで |
一度難しくて挫折した本である。文章がとても分かりにくかったためである。でも、さらっと読み流すと、それほど難しいことが書いてあるわけではなく、思想の骨幹は明瞭であり、むしろ、その論じ方に疑問を感じる。それほど重要ではない本であると思うけれども、思想の骨幹が割りと共感できて、少しばかり気になるだけである。なお、「啓蒙」ということばは「文化」とでも言い換えれば良く、文化、文明化が進展してくると人類はどうなっていくかと言うことを論じている本なのである。論じ方はベーコンの弁証法にならい「否定的弁証法」を用いている。いわば、神話と啓蒙との弁証法であり、神話的自然と啓蒙された自然支配との差別と統一を浮き彫りにさせるために用いた手法である。なお、本著作物は、ホルクハイマーとアドルノの共著である。それぞれに分担があるが、互いに修正を入れるなどして密である。ただ、どうも思想的にはアドルノの方が主導していたようである。
本書の目次は次のようなものである。
序文
T 啓蒙の概念
U オデュッセウスあるいは神話と啓蒙
V ジュリエットあるいは啓蒙と道徳
W 文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙
X 反ユダヤ主義の要素――啓蒙の限界
Y 手記と草案
「序文」を読めば、本書の内容は一目瞭然となる。科学的な発明など文明の進展に従って『何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代わりに、一種の野蛮な状態へ落ち込んでいくのか』とう問いから発しているのである。そのために、この問いに含まれるアプリオこそが究明すべきこととなる。「啓蒙の自己崩壊」、「啓蒙の思想そのものが含んでいる退行への萌芽」、「民族主義的な偏執狂への大衆の自己破壊的な雷同」などである。これは啓蒙が神話へと逆行していく原因を、啓蒙そのものに求めなければならないとする次の考え方が根本にある。即ち『個々の人間は経済的諸力の前には完全に無力であることを宣言される。その際経済的諸力は、自然に対する社会の強制力を想像を絶する高さまで押し上げる。個々人は自分が仕える機構の前に消失する一方、前よりいっそうよくこの機構によって扶養されることになる』のである。こうして『精神が固定化されて文化財となり消費目的に引き渡されるところでは、精神は消失せざるをえない。繊細な情報とどぎつい娯楽の氾濫は、人間を利口であると同時に白痴化する』のである。
更に『大量の財は、社会的主体を欠くために、これまでの時代には国内経済の危機に際していわゆる過剰生産という結果をもたらしたとすれば、今日ではそれは、権力集団がそういう社会的主体の地位に就くことによって、ファッシズムによる国際的脅威を生み出す。進歩は退歩に逆転する』こうして形而上学が現実の害悪を背後に押し隠す時にこそ、見逃すわけにはいかず、考察はこの点から出発させると著者は強調する。「啓蒙の概念」では神話が啓蒙であり、啓蒙は神話に退化するの二つのテーゼから論じると述べている。「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」では神話と啓蒙の弁証法を論じている。「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」では『あらゆる自然的なものを自己支配的主体の下へ隷属させることが、いかにしてついにはほかならぬ盲目の客体的なもの、自然的なものによる支配において極まるかが示される』と述べている。「文化産業――大衆欺瞞としての啓蒙」では、文化産業とイデオロギーの位置について論じている。「反ユダヤ主義の要素――啓蒙の限界」では、啓蒙された文明が現実には未開・野蛮へと復帰されることを取り扱うのであると述べている。
こうした「序文」で示されている内容が各章にて記述されているが、論旨は以上のごとくであり、読むには忍耐を必要とする。文章が難解なのか、乾燥していて面白みがないのか、説明が我田引水的なのか良く分からないけれど、「啓蒙の概念」と「オデュッセウスあるいは神話と啓蒙」までは良いが、その後はとにかくあまり読む気が起こらない、さらっと流し読みしただけである。「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」では、カントとニーチェとサドについ啓蒙と道徳のことを論じているが、ニーチェは自らに都合の良い文章のみを引用していて、ニーチェそのものを理解していない。ジュリエットは『ジュリエットが体現しているのは、心理学の用語で言う、昇華されないリビドーでも、退行したリビドーでもなくて、退行への知的喜び、神への知的愛ならぬ悪魔への知的愛、つまり文明それ自身の武器を逆手にとって撃つという快楽である。彼女は体系と一貫性を愛する』という、的を得ない短文で示されているだけである。カントについては「純正理性批判」に基づいた理性などについて一番多く述べられている。『サドの作品は、ニーチェのそれと同じく、実践理性に対する仮借のない批判を形づくっており・・』など詳細は省くが、著者の主張しようとする点は分かるけれど納得できるものではない。
いずれにせよ、本書のテーマは壮大であって、現在においてさえ重い課題であるといえようとも、著者と同じ発想と手法によって論じるか、はたまた別の観点から、例えば経済学的な発想に重きを置いて論じることも可能のはずであり、検討が必要である。また、文明が進むにしたがって野蛮と暴力に退行するかについても、再吟味する必要があると思われる。たぶん、著者のテーマはとても関心を引くけれども、著者はある種の曲解を行っていると思われてしかたがないのである。哲学や科学というより、経済学的な観点から論じるのが一番良いと思われる。
以上
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2017年8月25日(金) |
題:鎧淳訳「マハーバーラタ ナラ王物語 ダマヤンティ姫の数奇な生涯」を読んで |
古代インドの長編叙事詩「マハーバーラタ」の中の美しい愛の物語である。美しい、腰くびれるダマヤンティ姫は神々よりも美しいナラ王を婿に選ぶ。ただ、嫉妬する魔神カリ王にとりつかれて、子供もできたというのに、ナラ王は弟との賭けに負け国をも取られるのである。そして城を出て行く。獣たちがダマヤンティ姫を狙う密林の深くに入ると、自らの身に纏うために姫の衣服の一部を剥ぎ取り、姫を捨て去るのである。こうしてダマヤンティ姫の苦難が始まる。密林での姫の嘆きが一番の読みどころで詩的でさえある。ナラ王は蛇王カルコーナカによって姿も醜く隠される。結局、ダマヤンティ姫もナラ王もさまざまな苦難にあうが、ナラ王は得意とする馬術により功を立てることができ、最後には貞節を守り通したダマヤンティ姫に合うこともでき、美しい姿に戻ることができる。また、賭けに負けて取られた国も、賭けによって取り戻すことができるのである。
200頁弱の短い本である。なぜ読んだか、長編叙事詩「マハーバーラタ」に関心があるが、ただ、以前に読んだインドの宗教に関する記憶がまったくなくて、再度調べたいと思っていたためである。なお、「マハーバーラタ」はバラモン教により主導され、それまでのインド教の宗教や道徳、政治学などを含んだ叙事詩で、紀元前四世紀ころから編纂が始まり、紀元後四世紀ころまでかかったとされる。ヴェーダの信仰を奉じて、インド教の主神も登場しない素朴な民衆の語り物語も含まれているのである。なお、インド教とはバラモン教であり、ヒンドゥー教である。この辺は解説書でも読まないと分かりにくいが、バラモン教とヒンドゥー教とは微妙な差異がある。
つまり、簡単に言うと、紀元前十数世紀にインドに来たアーリア人がバラモン教を作るのである。カースト制という身分階級、即ち、バラモン(司祭階級)、クシャトリア(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)、この他にパンシャマ(不可触賤民)があり、ヴェーダを聖典とするのである。業(カルマ)による輪廻(サンサーラ)が特徴であり、生き物は行為に基づく業(カルマ)によって、因果応報に従い輪廻転生する。宗教儀式は司祭階級を中心にして行うのである。このヴェーダとは宗教経典のことである。なお、バラモン教とは古代のヒンドゥー教と解しても良いとのこと。ただ、厳密に言うと、バラモン教とヒンドゥー教は神々も異なり、経典も異なっているのである。ヒンドゥー教ではバラモン教では脇役であった、ブラフマー神、シヴァ神やヴィシュヌ神が主要な神となる。ただ、バラモンによる四姓制、即ちカースト制を引き継いでいる。こうしてみると、インドの宗教とは、広義にはヒンドゥー教なのである。仏教もヒンドゥー教に含まれている一派である。仏教はヒンドゥー教と併存していたとも言える。
仏教は釈迦により説かれるが、釈迦は最初バラモン教の教えに従いながら、カースト制には反対であり、バラモン教の教説を深化、展開している。この仏教が日本に伝わり、様々な宗派が生まれているのである。飛鳥時代における仏教の信仰の可否の問題、奈良時代における僧尼の統制、平安時代における末法思想(釈迦入滅後二千年後)などなど、仏教に関して整理することはおよそ困難である。このようなヒンドゥー教と仏教の変遷などは必要な時に調べるとして、機会があれば紡がれた物語としての長編叙事詩「マハーバーラタ」を読んでみたい。そういう思いが強いのである。
以上
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2017年8月18日(金) |
題:鈴木知太郎他 校注「和泉式部日記」を読んで |
「紫式部日記」を読んで、残る平安朝日記文学のうち最も関心のある「和泉式部日記」を読んでみる。結論から述べると、和歌が多くて理解するのに時間がかかる。「紫式部日記」のように情景、心理描写にすぐれているわけでもない、ただ、読み上げた和歌に和泉式部の洗練された心の襞と言うより、怨念や諦念が表現されている。かつ和泉式部と敦道親王との恋の駆け引きなど、いわばドタバタ劇が記述されている。そして、和歌のうちにはなるほどと思われる繊細な情感を含むものも結構あるのである。ここでは、この物語の成立過程や作者について、また若干の他者による評価や和歌そのものを、二、三、紹介したい。
和泉式部は恋多き女である。兄の為尊親王と結ばれるが死に、弟の敦道親王と結ばれる。なお、正式な夫、橘道貞はこの時陸奥守として、去っている。「和泉式部日記」はこの敦道親王との出会いから約一年弱の和歌を中心にした恋愛物語である。余分なことであるが、この後和泉式部は、娘の子式部や紫式部などと中宮彰子に仕え、道長の家司、藤原保昌とも結ばれている。
「和泉式部日記」は別名「和泉式部物語」とも呼ばれている、和泉式部自身の手による作品と言う説や藤原俊成の戯作と言う説や、第三者の手によるとの説もあるのである。出だしは有名で、『夢よりもはかなき世のなかを嘆きわびつつ明かし暮らすほどに・・』となっており、てっきり和泉式部が一人称で書いていると思っていたら、読んでいくと和泉式部は「女」と表現されて、三人称として書かれているのである。本文中では一人称と思われる個所や、和泉式部の居ないところでの和泉式部への非難や敦道親王の正室なる北の方の描写などがあり、誰が書いたのかは良く分からないらしい。少しばかり文章に目を通しただけで誰が書いたかなど分かるはずはないけれど、和泉式部を少し冷たくあしらっている、また和泉式部が自身を物語として成立させる根拠など無いために、直感的には和泉式部が書いたとはどうしても思われない、和歌の好きな者が書いたはずである。こうしてみると、やはり日記と言うより物語として捕らえるべき性質の作品である。
渡辺実著「平安朝文章史」の感想文では、『「和泉式部日記」は「われ」を「女」と記述することで「和泉式部物語」という別名もあるらしい。自身も作中の一部に組み込み意味を構築するより、より豊かに表現される心情の世界があるはずなのであり、歌が精神集中の場であると同時に、文章も心を言語によって制御しつつ書くという、一段高い質の仮名文になっていると著者は述べている。ただ、和泉式部は歌がうまいが、文章はやはり紫式部の方がうまいと述べている』と書いていて、和泉式部が作者であるとごく自然に想定している。こうも作者を疑わなければ、誰が書いたかはよく分からない。
紫式部による「紫式部日記」では、清少納言を敵対勢力であれ「したり顔にいみじう侍りける人」と批判しているのに対し、和泉式部は少し褒めている。『和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかなき言葉のにほいも見え侍るめり。歌はいとおかしきこと。ものおぼえ、かたのことわり、まことの歌よみにざまにこそ侍らざらめ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの目にとまる詠み添え侍る。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりいたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ見えたすすぢに侍るかし。恥づかしげの歌よみやとはとはおぼえ侍らず』
簡単に現代語にすると次のようになる。和泉式部はけしからぬことをするけれども、言葉、歌は才能があり匂いがある。歌に一言添えるのもよい。ただ、本当の歌詠みではなくて、人の歌の批評まではできないし、また口からすらすら出てくる単なる歌詠みである。こちらが恥ずかしくなるほどの歌詠みではない。こうした紫式部の批評は辛辣であるが、紫式部の自尊心がもたげているような気もする。ただ、鋭く言い得ていて、なるほどと思うほどの批評眼を持ち合わせている。
紫式部が和泉式部のことをけしからぬことをすると言っているけれども、こうした男出入りの多い和泉式部を敦道親王はなぜ惹かれていくのであろうか。それは恋愛上手と言うよりも、和泉式部の軽妙な機知であろう。たとえば、次のやりとりはその一つであろう。
ことの葉ふかくなりにけるかな
とのたまはすれば
白露のはかなくをくと見しほどの
と聞こえさするさま、なさけなからずをかしとおぼす。
言いかわす言葉も深くなりましたね、という敦道親王に対して、和泉式部は、白露のようにはかなく置くような間柄と思っていたのにと答える。これを敦道親王は、思いやりある趣のある女だと思っている、また、敦道親王の着衣などを素晴らしいなどと作者は更に続けて記述している。こうした親王の心を客観的に推し量ることや親王の姿形を当事者外の視点で褒め称えているとことは、きっと作者は和泉式部ではない、他の誰かが書かいた物語であると推測される。もし和泉式部が書いたならば相当の客観化する文章能力の持ち主である。他の日記文学ではありえないのである。
ここで和泉式部の歌を少しばかり紹介したい。女心と機知と恨みや寂寥感が支配している。
敦道親王の「・・あまのを舟を」への返歌、うまく言い返して棄てられたと恨んでいる。
袖のうらにただわがやくとしほたれて舟ながしたるあまとこそなれ
敦道親王「・・誰さそひけん」への返歌、暗き道は俗世間であるが、会いたい気持ちがよくでている。
山を出でて暗きみちにぞたどり来し今一たびのあふことにより
敦道親王「・・問う人もない」への返歌、軽妙に皮肉を込めている。
まどろまで一夜ながめし月見るとおきながらも明かしがほなる
和泉式部が自分から会いに行くという、積極的である。
いとまなみ君来まさずは我ゆかんふみつくるらん道を知らばや
などなど、他は省略したい。やはり、私には「紫式部日記」の方が好きである。
以上
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2017年8月11日(金) |
題:ニーチェ著 原佑訳「権力への意志」を読んで |
この「権力への意志」は上下巻で、あわせて1000頁あり、それもアフォリズム(箴言もしくは断章)の形式をとっていて読みにくい、さっと斜め読みしただけである。それでも、疑問を持ったところはドゥルーズ著「ニーチェと哲学」も少しは読むなどしていると、ニーチェの思想が見えだしてきたのである。それは何と言ってもドゥルーズのおかげであろう、今こそ「ニーチェと哲学」を読むと、良く理解できるに違いない。本書の一部、気に掛かる点をごく簡単に紹介したが、その前に、「権力」と言う言葉と本書の編集に関して、更に本書の目次について述べたい。
訳者は「権力」を次のように述べている。即ち、〈Kraft〉(力)と区別せしめる〈Macht〉の適訳を見出せなかったために権力と訳したのであり、『ニーチェにおいて〈権力〉とは、彼の他の用語を借りて言い換えれば、むしろ〈生〉そのものにほかならず、・・』更に『ニーチェ的意味での〈権力〉とは、第一義的に内発する活動する生命の力そのもののことである』こうした立場に立てば、〈権力〉とは〈力〉と読み替えてもそれほどずれは生じないはずなのである。念のために調べると〈Kraft〉は人間に肯定的で生産的で創造的な、何かを生み出す力である。〈Macht〉は人間に疎遠で対立する力である。〈Macht〉は〈Kraft〉に実体を持つけれども、どこから生み出され、どの方へ作用するか分からない力なのである。このため日本語では権力などと言う言葉を用いるらしいが、ドゥルーズ著「ニーチェと哲学」においても、すべて「力」と訳されている。言い添えれば、本書は1993年に出版されているが、訳者の解説文は1962年が日付されていて、相当古いこと訳文と見受けられる。ニーチェの新訳があるかどうかは、私には分からない。
次に、本書はニーチェの実妹、フェールスター・ニーチェが草稿を編纂したものであって、彼女による解釈が相当這い込んでいるかもしれないという点である。彼女は、ニーチェの手記、草稿などの夥しい遺稿を管理して編纂しているのである。こうした点を知っても、本書を読む限り、どこがどう記述変更され編集されているかなど分かるはずはない。子細に読んでも分かるのは容易ではない、きっと専門家にさえ困難なはずである。それよりも、本書の目次の草案が、何度もニーチェによって改作されていることの方が大切である。この目次が、あたかも体系的な哲学を記述しようとように見えようとも、訳者が述べるように、ニーチェの性格として、体系的な哲学としては記述できなかったに違いない。「悲劇の誕生」や「道徳の系譜」はそれなりにまとまって記述されている、でも本書はこれらの著作物以上の内容を含み、論理的な展開が想定されているのである。ニーチェならできるの著作物であって、いやニーチェだからこそできない著作物であったのかもしれない。
ここに目次の案を掲載する。どういう論理的な記述の展開を図ろうとしたのか、一目で分かるはずである。上巻にはいくつもの目次案が示されている、ニーチェがそうとう考えていたことは確かである。
第一書 ヨーロッパのニヒリズム
T ニヒリズム
1 生存のこれまでの価値解釈の帰結としてのニヒリズム
2 ニヒリズムのその他の諸要因
3 デカダンの表現としてのニヒリズムの運動
4 危機。ニヒリズムの回帰思想
U ヨーロッパのニヒリズムの歴史
a) 現代の暗鬱化
b) 最近の数世紀
c) 強化の諸兆候
第二書 これまでの最高価値の批判
T 宗教の批判
1 宗教の発生
2 キリスト教の歴史
3 キリスト教的諸思想
U 道徳の批判
1 道徳的価値評価の由来
2 畜群
3 道徳主義的なもの一般
4 いかにして徳は支配的となるにいたるかの問題
5 道徳的理想
6 道徳の批判への結論的考察
V 哲学の批判
1 一般的考察
2 ギリシア哲学の批判
3 哲学者の心理と誤謬
4 哲学の批判への結論的考察
第三書 新しい価値定立の原理
T 認識としての権力への意志
U 自然における権力への意志
V 社会および個人としての権力の意志
W 芸術としての権力の意志
第四書 訓育と育成
T 階序
U ディオニュソス
V 永劫回帰
なお、この「権力への意志」の副題として「すべての価値の価値転換の試み」とある。この価値転換の思想が、この目次から容易に読み取れるのである。即ち、ヨーロッパを支配してきたニヒリズムは、キリスト教世界観のうちに実現されていており、道徳的な判断はニヒリズムを含みつねに偽ってきたのである。新しい価値の定立としては、このいままで至高の価値であった古い価値判断を力への意志によって転換しなければならない。力とは内的意志である。そしてニーチェは十字架にかけられた神の代わりに、全く生の宗教的肯定者としての、生の約束であるディオニュソスを語り、永遠回帰を語るのである。なお、永遠回帰とは終局状態に陥ることがない、無限に戯れ続ける円環運動としての世界にほかならないのである。
ここまで書くと細かい点には触れない方が良い。長くなるので最後に少し気に付いた文章を引用したい。『個人がしばしの間衰退するにもかかわらず、力が増大するときには、すなわち、新しい水準の基礎がおかれる。非経済的な浪費に反対して、小さな業績を保存するための、諸力を集める方策。破壊的本性がこうした未来の経済学の道具となることをさしあたり甘んずる。弱者の保存、というのは、というのは、巨大な量の小さな労働がなさなければならないからである。弱者や苦悩者の生存をなおも可能ならしめる心術の保存。恐怖と卑屈の本能に対抗して連帯性を本能として植えつけること。偶然との、また「偉大な人間」の偶然との闘争』(下410頁)ニーチェの本心がどこにあるか分からないけれども、少しニーチェの毛色が異なってみえるためである。
以上
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2017年8月4日(金) |
題:J.ヴィレット著 片山啓治訳「表現主義」を読んで |
表現主義とは何か、知っているようで知らないために読んだ本である。ただ、著者は表現主義に関する人物や著書の数々をあまりにも知っていて紹介しているために、細部を述べるのは困難である。というより読み切れない。でも、少なからず知っている人物や作品も出てきて、何とかおおまかにも読み切ることができた。そして、表現主義とは何か、その主内容のおおまかな把握もできたのである。目次を示すと分かりやすいと思われる。
1. 表現主義の謎
2. ヨーロッパの文化情景
3. ドイツ的混合
4. 1914年以前の表現主義
5. 事態に押されて
6. 表現主義の頂点と衰退
7. 20年代の表現主義
8. 1933年から45年まで
9. 未解決の問題
これをみると表現主義とは、二十世紀の始まりにドイツを中心にした表現形式であることが分かる。なお、J.ヴィレットによれば、表現主義とは、未来主義とか超現実主義のように意識的なグループによる運動ではなく、すでに起こってしまったことに、後から振り返ると、すべての芸術を貫く一つの恒久的な基本要素がみられるために、名付けられたものである。それはドイツを中心にした美術、音楽、文学、演劇にも貫く指標である。無論、その他の定義があることには注意したいが、この言い方は一般的表現主義が、何よりも一つの戦後現象、ドイツ革命の一産物とも言えるということである。では、どういう表現形式化と言うと、野獣主義であり、未来主義であり、立体主義であり、あらゆる理念と要素を吸収して、表現主義的な仕方で変化させるのである。
