2015年12月18日(金) |
題:浅田彰著 「構造と力――記号論を超えて」を読んで |
本書は偶然古本屋で見つけた。まんべんなく線が引いてあって読みにくいけれども、なぜか気になって購入した。読んでみると、とても良い本である。著者略歴の頁に示されている発行年が1983年でありながら、2006年には第50刷も発行されている。不思議に思ってネットで調べたら、十五万部も売れたベストセラーであること。ちっとも知らなかった。本をほとんど読まない時期があったので仕方がない。約230頁の短い本でありながら、線引きは60頁ほどで終わっていて、きっと学生がレポートの提出用にでも読んだに違いない。もう少し読むと著者の言いたいことが分かってくると思われる。
さて、本書は構造主義と、ポスト構造主義を論点にして、多彩な哲学者の思想などを引用しながら著者の自身の思想に基づいて、これらの哲学を紹介したものである。本当に多彩な哲学者が登場する。主要な哲学者を上げると、デリダ、レヴィ=ストロース、ドゥル−ズ、ラカン、マルクス、ニーチェ、バタイユ、ヘーゲル、サルトル、クリステヴァ、メルロー=ポンティ、シェラーなどなど。ただ、少しの用語さえ押さえれば主論点はそれほど難しくはないと思われる。図も引用して分かりやすくしている。ベルグソンやドゥルーズも図示していて理解しやすいように努めているのを見習ったためかもしれない。本書が読まれたのは可能性を秘めて投企する人間の生き方を思想した実存主義やマルクス主義が社会的に行き詰って、結局この近代とはどういう構造をして悩ませているのか知りたくなり、買い求める人々が多かったためかもしれない。本書は人間なる主体と貨幣と国家、そして記号の運動構造を論理的に記述して、相応の近代的構造の解を提示しているのである。ただ、結論はない、本書にはこの近代の状況の記述だけがある。もし結論があるとしたら一遍の詩であろう、それはまさしく近代の状況を示した詩であって、この先の近代的社会構造の運動の可否や運動の形態などを示すことはできていない。それはとても難しいことでもある。
本書を読むために主要な一部の単語に少し触れたい。人間は生きた自然からのズレ、方向=意味の過剰を生み出しており、恣意性のカオスとして現れる。この恣意性を制限して文化を構築するには、即ち象徴秩序を維持するためには、この過剰を祝祭などによって蕩尽させる必要がある。これが「冷たい社会」である。ただ近代の「熱い社会」はこの「冷たい社会」を飲み込み、祝祭を知らず、一定方向に回路付け過剰を流出させることで解決を図ろうとするのである。こうした文脈の中で自然の秩序としての「ピュシス」、方向と意味として「サンス」が使われる。人間は過剰なサンスを孕んでしまった反自然的な存在なのである。この象徴秩序とカオスが著者の基本概念になる。なお、象徴秩序とはカオスに投げ込まれた人間がとり得る最後の手段として、言語によって、言語を通じて、言語として構成される文化の秩序なのである。
また、ジュリア・クリステヴァの使用する「サンボリック」とは象徴秩序であり、「セミオテック」は記号活動であると著者は定義する。言い換えれば、人間の記号活動は「サンボリック」と記号の過程が過剰なサンスを孕んでカオスとなる「錯乱せるセミオテック」の二層からなると著者は主張する。なお、セミオテックは欲動の場でもある。またピュシスからはみ出て代替物として生み出される文化、その文化はピュシスのような必然性はなくて恣意性の上に構築されるが、構築されるやいなや、秩序として逆に恣意性の制限を持たせ、この恣意性の帰結が文化に差異的な構造を持たせるのである。簡単に言えば、まさに人間がカオスから秩序を作りあげる文化とは、恣意的・差異的・共時的構造を持つことを構造言語学から明らかにしたと著者は述べている。
こうして著者は共同体の象徴秩序に外部からのカオスの侵入、財の交換によってなされる社会構造の変化について説明する。つまり、交換体系の生成過程が線から平面として広がり、そして垂直方向に延びることになる。これは主体性を孕み全員一致で一人を殺すことで、殺された者が垂直方向に超越してしまう、この超越者が恐るべき暴力性をもって現れ出るためである。この辺りの説明は図を見ると分かり良い。贈与と禁止と侵犯が重要な概念になるのは言うまでもない。この超越者が位置を占める中心こそ交換を行うための一点に取り集めた法の場であり、言葉の秩序であり、規制するコードなのである。こうして著者は、最終的にはドゥルーズ/ガタリの原始共同体――コード化、古代専制国家――超コード化、近代資本制――(制限された)脱コード化によって社会構造を説明する。無論、貨幣についても説明する。
なお、本書のT「構造主義/ポスト構造主義のパースペクティヴ」がこうした導入概念を指し示すものならば、U「構造主義のリミットを超える」は、その展開であり、特にクラインの壺が目に引く。クラインの壺はメビウスの輪の面を円柱に変えた吸入口を持つ物である。これが貨幣を吸入し絶えず流動させるのである。なお、一人殺された者はスケーブゴートとなり下方に投げ出されて、絶対的距離を持つことで、一転して上方の位置から絶対者として見下ろしことになると再定義されている。要するに著者は近代の記号システムはクラインの壺のように変形しており、記号の流動こそが悪夢なのであるとする。この悪夢に我々はせきたてられて走り続けているのであるとする。
では、どうすれば良いのか。著者は差異化を伴う運動過程から逃れるには本来的な遊戯が必要であり、かつ外へ出て砂漠や海や山に住む必要性について述べる。最後には白石かずこの「砂族」の詩が掲載されている。この「砂族」は、私が十回以上も読んだ好きな詩集である、乾燥して黄色い砂しかない砂漠でありながら、砂漠の可能性を確信している詩集でもある。それで本書は終わる、それだけである。
以上
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2015年12月11日(金) |
題:ジル・ドゥルーズ/アンドレ・クレソン著 合田正人訳「ヒューム」を読んで |
久しぶりにドゥルーズの本を読みたいと思い、最近出版された本書を読みはじめると「観念連合」などという言葉が出てくる。何かしらの記憶があると思ったら、ドゥルーズ著「ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性」を確かに読んでいて、感想文も短いながら書いている。合田正人の解説によると、ドゥルーズには二つのヒューム論があり、今まで本書は「ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性」と同じ思想が記述されていると論者たちは思い込み、本書がヒューム論の読解を支援してくれることを軽視しているのではないかということである。ただ、本書は薄い、著者の指摘する支援がなされるかどうか疑問であるが、「ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性」を読んだことを忘れているくらいであるため分かるはずはない。
本書はドゥルーズによるヒューム論が約80頁、ヒュームの著作物からの抜粋集が約80頁、訳者による解説「ドウルーズによるヒューム」が90頁であるため、当然これはヒューム論の支援ではなくて、出版を目的として出版されたとの疑念を抱かざるを得ない。ただ、解説は少し粗削りな文章ながら、多様な知識を駆使してドゥルーズを論じており、それなりにドゥルーズの理解には役に立つはずである。でも、本書に関連した論文というより、熱い思いの走り書きの感も受ける。この解説の最後における、カフカによる正義の不断にずらされる等々の言葉を引用して、この「ずれ」は個人として分配を不平等に受けているロールズの正義の主張となり、この正義とドゥルーズの正義のトポロジーの定義が出会うか、出会いそこなう地点が、もっとも遠き者への正義の実践を告知しているとして、このドゥルーズのヒューム論を指し示すとき、なぜか、サルトルの「実存主義とはヒューマニズムである」との言葉を思い浮かべたのである。このヒューマニズムは、人間は自ら以外に立法者がないこと、かつ目的をつねに自己の外に持つことを意味しているけれども、何やら疑わしいとの思いを常々、今も抱いている。即ち、解説者の説明に理由は説明できなくとも、疑わしさが湧いてきたのである。
さて、ドゥルーズの本書によるヒューム論は第一章「ヒュームの人生」、第二章「哲学」、第三章「業績」、第四章「業績補遺」から成り立っている。何点か感想を示したい。印象と諸観念、記憶や想像力による観念、観念と観念の喚起し集合する観念連合などの哲学的定義については、「ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性」を読むほうが詳細で良い。ただ、本書は簡明な記述で分かり良いはず。「哲学」の結論として、絶対的なものはわれわれの手に届くところにはほとんどなく、蓋然性なものとその程度を認識することからのヒュームの哲学的な問いは始まるとして、その答えを、第四章「業績補遺」にて約20頁に渡り、〈芸術〉、〈道徳〉、〈宗教〉の三者の各々から論じている。ヒュームの著作物からの抜粋集は数ページの断片の寄せ集めが15項目掲載されているが良く分からない。ヒュームを一冊も読んでいないけれども、あまりヒュームの著作物は読む気がしなくなってくる。
「ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性」を読むほうが各段に良いとの思いになる。本当に本書を出版した意図が見えてこない、不可思議な本である。
以上
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2015年12月4日(金) |
レヴィナス著 熊野純彦訳「全体性と無限」を読んで |
本書は題名に引かれて読んだ本である。どうもデリダの「友愛」に似ている思想が含まれていると思って読んでいたら、熊野純彦の解説では、本書に記述されている悪の起源等をデリダに批判され、その結果、世に埋もれていた本書が見出されたとのこと。デリダはレヴィナスの思想を批判すると同時に、レヴィナスの思想を受け入れ展開したようである。レヴィナスの私と他者の考え方の出発点とその途中までは同感することができるけれども、他者の顔や他者を向かい入れる考え方にはすぐさま同感できるものではない。なお、レヴィナスはフッサールの現象学的手法を用い、ハイデガーの存在論の影響を受けながら、その批判を通じて本書を記述している、いわば存在論が根底をなして展開している哲学者である。
本書は、「序文」、第一部「〈同〉と〈他〉」、第二部「内部性とエコノミー」、第三部「顔と外部性」、第四部「顔のかなた」、そして「結論」から成り立っている。熊野純彦はレヴィナスの文章を美しいと称していたが、確かに一部には詩的なとこともあるが、デリダと同様に基本は、ぱさぱさし乾いた散文である。特に第一部では、レヴィナスは初めて読むせいか、超越、語りなど、いろんな哲学的な言葉が定義なしに使われてよく分からない。第二部以降は思想を展開し明瞭に書かれていて分かりやすいが、一部分からないところもある。長文なので少し読み飛ばしている影響もあるのかもしれない。なお、「全体性と無限」における「全体性」とは個体に対する支配概念であって、『戦争において存在が示すことになる様相を確定するのが、全体性という概念である』(上15頁)と述べている。「無限」とは「全体性」からの超越としての概念であって『他者は現前すると同時にまた到来するものであり、無限なものの次元とは他者の顔が開く次元なのである』(下101頁)この引用に基づく通りに、本書の記述内容は「全体性」を否定し、「無限」な次元を希求することになる。感想は簡単に済ませたい。
本書の「序文」における出だしが、道徳と道徳を宙づりにする戦争状態から始まるのは注意深い。レヴィナスは1906年にロシアに生まれ、ユダヤ人として悲惨な戦争を経験していることが出発点となっている。こうして結局、彼は道徳を保持するために政治を語ることの必要性を説くのである。無論、その過程に顔を持つ他者なる存在者を含めた存在論があると考えれば良いはずである。
第一部「〈同〉と〈他〉」では、形而上学的な渇望は、見知らぬ自己の外部、絶対的に他なるものへの渇望なのである。こうして他なるものを、レヴィナスは〈同〉と〈他〉の思考に基づいて、〈私〉と〈他者〉とを語りと超越の関係にて捕えて論じている。語りは〈私〉と〈他者〉とのあいだの隔たりを維持する。そして、この隔たりは個体に対する支配概念である全体性を再構成することを妨げる根本的な分離なのである。また〈他者〉は〈私〉を超越している、この超越こそが〈私〉と〈他者〉との分離を要請しているのである。なお、超越は「思考」と「内部性」によって生起する。つまり、レヴィナスは「思考」と「内部性」を存在の裂け目そのものであると述べているが、これを持つ〈私〉を起点として、初めて存在のうちに他性が生起してくるのである。言い換えれば他性が生起するために「思考」と一個の〈私〉が必要なのである。結局『超越は、私という実在から無限に隔たったひとつの実在との関係をさし示している』(上58頁)のである。こうしてレヴィナスは、存在論、感覚作用、分離と語り、真理と正義、分離と絶対的なものを論じていくのである。
第二部「内部性とエコノミー」では、社会的な関係の重要性を指摘し、生としての分離、享受と表象、〈私〉と依存、住まい、現象の世界と表出と題して述べている。第三部「顔と外部性」では、顔の顕現によって特徴づけられる感覚的な経験を主テーマに、顔と感受性、顔と倫理、倫理関係と時間について述べている。第四部「顔のかなた」では、〈愛〉の両義性、〈エロス〉の現象学、多産性、〈エロス〉における主体性、息子であることと兄弟であること、時間という無限なものと題して述べている。最後の結論の章では、渇望からの他者に向かう関係、家族、そして国家などについて論じている。重要な思想は「多産性」と「他者の向かいれ」であろう。それは〈私〉と〈他者〉が〈私たち〉となって、国家を、制度を、法を希求することである。詳細は省略。
確か、ドウルーズもミシェル・トゥルニエ作の「フライデーあるいは太平洋の冥界」を通じて、また他の著書でも他者を論じていたはずである。ドゥルーズのトゥルニエ論である「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」では『他者は知覚野の総体を条件づけている構造なのであり、知覚野の総体の機能である。他者こそが前述の知覚野における諸カテゴリーの構成と適用を可能にしているのだ。知覚を可能にしているのは<私>ではなく構造としての他者なのである。・・ところで、しかし、その構造は如何なるものか? 可能的な世界、これである。・・他者とはそれ自身に内包された可能的世界の存在である』そうして『客体―対象は他者がそれによって世界を満たしている可能的現実にのみ存在する。他者によって表現される可能的世界の機能においてのみ客体は自身の内に閉じ、あるいは他の客体へと開かれるのである』更に『要するに他者とは、可能的世界をたっぷりと内包しながら、それら[天空的]分身の直立を阻止するものなのだった』と他者について述べている。なお、ドゥルーズの趣旨は他者の否定にあるのではなくて、知覚野の構造を明らかにして、この世界を直立させることにある。
本書ではドゥルーズのような考えはない。ドゥルーズが批判している主体と客体の関係に捕えていると見受けられる。そうして『〈他者〉を迎え入れるものとして、他者を迎え入れることとして主体性を提示することになるだろう』(上26頁)と述べている。なお、ドウルーズとレヴィナスの他者論を論じるには準備不足で機会があれば行いたい。また、レヴィナスの若き日の著書「実存から実存者へ」は既に読んでいるが、文章も内容も良い。存在が悪性を抱えていないかとの問いが初めにきて、存在を論じている。この存在論はハイデカーやサルトルを凌いでいると私には思われる。まだ十分に消化しきれていないけれども、機会があれば簡単に紹介したい。
以上
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2015年11月27日(金) |
内田樹 釈徹宗著 「日本霊性論」を読んで |
読むつもりはなかったが、ぱらぱら捲っているとなぜか気になって結局読んだ本である。日本における霊性ということが主題になっていたためと思われる。新書版であり、簡単に書かれていて読み易い。本書は内田樹と釈徹宋のそれぞれの講演内容である。第一部が内田樹の「なぜ霊性を呼び覚まさなければならないか」、第二部が釈徹宋の「日本的霊性と現代のスピリチュアリティ」であり、最後に両者の対談が乗っている。内田樹はレヴィナスの研究者ということで、ちょうどレヴィナスの「全体性と無限」を読んでいる途中であった点も本書を読んだ理由に入るであろう。
第一部の「なぜ霊性を呼び覚まさなければならないか」では、無意識のうちに察知・直観する能力の大切さが述べられている。人間の知性は常に運動しているのである。「心」の発明が人間の感情や概念を増やし、そして「心」は「言葉」に変換され集団生活を可能にする。ただ、人間の生きられる領域と生きられない領域があり、この領域の境界線を五つの人間的制度が切り分け、共同的に生きることを可能にするのである、これらを具体的な社会生活を四つの例をあげて論じている。詳細は本書を参照のこと。これら人間的な社会生活が現在攻撃に晒されていて、非人間的なものが侵入してくるために、つまりドアを開ける「内通者」を阻止するために「歩哨」が必要であるとする。なお、ドアを開けるには七つの大罪がある。人間は歩くことができ、そして私宛のメッセージに応えて生きれば道はできるとする。到来する者へ空席を設けて置く、つまり歩くことは可傷性を含んでおりこれを経験することのできる空席、空席とは霊的な空白であると述べている点に一番感心する。どうも霊性とは察知・直観する能力のようである。
第二部の「日本的霊性と現代のスピリチュアリティ」では、鈴木大拙の「日本霊性」を論じている。「霊性」とは精神や心とは異なる、「日本的霊性」は鎌倉時代に目覚めた高次の宗教意識、即ち道をきわめたところで光放つものなのである。これは政治や社会的大きな変動がなければ生じないのであり、通常のもはや制度化された宗教とは異なったものである。このように霊性に関して五つのポイントをあげている。一つ重要な点は「霊性は受動的である」点である。仏教の他力の教えに、絶対的他力の世界に大拙は日本的霊性への覚醒が生じたのであり、インドから続く仏教とは関係は希薄であるとする。こうして、釈徹宗は現代の、人類のスピリチュアリティへと死生観や宗教を通じて話を進めていく。また、「日本的霊性」や「現代のスピリチュアリティ」を比較などして、「現代のスピリチュアリティ」を図示している。詳細は本書参照のこと。そして、「現代の霊性論」として伝統宗教を学び、知恵を聞き取ること、他の領域例えば芸能や音楽などとクロスする領域へと足を踏み入れることの大切さを強調するのである。
こうして読んでみると「日本的霊性」とは雰囲気としては良く分かるけれど、どうしても頭に残らない。本書の目的は「日本的霊性」論の簡明な導入本として目的を有しているのであり、それならば本書の目的は達していると思われる。なお、この感想文は何か月前に書いたものであり、鈴木大拙の「日本的霊性」は既に読んでいる。無論、柳田国男の「先祖の話」も読んでいる。私は柳田国男の先祖の霊の話の方が、日本に残っている正月と盆における迎魂や鎮霊の話の方が好きである。
以上
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2015年11月20日(金) |
題:ジュリアン・グラック作 安藤元雄訳 「アルゴールの城にて」を読んで |
本書は白水Uブックスの「ヘリオガバス」に紹介されていたシュールリアリズム系の本のうち唯一読んでいない本である。訳者なる安藤元雄とは懐かしい、別人でなければ詩人である。彼の詩の一つを、感動した詩を懐かしく思い出す。ただ、この本は読んでも良く分からない、分からないのにはいくつか理由があって、唯一この本を記述した目的である。グラックはなぜこういう文章と内容の本を書いたのか。なお、本書はシュールリアリズムの大家アンドレ・ブルドンに見出され、やっと日の当たる場所に立ち現われてきたらしい。ただ、柔らかく透明な肌のように美しい文章で描いたこの本はとても良いことは確かである。
簡単に筋を紹介する。アルゴールの城の城主の所へ嘗ての友人が女を伴って訪れて来る。友人は女と関係性を持っておらずに、城主も友人も女に恋い焦がれる。女も城主に引かれているようだ、ただ友人は女と無理に関係を結び、女はその理由のためか死を選ぶ。友人は死ぬことはしない、城主に別れを告げて城を去るのである。ただ、本書の簡単な筋はどうでもよくて、本書の表紙に書かれている簡潔な本書の内容紹介文が、この小説のたぶん意味する所を考えさせるのである。『舞台は海と広大な森を控えてそびえ立つ古城。登場人物は男2人と女1人。何かが起こりそうな予感と暗示――。練りに練った文章で、比喩と比喩を積み重ね、重層的なイメージを精妙な和音や不意打ちの不協和音のように響かせる』つまり、比喩に満ちた文章が何を表そうとしているかが、問題なのである。
安藤元雄による「解説」では、倉橋由美子が能と同じ構造を持っているとして本書を溺愛しているとのこと。つまり能と同じように日常ではない別の世界にて起こること、到着することから始まるためと理由を付加しているが、そうとは思われない。能とはこの現実から抽出した情念や義憤などの濃縮した現実そのものであって、別の世界であるわけではない。決定的に異なるのは、能ではまず初めに到来する登場人物の正体や、関係性が明示される。だが、本書では関係性は何ひとつ明示されない。友人と女とは何者なのか、そうして城主も明示されない。ただ、本書が比喩に満ちているように、能のテクストも比喩に満ちた文章であるのは確かであり印象的なことである。けれども能のテクストの明示する比喩と本書の打ち消し響き合う比喩とでは異なる。テクストではなくて、能を演じている舞台全体を重層化した比喩と言えないこともないが、そうすると本書と確かに相通じるところがあるのかもしれないけれども、これを論じることは子細に調べなければならず、難し過ぎるために省略する。
また、安藤元雄による「解説」では、ロートレアモンの「マルドロールの歌」以外には思い至らない、想像力の剥き出しにされた作品であるとのこと。そして宿命の避けがたい必然のもたらす緊張に満ちた、異様に澄み切った物語であり、自然のたたずまいと人間の営みの間が最短距離で往復する直喩で示されていること。即ち宿命のドラマを書法それ自体によって表現することこそが、グラックがこの作品を書いた狙いではないだろうかと述べている。ただ、私には少し異なっていると思われ、もっと別の狙いがあるはずである。つまりグラックは自然のたたずまいや人間の営みを確かに描いてはいるが、この世界における「人間の存在様態の形式」をこうした文章と筋にて示したかったと思われる。
この「存在様態の形式」を記述すれば長くなるので、簡単にグラックの狙いと思われる所を本文から引用したい。『彼をとりまくこの世界が、その幻想的に定着した存在様態のうちに支えられているのは、実はそれを奇蹟的に虚無の上に維持している何か思いもよらない力がその限界に近いところまで張りつめているからにほかならないということ、そしてこの危うい外見は、それが安定していること自体が魂にとっては恐怖の実体のすべてをなしているのだが、ほんのわずかでも力のゆるみがあればたちまち目の前でばらばらになって飛び散ってしまうに違いないこと』なのである。(120頁)「宿命」という言葉がこの存在様態の形式を示しているのであれば、きっと安藤元雄による「解説」と同じ意見になるはずである。いずれにせよ一冊だけ読んでもジュリアン・グラックの狙いは良く分からない。なお、ロートレアモンの「マルドロールの歌」の剥き出しにされた想像力が本書と関連するかどうかも良く分からない。なぜなら、「マルドロールの歌」は感情・感性含んだ想像力が確かに剥き出しにしているが、「アルゴールの城にて」では風景を媒介にした間接的な剥き出しであって、感情・感性は半透明とも言え、想像力は隠され気味に抑制された表現であると思われるのである。無論、想像力とは何かの定義にもよるが・・。きっと本書で剥き出しにされているのは想像力ではないはずであり、存在様態の形式の概念である。
以上
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2015年11月13日(金) |
題:上田閑照編 「西田幾多郎随筆集」を読んで |
西田幾多郎の著作物は一冊も読んだことはない。ただ、他者の書いた「西田幾多郎論」などを読んで思想的な内容は少しばかり知っている。本書を読もうと決めたのは思想的な内容を知ろうとしたためではない、何冊か仕入れた随筆集の中で一番寂しそうだったためである。確かに寂しく悲しいことが多い。文章は簡明である。上田閑照の解説によると、西田幾多郎の著作物の難解さに背反するように、西田幾多郎の自己が簡明さを伴って現れ出ていると言う、著作物の難解さが逆に簡明な文章を選択させたのかもしれない。こういう文章は好きである。
本書は七つの章からなる。「思い出」、「追憶と追悼」、「思想」、「随筆」、「歌と詩」、「日記抄」、「書簡集」からなる。なお、「序」があり、かの有名な『回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして座した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたといえば、それで尽きるのである』との文章がある。言い得て妙に実感がこもっている。この文の明快さが寂しさを打ち消して充実した人生を思い起こさせる、というより人生は言葉で表せば単純なものであるに違いない。「思い出」では四高や舎監を請け負ったときのことなどが語られている。「追憶と追悼」では、先生や友人に家族のことが語られている。
「思想」では、プラトンのイデアやベルグソンの純粋持続、数学者アーベル、ダーウィンのことなどが語られている。個物と一般との関係、歴史的世界の構造を深く論じることの必要性を強調している。真に理性的なものは歴史の発展から現れ出て来るものでなければならない、最も直接な具体的世界である日常性の世界が歴史的実在の世界であると述べている。つまり、具体的実在の論理的構造は如何なるものかを考慮して、「具体的論理の一般者」は主客の世界を包むものでなければならないと主張している。なるほど「具体的論理の一般者」とは難しいことばであり、彼の著作物はこうした言葉を用いていると思われる。ただ、単純に考えれば実在する人間のこの世界に在る在り方とも言えるのであり、存在論の一種と考えてばそれなりに理解できるのかもしれない。
「随筆」では固有の西洋人や日本人、震災、読書、及びその内容、吾妻鏡、国語、数学など多様な方面について語っている。日本人の物の見方考え方の特色は、現実の中に無限を掴む、にあるとの言い方が気に掛かる。「歌と詩」では、短歌や訳詩が紹介されている。「日記抄」では、「参禅日記」、「折々の日記」、「敗戦日記」の三つがる。簡潔な記述を基本とするが、「敗戦日記」には長いものもある。彼は政府内の知人などを通じて戦争の状況を知っていたようである。終戦直前に西田幾多郎はこの世を去るが、過酷な渦中に在る日本を危惧していたようである。ただ、確か軍政府なる要人の素原稿を書くなどしていたことを、どこかで読んだと記憶している。このことが、西田幾多郎への戦後批判に繋がっているのかもしれない。詳細は不明であるが、西田幾多郎は彼の思想を行政実務に反映させようとしたとも思われる。
「書簡集」では親の気持ちが良く現れている。彼の周りではよく人が死んでいる。でも七人の内四人も死んだ子供がいる以外は、当時としては普通の生活であると思われる。妻が死んで約五年後に、後妻を貰っている。その歌が若々しい恋の心を歌っている。この歌なのか、最後に短歌を一首紹介したい。寂しさはない、懐疑的であるが確定しようとすることに希望を込め、明るさに満ちた心がある。素直な表現で良い歌だと思う。
春や来し春来たるらし鶯の来鳴くあしたは心ときめく
以上
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2015年11月6日(金) |
題:H・ガスター著 矢島文夫訳「世界最古の物語」を読んで |
本書はバビロニア、ハッティ(ヒッタイト)、カナアンの地、四千年(紀元前二千年)も昔の近東の地において語られていた物語の一部を掲載している。これはギリシア神話の紀元前千五百年、ホメーロスの紀元前九世紀頃イーリアス、オデュッセイアに対しても古い。また、古代インド神話、エジプト神話、また北欧神話などに比較しても古いはずである。基本は口承伝説であるとしながらも、粘土板に描かれているらしい。なお、本書はH・ガスターが文字を解読し、欠けている部分の物語を補い、物語の全体の紹介と共にそれぞれの物語の解説も行っている。バビロニアの物語が5作品、ハッティの物語が5作品、カナアンの物語が5作品ある。
バビロニアの物語では「ギルガメシュの冒険」に記されている、ギルガメシュとエニドゥとの闘い、友情の話が印象深い。無論、ギルガメシュ叙事詩として語られていて、矢島文夫訳「ギルガメシュ叙事詩」を眺めると、事細かに記されている。訳文もとても良い。こちらを読むほうがより素敵な文学作品で感嘆することができる。本書では物語として書かれているが、「ギルガメシュ叙事詩」では叙事詩形式であり迫力がある。「逃した幸運」では智恵の神エアが、人間のままで神のように賢い生きものアダバを作り争うが、結局は許し地上の永遠の王として何人にも犯されないようにする話が関心を引く。
ハッティの物語においては「石の怪物」にて、アラルの神へ大臣アヌが反旗し王位につき、またアヌに対するクルナビの謀反が起こる。なお、九年ごとに王位の入れ替わる制度である。クルナビはアヌの精子を飲み込み、アヌが出て来るように要求すると、風の精や欲望の神などが生まれ出るのである。また、クルナビは自らの精子を山に注ぎ込み、山に石でできた赤子を生ませるのである。この石からできた子が次々と事件を起こす。こうして多数の神が生まれることなど、日本の神話を思い起こさせる。