端的に表現主義を表している文章は、著者が文学家エドシュミットの言葉を引用した次である。『表現主義者は目で見るのではなく、心で視る。彼は描写するのではなく、体験する。彼は再現するのではなく、形象化する。彼はうばうのではなく、求める。いまや、存在するのは、工場、家並み、病気、娼婦、叫び、飢え、といった事実の連鎖ではない。存在するのは、そのヴィジョンなのである』この表現は絵画において顕著に表れている。パウラ・モーダーゾーン=ベッカー、ケーテ・コルヴィッツを二人の先駆者として、本当にさまざまな画家が居るのである。グレコやマティス、カンディンスキーに、ムンク、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソも含まれるらしい。ただ、この表現主義と名付けられたのを知ったら反発する画家が相当数いるに違いない。
戦争を通じた抒情詩として、ブリュッケ、ハイム、トラークル、シュタドラー、リヒテンシュタイン、フォン・ホッデスなどなどをあげている。なお、文学ではホイットマンやヴィエーランやシラー、ゲーテを手本にして活動を行った、さまざまの作家がいるらしい。でもあまり見知った人はいない。ハーゼンクレーファーなど演劇を中心にした表現主義者もいる。演劇界ではいろんな事件も起きたようである。なお、表現主義の狭義な定義では、ほぼ1910年から22年にかけての、特殊なドイツにおける現代美術の方向であるのには注意されたい。それほどに、この表現主義は広範囲な芸術を含み、さまざまな芸術家を含んでいるのである。たぶん、狭義と広義の境界は模糊としている。
表現主義がドイツ革命、第一次世界大戦のショックによって生まれたとすれば、とどめを与えたのはヒトラーによる権力掌握であると著者は述べている。ナチスを嫌悪する表現主義者はヒトラーに静粛される。なお、表現主義者はニーチェを崇拝するが、ナチスはニーチェを利用するのである。芸術作品は焚書または破棄される。最後に、著者は表現主義にいろんな批判があるが、表現主義的な作品には、自然発生的にすべてを生み出している情動性の基本問題にふたたび立ち返ると述べている。それにしても、表現主義とは広範囲であり、一つの現実の表現であり解放を求める表現の追及であったに違いない。これが、一時ダダイズムと結びついて、シュールリアリズムへと繋がっているはずである。
以上
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2017年7月28日(金) |
題:阿満利麿著 「宗教の深層 聖なるものへの衝動」を読んで |
らない著者であまり期待していなかったが、読んでみると宗教意識としての聖なるものへの衝動というより、五人の民俗学者や作家の思想などを明確に捕らえていて簡明に記述している良い本である。五人とは折口信夫と柳田國男、本居宣長、夏目漱石、清沢満之である。特に夏目漱石に関しては、独自に一冊文芸評論として出版すれば、江藤淳の「夏目漱石論」よりも、夏目漱石の心の内側を哲学的に表現できたはずである。
宗教とは神への意識である。著者は民俗学者であるためか、序章として「神々の島」沖縄における宗教儀式の実体験から述べ始まる。この神話共同体における実体験は貴重なものであろう。神とユタ(シャーマンのこと)の関係など、これらの儀式の詳細は本書参照のこと。さて、著者は民俗学者としての折口信夫と柳田國男について述べる。柳田国男の祖霊論には人間が祖霊になり神になっていくという、人間との連続性が強いのである。これに対して、折口信夫は「たま」(外来魂)は外からやって来る、超自然的で非人格的で、連続性よりも断絶性が強いと指摘している。柳田国男は現世の人間が存在して、その延長線上に、祖霊や神が登場する。これに対して折口信夫は他界(あの世)があり、そこから発する「たま」があり、そののち人間が登場するのである。この指摘は大いに参考になる。こうして魂を中心に著者は浄土真宗の教義を含めてこの二人を論じ展開していくのである。
更に著者は近世におて『宗教のもっている救済原理の否定と、それに代わる現生の人間生活の絶対化、つまり現生主義の優越』が生じて、これが宗教の世俗化の始まりであり、本居宣長はその先駆者と捕らえる。簡単に述べると宣長の浄土教における歌を示して、この歌は省略するが『宣長のこの理解は、法然の、人間は欲望のあるがままで阿弥陀仏にすくいとられる、という考え方と同じである』即ち、浄土教においては、この世に生きている間に自らの努力で悟りをひらくことのできない人間のために開かれた仏教であり、阿弥陀仏を信じてただ念仏することなのである。人間の有限とは煩悩の身であり、「凡夫」であるとの自覚が生じて、わが力を頼むということは起こり得ない、このような凡夫にも救済があるのである。こうした法然にとっての念仏に相当するのが宣長にとっては和歌である。宣長にとって和歌のよしあしを決めるのが「物のあわれ」となる。「物のあわれ」とは「事にふれて心の動くこ」とである。ただ、著者は本居宣長によって近世における人間の救済願望の弱まり、逆に人間は自らの生の過程に十分充足できる観点を持つことができるようになったとして指摘して詳しく論じている。
ここで横道に逸れるが、「凡夫」について、奈良時代に僧景戒によって書かれた「日本霊異記」における「凡夫」の思想とほぼ同じである。ただ、僧景戒における「凡夫」とは、少なからず悟り方の相違ではない、階級論や差別論を含んでいるのである。仏教において悟りには段階があるのとも若干異なっている。即ち、僧景戒が述べる「凡夫」とは、聖、天皇と異なって、悟りの拓けないただの人間、即ち凡夫なのである、これに対して、聖、天皇は悟りの境地を得ていて、飲食など思うままに何事も成すこともできるし、凶事が生じても絶対に咎められない聖人なる特別な階級なのである。遠い昔の時代故に、こうした既に悟りを得た者を入れ込んで、善悪、因果応報を説くこと、奇譚を述べることは意味のあることであったのだろう。ただ「日本霊異記」はこうした根底の思想に関心を持たずに取り除けば、奇譚なのであって、シュールリアリズム(超現実主義)な話を集めたものとして楽しめることができる。無論平安朝初期における「凡夫」思想の理解の成され方が分かるはずである。
夏目漱石に関しては、哲学的に論じていて面白い。私がこのように論じて記述してみたいという原型をなしている。私を意識の連続体と捕らえて、W.ジェームズやベルグソンも加えて、意識の行者と断じている。意識を客体化した『純客観の目が、晩年になるに従がい、ますますあたたかさを帯びてくる』と述べていることはまさしくその通りである。こうした漱石に関する記述内容は割愛する。清沢満之については日本での初めての宗教哲学者としている。『絶対的な因は、絶対的な力によって生じるのであり、不動心とは、絶対的な力を信ずることによって生じる』との清沢満之の言葉が関心を引くが、それほど深い内容のあるものではない。むしろ、『理詰めの煩悩もまた、煩悩である』との言い方の方が軽妙である。
本書の横帯に記述されている『近代における求道の痕をたどり、理性を希求してやまない人間の宗教意識の根源に迫る』との文言は、意味が少しずれているが、即ち、求道の精神なるものの宗教意識を本書は記述していると言うことはできない。道を求めるのではなくて葛藤やその他の感情などを含む意識そのものの流れの内に在る存在の存在論の一部として捕らえる方が説得力を持つように思われる。でも著者の述べているように『世界と人間の在り方を根本的に納得しようとする、世界観的要求のあらわれ』として捕らえれば、また、宗教を聖なるものへの憧れとして捕らえれば、まさしくその通りなのである。
以上
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2017年7月21日(金) |
題:マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳「悪徳の栄え(続)ジュリエットの遍歴」を読んで |
ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」を読んでそれなりに理解しているはずで、マゾッホは何作品か読んで納得している。けれど、サドは冗長であったのか、途中で放り出したかもしれずさっぱり記憶がない。機会があれば、読んでみたいと思っていたら、押し入れの中を整理していると偶然見つけ出した本である。表紙の写真とは異なって、発行年は1964年と古く、現代思潮社から出版された本である。それも二分冊にされたうちの続編である。どうりで、出だしが既に登場人物がいるような書き方で少し分かりにくかったけれども、サドの言わんとすることがおおよそ分かったのである。
訳者の短いあとがきでは、裁判沙汰になり『「露骨にして具体的なる性交性戯に関する記述は含まれていない。・・問題の十四か所カットしたため、どうやら、この本は「謹厳にて抽象的なる道徳に関する記述」しか含まれていない書物になってしまったようである』と述べていて、どうりで悪徳などの哲学的とも言える論証が多くて、後半の一部を除いては、具体的な行為そのものは凄惨な凌辱を極めながらも、短文で簡潔明瞭に書かれている。表紙の写真は、河出書房版でありながら、訳者もページ数もほぼ同じであり、現代思潮社版と同じ内容と推測される。つまり、裁判結果も詳細は知らず、本書の完訳版があるかどうかについても知らない。探し出せばきっと完訳本はあるのかもしれない。
この小説の内容はともかく、小説の文章と構成は上手である。たぶん、正編でジュリエットは自らの過激に淫蕩な要求を満たすために行い始めた悪徳について語り始めるはずである。もしくは著者が記述はじめる。こうした語りもしくは記述の構造は、一部に語りの内に語りを含む古典的な手法を取り入れながら、大きな筋の流れに従って続編にて完結するはずである。即ち、続編では、フィレンツエやローマでの、かつ教皇との淫蕩さの充足、大盗賊と彼の妹なども含めた身の上話、ナポリ巡りを経てヴェニスに至り、パリに帰還するまでの、かつ帰還後の御婦人たちや王様に侯爵との策略や陰謀に裏切りを含ませた数々の物語が記述され、物語を高揚と盛り上げ、ジュリエットはいわゆる悪徳によって尽きることの無い情欲を満たしていくのである。そして、敬愛する男が大臣の死によって、政府の権力を手中にするのをジュリエットは喜ぶ。思うままに富と大衆もしくは人民を得ることができるためである。
少しばかり感想を書く前に、ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」を読んで既に書いている感想文を少し紹介したい。以下のようなものである。『本書はドゥルーズの文章としては複雑な論理の展開は成されずに、訳文は込み入っていて不明な部分もあるが思想の総体としては簡明に分かりやすい。本書はかの有名なサドの文学に比較して、それほど馴染みのないマゾッホの文学作品も、マゾッホがサドの従属物ではなくて二人の作品は異なった二つの芸術であるとドゥルーズは述べて、論証を行っていくのである。即ち「サド=マゾヒスム」という固定化された関係を解きほぐし、それぞれの言語的な機能の果たす役割、善悪や法、自我と超自我関係、更にユーモアとイロニーやエロスとタナトスなどを明晰に論述している』
そしてこのように続いている。『サドにあっての言語的描写は、まずサディストが持つ個人的な嗜好を描写する、これが非個人的な要素に高揚として指令し、非人格的な暴力を純粋理性の観念とする。個人的要素を脱して恐るべき論証性と一体化させるのである。これには、制度を必要とする。制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことである。一方、マゾッホの言語的な描写は、肉体を宗教的・神学的に捉えてこれを芸術作品から「観念」へと昇華させる弁証法的な精神活動が活力源となっていて、契約を必要とする。契約とは契約者同士の意志を仮定し両者間の権利と義務を明確なものにする一定期間有効なものである。更にサドにあっては、自己の内外の自然を否定し「自我」そのものを否定する快楽なのであり、否定性と否定の概念に基礎を置いていて、これらは高度の論証機能をめざすのである。いわば論証の快楽でもある。なお、否定性とは具体例はあげないが能動的な活動において生じて、否定は純粋理性の観念のことである。一方マゾッホにおいては、例えば女にペニスが欠けてはいないという否認が重要なのである。現実を認識しているがその認識を否認し、世界を否認して、女を吊るすように宙吊りにすること、そしてその宙吊りにされたものに向かって自分を拡げること、いわば現実を超えた錯乱であり、もはや男とも女とも言い切れない中性化でもある。ここでマゾヒストは専制的女性を養成しなければならない、訓育者であることに注意する必要がある。こうしてドゥルーズは、サドは純理論的で分析的な手法をとり、マゾッホは神話的で弁証法的であり、想像力において全く異なっていると述べている』
ジル・ドゥルーズ著「マゾッホとサド――冷淡なものと残酷なもの」におけるサド論はとてもとても良く書かれている。制度とは権威と地位との構成要素でもある長期的な法規ことであると述べていることは、この専制君主の制度によって富と人民を得て、非人格的な暴力によってほぼ無尽蔵に消費できることにある。そしてこの消費は、ドゥルーズが述べるように自らの内外の自然は否定され、自我も否定・排除されて超自我がなさせる論証なのである。自我は犠牲者の内にのみある。制度とは、もはや専制君主の制度ばかりではなく、資本主義社会や社会主義社会の制度でも超自我は限りない消費を求めて、限りない消尽を求めている。そのことは、このマルキ・ド・サド著「悪徳の栄え」が制度論の法規を従えて、この制度がもたらす論証の究極の形態を、もしくは制度の究極の様態を描いているはずである。欲望の解放によって人間は自らを取り戻すのではなくて、欲望する自我が論証を実践する超自我の犠牲になるのである。「悪徳の栄え」はこの警鐘であるというより、その赤裸々な在り様を濃密で猥褻な描写の内に示しているのである。
なお、欲望とはドゥルーズにとってとても重要な概念である。なお、人間の欲望と制度が枯渇して求める欲望とは埋め尽くすことのできない差異がある。この制度とは体制そのものでありながら、かつごく一握りの人間なのである。ドゥルーズの資本主義社会に対する思想では、人間は欲望を閉じ込められ分裂症患者になる。人間に欲望を取り戻し自由なければならないとする、でも実現は困難なはずである。欲望する人間はきっと自由を取り戻すことができても、欲望する制度はこれら人間をすぐさま消尽するはずである。サミュエル・ベケットのように自らが消尽するのではない。制度は人民の肉体そのものも含めて消費する、消尽するのである。こうに思われて仕方がないけれど、これを救う手立てはない。「悪徳の栄え」はこの消尽の繰り返される歴史を事細かに描いている。ジュリエットの遍歴とは歴史そのものの遍歴であるはずである。この消尽する制度と論証機能は、資本主義社会における欲望とともに、機会があればドウルーズを読み直してもう一度考えてみたい。
以上
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2017年7月14日(金) |
題:シュトルム著 関泰祐訳「みずうみ 他四編」を読んで |
シュトルムの「みずうみ」は、著者と作品はどこかで聞いた記憶があり、読んでみたけれども、内容は単に抒情的な香りがする短編作品である。きっと抒情詩人としてのシュトルムという名が記憶にあったのであろう。それに、ジュリアン・グラックの「アルゴールの城にて」のような本来的な叙情と精緻な詩的文章をイメージしていたために、なぜか頭の中が混乱していて、間違って選択して読んだ本であるに違いない。
「みずうみ」のあらすじは、ラインハルトなる老人が幼友達エリザベートと過ごした愛する日々、帰郷して行き違いの生じた日々、イムメン湖の邸を訪れ、湖の小舟に手を休ませているエリザベートの悲しみと、その後の別れを湖の情景を交えながら描いた作品である。抒情詩も何篇か混じっていて、それらしい抒情的な心象風景的な雰囲気は確かにあるけれども、文章も簡潔にもの悲しさを含んでいるけれども、何か物足りない。やはり、もの悲しさだけではなくて、何か出来事が生じなければならない。もしくは、もの悲しさを否定する反作用としての力、また肯定する力を含んでいなければならない。この力とは出来事を生じさせる力でもある。だが、こうした要求そのものが著者の資質とは異なったものである。無理な要求なのである。なお、テオドール・シュトルムは1817年にドイツに生まれて法務関係の仕事に就き、苦難に合いながらも、抒情詩人として作家として活躍していたらしい。
思えば、抒情詩とは叙事詩の韻文による事跡を記述した詩と比較した言葉であり、自らの感情や情緒を表現するものである。この広領域な抒情詩という言葉を間違って狭領域に解釈していたことを初めて知る。単なる愛おしさや切なさに、怒りや憎悪を含めて、単純な感情表現は抒情詩から排除して理解していた。一般的に書かれる詩の過半は抒情詩でありながら、単なる詩と思っていたのである。抒情詩とは表現の形式や内容に斬新さが、特に言語と観念や感情に新鮮さを含んでいなければならないと思っていたのである。この斬新さとは新鮮さとは何であるか、それは規範からの逸脱である。常に汎用さから逃れ出ようとする表現とその形式である。逃走線を追いかけ境界に至ろうとする、もしくは境界の縁にて発することのできる表現と形式なのである。「青いレタスの淵で休んでると/卵がふってくる」の淵であり、落っこちそうな淵である。淵とは生命を維持することのできる境界線上において生じる錯乱でもある。「錯乱こそが、世界の端から端へと言葉を運び去るプロセスとして、それらの形象を発明する。それは言語活動の境界線上にある出来ごとなのである」と述べた哲人もいる。
だいぶ横道に逸れたが、これからは抒情詩という言葉をどう使うか難しい。あまり使わないようにしなければならないのか、それとも自らの勝手な信念に基づいた判断により使用すべきなのか、私の理解する抒情詩とは数少ない作品であるためである。
以上
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2017年7月7日(金) |
題:スピノザ著 畠中尚志訳「デカルトの哲学原理」を読んで |
題:スピノザ著 畠中尚志訳「デカルトの哲学原理」を読んで
デカルトの「哲学原理」を読んではいないが、スピノザゆえに敢えて本書を読んでみる。デカルトの思想に、スピノザの解釈・批判が加わっていて、理解するのはなかなか難しいが、スピノザの考え方が、特に神についての記述が論理的でありながら、高揚としていて神に魅入られたスピノザの姿を見出すことができる。どうしてスピノザは神にこだわるのだろう、そうした疑問を持つが、自然界のさまざまな調和が神秘的にもたらされること、そしてこの神秘的な調和に自ずと身を委ねることが人間にとって最善であることを確信していたに違いない。スピノザの証明しようとした神とは、こうした東洋的な思想の匂いも伺える、雑多な人間たちを超えた一つの深遠な信念であり、自然に対する崇拝とも言うことができるはずである。
デカルトはスコラ哲学の影響を受けており、このスコラ哲学から脱出した自然科学的な思想を目指したとも言える。彼の著作なる「哲学原理」は四部からなり、第一部は人間の認識について論じている。「われ思う、ゆえにわれあり」はあまりにも有名である。第二部から第四部は自然科学について論じている。無論、手法としては数学的な定義、諸定理に、諸公理に基づいているとのこと。本書の最初にロデウェイク・マイエルの「公正な読者への御挨拶」では、スピノザもデカルトにならい、デカルトの定義を本書の初めに置き、また定理や公理も記述してデカルトの哲学原理の解明を行っている。無論、批判も含まれているが、あくまでデカルトの思想を弟子に教えようとしたものであること。ただ、ロデウェイク・マイエルは、デカルトとスピノザの思想の違いを端的に示している。
マイエルの「読者への御挨拶文」を引用してデカルトと異なるスピノザの思想を紹介したい。『意志は知性と異なったものではなく、ましてや意志はそこ(「哲学原理」のこと)に説かれているような自由は認めれるべきではないのです。・・デカルトは人間の精神が絶対に思惟する実体であることを何らの照明なしに単に仮定しています。これに反して我々の著者は、自然の中に思惟する実体が存在することは承認するけれども、しかしそのような実体が人間の精神の本質を構成することには反対しています。むしろ、延長がどんな制限によっても限定されないと同様、思惟もどんな制限によっても限定されないことを主張するのです。従って、人間の身体が絶対的なものではなく、むしろ単に延長的自然の法則に従い運動と停止によって一定の仕方で限定された延長であると同じように、人間の精神或いは霊魂もまた絶対的なものでなく、むしろ単に思惟的自然の法則に従い観念によって一定の仕方で限定された思惟である、と彼は主張します。そしてこの思惟は人間の体身体が存在し始めるや否や必然的に与えられる、と彼は結論しているのです。この定義からして、意志は知性と区別されるものでないこと、ましてや意志はデカルトが認めているような自由を有するものでないことを容易に説明できると彼は考えます』と述べている。この文章を読むと、少し混乱するが、自然の中に限定されない思惟があることとはきっと神のことであり、人間の精神或いは霊魂が一定のしかたで限定された思惟であることが注目に値する。そして、意志と知性は区別されず自由を有するものではないのである。
さて、スピノザの「デカルトの哲学原理」の第一部では、「私は思惟する、故に私は存在する」という命題を「私は思惟しつつ存在する」という命題と意義を同じくする単一命題として、スピノザは詳しく論じていくのである。この論じている内容は、結構、面白いが詳細は省略するが、ただ、『すべての物の観念或いは概念のうちには存在が含まれている』のであり、『私は、完全性ということを単に実在性と即ち有のことと解するのである。・・従って実体は偶有性よりも一層必然的な、また一層完全な存在を含んでいることを明確に理解する』と展開していくのである。こうして『すべての必然的な存在を含むものは最も完全な実有即ち神であるということが帰結される』と述べるに至る。ここで私が私自身を維持できるかどうかが問題になる。結局『・・私自身を維持する力を有しない。従って私は他のものによって維持されるわけである。・・自らを維持する力を有する他のものによってである。・・その本性が必然的な存在を含んでいるようなもの、つまり、・・すべての完全性を含んでいるようなものによってである。従って、最も完全な実有即ち神は存在する』こうして『存在するすべてのものは、神の力にのみよって維持される』となる。
こうした神をなぜスピノザは論じるのであろう。またしても疑問が生じてくるけれども、早急に結論を出すのは止めたい。自然科学について論じた第二部から第三部については、古いゆえに省略する。付録「形而上学的思想」の第一部、第二部では『この中では、形而上学の一般部門並びに特殊部門に於いて有とその情態、神とその属性及び人間精神に関して出て来る比較的困難な諸問題が簡単に説明される』とのスピノザの言葉通りに、スピノザの思想の根幹が明らかにされている。この内容についての紹介は省略したい。付録「形而上学的思想」はとても良く書かれている。
以上
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2017年6月30日(金) |
題:ドストエフスキー著 江川卓訳「地下室の手記」を読んで |
題:ドストエフスキー著 江川卓訳「地下室の手記」を読んで
ドストエフスキーは苦手である。ずっと以前「罪と罰」を読んで途中で挫折してしまった。饒舌すぎて、自己矛盾も露わに心理が錯綜として、そして微かに希望を持っても、苦悩しつつ絶望に至るのである。つまり、悩み苦しむ人間が、その堅固な実体を前面に押し出して読者に迫ってくる。無論、こうした観念を含み赤裸々な実存形態が綴られている小説は稀であって、好きな人には堪らなく良い本であるに違いない。ただ、もはやこうした先入観を持ったからにはこの固定観念を覆すのは容易ではない。でも、もう一度だけドストエフスキーが読めるかどうか確かめたくて、約200頁と短い「地下室の手記」を読んでみみることにする。「地下生活者の手記」とばかり思っていたが、表題となっているその理由は知らない。
結論から述べると、先に述べたドストエフスキーの特徴が、特に饒舌さなどが表れているけれども、現代文学の先駆的な作品とも言える。解説によると、この「地下室の手記」はドストエフスキーの前半の汎用な作品から後半の「罪と罰」、「白痴」、「カラマーゾフの兄弟」などの偉大な五大作品へ橋渡しをする重要な作品と位置付けられているらしい。あらすじは次のようなものである。下級官吏が遺言で金を受け取り退職して、地下室にて人間の理性や快楽、文明などにについて批判的に饒舌に語る。ただ、この主人公は外に出かけて女遊びを始める、旧知の人などとお金のことなどでいざこざなどを起こす。そして、売春婦リーザに出会い、生の意味などについて説教をする。彼女の魂に語り掛けて支配しようと企てるのである。冷たかったリーザが得心したかのように心をすり寄せてくる。自らの住所を手渡しリーザが訪れるか疑心しながら、かつ恋をしているかのように今かと待ち構えている。リーザが訪れると、またしても魂に響き支配できるように語り掛けようとする。彼女は恋からではない、ただ売春婦の生活を抜け出したくて相談したかったのである。結局、リーザを抱いてしまい金を握らせる。リーザは当然悲しくも去って行くのである。
ドストエフスキーの言語は正統な意味を持ち、自己懐疑について自己矛盾を含みながらも正当に観念的に語っている。伝統的な小説、特に浪漫小説などの枠組みの筋書きや心理描写からはやや逸脱しているけれども、述べる言葉は的確な意味を持ち適切に正確に心理やこの社会について描写している。こう述べるのは、サミュエル・ベケットの小説と比較しているためである。もはやサミュエル・ベケットの小説では、もはや言語自体が意味を有していない、消尽する者の行動や言語はもはや表層のみを描いていて、無意味な行動と心理を描いている。言語それ自体が反響して尽きることなく続くのである。ドストエフスキーを現代文学の先駆的な作品と述べたのは、彼の意味のある、意味を含んだ饒舌さが、ベケットなどの無意味な饒舌さへの転換点にあるためである、即ち、実存的な人間存在の形式そのものが転換させられるためである。簡潔に述べるなら、実存なる人間存在の形式が失われていく過程、即ち社会や他者と関係性を持つはずの人間が、次第に社会や他者との関係性が希薄になり、自らの想念の内にのみ生きることにある。肉体も精神も健常者ではない、幾つかの物にのみ偏執している不具者となるためである。ドストエフスキーの正当な意味のある言語は、読む者に読むことを強いてくる、言語が意味を有しているために読むのが辛いのである。浪漫小説からドストエフスキーへ、そしてドストエフスキーからサミュエル・ベケットへと移行していく、この言語と物語、筋書きの推移は関心を引くけれども論じるのはなかなか難しいはずである。
ただ、こうして読んでみるとドストエフスキーのこの「地下室の手記」にも、狂ったような饒舌な言葉の渦の中に珠玉のような意味のある言葉がちりばめられている、そのことに気付いて驚いている。この先見性ある言葉が苦悩する人間と結びついて、ドストエフスキーの高評価を支えているのかもしれない。『ぼくは饒舌家でかまわない、・・もし世の賢い人間の第一の、そしてただひとつの使命が饒舌であるとしたら、つまり、みすみす無の内容を空(から)のうつわに移しかえることでしかないとしたら』『この怠惰こそは、あらゆる悪徳の母なのだから。人間が創造を愛し、道を切りひらくのを好むものであることは、議論の余地がない。しかし、では、どうした理由で、その人間が破滅と混沌をも夢中になって熱愛するのだろうか?』『人類がこの地上においてめざしているいっさいの目的もまた、目的達成のためのこの不断のプロセス、いいかえれば、生そのもののなかにこそ含まれているのであって、目的それ自体のなかには存在していないのかもしれない』など、など。ドストエフスキーの別の作品を読むのは少し考えてみたいけれども、これらの言葉そのものは哲学的でもある。
以上
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2017年6月23日(金) |
題:宇野邦一著 「D 死とイメージ」を読んで |
ドゥルーズの最期を知りたくて読んだ本である。著者はドゥルーズと親交がある。本書は哲学の短論文であり、エッセイである。T「レクイエム」、U「Dと分身」、V「イマージュと主体化について」の三部からなり、全部で19個のエッセイから構成される。ドゥルーズの死を知らされた時の驚きが冷静に、思い出も含めて懐かしく、悲しげに記述されている、良い本である。そして、ドゥルーズの死んだ場面がなぜか生々しく思い浮かんでくるのである。
著者は、はじめに「Dについて」と題して、Dにつての記号を、deとし、この記号の縁にあり記号の外にある運動を、何とか把握したいと述べている。ドゥルーズの死は主に、T「レクイエム」に記述されている。そしてU「Dと分身」ではサミュエル・ベケットを論じた「消尽したもの」に重ね合わせている。更にフーコーやガタリや、ベルグソン、ラカンなどドゥルーズが主に記述した著作物を介して論じている。V「イマージュと主体化について」はシューリアリズムなどの絵画論である。そして、本書の主題はイメージなのである。まさにドゥルーズの思考は先人たちと異なって、「イメージなき思考」なのである、「野生の思考」なのである。
これ以上、記述することはないが、一つだけベルグソンとドゥルーズに関した「門が細めに開く」だけは文章として残しておきたい。連続性によって思考するか、不連続性によって思考するか、言い換えれば、この融和する世界を前提とするか、厳しく分離するかである。まずレビィナスの時間の不連続性の思想を紹介する、そしてベルグソンの「道徳の宗教の二つの源泉」における開かれた道徳へと話を移していく。ベルグソンの神秘性へと言われる思考の謎解きを行うのである。はっきりと、ベルグソンの神秘性はと述べて、明確に記述している。記述の内容を謎めいて言えば、運動の把握である。そして、ベルグソンを読むときに連続性と非連続性の両義性に向き合うことになると指摘する。ドゥルーズにおける連続性と不連続性の主題が、連続化と不連続化の問いにも重なっているとし、ドゥルーズはベルグソンの後に来て幾つもの両義性、装置と速度を巧みに操作できた、そうせざるを得なかったと述べている。「門が細めに開く」とはたぶん、ドゥルーズの哲学者としての幾つも操作・方法そのものの新しさについて述べているに違いない。そして、その結果、哲学の領域等において、門が細めに開いたのである。
カフカにおいて門は閉められてしまう、漱石において代助は門から逃げ帰ってしまう、門にはそうした困難性・不可能性のイメージがある。細めでも門が開けられれば良いに違いないが、不可能性の「不」も、また記号の縁または生の境界を示すDそのものを追放するような気がして、妙に居心地が悪くなってきてどうしようもない。この際、門のイメージを払拭して「不」なる接頭語を追い払うよりも、門のこのイメージを徹底させるのが良いのかもしれない。門は直立する巨大な壁であり、行く手を遮り少しも開けることはできない。ゴルディアスの結び目の切断やコペルニクス的転回のような斬新性のみが門を開けることができる。直説的に言えば「門が細めに開く」の「門」がドゥルーズの伝統的な哲学の継承に基づいた新しい手法を示したいならば、比喩として合わないと思われる単純な思いがあるのである。「細めに開く」という表現の謙虚さの問題ではなくて、継承された哲学的問題を操作し論述解答された形式と内容の評価と、哲学的な思想の革新性の問題へと繋がっているのかもしれない。
以上
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2017年6月16日(金) |
題:高橋秀爾著 「ルネッサンスの光と闇 芸術と精神風土」を読んで |
ルネッサンスおける主要な絵画作品を論じた絵画論である。ただ、著者があとがきで記述しているように、光が多く闇は少ない。闇を期待していたのに残念である。半分ほど絵画を知っていたのが役に立っている。これらの作品の解釈は当時の精神風土と重ねており、またギリシア神話を裏付けした絵画の細部に至る説明は、なるほどと思わせる。でもどこか物足りない。きっと、闇が少ないためという以上に、掲載されている絵画がモノクロであり細部が良く分からないためである。相当数の絵画が掲載されており、これがすべてカラーであったならば、絵画の持つ生き生きとした活力に圧倒されたかもしれない。
本書は、第一部「サヴォナローラ」、第二部「メランコリア」、第三部「愛と美」、第四部「二人のヴィーナス」、第五部「神々の祝祭」からなり、全部で二十六章ある。サヴォナローラとは、昔の修道僧ジロラモのことであり、フィレンツエにおいて、巧みな弁舌により預言者として活躍し、神の怒りを説き、卑猥な絵画、音楽、詩などを焼却させる。このサヴォナローラも人々の反感をかい処刑される。ちょうど中世からルネッサンスにかけての転換期である十五世紀末である。このサヴォナローラの処刑の場面を描いた絵画を説明する著者の言葉は、この本の記述しようとした思いそのものである。『あたかも天に向かって伸びる炎の輝きに照らし出されたかのように、ルネッサンスの影の部分を象徴的に見せてくれることである。人間性の解放と現実世界の肯定という明るい光の部分の裏側に、世界の終わりに対する恐れ、死の執念、混乱と破壊への衝動、破滅へのひそかな憧れ、非合理的幻想世界への陶酔といった別の一面があったのである』
こうして著者はシニョレルリの「世界の終わり」や「地獄」、「死者の復活」を取り上げるが、すぐさま神秘の降臨としてボッティチェルリの「ヴィーナスの誕生」や「春」を取り上げ、光の部分へと移行していくのである。ただ、ボッティチェルリはサヴォナローラの影響を受け、大いに苦しんでいたようである。また、他の画家もサヴォナローラの影響下にあって、煩悶している。著者は裸体画の先駆者として、シニョレルリの「パンの饗宴」などの作品を紹介する。なお、パンとは牧神の神のである。またプーサンの「パンとシュリンク」やデュラーの「哲学の女神」やミケランジェロの「考える人」を紹介し、四性論を論じる。こうして著者はルーペンスの「三美神」を紹介して、本書のたぶん主題とも思われる愛へと話を移していくのである。三美神とは「美」、「愛」、「快楽」である。無論、ボッティチェルリも再度大いに論じられる。なお三美神はストア派の哲学者セネカの「恩恵施与論」にみられる、恩恵と手の密接な関係で「三美神」も手を繋ぎ合っているのである。
ラファエルロやピエリオ・ヴァシリアノの「三美神」も紹介され、ネオ・プラトニズムの思想としての「流出」の概念と結びつけられ記述されている。つまり、世界は一から流出してきたものであり、それぞれの段階の「存在」がある。この基本的な構造は至高の存在からの「流出」と、この世界における「発現」、至高の存在への「回帰」の三つへと簡略化できるのである。即ち「美」は神から発するものであり、「愛」はこの世界にて受け止め、「快楽」を神の世界に返すものなのである。更に「貞節」、「美」、「愛」へと変貌する。「美」とは「貞節」と「愛」との結合なのである。こうして、著者はキューピッドも含めて、絵画の謎解き、説明を行う。ボッティチェルリの「春、「ヴィーナスの誕生」が大いに論じられる。こうして、「俗愛」と「聖愛」や「騎士の夢」が語られる。高級娼婦「フローラ」が語られる。見果てぬ「騎士の夢」とは何であろうか。「フローラ」はなぜ美しいのであろうか。
本書の最後の方に行っても主題は変わらない。画家名や画の名称は示さないが、「神々の祝祭」であり、「純潔と愛欲の争い」であり、「ヴィーナスの礼拝」について語られている。「神々の祝祭」は妄りに変奏され、「眠るヴィーナス」は美しいのである。こうして本書を読んで絵を眺めていると、ルネッサンスにおける裸体の礼賛と誘う妖しい美とが良く分かる。これがモノクロでなければと惜しまれるのである。
以上
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2017年6月9日(金) |
題:サミュエル・ベケット著 安藤信也訳「モロイ」を読んで |
ずうっと以前から「モロイ」を再読したくて、でも、集めた全集には欠けている。探すと三輪秀彦訳の「モロイ」が出てきたが、引っ越しの時に水に濡れたのかよれよれになっていて、安藤信也訳の「モロイ」を入手する。ずうっと以前に読んだ時には随分感動したものであったが、今回は好いなと思いながらも、それ以上でもそれ以下でもない。「モロイ」より「名ずけえぬもの」の方が良ベケットを知るためには良かったのかもしれない。
「モロイ」の筋は前半と後半に分かれている。前半は、モロイの不分明な混濁した意識の流れを記述している。モロイは片足を硬直している。母の年金をせびりに行くのが常であり、松葉杖を使いながら自転車に乗っている。警官に不審がられ一悶着が起きる。町に向かうと自転車が犬にぶつかり殺してしまう。この飼い主ラウスとは恋仲になる。死んだ犬はラウスが埋める。ルースもしくはエディスとは性的関係がある。石をしゃぶるのが好きで16個の石を4個のポケットに入れ、順繰りにしゃぶる方法を考えたりしている。モロイはまた徘徊し、母に会うために町に行こうとして、森を抜け出ようとする。ただ、歩行を諦め休息するために腹這いになる。誰かが救い出してくれることを待っている。後半では、通常の一人称の小説形式ながら明晰に記述されているが、前半と同様に次第に不分明な意識の流れとの記述となる。モランと言う調査員がゲイバーの伝達を受け、仕事としてモロイの追跡を命じられる。嫌がる息子ジャックとともにモランはモロイを探し始める。ジャックに自転車を買いに行かせる。膝が痛んで来る。野宿したキャンプの傍らで男と会う。その男を探している男にも会う。もう金もなくなり、膝も硬直してモロイみたいになり、やっとのことでモランは自分の家に戻る。息子ジャックは戻ってくる。モランは仕事を依頼したユーディ―へ報告書を書き始める。
サミュエル・ベケットに関する評論も何冊読んだことがあるが、当然、挫折の芸術とか言語の沈黙性、言語の放棄、意味にざわめき語に達しない沈黙、空間と時間の変貌、人称の欠如もしくは混沌、などなどと評論されていたものである。ドゥルーズは「消尽したもの」として、ベッケトの作品を称している。まるでドゥルーズ自らの身体と重ね合わせたような題名である。この「消尽したもの」を探したが見つからない、そこで「批評と臨床」を読むと、第4章「最も偉大なアイルランド映画――ベケットの「フィルム」」では、存在することは知覚されることであれば、どうやって知覚し得ぬものになればよいのかと問いかけ、知覚されることには恐ろしいことが含まれているのであり、行動、知覚、触発の各イメージを「フィルム」は横断しているけれど、何一つ終わりはせず死にはしないと指摘し、揺り椅子が動きを止めるとき、精神の揺り椅子が揺らぎ始めるのであり、登場人物が死ぬとき、それはすでに精神において運動を始めていることなのである。他者と区別されたり、混同されるための〈自己〉などというものはもはや持たない、こうした特異な原子を解き放ち、知覚し得ぬものになることこそが〈生〉なのだと述べている。もはや知覚すること消尽され、〈自己〉は消失しているのである。このドゥルーズの文章にベケットの作品は言い尽くされていて、もはや言うべきことはない。
ただ、この精神の揺り椅子は、個体を構成する原子以上に微細な、例えて言うなら、光子や電子などの動きを、際立って活性化させているはずである。即ち消尽しているが故に肉体と言う束縛を解かれて、生きているとき以上に知性的に振る舞い、開け放たれて境界のない空間を自由にさすらい、自由に生きているのである。この際限もなく揺れ続ける精神の運動こそが、この宙において連なり果てしなく拡散する波の揺らぎであり、この波の不分明な波長域が不分明な言語によって明らかにされるのが、ベッケットの精神構造そのものである。ある現象とその鏡像とが同一にならないことをカイラリティと言うが、ベケットの場合、揺れる波のような言語が、その表現される精神がカイラリティそのものの、もはや同一性を欠いた自らの鏡像のようなものであり、自らと異なった自らを自らと信じている混乱であり、思い付きであり思い出でもある。即ちモロイはベケットの鏡像でありながら、モロイやモランの鏡像であり、モロイはもはやベケットやモロイやモランの鏡像とは異なった自らを、この像に執着して渦を巻き揺らぎも含んでいる言語の内に作り出して、言語だけが進行していくのである。まさしく尽きることの無いこのカイラリティなる特性を持つ言語の進行性そのものがこの宙であり、ベッケトの作品はこの宙の構造を明らかにしようとしているのである。カイラル対称性の破れとは、杖や自転車の喪失であり得る、この破れについては別の機会に記述したい。
そういう意味で「モロイ」はまだ消尽の初期段階であり、モランも登場されることで伝統的な小説手法も含んで作為的であり、カイラリティの鏡像が始まる過渡的な作品ということができる。
以上
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2017年6月2日(金) |
題:澤野雅樹著 「自由と死――フーコー、ドゥルーズ、そしてバロウズ」を読んで |
本書は偶然見い出した本である。実はドゥルーズの死が気に掛かっていたのである。結論から述べれば、本書はバロウズなる海賊の共和制における自由を書いたものであって、ドゥルーズの死を書いたものではない。フーコーの言表と言説などの思想を書いたものであって、ドゥルーズの死を書いたものではない。落胆するけれども、もう読んでしまったために本書の内容を簡単に紹介したい。なお、その後調べると、宇野邦一著「D 死とイマージュ」があって、そちらの方がドゥルーズの死を詳しく書いているに違いない。本書は、内容に統一性が欠けていると思ったら短論文を寄せ集めて、それらしくまとめたようである。文章も格調高い文章もあるけれども、少し舌っ足らず気味の文章もある。こうした感想を持つのは最後に述べられているドゥルーズの死を、権力の息遣いを人間として感じながら、野生の動物の死と捕らえている。あまりにもドゥルーズの思想を引用していて、通俗的な考え方であるためである。ドゥルーズの死にそんなことはない、ただ普通に生から逸脱しようとした人間の、そんなに意味の深い死ではないはずである。若干本書の内容を紹介したい。
まず、バロウズの小説に登場してくる海賊ながら自由と平等を掲げて、無論、警察と監獄は不要な共和国を、リベタティアなユートピアを作る、男の話から始まる。規則のない状態としての自由を満喫できる共和国なのである。避難所として提供できる国でもある。ただ、この自由とは規則のない状態ばかりではなく、自由意志と呼ぶべき新たな行為を生み出すこともできる自由もあるとする。即ち、自由意志があるかどうかを、スピノザとライプニッツの自由に関する思想について著者は論じている。海賊が作る自由を満喫できるとは、他所から侵害する者たちを処刑することもできる自由でもある。ただ、このリベタティアはこうした他者から成り立っている社会であり、他者を迎え入れながら、実は閉ざされた社会でもある。即ち、悪は閉ざされていて他所からもたらせるのではない、他所に及ぼすもなのなのである、と著者は述べている。この開かれ、かつ閉ざされた社会について、そして自由と罪との関係についての著者の記述は幾分不明確である。そう言えば、本書は哲学的なエッセイであり、先にも少し述べたがある種の断章であり、八つの何かしらの関係ある短論文とエッセイを集めた本なのである。
いろんな哲学者、特に構造主義の哲学者が出てくるが、フーコーが一番多く登場して一番多く語れている。特に「言葉と物」における言表と言説であり、知の考古学である。大雑把に言えば、言説とは例えば経済学など、制度的、社会的集団の領域内の権力と結びつく言語であり、言表とはその最小単位の言語表現なのである。こうしてフーコーは言表の描写に際して、直角に交わる二本の軸の前に立たされる。一方は言説に共通する理論のモデルであり、他方は言説的な領域と非言説的な領域との関係を示す軸である。こうしたフーコーが述べている文章を引用しながら、著者は、言表と言説、非言説的領域と言説的領域、主体や存在との関係、知の考古学における地層との関係などについて述べている。「光の下に差し出された生」の章では、ベルグソンなどの哲学における記憶やイメージを論じながら、フーコーの断層、生が回収不可能な断層も取り上げ、真理を語る者の剥き出しにされる生について述べている。
ただ、よく読むとドゥルーズについても著者は若干記述している。「物質の眼差し、世界の欠伸」の章ではドゥルーズのシネマに関するイマージュに関して「最後のレッスン」の章では、フーコーの小さな死と、ドゥルーズの野生の死について述べている。権力の激しい息遣いに対する野生の死であり、『晩年のフーコーにおいてと同様に、晩年のドゥルーズにおいても「死」とは人間と呼ばれる者たちがそう考えているほど忌まわしいものではなかった・・』と述べている。野生の死とはまだ良いにしても、忌まわしい死と述べている、この「忌まわしい」とは、著者の死に関する感性なのだろうか。
ここから以降は私の独断的な言語感覚である。「忌まわしさ」とは「穢わらしさ」と同等の語感を持つと思われる。汚くて不浄なことである。無論「穢わらしさ」は「穢れ」を語源とするが、現代においてはもはやこの二つの言葉は異なった意味を有するはずである。「穢れ」は「穢わらしさ」よりも、神聖さに結びついた汚れであり、不浄なのである。イザナギがイザナミの腐乱した死を見て禊ぎをするのは、死が「忌まわしい」からではなくて、「穢わらしい」ためでもない。「穢れ」があるためであり、この「穢れ」をそそぎ、イザナギは神々を生み出すことができる。このように死とは「穢れ」と「禊ぎ」を通じて、生と親和性のある生み出す力の源泉となることができる。ただ、こうして死に関してそれほど意味を与える必要などないのかもしれない。死を自ら選び取るか、訪れるままにまかせるかの違いはあるが、ただ単に生きる力の果てることでもある。力を使って生きる力を根こそぎ果てさせる、これがドゥルーズの意志が最後に選び取った力の活用方法であり、一般的な自死と同じであることに違いない。最初に述べたように、ドゥルーズの死は、ただ普通に生から逸脱しようとした人間の行為であり、そんなに意味の深い死ではないはずである。