カナアンの物語が一番神話物語としてまとまっている。「天の弓」では子のない王ダニエルに神エルが子を授ける。この子アクハトが成長し戦争と狩の女神アナトの弓と矢を手に入れる。女神アナトは弓と矢を取り戻そうとし、神エルを脅してアクアトに数々の災難を生じさせる。ただ彼女はアクアトに恋をしているのである。行き違いがあってダニエルは悪者に殺されて死に、アクアトの姉パグタンはこの悪者に仕返しをするのである。物語は未完。
各国の神話を読んでいて共通性、類似性や背反性などを指摘できれば良いのであるが、とても無理なことである。やはりギリシア神話よりもより神と人間がより共存している。また、物語として簡潔性や純粋性がある。地図を見るとアッシリアなる文化地域もあり、言語も同一な地域と異なった地域とがある。こうした地域においても、神話が口頭伝承され粘土板にも記述されているとのこと。人間は自らの起源の物語を必要とすると同時に、声として語られ楽しませてくれる物語を必要としていたらしい。最後に、中近東の地は複雑で少しばかり本を読んだ位では分からないものであるらしい。それにしても、神話はどの国においても似通った物語を持つものである。
以上
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2015年10月30日(金) |
題:アリストテレス著 高田三郎訳「ニコマコス倫理学」を読んで |
アリストテレスによる倫理学を息子のニコマコスらが編集したのが「ニコマコス倫理学」である。他にエウデモスの編集による「エウデモス倫理学」や「大倫理学」なるものがある。無論、紀元前四世紀に活躍したアリストテレスの講義、手稿をそれぞれ整理しまとめたものである。アリストテレスによる倫理学は、今日においても倫理学の祖としての位置づけを成されている。無論、プラトンと比較されるが、高田三郎の解説によると、プラトンの「善のイデア」にアリストテレスは反駁する。解説では『「国家」篇におけるプラトンは、善のイデアの認識ということは真の政治家の育成の最も究極的な段階を見ている』のであるが、『アリストテレスが、政治学の出発点として求められる「善」とは、人間的な善、人間にとって実現の期待しうる最高の善、人間の万般の営みにおいてその判断の準尺となり、政治家にとって人生における目標とみなされるべき最高の善にほかならない』のである。『こうした意味での善・最高善とは何か、という設問からアリストテレスは出発するのである』即ちプラトンでは「善のイデア」が万物の根源とされているためである。なお、プラトンの有名な洞窟の比喩や数学との「善」との関係については、本書などを参考のこと。また、『 』は引用文である。
それにしても多くの哲学者が「倫理」や「善」や「道徳」について語っているが、整理しないと良く分からなくなる。それはそれとして、本書の内容を簡単に紹介したい。目次が一番分かりやすい。
第一巻 序説 幸福
第二巻 倫理的な卓越性(徳)についての概説
第三巻 第二巻のつづき 倫理的な卓越性(徳)についての各論 勇敢 節制
第四巻 (財貨に対する徳) (名誉に関する徳) (怒りに関する徳) (徳に似て非なるもの)
第五巻 正義
第六巻 知性的な卓越性(徳)
第七巻 抑制と無節制 快楽
第八巻 愛(フィリア)
第九巻 第八巻のつづき
第十巻 快楽―B稿― 結び
本書は「善」の話から始まる。この善は自らの卓越性(徳)のゆえに与えられるのを求めるのであり、そして、われわれの達成される最上の善であると誰もが一致する幸福とは、卓越性に即しての魂の活動なのである。こうして卓越性は「知性的卓越性(徳)」と「倫理的卓越性(徳)」の二つに区分される。この徳は生じることも失われることもある。即ち社会的な交渉における諸般の行為に、行動の仕方の相違によって人間のもろもろの「状態」が異なってくるためである。なお、魂においてうまれるのは、情念、能力、状態であって、徳はこれらの状態であるとする。如何なる性質の状態であるとしても、過超と不足と均(中)からなる。悪徳にも過超と不足があるが、徳は(中)を目指すものであり中庸なのである。なお、状態は思量に基づき随意的に選択できるとして、願望、勇敢、節制、正義、などなどの意味するところのものについてアリストテレスは多弁に論じていくのである。ただ、基本は過超と不足の中にある中庸であり、かつ、人間は幸福を求める、良く生きることだとし、逆に幸福であるためには究極的な卓越性(徳)が必要であり、幸福は魂の活動としている。こう記述してもなぜか堂々巡りをして分かりにくいため、「善」、「卓越性(徳)」、「状態」、「中庸」などの関係図を簡単に作成して読むと、だいぶ分かり良くなる。なお、記述しなかったが「選択」と「知恵」を加えるとさらに分かり良い。なお、本書を読みこなすのはとても難しく、一度簡単な紹介本を読んだ方が良いと思われる。
分かりにくいため簡単に言い換えれば、「善」は人間が求める目的であるが、この目的は幸福を得ることである。そして、この幸福は徳によってもたらされる「魂の活動」なのである。この魂においてうまれるのは情念、能力、状態であって、徳はこれらの状態であるとする。言い換えれば、情念や理性の状態による魂の活動が、即ち徳が幸福をもたらすのである。こうした筋書きにて、それぞれの言葉の定義を行い、範囲を広げながら、悪徳も含んでアリストテレスは論じている。なお、超過と不足に基づいた中庸という考え方が重要であると思われる。
本書において注意すべき点は他者との関連も含んだ存在論、更に国家や法についても「善」と関連させて少なからず論じていることである。そう言えば思い出すのが、スピノザの「エチカ」である。そしてスピノザも倫理から始まって国家・政治を論じている。それにしても、本書「ニコマコス倫理学」を読んで、きっと人間そのものを理解しようとする、その人間の生きざまや目的を探求しようとする、この対象への根本的な深い関心がある。そして、最後には人間は行動し成すことによって徳を得ることのできる存在であるとの強い思いが、アリストテレスの根底の思想として響いてくるのである。無論、不徳を得る可能性もあるが、人間は善であることできると信じている思想を読むと安堵するのである。なお、カントの「道徳形而上学言論」も倫理学を平易に論じていたはずである。スピノザやカントの思想がどのようにアリストテレスの思想から影響を受けたのか、比較検討するのも面白いと思われる。無論、難しいことではあるが・・。
以上
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2015年10月23日(金) |
題:ベルナール・ノエル著 生田耕作訳「聖餐城」を読んで |
この小説はたぶん良い、でも良い小説とはどういうものか少し考えらせた。なぜなら、この小説は良いのではなくて、ある種の消化不良を起こしている単なる佳作な作品とも思ったからである。良い小説とは理由などなく圧倒的に感動させる、いつまでも心に残っている、もう一度読んでみたい、などの思いを抱かせるはずなのに、この小説はきっともう読むことはないであろうし、著者の他の作品も読むことも無いに違いない。それだけの今回限りの作品とも思われて、判断がつかないのである。というより、著者の狙いは表現されているとも、その狙いの先が描かれていない作品なのである。無論、きっと現代に記述されている小説の質は圧倒的に凌駕していると思われる。
ここで本書の横帯に描いてある文章を引用したい。『愛と言葉と肉体の錬金術 鼻 をきわめる秘儀のなかでの肉体を八つ裂きにする錯乱をとおして、肉体=言語のテーマを詩的高揚感にあふれる文体で苛烈に追究』と、本書の内容を端的に言い表している。文章は詩的であって、落ち着いていて、精神など無視して、肉体の突き抜けていく表現の様式は凛々しくも美しい。簡単に本書の内容を紹介したい。
私は月の照らす夜に原住民の儀式に参加する。月とはダイアナの透明な微笑とヘテカの黒い哄笑との性格を持つ象徴であり、この儀式にて生娘エンマを与えられる。これは月の微笑と哄笑の二つの性格を持つ、素裸にて現れた美しい女モナの指示でもある。エンマとの愛義にふけりながらも、私はモナに会うべく孤島の城へと出かける。黒人と犬との強烈かつ猥雑な錯乱に満ちた性的交感の関門を幾度となく擦り抜けて、とうとうモナに会い愛義に肉体を酷使する。欲望が渦を巻いて肉体はもはや手段であり素材となる。現実は行為の内に使い果たされ空虚となる。こうしてモナはオーラへ、そしてオーリリマへと移り変わっていく。私という瞬間を思い出にするためである。こうして私は結晶へと純化する。最後にエマのから移り変わったオーラは「肉体を汚すものは精神です」と言うのである。
訳者によるあとがきを見ると、著者は各種の作家の作品から文章を引用しているとのことであるが、バタイユが一番多いらしい。そういえば「眼球」、「肛門」などバタイユの使用する言葉が頻繁に使用されている。また、文章を引用している作家や詩人にはシュールリアリズム系が多い。この「聖餐城」なる作品は系列的にはこの近辺にあり、その中でも秀逸な作品と言えるのだろう、強烈な散文詩なる作品として読んでも良いかもしれない。ただ、崇高な作品になるにはまだ何かが欠けている。それは崇高でかつ透明な精神のほんのちょっとした量であるというより、質を伴わせた文章の記述量そのものなのかもしれない。
以上
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2016年10月16日(金) |
題:ガストン・パシュラール著 岩村行雄訳「空間の詩学」を読んで |
本書は表題のごとく詩について論じたものである。それも、意識が生み出すイメージを物質的想像力と捕え現象学的考察により詩の成り立ちを解き明かそうとしたものである。訳者による解説によると、ガストン・パシュラールは科学哲学者である。彼は科学の分析を通じて主観的な要素の重大さに驚かされ主観と客観の区別を行い、精神的分析的方法によってまず認識から主観のヴェールを剥ぎ取ることになる。この最初の著書が「火の精神分析」である。ただ、こうして客観性を追求し純粋な認識を求めていた著者に、客観性を鈍化させていくと主観性が光を放ち純粋なすがたをあらわしてくる、この驚嘆が著者を想像力の研究に向かわせたのではないかと訳者は述べている。即ち主観性の過剰なほどの充溢が人間の想像力なのである。
こうして著者は夢想を分析した「ロートレアモン」、想像力の研究「水と夢」を著作することになる。これらの著作物の中にパシュラールは形式、色彩、多様性、変身など傾向を持つ「形式的想像力」に対して濃密さや運動や発芽を内包している「物質的想像力」なる概念を導入する。物質想像力は形式が質量のうちに深く沈んでいるような胚種を自然の内に、わらわれのうちに生み出してくるのである。即ち、物質は形式から超然としていられる原理であり、個の観念が形式の観念に結びつくのとは異なって、いかに分割されても一つの全体とする深部の個性が存在するのである。物質はその深化の方向では深淵であり神秘であり、飛翔の方向では尽きざる力のように見える。こうしてパシュラールは物質的想像力を更に探究して、想像力の現象学的考察へと道を切り開いていくのである。なお、こうした訳者の解説は本書の巻末に詳述されているので、もっと詳しく知りたければそちらを読んでもらいたい。
本書は十章からなる。初めはぱさぱさした文章が気に掛かり、また論理性も危ういために眺めるくらいで良いが、半ば過ぎから密度のある論理性も十分に深度を深めた文章になる。この十章は主に空間を切り取って取り出したものであり、「小屋」、「家」、「戸棚や引き出し」、「巣」、「貝殻」、「片隅」、「ミニチュアール」、「内密の無限性」、「外部と内部の無限性」、「円の現象学」からなる。結構ベルグソンを批判しているが、彼がベルグソン哲学「物質と記憶」などの影響を受けているために他ならない。パシュラールとベルグソンのイメージの概念の相違は、パシュラールは『イメージを日常的な意味をになった存在から離脱し現実にいきられぬもの、即ち生きることを求めものを告知するモメントがイメージ』(訳者解説から引用)であり、これを一つの実在と取り扱っているのに対して、ベルグソンにとってのイメージは、「物質をイマージュとして知覚し、身体に運動を引き寄せるのである。知覚と不可分な記憶は過去を現在に差し込み、もしくは想起されて現在の知覚に加わるイマージュである」である。即ち、パシュラールにおいてイメージは日常的な形式から超然として生きることを求めるモメントであり一つの実在となるのに対して、ベルグソンは知覚される物質がイメージなのである。なお、これ以上、彼らの相違は追及しない。
本書におけるそれぞれの章を説明したいが長くなるので、気の付いた点のみ記述したい。なお、パシュラールは「小屋」、「家」などの空間は、これらの空間の生み出すイメージに基づき詩を引用して論述している。なお、「内密の無限性」から文書の格調が高くなってくる。この章ではボードレールについて、発音される一つのことばの力の観点から論述している。内密の空間と外部空間との呼応、感情空間における一つの空間の発見、内密の空間の膨張、内密の空間と世界空間のそれぞれの「無限性」が調和によって接触、融合する時の実存との一致などについて、パシュラールは高揚とした文章にて語っている。なお、無限性はわれわれのうちにある存在の膨張と結びついている。また、森、潜水と砂漠などのイメージは存在の奥に足を運ばせるのである。ただ、人間存在の表面の敏感な領域では、存在するまえにすくなくとも自己に向かって語らなければならない。ことばが世界の現象を支配し通暁しており、この存在の表面を走る言語は意味によって閉じ、詩的表現によってひらくためである、とパシュラールは述べているが、こうした論述の詳細については長くなるので省略したい。
最後に、本書にて引用されている詩の中から一つ詩を紹介したい。本書の一番最後に記載されている、本書の中でも格調の高い詩の一つであり、リルケに影響を与えたと思われるミシュレの詩である。パシュラールは宇宙性の円のイメージを捕え、円の存在はその円を伝搬させ、一切の円の静けさを伝搬させると述べている。
それにもかかわらず まるい鳥の叫び声は/ それをうんだ この瞬間に/ 枯れた森の空のように ひろびろとやすらう/ 一切のものが 従順に この叫び声のなかにすべりこみ/風景全体が 音もなく そのなかに身をよこたえているようだ
以上
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2015年10月9日(金) |
題:山田詠美著 「賢者の愛」を読んで |
現代小説は殆ど読まないのに、久しぶりに期待して読んだ本である。結論から言うとこの期待は外れたと言う以外にない。本書の存在は半年以上前に新聞に掲載された記事により知る。山田詠美自身が谷崎純一郎の「痴人の愛」に飽き足らずに、新しい境地の小説を描きたいと述べている。それが見事に裏切られた、残念である。「痴人の愛」には幾分冗長さと単純さがあり、短所とも長所でもあり得るこの冗長さと単純さの説明は省くが、山田詠美はそれを乗り越える作品を目指していたはずである。新聞ではそう述べていたと記憶している。それが、「痴人の愛」とは比較にならない、まったく平凡な作品になっている。と言うより、彼女のこの作品はなぜ描かなければならなかったのか、まったくもって分からないのである。
山田詠美は確か「ベットイズタイム」でデビューしたはずである。短い作品でありながら行間に含みがあり味わい深かったと記憶している。その後、何作品か読んだが、心理的描写を少なくしたヌーボーロマン的な作風は結構心地よかった。ただ、同系統の作品を書き続けていてすっかり読まなくなる。彼女の良さは行間の深さにある、その深さに深度が少しも加わらなくいためである。そして、何十年か振りにこの「賢者の愛」なる作品を読むことによって、彼女の小説がありきたりの作風へと変化していることが良く分かった。即ち、彼女は筋と心理描写にこだわるあまりに行間に漂う自らの長所を破壊してしまったのである。無論、彼女にとって良かれと思ったことでもあるか、この手法以外に書くことができなかったためかは知らない。でも、結果は無残に知らしめている、長年著述業を行っていると枯渇してくるのである。精神以上に記述内容が、押し込めるべき文体への深度を失って浅瀬に乗り上げ座礁して、どこへも動きが取れなくなりただ書いていだけとなる。彼女もそうした状況に陥っている。
簡単に本書の筋を紹介したい。主人公の女は父の嘗ての書生に恋い焦がれていたが、友人に奪われたのである。この男はもはや小説の大家なっている。そして友人が産んだ子供を直巳(ナオミ:「痴人の愛」に登場する女と同名でありながら男)を年齢差にも拘わらず憎しみから調教して楽しむ。そして男とも最後には一夜を共にする。一方友人はずっと以前から父とも関係していたのである。こうして、相互に侵犯し共有していた主人公と友人は、ついに友人の突進させる車に乗り合わせる。この結末がどうなるかは、あまり期待せずに本書を読んでもらいたい。本書のこうした筋は、結末以外は読み始めるとすぐに分かってしまう単純なものである。
著者の作風の変化は述べた通りであるが、本書の欠点を簡単に述べたい。まず、1)谷崎純一郎の「痴人の愛」が語られていて、それに則った作品であることが明確に述べられていることである。新聞に「痴人の愛」を超えたいと記述されてことが記憶違いであって、彼女は「痴人の愛」を種に小説作品を作り上げたのである。2)人間がたくさん出てきて筋が複雑である。先に述べた「冗長さと単純さ」の議論はできない、本作品ではそれぞれの登場人物の関係を小出しに切り張りすることによって中身を薄くさせている。つまり、著者の構想した入り組んだ筋書き通りに描かれれば、小説が深度を増すことなどない、関係性の表層のみが描かれているとの印象を持つのである。例えば友人の子をなぜ調教しなければならないのか理解できない、憎しみの実感が伴わないのである。3) 時々時系列を反転させるが、例えば男に恋した少女時代、友人と父との関係などは、小説としての深みを増す意図と思われるが、既に筋は知らされていて、もはや余分な記述となっている。ただ、こうした筋でも良いのであるが、納得させるだけの表現力を持った文章が必要なのである。
4)メタフォーに良いものもあるが悪いものもある。つまり、メタフォーや単語に、通常の作家なら書かないはずの俗語が混じっている。谷崎には無かったと記憶している。これは各人の文章や文字に関する感覚というより作家としての倫理観の違いであるのかもしれない。5)本書の「小説のために・・」(155頁)の文章の内容は省略するが、著者自身のことを著者が真逆に書いているのか良く分からない。こうした文章はいらない。6)「賢者の愛・・」(244頁)の定義も書いているが、これもいらない。つまらないのである。「痴人の愛」の真逆の作品にしたいのであれば、「智人の愛」や「狂人の愛」、「愚人の愛」などの作品名の方が良い。もっとも題名が変わると内容も大幅に変わる。つまり、結論を述べると、本作品はすべてが中途半端なのである。ドロドロとした昼メロのような内容をさらりと描いて、その背後の深度に迫ることはない。ただ、突進させる友人の車に乗り合わせたのは緊迫感がある。でも結末は要らない。
「痴人の愛」で主人公は最後にナオミに隷属することによって幸福に至るが、本書で主人公は何に至るのであろうか。結末に拘わらず絶望であるに違いない。それは、主人公ばかりではない、著者も含んだ書き上げた小説作品の質に対する絶望に他ならない。
以上
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2015年10月2日(金) |
題:アラゴン著 小島輝正訳 「アニセ またはパノラマ」を読んで |
アラゴンの作品では「イレーヌ」を読んでいて、良かったと記憶している。確か感想文も書いているはずである。ただ、本書は結論から述べると、最初は面白そうでありながら、後半は少しだれてくる。簡単に言えば、シュールリアリズムの初期作品として、現実を荒唐無稽に戯画化して記述している印象のみが残って、結局は思い出さなくなるに違いない。小説としての構成や筋書きは意外にも正統的にしっかりしているけれども、表現としての文体の粗さや場面設定とその移行が強引すぎるのである。ただ、一つ一つの文章には結構詩的な味わい深いものもある。なお、小島輝正の解説では、パリ・ダダイズムに合流していたアラゴンの二十三歳での最初の出版作品であるとのこと。それに登場人物にモデルが居るとのこと。なお、アニセとはアラゴン自身である。少しばかり内容を紹介したい。
最初の文章で『アニセが中等教育で覚えていたのは、三一致の法則と、時間・空間の相対性とだけであった』と記されていて関心を引き寄せられる。なお、「三一致の法則」とは演劇における「時の単一」「場の単一」「筋の単一」を示すらしい。そう言えば、本書では確か演劇が述べられていて、本書の内容も演劇風に取れないこともない。こうしたアニセがミラベルの虜になるが、このミラベルには七人の取り巻きがおり、その内の六人にはモデルがいるとのこと。ジャン・コクトー、アンドレ・ブルドン、チャーリー・チャップリン、アルフレッド・ジャリ、ピカソ、マックス・ジャコブであるとのこと。こうして謎の女ミラベルと取り巻きにアニセも加わり七人となって話が展開する。なお、ミラベルは彼女の気を引く芸術などを見せないと姿を現さない。こうして正体を現したミラベルはブルドンと対決する。ミラベルの正体とは当然高級娼婦である。そして、最後に確かアニセは人殺しを行い裁判にかけられる。
なお、本書は哲学風な文章もあり、詩論も含んで芸術論などが盛んに記述されている。ただ、ダダの影響か、肯定的でありかつ否定的懐疑的であり、破壊的である。小島輝正の解説では、アラゴンは軍医捕として第一次世界大戦に参加していたとのこと。そう言えば思い出すのが、戦争に衛生兵として参加し狂気に陥ったゲオルク・トラークルである。彼の詩は好きであり、詩集を買おうと思っているけれども、いまだに買っていない。トラークルがアラゴンのように機知に富み、精神風土を含めてこの現実をパノラマに眺めることができれば、自殺することはなかったに違いない。人は気質が異なっている。人はそれぞれに行動に移行させる根幹において異なっているのである。第一次、第二次世界大戦、そして戦後のフランス文学を眺望したいが、それには相当量の小説を中心にして、哲学書などを読みこなさなければならない、とても無理な話でもある。
以上
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2015年9月25日(金) |
題:アポリネール著 窪田般彌訳「虐殺された詩人」 飯島耕一訳「アポリネール詩集」を読んで |
アポリネールは詩人である、詩集は持っているけれど、彼の書いた詩の記憶は無い、きっと読んでいない。彼の小説「虐殺された詩人」は初めて知る。どうもシュールリアリズム系の小説であるらしい。それで、アポリネールなる人がどういう詩や小説を書くか確かめたかったし、またシュールな小説に関心を持って読んでみた本である。なお、アポリネールはアンドレ・ブルトンとも知り合いであり、ブルドンより先に生まれているらしい。
結論から先に言うと、彼の詩は愛を讃える詩である。恋愛に焦がれる詩である。言葉は流れるように美しく恋愛の心痛な面持ちを書いている。美しい文体は光に満ち風のように流れて、去って行こうとする愛を押しとどめようと、必死になって心の底から歌い上げている。ただ、それだけであって、それ以外の何ものでもない。どうりで読んでいないはずである。昔なら、数ページで読み終えたところを、詩集「アルコール」は半分を読んだけれども、またしても記憶に留めることができないに違いない。彼はボードレールに近代精神を見出しながら、批評し嫌厭する。彼は内なる贖罪のモラルに苦しむ、デカダンに近い詩を却下し、新たに恋愛の内に自然の光に満ちた風景や心境を時にはエロチックを含み書いているのである。
アポリネールの詩に比べ、小説は確かにシュールリアリズムの先駆とも言われても良い、現実を超えた現実の不合理な一面を諧謔や軽妙さや悲哀に洒落を含んで描いていて、結構読める。ただ、もはや遠い記憶でしかないが、ブルドンの小説の方がシュールリアリズム系の小説としては本家と思われる。なお、「虐殺された詩人」は十六の短編から成り立っているけれど、「虐殺された詩人」の一遍のみが半分の量を占めている。どうもこの「虐殺された詩人」なる短編はアポリネールの生い立ちを含み描いている。最後に詩集は燃やされ、詩人は虐殺される。無論、女主人公との恋愛が主な筋立てになっているけれども、演劇も含んでいるなど、やはりシュールな書き方であるけれども、良いけれども今一つの感がある。なお、死んだはずの詩人は、最後の短編「仮面の砲兵伍長奇談すなわち甦生した詩人」で甦っている。
このシュールリアリズム系の小説を何冊か読んでみたいと思っているが、どうもシュールな小説が、例えば泉鏡花著「高野聖」のような生々しい怪奇さを、異界を、超現実を、実感として伴わせていないと思われて仕方がない。シュールな小説の守護神、アンドレ・ブルドンの小説を読み直してみると、これらシュール系の小説の値打ちが一番よく分かってくるのかもしれない。
以上
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2015年9月18日(金) |
題:スピノザ著 畠中尚志訳 「神学・政治論 聖書の批判と言論の自由」を読んで |
畠中尚志は「エチカ」と同様に、本書の初めに「解説」を記述しており、記述されていれば読んでしまうのが、たぶん人間としての習性である。本書の内容が簡潔にかつ明瞭に記述されていて、もう本書の全てを読んで分かった気分になってしまうのであるが、気を取り直して読んでみると、次第に悲しい気分に陥ってくる。それはスピノザの精神に起因する。副題に「聖書の批判と言論の自由」とあるように、旧約聖書におけるモーゼを中心にした徹底的な批判であり、抑圧されている言論の自由に対する徹底した抗議なのである。その論理的な解釈に基づいた記述はスピノザの精神を浮き上がらせて、そうせざるを得ない彼の精神に内在する論理的でありながら激烈な、どうしても徹底的に攻撃せざるを得ないこの孤高の精神がなぜか悲しくなるのである。ニーチェの孤高な精神は過激に高揚とさせるけれども、スピノザは悲しくさせる。この違いはきっと外界との関わりにある。ニーチェは基本的に精神の内部世界で活動しているけれども、スピノザは現実の外部世界との闘争なのである。闘わなければならない精神は発狂する代わりに冷静で、田舎へと逃亡せざるを得なくなると知りながら、なおかつ孤高に立ち向かうのである。こうは言っても、本書の内容の紹介にはならない。少し本書の内容を紹介したい。
本書は二十章の短論文から構成される。「エチカ」のように定理、公理などに分けていずに普通の論述形式にて記述している。聖書は理性に対して絶対的に自由な立場を残しており、哲学とは基盤が異なっている。このため聖書は解釈可能であり、この立場から上巻では主に予言や予言者、神の法、奇蹟、聖書を解釈して論じている。下巻では初め旧約聖書の具体的な事例について細部にこだわり論じているが、次第に佳境に入っていく。それは神、国家、個人、かつ自由について、最高権力や統治権に基づいて論じているけれど、主張の根幹が一切について自然権に基づき自由に思惟し、かつ判断する能力を他人に委譲すること、委譲を強制されることはできないと強く言い切ることにある。この自然権は人間の力によってのみ決定される。この力の一部を委譲すれば権利も必然的に譲らなければならない力と権利との関係において、社会は形成可能なのである。即ち、各人が持つ力を社会に委譲する、この時、社会が最高の自然権、言い換えれば統治権を持つと民主制となる。即ち、社会が最高権利を有する最高権力となるのである。こうした社会制度の思想はルソーの社会契約論の先駆になるのかは良く分からないけれども、何らかの関係はあるに違いない。
『民主政治の目的は、不条理な欲望を排除し、又人々が和合と平和の中に生活する為にできるだけ人々を理性の限界内に制御すること以外にないのである』(下175頁)との文章が印象的である。まさに理性に先立つ欲望があり、人間の本性を理性よりも感情・欲望を前提として捕えているためである。こうした国家状態において『国民権をもって我々は自己を自己の状態に維持するために各人の有する自由とのみ解する』(下178頁)と述べる。こうして不法、正義、不正義や敵の概念が示される。詳細は省略。こうしてスピノザはヘブライ人が築く国家へと記述を進める。ヘブライ人たちの統治権は神のみが持っていたのであり、モーゼのみが神の律法の伝達かつ解釈者、従って最高の審判者として留まったのである。スピノザがモーゼを非難するのはこの大司祭としての権利により行った数々の不法行為であり、彼の死後、神の告げる通りに、民衆は神の法を破り人間の王を求め、その結果統治権の所在は神殿ではなく宮廷となったためである。この他、憎悪や国家の崩壊と戦争などについても述べているが省略。
最後の二十章では『自由なる国家においては各人はその欲することを考え、その考えることを言うことが許される、ということが示される』と明確に述べている。この文章に至るまでの過程、即ち『自然状態は本性上並びに時間上宗教に先立つのである』と言う自然権に始まり、すべての人が神の命令を聞くことができるのにモーゼにこの権利を委譲し、その権利と自らに都合よく行使したモーゼへの批判、そして自由を求める叫びはスピノザ自身の叫び声に他ならない。この論じる過程を通じてスピノザが冷静であればあるほど、その声が悲しく響き聞こえるのである。更にスピノザとって神への信仰とは神への服従であり、隣人愛なのであるけれども、聖書とはこの服従を無理強いする書なのである。「エチカ」に記述されているごとく無限の属性を持つ神を愛し神に仕える人、スピノザは聖職者等から無神論者と非難され本書も発行禁止に処せられる。本書「神学・政治論」は、1670年に発行され、1674年に発行禁止となっている。
こうしたスピノザの思想は今なおドゥルーズなどを通じて現代哲学に影響を与えている。一度詳しく調べたいものである。
以上
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2015年9月11日(金) |
題:アントナン・アルトー著 多田智満子訳「ヘリオガバス または載冠せるアーキー」 |