以上
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2017年5月26日(金) |
題:モーリス・パンゲ著 竹内信夫訳「自死の日本史」を読んで |
著者は日本における自死について記述しながら酔っている、陶酔して賛美しながら記述している。それは日本における自死があまりにも意志的で礼儀的で他を批判しない精神的な気高さに起因するのだろうか。こう言ってもすぐには分からないために、本書の内容を紹介すると、全部で十四章からなる。まず西洋と日本による自死とを区別するために古代ローマ帝国においてカエサルに追い詰められたカトーの腹切りによって記述は始まり、「古事記」や「日本書紀」、それに「平家物語」や下剋上の戦国時代、井原西鶴や近松門左衛門の悲劇的な心中作品、幕末と明治維新政府における葛藤事件、軍国主義によるさまざまな残虐と悲劇、特攻隊員、作家の自殺、特に三島由紀夫の自決を詳細に取り上げ記述していくのである。これは異色な日本文化論とは言えず、約600頁と長い、日本文学作品と自死の出来事を紹介した本なのである。
読み始めるといくつかの間違いなどがある。夏目漱石の個人主義の誤解、ニーチェの道徳的形而上学の曲解、日本における年金の件などである。ただ、読んでいくとこれらは小さなことである。自死を陶酔して賛美しながら記述している文章が読み手に伝わってくる。でも、それは思想ではなくて、出来事を記述する事実が情緒的に伝わって来て響かせる、ある種の文学作品のようなものである。けれど、西洋の自死に比較して異なった日本の自死に「意志的な死」と名付けて区別する、きっちりとした思想の源がある。自殺の統計学を示して、戦争などとの関連で自殺率の推移を示す学問的領域もある。けれども何度でも言うが、一貫して示している思想の源は「意志的な死」の言いようもない自死の成せる賛美的な文章であり、陶酔である。なお、キリスト教では「意志的な死」は認められていない。
ここまで書くとおおよそどういう本であるかはわかってくるはずで、これから具体的なことを書かなければならないが、たくさんあって紹介しにくいので、「意志的な死」の思想を紹介したい。『「自殺」という語には絶えず宗教的な罪悪とか病理的兆候の響きが、サタンの誘惑と狂気の迷妄の声がまとわりついていることになる。一方、「意志的な死」、ローマ人がストア派哲学の思想的航跡のうえで考え実践していたような意味での「意志的な死」には、そのような意味あいが感じられることはない。だから、この表現こそが日本人の行動を指すのにふさわしいものだと、私には思われた。と言うのも、日本人の行動にあっては、しばしば、死というこの究極の行為に、苦しくはあっても、理性と熟慮のもとづく意志決定が結びついているからであり、生きるための理由と死ぬための理由が冷静に測られているのである』こうした「意志的な死」が主に切腹を念頭に置いていることは疑いない。この切腹の場面の描写が子細に語られている時、まるでその場面に立ち会っているように著者は精密に描いている。
そして当然ながら、日本における「意志的な死」を賛美する。『人間的条件の限界内にとどまることを敵視する形而上学から抜け出し、至高善の名に人間的な「より善く」の探求を誹謗するあの不幸な意識を一掃し、死そのものではなく、死ぬことをさだめられたすべてのものを虚無だと言い切るニヒリズムの遺恨の根を枯らすこと。この険しい、だが希望にあふれる道を歩むわれわれを、日本が、日本こそが、その歴史の最も奥深い場所からやってきて、励まし、力づけてくれるのである』こうした思想に本書は貫かれて古代から近代における「意志的な死」を紹介しているのである。なお、超自我との関係で、西洋において罪は法に対する侵犯であるが、日本においては罪とは集団からの離脱を意味していると著者は述べていることの注意する必要がある。共同生活が生み出しさまざまの連帯感が蔓草のように絡み合っている状態からの離脱として「意志的な死」があるのである。つまり自死とは社会との関係性において起こり得ることなのである。
ただ、著者が自殺に関して述べているこの一文を忘れてはいけない。「死への意志」が無意味ではなくて、死以外の目標が死ぬという行為に意味を与えていることである。『自殺とは、反抗なのか諦念なのか。他者攻撃なのか自己犠牲なのか。呼びかけなのか逃亡なのか。精神の高揚なのか絶望なのか。自殺ほどに曖昧な行為は他にはない。それはどんな場合にも、後に残された者たちにとっては、自分たちの前に投げ出された一個の謎のように思われる』これが著者の「意志的な死」の思想に至る最初の地点であり、さまざまな死があるのである。だが、我々は著者の述べる日本的な「意志的な死」から、もはや遠ざかっていると感じている。なぜなのか、選択される死が、先の述べた日本的な「意志的な死」ではなくて、単に個人の謎を秘めた自死と呼ぶべき例のみがあるためである。そして、この死は日本的かつ文化的な「意志的な死」というより、もはや社会的な「意志的な死」として、その病根とともに取り上げなければならないのだろう。つまり、そう思い至れば、最初に述べたように本書は過去の日本文化のある一面を、極度の陶酔の内に書いたものである。郷愁としてのこの「自死」する日本文化は、もはや衰退して殆ど残されていない。従って、この「自死」は日本的な文化との絡みであるより、現代的な社会学的な観点から、その定義と共に、再吟味されなければならないはずである。なお、日本文化的な死と文学作品の紹介に関して、本書はとても優れている。
以上
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2017年5月19日(金) |
題:現代詩文庫1001「北村透谷詩集」を読んで |
現代詩文庫1001とは、シリーズ本の一番の初めである。なるほど近代詩人編の最初に北村透谷がくるのは、読んでみると当然であろう。近代詩、いや近代文学における魂の相克が病根の巣が、現実を、現実的にかつ幻覚的に捕らえて、ロマンチシズムを含み明晰に綴られている。北村透谷の影響を受けた島崎藤村などの自然主義文学を凌駕し圧倒している。亀井俊介著「日本近代詩の成立」で記述した感想文によると、『北村透谷の「蓬莱曲」がホイットマンと同様に言葉自体に宿る生命を表しているとする。著者が「予言詩人」と呼ぶ「告げる人」であり「自己の歌」を歌うのである。原初的な人間の力を原初的な言葉で捉え直す詩人である』と書いている。本書の最後には研究「不眠の詩―透谷の詩の論理」と解説「透谷のなかの大岩壁」が透谷の詩に関して詳細に論じている。従って感想文としては、それほど緻密に読んだわけではないし、二、三の気づいてた点のみ記述したい。
なお、読んだ内容は、詩集「楚囚之詩」全編と詩集「蓬莱曲」全編、それに若干の「詩論」のみである。未完詩集からとして、約20篇の詩が掲載されているが、それほど惹かれなかったために殆ど読んでいない。また「詩論」も一部を斜め読みしただけである。少し青臭いところがあるためである。漢文体なのか、古語体なのか読みにくいことも起因しているに違いない。北村透谷に、獄舎に繋がれた経験はないはずであるが、「楚囚之詩」はそれを擬して書いたものとも思われる。ただ、自由民権運動に参加してその運動の粗さに絶望して離れたとのこと。「楚囚之詩」は緊縛された内面の虚無の囲い内から自由とロマンシチズムへの渇望を描いたものなのだろう。「蓬莱曲」は世に憂いて蓬莱山に訪れた青年、柳田元雄が大魔王と対決するのである。鬼どもや仙人も現れ出て、昔の恋人仙姫と同じ女と思われる露姫も現れ出る。そして、柳田元雄は生きていても甲斐は無いと思い、崖から飛び降りるのである。ただ、「蓬莱曲」別編では、柳田元雄は露姫と会い、その手を握っている。なお、北村透谷は25歳で縊死している。なお、北村透谷には「蓬莱曲」と並び有名な論文であるが「内部生命論」がある。人間の根本の生命に重きを置くものである。この詩人哲学者の優れているところは、この内部生命を語ることにあるはずである。この人間内部の生命を宇宙の精神によって感応して再造する、再造した眼によって見る時その極地が見えると彼は言うのである。さて、気付いた点を寸評する。
1) 現実と幻影
北村透谷は正直な人であって、現実が幻影化するのではなくて、現実を意志的に幻影と混ぜて、もしくは模しして描写している。この描写は手法であって、その極端な例が煌く光芒からなる「宇宙」である。彼に現実は幻影としてあるのではない、また、現実は知覚上において錯乱させるのではない、現実に厳然と存在しているのである。
2) 宇宙と平面
この宇宙の光芒に身を投げ出し心の内に取り込み一体化しようとする、それが彼にとって生命の極地である。また、この極地から厳然と存在する現実への批判であり、絶望であり、虚無を生み出すこの源との戦いでもある。この戦いにおいて彼は落下・墜落して、着地した平面にて安らぐのである。
3) 他界
また、この戦いは他界への到達へと導く、即ち、平面に横たわるのは他界においてである。平面とは他界そのものでもある。この他界なる彼岸に到達すること、それが巧妙に極地に到達したと思わせる、躍動しようとする内部生命の行き着く先でもある。
4) ロマシチズム
恋する女は彼岸への到達を遅らせる邪魔者ではなくて、その女への愛が極地への到達を遅らせる。むしろ、逆に愛の宙へと向かわせる可能性も秘めている。ただ、言い換えると、残念なことに俗化である。この俗化なるロマンシチズムは望ましい。でも、高貴に極めんとする者には束縛にもなるのである。
5) 音楽との親和性
琵琶や笛など音楽との親和性がある。
以上、感想を記したが、北村透谷が近代詩の祖であるとは確かである。ただ、少し粗い、もう少し前に読んでいたなら、もっと感激したのかもしれない。北村透谷を洗練化し、より深く普遍化した詩が萩原朔太郎によって書かれている。別な表現形式へとして、中原中也によって書かれている。その後は良くは分からないが、西脇順三郎などによる「荒地」グループ、そして現代詩へと繋がっているのだろう、詩とは多様な形式と表現によって、多様な人物によって書かれているのである。私の知っている詩はその一部であり、そして私の好きな詩はそのまたごく一部であるに過ぎない。
以上
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2017年5月12日(金) |
題:ショウペンハウエル著 斎藤忍随訳「読書について」を読んで |
最初はなんとありきたりで馬鹿々々しいと思いながら読んでいたが、ショウペンハウエルの主張が私と主張と同じであると気付いて、大いに納得したものである。本書は「思索」、「著作と文体」、「読書について」の三つの作品からなる。馬鹿々々しいとの思いは「思索」に書かれている『読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねている』『読者は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである』などの、思索と読書との明確な区別や、自ら思索する者と汎用な書籍哲学者との区別がそれほど考え方として、共鳴するほど響いてはこなかったためである。また、『自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるに過ぎない』との主張もあたりまえである。
ただ、「著作と文体」では様相が変わっていく。『我々の思索が言葉を発見すると、その瞬間にただちに思索は真剣さを失い、真の厳粛さを欠く』との文章はなかなか言えない真実さが込められている。表現された途端に言葉は陳腐化していくのである。形を成して現前化した途端に絵画は液状化して流出して行くのである。こうした指摘の後、ショウペンハウエルは三文文筆家と出版業界を無用な悪書を氾濫させるとして痛烈に批判している。彼らの目的は読者から時間と金を奪うことである。似非哲学者や匿名評論家などを批判し『文学の世界以上に不正直が横行している世界はどこにもない』と言わしめる。文学には出版社が派手に取り上げることもあるが、常にマイナーさが付きまとうものである。そう言えばこうした現状に反発しためか、たいぶ昔に、某詩人を三文文筆家と批判し、替え歌を作成した知人さえ居る。いや、むしろただ単に作品の陳腐さに反発しただけなのかもしれない。この替え歌は本題から外れるため気が向けば最後に示したい。
こうしてショウペンハウエルの批判は続き、『文体は精神の顔である』と言い切る。まさしくそうなのであって、独立の思索家には独特の文体がある。『著者の書いたものを数行読む。するとそれだけで、どこまでこの著者が私を推し進めうるかということについて、おおよその検討がつく』のである。即ち凡庸な著者は数行読むだけで分かり、もう読む必要はないということである。こうしてショウペンハウエルは似非非哲学者の批判を、ドイツ文化の批判を、語句の詳細を示しながら行っている。『表現を明確、正確にする力、手段こそ、一つの言語に価値を与えるからである』ドイツ文学の堕落は主観的である、即ち自分だけの理解で満足しているためであると述べるに至る。こうして、ショウペンハウエルは比喩、直諭の価値の大きさを説き、概念の持ち方、鋭い洞察力への影響について述べている。こうして文体を持たない文を、ショウペンハウエルは朦朧文と呼び批判する。野蛮語として批判する。更に、売文業者を批判するのである。
「読書について」では、『読書は、他人にものを考えてもらうことである』と批判する。ただ、この文章の正確な意味は『自ら思索する者は自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てるにすぎない』ことを前提にしていることに留意しなければならない。即ち、自らに思索する概念があることを前提とするのである。また、読書によって素質ある才能を開花させることができると述べていることも重要である。読書は生気を学び可能性を広げるものでもある。真の文学は亀の歩みのごとく遅く、偽の文学は駄馬のごとく疾走するのである。『文学、芸術の巨匠たちのほとんどすべてが、・・わずかな例外は別として、だれにも認められず、だれにも同情されず、弟子一人なく貧困や迫害に苦しみながら倒れて行くのに、かたわらでは、文学、芸術の名をかたる下らぬ連中が、名声、栄誉、富を与えられる。・・彼ら天才の生涯は悲惨であったが、愛の神がその御業のために彼らの守護に立ち上がりたまい、ついにこのような人類の教師の苦悶は終わり、不死なる月桂樹の枝は、この教師を招き寄せ、時を知らせる鐘の音とともに、祝福の歌声もわきおこる』と結ぶ。この文書を読むと、異端者として迫害され、出版もままならなかったスピノザなどの哲学者たちの名が浮かんでくる。自らの著作物を廃棄せよと言い残して死んだカフカなどの著述家の名が浮かんでくるのである。
さて、替え歌は次のようなものである。
突然に朝がくる
作者 痴れた知人
ナホトカの若者が公園のベンチで酔いつぶれているとき
ブラジルの女が愛しい男を待っているとき
ワシントンの老婆が欠けた歯の隙間から息を吐き出すとき
ギリシアの爺さんがパルテノン神殿を覗き見に散策するとき
突然に朝の陽が降り注いできて誰の背を眩しく染める
この地球ではいつでもどこでも突然に朝がくる
ぼくらは不思議そうに眺めている
経度を超えて別の経度に降り注ぐ朝を
この地球に降り立った初めての陽の光のような朝を
眠る前のひととき耳を澄ますと どこか遠くで眩い光の軋む音が聞こえてくるはず
それはあなたに訪れる朝は誰でもない あなただけに突然にやってくる証拠でもある
以上
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2017年5月5日(金) |
題:大岡信著「萩原朔太郎」を読んで |
萩原朔太郎の詩は好きであるが、文庫本の全集一冊と復刻版「蝶を夢む」を読んだぐらいで、それも詩の内容は殆ど記憶がない。このため、彼の詩がどうしてどのように生まれて、どんな詩があるのか知りたくて読んだ本である。著者は萩原朔太郎の文学的な経験と人生における体験とを重ね合わせながら、簡明にかつ明確に萩原朔太郎を論じている。特に時代を経て変遷する朔太郎の詩の形式と内容を上手に捕らえていて良い本である。あまり関心はないが、朔太郎の父や妹たち、それに自らの家族のことにも触れている。無論、思い人なる馬場カナや親友三好達治につても当然述べている。ただ、書き続けると長くなるため、簡単に朔太郎の詩の形式と内容の展開を、詩を加えて紹介したい。
実は朔太郎は短歌に思い入れていたのである。「ソライロノハナ」なる歌集(1913年発刊 なお朔太郎は1886年生まれ)が短歌作家としての朔太郎の一時代の終わりということになる。次のような歌は好きである。単純に言葉を繋ぎ合わせて何でもない歌に思われるが、「しののめ」とういう明け方、「人妻」という他者性、動く「列車の窓」から見える「ひるがお」という植物が繋ぎ合わさることによって、何も述べられていない作者の心情がなぜか推測されるのである。無論、分かるものではない、でもある種の感慨・情感を生み出させる客観性でもある。
しののめのまだきに起きて人妻と汽車の窓より見たるひるがお
こうして朔太郎は、古の「古今集」などの短歌を基礎として発展させ語の独特のリズム感を生み出している。こうして、客観的な描写の内に主体の心情が含ませる詩の表現に容易にたどり着けるはずである。無論、初めは思わずに心情を吐露した詩も多いが、この独特の主観の心情を含んだ客観性が朔太郎の詩の大きな特徴の一つであると思っている。以前感想文を書いた「紫式部日記」の冒頭の文章と同じ質なのである。なお、初期の「愛隣詩集」ではこの人妻は「夜汽車」という詩の中に出てくる。大岡信はこの詩の語法を詳細に解説している。そして、「愛隣詩集」の後に「浄罪詩編」を助走として「月に吠える」が書かれるのである。なお、「愛隣詩集」の後期作品として、大岡信が紹介している詩から一つ引用したい。
再開
皿にはおどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀のふほをくはおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこおろぎ鳴き
ええてるは波瑠をやぶれど
再開のくちずけかたく凍りて
ふんすいはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみずがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪はずれしが
真珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほい舗石はしろがねのうれひにめざめむ。
大岡信はこの語彙の特異性と結びつきをシュルリレアリズムの先駆的な前衛性を持っていると述べている。即ち、突飛な表現を形作っている、物理的にはありえないけれども心理的、創造的には自然に結び付けられる詩法の現代性を海外詩や哲学書、それに公演や音楽会にあると推測している。それにしても朔太郎には詩の理論に関する文章も多く、哲学的な思考を持つ一面もあったようである。「浄罪詩編」では著者は「竹」、「地面の底の病気の顔」などを紹介しているが、それほど評価はしていない。「光る地面に竹が生え/青竹が生え/地下には竹の根が生え」、「地面の底に顔があらわれ/さみしい病人の顔があらえあれ」などは高校の教科書にもよく載っていたものである。著者は朔太郎の「叛逆性」と「超俗性」と「思想性」を論じているが、ここでは触れない。それほど重要ではないためである。
むしろ『この視覚像には、それの性質上、分離しようもなく触覚的な性質が内在している』と述べていることは重要である。ドゥルーズのベーコン論でも論じられており、視覚が物を見るのではなくて、物に触るのである。それに光が外側から来るより内側から発せられる、かつ手の指先などの鋭い神経が触れて感じ取るのである。また「草木姦淫罪」と述べる至る朔太郎の精神神経の病的な戦慄状態である。著者はどっぷりと生理の闇につかっていると述べているが、言い得て妙である。「月に吠える」では「蛙の死」を紹介したい。良く分からいところが、良い詩であるためである。
蛙の死
蛙が殺された、
子供がまるくなって手をあげた、
みんないっしょに、
かわゆらしい、
血だらけの手をあげた、
月が出た、
丘の上に人が立っている。
帽子の下に顔がある。
この奇妙さには触れないでおこう。「くさった蛤」も良い。こうして何年か活動のほぼ停止した時期があり、「青描」や「蝶を夢む」が続くのである。富裕な家の厄介者であった朔太郎がやっと娶った妻との破局、そして思い人馬場カナ、即ち洗礼名エレナの精霊化した女が脳内に住み着くのである。著者は「懺悔」から「祈祷」を詩に結びつける課題を自らに課したと述べているが、この経緯については省略したい。ただ、散文に近づいていくのは述べておきたい。妖しい美しさをそなえた女がよぎり、肉体がねばねばと溶解していく性行為を伴っていると著者は述べている。詩は死姦者の心理を演じており、朔太郎は自ら「邪淫詩」と呼んでいるとのこと。「くずれる肉体」の一部を紹介したい。
「くずれる肉体」の一部
蝙蝠のむらがっている野原の中で
わたしはくずれていく肉体の柱をながめていた
それは宵闇にさびしくふるへて
影にそよぐ死びと草のやうになまぐさく
ぞろぞろと蛆虫の這う腐肉のように醜かった。
この詩が微妙に肉体の腐乱する凄惨な表現を逃れ、抒情を含んでいる点に注意したい。比喩の形式と主体の視線がバランスを取り、心情の吐露へと変換させる表現となっているのである。「邪淫詩」をもっと紹介したいが省略する。「詩の原理」で朔太郎は、詩は文学における音楽と述べている。また、小説は美術であるとのこと。こうした朔太郎の詩論は興味深い。「蝶を夢む」が情緒過多の水っぽさを持ち、締まりがないと著者は評しているが、同時期に掛かれた「青描以後」では、ある種の諦め、倦怠、断念が含まれて現実をやや遠目から眺めていると著者は述べている。著者の「蝶を夢む」の評価が低いことに私は異論を持つ。締まりのない冗長さと著者は述べるが決してそうではない。「青描」の旋律的な鮮明さと異なった緩慢さが静止画にダイナニズムを与えていて、物憂い気だるさが幻想を伴ってより確かに伝わってくるのである。視覚的な触角としては、これらの詩の方が優れているのである。ただ、ここでは「蝶を夢む」ではなく、「青描以後」における「猫の死骸」を紹介したい。
猫の死骸
海綿のような景色のなかで
しつとりと水気にふくらんでいる
どこにも人畜のすがたはみえず
へんにかなしげなる水車が泣いているようす。
そうして朦朧とした柳のかげから
やさしい待ちひびとのすがたがみえるよ。
うすい肩かけにからだをつつみ
びれいな瓦斯体の衣装をひきずり
しずかに心霊のようにさまよっている。
ああ浦 さびしい女!
「あなた いつも遅いのね」
ぼくらは過去も未来もない
そうして現実のものから消えてしまった。・・
浦!
このへんてこに見える景色のなかへ
泥猫の死骸を埋めておやりよ。
こうして1934年に「氷島」が出版される。著者によれば、虚無と寂寥と漂泊の悲傷を見て取れるのである。望郷の念が深まっているのである。「漂泊者の歌」の一部を紹介したい。
「漂泊者の歌」の一部
ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えるかな!
かつて何物をも信じることなく
汝の信じるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
著者の言葉を借りれば『朔太郎は「抒情詩」を語りつつ、ほとんど彼自身の現実における生存形式そのものを語っていることがわかる』さらに、著者は『夏目漱石が近代日本の開化の「外発」性をいい、森鴎外が同じく「普請中」といったこの「過渡期」の諸様相は、自覚した「エトランゼ」である萩原朔太郎において、わけても鋭く感受され、反応されたのである』と結んでいるが、後者の文章は正確な見方ではない。彼は「外発」性から内発したのではない。無論、外発性に触発はされているけれども、内発性が表現として外発せざるを得なかったはずである。「エトランゼ」という自覚は「過渡期」の諸様相に反応したのではなくて、内発性が生み出した結果であると考えるほうが良い。なお、漱石は外発性と内発性の両方を持ち合わせている。それらが相互に深く絡み合って表現に奥行きを与えているのである。両者ともに優れた知性を持ちながら、知性に頼ることのできない内発する精神的な葛藤の持ち主であることは確かである。なお、萩原朔太郎を論じるにはほぼすべての作品に目を通している必要があるだろう。最後に、著者大岡信は最近亡くなっている。冥福を祈りたい。
以上
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2017年4月28日(金) |
題:岩野泡鳴著「耽溺 毒薬を飲む女」を読んで |
亀井俊介著「日本近代詩の成立」を読み、異端詩人なる岩野泡鳴は口語自由詩へと移り、泡鳴五部作として「発展」、「毒薬を飲む女」、「放浪」、「断橋」、「憑き物」があるとのことを知る。泡鳴の詩が結構良かったため、本書を読むことにしたのである。ただ、結論から言えば、作品の質はそれほど良くはない。更に本書は詩ではなくて、小説なのである。自然主義文学の一端をなす彼の著作物は、小説の神様なる志賀直哉の「暗夜行路」と同等に、真に迫ってくるものがない。「毒薬を飲む女」も口語自由詩ではなくて、単なる著者自身をモデルにしたある種のデカダン文学であるのかもしれない。ただ、文章も粗く会話も不完全でデカダン小説にもならない、通俗な読み物であるのかもしれない。この感想文は良くなかった作品として記憶に残すために書いている。
「耽溺」は作品を書こうとする者が海辺の素人に家に宿泊し、吉弥なる芸者との行き来を描いたものである。吉弥に関する地元の者との張り合いも、妻のヒステリや性悪女なる菊子も書いている。「耽溺が生命である」と述べているが、この耽溺の思索を深堀するのではなくて、混乱し錯綜した男女関係、人間関係の描写のみがテーマであり、内容である。「毒薬を飲む女」もこうした男女関係に、樺太での缶詰事業の失敗などを加えて、女がついに毒薬を飲んで自殺を図る単なる三文小説である。
こうしてみると自然主義文学とは何であるのか。内的な質が伴わずに皮相なのである。夏目漱石が、自然主義文学を批判するのも道理である。島崎藤村の「破戒」や田山花袋の「布団」などを、もう一度読もうと思っていたが、もう読まないつもりである。ただ、「布団」の女の残り香を嗅いで泣く男の話は馬鹿々々しくて面白いかもしれない。内容を忘れたためにこの「布団」だけは読んでも良いとも思っている。そう言えば川端康成にも表題は忘れたが、似た小説、小説家に弟子入りする二人の女のどちらを物にするかを描いた作品があったはずで、それも、それほど面白くなかったと思っている。川端康成にもデカダン小説はありながら、岩野泡鳴よりは若干質的に高くとも、真にデカダン小説には成り得なかったと思っている。例えば「眠れる美女」を三島由紀夫が絶賛したのも、ある種の虚構であり、虚言である。デカダンとは堕落、頽落、廃物であり、生へと上昇させるものなのである。老人の女に関する死に際の思い出話ではないし、眠る裸体の少女とただ一緒に寝ることでもない。こうして書いてみると、それぞれの人によって、さまざまに意見があるに違いない。今さらながら、小説作品は人によって評価が異なることこそが面白い気もしてくる。
以上
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2017年4月21日(金) |
題:柳田国男著「山の人生」を読んで |
柳田国男の著作物は、「遠野物語」、「先祖の話」に続いて三冊目である。ただ、「遠野物語」の遠野町に言い伝えられている異端かつ怪奇な日常の物語、「先祖の話」では先祖の魂を神との関係を含め、正月と盆とにおけるこの先祖の魂の役割を述べていて、とても興味深かったのに対して、本書はそれほど興が湧いてくることはなかった。この「山の人生」は「遠野物語」にも一部載せられている山で暮らす、著者の言葉を借りれば山に埋もれたる人生を送る山女や山男、仙人、鬼子、山姥などについて論じた三十の短論文から成る。この短論文は言い伝え、民話の内容と著者の論考を交えているが、専門外のものにはそれほど関心を引くものではない。ただ、「仙人考」という別途の論文にはこうした山に暮らす人々について簡単に纏めている。従って、紹介されている民話などで関心を引いた話と「仙人考」を簡単に紹介したい。
最初の話は衝撃的である。炭焼きで暮らす男が炭が売れずに貧窮している。すると、ある日二人の子供が夕日を浴びて一生懸命斧を磨いでいる。これで私たちを殺してくれと材木を枕に仰向けに横たわる。男は見境もなく首を切り落とし殺してしまうのである。また子供を殺した女の話もある。こうした話は、深沢七郎の「楢山節考」や東方地方での間引きや娘売りを思い出させる。また、ハイエクの経済書「隷従への道」にも記述されていたと記憶している。山に入る女の多いこと、山の神は女性が多いこと、鬼子を産むこと、山姥の話もでてくるが、山男や天狗、大男も含めて山の中には多くの人生があったのである。これらの論考は参考文献が知られていずに、かつ記述があまりにも些末すぎるためか、論旨が良く理解できずに残念である。文章も少し間延びしている。
ところが「仙人考」には簡潔明瞭に山における人生の結論が書かれている。なお、本書「山の人生」は「遠野物語」から十五年後に書かれた柳田国男の集大成とのことであるが、集大成とは言い過ぎである。ただ、柳田国男の著作物をほぼ読めば、理解できるようになるのかもしれない。先に述べたが、「仙人考」では山で暮らさなければ山人について簡単に纏めている。日本国には先住民がおり、国つ神と言う。著者の考えでは、この先住民は天つ神、その子孫の圧迫を受けて北へ北へと逃れることになる。なお、この国つ神と天つ神との境界は山地と平地との境である。即ち、国つ神は北へ逃れて山に暮らしている。これが山人なのである。ただ、大半は里に下って常民に混ざって混同してしまっている。山人は少数なのである。山神とも山男とも、あるいは天狗とも鬼とも言うことがある。山人すなわち日本の先住民はもはや絶滅したと言う定説は正しいと著者は述べている。
山人は火を用いた形跡はなくとも、火食であったことを不明点としてあげている。衣服はなく、おおよそ裸体である。配偶者が欲しくて里に下りてくることがある。平地人の言語(日本語)はおおよそ理解することができる。米の飯を欲しがり焚火を喜ぶ。更に山人の特色を述べると、肌の色が赤いこと、背丈が高い、手足が長くて、足跡も大きいのである。著者はこうした山人から日本人の文明史を解くことの必要性を述べる。今日では、縄文人と弥生人との区別がDNA鑑定などから調べられている。つまり日本人の先祖は北方系と南方系の混じったものである。つまり原住民と渡来人である。すると原住民なる縄文人の一部が山に逃れて、山人と呼ばれていたのだろうか。元々山に住む住民と交配が生じて相変わらず山に住んでいた人々が山人と呼ばれていたのだろうか。山人とは山に暮らす特異な人々の集団、もしくは個人なのであって、縄文人と弥生人との研究と共に解き明かすべきであろう。縄文人は狩猟などで山に入ることが多かったはずであり、弥生人は山ではなく平地にて稲作を行っていたことが、この山人を解く上での鍵になるだろう。即ち、弥生人には山に入る人間を少なからず異端視していたかもしれない。こうした文明史が明らかになることを著者は望んでいる。ただ、こうした研究内容とは別に、ただ、私は山人の民話そのものが好きである。
以上
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2017年4月14日(金) |
題:上田敏訳詩集「海潮音」を読んで |
日本における近代史の経緯は、亀井俊介著「日本近代詩の成立」の感想文に記述しているが、その内の「海潮音」を読んでみる。なお、「海潮音」は新体詩に飽き足らず、日本の詩を変革せんとして、上田敏が海外の優れた詩を訳したものである。ヴェルレーヌ、ボードレール、マラルメ、プラウニングなどのフランス近代詩を紹介している。なお、「海潮音」と言えば、ただ、高校の教科書に載っていた、カアル・ブッセ作「山のあなた」を思い出すだけである。
「山のあなた」
カアル・ブッセ作
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫(ああ)われひとと尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなになお遠く
「幸」住むと人のいふ。
もう少し教科書には、詩が紹介されていたと思うが、詩とはこんなものかとしか記憶にない。私的に詩が理解できるようになるには、本屋にて何気なく手に取った、白石かずこの「聖なる淫者の季節」まで待たなければならない。何が書いてあるか良く分からないけれども、妙に気に購入し家で読んでみたけれども、やはり良く分からない。でも、何か高揚とした感情が押し寄せてきたことは確かである。
この「海潮音」は意訳で古語を用いているけれどもとても格調高く、とくに韻律が良い。無論、上田敏の意訳である。上田敏の創作とも言えるのである。この詩集を論じることなどしない、難しいのである。ただ、言語と主体に対する確かさ、信頼度が現代から見れば、少し古臭いような気がしないでもない。それは訳し出された詩の選択の問題にも帰するであろう、当然、当時の時代的な背景の影響もあるのだろう。現代では、言語、主体、この世界に対する懐疑、不確定性が増幅しているはずである。ここでは、ただ単に記述されている詩を紹介したい。良い詩がたくさんあって選び出すのが難しいが二編だけ紹介したい。なお、一遍にはどの本であったか別訳もあったので、これも加えたい。詩はまず読んで楽しめることが大切である。個々人の感性に応じて好きな詩は異なってくると思われるが、詩は読める、そして何かを感じ取れるが最初の出会いとなるはずである。
心も空に
ダンテ・アリギリエ
心も空に奪われて物のあわれをしる人よ、
今わが述ぶる言の葉の君の傍に近づけば
心に思ひ給ふことの応え給ひね、漏れなくと、
綾に畏き大御神「愛」の御名もて告げまつる。
さても星影きららかに、更け行く夜も三つ一つ
ほとほと過ぎし折しもあれ、忽ち四方は照渡り、
「愛」の御姿うつそ身に現れいでし不思議さよ。
おしはかるだに、その性の恐しときく荒神も
御景色いとど麗はしく在すが如くおもほえて、
御手にはわれが心の臓、御腕には貴やかに
あえかの君の寝姿を、衣うちかけて、かき抱き、
やをら動かし、まどろみの醒めたるほどに心の臓、
ささげ進めば、かの君も恐る恐るに聞しけり。
「愛」はすなわち馳せ走りつ、駆せ走りながら打泣きぬ。
別訳の一部
愛を君に告げんとして
夜を行くと
「愛」の御姿現れて
わが心の臓君が寝姿を
かき抱いてやおら動かし
心の臓ささげむに
君も恐れて聞いている
愛は絶え去り
駆け去りながら泣いている
原文は見ていないが、この詩が単純な人なる君への恋愛詩とは思われなくて、神も巻き込み崇高にかつ肉感的なエロシチズムが浮き彫りにされている。逃げ去るのは愛の神の荒々しさ、怖ろしさ故にか、君は神の生け贄にされている、というよりと君は衣を乱して神の腕に抱かれ恍惚としていると思われる。もはや逃げ去るしかないのである。こうした観点からすると、上田敏訳が愛の情景を見事に浮き彫りにしていると思われる。
伴奏
アルベエル・サマン
白金の筐蛛A菩提樹や、榛の樹や・・
水の面に月の落ち葉よ・・
夕の風に櫛けづる丈長髪の匂ふごと、
夏の夜の薫なつかし、かげ黒き湖の上、
水薫る淡海ひらけ鏡なす波のかがやき。
楫の音もうつらうつらに
夢をゆくわが船のあし。
船のあり、空もゆくか、
かたちなき水にうかびて
ならべたるふたつの櫂は
「徒然」の櫂「無言」がい。
水の面の月影なして
波の上の楫の音なして
わが胸に吐息ちらばう。
湖の情景が現実感と幻想感が混じって印象的である。「かたちなき水にうかびて」が浮遊感を漂わせている。最後の三行が良い、「わが胸に吐息ちらばう」のはなぜなのだろう、普遍的な吐息を思わせる真摯さが、色と音との寂膜さの内に窺える。
以上
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2017年4月7日(金) |
題:川崎信定訳 原典「チベットの死者の書」を読んで |
「死者の書」では折口信夫の作品が有名である。確か、大津皇子の霊と藤原郎女との愛の交感が神秘的にかつ幻想的に生々しく、詩情を加えて語られている。最後に藤原郎女は大津皇子に祈り捧げるために曼荼羅を織るはずである。そうした思いを持って本書「チベットの死者の書」を読んだが内容はまったく異なっている。本書は古流密教の経典であり、死後七週間即ち四十九日間にわたる死者への救済の教えなのである。つまり解脱の方法を伝授したものであり、解脱を逃しても、これでもかこれでもかと次の解脱の方法を教えてくれる。死者が解脱できなかったら不思議に思われるほど、輪廻からの解脱方法を説いてくれるのである。
本書は、第一巻 チカエ・パルドゥ(死の瞬間の中有)とチョニエ・パルドゥ(存在本来の姿の中有)、第二巻 シパ・パルドゥ(再生へ向かう迷いの中有)、第三巻 付属の祈願の文書 からなる。注も多く分かりやすく訳されている。ただ、本当に理解するためには仏教的な知識と時間を必要とするであろう。なお、パルドゥ(中有)とは、死んでから次の生を受けて生まれ変わるまでの意識の状態であり、最長四十九日間である。解脱とは輪廻から逃れて極楽に往生することである。つまり仏になることである。これは死後の経過日数が増えて、かつカルマン(業)に従い現れてくる光や音に仏などに従って、仏になる難易度が高まってくる。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・人・阿修羅・天であり、光や音に仏に恐れをなして覚ことができないと、つまり仏になれない場合、より下位の世界に生まれ変わり、輪廻を続けることである。生まれ変わって生き続けなければならないのである。これが第一巻 チカエ・パルドゥ(死の瞬間の中有)とチョニエ・パルドゥ(存在本来の姿の中有)の内容である。
第二巻 シパ・パルドゥ(再生へ向かう迷いの中有)では、輪廻即ち再生へのプロセスを閉じることにあり、即ち仏になることができずに、さ迷って再生の母胎に進んで行かない方法について記述している。即ち入ろうとするの人そのものを妨げる方法と、入り込まれる胎の入口を閉ざす方法の二つがある。生き物の誕生の仕方には四種類(四生)があり、卵生、胎生、化生、湿生である。例えば、男女が交歓しているのを見て魅かれること、または反発する衝動により、再生の胎に入ってしまうのである。これを避けるためには教えを記憶して心を一点に集中して決意しなければならない。また、胎の入口を閉ざすことができなかった場合の胎の入口の選択方法についても述べている。つまり上位のものに生まれ変わるためである。この生まれ変わるものの世界が具体的に色彩豊かな風景画のように描かれているのが面白い。きっとポア(転移)が一瞬に行われて解脱するのが最高に良いのだろう。
第三巻 付属の祈願の文書 では題名の通りに祈願すべき文章を記述している。それにしても不思議な本である。生死を語り心理的であり風景画でもありエロチックでもあり、西洋的な思考とはだいぶかけ離れている。本書に記述されている「空」について読み解きたい。
以上
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2017年3月31日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳「フランシス・ベーコン 感覚の論理学」を読んで |
本書「フランシス・ベーコン 感覚の論理学」を読むと、いつもながら、ジル・ドゥルーズの思想的切り口は鋭くて、宇野邦一の訳も良いためか感嘆する、論理的ながら詩的な文章で綴られているのである。本書は17の短論文もしくは章にて構成される。画家フランシス・ベーコンの描いた絵画は5ページほど掲載されているが、小さくて数も少ない。別途ベーコンの画集を購入した方が良いかもしれない。ただ、ドゥルーズの思想を知りたい者には十分な絵画量である。
17の短論文もしくは章はセリーとなって展開され、多くのことを述べているために、何が記述されているか紹介するのは難しい。宇野邦一が訳者解説として「<図像>の哲学とは何か」が簡明に本書の成り立ちから内容、またドゥルーズの哲学的な概念との関連を記述しているのでそちらを読むと分かり良い。ただ、簡単に本書の記述内容を紹介したい。ドゥルーズの使う言葉に慣れている者にはそれほど難しい本ではないはずである。本書はおおまかに画家ベーコン絵画の解明、印象派や抽象絵画などの絵画論的論述、これらにドゥルーズの哲学的概念からの裁断、この三つから構成されていると思われ、これらが深く絡み合って記述されているのである。
ベーコン絵画を論じる時ドゥルーズは「図像」という言葉を用いる。一般的な絵画論では、例えば「百合」は「純潔」を表し聖母マリアとなる、図像は何らかの意味を表現しているのである。ところがドゥルーズが使用する「図像」とは感覚に結合された感覚可能な形態である。これは抽象的な形態に向かうと同様に、具象を乗り切るための方法なのである。この感覚はセザンヌが与えた名称でもある。ドゥルーズは、絵画は具象から「図像」を取ってくることだと強調している。具象が説明的で物語を含むのに対して、「図像」はもはや表象すべき、物語るべきなにものもない。感覚が描かせるのである。こうした「図像」の言葉を理解しておくと読みやすい。そして、具象、抽象絵画を含めて感覚との関係を多弁に論じている。この感覚こそが本書の主題なのである。表題が「感覚の論理学」としているのも頷けるのである。
でも、本書の初めはベーコンの描く三枚組の絵について、具象と図像の違いを図像の言葉の意味を示さずに論じている。具象は対象とのイメージ的な関係を維持しており、対象を説明するものである。従ってベーコンは三枚組として隔離して説話的なものを排除する、ただそれらの図像の間には新しい関係があるのであり、ベーコンが語っている三つの根本的要素、物質的構造、円形―輪郭、直立したイメージと広い単色面において、ドゥルーズはエジプト芸術との関連性を指摘している。そして、ベーコンの絵画を三つの根本要素、構造、図像、輪郭の従って、また「叫ぶ口」などベーコンのそれぞれの時期における様相を論じている。後半ではこれらの絵画の描写を細部にわたって執拗に論じているが、絵を見なければ分からないほど子細に論じるドゥルーズの顔がなぜか浮かんでくるようにも思われる。
結構、セザンヌについて多く語っているのは驚きでもある。セザンヌはベーコンと同様に感覚で描いていたためである。感覚が生命のリズムなる力能にじかに触れる時、より根本的となり、セザンヌは視覚的な感覚に生のリズムを注入した人なのである。この感覚の基盤としてのリズムの統一性に関して、ドゥルーズは有機体を超えた彼方にアルトーが名付けた「器官なき身体」があると言う。彼の哲学的な概念はこうしてベーコンの絵画と結びつけられて上書きされる。「器官なき身体」ばかりではない、「力」や「図表(ダイアグラム)」、「コード」や「デジタルとアナログ」、「リズム」などなどの概念が、後半ではこの「図表(ダイアグラム)」と「中庸的」やアナログと絵画との関係を集中して論じている。詳細は本書を読むのが良い。
また、壁画としての画架を用いるモンドリアンや画架を放棄するポロックなどの抽象絵画とのベーコンの三枚組と形式の違い、ゲーテやニュートンの色彩理論の光や影との結びつき、ゴッホ、パウル・クレーやカンディンスキーに、ピカソ、ベラスケスなどの画家さえ、またベケットなどの作家さえ少々登場してくる。ドゥルーズが本書で述べたいと思われることは、簡単に言えば諸力が有機体の背後の身体を表出させること、触覚的な目と光学的なものが図表から出現する視覚的な機能を克服できることにある。それ以上に、この結論の前提となる、絵画は現前を直接見させることにより、目を有機体に固定することから解放すると同時に、この現前を表出する宿命を負った器官となるということである。
言い換えれば、この結論があるとしても、現前と感覚とイメージの相互の関係、及び感情との結びつきの諸問題が横たわったまままである。視覚を解放して触角としてもイメージが残ってしまっている。「叫び声」が怖いのはその表象された現前ではなくて、現前が消去されたとしてもカオス的なイメージ・残像が残っていて呼び起こす感情的な怖さなのである。ドゥルーズの「哲学とはなにか」を読むと「概念を創造せよ」との痛々しい「叫び声」が聞こえてくる、この痛々しさとは諸問題が記述された文章の内側で溶解・崩壊していく、固定化した肉の固まりではない、敢えて言うなら粘性化して流出して行く現前があり、それを捕らえるために起こす精神の液状化現象をドゥルーズはおぼろげながら知っていたためではないだろうか。そう思われて仕方がない。良い本である。
以上
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2017年3月24日(金) |
題:吉本隆明著 「初期歌謡論」を読んで |