本書は思いかけず、ある事柄から在ることを知った本である。多田智満子とは懐かしい。確か、薔薇宇宙なる詩の世界を思い出す。本書は200頁弱の短い本でありながら、結構難しいというより、理解不可能である。多田智満子が、訳者付記にて『翻訳者にとって、哲学者の文章は我慢できる。詩人の文体もまあ許せる。だが、詩人哲学者となるとこれはもう手に負えない。ことにその人がアルトーのように、狂気に巣くわれた天才の相貌を呈しているとき、その文章を極東の言語に移そうなどというのはもはや沙汰の限りではない』と述べているのは本音だろう。ただ、知的な詩を書く彼女故に、文章は非常に知的かつ詩的にうまくまとめている。宇野邦一他訳による「神の裁きと訣別するため」では、簡明な訳ながらアルトーの生の声が聞こえてくるような気がしたけれど、アルトーの記述した文章にはさまざまの種類があり、かつ訳者の感性に起因することもあるのであろう。原書を読めないが故に、訳書は訳されているが故に尊いのである。なお、本書は白水社の「小説のシュルレアリスム」から1989年に発刊されている。
なお、本書の巻末に多田智満子による「シリアの公女たち」と巌谷國士による「解説」が掲載されていて、アルトー自身のこと、本書のこと、本書とアルトーの思想との関連のこと、シリアの公女のことが記述されていてとても役に立つ。確か、ジル・ドゥルーズもアルトーに関しては結構記述しているはずである。本書は三つに区分されている。まず、T「精子の揺籃」として、ヘリオガバスの生誕に至るシリアの歴史、特に女皇や祭儀などについて記述している。ヘリオガバスとは若くして皇帝となり、その両性具有的な性格のためか分裂的かつ醜悪な行動を起こして、若いまま死ぬのである。U「原理の闘争」では、二つの原理、男性原理と女性原理などの哲学的な思想がアルトーの言葉で書かれている。V「アナーキー」ではヘリオガバスの狂気の人生物語となっている。なお、アルトーの根幹となる思想は巌谷國士による「解説」を参照のこと。
ジル・ドウルーズは結構アルトーについて記述している。「千のプラトー」(上305頁)では「器官なき身体」というアルトーの言葉そのものを使用して、「いかにして器官なき身体を獲得するか」について述べている。また、「差異と反復」(上393頁)では、思考のなかに「思考する」ということを産出するアルトーの思想について述べている。思考するは生得的なものではなく、生殖的なことも生得的ではないのである。「アンチ・オイディプス」(下121頁)では、「ヘリオガバス」という本書の題名をあげ、原理における矛盾のイメージとして、無意識における二つの振動として、パラノイアと分裂症について述べている。これらの思想の詳細を記述するのは止めよう。時間がかかり過ぎるから、それに記述するはもっと調べる必要がある。それにしても「アントナン・アルトー全集T」ではまた訳文が異なるが、これは往復書簡や初期詩集なども含んでいて、大元の文章の性質が大幅に違うためであろう。きっと、どれもがアルトーそのものを表出しているはずである。
なお、本書そのものが持つ詩的かつ哲学的な難解さと美しさはとても良い。それに多田智満子による「訳者付記」、「シリアの公女たち」、巌谷國士による「解説」もアルトーとは異なって丁寧に分かり良く書かれている。
以上
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2015年9月4日(金) |
題:アンリ・ベルグソン著 花田圭介 加藤精司訳「持続と同時性」 及び 新潮社刊「小林秀雄 全作品 別巻1、2」を読んで |
ベルグソンがアインシュタインの相対性原理を批判しているとのこと、また小林秀雄がこのベルグソンの批判を感想に記述していることを知って、ベルグソンは何を批判しているのか、小林秀雄はこの批判をどう見ているのか知りたくて読んだ本である。ただ、分量が多すぎて、最初はざっと眺めて検討をつけ、必要部分のみを再読した結果の記述である。従って、細部に漏れがあるかもしれないが致し方ない。それにしてもベルグソンの時間と空間に関する執念、小林秀雄のベルグソンに対する愛する女への愛着以上の執着心には目を見張らせるものがある。こうした愛着や執着がなければ書けないに違いないと実感したものである。
結論から簡単に記述すると、ベルグソンは「持続と同時性」にて相対性理論を誤解しているところも見受けられるが、その正当性を認めている。ただ、『アインシュタインの仮説に身を置くならば、多様な時間は存続するが、実在の時間は、われわれがそれを論証しようと思っているように、まったくただ一つしか存在しないであろう。その他の時間は数学的虚構となるであろう』(186頁)と述べている。つまり、『基準なる系を採用することをやめた。われわれは思考によって、一度に、線路上と列車中に身を置いた』(264頁)のである。即ち、持続は普遍的時間、即ち実在的な時間と調和しているのであり、相対性理論の多様な時間を認めながらも虚構として拒否しているのである。この普遍的な実在的な時間は、系の区別をしない線路上と列車中に同時に身を置いた絶対的な系からの見方であり、アインシュタインの規準系に基づいた相対的な時間の概念とは当然異なってくる。なお、上記の例で、同時性においても『線路に対して同時性であるものは列車に対しても同時的である』とベルグソンは述べている。ベルクソンの持続の概念における普遍的な時間にとって、アインシュタインの相対的時間の概念は受け入れがたかったのであり、その違いを『実在的なものと規約的なものとを区別することが大切である』(225頁)と述べるにとどまっている。なお、実在的とはベルグソンの考え方であり、規約的なものとは特殊相対性理論に基づく考え方である。
小林秀雄の「感想」ではベルグソンについて何と多くを語っていることか。ただ、ベルグソンの訳文を読んでいるせいか、小林秀雄の美文調がどうも読みにくい。というより、小林秀雄のベルグソン解釈の正当性を検討しながら読まなければならないためであろう。私はベルグソンの本は読んでいてもそれほど理解はしているとは思われないけれど、たぶんベルグソンの述べていることと微妙に異なっているはずである。さて、相対性理論の箇所はさほどなくて、ボーアなど量子力学の歴史に触れた後に次のように述べている。『非物質的な作用は物質化し、物質的な原子は観念化し、両者は、互いに、その共通の限界に向かって結合しようとして来るだろう。そうなっても、私たちの精神が、それを分離しようと働く限り、原子はその個性を失わないだろうが、その個体性や惰性は、自から運動や力線に分解し、再び相互の聯絡(連絡)は一般的連続を回復しようとするだろう。ベルグソンの予想は的中したのである。・・・そこからアインシュタインの「特殊相対性理論」に関するベルグソンの誤解、つづいて、自書「持続と同時性」の絶版が起こったが、これについては、いずれ触れなければならない』(下133頁)と述べている。ただ、探しても触れなければならないはずの文章は見つからず、どうも「感想(上)」の「諸言」にあるように記述を途中で止めたようである。この文章からだけ判断すると、ベルグソンの持続を離散しかつ連続する精神の運動と捕らえ、量子力学の不確定な原子の連続する運動と同一視している。なお、この「感想」そのものが著者の遺言では上梓を厳禁と言明したことである。なお、『 』の引用文は将来的には削除したい。
ベルグソンの「持続と同時性」は数式も混じり相当の力作である。今までベルグソンの著書を読んでいて気付かなかった点もあるのでメモしておきたい。各章の内容や、特に持続や時間と空間についてである。「序文」では持続概念が時間についてのアインシュタインの所見と両立しうるか知りたいと本著作の記述目的を記している。なお、持続概念は無媒介の直接の経験を言い表しており、普遍的時間と調和しているのである。第一章「半―相対性」では、マイケルソン=モーリーの鏡による実験を取り上げ、系における観測者の表象の規定を行っている。第二章「完全相対性」では系と基準系とについて述べている。
第三章「時間の本性」で持続と時間について語っている。持続とは流出と移行の連続性であるけれども、流れる物を含まず移り行かれる状態を前提としていない。なお、物と状態はこの推移の中から捕えられた瞬間的なものなのである。そして、ひとり自然に経験で確かめられる推移が持続であり、現在の中で純粋に瞬間的なものであることを妨げる、絶えず後と前のものを再生して現れたり消えたりする変化そのものの内的な記憶なのである。この内的な時間から物の時間への移行は、われわれの外にある物質の表面の薄膜を知覚すると同時に知覚される、内的生の各瞬間が物質の瞬間と対応することで生じるのであり、この時物質は持続の性質を帯びてくるのである。この物質世界を広げると宇宙はただ一つの全体を形成していて、宇宙の持続と言う観念も生まれてくるとベルグソンは述べている。そして同時性とは多くの出来事を唯一の瞬間的に同時に知覚をすることなのである。ただ、人間のそれぞれの意識が各々の持続に参与する共通の部分を持っていて、連結させることで唯一の経験の中で展開でき、個々の意識を取り去りことができる。だが、これはもはや事物が通過する非個人的な時間しかない。この非個人的な時間がアインシュタインの仮説なのであるとベルグソンは述べている。
ここで重要な文章を引用しておく。『二つの瞬間を分ける持続と、二つの瞬間を互いに結びつける記憶とを区別することは不可能である。なぜならば持続は本質的には存在するもののうちにはないものの連続であるからである。そこに実在的な時間、わたしのいう知覚された、体験された時間がある。そこにまた、どんなものであれ、考えられた時間がある。なぜなら、知覚され体験された時間を表象することなしには、時間を考えることはできないからである。それゆえ、持続は意識を含んでいる。そこでわれわれは持続する時間を事物に付与するそのことによって意識を事物の底に置く』即ち、持続と記憶、そして物質と時間、特に実在的な時間というベルグソンにとっての重要な言葉が示されている。こうして、純粋持続にも話が及び、純粋持続とは流星の運動のように勝手に火線を分割できない、分割不可能な運動性なのであると述べている。この後、実在的持続と空間化された時間とは異なるなど、同時性や実在的な持続について述べている。なお、空間化された時間が通常述べている時間そのものである。
第四章「時間の多様性」では、最初に述べたように「規準系を採用することをやめた」系の同時性を考慮している。無論、ローレンツ変換を元にした延長なども考慮しているが間違いも含んでいる。第五章「光の図形」、第六章「四次元の時間=空間」、「末記」、補遺T「弾丸の中の旅行者」、補遺U「加速度の相互性」、補遺V「固有時と世界線」については省略。あまり読んでいないためである。それにしても、ベルグソンが持続に結びつく内的な時間という考え方を大切にして、時間を密に考慮していたのか良く分かる。このベルグソンの執念に対して、花田圭介の解説では、アインシュタインの発言内容を引用しているが、軽妙に受け流しているが面白い。なお、花田圭介の解説は簡単ながら分かり良い。最後に、哲学者やその他の職業の人であっても執念は恐ろしくもあり、思わしい成果を生み出さなくとも記述は成さなければならないものなのである。
以上
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2015年8月28日(金) |
題:アルフレート・クビーン著 土井美夫訳「裏面 ある幻想的な物語」を読んで |
本を整理していたら、読んだことがあるのか無いのか分からない本が結構でてきて、本書もそのうちの一つで、面白そうであり読んだ本である。初めは硬くて荒い文章が気になっていたが、著者の幻想的な出来事に立ち向かう真摯な姿勢と、リアルでかつ幻想的な描写力に引かれて読み終えることができた。表紙には「ドイツ表現主義の先駆」と書かれていている。またアルフレート・クビーンは、フランツ・カフカやパウル・クレーと親交があり、彼らに影響を与えたことが訳者の解説で述べられている。なるほど、本書のあちこちにカフカへの影響を与えたであろう箇所が見受けられる。なお、著者は素描画家であり、小説は本書が唯一のものであるらしい。
本書のあらすじは、主人公なる画家が少年時代の友人であるパテラに招かれて中央アジアにある夢の国なる共同体に行き、そこでの幻想的かつ怪奇的とも言える生活を体験する話である。行くことを反対していた妻はこの国にて無残にも死ぬが、この夢の国はパテラと共にやがて没落するけれども主人公は幸運にも脱出することができる。この幻想的かつ怪奇的、凄惨的とも言える内容は本書を読む以外に方法はないと思われる。少しばかり、カフカの小説と比較して感想を述べたい。
恐ろしい顔つきで好きになれないと言う妻の夢の国への旅立への拒否、身分証明書、夢の国の門、襲い掛かってくる出来事、夢の国の祭式、一頭の痩せこけた白い馬の絶望的な仕草、尽き果てる精根、襲い掛かってくる絶望、自動装置、灰色などなど、カフカの小説に似たイメージもしくは単語が時々本書には見受けられる。これらの類似点は詳細に調べないと分からないが、やはりカフカの小説への影響はあったと思わずにはいられない。ただ、著者はカフカと異なって哲学学的な思索を示すことがある。例えば、『世界は想像力であり、想像−力である』、人々が結集しそして『共同睡眠』するなど。つまり、カフカは日常をシュールに描きながらもやはり日常であって、この世界の現実を表象化・抽象化しているのに対して、クビーンはもはや幻想的世界を哲学的な論理性も加えて、そのまま露わに表現しているのである。つまりカフカが巧妙に現実を抽象し表象させて現実そのものを描いているのに対して、クビーンは幻想と意識した現実的な幻想を描いているのである。
少し分かりにくいかもしれないので、クビーンの最後の文章なる『創造主は半陰陽なのである』を元に説明する。つまりこの世界はクビーンにとって両性具有なのであって、表と裏がある。現実が表であるなら想像は裏であり、この区別がくっきりと成されてクビーンの世界観は構築されている。本書の「裏面」という表題からも分かる通りに、彼は本書を通じて半陰陽の一方を意識的に描いている。現実はこれら二つから構成されているとクビーンは明確に区別し認識しているのである。これに対してカフカの小説における世界観は半陰陽ではないし、もしくは半陰陽であっても区別されることがない現実そのものである。カフカにとってこの裏表の区別がなく表象し感性に浸透してくる世界が、まさに幻想ではなくて表象可能な現実そのものなのである。
ただ、こうしたものの見方ばかりではなくて、クビーンとカフカの小説の質の違いは結構あるだろうと思われる。それは詳しくは調べないと分からないが、文章の質としても現れている。まあ、クビーンのカフカへの影響の探索は専門家にまかせるのが良い。
以上
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2015年8月21日(金) |
題:アルフレッド・ジャリ著 澁澤龍彦訳「超男性」を読んで |
本を整理していたら、昔読んだはずであるがもう記憶にない本が結構出てきて、本書はその内の一つである。ジル・ドゥルーズも確か論評していたはずである。それほど期待していなかったが、読み進めるとなるほどシュールリアリズムの前衛作品として良いのである。バタイユの「聖女たち」のエロシチズムの直接的な表現よりも、ジャリの表現はエロシチズムを踏まえていながら、それを超えて社会的と言うより、人間的な何らかの超越性と内在性を含んでいるためであろう。こうした観点からの感想は難しいため、解説などを踏まえ引用して簡単に書きたい。なお、本書の解説は巌谷國士が行っており、ジャリの経歴と本書の内容や意義などを詳しく説明している。この解説を読むほうが隠喩などの説明も含んでいて、とても分かりやすいはずである。なお、ジャリの作品には「ユビュ王」があるとのことで、この本も持っているはずであり、機会があれば読んでみたい。
「超男性」とは男性を超えたものである。超えるとはもはや男性なる性的なマシンであり、数多くの女たちと数多くの性行為を行うことのできる男である。本書の内容は、三つに分かれる。男たちの乗る自転車と列車との競争、これは超男性とその花嫁をそれぞれの乗り物、自転車と列車に配置して実施される。次に立会人としての博士や置き去りした七人の娼婦などの目撃者を前に行われる、超男性と花嫁との無限に続くと思われる性行為である。最後に愛情を吹き込む機械の話である。ただ、最後の話では機械が超男性に恋をして、超男性は過電流に鉄と縒り合され死ぬ。こうして花嫁は人間の力の限界内に愛情を保てる人を条件として、別の男と結婚するのである。この小説の持つ宗教的議論、つまり神や神に取って変わるべき人間の生殖質の否定、性交中絶などのイメージや哲学的な思考などは巌谷國士の解説を参照にして頂きたい。
なお、ミシェル・カルージュの「独身者の機械」という著書が、カジュール・デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」とフランツ・カフカの「流刑地にて」の小説を出発点にして、禁欲の現代的形態を研究しているが、ジャリの本書「超男性」を典型的な例として見なしていると巌谷國士は記述している。フランツ・カフカの「流刑地にて」が禁欲とは良く理解できないが、そう言っているので仕方がない。
ジル・ドゥルーズの「批評と臨床」では、アルフレッド・ジャリを「ハイデッカーの知られざる先駆者」と表題して、現象の存在、遊星的技術、言語の扱いの三点から論述している。意味が取り難いけれども、ドゥルーズは「現象」とは異なる「現象の存在」、つまり現象の自己現示を撤回し逸脱を続ける存在の観点から論述する。またパタフジック(ジャリの造語で形而超学または空想科学)からのみ理解できる技術からの撤退とおのれの提示、かつ地球の大転回を遂行する自転車のチェーンと速度の技術としての本質、これらの遊星的技術は存在の喪失にとどまらない、技術の本質として救済の可能性なることに二人、ジャリとハイデッカーの類似性を指摘している。最後に思想としての言語の〈記号〉理論が言語の詩的概念を作り上げるジャリの言語の取り扱い、またハイデッカーの古い言語を現在の言語への作用を指摘するのである。なお、この論文におけるドゥルーズの存在に対する記述は、彼の思想を理解するうえで役に立つ。ただ、やはりドゥルーズの指摘は意味が取りにくい。「現象の存在」と「存在の喪失と救出」と「言語の作用」と上っ面の理解だけで記憶しておきたいけれど、これらの類似性が本当にあるとしても、ドゥルーズの真意が別にある気がして仕方がないのである。
こうしてジャリは34才で死ぬ。芸術と実生活が結びついて奇行や偏愛にスキャンダルも多かったらしい。それにしても本書を読むと、デュシャンやカフカではなくて、なぜかニーチェを思い浮かべるのである。無限の高揚を求めた者と、高揚を求めながらその内に中絶的拒否性を要求した者の相違が浮き上がって見えるためである。ニーチェの言う超人とは人間を超えた者であり、没落すべき者でもありながら、過渡的でもあるために、中絶的拒否性とは異なっている。そう思いながら、どこか拒否性の思想が同根にあるとも思われて、とっさに結論が思い浮かばないのである。「超」という点では一致しているけれども。
以上
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2015年8月14日(金) |
題:柳田国男著 「新版 遠野物語 付・遠野物語拾遺」を読んで |
「遠野物語」は何年も前から読みたがったが、やっと読むことができた。序文に記述があるが、「遠野物語」は佐々木鏡石から聞いた岩手県遠野町に伝わる話、民話と言うべきか、昔から今に至る話を柳田国男が聞き取り、『一字一句をも加減せず感じたままを書きたり』し結果の作品なのである。「遠野物語」は一一九の項目からなる、短くて数行、長くて一頁程度の話である。「遠野物語拾遺」は「遠野物語」の続編であり、二二九の話からなる。「遠野物語」と同様の話が結構あるが、読んだ限りではより現代に近く、より現実的な話も含んでいる。なお、これらの相違の詳細なことは分からない。読んだ限りの感想を次に何点か述べたい。
本書は天狗や河童、狼、狐、山神などの伝説や怪奇譚に死者の弔いの方式などの風習を書いているが、解説で折口信夫、大野時彦、鶴見太郎が述べているように、柳田国男の、『一字一句をも加減せず感じたままを書きたり』し、的確で柔らかい叙事詩的な文章が良いのである。古事記や日本霊異記などにて記述される怪奇譚は、簡潔でありながら相応に生々しいリアリティ持っている。本書も結構、怪奇譚として凄惨な場面などを記しているが、簡潔でありながらも結構柔らかいのである。無論、リアリティはある。このリアリティが失われず、柔らかく溶け込むように読めるのは、きっと柳田国男の文章によるものであろう。「遠野物語」という民話の中に溶け込んで、すべての話が一つのその町の昔からの伝承された口頭の音韻に包み込まれて話されているために違いない。一つ言えることは、「くるくる」、「にこにこ」などの同音の繰返しが非常に現実感を増幅させている。
本書は民俗学の先駆と呼ばれているが、実は人間たちと自然との共生を描いたものに違いない。人里から遠く離れた山々で起こる超自然的な現象は自然への畏怖、即ち神々への畏怖と尊敬に他ならない。山男や山女の出会う、これらの者はそこに住み着いている、村里から離れて暮らさなければならなかった理由があるのである。無論、こうした理由など述べられることはない、単に山男や山女、さらわれた女として記述されている。これが民話としての無垢な純粋性を保っている。天狗や河童、狼、狐などの話も自然との共生の中で生まれ出てくる不可思議な、超自然的な出来事への畏怖であり生活上の知恵なのである。
理由など無くて、この世界に人間たちは生きていかなければならない。そのために生じる姥捨てや間引きなどの軋轢や葛藤に苛まれながらも、人間たちはさまざまな出来事を語り伝え続けることによって、この生と死の立場を魂に結びつけて、遥か遠くの昔から命を継承し続けているのである。歴史と言うより生命の時間の連続性を引き継いで純粋でかつ無意識な、恐れ戦き畏怖し、感嘆や共鳴する心を保存し続けているのである、この証の話として本書は読まれるべきと思われる。ただ、今日こうした連続性が失われていくのか、それとも他の媒介に移行しているのかは定かではない。
最後に気に入った短い物語を一つだけ紹介したい。何とも素っ気ない話である。『上郷村に川ぷちのうちといふ家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾いてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何かを娘にくれたり。丈高く面朱のやうなる人なり。娘はこの日より占いの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといへり』(遠野物語 一〇七)
以上
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2015年8月7日(金) |
題:カール・シュミット著 新田邦夫訳「パルチザンの理論 政治的なるものの概念についての中間所見」を読んで |
カール・シュミットは国家、主権、国際政治などを考慮した法学者かつ政治学者である。議会制民主主義や自由主義の批判者でもあるらしい。一時ナチス・ドイツの理論を支援した学者とも言われるが、結局思想的には離れる。主要著書には「政治的ロマン主義」、「政治的なるものの概念」、「独裁」などがある。本書を選んだのは、75歳という高齢での著述であり、彼の思想の総決算の書と思ったからである。ただ、約二百頁と短く、本書の中に根本的な思想はわずかな記述しかなく、「訳者解説」が無かったならば、相応の理解は不可能であったであろう。彼の独特の思想は複数の著作を読まなければ分からないに違いない。なお、文章は含蓄があり哲学的な匂いもあり良い。
本書はパルチザン闘争を通じて語られる「序論」、二十世紀初頭の政治的状況として国際法やレーニン、毛沢東などの思想を解釈した「理論の展開」、更に自らの思想を進化させた「最近の段階の局面と概念」の三部構成を取る。ただ、本書を読む限り、それほど彼の思想の根幹は難解ではないが、推測するに彼の思想は、今日の民主主義を成り立たせている各種の思想との対立において比較・熟慮しなければならず、結局民主主義とは何か、の問いになるという困難な壁に当たると思われる。感想では本書に基づく彼の思想を簡単に紹介したい。なお、パルチザン闘争とはスペインにおいて、ナポレオン正規軍による侵略に対して抵抗する非正規的なゲリラ的な闘争を示している。このパルチザン闘争は本書では非正規的な闘争として象徴化され使用されている。なお、パルチザンという言葉は「党派」から由来し、党派として行動することを意味する。このパルチザン闘争を土地的性格に基礎づける「空間(ラウム)」という言葉は、著者の思想の礎となっている。
パルチザンという概念には防御的土着的に守ること、また世界攻撃的革命的に活動するという二種類があり、この対置は戦争および敵対関係において異なるのである。国家から国家への戦争として遂行される場合には、パルチザンの闘争は防衛的になる。この時、相手の国は「正しい敵」として承認される。一方敵国政府を除去する革命的な作用を実施する時には、自らの側においても犯罪者もしくは有罪者として取り扱われる「危険負担」を覚悟すると同時に、もはや「正しい敵」ではない「犯罪者としての敵」として認識する本来の戦争となると著者は定義する。簡単に言うと、土着的に防御的に行う場合と、革命を目指す闘争においてもはや戦争の概念が異なってくるのである。パルチザンにとっては革命的戦争が本来の姿なのである。著者のこの戦争に対する概念は友敵の思考も含んでいて重要である。こうして戦争の相手たる敵は、君主制に起源を持つ「正しい敵」、そして「犯罪者としての敵」から、更にはもはや「全体的な敵」へと移行していくのである。こうして著者はレーニンから毛沢東などの思想や闘いの方法論などについて詳細に語っている。これらについては省略。
「最近の段階の局面と概念」では、さまざまに論じているが気の付いた点のみ記述したい。「空間(ラウム)」は陸と海とを含めて変貌していく、技術の進歩に従って新しい空間が、空間構造が変わって諸々に影響していくのである。「合法性と正当性」では『法律の主権性に対して法の主権性はまったく存在しない』という共和国においての唯一の正統性について著者は述べている。言い換えれば共和国において法は主権者の権利によって恣意的に定められると言うことができよう。「現実の敵から絶対的な敵へ」では戦争の理論においては敵対関係を区別することの重要性を指摘している。そして著者はレーニンが友と敵との区別へし、「現実の敵」から「絶対的な敵」を作り出したとする。この「絶対的な敵」は核時代の現実に内在しており、『相互に全体的な価値剥奪の深淵へと突き進む世界においては、新しい種類の敵対関係が発生しなければならない。・・現実の敵対関係を否定することによって初めて、絶対的な敵対関係の絶滅活動のための道が開けるのである』と現実の状況、更にその回避方法について著者は述べている。
本書に民主主義への批判が記述されていなかったのは残念である。なお、著者が強調する敵対関係を論じるのは単純に見えながら難しい。国家なる多の中の一の国は複数の多の国と経済などの相互関係や軍事同盟などに基づくバランスの上に成り立っている。また多の国同士の相互関係が影響し合って一つの国に押し寄せてくる。また、特異点なる国家も、グループなる国家群もある。こうした相互の影響を考慮して一つの国のバランスを取るべき立脚点を考慮するのが、国際政治学の役割なのだろうか。国家を成立させる概念もまた多様なはずであり、また敵もそれらの国家の相互関係に基づく故に多様なはずである。即ち、敵の姿は常に変貌する、この姿を国際政治が追うならば、国家と人間と制度の根本を成り立させている概念を把握する必要性を痛感する。この概念は安定性を持たずに流動するのだろうか、社会学や経済学や哲学などの手に負えるのだろうか。即ち、概念を突き詰めれば人間や制度に絶対的普遍なるものを見出すことができるのだろうか、できなければ絶えず概念を創造し必要に応じて適用なければならない。それが社会学や経済学や哲学、政治などの仕事になるはずである。
以上
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2015年7月31日(金) |
題:小林秀雄著 「初期文芸論集」を読んで |
小林秀雄の文芸論がどういう批評を行っているか気になって読んだ本である。中村光夫編による1929〜1935年にかけての選ばれた30作品である。小林秀雄の関心ある文学作品群の中に、結構私の関心ある作品群が含まれているが、無論、この領域は私の方が遥かに小さい。また翻訳を行っていた小林秀雄の理解の深さには感心する。ただ、懐疑する精神は似ている、陶酔する感情も似ているけれど、小林秀雄は結構明確に物言う人であって、かつ平易な文章は歯切れが良くて分かりよいのである。「宿命」、「美神」などの特別な言葉は、佐藤雅男著「小林秀雄 創造と批評」を読んでいなかったならば良く分からなかったであろう。小林秀雄のこうした文章も簡明ながら独特の言い回しがあって、一見詩的にみえる時がある質の良い文章である。
彼の批評は対象の作品の中に入り込んで、つまり作品に陶酔して発せられる感性が基本である。ただ、言うべき時には言う、毒舌家でもある。本書の中から何作品か気づいた点について触れたい。まず、巻末の「ランボーT」である。最初、読んでも良く分からなかった。三回読んで少し理解できたのは、彼が『ランボー集第一巻を愛した者の一報告書にすぎないのである』ためであろう。恐らく独特の漢字の単語や自らの感動も加えて、表現の詩的鮮烈さに、もはや主観的評論を前面に押し出した斬新さが理解を困難にしているに違いない。ただ、何度か読み返すうちに味が出てくる。ランボーに陶酔する小林秀雄が見えてくるのである。文芸評論家は評論する作品を愛さなければならない。愛するからこそ評論する作品の表現が豊かになる、こうして愛し繰返し読むうちに細部に気付くようになると思われる。ただ、私は小林秀雄の訳文をあまあり好きでなかったと記憶している。訳文を「最高塔の歌」で何人か比較してみたい。最後の文章だけである。なお、ランボー作品は、探せばまだたくさんの訳文があるに違いない。
小林秀雄訳 1926年以前 「最高塔の歌」 穢らわしさは蠅共の/むごたらしい翅音(うなり)を招き/毒麦は香を焚きこめて、/誰顧みぬ牧場は、/花をひらいて膨れるか。 あ々、時よ、来い。/陶酔の時よ、来い。
堀口大學訳 1964年? 「最高の塔の歌」 ほったらかしの/牧の草/生えて育って花が咲く/よいもわるいも同じ草 すごいうなりを立てながら/きたない蠅めが寄りたかる。 あらゆるものに縛られた/哀れ空しい青春よ、/気むずかしさが原因で/僕は一生をふいにした。 心と心が熱し合う/時世はついに来ぬものか!
金子光晴他訳 1970年? 「いちばん高い塔の歌」 荒れるがままの/牧場のように、/どくむぎと芳香とがいりまじり、/花咲き、はびこる牧場のように、 不潔な蠅が僕の心に群がって/わんわと唸り立てている 束縛されて手も足もでない/うつろな青春。/こまかい気づかいゆえに僕は、/自分の生涯をふいにした。 ああ、心がただ一すじに打ち込める/そんな時代は、ふたたび来ないものか?
こうしてみると、小林秀雄訳が良いと思われる。まず、言葉が短くて雰囲気がでている。リズムがある。他は説明文臭さがある。更に僕という主体の単語が無いのがすごく良い。ただ、少し堅苦しく、それぞれの人の好みによるのだろう。こうしてみると翻訳は難しい。訳者の感性、特に言語感性がもろに表れてくる。原文で読めないことがいかに辛いことかが良く分かるのである。英文となるが原文と比較すると、どれも慎重に意訳していると思われる。
次に「様々なる意匠」では、次のように言っている。『こうして私は、私の解析の眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の宿命の主調低音をきくのである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の言葉を語り始める、この時私は私の批評の可能を悟るのである』(15頁)これは批評の可能性の原点を小林秀雄が自ら述べている。作者の自意識の奏でる調べを聞いて、私が自らの言葉を語り始めるのである。更に『子供にとって言葉は概念を指すのでもなく対象を指すのでもない。言葉がこの中間を彷徨する事は、子供がこの世に成長するための必須な条件である。そして人間は生涯を通じて半分は子供である。では子供を大人とするあとの半分は何か? 人はこれを論理と称するのである。つまり言葉の実践的公共性に、論理の公共性を付加する事によって子供は大人となる。この言葉の二重の公共性を拒絶する事が詩人の実践の前提となるのである』(23頁)こうして小林秀雄は『夢は夢独特の影像を持って真実だ』とも述べて、「象徴主義」に対する「写実主義」を批判する。またプロレタリア文学も批判するのである。これら文学上の「様々なる意匠」即ち文学理論および文学について、この「初期文芸評論集」では論じていくのである。
もう長くなったので簡単に包括的に述べる。「志賀直哉」では、小林秀雄にとって志賀直哉は『語る所が批評である以上、抽象が全然許されないとなると問題は恐ろしく困難になるのである。志賀氏はかかる抽象を最も許さない作家である』志賀直哉の「暗夜行路」を読んだことがあるが、微かに記憶の痕跡から甦ってくる、もう一度読んでみたい気も起ってくる。「アシルと亀の子」は小林秀雄の批評家としての地位を確立させた文学作品の批評である。それにしても、月刊誌など当時はたくさんあったはずで、これらにすべて目を通し、古典作品や現代作品を読み、翻訳を行い、原稿を記述する作業は、相当の労力を必要としたに違いない。「横光利一」の評論では微かに記憶している吉本隆明の批評よりも分かりよいのではないか。
芥川龍之介とニーチェに関する記述が数か所あって、その論評は私の思いとほぼ同等であって嬉しい思いをした。その論評内容については省略。「Xへの手紙」が良く分からなかったが、解説にて観念の私小説と書いていてあり驚く。確かに別れた女の話が載っていたが、その他の観念と呼ぶべき思考とごちゃまぜになっていて、発散している。もう少しテーマを絞らないと、私には作品の下書きに思われる。小林秀雄は多才でありながら小説作品を書くには向いていないのだろう。ジイドやドストエフスキーが良く出てくる。彼の魂に宿命の音を響かせる原点の作家なのであろう。「文学界の混乱」では批評家無能論と私小説について述べている。私小説論では作者の実生活と作者自身との距離の長さについて論じている。
谷崎純一郎及び「春琴抄」について何か所かで論じている。「春琴抄」については作家が批評家に親切の一つ、つまり批評家を同じ土俵に載せてくれる質の高い作品として、そのリアリティと共に称えている。ただ、少し簡単なありきたりの評価であって言いたいことを隠しているような気がしてならない。一方谷崎の近代小説の技法論、つまり古典主義の技法論に対しては疑問点を呈し、谷崎が近代小説に興味を失ったとする。こうして小林秀雄は当時の作家ばかりではなくて、日本の古典文学や諸外国の作品に広く目を通し論じている。彼の知的で個性的な評論は確かに面白い。更に文学周辺の知識を得られる。ベルグソンのアインシュタインの相対性理論への挑みなども含め広範囲に評論していると知った時には感心する。ただ文学評論はいくら質が高くとも、質の高い文学を読むよりも思い白くない。論じられる小説を読んでいなければ良く分からないし、読んでいれば自らの感想との読み比べになり、違いの補正の必要性の有無を感じるだけである。結局、私が言いたいのは小林秀雄の本は全面的に読むのではない、関心あるものだけ読みたいと言うことである。
以上
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2015年7月24日(金) |
題:デズモンド・モリス著 別宮貞徳監修「人類と芸術の300万年」を読んで |
期待して図書館から借りてきたのであるが、率直に言えば、やはり人類の300万年を一冊の本で表すのは難しいと実感する。本書は遠い祖先から現代までの主に美術の歴史を、文章と絵画にて記述・掲載しているが、ごく一部でしかない。ただ、85歳にてこの膨大な表題の著述を開始した著者には感嘆する。本書はまず、アート、科学、宗教の定義から始まる。そしてアートの法則を第8の法則まで示す。これらの定義は引用しないが、短文で書いているためにか、実感として良く分からない。基本的には日常から非日常へと導いてく美的概念を主として記述していると思われる。更に全12章にて、アートの起源から、動物のアート、・・近代アート、・・アートの法則へと全体の約300頁へと連なっていくのである。即ち、絵画や像とかつ結構長い説明文から成る厚く大きい本なのである。
関心を持ったのは、チンパンジーなどの動物が書いた絵である。これが抽象絵画に似て良い。それにラスコーなどの洞窟壁画。それにイコンなどの伝統芸術。この伝統芸術の章と近代絵画の章にさまざまに活躍した画家のほんの一部が押し込められて紹介されている。即ち、紹介されていない画家、欠落している画家の方が圧倒的に多いのである。また文章も単なる説明文であって、美術論でも芸術論でもない。無論以前なにかしらの美術論の文庫本を読んだことがあるが、そちらの方が美術・芸術論としては理解できたような気がする。無論、私に美術など良く分からないが。
つまり、300万年の芸術を論じるにはやはり無理がある。それも絵画も同時に掲載しているので文章の量に制限がある。というより、もし文章のみであるなら300万年の芸術を論じることは可能であるかもしれない。無論、無駄のない論理的な文章に俯瞰的な視野を持って芸術を裁断していくのである。枠組みを決めて画家の名前を一人も載せずに裁断された領域内を主観的に論理的に記述していく手法を取るのである。ともかく、好きな画家の画集眺め、もしくは詳細な絵画論の本を読むのが一番良い。著者のこの壮大な計画は成功したか、失敗したかはともかく、人類が生きていくために芸術を必要とするという考え方には大賛成である。
以上
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2015年7月17日(金) |
題:ジョアオ・マゲイジョ著 青木薫訳「光速より早い光」を読んで |
光速変動理論(VSL:Varying Speed of Light)に挑んでいる物理学者自身による著書である。2003年の発行であり、少し古い。今現在、この理論がどのように評価されているかは、ネットなどで調べても良く分からない。まあ、一つの考え方であるとしてしか捕えられないだろう。本書はこの光速変動理論理論(VSL)に触れながら、宇宙理論物理学における研究の人間的摩擦や奨学金に研究制度そのものに関する記述が多く含まれていて、理論的な記述は少ない。数式もたった数度、簡単な記述しか行っていない。いわば研究者の苦労話が多い。ただ、光速変動理論も、アインシュタインの相対性理論などについても簡単に分かりやすく書いてある。VSLについて詳しく知りたければ、他の本も読むのが良いであろう。
本書に基づき理解した範囲で、理論の内容のみを説明すると次のようになる。一般性相対性理論によって示される宇宙はビックバンにより投げ込まれた膨張する宇宙である。これを重力が減速させる方向に働くが、ともかく宇宙は運動するのであり静止するのではない。静的宇宙を信じているアインシュタインは宇宙定数(Λ:ラムダ)を与え、この値をわずかに正とし、恣意的に静止宇宙を作り出す。即ち、このΛは無もしくは真空に質量を与えること、即ちエネルギーを与えることを意味しており、膨張する宇宙を押し留めるための斥力を生じさせるのである。アインシュタインはこのΛを人生最大の誤りと述べたが、結果としてこの項が、ダークマターやダークエネルギーと関連して重要な役割を果たすことになるのは知っての通りである。
一般相対性理論はΛによって宇宙を静止させたが、この後、ハッブルによって実際の宇宙は膨張していると確かめられる。遠くの銀河ほど大きな速度で後退しているという、即ち「銀河の後退速度は、われわれからの距離に比例する」というハッブルの法則を導き出すのである。このハッブルの法則はビックバンが生じたという証拠でもある。ただ、ビックバンによって生じたとする説の不合理は、光の速度が定まっているために「宇宙の制限速度」として働き、ビックバンの直後には「宇宙の地平線」の半径は小さくて、生まれたての宇宙は小さな領域に分かれてバラバラであり、かき混ぜることができない。即ち「平坦性(問題)」を保てないのである。なお、ロシアの科学者フリードマンは、宇宙項を除いた一般性相対性理論から宇宙はビックバンから生じて、その未来が予測されることを計算によって示し、これに対しアインシュタインは意地悪に疑念を呈する。ただ、最終的にフリードマンが示す宇宙の時間的変化の解があるとし、アインシュタインは自らの非を認めるのである。フリードマンの三つの宇宙モデル(閉じた、平坦な、開いた宇宙のモデル)の解はいつも美しい。
この「平坦性問題」を解くのがインフレーション理論である。ただ、このインフレーション理論もΛの問題以外はうまく説明できるが、Λの問題そのものは解けない。さて、著者はこのインフレーション理論による「地平線問題」を『光速は普遍定数ではなく、局所的な普遍定数であるが、その値は変化するかもしれない』と考えたのである。光の速度が速い光であるならば、長い距離を取ることができて、この広大な宇宙の均質性を説明できる扉も開けてくるのである。この速い光はワイヤーのように丸まっている余剰次元からの射影効果によって生じるのではないかとし、著者は力の統一理論としてのカルッツア=クライン理論を紹介する。こうして変化する光の速度から、物質の起源の問題、エネルギー保存の法則の不成立などについて説明する。特に関心を引くのが、真空エネルギーは宇宙の膨張によって薄まらないために放置しておくと、このエネルギーによって宇宙は支配される。ただ、これを光速度に依存する量の物質に変換することによって、即ち宇宙定数そのものの問題も解けるとした点である。即ち、光速変動理論は物質への変換理論としても成り得て、アインシュタインが導入したΛなる怪獣を撃退できると著者は言うのである。
この後、もう一つ著者は重要な点を述べる。特殊相対性理論の示す光速度一定と運動は相対的という二つの原理は、運動と速度と観測者、即ち時間と空間を関連付けるローレンツ変換の不変性を基礎づけるが、このローレンツ変換に関するVSL理論である。その内容は、重力子と光子の速度は異なる、光速は重力子と比較して、宇宙的スケールの時間を通じて時間とともに変化するとしたのである。即ち、言わば時空構造に影響を与える重力子を光子と区別して、特殊相対性理論の意味をくみ取りながらローレンツの不変性を保つのである。こうして著者は、ひも理論も絡めるとし、また古典的重力に属するものと量子重力に属するものとの区分けもできると述べる。最後に著者は、現在VSLは大きな天蓋のようになっていて特殊相対性理論を修正すべきと考えているたくさんの理論が集まっていると述べている。
この光速変動理論が受け入れられているとは言い難いが、宇宙初期には数%光速度が異なっているとのテレビ放送を見たことがある。宇宙には謎が多いからこそ、理論を構築すべく挑戦する人たちも多いに違いない。それにしても何事もそれなりに理解すると言うことは難しいことでもある。
以上
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2015年7月10日(金) |
題:清水正之著 「日本思想全史」を読んで |
本書はちくま書房から発刊された新書版であるが、400頁を超えて厚い。たぶん、日本古代から現代に至るゆうに百名を超える著者のテクストを、その思想とともに解説している。無論、本書の著者の得手不得手があるのか、記述の厚い所と薄い所とに分かれている。それをものともせず、著者は「古代」、「中世」、「近世」、「現代」の五章に分けて旺盛に記述している。そのタフな精神及び労力には感嘆するばかりである。
著者が「はじめに」で記述しているように、日本の思想と呼びうる実質、即ち何を記述の対象とするかとの問題があり、著者はこれを哲学的な視点として捕え、自然・人間・超越的存在(神や仏)についての意識、価値観のありようとその吟味を対象としている。ただ、日本思想にはこうした哲学にふさわしいものもあれば、一方文学作品や歴史的な記述を行っている著書からも、これらの意識などは得られるのであり、驚くべきことに本書は、結局これらすべてを含み対象とするのである。すなわち本書の題名が示す通りに、「日本思想全史」は哲学的な思想も文学・学術的な思想も含んでいる。
そして著者が強調するのが、思想史を俯瞰する視座は、日本的なるものが根底にあるという視点に立っていない、日本と言う場で起きた異文化や異なる思想伝統の選択と受容、そして深化としての思想史であるということ、更に選択と受容により比較されてもはや絶対化した思想ではなくなり、日本の思想には相対主義的視点が必要と述べている点にある。この相対主義とは日本並びに外の思想への眼差しを踏まえ、かつこれらを通過させて各時代における思想に焦点を当てることでもある。そして、その結果各時代における内部的な視点からの思想の記述が初めて可能になると著者は強調している。たぶん著者の主張を言い換えれば、日本では外から導入された思想も含めて複数の思想が並列共存しているのであり、それらの思想がまた日本の内部で歴史的な融合も変遷も行っている、これらの思想の内に入ってそれぞれの時代を経てそれぞれの時代に調べられなければならないと言うことなのだろう。この相対主義の危険性を著者は指摘もしているが、人間を見出そうしているという著者の言い分には説得力がある。
感想はたくさん記述したいが、数点だけに絞りたい。というより、著者が力点を置いている項目と若干の感想だけを示す方が良いであろう。それほど多岐に渡っているためである。「古代」では古事記と日本書紀における神話の思想、神は何かということ。古代歌謡の集大成としての万葉集。古代仏教の受容とその展開。即ち国政の根幹を神道に置き、他方では仏教による救済の重視。日本霊異記における因果応報。平仮名の文字による日記などなど。「中世」では、平家物語による諸行無常、鎮魂の物語。慈円による思索の書としての「愚管抄」。「神皇正統記」。浄土教と鎌倉仏教。親鸞や道元に日蓮。室町期における能などの芸術論、和歌論などなど。こうして書いていくと切りがなくなる、もはや「近世」、「近代」、「現代」については省略。
いずれにせよ、本書を持っていると日本思想を調べる手間が省ける詳細な辞書代わりになる。また読むと、日本の思想の流れが輪郭を持って浮き上がってくるとても良い本である。文字を持たなかった日本人が文字によって記述する「古事記」でさえも陰陽論の宇宙開闢の影響を受けているとの指摘は重要である。こうして、日本の思想を相対的なものとして捕える著者の考え方は議論を呼びそうでありながら、選択、需要によって深化させることによって、逆に日本的な思想や独自の感性を育み生み出してきたと捕えれば、日本の思想や文化と呼ぶべきものを確立させてきたとすれば、まったく妥当なものと思われるのである。こう考えれば、本書は「日本思想の源泉論」としての価値を持つかもしれない。でも、やはり先ほど述べたように、著者の相対主義は慎重に議論されなければならないだろう。これらの議論を待たなければならないが、例は省略するが、何かしらの土着的な気質に基づいた共同体の独自の日本的な文化気質という言うべきものが存在する気がしてならない。でも、言わしてもらえば私も相対主義のはずである。
以上
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2015年7月3日(金) |
題:佐藤雅男著 「小林秀雄 創造と批評」を読んで |
小林秀雄の著書はあまり読んだ記憶がない。きっと少しも読んでいないのだろう。そこで、本書にて簡単に小林秀雄がどういう著書を記述しているか、またその思想の内容を事前に知りたくて読んだ本である。本書は少し硬質な文章でありながら、この二つの要求に相応に答えている。というより、著者による小林秀雄論である。それにしても小林秀雄の活躍分野の広さには驚く。でも、結構関心は重なっていて、小林秀雄についていけないのは、ロシア文学と日本の古典文学・思想などであろうか。ただ、小林秀雄の文章を直接読んでみないと、感性が合うかどうか分からない。そこで今後はまず「小林秀雄 初期論文集」を読むことにしたい。ランボーやボードレールの詩人論やベルグソンとアインシュタインとの時空の論争も読んでみたいものである。
著者の小林秀雄論の概要を簡単に紹介したい。著者の副題に「創造と批評」と記述されているように、著者は『批評主体が対象を作り直し、自ら再評価する』ことが「創造的批評」であり、この手法により小林秀雄の批評活動が可能になったとする。そして、自らの思想を〈実験〉過程として捕えて、個人的な観賞を根拠に芸術家の制作過程に関心を抱いて批評論文を書き進めていると強調している。即ち芸術が自然なる「美神」からの感覚的な享受による〈表現〉であるなら、この「美神」の〈表現〉を追体験し、自己との関係構造を有機的にあぶりだすのである。これは人間と言うものを公の場に立たせることに他ならない思想でもある。また、人間の科学と芸術の交差する文化領域の接点・断続面を静かに見据え、これらの架橋の役割を果たすと著者は述べている。
この小林秀雄を紹介した文章の内容や、また汲み取ろうとした著者の意図そのものが正しいかは私には分からない。ただ、私には著者の述べている内容が確実に伝わってくる。本書の内容を分かりやすくするためには、目次を紹介するのが一番良いであろう。第一章〈模倣〉と創造 第二章〈宿命〉と歴史 第三章〈実験〉と表現 第四章 古典と批評 第五章 絵画と意匠 第六章 学問と自得 附論「花伝」の方法 である。なお、〈模倣〉とは作品は自然の模倣なのであり、歴史的な古典なる第二の自然も、自らが直接生きているこの世界の場で意味を活かす道を歩むことによって、その本質的な意味と価値を探究できるとする。〈宿命〉とは人間存在の個別性という認識が基礎にあり、批評の対象とする作品を批評する主体の自意識の機能の一つとみなすこと、即ち批評の対象が個別化された自意識の内に入り込むことでもある。「花伝」とは世阿弥の風姿花伝について論じたものである。それにしても以前に述べたが、小林秀雄の活躍分野の広さには驚くべきものがある。彼をここまで駆り立てたものは何であったのか。機会があれば小林秀雄の著書を何冊か読んで紹介したい。
以上
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2015年6月26日(金) |
題:阿部公房著 「砂漠の思想」を読んで |
著者の懐かしい「砂漠」という言葉に引かれて読んだ本である。ただ、阿部公房の小説をどの位読んでいるかは分からない。記憶にあるのは「砂の女」くらいなで、それ程読んでいないのかもしれない。本書は阿部公房自身のエッセイ、もしくは短論文、寸評である。Tヘテロの構造(21編)、U砂漠の思想(12編)、V一時が万事(12編)の3章からなる。なお、Tヘテロの構造の内に「種のない話」の内に33編の小話が含まれていて、全部で、77編あることになる。あとがきで、公房は『いわば私の創作手口の公開である』と言っているが、当然阿部公房の感性と発想に基づいた感想であり、意見である。
Tヘテロの構造 では、あれ阿部公房とはこんなもんだったのかと少しがっかりしたが、U砂漠の思想 では熱っぽく語る。明快な文章が情熱を持って走り出すのである。思わず引き寄せられる。V一時が万事 では、少し落ち着いて冷静さを取り戻し、時事問題や旅行に関して語る。著者のあとがきでは、記述した年代順ではなくて、先に示した3章に区分けしたものらしい。なお、「ヘテロの構造」とは、一般的には二つもつ遺伝子の配列の構造が異なっていることである。血液型が一番分かりやすいが、血液型を決める遺伝子が同一の場合がホモであり、ヘテロは異なっている。両親がA型とB型で何型の子供が生まれるか、ヘテロ構造はAB、AO、BOとなる。AA、BBはホモである。純系であるホモは絶滅しやすいのに対して、ヘテロは混合雑種みたいに進化論的に強いのである。
本書を読んでみると良く分かるが、阿部公房は結構旅行をし、映画を見て、現実の事件も知っているし、たくさんの本を読んでいて、この現実を常に注意深く観察しているのである。あとがきで著者は自らのこれらの著書の各作品が『その方向が、つねにどこか一点を指しているに違いない』と述べているが、その一点を束ねると本の評題である「砂漠の思想」になるに違いない。なお、彼の文章は埴谷雄高の晦渋さと比べると、とても簡潔で読み易い。どうも、著者の作品はこれら数多の現実を観念へと移行させ表現している。つまり現実が彼の脳に映し出す心的形象を小説として書かいているはずである。きっと阿部公房論なるものはたくさんの本が出版されているはずで、著者を論ずるのは難しいし、本感想文では本書の中で気に入ったエッセイ何篇かの内容を紹介したい。
「死人の登場」では戯曲としての「制服」や「どれい狩り」での実在しないものの登場について述べている。この非実在物を描いたのは現実を直視する観点からと述べているのは興味深い。つまり亡霊を直視すれば、現実の厚い殻をとおしてその奥底が覗き込めると言うのである。これら実在しないものの登場は、サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」の影響を受けているのかと思っていたが、全く観点が異なるようである。つまり『死人は非実在であるが、けっして非現実ではない』のであり、死人なる非実在によって現実が明らかにされ得る部分があるのである。「文体と顔」における『人相の上で生理と心理と性格が交錯する/文体の上で言語と認識と表現が交錯する』また『文学の文体はなにを超えるのだろうか?』と問うている時、文体そのものへの思考が強烈に滲み出ている。
「映像は言語の壁を破壊するか」では、映画は言語の壁に挑戦して活性化しているのであり、そして小説家もこのまた、想像以上に堅固な言語破壊を行わなければならないと主張しているのは興味深い。ただ、著者の破壊するダイナマイトの火薬量は小さいに違いない。つまり、阿部公房の文章破壊能力は本書のどこかでその破壊し変形した文章の例を示していたが、詩的散文の極度に歪曲・寸断された言語に比べると、どうしても破壊の仕方が根本的に異なるのである。そういえば、著者が詩について語っている文章はみたことがない。破壊すべき言葉に対する発想が元々異なっている。阿部公房はミュージカルも好きだったようである。無論、好きな女はマリリン・モンローである。実体よりも表現であり、演繹的な存在であるモンローが好きなである。
「裁かれる記録係」では「地下水道」という映画について語っている。地下水道を伝って敵から逃げ出すレジスタンス映画である。逃亡の際、記録係が休みたがっている隊員たちが足手まといになるのを恐れ、後からついていると隊長に嘘を言い、副官を含めた三人だけが安全な出口に逃れることができる。ただ、副官は仕掛けられた爆弾で死ぬ。その嘘がばれて記録係は隊長に撃ち殺され記録用紙が飛び散る。阿部公房はこの映画の主題を、闘いを奪われた反スーターリン主義と断じている。なお、公房はこうした映画の紹介を結構行っていて、どれも面白そうでとても見たくなる。後日のためにメモ書きしておくと、「忘れられた人々」、「黒い罠」、「戦争と貞操」、「死刑台のエレベーター」、「アンダルシアの犬」、「糧なき土地」、「野ばら」、「つずり方兄妹」、「サレムの魔女」などなど。
「砂漠の思想」では「眼には眼を」という映画について述べ、内臓を剥き出しにして迫ってくる砂漠の映像が良いと述べている。「事件の背景 ――蜂之巣城騒動記」はダムの建設の反対運動を、現場や官庁などを訪問してこの事件の全貌に著者自身が迫っていく。一番の長編である。闘争は外部だけではなくて内部の矛盾にも行わなければならないというのが著者の主張である。内部の矛盾とは本書を読めば分かる。「アメリカ発見」はカフカの「アメリカ」なる小説から書き出される。実際にアメリカを訪問したサルトルの「ジャズは空しく形骸を保っているのだ」という言葉を加えて、アメリカ文化について述べる。最後に、日本内部に潜在するものが、既にアメリカの影を充満させているのではないかとの疑問も呈しながらも、アメリカ文化にも、なお新しい発見を見出すことができると著者は述べている。
そう言えば書き忘れたが「ジプシー部落訪問」では、ジプシーに歓待される阿部公房の姿が実に良い。「ミラチェク君の冒険」では日本娘に恋したチェコ青年のシュールリアリズム的な話も面白い。なお内容は省略。本書は阿部公房の批判的な精神が如何なく発揮されているし、彼の思考方法も或る程度開示されているし、そのうえ話も面白い。『いわば私の創作手口の公開である』であると詮索して読むより、きっと手軽に読書そのものを楽しませてくれる本である。
以上
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2015年6月19日(金) |
題:カント著 篠田英雄訳 「道徳形而上学原論」を読んで |
カントの「純粋理性批判」を読んでみたいが、文庫本で三冊と長いし、かつ難しいとの印象があって、まず手始めにこの初期文書とも思われる「道徳形而上学言論」を読んでみたのである。分岐と条件を伴った論理的文章であるが、使用されている用語の意味が分かればそれほど難しくはなくて、それなりに理解できる。ただ、内容的には西洋哲学のもはや古典であって近代哲学の入口という印象を持つ。なお、カントは1724−1804年である。なお、数学的な論理的秩序で構成された「エチカ」を記述したスピノザは1632−1677年でカントより以前である。
本書は「序言」、第一章「道徳に関する普通の理性認識から哲学的な理性認識の移り行き」 第二章「通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移り行き」 第三章「道徳形而上学から純粋理性批判への移り行き」から構成される。つまり順を追って説明されている。なお訳者解説では、本書の内容を分かり良く説明しているので、正確に理解したければそちらを読むほうが手っ取り早い。「序言」では道徳哲学についての分類・定義がなされている。哲学には考察する対象の差別のない形式哲学、即ち論理学となんらかの対象を考察する実質哲学がある。そしてこの実質哲学は自然の法則である物理学(自然学)と自由の法則に関する学としての倫理学からなる。この倫理学が道徳学とも呼ばれ、規定されなければならない理論的な法則が道徳哲学であり、経験的に人間の意志も取り扱うこともできるとカントは記述している。
このような経験的な哲学に対して、ア・プリオリな原理に基づく純粋哲学があり、悟性の対象を論じるものが形而上学と呼ばれる。即ち哲学と形而上学が区別されている。この形而上学は「自然の形而上学」と「道徳の形而上学」との二通りの根本概念から成り立つ。自然が物理学として経験部分も含むのであれば、即ち倫理学も経験部分を含み得て、倫理学における経験的部分は「実践的人間学」と呼ぶのに対して、「道徳の形而上学」はその理論部分を扱うものである。なお、文章で記述するとこのように少しややこやしいが、本書では図に書いてあって分かり良い。こうしてカントは『人間の道徳を導く手引としてのかかる実践的原則と、また道徳を正しく判定するための最高の規範』としての純粋哲学に基づく道徳哲学、即ち「道徳の形而上学」の必要性を述べると同時に、この「道徳形而上学原論」が純粋実践理性批判に他ならないとする。本書の後に道徳の形而上学を著述のための原論なのである。ただ、本書の名称を「純粋実践理性批判」としなかったのは、実践理性と思弁的理性の同一であることの完璧さに到達していなかったためなどと述べている。なお、広辞苑では実践理性を『ア・プリオリな道徳原理によって意志や行為を規定する理性』と定義している。簡単に「実践的」を道徳的と規定すれば、「思弁的」とは論理的・形式的なことを示すことになる。
第一章「道徳に関する普通の理性認識から哲学的な理性認識の移り行き」では、まず出発点として「善意志」について述べる。「善意志」とは無制限に善と見なされ得るものであり、人間が幸福に値するためにも欠くことのできない条件なのである。更に、最高善の概念を含んでいる「義務」の概念について述べる。この義務に基づいて幸福を促進するなら、この行動は本来の道徳的価値をもつことになる。なお『無条件的な最高善は、およそ理性的存在者の意志においてのみ見出され得る』(39頁)のである。つまり義務なる善を成さしめる行為に基づいて行動するなら、意志は善であり、道徳的な価値を持つのである。こうして『理性の真の使命は、何かほかの意図を達成する手段としてではなくて、それ自体善であるような意志を生ぜしめることでなければならない』(29頁)となる。この意志は行為の普遍的合法則一般として、『私の格律が普遍的法則になるべきことを私も欲し得るように行動し、それ以外の行動を決してとるべきではない』(42頁)のである。なお、格律とは行為の個人的・主観的規則である。ただ、理性の傾向は実践理性[常識]の批判を要求し、実践的哲学の領域に踏み入れさせるのである。