吉本隆明の著作本は「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」などを読んでいる。「共同幻想論」では「対幻想」など具体的な共同体における幻想について論じていたはずである。「言語にとって美とはなにか」では説明的な文章としての「指示表出」と自らの高揚とした感情や思想をあらわす「自己表出」なる文章に分け、これらを「構成」と称し表出空間としてまとめていたはずだと記憶している。なにせ多読家なのか、作品からの引用文が多くて読むのに悩まされたはずである。
この「初期歌謡論」も歌謡、短歌、それにその隠喩などの引用やその説明が多すぎて、読むのに悩まされる。こうした内容は記述しない。また、「竹取物語」の叙事詩的な記述の指摘も、渡辺実著 「平安朝文章史」にも同様の記述があり、これについても論じない。私はあっけらかんとした、言い換えれば赤裸々に感情を表現した「記紀歌謡」がどうして「万葉集」や「古今和歌集」に移行するに従って、繊細な心の内の表現になったのか、その点にのみ関心があって、この関心に関連したことのみを感想文として記したい。本書は「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」よりも論理性は薄くて茫としているが、この関心を持つ点についてはある程度明確に指摘し記述している。本書は「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」よりも論理的な枠組みが初めから薄くて、それでいて結構内容が深くて、私にとって著者の中では一番好ましい著作物である。
『未明の共同体の宗教的な主催者は、特殊な素質と修練をへて、憑依状態を手に入れた。そこで発した緊迫した宣託のたぐいが、歌の起こりだった』であり、「祝詞」である。なお、この時、適宜に言葉を重ねてゆけば自在な意味を持たせることができた和語が漢字へ表音表記された時、漢字の持つ承継的なイメージ自体が付け加えられことになる。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、歌の萌芽があったと言えると著者は主張するのである。なお、首長の神格化には和語の意識から漢語の表現への上昇が不可欠である。ただ、和語を漢語で読み下す時、村人と首長たちのあいだで文化のおきてに対する距離感が広がる。こうしてこの距離感が極限にまで達した時、和語でもない漢語でもない、表音でもない表意でもない第三の和語脈が形成されたとする。この和語脈が律文の意識に適合していったのである。こうしてみると「記」、「紀」のなかにも歌謡ではないけれども、そうした表現が見受けられると著者は主張している。
なお、『記紀の編者たちが、口誦や氏族の記録のたぐいを、時代のもっとも高度な水準で集成した時には、和語そのものがすでに基礎構造を、大部分失うように変貌していた。だから記紀の和文脈を、和語の始原をもったものと想定することはできない。すでに遠い時間がそのあいだに経過している』のである。こうして著者は折口信夫の稱(トナ)へ言(ゴト)を取り上げ、遠い祖先の時代にあったこれらがものがたりへと移り、今でも神主のとなえる祝詞となっていると言うのである。この稱へ言のある部分が諺となり、ものがたりの肝心の部分が歌となったとの主張に著者は賛同している。諺は祝詞の主要部分であり、これが歌の発生に結びついているのである。なお、和語は具象性を特徴とする言語であり、語の〈畳み重ね〉によって自在にひろい対象の〈空間〉を指す語を作れる言葉であることは注意しておきたい。
『記紀の歌謡は、すべて新しいもので、とうてい文字のないところで即興的に歌われ伝承されてきたとはいえない高度なものというべきだ』との著者の主張は重要である。こうして著者は賀茂真淵の考えを引用して、歌のはじめを「八雲たつ・・」ではなくて、伊須気余理比売と大久米命の応答歌にすることに賛同する。「八雲たつ・・」は、比喩が高度なことと、五・七調のためである。初期の歌は短く、四言であるらしい。この歌の一部を以下に示す。
「あめ鶺鴒(つつ) 千鳥真鵐(ましとと) など黥(さ)ける利目(とめ)」
「媛女(おとめ)に 直(ただ)に逢(あ)はむと 我が裂ける利目」
歌は心の表現で始まり心の表現で終わるのではない、自然(事物)をまず人間化して心の方に引き寄せ、次に心の表現と結びつけるのである。こうした「こと」と「こころ」が歌の歴史にはある、またそれ以前には詩句の繰り返しが盛んに行われている。また儒教倫理の影響も加わってくる。こうして著者は俊成の「古来風体抄」や壬生忠岑の「和歌体十種」などに基づき、なおかつ「記」、「紀」、「万葉集」、「懐風藻」、「古今集」の間の成書を紐解いて、歌体を論じるのである。なお、初めに『古今集が古来の短歌謡から美的なものを選び取っていわゆる和歌をつくりあげたように、新古今集は古今集によって成立した和歌の美的な根拠に、形而上学的な色合いを与えようとしたといってよい』との著者の主張は引用しておく。即ち、形而上学とは心の境地を歌の表現を媒介にして苦吟して求め表現へと練り上げることであり、得られた境地は幽玄であり有心なのである。いろんな歌体を示して論じているが省略する。
実は新古今集における絢爛豪華な和歌の世界と言うのはたわ言に過ぎないと著者は述べる。『俗謡、歌曲のような大衆今様の世界に浸透されて解体寸前といってよかった。歌人たちは主題を純化して、かろうじて和歌の世界を支えていたのだといっていい。ここに新古今集が〈古今的なもの〉が終わったところから、新たな虚構の世界を築いた意味があった』と言うのである。郭公の歌を例にとり述べているこの文の虚構とは幽玄や有心とは異なった、空無な世界における心のつぶやきなのである。こうした著者の主張は新古今集の捕らえ方の難しさを象徴している。なお、万葉的な短歌謡が古今的な和歌の世界に移行するのは、他者のかげに配慮して心を述べる姿が、形式の上でも内容のうえでも他者のかげを払ったためである。自分の心の動きとして世界を区切り、自分の心を見ている自分が居るためだけなのであるとの指摘はなるほどと思わせる。
こうしてみると、短歌謡はたくさんのものを漢詩に委ね、そして和歌は『自然との即物・即事的な交感の表現をうしない、公的な場面から退けられた歌は、疎外された知識層(下級官)と儒教倫理によって後景に除けられた女官の層によって、詩的な叙情ニュートラルな自然観照に活路を見出していった』のである。無論、嵯峨天皇、宇田天皇のような文化の推進者の存在の有無と言った、政治的な影響もあるのである。著者は「あとがき」で和歌形式の連続性を統一的に捕らえ論じること、枕詞などの解剖による詩の理論の確立が願望でありながら、肉薄はできずともそれなりに近づくことができたと述べているが、その通りである。私にも、今まで分からずに困っていた古代歌謡からの歌の連続性がなんとなくであっても分かるのである。
以上
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2017年3月17日(金) |
題:ジャン=ポール・サルトル著 渡辺守章・平井啓之訳「マラルメ論」を読んで |
モーリス・ブランショの「来たるべき書物」では結構マラルメについて論じていた。サルトルも「マラルメ論」を書いていると知り読んだ本である。なお、サルトルは「ジュネ論」や「フローベル論」も書いていて、訳者の解説によると、作家とテクストとの関係、テクストを視座するサルトルのモデルともなると書いていて、これらも読まなければならないのかとも思うが、ともかくサルトルがマラルメをどう書いているか知りたかったのである。読んでみるとサルトルにしては文章が粗削りながら、不思議に抒情が漂っている。内容の新鮮さはないけれども、懐かしい存在論が波打ち寄せてくるのである。
初めにブランショに関する記述から紹介したい。ブランショの「文学空間」では次のように感想文を書いている。 文学は、特に詩は『くりかえしのあの全くの無力性、何ひとつ生み出すことのない長々しさに耐えている』であり、書く人とは『終わりなきものの絶えざるものを「了解」した人間』なのである。こう述べてブランショはマラルメについて現実性に関わる「なまの言葉」と事物を遠ざけ消し去る「本質的な言葉」の二つの言葉から論じる。そして、言語には無が活動しているのであり、この言語は己を無化することで呼び戻される全体そのものであり、この全体のなかで己を不在化する能力を持っていると言う。簡単に言い換えれば、作品の全体において言葉は無化することで表わすことをせずに、自らは不在となるのである。この能力は自己破壊行為でありながら、これこそがマラルメ作「イジチュール」の至高の瞬間に立ち会わせ、真理性を与えていると言う。マラルメの空間的な中心地点であり、彼の文学的な経験はこの地点に絶えず立ち戻させるのである。こうしたマラルメ論や書くことと絶望の観点から論じたカフカ論は読み応えがある
ブランショの「来たるべき書物」では マラルメの「骰子一擲」を来るべき書物であるとする。なぜなら『文学は、それから可能性の日常的な諸条件をのぞき去るような経験ののちに初めてその本質的な完全さにおいて抱懐されるだろう』だからである。この「骰子一擲」の書物での「骰子の一擲は、けっして偶然を排除すまい」という詩句が、この新しい形式の特質を表しているからである。即ち、偶然と必然的なものが崩れ去ったときに、初めて偶然を支える一般的な規則が存在し得て、かつ彼方にあるものと一致した場合、未だ知られざる作品そのものが空間を生み出して現存できるからである。なお「骰子一擲」に示されている「星座」を含めた詳細な論述は本書を参照のこと。こうして、マラルメにおいては空間を存在するものではなくて、時間との関係で「節奏され」「内面化され」散り散りにされて休まされるのであり、通常の時間を締め出すものだとし、この空間そのものが「書物の空間」であるとブランショは述べる。そして、『ただ詩だけが――この未来の書物だけが――この空間の持つ運動と時間の多様性を確立することが出きる』と述べるに至る
さて、サルトルの「マラルメ論」は「マラルメの現実参加」と「マラルメ(一八四二―一八九八)」の二つの論文から成る。なお、「マラルメの現実参加」はT「無神論の遺産相続人たち」、U「選ばれ者」の二つから成る。T「無神論の遺産相続人たち」におけるサルトルは『<存在>と<物質>とは互いに入れ替え可能な言葉となる。<存在>とは散乱であり、不活性であり、外在性に他ならない。詩人は、自分を純粋に散乱状態にしてしまうこの<物質>を唾棄している』と詩人と物質との関係について述べている。こうした詩人は貴族的な<プレシオジテ>(言語と恋愛感情の人工的洗練を目指した文学)を必要とするブルジョアジーの優位性とは明確に区別して、ブルジョアジーに反抗するのである。そしてサルトルは存在論へと移っていき、<存在>が存在する仕方の否定となるこの存在の否定の戯れの内に居るのが詩人には心地よいとする。発散気味の文章はまとめにくいが、『もし詩的観念が、誰かの中で死に至る意志的な病となるなら、もし広大で明晰な意識が、詩的観念のすべてのニュアンスの総体を、同じ一つの行為の内部で保有させるのであれば、詩的観念は、マルクス主義的解釈と社会的条件付けから逃れることができるであろう』が結論とも思われる。
即ち、マラルメの詩的観念はアンガージュしないのである。ブルジョアジーに反抗することが現実参加ではない、詩的観念そのものは現実参加しないのである。つまり詩的観念そのものとして作動することになる。そもそもサルトルにはこの「マラルメ論」の前に、『書かれた文章のひとつひとつが人間と社会のあらゆる水準において反響をひきおくすのでないとしたら、それはなにも意味していないことになります。ひとつの時代の文学とは、その文学によって消化された時代の謂いなのです』との文学の現実参加の思想が記述されている。こうした思想ははなはだ疑問であるが、マラルメが現実参加するとはサルトルにとってこの思想に基づいた文学的な現実参加しかあり得ないはずである。なお、サルトルが後年現実の行動においてマルクス主義を信奉するに至ったことは言い添えておきたい。
U「選ばれ者」の方が各段に優れている。もう一度読みたいと思っている。それはマラルメの生い立ちなども含めて母と海とのフロイト理論に基づく心理学的な分析をおこなっているためではない。マラルメのアンアンガージュマン(投―企)が詩的に晦渋なサルトルの文章によって存在論的に的確に捕らえているためである。マラルメのイジチュールなど作品を通じたサルトルの解釈が、晦渋に散乱した文章ながら良く論評されているためである。引用で要旨を示せば『一つ一つの人間的現実は、それ自身で、新たに<全体>への独自の関係として作らなければならない』のであり、これは『ある偶然的な現実の投企であり、しかもこの現実は、様々な現象の直中に埋没しており、己を押し潰す全体性に向かって自己を超える運動として自らを立てているのである』『人間は彼自身によって偶然というものがこの世に出現したのだから、偶然に刃向かっても無駄なのだ。彼の行動の一つ一つは、それが破壊しようとしている当の宿命そのものから生まれてくる。この苦しい苦行、この自分自身への反転、これこそが人間の努力である。すべての世代の無用な螺旋形、これこそが<歴史>の運動なのだ。出発点への回帰とは、つまり自殺である。』ただ、マラルメは自殺しない、書くことを続ける。『墓において、栄光に輝く究極の人間的難破を実現させること、そして祖先の墓に横たわることだ』が彼の完成形であり、『個人的挫折を<詩>の不可能性へと転換する。そして更に再び反転して、<詩>の<挫折>を<挫折>の<詩>へと転換するのだ』として、生のあらゆる形態の普遍的断罪の運動を行うのである。ここでテクストは終了しているらしい。なお、「マラルメ(一八四二―一八九八)」については面白いけれども省略。
こうしてみるとサルトルのマラルメ論はまさに実存主義的な投企とは異なった投企を行っているという文学論であり哲学論である。ただ、彼の文学論は先に述べたように彼の主要な思想とは乖離していると思われ、吟味が必要である。また投企も現実参加という言葉も、マラルメの論じ方としてはふさわしいとは思わないけれども、U「選ばれ者」は妙に説得力がある。私はモーリス・ブランショの記述の方が好きである。けれども、彼らの論評を詳細に論じるには相当な力量と時間が必要である。
以上
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2017年3月10日(金) |
題:浅田彰著 「ヘルメスの音楽」を読んで |
著者の作品は「構造と力」しか読んだことがないけれど、「構造と力」は哲学なる著作物をたくさん読みながら、うまくまとめたと思っている。ただ、そのまとめ以上に記述されるべき何かが不足している。もしや著者の力量からすると、自らの思想が欠落しているのかもしれない。でも、読書量はすさまじくて、普通の人の読む量ではないし、まとめあげるのも稀有の人しかできないであろう。そういう意味では今日的テーマの哲学書を咀嚼した優れた紹介本だったはずである。
本書もそうした思想の紹介本と思ったが、ジル・ドゥルーズなどの思考のフレーズを若干引用し自らの思いを加えたエッセイである。前半は音楽、後半は絵画について述べている。なお「ヘルメス」とはオリンポスの十二神の内の神々の伝令使であり、また「水星」でもあり、すばしっこい。感想としてあまり述べることはないが、音楽は内から外側に向かっての解放・逃走だと述べていたことが関心を引く。音楽は軽やかに水銀のように走るものであり、ヘヴィー・メタルはメタリックではないとのことであるる。ただ、ロックの好きな者には納得できない。後半の絵画ではF.B.(フランシス・ベーコン)とデルヴォ―などが関心を引く。個人的には肉体を引き裂く強烈な強度に満ちたF.B.よりもデルヴォ―やフェルメールの作品の方が好きである。
なお、文章は静謐でかつ精緻に正確に表現されていて隙がない。でも、なぜかある種の抒情性が隠れ潜んでいるように思われる。思いが軽くのびやかで、むしろ抒情を排除して論理的に記述しているけれど、どこか遠くを見つめているとも思われてしかたがない。もしくは単純に既存哲学者の思想を引用加味したエッセイであるためか、力が抜けており活力性が削がれているため抒情性を感じ取らせるのかもしれない。いずれにせよ、簡単に斜め読みすれば、抒情を含ませて主体の位置が静謐に揺らいでいて、秋の日の夕暮れや日没後の乾いた微風を思わせる。きっと、単にエッセイの寄せ集めであることが原因とも、著者の心の内に力が脱落した後の虚脱感がただよっているためとも思われる、もしくは、これに似た心境であるのか。岩井克人著 「二十一世紀の資本主義論」に記述されている「パリスの審判」のような、お話としての面白さを欠いているためか良く分からないけれども、まあ、気軽に斜め読みできる本である。
一つだけ述べたいとすれば、例えばF.B.の描く絵であっても、形象は形象として描かれることによって、どんな恐怖や惨劇からも逃れられないのではなくて、見る度に印象が薄れて逃れることができるということである。我々の感覚器官は常に麻痺していき、新鮮さを失っていくのである。もしくは、眺める度にその感覚は胎内に染み込んで抜け切らずに、重みを減じては幾層にも積み重なっていき、もはや日常化したありきたりのものになるということである。新たな恐怖や惨劇を感じるには、感覚記憶を完全に消去する必要がある。描かれた形象から抜け出し、新たな形象として感じ取ることができなければならない。再度新しくみることが必要なのである。
以上
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2017年3月3日(金) |
題:大栗博司著 「大栗先生の超弦理論入門」を読んで |
物理に関する本は数式で書いてあれば難しい、また分かりやすく文章のみで書いてあっても難しい。本書は簡明に分かりやすく書いているけれども、やはり理解するのは難しいのである。新しい考え方に触れたためでもあろう。この本を紹介するのは至難の業であるが、自らの理解を深めるために要点だけを記したい。
超弦理論とは弦理論の発展したものであり、弦とは「ひも」のことである。この弦とは物質の基本単位が「点」ではなくて「ひも」から成るとする最新の物理学の理論である。物質の基本単位が「点」にならないのは、「点」だとすると質量が無限大になる事象が生じてしまうためである。例えば、電子が点だとすると、自らの発生させた電磁場に影響を受ける電子との距離は、点とは長さも幅も持たないにゼロである。このため、クーロンの法則によりこの電子が感じる電磁場の強さは無限大となる。なお、エネルギーは質量と等価であり、この電子の質量が無限大となる問題が生じるのである。その他無限大となる例は多数ある。この問題を解決するため自然界の「階層構造」により、よりミクロな粒子の存在を仮定した「くりこみ理論」を適用して問題の先送りをしていたが、それにも素粒子の基礎である量子力学の不確定性原理によって生じる「ゆらぎ」のために限界に達してしまう。重力と量子力学とが統合されると、空間や時間さえもが不確定に揺らいでいるのである。この限界の長さは「プランクの長さ」と呼ばれる。
この問題を解決するのが「素領域」という発想であり、「プランクの長さ」でもあり、弦理論なのである。弦のさまざまな振動によって素粒子を説明しようとする理論である。この理論に基づけば、点粒子の放出と吸収する点を特定することができない。このため、無限大の問題を避けることができるのである。弦理論では力を伝えるボゾン(光子、グルーオンなど)のみが説明できたが、超弦理論では物質のもととなるフェルミオン(電子、ニュートリノなど)も説明できるのである。超弦理論では超空間という考えを使用する。同じ数を掛け合わせるとゼロになるグラマン数も座標に使う普通の数ではない座標を持つ空間である。また超対称性という概念も使用する。対称性とは見方を変えても性質が変わらないものであり、二次元では回転対称性になり、超対称性とはこの回転対称性の概念を超空間まで拡張したものである。
では、なぜ九次元なのか。弦の最低エネルギーはゼロではなく、かつ弦の振動エネルギーをたしたものが、弦全体のエネルギー、即ち質量になり、光子の場合、これがゼロにならなくてはいけない。弦の振動はさまざまな方向に起こるが、この光子全体のエネルギーを表す式にオイラーの公式を当てはめると、弦理論では二十五次元、超弦理論では九次元の空間となるのである。ここまでが超弦理論に至る説明である。この後、超弦理論そのものや力(電磁気力、強い力、弱い力、重力)の統一について説明が続いている。
力の統一は「ゲージ原理」とゲージ対称性に基づき説明している。ゲージとは物差しであり、ゲージ対称性とは物差しを変えても変わらないことである。電磁気力と弱い力の統一は「ワインバーグ−サラム模型」という理論で、円(一次元)と球面(三次元)の回転対称性を組み合わせで、電磁力を伝える光子と弱い力を伝える粒子のボゾンの性質を説明できるのである。これは力の統一原理へと発展していくはずなのである。
著者は第一次超弦理論革命と第二次超弦理論革命へと超弦理論の発展へと話を移していく。ここで重要なのは「カラビ−ヤウ空間」なる六次元空間である。九次元空間をこの「カラビ−ヤウ空間」なる六次元空間によりコンパクト化して三次元空間の性質や素粒子模型をうまく説明できるのである。著者は第一次超弦理論革命にてトポロジカルな弦理論を仲間と共に開発している。第二次超弦理論革命ではさまざまな五つの超弦理論が一つの理論の化身だったとのことが分かる。この理論はM理論と呼ばれている。また弦とは、物質の基本単位のさまざまな次元に拡がったものの一つに過ぎずに、このさまざまな次元には拡がった物質が現れるのである。メンブレーン(二次元に拡がっている膜)の音節を使用して、P次元に拡がっているものを「P−ブレーン」と呼ぶとのこと。そうすると、1−ブレーンとは1次元に拡がった弦であり、2−ブレーンとは2次元に拡がった膜になるなるのである。更に、開いた玄の端点が張り付いたブレーンのことを「Dブレーン」と名付けられたとのこと。最後に著者は空間が幻想であること、かつ時間の向きなどの疑問について述べている。
一応感想文として、本書の内容を簡単まとめたが、やはり「超弦理論」を理解していないけれども、でもおぼろながら輪郭は見えてきている。「M理論」がマゾ理論でないことが分かっただけでも幸いである。Mの略語につては省略。本書を参照のこと。
以上
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2017年2月24日(金) |
題:ニーチェ著 茅野良男訳「曙光」を読んで |