第二章「通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移り行き」は長文であるが、簡単に述べると、道徳性、道徳的価値について命法と行動から論じる。命法には、行為そのものとは別のあるものを得るための手段としての「仮言的命法」と行為を他の目的に関係させずにそれ自体だけで必然的である「定言的命法」があり、『我々は、自分の行為の格律が普遍法則になることを欲し得なければならない。このことが行為一般に対する道徳的判定の規準である』(92頁)とする。即ち、この考えを進めると、定言的命法はただ一つあり『君は、[君が行為に際して従うべき]君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって[その格律と]同時に欲し得るような格律に従って行為せよ』(85頁)ということになる。なお、自律による意志の自由が普遍的法則を作り自らに課すのである。ただ『すべての理性的存在者が[自己の格律]普遍的法則として用うべきことを彼等自身が欲し得るような格律に従って、常に彼らの行為を判定することは、彼等にとって必然的法則であるのか』(98頁)が問題となり、必然的であれば、この法則は理性的存在者一般の意志概念とア・プリオリに結びついていなければならず、この結果思弁的な哲学とは異なる「道徳の形而上学」の領域へと足を踏み入れさせるのである。
第三章「道徳形而上学から純粋理性批判への移り行き」では、まず自由の概念と意志との関連について述べる。意志の自由とは自律的な自分が自分に対して法則である意志の特性であり、結局『自由意志と、道徳的法則に従う意志とは、ひっきょう同一のもの』(142頁)なのである。こうして、『理性的存在者の意志は、自由の理念のもとでのみ、彼自身の意志であり得る』のであり、『理性は実践理性として、すなわち理性的存在者の意志として、この理性にそのものによって自由と見なさなければならない』(145頁)とする。こうしてカントは道徳的諸理念に関して、即ち感性界と悟性界(可想界と同じ)とを論じて、理性的存在者は感性界に関する限り自然法則に従っている(他律)とし、悟性界に属するものとしては、理性に根拠をもち法則に服従している、二つの立場を持っているとする。では、実践理性ではなくて純粋理性はどうして実践的であり得るのか。こうカントは自ら問い、この問題を解くのは人間の理性では無理だと述べる。なお、純粋理性とは経験から独立のア・プリオリな認識能力である。
それなりに理解できると言っても、カントの論理的思考に完全について行くには、何回か読み返さなければならないに違いない。それにしてもカントが理性の批判者であるとは、本の題名に「批判」との文字がついていることの意味を初めて知る。批評・判定のことなのである。カントは存在者の理性―悟性―感性の領域において、物との関係において、哲学について批判・思考しているに違いなくとも全部を読むのは時間がかかり、また有益かどうか。スピノザのように感動を伴わないため、まずドウルーズの「カントの批判哲学」を読むのが良いと思われる。もう、既に読んでいるのであるが・・。
以上
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2015年6月12日(金) |
題:埴谷雄高著 石井恭二編 「埴谷雄高 エッセンス」を読んで |
埴谷雄高とは何者であったのか。ずっと以前何冊か読んだことがあるし、無論「死霊」も一部は読んだことがある。でも、難解であるとの思いがあるばかりで、その他、彼の思想に関する記憶は殆どない。ちょうど古本屋に埴谷雄高、小林秀雄、阿部公房に関する本があったので仕入れて、さっそく一番分からずしまいの埴谷雄高を読んでみたのである。本書は石井恭二が埴谷雄高のエッセイから選択しまとめたものであるとのこと。埴谷雄高の思想の一端に触れることができるに違いない。
結論から言うと、本書を読む限り、埴谷雄高は難解ではない、革命家であり、理想主義者であり、思想を文学にすりこませる思想的文学者である。彼は投獄され、獄中にてカントの『純粋理性批判』を読んで深く影響されたらしい。「俺は−俺である」、また埴谷の気質を表している「自同律の不快」については、自我という表象を通じて思考が露わになる論理的世界をこのカントの著書に見出した結果であるらしい。またドストエフスキー、ポー、プルーストなどにも深く影響を受けたようである。それは苦悩する人間の存在である。こう書き始めると、話が進んでしまうので、まず本書を紹介して置く。本書は先に書いたとおりに、石井恭二が埴谷雄高のエッセイをまとめたもので、1950年代が10作品、1960年代が11作品、1970年代以降が3作品である。約300頁の手軽に読める本である。ただ、エッセイであるため、埴谷雄高の思想がそれなりに記述されていても、文学書などの内に秘めた思想が的確に表現されているかは分かるはずはないと思われ注意が必要がある。
埴谷雄高はとてつもない人道主義者である。生と死の根本に限りなく寄り添い、存在の至福を願ったヒューマニストなのである。「絶望・頽廃・自殺」と言うエッセイで『「助ケテ下サ」ト/カ細イ声/静カナ言葉』を聞くとき、「存在と非在とのつぺらぼう」で、『無限と永遠のなかに於ける観察主体の多様について吟味してみること』と言う時、「自由とは何か」で『革命家の唯一の目標は手を使う労働者達の自由と幸福』と述べる時、彼は被抑圧者側の立ち、彼らの自由と解放・幸福を願うのである。そして、この人道主義者は革命の実践行動に向かい、革命や存在論的な思想を深め、それを文学に表現しようとする。こう簡単に述べても、それほど間違いではないと思われる。なぜなら、埴谷雄高の述べる「自同律の不快」が自らに立ち現われてくるのは、存在する自からへの不快であり、そしてこの不快は究極の彼の理想、人間の尊厳を認める平等主義に至らないために生じてくる、かつ自らのいたらなさ故に生じてくると推測されるためである。
ただ、革命家は卑劣なため、より下位の者を正当に認めない階級社会であり、「暗殺の美学」における『裏切り者の名による同志の暗殺』を行うであり、革命は似非なのである。こうして生まれた国家も似非だと、似た言葉で述べていたと記憶している。このため一時デカダンに浸っていたらしい。「サドについて」などのエッセイはこうしたデカダンに浸った結果生まれた記述というより、存在論的な解釈を行っている。つまり埴谷雄高が革命家とならずに、思想と文学に傾斜するのは必然である。存在論的な彼の思想は本書のエッセイではそれほど深くは無い、論理的と言うよりも、存在への思い入れへの感情に近い。また夢と宇宙とが存在論に結びついているのは興味深い。夢の中に居て覚醒しているか分からない自らの朦朧とした状態の記述が結構多いのである。
なお、この夢は想像力として文学論に繋がっていく。「夢について――或いは可能性の作家」、「可能性の作家――続・夢について」、「不可能性の作家――夢と想像力」などにて夢について語っている。夢とは埴谷雄高とって可能性の作家であることを意味している。即ち、埴谷雄高にとって文学とは、現実世界から遠ざかって飛び出て、ひたすら果てのない未知に向かって驀進する可能性を描くことなのである。宇宙も虚無も無限も包み込んでしまうらしい、この夢に陥る感覚については詳細に記述している。「魔の山の中腹で」は、「死霊」を書くに至った「架空凝視」について述べている。「架空凝視」とは「あるもの、あったこと」を放棄して、「ないもの、在り得ぬこと」を重視する思想である。『白紙の上に、必ず「未知の何か」を創出してしまわねばならぬのが一冊の書物がもつべき意味であると私は決め込んだのである』と埴谷雄高は述べている。「ないもの、在り得ぬこと」を創出するのが白紙の上に乗せられた自己運動であり、思索作業の持続なのである。
埴谷雄高の感性は嫌いではない、むしろ好きである。文章も少し入り組んでいるが決して晦渋ではない、分かりよい文章である、きっと散文詩に近い記述に違いない。ただ、意識の薄明の領域を描くならば、輪郭線をぼやかしてはならない。夢の中の未知の領域であるからこそ、輪郭線を明確にくっきりと言語にて描かなければならない。なぜなら、現実的な世界を素材にして非現実的世界を描こうと志した彼の意図は、自らなる「虚在」をこの手法によって明確に鮮やかに浮かびあがらせることができるはずなのである。ただ、こうした手法の違いは彼の小説を読んで考慮するが一番良いのであるが、それは次の機会にしてみたい。小説として「不合理ゆえに吾信ず」や「死霊」が有名であるようであり、確か所有していたようにも思われるが探しても見つからない。出て来るまで待つとしよう。
以上
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2015年6月5日(金) |
題:レイ・カーツワイル著 井上健監訳 小野木明恵 野中香方子 福田実訳 「ポスト・ヒューマン誕生[コンピュータが人類の知性を超えるとき]」を読んで |
600頁を超える大著である。知性を歴史的に解き明かし、この知性を未来へと誘ってくれる本書は、だが無駄な記述が多いと私には思われて仕方がない。おおよその技術を知っている人には長ったらしい文章にしか思われない、相当に圧縮可能であるのである。つまり、技術的な文章と、この知性に関する未来への考察を分けて別本にて記述すべきである。もしくは技術を知っていると前提にして、未来の知性の在り方のみを概念的に記述すべきである。本書は斜め読みするのが良い。仔細に読む人は反論点を見出そうとする専門家、もしくは利用すべき点は無いかと探している専門家と時間的に余裕のある科学好きの読者だけであろう。それでも、眺めていると結構良い点も見つかる本なのである。
著者は特異点論者である。特異点とは技術が急速に変化する点である。この特異なる点を正しく理解すれば人間や人生の捕え方が変わる、未来へ向けての思考も一変させることのできる点なのである。特異点を理解して、人生にもたらすものを考える人を著者は「特異点論者」と呼ぶことにしているらしい。まず著者はこれまでの歴史を振り返って特異点は近いとし、まず六つのエポックを定義する。1)物理と化学 2)生命とDNA 3)脳 4)テクノロジー 5)人間のテクノロジーと人間の知性が融合する 6)宇宙が覚醒する の六つである。未来も含んでいるところが面白い。こうなると、あとはこれらの六つのエポックに関する簡単な記述となる。
当然、半導体におけるムーアの法則やその先を問題にする。人間の脳のコンピューティング能力、ナノテクの限界、光速の限界を超えることなどを論じる。当然人間の脳についても詳述する。つまり、GNR(遺伝子学、ナノテクノロジー、ロボット工学)なるこの三つが技術の兆速な進歩を支えることになるのである。この結果作られる微小なロボットと言うべきか、ナノボットが人間に、特に脳内組み込まれて人間の知性を支えることになる。まさに人間であるか非人間であるのか、生物体の概念を変えようとするのである。無論、人体には遺伝子的操作も行われている。軍事や経済などの社会的状況も一変するのであろう。こうした未来も含めた記述がなされているのは興味深い。
非生物体なる人間は寿命を持たない。仕事や遊びなどもバーチャルリアリティを含めて決定的な変化が予想される。宇宙の知的生命体との交信、知能レベルなどなど著者の関心は尽きることがない。ただ、どうしても人間の意識や死の問題が付きまとうとも、著者はそれ以上に宇宙規模の知能を、コンピューティングを考慮するのである。正確に言うなら宇宙で一番強力なものが知性なのである。こうして著者はGNRというテクノロジーから生み出される功罪について考慮するに至る。諸刃となるのであるテクノロジーは問題を解決してくれる、と同時に破壊するイデオロギーにも力を与え、防御が必要なのである。最後に著者はテクノロジーを適用して人類の価値を高めるしかないと結論付ける。その価値がなんであるか合意ができなくともと、と但し書きをつけてこの結論を記述している著者は力尽きて疲れ切っているように見える。技術について語るのは簡単であっても、まさにこの人類の価値を見出すのが一番困難な作業である。この価値について著者は何らその内容を述べていない。
テクノロジーを突き進ませれば、何らかの価値が人類に付着しているのだろうか、それとも人類は価値など無くても生き続けるのだろうか、良く分からない。科学と哲学とを論じた哲学書は結構ありながら、この未来の技術を含めて的確に論じている本をまだ知らない。それとも人類の価値のみを倫理学として記述した哲学本が良いのだろうか。ただ、こうした本が在るか無いかなどとは無関係に、科学はその本性故に未来に向けて現在を巻き込み、力尽きるまで進歩し改善し驀進し続けるに違いない。
以上
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2015年5月29日(金) |
題:バートランド・ラッセル著 高村夏輝訳 「哲学入門」を読んで |
バートランド・ラッセルは、確かウィトゲンシュタインの師である。ラッセルの本は読んだことはなくとも、記号論理学の大家であり、哲学者であることは知っている。ウィトゲンシュタインが痛烈に批判したラッセルが、どういう哲学入門書を記述しているか関心を持ち読んだ本である。感覚によって直接的に知られるもの、彼はセンスデータと呼ぶが、これと物質との関係、自我との絡みから始まって、観念や経験、更に哲学そのものについて述べている。結局、認識論が主体になって展開されているのである。論理的で簡単に分かりやすそうに記述は進むのであるが、今まで気づかなかったことや考えないと分からない点も結構あり、哲学の入門書としては良い本であると思うが、難しくもある。なお、本書の記述内容などは、訳者の高村夏輝が巻末に「訳者解説」として詳しく記述しているのでそちらを読んで頂きたい。訳者によると本書は世界で一番売れている「哲学入門の最高傑作」であるらしい。
本書は確実な知識はあるかの問いから始まる。感覚によりセンスデータとして得られる物質なるものが本当にあるかどうかから始まって、ラッセルは15章に渡って論述していくのである。この内容を細かく書くことは難しい。論述が少しずつ疑問と回答としてより深く論じられ進んでいくからである。ただ、物理空間そのものを知ることができないが、視覚などの感覚を通じたセンスデータが、私的感覚から独立に存在する物的対象があることを否定できないないとする。つまり観念論者は心の内に物質が存在すると主張するけれども、ラッセルは物を捉えるはたらきと対象とを区別すべきだと強調する。心にとって自分と異なるものを「面識」する能力は最も重要なものだと述べる。こうしてラッセルの立場は明らかになる。このように「哲学入門」書として、ラッセルは物を捉える感覚を手始めに事細かに話を進めている。
こうして知識は「知る」のであり、信念や確信など判断に適用される「真理の知識」と「もの」に関する知識、即ち「面識」に区分けされる。なお、「面識」とはラッセルがこう呼びたいとのことであり、直接意識して知っているという意味である。この面識は「記述を介して知る」と「その記述にあてはまるものの存在を面識しているものの存在から一般原理を通じて推論できている」との二つがあるとする。なお、「記述」とは対象そのものを直接知っているわけではないけれど、対象について持っている知識である。こうしてすべての知識が「面識」に依存し、この「記述」と「面識」を通じてラッセルは「普遍」、「把握」、「概念」や「命題」などについて述べる。
こうして「帰納」や「一般的原理」、「アプリオリ」などについても述べるに至る。「思考」や「観念」についても定義する。このあたりの文章はカントやプラトンなども混じって濃密である。ただ、ものの知識とは異なり真理の知識には誤謬があるのであり、真と偽について論じている。「真理の本性は事実との対応からなる」のであり、この「事実」と「信念」との関係を述べた後、ラッセルはヘーゲルの「絶対観念」と「本性」について、科学と絡ませて論じる。科学と哲学の知識は本質的に変わらず、科学と哲学を分けているのは、科学などの原理に対する哲学の批判的な検討であるとする。
最終章「哲学の価値」では、それまでの文章とは異なって情感が混じっている。『哲学の価値は主にその不確定さそのものに求めるべきなのである』(190頁)『自分の目的や欲望は世界の無限に小さな断片であり、自分が何をしようとも、それらの断片を除いて世界には何の変わりがないこと理解する。それゆえ、自分の意見に固執することもない』(194頁)などなど。訳者はこうした文章をウィトゲンシュタインが嫌ったのではないかと述べている。つまり、ラッセルは論理的に追及しながら、結局情緒的な感慨に陥っているように見えるのである。今振り返って見ると本書の内容を本当に理解し身につけていたのか、はなはだ疑問である。機会があれば読み直したい。
以上
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2015年5月22日(金) |
題:マイケル・S・ガザニガ著 藤井留美訳 「〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義」を読んで |
本書はW.ジェイムズなどがイギリスのエディンバラ大学から招聘されて行ったギフォード講義と同様に、依頼されて行ったギフォード講義を元にして記述している。内容は精神と脳との関連である。つまり人間の意識を物理学や生物学など多方面の学問を交えて論じている。ただ、内容にそれほど新味はなくて、さっと読み飛ばせば事足りる。表紙裏に『私たちは人間であって脳ではない』と記述されているが、これが結論である。即ち、精神や意識と脳との関連は、まだ解明されていずに、私たちは脳により作動するが、その前に人間であるということである。例えば、悪質な罪を犯すにしても、脳が勝手に引き起こしたと主張することはできずに、脳を含む人間としての総体が引き起こしたのだとする。ただ、その行動の仕組みの全貌を、脳を含めて解明することの重要性を著者は指摘する。こうした結論を導き出すための過程としての脳科学を本書では記述しているのである。
簡単に本書の内容を紹介すると、七つの章からなる。生物学的なニューロン、シナプスなど脳の成り立ちから説明する。そして右脳と左脳の並列分散処理を論じる。右脳と左脳とを分断した患者の実験例に基づき、右脳で把握した事実を、左脳ではインタープリター即ち解釈、物語を作成するモジュールとして機能すると述べる。そして、自己という幻影をこしらえ、自らの自由な意志で実行していたのではないかという問題に関して、神経科学における因果関係の決定論を交えて論じている。詳細は省略。こうして、外的要因と内的要因の相互に作用する複雑な環境が生み出すのが人間の行動であり、それをインタープリターは自由意志という名の元で選択したのだとする。つまり著者は自由意志とは作り出されたものであり、自由意志という概念を捨て去るべきだと主張するのである。
更にソーシャルマインドとして、情動と道徳的判断について述べる。こうして、ある「道徳的ジレンマ」の例をとり論じる。詳細は省略するけれども、著者は道徳的モジュールの基本なるものが脳に育ち在ることを示す。最後に犯罪行為と脳との関連を述べる。法廷には、神経科学の決定論が忍び込んで裁いているのである。罪を問うべきなのは人間なのか、脳なのか。脳と身体は本人とは別物なのか。脳が精神を制約する、逆に精神が脳を制約する常に逆向きのインターフェースもあるのである。これらが生み出す相互作用、その階層化された空間の重要性を著者は指摘する。これこそが脳の神秘のヴェールを剥がしてくれるのである。結局、本書は脳科学の簡単な紹介本であり、「〈わたし〉はどこにあるのか」という題名に触発されて、意識論や存在論の哲学や精神分析論などと誤解してはならない。この〈わたし〉ある空間を解くことの重要性を指摘しているのである。
以上
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2015年5月15日(金) |
題:相良亨 尾藤正英 秋山虔著 「講座 日本思想3 秩序」を読んで |
ここで述べる「秩序」とは人間界の秩序である。共同体の根底にある習俗、更に道理や義理、道徳、更に法秩序が問題となる。日本においては天皇の役割との関連もある。ただ、本講座シリーズは短論文の集まりであり、個別にそれぞれがそれぞれの秩序問題を扱っていて、秩序の全体を概念的に把握することは難しい。全部で十論文が掲載されているが、それらのうち関心を持ったものを簡単に紹介したい。『 』は本書からの引用文である。
「平安時代における天皇の一断面」では、摂政政治と院政の影に隠れた天皇の政治的に無力な時代において、斎王(伊勢神宮に奉仕した未婚の内親王)の宣託により発生した事件を取り扱っている。即ち、伊勢大神の荒魂とされる荒祭神が、神への不敬、公家、帝王の神事への欠勤に対する非難、藤原相通(斎宮寮の長官)とその妻の追放などの宣託を斎王を通じて行い、その対応を記述したものである。右大臣藤原実資と関白左大臣頼通とが対応にあたるが、結論を簡単に言うと、律令法の定める手続きが生きていて、追放流罪の最終決定権はまだ天皇にあったのである。藤原相通の流罪はこの手続きに従って行われる。なお本論文では外宮祢宜の昇級の件や宣託にあった「百王」思想などについても論じている。
「芸能・演劇・文学の中の天皇制」では、能の「日本記」などや近松浄瑠璃の「浦島年代記」、「義経千本桜」など、上田秋成の「血かたびら」や「白峰」の中に現れる天皇について述べている。本論文中に記述されている『宮廷は断絶と亀裂にみちたものであって、それは幾重にも欲望のからみあった空間である』だからこそ、芸能・演劇として演じられ天皇が文学として記されたのだろう。
「近世的秩序と規範意識」は、本書の中では一番「秩序」にかなった論文である。まず『法秩序とは、究極において正当的暴力の正当的行使によって担保された規範的秩序のことであり、習俗的秩序は、社会一般の非難・賞賛によって担保された規範的秩序である』と定義する。そして、中世における外部的法秩序と近世の内部的法秩序について述べる。更に近世社会と近世国家の法秩序まで話が及んでいくのである。なお、外部的法秩序とは、国家の未成立の段階では加害者と被害者の交渉関係で処理されて行くのに対して、内部的法秩序は国家が管理する。例えば、外部的法秩序では「下手人」は被害者の領主権力の元に引き渡され、被害者に対する償いとして法が成されるのに対して、内部的法秩序では国家に対する償いとなして成されるのである。この中世から近世への法の移り変わりを本論文では細かく論じている。『中世の契約的社会構成が近世の家父長的官僚国家の確立によって根本的に否定されてしまった』という著者の文章が法秩序の違いを端的に表現している。なお、近世とは近代とほぼ同等の意味で使われていると私は理解している。
「日本人の道理観」では、道理と言う言葉に着目して解説している。特に「愚管抄」、「正法眼蔵随聞記」などに基づき、まず「仏法への道理」、「人への道理」を論じている。老いたる母を扶養すべきか、それとも仏門に入るべきかの問題などである。更にこの道理が、「大方の道理」として習・例・定として捕えられていたとする。更に「沙石集」なども加えて情(なさけ)や慈悲、無私、正直、仁義などと関連させ道理を論じている。例えば、知で捕えられた道理は超えられるべきであるとし、道理よりも無私性の確立が必要とされたのだともする。そして、林羅山によってやっと善悪を判断する普遍的な道理の自覚が生じたとする。宇宙を貫き万物に内在する理の存在を極めることが強調されるのである。ただその後この理は不可測のものとされ、結局日本には体系的な道理は形成されなかったのではないかと著者は述べている。
「己の表現としての日本語」では、「伊勢物語」や「源氏物語」などを中心に、人間関係と言語表現の間で屈折する神経を論述していて面白い。多彩な使用例を見ると、やはり日本語は難しいと感じたものである。簡単に言えば「為手」と「受手」の尊敬・謙譲・丁寧が、著者の論述によるともっと複雑な表現になる、これらの言語的表現について論じている。更に言語が対象について述べるなら意義領域としての「対象的意義領域」と「主体的意義領域」に意味が広がるはずだと論じる。紫式部の日記がこれらの領域の両方を交え表現しているとの解説はなるほどと納得できるのである。例を取り上げたいが省略。なお、日本語は「伝達の言語」であり、西洋の言語は「認識の言語」であるとする。この日本語は主体的意義を富ませて、対象を柔らかく包み込み己との調和と秩序を保つ日本的な精神構造を形成していくのである。この日本語の言語と精神とが表裏一体として作動していると著者が述べる時、日本的な精神の特徴を垣間見た気がする。
「虚構としての義理」は「義理」という言葉について述べている。「義理」は武士階級に育ち、侵すべからざる絶対的規範性と、それに順応するために耐え忍ばなければならない自己否定性の二つの要因を持っていると著者は言う。この「義理」が自己抑制を要求する絶対的な規範としての観念を育たせさせる。近松浄瑠璃などでは、作者による虚構化されたこの義理を作中に盛り込み演出することで、違和感なしに観客に受け入れさせ、かつ感動をもたらすものとして有効に機能していたのである。更に著者は「情」との関連も述べている。
最後に一言、それにしても本書で述べようとしていた「秩序」とは何であったのか。一般的に言えば、「秩序」とは「社会的規則」のことを指すのではないだろうか。たぶん「道理」は含まれるが、情は含まれない。『知に働けば角が立つ,情に棹させば流される』とは知と情についての特徴を述べている。知を社会的規則とし優位性を認めて、そのうえ情を加えようとすれば、判決文に「情状酌量」と加える以外の手当てを思いつかないのである。
以上
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2015年5月8日(金) |
題:佐伯啓思著 「西田幾多郎 無私の思想と日本人」を読んで |
本書は西田幾多郎の哲学的な思想を紹介したエッセイである。エッセイであって哲学書でない。自らの思いを強く込めて記述していて、西田幾多郎の哲学的な思想を厳密かつ緻密に紹介しているわけではない、西田哲学の信奉者と見受けられる。文章も流れ澱んでいて表現の意図することが良く分からない箇所が多々ある。「善の研究」など読んだことのない者には、ただ西田哲学の概略を、雰囲気を知ることができるだけである。西田哲学を本当に知りたければ、彼の著作物を直接読まなければならない。でも、手軽にそれ相応に西田哲学と西田幾多郎について知ることができるのは良いことであり、こうした点を留意すればきっと読む値打ちはあるはずの本である。
西田幾多郎の本を読んだことはない私なのに、どうしてか少しばかり知っている「無の哲学」、「純粋経験」、「絶対的無の場所」、「絶対矛盾的自己同一」などなどの西田哲学で使用される概念が紹介されている。「永遠のゼロ」の小説の筋と夏目漱石の「現代日本の開花」論点が引用されている。これらの引用による著者の論旨の展開は本書を参考のこと、良く分からないのである。西田幾多郎の思想はたぶんヘーゲルやベルグソン、W.ジェームズなどの哲学者の思想に影響されているのだろう。ただ、著者はこれら西洋哲学を踏まえて日本独自の「無私」と「無」、「絶対的無の場所」への思想へと西田幾多郎は到達したと述べている。例えば「存在」がすべてを包摂していれば実体として取り扱うことができずに「無」というほかないと著者は述べる。どうも著者は「無」という場所から、即ち実体も形を取らない場所(無)があって、そこから形を取り得、さまざまの行動を起こすことができると述べている。この論旨から判断すると、西田哲学は心底の観念論者である。本当に正しいかどうかは私には判断が着かない。そしてこの無の場所に鏡があって「もの」の本質が映し出されると述べている。
たぶん、本書では「霊」や「物」や「生死」、「絶対者の意識」、「行為的直観」、「無限衝動」などの思想が述べられているが、一番強調したいのはこの「絶対的無の場所」という考えであるに違いない。そう言えば思い出したのが、ベルグソンは確か「無」とは、あるはずのものが取り出されて無い状態であると言っていたように思う、この思想とは異なっている。なぜならあるべきものが無いのであるのに対し、この著者の述べる「無」とは量子力学的な「真空」なる宇宙を生み出す場という考え方に近い。いや、むしろ寂蒔としていて生み出すことなどない静止した、墓穴の中のような場所と言う方が正しいであろう。どうしても生み出すのではなくて、醒めた視線のみがあるように思われる。こうした解釈の相違が生じるのはきっと著者の論述のまずさに起因する。更に著者は「相対的」とは異なって「絶対的なもの」は実体を持たないと述べる。「絶対者」が西洋では神であるが、日本では「無」と意識されると述べる。更に日本の思想は西洋の「有の思想」に対して「無の思想」であり、「悲哀」から始まると述べる。西田は「哲学は悲哀から始まる」と言ったらしい。詳細は本書を参照のこと。更に浄土真宗と西田哲学との関係について述べている。
日本文化とは著者によれば『自己を否定し、私を排し、無心になって、対象と自己を一体化する』ことなのであろう。『 』は本書からの引用文である。この文章はあまり良くはない、なぜなら日本文化とその思想を簡単に記述するのは相当に無理があり、きっと置換された言葉や抽象的な言語で言わなければならない。この詳細については割愛。また、私は「純粋」や「絶対的」と言う言葉はあまり好きではない。特に「絶対的」という言葉は避けたい、というよりこの言葉は表現として正しく表わすことができないはずである。この世界は「絶対的」であるよりも「相対的」である。「絶対的」と言って世界や心が無理矢理に構造化されると、「相対的」であるはずのこの世界が失われ破壊されるはずである。この世界は「相対的」にのみ成り立っている、「絶対的」などありはしない。光の速度でさえ絶対的ではなくて、相対的なはずである。ただ、「絶対温度」などの物理的な用語にのみ使用するのが良いと思われる。
ここまで書いて、自らが何を書きたいのか分からなくなった。手元にある「善の研究」を読んでみたいが、相当先になるだろう。もしくは読まないに違いない。「茶の本」などの日本文化を紹介する本なども結構あるはずである。ただ、やはり考え直して「善の研究」は西田哲学の代表作として、一度は目を通しておきたい。
以上
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2015年5月1日(金) |
題:セルバンテス著 牛島信男訳「セルバンテス短編集」を読んで |
世界で一番売れている「ドン・キホーテ」を読もうと思たったが手元にない。まだ読んでいない「セルバンテス短編集」を手っ取り早く読むことにした。短編集がどう書かれているか興味もあったのである。また著者セルバンテスに変わりはないはずであり、彼の文章や感性の特徴が現れていると思ったからである。「解説」を読むと、「模範小説集」と名付けられた12作品からなる短編集からなる小説集もあるとのこと。本書は「模範小説集」から三作品、「ドン・キホーテ」から一作品を選んだとのこと。読んだ感想は、本短編集は、少し冗長に長めに記述されていながら、さすがに話上手なのである。おもわず引きずり込んでしまう。心理描写が主であって巧妙な筋と絡まって、効果をあげている。とても四百年前の作品とは思われない短編の名手でもある。
マゾッホや夏目漱石の作品にどこか似ていると思いながら読み続けると、「解説」に「愚かな物好きの話」と漱石の「行人」との類似を指摘している論文があるとのこと。訳者はこの短編を「心理的リアリズム」とでも呼ぶべきと言っている。つまりひとつの行為が本人のみならず周囲の人間の心もゆさぶり、彼らを時として意志を超えた行為へと駆り立てられるさまを、その時の心理の微細なさまをリアリステックに記述していると述べている。まさしくそうであって、マゾッホや夏目漱石の作品と似ているはずである。マゾッホの作品は冒険小説的でもあるけれども、「毛皮を着たヴィーナス」では、愛人を作りその愛人が主人公をいたぶるのが愛であるのか、契約故に生じさせる愛の行為であるのか、もはや心理そのものが交差して分からなくなるのである。それに比べてセルバンテスは筋の中に心理描写をうまく取り込んで、「愚かな物好きの話」などでは、まるで本当に生じたとみえる出来事の世界へと読者を導いている。少しばかり作品内容を紹介したい。
「やきもちやきのエストレマソゥーラ人」は年老いた男が年の各段位に離れた若い娘と結婚し嫉妬に悩む話である。嫉妬故に娘を広い家の中に閉じ込めておくが、事情を知った若者たちが娘を貶める攻略を企てるのである。「愚かな物好きの話」は妻の貞淑を試して欲しいと大の親友に試す話である。親友はそんなことはできないと断っていたが、とうとう引き受けてしまう。「ガラスの学士」は自らの身体がガラスでできていると思い込んでいる物知りの学士の話である。「麗しい皿洗い娘」は銀の皿のみを磨く娘は、美しくありながら、誰の誘いにも乗らない身持ちのかたい娘である。この娘に恋した男とその親友は娘の住む旅籠の水汲み男や馬方となって共に暮らし機会を伺うのである。なお、「解説」に寄ればセルバンテスの短編には三つのパターンがあるとのこと。詳細は省略したい。
なお、セルバンテスのこれらの作品の中での最後の過半は人々が死ぬ。セルバンテスは主人公たちを殺すのである。ただ、とても陽気な気質と幸福が漂っていて、結末はハッピイ・エンドと思わざるを得ない人間への信頼感に満ちている。ドン・キホーテだってそうではなかっただろうか。義憤によって正義のために悪の風車に対峙する「ドン・キホーテ」は人間を信じていたからこそ闘ったのではないだろうか。もう「ドン・キホーテ」を忘れてしまったために「セルバンテス短編集」からのみ結論らしきものを導き出すなら、セルバンテスの人間心理への限りない関心であり、洞察であり、見出される滑稽さであり、深刻さでもある。そして、それらを筋として取り込む作品の陽気さであり、開放感であり、愉快さ故に楽しめるセルバンテスの稀な才能が見出されるのである。
以上
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2015年4月24日(金) |
題:スピノザ著 畠中尚志訳「エチカ 倫理学」を読んで |
スピノザの「エチカ 倫理学」は良い本である。彼の「知性改善論」は既に読んでいて、これよりも格段に良い。本書は1660年頃に記述されたらしい。最初に訳者の畠中尚志が「エチカについて」と題して詳細に論じている。これ以上に「エチカ」の内容について、専門外の私が記述することは思いつかない。従って、本書の構成と内容を簡単に紹介したい。本書は数学にならって「定義」、「公理」、「定理」から構成される、証明問題の回答のような記述をしている。上下二冊に別れて、次に示す論文構成を取っている。なお、その内容が分かるような代表的な定義や公理を引用したい。
1) 神について
定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。
2) 精神の本性および起源について
公理三 愛・欲望のような思惟の様態、その他すべて感情の名でよばれるものは、同じ個体の中に、愛され・望まれなどする物の観念が存しなくては存在しない。これに反して観念は、他の思惟の様態が存しなくとも存在することができる。
3) 感情の起源および本性について
定義三 感情とは我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する身体の変状[刺激状態]、また同時にそうした変状の観念であると解する。
4) 人間の隷属あるいは感情の力について
定理三 人間が存在に固執する力は制限されており、外部の原因の力によって無限に凌辱される。
5) 知性の能力あるいは人間の自由について
定理一〇 我々は、我々の本性と相反する感情に捉えられない間は、知性と一致した秩序に従って身体の変状[刺激状態]を秩序づけ・連結する力を有する。
特に1)と5)については大変感銘を受けた。無限の属性を持つ神、あたかもその神が存在するように、厳粛に緻密に記述されている。敬虔な神父のように、厳かにかつ優しく、暖かく、人間に対して肯定的にスピノザは語り続けている。彼の語る言葉は神と愛とを語る聖書そのものとさえ思われる。まさに哲学の聖書なのである。本書に記述されている概念の数々が、その後の哲学者に大きな影響を与えていると思われる。スピノザはレンズ磨きをしていたらしい。そしてユダヤ人でありながらユダヤ人社会からも追放されている。苦境にうちに生活し、彼は著作に励んでいたのである。それは倫理学の追及と言うよりも、人間精神そのものの数学的な証明を行いたいと言う欲求である。無論、国家論などには古びた点も見受けられるけれども、まさに人間精神と感情が数学的な論理で持って証明されていると言っても過言ではあるまい。そう言い切れるほど良いのである。
これ以上は記述しないつもりでいたが、思い出したのであるが、ドゥルーズがスピノザを論じていたはずである。簡易版の「スピノザ 実践の哲学」と詳細版の「スピノザと表現の問題」があり、両方読んでいるが、ドゥルーズはスピノザの哲学と表現の問題との繋がりを深く論じている。このドウルーズの思想の一部を紹介したい。ただ、触りであって、詳細を知りたければドゥルーズ著「スピノザと表現の問題」を読んで頂きたい。
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「スピノザと表現の問題」からの引用文の一部を次に示す。『表現の概念は神として規定された有に適用されるが、それは神が世界において自らを表現する限りにおいてである。またそれは真なるものとして規定された諸観念に適用されるが、それは真の諸観念が神と世界を表現する限りにおいてである。そして最後に個別的な本質として規定された諸個体に適用されるが、それは個別的な本質が諸観念のうちで自らを表現するかぎりにおいてである。その結果、三つの根本規定、つまり存在する、認識する、活動するあるいは産出するは、この概念のもとで測られ体系化されるのである。存在する、認識する、活動するは表現の種類である。充足理由の時代であり、充足理由の三分肢、存在の理由、認識の理由、生成あるいは作用の理由は表現のうちにそれらの共通の根を見出すのである』
こうして、ドゥルーズは、表現の概念は流出と創造の神学的な伝統の中に忍び込んでいるとするが、スピノザやライプニッツは人間を神にふさわしいものとし、また新しい論理の所有者とすることによって、これらの概念は神学的な伝統なる有の超越性を否認すると同時に、有にまさる一者の超越性も否認すると論述を進める。そして、『スピノザの場合、表現は創造と流出と和解するのではなく、むしろそれらを放逐し、非十全な記号、多義的な言語の側に投げてやるのである。スピノザは表現の概念のうちに内含されている哲学本来の「危険」、つまり内在性と汎神論を受け入れる。そればかりか、彼はこの危険に賭ける。スピノザの場合、表現の理論全体は一義性に奉仕しているのである。そしてすべての意味は、一義的な有を無関心にあるいは中立性の状態から引きぬいて、それを汎神論あるいは表現的内在性において実際に実現される、純粋肯定の対象とすることである』
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この抜き書きだけでは分かりにくいが、本書が手元に無いためにしかたがない。『スピノザの場合、表現の理論全体は一義性に奉仕しているのである。そしてすべての意味は、一義的な有を無関心にあるいは中立性の状態から引きぬいて、それを汎神論あるいは表現的内在性において実際に実現される、純粋肯定の対象とすることである』という文章に関心を持つ。つまり、スピノザの場合、一義的な有を内在性と汎神論に従い肯定の対象とすることによって、表現の理論全体を成り立たせているということである。そして、スピノザにおいては『表現は創造と流出と和解するのではなく、むしろそれらを放逐し、非十全な記号、多義的な言語の側に投げてやるのである』ということになる。私の言葉で言えば、表現はスコラ哲学の述べる有にまさる一者なる神の創造と流出により行われることをスピノザは否定し、表現は一義的な有なる神を汎神論的な多義的な言語の側に投げることにより行われるとドゥルーズが述べていると理解している。つまり、この世界に内在化させた神が自らを表現することに他ならない。なお、一義性とは神の存在など存在の一義性を示していると解釈したい。
こうして、神、観念に加えて、個別的な本質が諸観念のうちで自らを表現するかぎりにおいて個体も表現は可能となる。私の言葉で言えば、個体の観念なる意識に基づいて自らの表現が可能なのである。なお、記憶が薄れているが、ドゥルーズはスピノザのこの表現の問題を非常に深く論じていたはずである。ただ、こうした感想文になるなら、ドゥルーズの「スピノザと表現の問題」からの引用など止めて、本書「エチカ 倫理学」の概要を記述した方が良かったとも後悔する。本書にて記述されている内容がさっぱり分からなくなっているためである。もっとも、まとめるのが難しかったためこういう方式を選んだのかもしれないが。本書の内容を知りたい時には仕方がない、訳者のまとまり良い紹介文を読んで頼りにしたい。
以上
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2015年4月17日(金) |
題:荒木繁 山本吉左右編中 「説教節 東洋文庫243」を読んで |
新聞を読んでいて、初めて説教節なるものを知る。いろいろ探したが原文で読みたかったので、この東洋文庫の本を借りる。「まえがき」に説教節なるものの説明があり、説教節は中世から行われていた語り物であり芸能であるとのこと。操り芝居と結びつくことによって広がっていくが、浄瑠璃の発展に従って、決まった語り物しか行わない説教節は古臭いものとして飽きられたらしい。次第に忘れられるようになるのである。
ただ、本書を読むと分かるが、「まえがき」にも書かれているが、豊かな物語性と人情味を備えた説教節は人々の心を捕えたに違いない。説話文学としての「沙石集」や「今昔物語」、「日本霊異記」などの正統的な説教とは文学的には少し劣るのかもしれないが、これらの文体とは異なった表現は貧窮した生活や娯楽に飢えた民衆の心に即座に染み込こんで、歓喜する民衆の生の叫び声が文中から聞こえてくるような錯覚に捕われる。当然、語り手のうなる声が演台から響き渡って聞こえてくる。それほど物語性と人情味にあふれている。だからこそ文学的には深みを消して劣るのかもしれないが、そうした値打ちを忘れて読むことができる。もし声で聞くことができたなら、古浄瑠璃と同様の感銘を受けるに違いない。
なお、巻末に「解説・解題」と「説教節の語りの構造」でこの説教節についての詳細が記述されている。一つ重要なことは、説教節は元来もらいのための芸、乞食芸であったとのこと。社会的に差別された賤民の芸であったらしい。それゆえに説教が目的と言うより、説教は二の次であり、物語性と人情味にあふれて語られているのかもしれない。古来五説教として重んじられていたものに「苅萱」、「俊徳丸」、「小栗判官」、「山椒大夫」や「梵天国」とする説や、「苅萱」、「山椒大夫」、「愛護若」、「篠田妻」、「梅若」などの説があるらしい。ここで、少し何作かの内容を紹介したい。
「山椒大夫」は森鴎外の同名の小説で有名である。島流しされた父のために、母と子供らは御門に領地の所有権を奪われたと訴えるために旅に出るのであるが、母たちと姉弟は人買いにて別々に売られる。最終的には姉弟は「山椒大夫」の所で海水撒きや薪取りの辛い仕事をさせられる。ただ、弟は抜け出るが、姉は殺されるのである。そして弟は母とも会うことができ、領地の所有権も認められ父も戻ってくる。こうした詳細な筋書きは知らなかったのであるが、いろいろな登場人物が出てきて話を面白くしている。
「苅萱」は花の散るのを見て出家する男・繁氏と御台所に宿っていた子供・石童丸との親子話である。無論、御台所や姉もそれなりに登場する。繁氏と石童丸は女人禁制の高野山にて会う。母は入ることができない。姉はもはや死んでいる。繁氏は親子の名乗りを行うべきか迷ってさまざまに行動するが、結局子は剃髪し父の子弟となる。なお「苅萱」とは地名であり、この地を経て旅立つのである。高野山に絡んだ話でもある。
「新徳丸」は子の無い夫婦に授かった子・新徳丸を父・信吉、母なる御台所は学問をやらせるために寺に上らせる。ただ父は新徳丸に稚児の舞いを踊るために呼び戻すが、この時新徳丸は乙姫を一目見て恋をする。そして結婚の約束をする。母なる御台所が死に、父・信吉は後妻を娶り、この後妻は自らの子のために生木に釘を打って新徳丸を呪い癩の病者と成す。こうして新徳丸は乙姫を訪れるけれど、意外にも乙姫は癩病の新徳丸を結婚の約束故に手厚く看病する。そして呪いを解き、新徳丸を元の体に戻すのである。この乙姫の思いやりのある看病が読みどころである。
「小栗判官」が一番面白い。日本武尊の苦難の旅と似ている所がある。小栗判官は照手の姫に押し入り婚をするが、義父や義兄弟から無理難題をあてがわれる。鬼鹿毛なる荒馬は無事乗りこなすが、毒入り酒を飲まされて死んでしまう。彼の家来衆は火葬されるけれど、小栗判官は土葬される。閻魔大王は小栗判官を生き返らせるのを認める。ただ、枯れ果てた小栗判官の体は閻魔大王の示す薬の湯に入れなければ治らない。こうして照手の姫を初めとして多数の者が骨皮のみの小栗判官を乗せた土車を引いて行く。無論、引くことによって供養をさずかることができるのである。こうして湯に入り元の体に戻った小栗判官は仕返しを成し、照手の姫と暮らすのである。土車を引くところなど読みどころがたくさんある。
いずれにせよ、これら説教節は実際の声にてその語りを聞いてみたいものである。それにしても、古典文学の正統的な文章とはまったくリズム感や用語などが異なっていて興味深いが、やはり話の展開・筋が中心であって、文章は平易な表現している気がする。ただ、何度も言うが、歓喜・興奮する民衆の生の心が文中から打ち震えて聞こえてくるような錯覚に捕われる。数十年以上前に大衆文学と純文学とが論じられていたようであるが、そうした観点か説教節を論じはしない。ただ、正当な純文学とは私の知る限り大衆文学に属すると思われる。もっとも現在は文学そのものが衰えて、どちらにも属さない小説が多い気がしてならない。もっとも、読む小説の数は極端に少ないが。もはや、こうした区分けは必要ないのかもしれない。
以上
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2015年4月10日(金) |
題:ニーチェ著 木場深定訳「善悪の彼岸」を読んで |
本書は「道徳の系譜」よりも面白とは感じなかった。訳者の解説によると、本書はニーチェのなかでも芸術的に最も完成された包括的な纏まりのある作品と述べているが、私には少し荒い饒舌な文章である「道徳の系譜」の方が好きである。本書は、296番まで番号形式にて断章として記述されている、短文であるエッセイに似ている。文章は落ち着いていて柔らかい、これら文章の相違が何に由来するかは分からない。最後の「高き山々より−後歌」は訳者の指摘するように美しい詩である。ただ、私には本書は少し冗長な文章で記述されている気がしてならない。「道徳の系譜」の感想文で記述したように、ジル・ドゥルーズの「ニーチェと哲学」などを読んである程度ニーチェの思想は知っているので、簡潔に気の付いた点のみを記述したい。なお、訳者は「道徳の系譜」も訳して解説も行っており、訳者による両方の解説を読むほうが本書の内容をよく理解できるはずである。無論、ジル・ドゥルーズの「ニーチェと哲学」を読むのが一番良く分かると思っている。
本書は通番を取りながら九章からなる。その後の「高き山々より−後歌」が詩である。確かに、通常言われているように、既成道徳の否認・近代社会への批判を述べた書である。たとえば現れつつある新しい哲学者に対しては、われわれの意図や本能に対しては反対のもの欲していて『彼らは、この誤って「自由な精神」と呼ばれる連中は、簡単に、かつ酷く言えば、水平化する者どもだ。――民主主義的趣味とその「近代的理念」の能弁で筆達者な奴隷なのだ。』(82頁)と既存の哲学者を非難している。『道徳は今日ヨーロッパにおいて鬼畜道徳なのだ! ・・これと並んで、この前に、この後に、なおより多くの他の、とりわけ高次の道徳が可能であり、或いはあるべきであった』と主張している(179頁)。鬼畜道徳とは『知っていると信じているもの、ここで自分の賞賛や非難でもって自らを賛美し、自らを善と称するもの、それは鬼畜人間の本能である』この本能に由来する道徳を指し示している。
こうしてよく知られている主人道徳と奴隷道徳や力への意志に関してニーチェは述べている。次の文章は面白い。『社会は社会自らのために現存すべきではなく、むしろただ社会は選り抜きの種類の人間がその高次の任務へ、そして一般に高次の存在へ高められうるための下部構造であり、足場であるべきだ』(306頁)『生そのものは本質上、他者や弱者をわがものにすることであり、侵害することであり、搾取することであり、少なくとも、最も穏やかに見ても搾取である』(306頁)こうした文章は逆説的にもしくは真っ当な主張として、今なお生きていると言うことができるであろう。そして高貴とは何か問う。高貴なものへと向かい作品にて示している人々は、この高貴な魂の欠乏の兆候であるとして非難している。高貴な人間であることの証拠は行為でも作品でもないのである。『・・より深い意味において再び採用して言えば、作品ではなくて、信仰である。すなわち、高貴な魂が自己自らについてもつ何らかの根本確信である。求められるもせず、見出されもせず、恐らくはまた失われもしない或るものである。――高貴な魂は自己に対して畏敬を持つのだ。――』(344頁)という高貴な魂についての文章が印象的である。
「高き山々より−後歌」の詩はとても良い。友を待つと友がやってくるが、待っていたわれを望んでいたのではない。そして去って行く、すると友ツァラトゥストラがやって来るのである。最後の文書を抜き書きすると『いましも 世界は笑い、怖ろしき帳は裂け、/光と闇の婚礼は始まりぬ・・』となる。
以上
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2015年4月3日(金) |
題:A・アルトー著 宇野邦一 鈴木創士訳「神の裁きと訣別するため」を読んで |
うかつにもアルトーとコクトーを取り違えていた。机の後ろの本立てにA・アルトーの「アントナン・アルトー全集1」があるのに何十年ぶりかに気づいた。読んでみると驚いたのである。確かにドゥルーズやガタリが言うように、A・アルトーはランボーやボードレールやロートレアモンより裏切らないのである。非常に質の高い散文詩的な文章である。読んでいたら忘れるはずはなくて、きっと読み忘れてそのままになっていたに違いない。調べてみると、アルトー全集はこの一冊しかなく、宇野邦一さんを中心にして「後期集成」が三冊出版されている。その他に数冊ある内の一冊が、本書「神の裁きと訣別するため」である。全集や後期集成は期待を込めて読みたい、ただ感想文は書くつもりはない。なぜなら感想などない、言葉にならない熱い思いだけが残るためである。
「神の裁きと訣別するため」という題名からしてすごく良い。「神と訣別」するのではなくて、「神の裁き」と訣別するのである。裁くのは神であり、神は存在していて、その裁きと訣別する。神など、神の裁きなど無いはずなのに待ち構えているその「神から」ではなくて、「裁きから」でもなくて、空間を裁断するように「裁きと訣別する」のである。本書は主に三つ「神の裁きと訣別するため」、「残酷劇」、「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」から構成されている。「神の裁きと訣別するため」は詩作品である。鮎川信夫のように知的に語ろうとしない、吉岡実のように絵画的でかつ動的ではない、半ば狂気の半ば混沌とした言語が器官と人間と神について語るが、触れることのできない身体を、おしつぶされて爆発した触れることのできない身体を持った男の重々しい叫び声である。不可能性と無の充実した器官の、器官なき身体の過剰と錯乱によって、十字架から降りて不可視なものを罵倒する、神の裁きを無縁とするために、武装して隔絶させる一団の人々の、存在しない神のあらゆる形をまとって前進する空虚、そのものの内にある熱く燃える器官の、もはや身体を持たないはずの男の裁きに関する、裁きと訣別するための記述である。
「残酷劇」も詩作品である。なお、一般的に「残酷劇」とはA・アルトーの前衛演劇理論のことを指すが、この詩作品の「残酷劇」も残酷劇なる演劇のヴィジョンを成すものであるらしい。「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」は『ヴァン・ゴッホは狂人ではなかった』(112頁)と主張する、錯乱と秩序を持って書いた散文詩である。たくさん記述されているが、宇野邦一さんもこの狂人ではないという主張しか述べられていないと言っていたはずである。文章はやはり読み応えがある。A・アルトーは九年間精神病院に強制入院させられていたらしい。
A・アルトーは狂人である、身体にこだわり神にこの社会にこだわり、残酷劇の上演にこだわっている狂気の人である。文章を読んで客観的に判断すれば、半分は狂っていると思われる。だいぶ以前、狂人の詩を読んだことがあるが、それと同様の主体が裂かれて分裂した記述の文章の特徴を備えている、ただA・アルトーは知的に判断できる能力も示しているので、半分気違いと言うところだろうか。ところがこの半分の気違い書く文章はすごく良い。なぜだか分からないがとても良い。私は気違いではない。おそらく知的である。ただ半分気違いの文章が好きだから、気違いの素地は持っているのかもしれない。そんなこと分かりもしないしどうでも良いが、アルトーが身体に拘る以上に、神に拘っているのが気に掛かるのである。神とは空虚で熱い身体そのものなのか、歪んだ空疎な空間なのか、それとも別の何ものなのか良く分からないので、これからもアルトーの著作物を読んでゆっくり調べたい。
以上
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2015年3月27日(金) |
題:マルグリッド・デュラス著 聞き手:レオポルディーナ・パッロッタ・デッラ・トッレ 北代美和子訳 「私はなぜ書くのか」を読んで |
私はマルグリッド・デュラスのファンであって、少しばかり彼女の本を読んだことがある。切り詰めた文章や書かれていないはずの余白、それが彼女の持ち味である。夕闇に浮かぶ少女の白い美しい裸身を描く文章の力強さや華麗さ、それが彼女の魅力である。ところがこの本を少しばかり、数十頁読むことによって一気に彼女の魅力は崩壊した。この本の表紙を飾るデュラスの写真は、美しく老いているのか、醜い猿のように見えるのかもはや判然としない。どちらであってももう構いはしない気がしてくる。
きっと落胆する要因は幾つかあるが、大きい原因は何といっても、作家は自らの作品をその狙いを解説してはいけない、作品の解釈は読者に委ねなければならない、この原則を破ったことにある。デュラスは何度もインタビューを受けているとのこと、彼女はなぜ他人に自らのことを語り続けなければならないのか。それも根源的な意味を含めて、哲学的な用語も含めてその意味があるかのように露出狂のように話すのである、残念である。サミュエル・ベケットの場合、もはや無の空間に人称を失くした者だけが語り話すことができる。他人の前で話す時、ベケットはもはや言葉を発することができずに、泣いて無言で檀から降りたではないか。たとえ物語の出来事であっても、他人に向けて話すことは彼にはできないことだった。こうしたベケットの振る舞いの方が好ましいのである。デュラスは自分のことを語り過ぎる、それも自らの作品の解釈も含めて語るとはもはや露出狂であるとしか思われない。
読書の観点からすれば、インタビューによる話が良く分からないのである。どうしても言葉が不足する、文書も短くなって論旨が浮いてくる。それゆえ、ジル・ドゥルーズは議論を嫌っていたが、対話の時でさえ、その記録の文章に加筆修正し、おおよそ論文的な記述で発表していたのではないか。ドゥルーズの対話集を読むと良く理解できるが、デュラスによる本書は何を言わんとしているかさっぱり分からない、言葉の雰囲気で想像するしかない。元々私は雑誌などの対談は良く理解できずに嫌いである、対談は読む気がしない。互いの思いが異なっているのを辻褄があうように言葉を連ねて、話が勝手に飛んで行くのである。無論、声で聴くことができるならば別の意味のあるものになるのかもしれないが。こうした対話以上に曖昧なインタビューをデュラスが何回も受けている、デュラス自身の自らをこれらのインタビューにて露わにしようとする作家としての姿勢が、そしてその結果、自らの言語への信頼を自らが崩していることが信じられないのである。
本書の題でもある「私はなぜ書くのか」の回答が、文章への情熱や他人には解読不可能な衝動や自らの内奥の解放という理由であっても、その他の欲望や情熱であっても良い。確かデュラスは「なぜ書かないでいられるのか」との回答であったはずである。それにしても私は「私はなぜ書くのか」というより「私はなぜ廃棄しないのか」とデュラスに問いたい。フランツ・カフカはなぜ死後自らの作品を廃棄するように友人に託したのだろうか。もはやデュラスの作品が世の中に出回っていて廃棄する手立てがない以上に、根本的な作家としての立つ位置の違いがある。たぶん絶対的な自己の存立可能性を保持しているのであろう。デュラスは防波堤に、薄暗い部屋の中や廊下に絶対的に存在して撮影機材を弄び回している、不確定さが微塵もない強力な自己が存在するのである。カフカは虫に変身して家族からも見捨てられる、流刑地にて拷問される、ネズミとなって地下の中を這いずり回る存在の不確定さを描きだしているが故に、自らの悪夢を廃棄すべきと思ったのではないのだろうか。それ以上に自らの生きていた痕跡を消さなければならないと思ったのではないだろうか。いずれにせよ彼女は露出し読まれることを強く望んでいるのである。
白い裸身の少女がデュラスであっても、デュラスの母親であっても構わない。作家論は通常記述された作品と同時に作家の生い立ちや青春・成年時代の行動や思想なども記述されことが多い。これを完全に小説作品、テクストからのみ作家論を記述できないのだろうか。そうした作家論を読んだこともある。作品を通じて読み手が作家を創造することができる。いわば一つの作品として仕上げることが可能なはずである。いずれにせよ、本書はインタビューであるため、一握りのデュラスの愛読者、もしくは専門家が読む本であると思われる。専門家であれば原書を読むであろう。
訳者によるデュラス作品の紹介が掲載されているが、硬い文章が気に掛かる。原文から日本語への翻訳も要約も解読も確かに困難な作業である。ただこうした紹介文がどうあっても、小説は読んで面白ければそれだけで良いはずであり、この面白さは同じ作家の作品であっても各人にて異なってくる。当然、読者は作家自身の解釈から離れて自由に読むことができるはずである。無論、読もうとする関心があってこそ読むことができるはずであるが、防波堤が決壊し波が堤を乗り越えると、少しの関心や意志でさえ何もかも根こそぎ持ち去ってしまい、跡形もなく消え失せさせてしまうのである。残ったほんの屑の欠片から、新たに関心を構築して作品を読もうとする気力を奮い立たせることができるのだろうか、たぶん無理に違いない。
以上
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2015年3月20日(金) |
題:ベルクソン著 林達夫訳「笑い」を読んで |
ベルクソンの文庫本の「笑い」である。本書は1900年に論文が書かれ、1920年に出版されている。1896年の「物質と記憶」、1907年の「創造的進化」の間に書かれている。41歳の時の作品である。イマージュという概念を用いて心身問題を扱った「物質と記憶」、生命の持続、エランヴィタル(生命の躍動)をテーマにした「創造的進化」のちょうど間に書かれたものなのである。
「笑い」とは不思議なテーマを選択したもので、林達夫の解説によるとベルクソンとフロイトが初めて本格的に記述したとのこと。また、この後「笑い」についての研究が盛んになったとのこと。読んでみると心身問題としての「笑い」が興味深く、また後半にはエランヴィタルの概念が取り上げられている。ただ、前半は、ベルクソンは相当な読書家であったのか、引用する小説が多すぎて、笑いを誘うおかしみの内容が良く理解できないこともある。またドン・キホーテやモリエールなど知っている主人公や作家の作品が引用されていたとしても、どうして笑いになるか良くできない点もある。さっと読み流したせいか、理解が浅いためであるのか、その笑いの場面を思い浮かべることができないのである。