本書はニーチェの「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」より以前の作品である。「道徳の系譜」は読んでいて面白かったと記憶している。道徳について語る時のニーチェは露わに、声高に叫んでいるためである。ニーチェは体調不良のためバーゼル大学の教授職を捨てて各地を転々とするとしたことがある。生の活力が著しく低下した時期で、ただ、病気に耐えながら「人間的、あまりに人間的」や「曙光」、「悦ばしき知識」などを著述している。自己の思想を見詰め直して、その後の「ツァラトゥストラ」、「善悪の彼岸」や「道徳の系譜」に繋がっていくのである。従って「曙光」にはこれらの著作物に表れる思想的な萌芽や自覚が見られる。これらの詳細は訳者の茅野良男による「解説」に記述されている。無論、本書の内容についても簡明に記述されている。この「解説」の方が詳しいのでそちらを読んだ方が良い。
それにしてもニーチェには一日の役割分担があるかのように本の表題も思想も記述している。「曙光」や正午の思索、「黄昏」など移り行く一日がニーチェの全体かと錯覚させられるほどである。この「曙光」は一日の朝であり、肯定的かつ楽天的な記述が含まれている。本書はアフォリズム(箴言もしくは断章)形式であり、読み解くのは難しいながら、既に各種の詳しい解説書などがあるはずであり、ただ、引用しながら簡単に内容を示したい。なお本書の副題は「道徳的な偏見に関する思想」となっている。また、全部で五書から成り立っている。訳者の「解説」によると、第一書と第二書が主要思想を、第三書と第四書が周辺思想を、そして第五書がまとめになっているとのことである。
まず、ニーチェは、共同体と恐怖一般の感情、風習との関係をまず述べ、力の感情と関連付けている。『無力の感情と恐怖の感情は、とても強く、極めて長い間、ほとんど絶え間なく刺激されたので、力の感情は、人間がこの点で最も鋭敏な金秤りと張り合うことができるほどの精巧さまで発達した』(断章23)のである。そして道徳における狂気の意義として『新しい思想に道を拓き、尊敬されていた習慣や迷信の束縛を破るのは、ほとんどいたるところで狂気なのである』(断章14)こうして恐怖と力と狂気の関係が示されている。「力」なるものの概念の萌芽が見られるのである。そしてキリスト教徒の運命について述べる。『律法は罪を絶えず駆り立てたのである。・・今や単にあらゆる罪が除かれたばかりか、罪自体が絶滅された。今や律法は死んだ。今や律法が宿る肉体は死んだ。・・いわば腐敗しつつある。この腐敗の真中にいること!――これがキリスト教徒の運命である』(断章68)
そしてニーチェは道徳について述べる。人類は目標を持たないために、道徳の要求を人類に関係させてはならないのである。ただ、目標を持つことを勧めることはできて、この時自らに随意に道徳法則を与えることができるのである。ただ『これまでの道徳法則は随意をこえたものとされていた。人々はこの法則を自分に本来与えようとせず、どこから受け取り、どこかで見出し、どこかからか命令されることを望んだ』(断章108)のである。さらに認識、主観、感覚や理性などについて述べながら、道徳も論じている。『人は何が本来道徳的なものを形成するかを知っている、という偏見より以上によく信じられている偏見はないであろう』(断章132)『絶対的な道徳というものは存在しないからである』(139頁)などとニーチェの基本的な道徳への立場を露わにする。
『力の魔物。――必要でもない、欲望でもない――否、力への愛こそ人間のもつ魔物である。人間に一切のものを、健康を、栄養を、住居を、娯楽を与えよ。――それでも人間は相変わらず不幸であり、気まぐれであるだろう。というのは、魔物が待ちに待ち、満足しようと望んでいるからである。人間から一切のものを取り去れ、そして魔物を満足させよ。そうすればそれらはほとんど幸福になる。――まさしく人間や魔物たちが成り得る限りの幸福になる』(断章262)この力の概念は(断章23)と異なっている。力の感情は文化の歴史であると述べていたが、力への愛、力の感情の励起こそが本来のニーチェの意図であると思われる。
それにしても、やはりアフォリズム(箴言もしくは断章)形式とは難しい。というより、流し読みに適している。「力」という概念を理解するには、「権力への意志」を読まなければならないだろう。
以上
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2017年2月17日(金) |
題:亀井俊介著 「日本近代詩の成立」を読んで |
新聞で知り読んだ本である。著者は和歌を含めた古来の日本の詩歌を、また近代の俳句、短歌を含めた日本近代詩の歴史の全貌を論じたいとの野望を持っていたが、自らが選択した近代の詩人のみを論じ語ることにしたのである。全部で16章から成り、著者が選択し限定した詩人たちであっても、相当な数にのぼる。なるほど、全貌といかずとも日本の近代詩とはこういうものであったのかと知ることができる。昔、高校で習った懐かしい詩もある。また読んでみたい詩人も結構いるのである。著者のそれぞれの詩に対する語りは分かり良く、また感覚的にも納得できる部分が多い。感想文では簡単な近代詩の流れと、私が関心を持った詩集のみを紹介したい。
なお、本書は500頁を超えてる大作である。日夏耿之介の「明治大正詩史」を参考にしているし、訳詩が多いために外国の詩人も結構登場する。ただ、斜め読みしたためか日本の近代詩とは海外からの導入であり、日本古来の詩歌はどこに行ったのか、それらの相互の関係が良く分からない。漢文は若干触れているが、短歌や俳句の表現の内へと日本古来の伝統的な感性は押し込まれてしまったのかとも思われる。この日本古来の感性的な観点も含めて論じられているとなお分かり良かったと思われる。つまり本書の範囲外であるが、「記紀歌謡」から「万葉集」に「古今和歌集」へと至る内在化された心の思いと表現の変遷と同等の、もしくはそれ以上の革新的変化が近代詩に起こった、そのことがまさに「新体詩抄」に始まったはずなのである、著者もきっとそうであると言いたいに違いない。
まず、「新体詩抄」の意義から始まる。明治15年(1882年)に三人の選者によって「新体」の詩を訳したのである。新体とは行訳などの伝統的詩歌とは異なった形式であり、シェークスピアなどの生や死など訳詩14編と創作詩5編を掲載している。著者によると内容は粗いが日本近代詩の出発をしるす歴史的な詩集なのである。そして、これを契機に詩人たちは近代にふさわしい思想と表現を追求することになる。パトリック・ヘンリーなどの影響を受けながら「自由」を追求することになる。更に森鴎外編集による本訳詩集「於母影」によって美的要素も追求することになる。この「於母影」は「新体詩抄」より格段に作品の質が良くなっているらしい。著者の言葉によれば「意思世界」と「情感世界」がリズムよく表現されているとのこと。
次に北村透谷の「蓬莱曲」がホイットマンと同様に言葉自体に宿る生命を表しているとする。著者が「予言詩人」と呼ぶ「告げる人」であり「自己の歌」を歌うのである。原初的な人間の力を原初的な言葉で捉え直す詩人である。島崎藤村の「若菜集」を著者は日本近代詩の最初の金字塔として称賛する。内村鑑三の訳詩集「愛吟」はそれまで置き去りにされてきた思想を含んだ詩集なのである。また、著者は正岡子規が詩歌に革新をもたらしたとする。「あやめ会」の詩人たちとは日米英三カ国の詩人クラブである。こうして著者は「上田敏」の翻訳詩集「海調音」を取り上げる。この「海調音」は雑誌ではない、初めての単行本詩集なのである。秋の日の/ギオロンの/ためいきの、とは懐かしい。
更に著者は永井荷風の「珊瑚礁」を官能と憂慮を表現している詩集として取り上げる。訳詩として引用している伯爵夫人・マチユウ・ド・ノアイユ作「九月の果樹園」はその通りに感覚的かつ官能的に濃密である。異端詩人なる岩野泡鳴は口語自由詩へと移る。泡鳴五部作として「発展」、「毒薬を飲む女」、「放浪」、「断橋」、「憑き物」があるとのこと。確かに引用されて詩を見る限り、後半にかけて抒情的となり良いのである。堀口大学の翻訳詩集「月下の一群」はフランス近代の詩人66人、340作品を掲載している。いわば現代詩の入り口となる。「月下の一群」は引用詩を見る限り良い。萩原朔太郎が高貴な美意識と芸術性を主張したそのことを、これらの詩は表現している。
こうして本書を眺めていると、近代詩の輪郭が見えてくる。北村透谷の「蓬莱曲」、永井荷風の「珊瑚礁」、および泡鳴五部作はぜひとも読んでみたい。
以上
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2017年2月10日(金) |
題:十川信介著 「夏目漱石」を読んで |
新聞に紹介されていた本であるが、結論から述べると、それほど新味はない本である。ただ、子細に漱石の作品などを読んでいたらしく、若干の知っていても良い知識は含まれている。前半は漱石の生涯、後半は作品紹介を主に記述している。感想文を書くかどうか迷ったが、敢えて感想を記述する、というより私の夏目漱石に関する論文に論述すべき内容の根幹を示したい。
前半の漱石の生涯では、生まれ育ち養子にされ、イギリス留学までを書いている。漱石の数多い人間関係が含まれていて、誰が誰でどういう関係であるのか、さっと読んだだけでは分からなくなる。それほど重要でない人物も含まれていて、名前と漱石との関係をめりはりなく記述しているためである。後半の作品の紹介では、あらすじを追い過ぎている。不要な登場人物や出来事も紹介しているために、良く分からなくなる。漱石の作品をたくさん読んだものには物足りないし、読んでいない者にはどういう作品なのか良く分からなくなるだろう。つまり、本書はおおよその漱石に関する主題をまんべんなく平坦に書いている、説明文であるためである。この説明文も歯切れが悪く、読み直さないと意味が取れない箇所が結構ある。著者が述べているように「漱石没後百年」を記念して書いた本なのであろう。つまり、自らのためのみの記念碑的な著作物なのである。
夏目漱石を論じるには概念が必要である。本書でも江戸と明治時代に両足をかけて引き裂かれている漱石について若干触れているが、「私の個人主義」(中央クラシック版)に掲載されている加藤典洋著「日本近代のリベラリズム」で取り上げられている概念と同じである。加藤典洋著「日本近代のリベラリズム」では「根無し草」として一身二生として表現されている、こうした概念に基づいて大胆に切り裂き漱石を論じるべきである。この短論文は示唆に富んだとても良い論文であり、漱石の「文学論」に示されている認識と情緒、更に講演「私の個人主義」における「自己本位」を取り上げて論じて、結局漱石にはリベラリズムの内発性が生きていると結んでいる。つまり、自由に生きる生の内発性が漱石にはあるである。
私は「生の哲学者漱石」として捕らえたい。W.ジェームズやアンリ.ベルグソンの著作物を読んで、認識や意識の流れに関心を示したどり着いた、漱石の「文学論」において示されている認識(F)と情緒(f)の融合が大切である。これらの哲学者は「生の哲学」としてジル・ドゥルーズなどの近代の哲学者にも影響を与えているが、その系譜として、その先駆として漱石を捕らえたいのである。認識が捕らえるのは事物ばかりではない、むしろ他者の心、即ち心理であり、うごめく世界かつ変動する世界の在り様である。他者問題は常に哲学の主要テーマにもなっている。極論すれば、他者とは歓待するのではない、常に恐れなければならない得体の知れない者である。流れる自らの意識の内に心地よさをもたらして共感すると同時に嫌悪の対象でもある。この世界のうごめきも歓喜するする以上に、同様に不快であり敵味方では区別できない不気味に運動して、権力を持つものなのである。
では、自らの内に流れる意識とは何か、ベルグソンの「物質と記憶」では現在に想起されてくる記憶が未来も巻き込んで生成されると述べている。常に生きているものには持続し流れるものであり、空間と時間の内に対象を感覚的に認識して快不快や善悪を判断するのである。また意識そのものが自らを騙し欺くこともある。この意識が自らの存在を問うとやっかいである、サルトルの述べる存在の醜悪さが支配すると、意識は精神と言い換えた方が良いが歪み狂ってくる。この精神にとって重要な役割を果たすのが情緒である。漱石の「文芸の哲学的基礎」では、我を体と精神に分化する。そして精神を知、情、意の更に三つに分けて論じている。文芸家の理想とは、感覚物そのものに対する情緒、そして感覚物を通じて得ることのできる知、情、意なのである。ここで重要なのは、文芸家の理想は、感覚物を感覚物として見た時のその関係から生じるくる、即ち物を道具に使って知を働かしその関係を明らかにして情の満足を得ることなのである。何も、文芸家の理想ではない、漱石の理想なのである。
簡単に書くつもりが、少し長くなり過ぎたので、まとめると「夏目漱石」を論じるには、哲学的な思想をベースにした「文学論」をベースにして、そこから手を広げて論じるべきなのである。いわば「生の哲学者漱石」として論じるべきなのである。そして、他者問題は男女間においては先鋭化して現れる一つの典型的な関係である。漱石がこのテーマを取り上げたのはまさに先鋭化した男女の意識そのものが生を物語っているためである。
以上
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2017年2月3日(金) |
題:ハンス・ケルゼン著 長尾龍一 植田俊太郎訳「民主主義の価値と本質」を読んで |
1929年発刊の本であるが、即ち、たぶん慌ただしい第一次世界大戦、ロシア革命後の作品であるが、民主主義なる国家形態の価値と議会や多数決原理などを論じた分かりやすくて、考えらせる本である。無論、もはや古典であって原則的な思想しか記述されていないが、民主主義の本質を捕らえた一冊に違いない。本書は十章と「民主主義の擁護」とからなる、約170頁程度の薄い本である。
著者が民主主義の価値と捕らえているのは、繰り返し述べられている「自由」である。これは「平等」よりも重要な価値である。ただ、この二つの原理の総合を努力しなければならないが、民主主義はそれを実現できるものであり、これを自由の観点から論じた第一章「自由」こそが本書の一番重要な章である。『自由を求めて社会に叛逆するのは、人間性そのものである』とケルゼンは述べている。即ち『自由の理念が人間の魂の究極的な根源に発するものだからである。その根源とは、個人を社会に敵対させるあの反国家的原始本能である』とする。これは『自由の観点からは社会法則性の否定を、社会の観点からは自然法則性の否定を意味する』のである。つまり、個人的な自由の理念と社会秩序の理念との解決の不能性が明示されている。自由は基本的契約の締結に際して全員の一致を、かつ秩序の継続にも全員の同意の継続を要求するが、この拒否も、社会秩序からの脱退も自由も持つことなのである。国家がありその秩序の内が全員一致で成立した契約が、すなわち全員一致という民主制の理念が、多数決によって継続されれば近似を持って成立していることになる。こうしてみると『単純多数決の原理が、相対的には自由の理念に最も近いのである』ことになるのである。
自由主義と民主主義の分離は「国家の支配からの個人の自由」から「個人の国家支配への参与」との観念に自由の概念が変遷することになる。国家秩序への服従者が秩序の創造に参与するとしても、権力に服従する諸個人によってのみ構成されるとしても、なお民主主義は可能でありながら、個人の自由は後景に退き、社会集団の自由が前景に現れ出るのである。こうして『民主制においては国家そのものが支配の主体とされる。ここでは国家人格という覆いが、民主制感性にとって耐え難い「人間の人間に対する支配」という意味を覆い隠している』そして、自由観念の最終段階では個人の自由は国家の主権に取って代わられ、言い換えれば国家こそが自由な国家となるのである。この内在論的に到達する自由概念の自己運動を認めなければならないと著者は主張している。
第二章では民主主義の理念から現実へと導き、民主主義を構成する国民について述べている。ただ、再度言い換えている民主主義の定義が重要である。『民主主義とは、その理念に従えば、団体意志(比喩を排して言えば社会秩序)の創造を、それへの服従者、すなわち国民が行う国家形態・社会形態である。民主主義とは統治者と被治者、支配の主体と客体の同一性であり、国民の国民に対する支配を意味する』なんと響きの良い民主主義の原理であることか。ただ、すべての国民は団体にはなることはできず、規範を制定できずに被支配される国民へとなるのである。もう一点大切なことを述べれば、国民は政党を作り複数の政党に分かれ、相互の妥協点を探り団体の意志の中道を導くことにあるする。民主主義とは結局妥協なのである。
第三章「議会」以下、「議会制改革」、「職能議会」、「多数決原理」、「行政」、「統治者の選択」、「形式的民主主義と社会的民主主義」、「民主主義と世界観」、かつ「民主主義の擁護」については、それほど重要な点は指摘されていずに分かり切ったことが多くて、何点か気付いた点のみを記述したい。一つ目は、議会制の多数決の原理は少数者保護と親和的と指摘していることである。多数派は少数派の存在を、多数者の権利は少数者の存在を前提としているためである。多数者と少数者との双方の了解なしには不可能であるためである。つまり議会制における多数決の原理が政治的対立の妥協の原理、調整の原理とケルゼンは見なしていることである。二点目は先に述べたが、民主主義の理念を第一義的に規定するのは平等の価値ではなく、自由の価値なのである。自由の平等、富の平等など「平等」は多様な意味を持ち多義的であるためであろう。三点目は相対主義こそ民主主義思想の前提とする世界観であるとする点である。絶対善の権威に対しては服従以外の態度を取り得ないためである。
以上、簡単に本書の内容を紹介したが含蓄のある文章も多い。民主主義の本質を考える場合、原典に成り得る書であると思われる。
以上
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2017年1月27日(金) |
題:渡辺実著 「平安朝文章史」を読んで |
思った以上に良い本である。平安朝時代の仮名日記文学などを、若干の言語論も含めながら、作品の内容や特徴をうまく捕らえて平易に解説している。そして、これら平安朝の仮名文学の変遷を、その最初から最後に至るまでの表現形式・内容の推移展開を明確に提示している。ただ、この表現形式や内容が他作品へ影響を与えている、その論じている内容の評価は難しい。例えば、源氏物語の表現に影響を与えた作品の文章・内容を幾つか論じているが、どこか違うのではないかと思いながらも受け入れざるを得ない。平安朝も含めた日本の古典文学の知識があまりにも少ないためである。そうした批判的な観点からではなくて、平安朝時代の日記文学の高級な紹介本として、それに文章に関する考察が加わっていると読むならば確かに良い本なのである。ここまで詳細に文章を調べ記述するには相当に日記文学などの精読が必要だったに違いない。
取り上げている作品は、第一章「平安文章の創造」として「竹取物語」、「伊勢物語」、「古今集仮名序」、「土佐日記」、「三宝絵詞」、第二章「平安文章の成熟」として「蜻蛉日記」、「和泉式部日記」、「枕草子」、「紫式部日記」、「源氏物語」、第三章平安文章の終結として「更級日記」、「大鏡」である。合わせて十二作品である。
「竹取物語」は漢字が持つ表意性を捨象し、漢字を表音文字とすることによって成立した文学であるとする。まず、著者は伝達の言語としての「口頭言語」と感情や思考を表現する「書記言語」とを区別する。「認識の言語」としての「書記言語」の質的差異と表現の冗長や簡潔性の相違を述べながら、「竹取物語」が「口頭言語」の単なる文章化ではない、「書記言語」で記されたものとして認めるべきと述べている。口頭伝承の説話を仮名文章で表しただけではないではないのである。ただ、「竹取物語」は「出で来はじめの祖」としての叙事的な写実的な切り方の未熟さがあると指摘する。
これに対して「伊勢物語」は外面的な写実的描写を捨て去り、内面への肉薄を迫った作品であるとする。この「伊勢物語」の文章を詳しく論じていて紹介したいが長文になるため省略する。なお、個人的には「伊勢物語」がとても好きである。「古今集仮名序」は紀貫之の作品であるとするが「古今和歌集」の仮名なる序文であり、仮名表現が積み重なり進歩していても、漢文の論に従い過ぎていて、仮名にて論を行うにはまだ早すぎたと著者は指摘している。なお、紀貫之による「土佐日記」は女も日記を書こうとして始まっている。「伊勢物語」が事柄の内に意味を見出して、出来事を取捨選択して記述しているけれども、この「土佐日記」は出来事を出来事として記述して、別途意味が付加されている。即ち、外側からの意味付与がなされているのである。「三宝絵詞」は作者源為憲が冷泉院第二皇女尊子内親王に物語の説明を行った作品なのである。例えば「鹿王」など、言葉使いというより内容が主であり、物語の解説の態度を持って成した文章なのである。
「蜻蛉日記」ともなると、自分の心を述べる文章となる。ただ、作中世界を書く作者としての自分と書かれている自分が分離していない。「伊勢物語」では、自分を自分から離して記述しているのとは対照的なのである。ただ、この「蜻蛉日記」の当事者的表現は誰がどうしたのか不分明で分かりにくいながら、自分を剥き出しにして書くことが生々しいのである。これは女性の仮名文の苦しく苦い経験でもある。「和泉式部日記」は「われ」を「女」と記述することで「和泉式部物語」という別名もあるらしい。自身も作中の一部に組み込み意味を構築するより、より豊かに表現される心情の世界があるはずなのであり、歌が精神集中の場であると同時に、文章も心を言語によって制御しつつ書くという、一段高い質の仮名文になっていると作者は述べている。ただ、和泉式部は歌がうまいが、文章はやはり紫式部の方がうまいと著者は述べている。「枕草子」は随筆作品であり連想から生み出された文章であるとする。この文章は「すざまじ」、「うつくしき」など述語を固定することによってなされているのである。
「紫式部日記」は一般化した視点から構想力と結びついて、自己充足した意味世界を文章に記述している。いわば風景の描写に感情を入り込ませた操作の文章の出来栄えが良いのである。表現の主体である作者が一般的な視点から見定めようとし、かつ一つの叙事が他の叙事へと次元を異ならせて膨らんでいくのである。ただ、こうした客観を操作する作者の姿が見え隠れする散文は特異であり、事実が持つ迫力を強くは備えていないと著者は述べている。なお、他者を評した消息文は受け取るべき相手はいないはずだとする。そして「源氏物語」は仮名文学の集大成なのである。「伊勢物語」の短文とは異なるが、その「みやび」の精神は生きていて、かつ「もののあわれ」をつないでいる。この「もののあわれ」は「伊勢物語」以来の貴族の閉じた優美な社会に潜む問題と「蜻蛉日記」で示さるような女たちの吐露せざるを得ない哀しい境遇が合流したものである。そして心理的内面状態そのものを描写するように変貌したものなのである。なお、著者は日本語が終助詞や副詞などによって、言語主体の側に属する意義をとりたてて示す言語形式として富むと述べているのは重要である。例えば終助詞では「な」、「な・・そ」、「ばや」、「なむ」、「がな」、「かし」などがある。