ただ本書は哲学者たちなどが「笑う以外にない」と言う、この「笑い」について緻密に分析している。三つの論文から構成されて、目次をあげれば第一章「おかしみの一般」、「形のおかしみ」、「運動のおかしみ」、「おかしみの膨張力」、第二章「状況のおかしみと言葉のおかしみ」、第三章「性格のおかしみ」からなる。おおよそ、この目次通りの内容に記述されている。ベルクソンの美しい文体で先の述べたように緻密に書かれている。また、当然のことながら精神と肉体、機械、運動などベルクソンの特有の言葉が使用されているのは興味深い。こうした『笑いは社会的な意義と効果を持っている』のである。
第三論文「「性格のおかしみ」からベルクソンの論調は一段と高揚としてくる。喜劇役者などを例に取り人間について、芸術について熱く語り出すのである。こうして『笑いは何よりもまず矯正である。屈辱を与えるように出来ている笑いは、笑いの的となる人間につらい思いをさせなければならぬ。社会は笑いによって人が社会に対して振舞った自由行動に復讐するのだ。笑いがもし共感と好意の刻印をうたれていれば、その目的を遂げることはできない』(179頁)と述べるに至る。つまり笑いから共感や好意を一時的に得ることはできても、すぐに消え去る。笑いは自由行動に対する復讐なのである。
本書の結論は意外なような気もするが、『自然は善のために悪を利用したのである』(181頁)つまり人間の悪意をこらしめるために笑いを利用するのである。社会がしなやかな適用を要求する、その表面のさまざまな混乱を一掃するために、笑いと言う波立ちを必要とするとベルクソンは述べる。この波を泡とし、泡には塩分が含まれていて、笑いが泡のようにあぶく玉を立てる、この泡を収集する哲学者は一抹の苦味を嘗めさせられる、と述べる一連の文章はベルクソンらしく美しい。
ベルクソンに関する文庫本は皆読んだので、これ以上読むには全集を漁るしかない。それともベルグソンが何を主張しているのか、今まで読んだ文庫本の内容をまとめてみるのもいいだろう。
以上
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2015年3月13日(金) |
題:水野和夫著 「資本主義の終焉と歴史の危機」を読んで |
本書は良い本である。今まで経済論や制度論などの本を何冊か読んできたが、本書はとても簡潔に簡明に、図表などのデータも揃えて淡々と驚くべき出来事の到来を客観的に記述している。つまり表題のごとく、何年か、何十年か、何百年か後に増殖する資本により資本主義そのものの終焉が訪れるであり、民主主義も破壊されてしまうのである。そして新しい社会体制が生まれ出てくる。この体制がどういうものであるか、まだ分からないとのこと。私は著者の考え方におおよそ賛成する、というより成る程、昨今制度論が仕切りに叫んでいることは、結局こういうことだったのかと、納得できたのである。
著者によれば資本主義は資本が飽くなき貪欲さで利潤を求める制度であり、その利潤が得られなければ資本主義は成り立たなくなる。つまり「長い十六世紀」において中世封建システムから近代資本主義に移行したように、この二十一世紀でシステムの変革が起きているとする。この原因を著者は利子率の2%という低下現象に求める。つまり「長い十六世紀」における利子率2%がもっと高い利子率を求めて制度の変革をもたらしたように、昨今の利子率の低下は「長い十六世紀」と同様に社会システムの変革をもたらさざるを得ないと言うのが著者の考えの根幹である。新書版の200頁ほどの短い本なので少しだけ簡単に説明する。
資本主義は植民地などの領土の拡張や電子空間でのデリバティブ金融商品によって利潤率を確保してきたが、もはや拡張すべき領土は無いのであり、電子空間はリーマンショックによって縮小してしまっている。この領土や空間の、またエネルギーの無制限の拡大・使用を前提にした資本主義社会は限界へと到達している。つまり「蒐集」という概念を著者は提示すが、この領土や利潤などの「蒐集」に最も適したシステムである資本主義社会において「蒐集」が困難に陥っているのであり、この「蒐集」から卒業しなければならないとする。この行き詰まりにおいて資本が利潤を得るためには労働者への分配を減らさなければならない。つまり中産階級が痛めつけられて没落し、民主主義的基盤そのものさえ破壊されてしまうのである。
また、消費が抑えられれば設備過剰が生じる。著者は中国が輸出型から内需型の消費に転換できない限り供給力過多になり、バブルは必ず崩壊すると述べる。この中国バブルの崩壊は一挙に到来せずに金融政策や追従者を従え輸出する領土を拡大してしぶとく生き延びようとしても、否応なく崩壊が生じるはずである。なぜなら設備過剰とともに、それ以上に国家システム内部の抑圧と自由を求めて葛藤する矛盾の増殖が、制度の転換をもたらすはずなのである。こうして著者は低金利が最初に始まった日本の優位性を、ゼロ成長を実現することの大切さを述べる。なお、著者は述べていないが、国の借金については早期にプライマリバランスを得る方が良いと私は思う、少しでも減らすべきである。危険な制度上の罠を潜ませているからである。「長い二十一世紀」の後に訪れる社会体制については興味深い5タイプ記述しているが省略。
こうした著者の考え方は、経済論、制度論のみならず、哲学や政治学に文学などに多大の影響を与えるに違いない。それにしても社会システムが変革する時、何かしらの過剰な暴力や悲惨さが生じているはずであるが、その他全地球規模で徐々にではなくて、カタストロフィな異変も生じる可能性もある。「長い十六世紀」が「暗黒の中世」とどう関連するのか私には知る由もない、ただこの資本主義の終焉が「暗黒の二十一世紀」とならぬように祈りたい。いずれにせよ、著者の視点で見るとこの世界の政治・経済の昨今の動きが理解できる。ただ、良く理解はできても良く分からないのである。哲学者などが「貨幣」と呼んでものの正体が少なからず暴かれているとも、これ以上に「貨幣」の正体を知りたければ、そして「制度」と「技術」や「人口」との関連を知りたければ、制度論・制度経済学を本格的に学ばなければならない。ただ、その結果、それらしき解がでてくるとは思われない。技術の進歩による生産人口と扶養人口との差の拡大など考慮すべき変数の数の多さに惑わされるのではない、因果律が適用できるように見えて、結局は適用が困難なこの世界の人間たちの無因果が未来を導いて来る、その未来の姿を希望を持って見守るしかないとも思われるのである。
以上
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2015年3月6日(金) |
題:ニーチェ著 木場深定訳「道徳の系譜」を読んで |
ニーチェの思想は、ニーチェの著書数冊に、ジル・ドゥルーズの「ニーチェと哲学」などを読んである程度知っている。ただ、ニーチェ自身が自らの思想を書いたと言われている本書を読んでいない。本書の訳者「解説」には、ニーチェは好んで描いた箴言の形式ではなく、厳密な論文形式で記述した自らの思想の解釈を示していると述べているが、成る程分かりよいと納得する。本書は序言、第一論文「善と悪」・「よいとわるい」、第二論文「負い目」・「良心の疚しさ」・その他、第三論「禁欲的理想は何を意味するか」からなる。簡単に思いつくまま記述したい。なお、訳者による解説が子細にかつ丁寧に記述されているので、そちらを読んだ方が本書を良く理解できる。
ドゥルーズの「ニーチェと哲学」の本は緻密にニーチェを論じた良い本であったが、手元にないため、おぼろげな記憶しかない。「戦士」や「ユダヤ人」に「反感(ルサンチイマン)」と言う言葉があったかどうかは定かではない。基本的に主人と奴隷の観点から読み解いていたはずであるが、本書を読むとその大元が記述されている。善悪の価値判断は、即ち道徳の生立は、僧侶階級や貴族階級と戦士階級との対立、嫉妬からから始まるのである。ユダヤ人とは僧侶階級であり、最大の憎悪者であるとニーチェは主張する。このユダヤ人に対するニーチェの批判は痛烈である。一般的な解釈ではキリスト教徒と言い換えことができるはずである。そして戦士階級とは征服種族であり支配階級である「戦士」であり、征服された僧侶階級や貴族階級が奴隷となって復讐と憎悪に満ちて反感するのである。
この「戦士」の貴族道徳は勝ち誇った自己肯定から生じるけれども、奴隷道徳は自己でないものを否定することによって創造的行為を行おうとするのである。即ち『この否定こそ奴隷道徳の創造的行為なのだ。評価眼のこの逆倒――自己自身へ帰るかわりに外へ向かうこの必然的な方向―これこそまさしく〈反感〉の本性である』(37頁)とニーチェは述べる。この反感から「悪人」が仕立てられ、更に「善人」という基礎概念が生まれ出てくるのである。なお、ニーチェはこれらの道徳を主人に対する奴隷の、賤民や平民の道徳の勝利とも述べているが、この道徳こそが人間の矮小化と均一化、退廃と没落をもたらすものなのである。
それにしてもニーチェの文章はいつもながら絶叫する声のような響きを持っている。まるで感情を剥き出しにした散文詩に似ている。ただ、論理的には整合しているのである。ハイデッガーが確かニーチェを主観的哲学の完成者と言っていたとも記憶しているが、この主観を成す「主体」と言う言葉をニーチェが多用しているので注目したい。ニーチェにとっては、抑圧された者や圧迫された者が自らを慰めるとき、自由意志により弱さを選択することができる「主体」という信仰が必要とされるのである。例えば意志作用、活動作用などは主体による作用としては考えない、作用の背後には何者も存在せず「作用者」は想像によるものであり、作用そのものが一切であると断言している。つまりニーチェにとって「主体」という取り違えの迷信からいまだに哲学が脱却していないのである。主体とは弱さそのものを自由と解釈する弱者などの欺瞞そのものなのである。こうした記述を読むと正しくニーチェの哲学はまさに経験などの客観的ではない、主観的な哲学そのものなのである。
良心とはまやかしであり、苦痛をあたえることをやめないもののみが記憶に残るのである。この記憶していたものが悪いほど人類は恐るべき相貌を呈する、結局刑罰としての行われた残虐性は記憶に残るものであり、「良心の疚しさ」とは、国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いた、敵意・残忍・迫害や襲撃や変革や破壊の悦びなどの諸本能を、その所有者である人間自身の方へ向きを変えたことによって生じたものである。人間の内部に埋め込まれたこれらが我が身を引き裂き、追い詰め、食い齧りこの貧窮した者が「良心の疚しさ」の発案者となって、それ以来人類に取り付いている。『すなわち、人間が人間に、つまり自分に苦しんでいるのだとする』(99頁)つまり内向した自らの上に放出された自由の本能、これこそが「良心の疚しさ」の起源なのである。こうしてニーチェは「国家」、「債権者」や「債務者」触れて、大いなる健康、あの救済する人間、そして正午の、この大いなる決定の時鐘の言葉を矢継ぎ早に述べるのである。
第三論「禁欲的理想は何を意味するか」は一番長いが、それ以前の二論に対してそれほど面白くはない。禁欲主義的理想とは、本来の僧侶的信仰であり力の道具なのである。退廃しつつある生の防衛反応と救治本能から発生する、死に抗して闘っている、生を維持するための一つの策略なのである。そして、僧職者の狡知はこの理想に基づいて逆に感情の放蕩に役立たせて、魂の健康を退廃させ文芸を退廃させるばかりではなくて、諸々のものを退廃させる。この禁欲主義的理想は一つの意志であり、真理の評価と批判の不可能性故に科学と同一の基盤に立っているとし、ニーチェは科学論やキリスト教的真理への意志を論じる。こうして禁欲的理想は結局人類に一つの意義を、苦しみの中での解釈を与え意志を救い出したとする。それは生に対する嫌悪、生の根本的な前提に対する反逆である、概念的に統括された無への意志である。無への意志が意志であることに変わりはなく、本書の最後にてニーチェは『人間は欲しないよりは、まだしも無を欲するものなのである』(208頁)と述べて終える。
先にニーチェへの文章は論理的ながら感情を込めた散文詩と似ていると述べたが、もし若くしてニーチェを読めば何年も虜になっていたかもしれない。それほどに痛烈な劇薬である。ただ、その心情には共鳴することがあるとも、少なからず感動しようとも、違和感のあることも事実である。劇薬を和らげる思想にも結構触れているためであろう、この中和作用がなければもっと感銘して読んだに違いない。ニーチェを主観哲学の完成者と呼ぶのも、もっともだと思っている。
以上
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2015年2月27日(金) |
題:ライプニッツ著 清水富雄 武田篤司 飯塚勝久訳「モナドロジー 形而上学序説」を読んで |
知の巨人、ライプニッツの文章は簡単に見えて難しい。おまけに論文が少ないし、また短いのである。そう言えば数年前に、ドゥルーズがライプニッツについての論文「襞 ライプニッツとバロック」を読んで感想文を書いた記憶がある。本が手元に無いために、この以前書いた感想文だけを読んだのであるが、章ごとに短くまとめてあって、ドゥルーズの論じるライプニッツが良く分かるのである。襞とバロック、まさしくこうした切り口で記述されているドゥルーズのライプニッツ論は美しくかつ論理的である。この感想文は長いので全部の引用は止めて、目次だけにする。
「襞 ライプニッツとバロック」の目次は以下のようになっている。
T 襞 「第1章 物質の折り目」 「第2章 魂の中の襞」 「第3章 バロックとは何か」
U さまざまな包摂 「第4章 十分な理由」 「第5章 不共可能性、個体性、自由」「第6章 一つの出来事とは何か」
V 身体をもつこと 「第7章 身体をもつこと」 「第8章 二つの階」 「第9章 新しい調和」
このドゥルーズの書いた本を読めばライプニッツの思想と、それに加えてドゥルーズの思想も分かるので、これ以上記述することはない。ただ、せっかくライプニッツの記述した原本を読んだので、少し思うままに記述する。襞とは物質の折り目であり、本書では『魂は自分のひだを一挙に開いてみるわけにはゆかない、そのひだは、際限がないからである』(24頁)との記述がある。また『目が絵の内に把握するものを、耳は音楽のうちに把握する』(213頁)こうした襞と音楽をキーワードにしてライプニッツ論を展開したドウルーズの見事さには感嘆する以外にない。そして、モナドや予定調和など、ライプニッツの思想のすべて含んでいると思われる。ただ「第8章 二つの階」の魂と物質の二階建ては、精神=宇宙を加えて三階建てになりそうな気もするが、たぶん論理構成の複雑さと言うより、宇宙は魂に含まれているに違いないのである。
ライプニッツはたくさんの知己を得て、たくさんの手紙を書いている。だが晩年は孤独であったようである。行動力を持ち科学アカデミーの創設などに奔走したが、実りは少なかったらしい。そうした彼の薄幸な生活を思うと、予定調和などの思想を良く持ち得たと思う、調和とは神への祈りのような思想に思われてくる。そう言えばモナドとは、開け放たれて誰も居ない部屋に飾られている人形のような気もしてくる。魂など入っていない小さなぬいぐるみ、もしくはこけし人形である。揺れることもなく吊り下がっている、もしくは箪笥の上に置かれている。時の刻み音の聞こえて来ないこの部屋は、この宙に置かれている、壁面などない無限に開かれた空間であるのかもしれない。モナドはじっと動かない。死んでいるのか生きているのかというより、そっと形象を象っている物質そのものなのである。では、魂は何処にいるのだろうか。吹き抜けの二階建ての物質のその上部に体から抜け出て浮いているのではなくて、もはやこの宙に溶け込んで消え去っているのではないだろうか。もう一度、魂とモナドとの関係を納得させてもらう以外に、魂の存在を確信することはできない。消え去ろうとする魂の尻尾を確実に捕えて、その確かな存在を把握しておかなければならないのである。
以上
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2015年2月20日(金) |
題:相良亨 尾藤正英 秋山虔著 「講座 日本思想2 知性」を読んで |
本書の「はじめに」にて、日本の知性について語ることの難しさを述べている。体系化された学問や思想として述べ得るものが無いためである。一方外来の思想を独自に変容させて、日本社会内部の組織や風土に適合させる知的能力は格段に優れているとする。そして西洋における概念的・分析的思考よりも具体的・経験的な思考が日本人の知的活動の歴史だと述べるのである。このため、本書はこれらの知的活動の所産である宗教などの思想を通じた個別の九つの論文によって、日本人の知性について明らかにしようとする。具体的・経験的な思考が日本人の知的活動の歴史だとする論文そのものが掲載されていないのは残念であるが致し方ない。日本の知性の特質は少なからず見えてくるので、気に掛かった論文を簡単に紹介したい。
「日本的知性と日本語―その論理性をめぐって」の論文では、西洋的思想にはない日本的思考法を反映した日本語の論理があるはずだと主張して始まるが、言語の特質として論理に結びつけるのは難しいとの結論になる。自然との調和として、春風、木枯らしなど代表的な語彙をあげ、日本的知性を反映していると言うが、やはり論理性とは結びつかない情的な面での表現なのである。こうして著者は言語的表現などについて詳しく論じている。「延伸の論理」、または「線状的論理」が面白い。例えば「年月」は過ぎ行くけれども、消滅するのではなくて再び現れてくるものだとする。変化するのではなくて交替していくのである。生と死についても同様に死んでは生まれる交替するものなのである。こうして消滅するのは問題にならずに、ある等質的な単位の繰り返しが一本の流れとなって続いていく、という物事の在り方の思想が「延伸の論理」である。「係り結ぶ構造」も面白いが詳細は省略。
やはり、日本の知性を述べるには仏教から入るのが解かりよい。「日本仏教思想の構造」の論文は本書における一番の力作である。西洋の認識哲学は対象に向けての思惟する「対象的思惟」であるが、これとは異なる禅なる心身一体となった思惟「全人格的思惟」を述べることから本論文は始まる。詳細は省くがこの「全人格的な思惟」とは全人格に関して真理を開発できることであり、ブッタにおける解脱である。人間ゴータマからブッタ(覚者)への目覚めによって、純粋生命が顕わになり一切の疑念が消失して、いのちが全人格を通徹するのである。これは禅定に入っている主体にダンマが顕わになることによって生じる。なおダンマとは多義的でありながら、強いて言えば形なき純粋生命であろうと著者は述べる。こうして仏教における目覚めの原型は主体者たる「存在の統括体」に「形なき純粋生命が顕わになる」ということによって充足するのである。こうした仏教的先覚者としての聖徳太子、更に空海、道元、親鸞、日蓮の各者について著者は論じる。詳細は省くが、この日本の仏教と共同体との関連も述べられていてとても興味深い。
伊藤仁斉や朱子について「中庸」の観点から論じた「近世儒家における人性と知」の論文や古書に基づき学問を行うことを主張し確立した契沖について論じた「国学における学問的自覚」の論文は専門的で難しい。省略。「経済思想における日本的特性」の論文では、徳川中・後期における経世思想を、荻生徂徠などの思想を基に論じている。荻生徂徠は朱子学のすべてが道徳的規範から展開される世界に対して、政治的立場=公と個人的生活=私とを明確に区分けすることによって、個人の私的領域を認め、個人の内面的自由と解放をもたらしたとする。そして西洋が物質支配に基づく社会科学的な法則を体系化した思想であるのに対して、日本は精神や政治を重んじる経済即経世救民だったとして、論述を続ける。
「平安朝の知識人」の論文では菅原道真について、文章道という組織における儒者と詩人としての二面性から論じている。この文章道は新たに賦与された儒学的側面と創設以来の文学科的側面を統括することになったのである。こうして政治と文化の両面に深く関わることになる菅原道真を取り巻く状況を詩文などの文書・文章を通じて論じている。宇多天皇による重用されたが最後は藤原時平の醍醐天皇への讒言により左遷され没した、学問の神様でもある菅原道真の内面が透けて見える論文である。なお、当時は王朝国家体制が成立する以前の宮中文化と現実の政治との矛盾が最も緊張した過渡期の時代であり、この後朝廷は政治を取り扱う朝廷から宮廷へと変貌していくのである。
なお、言い忘れたが「中世的知識体系」の論文では中世の区分けと、慈円の「愚管抄」による「道理」と「智慧」と「智解」との相互の関係、和魂の才などが述べられている。この中世は平安朝末期から戦国時代末期までを指すらしい。即ち、十二世紀(源頼朝が鎌倉幕府を開いたのが1192年)から、十六世紀(室町時代の足利氏最の後の将軍が織田信長に追放される1573年)頃である。中世前期では実用的であり芸能の一種として学問を重んじる、いわば貴族的な公的な言葉の遊びを行い活躍する知識人が、後期には「徒然草」を書いた兼好法師などの智者・数奇者としての、いわば生き方としての知識人へと変貌するである。いずれにせよ、本書にて日本の知性なるものの概略もしくは断片的な思想が記述されていようとも、おおよその日本的知性の特性を理解することは可能と思われる。
以上
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2015年2月13日(金) |
題:フェッリクス・ガタリ著 宇野邦一・松本潤一郎訳「リトルネロ」 宮林寛・小沢秋広訳「カオスモーズ」を読んで |
フェッリクス・ガタリ著「エコゾフィーとは何か -ガタリが遺したもの」が発刊されたと知って読もうとしたが、図書館には無くて、上記の本があるのを知り読んだ。ガタリの著書が結構日本語に翻訳され出版されている。どうもドゥルーズ+ガタリにおいて、ガタリは思考的閃きを発する者であり、ドゥルーズは豊富な哲学的な知識によってその思考を肉付けしていたらしい。まあ、彼らの演じる役割、彼らの関係の一端を示す記述は今まで読んだ本でも結構記述されていたはずである。ドゥルーズの死後、ガタリの著書が多数出版されるのはドゥルーズ+ガタリの共著である「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」に「哲学とはなにか」などについて、彼らの思考の手がかりを掴み解釈する参考にするためであろう。それにしても「リトルネロ」とは懐かしい。本書を読むために、「千のプラトー」の最終章「結論」にドゥルーズが用語解説を行っている「地層」や「アレンジメント」、「器官なき身体」、「抽象機械」などについての記述を改めて読み直した。これらの難解な用語の意味することが頭の中から殆ど逃げ出ていたからである。手に取り読んでみると彼らの諸作物を読んだ時の高揚とした感情、何かを掴んでいると確信した充実感を思い出すことができたのは幸いである。
「リトルネロ」はガタリが書いた散文詩である。宇野邦一が「ガタリ、リトルネロ、プルースト」と題した解説を行っていて、本書の意図やその思想的背景など殆どについて詳しく記述されている。もはやすべてを言い尽くしている論文であって、何を書くべきか迷ったが、この散文詩とガタリの思想について思いつくままに簡単に述べたい。なおリトルネロは英文ではリフレインになっている。この散文詩はガタリの年少期の思い出や思想に現実などが織り込まれ、単語や体言止めに普通文や感嘆符などで区切られた文章が続いている、いわゆる断片的な文章群から構成されている。解説によると原文では韻が踏まれている箇所が多いらしく、リトルネロを横断する何かを形成・表現する試みでもあるらしい。本書を読みながらマルグリッド・デュラスやマンデリシュタームの小説を思い浮かべたが、それらとも異なっている。無論、ランボーやボードレールにロートレアモンの詩や散文とは全く異なっている。なお、ガタリはランボーやボードレールは裏切るが、アルトーは裏切らないと確か「カオスモーズ」で言っていたと記憶している。確かにランボーは商人になり詩の創作から逃走する、ボードレールは重い罪を背負い込んで身動きが間々ならないが、アルトーの精神と肉体はその灼熱状態を露出し続けていて裏切らないはずである。
この「リトルネロ」には主体が無いのが特徴である。書き手が見えてこない。私とあなたはとは、彼と彼女かもしれず、夥しく登場する人物名などの固有名詞は飛び行き、固有を剥奪された一般名詞となる、つまり無限に拡散して抽象化される物そのもの前提であるのかもしれない。誰かがマルグリッド・デュラスの小説について、記述されている部分をAとするなら、記述されていない非A群が夥しく取り巻いていると論じていたが、この「リトルネロ」は非A群も含めて記述しようとしているとさえ思われるのである。つまり解説で宇野邦一が主体化の形成について論じているが、この主体化に至るカオス的な意識の流れとも見て取れる。ただ、そう読み取るには本作品だけでは難しくて、もう少し質的な強度と記述量が欲しい。たぶん、プルーストとの関係で論じるのが一番良いと思われるが、私は「失われた時をもとめて」の読書は挫折しているため、これらの関係は良く分からない、残念である。ただ、この散文詩「リトルネロ」は主体が消失していて、微かに音楽が流れていて、感情も輪郭も削ぎ落としていて好きである。
「千のプラトー」の記述を引用し簡単に「リトルネロ」なる概念を紹介する。ただ、私にも良くは分からないのである。『リトリネロこそ、まさに音楽の内容であり、音楽にひときわ適した内容のブロックであると考える』(中291頁)ここまでは良い。『リトルネロとはテリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメントだということ』(中320頁)から難しくなる。『リトルネロは領土的アレンジメントに向かい、そこに落ち着き、そこから外に出ていく』(中343頁)音や光など自分を取り巻くものに作用し、そこから多彩な波動、射影、変形などを引き出そうとするのである。そしてアレンジメントは抽象機械によって、表現の形式あるいは記号の体制(記号的体系)と内容の形式あるいは身体の体制(物理的体系)に向かって脱領土化していくことになる。なお、抽象機械は個人も主体も示しはしないで、物質と機能を示す固有名詞をもつのであり、脱領土化とは内容と表現に関わっている(以上、各頁からの断片的引用)。こうして単純に考えると、本書「リトルネロ」とは本書の解説に述べているように、主体と言表の構築並びに再構築に関わる音楽的な主体性であるのだろう。ただ、こうした他の著作物からの解釈をせずに、記述されている散文詩だけの評価は難しい、というより再度言うが、ある程度の質を持った実験詩と言うべきである。
「カオスモーズ」はまずマルグリット・デュラスの文章が最初にあって驚く。船が記述されているから、「船舶ナイト号」であるのか。それはさておくとして、「カオスモーズ」はカオス(混沌)とコスモス(宇宙)とオスモーズ(浸透)であるとのこと。本書は7章からなり、最初の「主体性の生産をめぐって」の章では、内容と表現、宇宙や他者などとの絡みで、主体と異なった「主体感」について述べられている。主体感は内容と表現の存在論的な質に共存性を与えることで分有できるのである。ぱっと捲って眺めただけであるが、やはり主体化がガタリの主要なテーマとしてあげられている。ガタリの文章が難解なのか、ぱさぱさと乾燥して読みにくいのか、読めば分かかりそうなのに、どうしても気力を入れて読めないので感想は簡単にする。ただ、この「主体感」は他の諸々の諸概念の内で一番重要な概念と思われる。主体感との関係で、初めにエソロジー(動物行動学)とエコロジーとが示されているが、それ以上に「集合的」という語に表されるように、個を超えた社会と個人の手前で主体感は展開されるのである。そしてこの主体感は集合の論理と言うより、情動の論理に属する多様体の意味で理解されるべきと本書では記述されている。この主体感を存在や実存なる概念に匹敵させるには、もっと哲学書としての論述が必要であると思われるが、個人の手前の存在として、個と社会の接着剤もしくは緩衝材として確かな位置を占め得る概念である以上の奥深い何かを含んでいると思われる。
ガタリが境界を作り出すことによって自らを創造するオートポイエーシスを取り上げているのは意外でありながら、当然だとも思われる。機械にこの核を埋め込ませて独自の価値を与えることができるのである。「美の新しいパラダイム」の章では、「領土化された現表行為のアレンジメント」のアレンジメントが持っている美的な力能について、原美学的なパラダイムとして語っている。無論、これは集合的アレンジメントに移行していくことになる。そして、この力能は非物質的な宇宙へと繋がっていくのである。最後の章「生態哲学の対象」では主体感を生産して、その豊かさを増す重要性について再指摘している。この主体感はカオスモーズ的な試練や内部崩壊に蛮勇を打ち払い、各専門分野での創造性を発揮させるからである。ただ、情動の論理に属する多様体についてはドゥルーズ+ガタリは彼らの著作物で述べていたはずであり、それらを読み直したいが探し出すのは難しい。
ガタリの本著作などは、ドゥルーズ+ガタリの著作物の補強材や注記として活用すべきなのか、ガタリの独自な思想を含んでいるかと問われれば、前者と理解したい。ただ、ガタリ独自の思想も、その思想の萌芽も含んでいると思われる。ただ、独自の思想を含んでいれば詳細に記述した文書も欲しいが、ガタリも疾うに亡くなっているはずである。
以上
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2015年2月6日(金) |
題:W.ジェイムズ著 「宗教的経験の諸相」を読んで |