ただ、こうした平安朝の仮名文学も「更級日記」や「大鏡」によって、最盛期を過ぎる、というより打ち破られるのである。「更級日記」では物語好きの菅原孝標識娘はしばしば夢を語るが、このこのような夢の外的な現実などなくて、彼女は冷淡でありさえする。きっと物語は今の自分のおかれている境遇と真逆の位置にあるのである。紫式部が描いた「ものがたり」は成熟に至って、むしろ凋落の傾向をたどろうとする。「大鏡」では道長を描いているが反平安的な人物である。つまり今まで陰翳の深く隠されていたものを露わにする粗野で乱暴な者である。女たちも含めて激しい意志を持ち直動的なのである。こうした人物を描くには新たな文章を必要とする。つまり因果の認定がきわめて無造作で、乱暴なほど短縮された論理を表現する文章とは、説話文学と近い文章になる。つまり「ものがたり」の文章への反抗である。だが、平安朝の文章の終焉を告げるにしても、次の時代の祖の文章とはなり得なかった、そして既に「今昔物語」が漢文訓読体による習作を始めているのである。
以上が、本書の記述内容の概略である。本書に示された作品の半分程度は読んでいるはずであるが、殆ど忘れている。「伊勢物語」は好きだと述べたが、「紫式部日記」も好きである。あと、できれば「和泉式部日記」や「更級日記」も読んでみたい。物語の非現実世界を冷静に見ている作者の簡明な文章論が気にかかる以上に、これらの日記文学に関心を持っているためである。
以上
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2017年1月20日(金) |
題:ジョルジュ・バタイユ著 湯浅博雄訳「宗教の理論」を読んで |
半年前に読んで挫折した本である。どうもジョルジュ・バタイユは文学から入っていて、文学作品と「エロシチズム」などの評論しか読んだことがないためであろう。二度目もあまり良く理解できない、でも湯浅博雄が「意識の経験・宗教性・エコノミー――解題に代えて」と題して、「文庫本あとがき」に本書の内容を丁寧に解題しているのを読んで、それなりに理解できるようになる。すると、本書は重要な哲学書の部類に入る気がしてならならない。というより、これまで読んだ哲学書では捕らえられていない問題が浮き彫りにされているような気がしてしかたがない。本感想文は本書の記述内容を簡単にまとめたものである。巻末に解説された「意識の経験・宗教性・エコノミー――解題に代えて」を読むほうが本書の内容を的確に理解できるであろう。なお、本書はバタイユの死後出版されたものである。
本書は第一部「基本的資料」、第二部「理性の限界内における宗教」からなる。宗教の理論というより、人間と社会の在り方を問うた書物である。そういえばどこか他の本で同じ内容を読んだ記憶がある。簡単に述べれば、世界における単独な個別性を持つ人間が事物へと還元されて不安に感じている、この人間が供犠や祝祭を通じて内奥性・内在性を回帰させるのである。供犠や祝祭は労働生産物の激烈な消尽であり、暴力性であり、この世界から外に出ることである。こうしてバタイユは法とモラル、聖と俗、悪と善について考慮する。超越性と神的なもの、かつ軍事秩序について考慮する。意識と認識について考慮する。結局、激しい暴力性の力から最も遠く離れた精神は「総合」の精神なのである。この世界を結びつける必要性を啓示しているものが宗教的感性の「総和」であり、その一番明瞭な形が「総合」なのである。人間は自身の意識を最も高い位置にまで高めることができて、もはや人間は服従した事物ではなくて至高なるものとなることができるのである。ただ、この至高性は総体を活気付け自由な、内的な激しい暴力性の運動を示しているが、涙やエクスタシスや哄笑のうちに解消されていき、逆にこれらのうちに解消されない不可能性を啓示する、この不可能性とは自己からそらすことのない自己意識なのである。つまり、激烈な消尽する世界から外に出て宗教的感性「総合」の精神を獲得して高い位置に高めることができても、人間は自己意識と言う桎梏から逃れられない。けれども、内奥性が自由に沸騰するもしくは内奥性を消尽するなら、至高な自己意識は主体でもない客体でもない両義的な混沌、名付けようもない未知の経験を生きることができるのである。これが本書の要旨である。
簡単に本書の要旨を述べたので、あとは気になる何点かを示したい。バタイユにとって問題は「自己意識」なのである。自己意識は深い意味で自己を意識していない、この可能性の無力さの頂点において意識は、可能なるすべてのものへ対して意識を開くのである。この激烈な力が猛威を振るう場において、この極限に至ってもはや自らが居る場所がないことを知るのである。異なった言葉で言えば、バタイユは死が生の最大の肯定者であり、死が現実の否定というより初めて内奥的な生の肯定であるとし、現実の秩序がこの生を無効にするその瞬間において、内奥性が欠けるその瞬間において、死があるとは知らなかった現実的事物だと知ると述べている。また、言い換えれば個人を事物化する、主体を物=客体する人間の労働は供犠や祝祭によって、生産物を消尽する激烈さ=暴力性の場へと移行することによって、一つの精霊=精神として、一つの主体―かつ−客体として位置づけられるのである。ただ、この暴力性は内部的なものであり、もし暴力が外へと向かうならば供犠や宗教と対立する武装行動であり軍事秩序をもたらすのである。
ここで宗教の本質について触れるならば、意識の邪魔になるとして内奥性を喪失した投げ棄てた人間たちが明晰性を取り戻して見失ったものを探しているのである。ただ、『客体=対象の明晰な意識が自己をそらせるのは、意識それ自身の晦冥な内奥性からなのである。宗教とは、その失われた内奥性を再探求することにあるのだが、結局のところ全体として自己意識であろうとする明晰な意識の努力に帰着するのである。しかし、この努力は空しい。なぜなら意識がもはや一つの操作でない水準、レベルにおいてしか可能でないから。・・操作がもたらす効果としてのある明晰さが、もはや与えられないレベルでしか可能でないからである』つまり、バタイユは、宗教とは意識による内奥性の再探求にあるのだが、もはや操作による明晰さが捕らえられないレベルに意識は位置しているのである。このレベルとは祝祭によってもたらされる強烈な消尽するレベルであるに違いない。この消尽する体制も軍事的な力が優位に立つ体制には抵抗できないのである。なお、詳しくは述べないが、内奥性という言葉に意味には注意しておく必要がある。
こうして帝国という普遍的な事物について発展させられる法とモラルについてバタイユは述べる。法は公的な権力による処罰という手段であり、モラルは個人の内的な暴力による手段である。法とモラルは事物が他の事物たちと取り結ぶ関係の普遍的な必然性を定義しているという点に関しては同じく帝国の内に持っている。ただ、モラルは外的な暴力に基礎を置く体系とは無縁で、法が統合されるような極限において関与できるのみである。このモラルについて詳しく述べると、『モラルは、瞬間のうちにその意味が与えられるものを最高の場所に置くあの内奥次元の価値尺度とは正反対のものである。・・モラルはあらゆる無益で、有用性のない消尽を断罪するのである』では、いつモラルは可能となるのか。モラルは神的な秩序によって認可されるのを前提としている。つまりモラルと理性が神を理性的=合理的なものとして、モラルの源泉とみなすようになるのである。即ち、モラルと理性がこの現実秩序に対して、神の機能と一致することになる。こうすると世界というレベルで、世界の表象=観念が二元論に基づくことが分かる。言い換えれば、原初的な世界表象においては、聖なるものは内在的であり、人間と世界との動物的な内奥性=親密性を基点として与えられるが、俗なる世界は、物=客体の超越性のうちに与えられるのである。こうした世界表象の二元論は、表象の境界の移動または価値の転倒によって異なってくる。モラルは神的な理性的にかかわるものなのであり、境界が移動し二元論が進展すると、不吉な神性を俗なるものの側に投げ捨てるのである。
こうして、二元論が深化して到達する超越性についてバタイユは論じる。超越性とはこの世界の外に、可感的な世界から可知的な世界へと出ることだと述べる。こうした二元論に基づき善と悪、更に媒介作用について述べる。媒介作用とは献上された供物に与えられる内奥次元への通路ことである。一方、媒介作用とは暴力によって引き裂かれる供物の暴力との共同の作業でもある。激烈な暴力性が事物たちの秩序を解除し、また保全するのである。続いて、この媒介作業による世界は、仕事=作業の世界でもあり、仕事=作業と神性の関連について、かつこれらがもたらす産業の世界について述べる。簡単に言うなら『問題となるのは、超過する生産が河のように外へと流れ出るような地点を決定することである。つまり生産された物=客体たちを限りなく消尽すること――あるいは破壊すること――が、問われるのである』破壊されるのは物―客体であるのか、人間たち自身であるのか、個体としての主体であるのか、そして、戦争によるのか、供犠や祝祭であるのか。無論、生産される物であるに違いないけれども、他のものを含めて、祝祭などの出来事を通じて破壊されるはずである。
こうしてバタイユは最後に宗教的感性の「総和」へと話を移している。解説ではニーチェの思想に類似している点を指摘していたが、確かに価値の転倒や、記述しなかったが奴隷と主人の論点など似ている点はある。それにしてもよく理解できていないためか、本書に記述されている内容や思想からの脱出方法が見つからない。脱出し得たと思った途端、内奥性が消え去るのである。まるで生け贄の殺略時に瞬時に解放される内奥性のように見失ってしまうのである。でも、バタイユは完全に閉ざされているわけではない、この瞬時・瞬間という隙間がまだ残っていて、この時に死を前にして内奥性があることを知ることができるとバタイユは言うのである。本当だろうか、彼の趣旨は人間の物=客体からの解放であり、消尽においてこそ、この激烈な瞬間にこそ解放される内奥性と現実秩序の関係について、人間がいっそう自らから遠ざかる事物との関わりについて述べているはずである。ただ、以上は些末な細部であり、それ以上に彼は『神聖かつ神話的な世界の対面に、俗なる世界の、つまり事物たちや身体=肉体たちの世界の現実が定位されることになるのである』ことが根底を成す、この人間と社会との関係、宗教的感性をたどらざるを得ないこの社会の構造とこの構造の内に生きる人間についてバタイユは強く述べていて、これを主眼にして本書を記述しているはずである。もう一度読み直さなければ良く分からないし、もう一度読みたい本でもある。
以上
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2017年1月13日(金) |
題:ニーチェ著 渡辺二郎訳「ニーチェ全集3 哲学者の書」を読んで |
ニーチェを読むと、共感と同時に反抗心が生じてくる。その原因はおおよそ分かっているが、ニーチェ全集が発刊されているということで、ちくま学芸文庫からまだ読んでいないものを読んでみることにした。新たな自分なりのニーチェ像を創造しようというのである。まずは本書この「哲学者の書」である。どうもニーチェ全集とは遺稿も含めて、妹や編集者との関連で多様に種類があるらしく、結構面倒なものであるらしい。遺稿には初期の著書も含められるらしく、これらの詳細が本書の「解説」に記述されているが、どうにも良く理解できない、理解するつもりがないということでもある。そこまで詳細を知らなくとも良いのである。本書は「哲学者の書」を中心に掲載されているが、この書はニーチェがギリシア哲学などの評価を通じた哲学的思索の結果を覚え書としてまとめたものである。正式には「哲学者に関する著作のための準備草案」と言うらしいが、確かにニーチェの哲学的思考の萌芽が見て取れる。なお、1873年前後には本書はすでに記述されていたらしい。「悲劇の誕生」の発刊前後らしいが、その他の初期遺稿も含まれていて、どうも良く分からないけれども、ニーチェが27、28才頃、バーゼル大学の教授の頃書いたのであるのかもしれない。詳細を知りたい人は本書の「解説」を精読されるのが良い。一度、ニーチェの主要著作物の年譜を見てみるのも良いと思われる。
なお、ニーチェの市立小学校からギムナジウム時代、プホォルター学院時代、ボン大学時代などの経歴や妹エリザベートの兄への思い、ヴァーグナーとの絶交やル・ザロメとの三角関係など個人的経歴はそれほど思想には影響を与えていないと思われる。ただ、プホォルター学院時代に詩や音楽を作成し相互に批判し合う「ゲルマニア」は、その後のニーチェの創作活動の原点であり得る。さて、本書には八つの章に分かれて記述されているが、1870年代記述が主であり、やはり「哲学者に関する著作のための準備草案」と「われら文献学者をめぐる考察のための諸思想」が重要である。「われわれの教養施設の将来について」も面白い。この教養施設に関する作品は五つの講演であるが、結論としての一講が欠けている。ニーチェはこの施設問題に次第に関心を失っていったようである。この講演の内容を簡単に記すと、学者と学徒との話を友人二人と聞いていて、次第に二人は話に加わるようになる。ギムナジウムの教養施設としての役割について論じているのである。必要なのは言葉の正しい歩き方であり、ギリシア的守護神であり、ドイツ的な本質なのである。偉大で永続的な仕事のために教養こそが目標であり、一民族の教養の母体の中で成熟して教育された場合の天才のみが成し遂げることができるのである。そうした教育を行っていない教師や施設を彼ら二人は非難する。哲学者の『教養は、それとは反対に、あの、困窮の、生存闘争の、欠乏の世界を高く超えたところにある気層の中で、初めて始まる』との言葉がまとめと考えるのが良いのかもしれない。ただ、精神の秩序の中で支配している予定調和という考え方と、科学に対する熱き信仰を持って記述していることに留意する必要がある。
「真理の情熱について」は短い論文であるが、詩文で良い。「人間」という概念、文化との怖ろしい戦い、そして哲学者は真理を所有しているのである。世界は永遠に真理を必要とし、人間たちに真理は何のかかわりもない。人間は錯覚への信仰のみを持ち、間断なく欺かれ続けることで生きているのである。人間は認識の動物であり真理を呪うばかりである。そして、認識が究極目標として達成するものは破滅であると記述している。さて、「哲学者に関する著作のための準備草案」は記述年により四つに分かれる。「ギリシア人の悲劇時代の哲学」なる著作物が歴史的な部分であるならば、この草稿は理論編である。ただ、このテクストの経緯などは複雑であり、本書の詳細な解説を参照のこと。私を含めて読者には、ニーチェが一般的な哲学に関する項目について、このような記述を行っているのをあまり知らないのではないだろうか。哲学用語などの基本的な哲学的要素についてきちんと語っているのである。ハイデッガーまたはドゥルーズがニーチェは「最後の主観哲学」と述べていたそのことの意味が、この文章を読んでやっと理解できる。それは主観で物事を明確に判断して記述する哲学と思っていたのであるが、その背後に主観と呼ばれるものが定義する哲学的な広義な世界がすそ野を広げているのである。つまり適切な表現ではないかもしれないが、世界構造が主観によって幅広く客観的に組み立てられているである。
「哲学者に関する著作のための準備草案」について簡単に述べると、われわれは「主観的」と呼ばれる浅薄皮相な悟性によって、概念を認識する。そして空間の領域でおいてのみ絶対的な認識を持つ。この認識可能な最後の限界は量であり、人間は質を理解しない。概念にはまず形象が対応し、形象こそが根源的な思想でありながら、事物の表面を包括的に捕らえたものである。知性の王国においては、一切の質的なものは、ただ量的なものにすぎないのである。われわれを質に導いてゆくのは、概念であり、言語である。こうして芸術的な力が述べられる。芸術的な力は形象を生み出す力と選び取る力である。こうしてニーチェの芸術に対する賛歌は尽きることがない。そして、われわれの救いは認識のうちにではなくて創造の内にあるとする。空間、時間にしてもすべての形態は主観に帰属するのである。それは鏡によるさまざまな表面の把握なのであるとも述べているのは、質への転換を予期させる。こうして没落という言葉がでてくる、誠実さの目標が没落なのである。更に認識の作用について論じる。なお、認識への衝動を欺いて、当座の時間これを満足させるのは錯覚であり、非真理でありながら、この満足の価値は生の領域にある。生存への意志が、哲学を利用して、より高次の生存形式という目的のために、これを役立てるのである。こうした虚偽の認識の上に立っている生というものをニーチェは認めているが、厳格な哲学的な定義に従うならば、この欺きを否定し乗り越えなければならないのである。
なお、カントは注目に値する哲学者として尊敬もして批判も行っている。ショーペンハウアーもニーチェにとって尊敬すべき哲学者である。なお、数学的な記述はふさわしくないと言い、スピノザの名前は出ていない。本準備草案の三項以降には、「道徳外の意味における真理と虚偽について」などを記述している。それにしても本草稿は箇条書きと文章とが交互に記述されていて、じっくり時間をかけなければとても理解できるものではない。草稿ではなくて正式に記述され出版しているものを熟読する必要性を痛感する。草稿のみに終わっているのはとても惜しいことである。草稿における発芽思想を理解するのは難しいことであるが、ギリシア哲学が色濃く反映している。なおもう一つ重要な「われら文献学者をめぐる考察のための諸思想」についての紹介は省くが、この論文は、「反時代的考察」の草案であったのこと。ただ、内容はまったく異なっていて、文献学者そのものの批判となっている。理由については「解説」を参考のこと。簡単に言えば、文献学者はまず、古代と現代と自己自身を理解していなければならないのである。古代とはギリシアであり、自己自身の理解とは教育者としての自己の理解である。それにしても、草稿レベルを読むことはどうにも困難性が付き纏うものである。ただ、後に発芽する思想を含んだ草稿文に触れると、この文章が思想として肉付けされていくのだと、いたく感嘆するするのである。
以上
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2017年1月6日(金) |
題:天沢退二郎著 「光車よ、回れ」を読んで |
天沢退二郎は詩人である、以前彼の詩集を読んだときは良かったと記憶している。ところが結構小説も書いているのを知って選んだ一冊である。読後感は、幻想的な児童文学であり、現実と想像が混じり合った大人向けの軽い読み物である。結構、冒険小説や探偵小説の要素も含まれていて、大人も楽しんで子供の頃を思い出しながら読むことのできる小説である。
「現代詩文庫11 天沢退二郎詩集」を久しぶりに少し読むと、直接的に言葉を発しながらその言葉はイメージを拒絶している。もしくは断片的にしか浮かばせない。ただ、その拒絶した個々の断片化された言語を通じてある種の総体的なイメージが浮かんでくるのである。このイメージは空間的に鮮やかに浮き上がらせるのではなくて、脳髄や知覚器官に浮かんでいると錯誤させるもので、何もありはせずに、あると感じさせるのである。つまり断片化された言語がいつの間にか、幻想とも言えない総体的なある種の感覚を刺激して励起させ感じさせるのである。こう言っても分かりはしないに違いないので、あとで文章を引用したい。
「光車よ、回れ」は詩文とは異なって、大人でも子供でも読むことのできる簡単な普通の文章である。あらすじは、生徒たちが瀧子なる芯の強い少女を中心としてグループを作る、一郎はこのグループに加わる。そして、敵と戦うために三つの光車を探し始める。敵はどうも二組いる。黒い大男を従えた水魔神と緑色の制服を着た者たちである。水魔神は釣り針で愛しい女の子を失っていて、この釣り針を逆に武器にして針を飛ばして来るのである。緑色の制服たちはなにやら不気味に大勢いて、人をさらったりする。瀧子たちは空いた工場をアジトにして敵と戦いながら光車を見つけ出していく。一郎の大家のおじいさんや瀧子のおじいさんが地霊文字で敵から逃れる方法を知らせるなど支援してくれる。オモテとウラの世界が出現したり、水流が途方もなくあふれ出たり、水溜りに水死体が生じたり、現実を超えた世界が幻想的に描かれている。遂に、瀧子たちは三つの光車を集めることができて、襲おうとする敵と戦うのである。三つの光車の威力に水魔神は負けてしまう。こうして物語は悪との戦いに勝つことができる。ただ、瀧子やおじいさんはどうなるのか、一郎も含めて、皆日常の世界に戻ることができるのであろうか。
ここで本書「光車よ、回れ」の解釈論などしても意味がないため、天沢退二郎の本書に拘わると思われる詩と散文の一部を紹介して終わりとしたい。なお、この引用文は著作権絡みがあり少し時が過ぎれば削除したい。
――詩の一部――
影
追われていてあるときぼくはふとまっ黒な家の前に足をとめた。その石はソプラノサックスの臭気を晴れた空へ放ちながら表面全体に川を流しつづけていた。晴れた――といっても空にはきみの骨たちがちらばり勃起した太陽の肉腫に完結しない断章がくりかえしあらわれ音もなくぬれていた。ぼくはその家に入れば隠れおおせると思っていたわけではない。ぼくの後頭部は燃えていたが心臓にはたえず水が滴っていて人間たちの手の握力のとどくはずはなかったから、しかしその石に四肢で抱きついて血まみれになることはぼくの逃走のためでなく、未来のあらゆるものとの婚姻のためあるいは少なくとも交接のために必要であるとぼくの舌は直感したのであるが・・
――「現代詩の倫理」の一部――
詩がつくりだす世界=詩的現実は、日常的現実の向こう側にオーバー・ランして「すべて」に対して開かれる非日常的日常の原形質性空間であり、ぼくらの詩がかち得るはずの力は、そのつくりだした非現実空間の深さ、その深さがもつ、オニリックな力学構造の反動力、それにぼくらが与えることのできる秩序の質にかかっている。・・
こうしてみると、やはり「光車よ、回れ」は現実と幻想が、非日常的日常として描かれているのが分かる。天沢退二郎のこの空間は、昨今ではだいぶ変質しているようである。即ち、変質というより空間そのものの存在が日常、非日常に拘わらず問われているのである。蛇足ながら、「光車よ、回れ」の最初のページにはその真ん中に、ただ「フーコーに」と書いてある。
以上
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