本書は上下巻で約800頁の長編である。ジェイムズがイギリスのエディンバラ大学から招聘されて行ったギフォード講義であるとのこと。内容は表題が示す通りに、個人的な魂や回心に神秘主義など宗教的体験を各種の文献等から引用・説明・考察していき、最後に哲学的な観点からの意見、この宗教的体験の価値について論じたものである。ジェームズは欝にかかったことがあり、この危機的状況から脱する経験も生かされているとのこと。本書の巻末の「解説」では、『宗教的情緒の神髄を摘出することに成功されたと私は思います』とのベルグソンの手紙を紹介し、本書を褒め称えている。ただ、本書はあくまで個人的な宗教体験を外側から眺めていて、客観的である。また我々が住むこの世界における宗教の位置づけも希薄である、最後の結論はジェイムズらしく迫力がある文章であるとも、私は感想文にも書いたベルグソンの「宗教と道徳の二源泉」の方が好きである。ベルグソンはこの世界における宗教の役割を詳しく論じているためである。ただ、本書の内容を少し紹介したい。メモ書きとするためである。
『人生には情緒的で神秘的な体験をする瞬間がある』(上33頁)とし、『この精神病的気質が、宗教的真理の領域や、宇宙の秘境へ私たちを導いてくれる』(上45頁)とし、ジェイムズは『宗教とは、個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えるものと自分が関係している場合だけに生じる感情、行為、経験である』(上52頁)とする。『道徳の場合には、恐怖は中絶されるのであるが、宗教の場合には、それは中絶されるのではなくて、積極的に拭い取られ、洗い流されるのである』(上76頁)その他にも例があるが、ジェイムズの「道徳」とベルグソンの「道徳的責務」との違いに注意する必要がある。こうしてジェームズは「見えない者の実在」としての神を感じるとき、幸福を生み出す「健全な心の宗教」、「病める魂」、「分裂した自己とその統合の過程」、「回心」などを感じる諸例の文章を取り合あげ論じている。『悪の事実こそ、実在の真の部分だからである』(上247頁)の「悪」が憂鬱の言い換えなのかも注意する必要がある。
次に「聖徳」について述べる。「聖徳」とは『宗教が人間の性格に実らせるふくよかな果実をあらわす』(下28頁)のであり、この果実の一つが慈愛と兄弟愛などである。こうして「聖徒」の役割をジェームズは認めるが、『私の知る限り、聖徒的な衝動に対してもっとも敵意ある批評を加えた者は、ニーチェである』(下172頁)などニーチェに対する批判が散見される。次に「神秘主義」について述べる。『個人的な宗教経験というものは意識の神秘的状態にその根と中心とを持っている』(下182頁)と述べ、言い表しようのない暫時的な心の状態だとして、経験的性質を持つものとする。『このような恍惚状態は、迷信と言う知的な基盤と、変質およびヒステリーという肉体的な基盤の上に立つ暗示的、模倣的な催眠状態以外の何ものでもない』(下234頁)など心理分析家としての視点も加わっている箇所もある。
こうして哲学、神について述べる。神の道徳的属性については『プラグマチィズム的に考えると、道徳的な属性は・・恐怖と希望と期待を積極的に規定し聖なる生活の土台である』(下284頁)として捕えている。そして『宗教の本質は、無限者がはるか遠くにある幻影であることを止めて、現前の実在になったということである』(下291頁)即ち個人の理性ではなく、感情と直接的経験によって得られる実在なのである。こうしてジェームは結論として、『目に見える世界は、より霊的な宇宙の部分であって・・このより高い宇宙との合一あるいは調和的な関係が、私たちの真の目的である』と宗教的な生活の特徴を捕える。『宗教的であることによって私たちは究極的実在を、私たち自身のものとすべく私たちに与えられているまさにその点において、確実に所有するのである。つまりは、私たちが責任をもって関心をかたむけるべきものは、私たち個人の運命しかないのである』(下361頁)
『宗教のいかなる発展段階においても、生命に対する愛こそ、宗教の推進力なのだ』(下370頁)とする。更に「より以上のもの」との合一について潜在的意識の連続性だと捕える。ジェームズはこの潜在意識を重要視している。更に『意識的人格は救いの経験をもたらしてくれるより広大な自己と連続している、と言う事実こそ、宗教的経験に関するかぎり、文字とおり客観的に真であると私に思われる宗教的経験の積極的内容をなすものである』(下382頁)こうして『私たちの現在の意識世界は、存在している多くの意識の世界のうちの一つにすぎないこと、そして、これらの別の世界は、私たちの生活に対しても或る意味をもつような経験を含んでいるに相違ないこと』(下387頁)とする。即ち、表題の「宗教的経験」という言葉の意義が示されるのである。ただ、この「宗教的経験」とは「経験の諸表」なのであって、それ以上でも以下でもない。結局、本書は宗教的な経験をするその経験に関するたくさんの記述に、その宗教的な経験の意義を最後に加えたものなのである。
以上
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2015年1月30日(金) |
題:鷲田清一著「哲学の使い方」及び岸田一隆著「3つの循環と文明論」を読んで |
鷲田清一著「哲学の使い方」と岸田一隆著 「3つの循環と文明論」を読んだが両書とも簡明にかつ単純に書かれていて、殆ど知っている知識であり、両本を取り上げて、簡単に感想を書きたい。
鷲田清一著「哲学の使い方」は題名が示すとおりに、哲学の現実的な使い方について記述している。「序」に書いてあるとおりに「哲学は問題の解決に向けた手がかりをつかむもの」である、こうして哲学の歴史的経緯や「哲学カッフェ」などを通じた臨床哲学として応用すべき方法論を本書では記述している。いわば実践的な哲学の必要性を主張しているのである。ただ、私にはディキンソンの詩の一行「哲学は知らない」という言葉が、知がどうしても知ることのできない哲学そのものの、もしくはその外側を含んだ秘密の箇所があるように思われて、どうしても気に掛かるのである。ただ、このことを論じることは難しいし、良く分からないのである。詩人ペソアが「その秘密を追え」と言うからには、秘密を追いたい。ただ、秘密を解くのが怖いのではない、秘密はどうしても残ってしまうものでもある。
岸田一隆著 「3つの循環と文明論」では、人類が持続可能な社会を築くために、「物質、・・」、「産業」、「金融」の3つの循環を簡単に説明し、これらの循環に基づいた人類の持続可能な社会を構築するために考慮すべき点を記述している。いわば定常型経済への移行の必要性を記述していると言っても良い。本書の3つの循環を示した図はとても分かりやすい。著者は未来へ人類が生き延びるために、現状行うべき思考と選択を強調している。ただ、両本とも簡単な記述しかないことは留意したい。
そう言えば、両書とも思考の重要性を説いている。現状の問題また未来に向けて考えること、思考することの大切さはあるが、思考するそのものの困難性と、思考された概念の評価は難しい。もしその思考の結果に基づき行動が起こると、生み出される結果には常に予測不可能性が付きまとうはずである。たぶん、私が「哲学は知らない」と言った言葉にはこの「結果の予測不可能性」がある気がする。つまり概念によって基盤を支えられているこの世界の脆弱性は常に予測が不可能なのである。確率的に表したとしても未来はこの分布に従って出来事が生じるわけではないのである。
最近では、最新の宇宙物理学の理論によって、脆弱性や予測不可能性などから脱して、この世界の基盤を支えることのできる概念を生み出すことができるとのこと。「定常型社会」的な思考とは異なった、もっと豊かになり明るい未来を描くことができるとのこと。秘密はどうしても残るのではない、理論的にはなくなっていくのである。こうして予測される未来では、どのようなことが起こっているのであろうか。この最新の理論により、訪れる未来をできれば直に眺めたいものである。それとも、秘密はまだまだ残されているのだろうか。
以上
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2015年1月23日(金) |
太宰治著 「人間失格」を読んで |
太宰治の「人間失格」を読んで感想文を書こうと思ったが、何も浮かんでこない。珍しいことである。本書に書いてある通りであり、付け足すことがない。何日か置いてふと思ったのが、麻疹(はしか)という言葉である。だいぶ以前になるが、それなりに太宰治の作品は読んだことがある。特に「斜陽」が好きであって、太宰治も好きであったと記憶している。ところが、一年も過ぎると彼への情熱も下がって、すっかり忘れてしまった。私には彼の作品は、どうしても青春の一時期通過しなければならない麻疹みたいなものだ、という思いがこみ上げてきたのである。
夏目漱石の「こころ」と比較すると、「人間失格」に私はそれほど関心を持っていいない。この「人間失格」が「こころ」と販売部数の1,2位を競っているなら、青春時代にデカダンとして親を含めた既存権力への、もしくは自分自身への反抗や社会的な自我の確立の失敗、人間の心に潜む奈落へ転落したいという弱さとその寂しい賛美を描いた小説として共感を呼び込むためであると思われる。麻疹にかからずに、読むことをせずに青春を通過した人は幸いである。なお、本書の内容を紹介すると、大地主の息子である大庭葉蔵が社会主義者や女たちと絡んで自堕落な生活を送る、つまり太宰治自身の生活を重ね描いた作品である。なお、大庭葉蔵の手記を第三者が公開すると言う体裁を取り、「まえがき」と「あとがき」が付いている。ここまで書いて、やっとどう記述するか道筋が見えてきた。本書の内容について簡単に思いつくまま箇条書きにすると次のようになる。
1) 主人公、葉蔵は「道化」として生きる。こうした自己と他者との関係は容易に想像できる。そしてその赤裸な姿を小説家自らが暴くのである。例えば三島由紀夫の「仮面の告白」は性的倒錯を描いていたはずであるが、著者自身の姿を描いていたものであり、この「仮面の告白」の方が文章も美しく、また緻密であったと記憶している。「人間失格」はそういう意味で、優しく誰にでも分かる文章であり、作者の思いは伝わってくるがどこかひ弱であり、文章の行間の密度が低いのである。「仮面」が肉に張り付いて人間そのものを緻密に表現しているならば、「道化」が場を保つ迎合的性格として、単純な道化役者のような生き方が伝わってくるだけである。ただ、この「道化」として演じる自己は行間の密度は低くとも、誰もが感じる自己の分裂性であり葛藤であり、それが共感を呼び込んでいるはずである。
2) 『世間というものは、個人ではなかろうかと思いはじめてから』(98頁)と記述があるように太宰治も夏目漱石と同様に世間を気にかけているが、太宰治には世間とは個人である。夏目漱石も同様に個人として捕えているはずであるが、もう少し輪郭がぼやけて、得体の知れない人間たちとなる。太宰治にとっては固有名詞やあだ名がある実体的な人間である。漱石にはあだ名など初期作品にあるだけであり、次第に人間の心理の集合体が世間となる。漱石のこうした世間の捕え方など「こころ」と本作品との相違点は、小説の質的な深さに影響を与えている。無論、小説の質の定義をなさなければならないが、今はただ私の感覚的な共感度としておきたい。
3) 葉蔵は処女性の美しさを褒め称えているが肉感的な人間の女である。彼の妻となった処女はその純粋性を忍び込んできた男によって失うのであり、哀れさがあるとも、それによって心が荒廃しようともこの処女は現実の人間の肉体である。ただ夏目漱石にとっては、処女性は無垢の観念なのである。「死ぬまで少女(おとめ)なのです」(「薤露行」からの抜粋)など、彼の作品には何度か少女(おとめ)の観念が表れ出る。人間の裏切りや猜疑心に対する心の純粋性を示している。つまり漱石が現実を通して葛藤する現実の向こう側に乙女を潜ませているのに対して、太宰治は乙女の肉体が現実の内に現れ賛美や戸惑いに裏切りの対象となるのである。
4) 人間失格とは何か。『ここに連れて来られて、狂人という事になりました。いまに、ここから出ても、自分はやっぱり狂人、いや、廃人とう刻印を額に打たれる事でしょう。人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました』(142頁)モルヒネを打って主人公は脳病院に入れられたのである。人間失格とは自堕落な生活を送っているうちに薬を打ち中毒となった患者なのである。世間を騒がせる人間でしかない、本書ではそれ以上の意味を含ませていない。善と悪に絡んだ、またそれらを超えた人間失格ではない。もっと別の意味での人間失格もあり得るはずが、こうした意味での「人間失格」でもない。絶対的なデカダンでも狂気でも絶望でもない、自らが述べた通りの単なる自らの心身状態の喪失、喪失感を示した言葉なのである。
以上、本書の要点を「こころ」などと比較し感想を述べたが、では「こころ」や「人間失格」がなぜ小説として売れ続けるのか。そんなこと私に分かるはずもない、テレビ論じていた時もアメリカなどと比較し、日本のベストセラーが自殺をテーマにした特異なものとしている。売れる理由として、1)教科書を媒介としている、2) 遺伝子の神経伝達物質(積極性を持たせるドーパミンと心配性なるセロトニン)の構成比率が異なり、日本人はアメリカ人と違って自問自答する、悩むタイプが多いためなどではないかと結論付けている。無論、歴史を通じて培われたその国の文化性や人間性に起因することもあり得る。
ただ、一つ言えることは時代との関連性があるのではないかということ。日本においても時代によって描かれる文学は異なるはずである。古代ではおおらかであったし、平安朝では悩みながらも生き生きとした人間を描いている。また中世では無常観が前面に出ていけれど戦乱の世である、江戸時代には心中事件を扱いながらも華やかな町人を描いている。近代・現代では心情・心理を中心に疎外され喪失した自己を描いて、それなりに時代特有の共感を持たせるはずである。でも、日本文学では、やはり勇壮なものより悲恋・悲哀ものが多いような気がするのは、神経伝達物質の構成比率の異なる人種のためなのかもしれない、良く分からないのである。
ここで小説の質の高さについて、私は質の高い小説とは長きにわたって、できれば百年以上読み続けられる作品だと思っている、そのように定義したい。つまりこの観点からすると「人間失格」も「こころ」なる小説も質は高いと言って差し支えないはずである。
以上
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2015年1月16日(金) |
題:マルサス著 永井義雄訳「人口論」を読んで |
それほど期待はしていなかったが、読んでみると古典的名著と言われるに値する良い本である。マルサスはヒュームとアダム・スミスの影響を受けている経済学者であり、人口論の学者である。彼は青年期に本書を書き、その後は人口論よりも経済学者として活躍したとのこと。本書は二百頁強の短い本でありながら、十九章もの多数の章から成り立っている。本書の論旨は『人口の力は、人間のための生活資料を生産する地球の力よりも、限りなくおおきい』のである、即ち『人口は、制限されなければ、等比級数的に増大する。生活資料は、等差数列的にしか増大しない』(23頁)を前提に、この前提の根拠と経済的、倫理的な観点からの著者の思いを記述したものである。この思想は自由、平等、博愛を掲げたフランス革命後に発刊され、その現実を直視する視点からの論述は社会思想として多大な影響を与えたとのこと。ただ、こうした思想に基づいた記述は論理性・示唆性には富んでいるけれども、少し陰鬱な内容を含んでいることに注意されたい。なお、人口数と生活資料の観点に、「生活の質(レベル)」を加えて再考すれば、現代にも通じるはずである。
食糧と労働の価格との関係について『食糧の名目価格がしだいに騰貴するあいだ、・・このことは労働価格の実質的下落であり、その期間中、社会の下層階級の状態は、しだいに悪化せざるをえない。しかし、農業者および資本家は、労働の実質的な安価によって裕福になれる。・・不当な団結により、富裕なものは、しばしば、貧しいもののあいだにおける困窮の期間をながびかせるようにはたらく』(35頁)のである。即ち、富める者は更に富み、貧しい者は更に貧しくなる。マルサスはこうし経済的観点からも、婚姻、戦争やペストなどの悪徳と絡ませて人口論を論じている。結局、人口が増大してくるとこれらの諸悪が人口を減少させるのである。これは貧しい者たちを救い出してまで人間は生存し得ないことである。生活資料の増大と言う近代社会はまだ始まっていない時代の一風景でもある。
救貧法への非難も重要である。『イングランドの救貧法は制定されたのであるが、それは、個人の不幸の強度をすこし緩和したかもしれないけれども、もっとひろい地域に一般的害悪を伝播したことが、憂慮されるべきである』こうした言葉は安易なヒューマニズムの否定と言うより、人間の増大に繋がり、人間の生存を脅かすためである。そして『貨幣によって、貧しい人をひきあげ、以前よりも生活の改善を可能にするには、同じ階級の他の人びとをそれに応じただけおしさげることなしには、不可能である』(59頁)パイが一定であれば、増える者が居ることは減る者が必ず居るということである。『イングランドの救貧法は、一般民衆の貯蓄の力と意志を減じるし、また従って、節約と勤労、従って幸福へのもっとも強い誘因の一つをよわめる』(63頁)とも言っている。
得られる食料と人口は同水準に落ち着くものであり、『人類の諸悪徳は、人口減少の積極的かつ有能な使臣である。・・巨大な不可避的な飢饉が最後に横行し、強力な一撃をもって、人口を世界の食料と同水準にする』のである。こう述べた後、マルサスは複数の他者の人口論を批判する。『平等の制度は・・この美しい構造の全体を考察するのは、その達成の時期を心から希求する、よろこびと賞賛の感情なしではできないのである。しかし、ああ! その時はけっしてくることがないのである』(110頁)こうして『全体としてこれほど人口増加に好都合な社会形態を考えることができない』(114頁)とし、財産制度や婚姻の制度や経済制度、特に財産所有者と労働者の賃金について論じている。詳細は省略。また人間をあまりにも理性的に考えていると批判している。
人間の多様性、感性可能性、進歩の可能性などを論じて、マルサスは自然の無限の多様性はあきらかであるとしながらも、個人の精神能力は現在の知識量と比例して増大しないとする。植物を例に取り肥沃な土地をもちいれば『フランス革命を実現し、人間精神によっておおきな自由と活気とを与えるために用いられた促成肥料は、あらゆる社会の抑制的紐帯であった人間性という萼(うてな)をやぶったし、またそれぞれの花弁はどれほど大きく成長したとしても、たとえそのうちのわずかなものが際立って強く、あるいは美しくさえなったとしても、全体はいまや、結合、均整、あるいは色彩の調和のない、緩んだ、歪んだ、まとまりのない大衆である』(161頁)とも述べる。マルサスのこの言葉は人間の完成可能性、つねなる進歩の否定へと繋がっている。
『「希望は永遠に人間の胸のなかに湧きいで/人間は祝福されることがなく/しかしつねに祝福されることとなっている」 害悪が世界に存在するのは、絶望をうむためではなく、活動をうむためである』(222頁)というマルサスの引用した詩と言葉が印象的である。マルサスは理想主義者でもなく人本主義者でもない現実主義者なのである。マルサスの人口の等比的増大の理論は現在の社会ではそう単純に成り立たないが、彼の特に倫理学的な経済論には今現在にさえ価値を持つはずである。前にも書いたとおりに、人口数と生活資料の観点に「生活の質(レベル)」を加えて再考すれば、現代にも通じるはずである。マルサスの思想は現代では制度論、制度経済学によって行われ、人口数と生活資料の均衡点を求めて解決の努力はなされているが、変数が多すぎて解くのは難しい。きっと大きな影響を及ぼす変数の重みづけも必要であり、いつまでも論じ続けられていて解けないような気がする。たぶん、現実がすり寄って着実に現実を作り出すことになるのであろう。
以上
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2015年1月9日(金) |
題:夏目漱石著 「こころ」を読んで |
テレビで、夏目漱石の「こころ」について、漱石は何を言わんとしているのか、簡単な討論を行っていた。その時、文庫本で一番売れているのは、この「こころ」と太宰治の「人間失格」と言っており、それゆえ、これらの本について改めて読み直し、自分なりに何を言わんとしているのか感想を書いてみたいと思ったのである。以前の「虞美人草」はすぐ録画を消去して失敗したが、今回の「こころ」の録画はきちんと残してある。
まず、夏目漱石の「こころ」であるが、出版社によって旧字体を変更する、漢字をひらがなにするなどして、表現が微妙に異なっているのには驚いた。そうか、もはや古い本であって、振り仮名がなければ読めない漢字もあるに違いない。私の読んだのは新潮文庫である。テレビでの討論で大体言い尽くされていて、その内の一つが気に入り「線と三角形」という題にして感想文を作ろうと思っていたのであるが、読んでみると漱石は意識的か、無意識か知らずとも、誰もが心に思い浮かべるはずの絶妙な罠を仕掛けていたのである。それは、何回も出てくる「馬鹿なのです」と「真面目」いう言葉に隠されている。これについては後で述べるにしても、漱石の文章はいつも美しい。本書の穏やかに静かな文章も「夢十夜」のような切迫した文章も良いし好きである。
本書の構成に従って感想を述べると、最初の「先生と私」が後半の暗示を含んでいて少し嫌味がある。これに対して「両親と私」の私の両親を思う切ない心が、読み手に響き伝わってくる。これには驚いて再読した甲斐があったというものである。「先生と遺書」は物語的に少し作り出されている。ただ、読んでいくと先生の孤独さが身に染みてきて悲しくなる。ただ、この「こころ」という小説そのものが中途半端なのである。筋はともかく、構成がある全体の一部を切り出した印象を与えている。ただ、やはり最後まできちんと読むと悲しくなる。きっと、先生の「馬鹿なのです」という心情が哀れなのである。
それはともかく、テレビで述べられた意見・解釈についてまず私の感想を述べ、そして私の漱石が行った絶妙な罠という私の意見を述べたい。それにしても録画を消去せずに良かった。見た時から自らが感想文を書きたい思いがあったのだろう。以下はテレビでの主な意見・解釈と私の感想である。『 』は本書からの引用文である。
1)「同性愛・ボーイズラブという意見」には賛成しかねる。確か、恋はまず男を練習台にして始まるというような先生の言葉が確かあったはずである。
2)「女たちの策略」という意見は賛成する。この策略にうかつにも乗ってしまったことが、先生の悲劇を生むのである。
3)「魔性の女」は先生の妻である静さんのことを言っているが、そういうように相矛盾するような、誰にも気を持たせるような女を漱石は意識的に書いたのである。琴や生け花に関する先生の感想も然り、例えばこんな文章がある。下宿し始めてある時『容易に腰を上げない事さえありました。それでいて、お嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼には能くそれが解っていました。能く解かるように振舞って見せる痕跡さえ明らかでした』(168頁)こうした疑念を持つ先生がなぜか静さんと結婚する。
4)「大逆事件などの政治小説」と言う意見には不賛成である。ただ、乃木将軍の殉死は物語上重要であり、明治の精神と殉死する先生は納得しうる。それは自殺する格好の表向きの理由を見出したからである。漱石にとって明治の精神は葛藤を生じさせる生き物である。
5)「先生は本当に静が好きだったのか。Kという競争相手が現れたから結婚したのではないのか」の意見には賛成である。Kがいなければ結婚の決断を先生は先延ばしにして、放置しておいたかもしれない。
6)「財産相続に発生した叔父の裏切りによる先生の猜疑心」の意見には半ば賛成である。本書の物語上と言うより、猜疑心は漱石そのものの心である。ただ、この場合、先生に詩疑心を植え付ける物語上の筋書きとして必要なのである。この猜疑心そのものは、漱石自身のテーマと成り得る問題である。
7)「Kをなぜ下宿に引き入れたのか」の意見には賛成である。哀れな境遇のKに同情する先生の心持は納得しうるほど良く書かれている。でも静のお母さんも反対し、静に心惹かれている先生はたとえKが精進に邁進しているだけの男と思っていても、お母さんが反対する意味を理解し、ましてや叔父に裏切られて猜疑心が強いのであるから、起こりうることを少しは想像できたはずである。単純に考えれば、普通の男であれば、自分の好いた女の居る所に他の男を、たとえ哀れな境遇にあろうとも男を引き入れたりはしない。Kの居所での待遇の改善を図る、Kに金を貸し付けて利子を取るなど別の方法を考えるに違いない。漱石は小説の筋として、どうしても先生や静とKとを同居させる必要があったのである。
8)「Kは何者なのか」については、最初頑固一徹なところから国家の象徴かと思ったが、純粋であり隙を見せる所からきっと違うはずである。先生も含めて、漱石の分身であり、夏目金之助のKをイニシャルにしたと推測する。それにしてもカフカのKとイニシャルが同じなのは偶然とは言え不思議な気がする。なおカフカは(1883−1924)、夏目漱石は(1867−1916)であり、ほぼ同年代に生きている。ただ、漱石はカフカの小説は読んでいないはずである。
9)「小説家として本音を書いている、書くために生きている」との意見には賛成である。漱石は書くことによって生きていく活路を見出している。
10)「先生、静、K」の三角形が「先生、静、私」の三角形と変わる考え方には大いに賛成である。未来に向けては「私、静、別に現れる女」の三角形になる。即ち点が結びついて線となり、線が結びついて三角形を形作る。この形は線がよれようと点線や破断して形を崩そうとも、必ず繋がっていて未来に向けて葛藤し続ける基本形なのである。どうしても点は結びついて線を描き、線は結びついて三角形を作ることが、この世界の常に変わらない運動である。こうした観点から最初感想文を書こうと思っていたが、新たな視点を見出して取りやめたけれども、きっと本書を理解する上での基本的な心理学的幾何学である。こうして点を増やせば膨大な線と三角形、もしくは多角形が生れ出る。これが世界の構造である。この多角形なる世界に描かれる文様は美しいだろうか、湾曲して断線して捩れて狂ってくるのだろうか、私には良く分からない。なお、この幾何学的な解釈の内に心と心の運動が付け加わることになる。
11)「私とは先生のことではないのか」との意見には賛成である。文章上私は先生を敬っているが、先生との会話では同等の口の利き方をしている箇所が結構ある。この理由を知りはしないが、私は先生の若い時であると推測する。「先生を見たことがある」と言う謎も、そうすると理解し得る。「私が遺書を書き直している」という意見も貴重である。
12)「告白は常に正しいことを言っているとは限らない」との意見には賛成である。先生の遺書には嘘の部分がある。「最後に妻には知らせたくない」で本小説は終わる。この「知らせたくない」だけは、きっと本心であるに違いない。ただ、偽装された本心である。
13)「教科書に載せるのには問題がある」の意見には賛成である。でも何を教科書に載せたら良いのかわからない。きっと年老いてから読み返せば楽しめそうな、また、たくさん読まれている小説が良いだろう。ただ、国語には文学と論文などの文章を同等の比率で載せた方が良いと思っている。
14)「長すぎる遺書、不自然で不可解」という意見には賛成である。これは漱石が心理描写などを意識的かどうか知らないが、小説内の時間的経過があるとしても、反対や矛盾して詳述している所があるためである。また細かく記述すればどうしても齟齬もでてくる。特に新聞小説であれば書き直しはきかない。こうした「不自然で不可解さ」が本小説を面白くしているのである。森鴎外のように矛盾のない緻密な文章で書いていれば、本書はこれほど読まれることはなかったに違いない。この「不自然で不可解さ」が人間の心に脈打っているため愛読されているはずである。
以上テレビの意見に感想を述べたが、私の感想は先に記述したように「馬鹿なのです」と「真面目」いう言葉に隠されている。「真面目」を入れると話が面倒になるので、先生は「私は馬鹿に違いないのです」(201頁)と述べるその言葉に従って解釈したい。無論、テレビでの意見からの延長に過ぎない解釈であるが、テレビではあまりにも単純である罠であるためか述べられていず、また、漱石は意識的というよりも知らないうちに仕掛けた罠のような気もする。本書で「馬鹿なのです」は次のように記述されている。
1) 先生は叔父さんに騙され、Kを下宿に引き入れ、お嬢さんと親しくするKに嫉妬する、Kを出し抜いてKを自殺させる馬鹿なのである。
2) もともと先生はお嬢さんを見下していて、好きになったのも成り行きであったかもしれない。そしてKに嫉妬したためか、奥さんに結婚の申し込みを行う馬鹿なのである。先生は『向こうが内心他の人に愛の眼を注いでいるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです』(216頁)というように、好いてくれる女としての確証が欲しいはずなのに結婚を急いでしまうのである。
3) 結婚の申し込みに対して奥さんは『「よく考えたのですか」と念を押すのです。私は言い出したのは突然でも、考えたのは突然ではないという訳を強い言葉で説明しました』そして『奥さんは何の条件も出さなかったのです。親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だと言いました。本人の意向さえたしかめるには及ばないと明言しました』(241頁)と記述されている。即ちこの文章から判断すると、この母娘は先生を結婚相手とすることを決めて行動していたのである。お嬢さんのKに対する振る舞いも恐らく計算尽か、可能性は低いがKが好きだったのである。いや、本当は先生よりもKが好きだったのかもしれない。この方が私の解釈が真実味を増すはずである。
4) どちらにせよ、お嬢さんのKなどに対する態度を『知ってわざと遣るのか、知らないで無邪気に遣るのか、その区別が一寸判然しない点がありました。・・私はそれをKに対する私の嫉妬に帰して可いものか、又は私に対するお嬢さんの技巧と見なして然るべきものか、一寸分別に迷いました』(215頁)と漱石は分からずに悩む先生の心を書いている。
5) Kが死んでしまうと、先生は世間体を気にする。Kの手紙の内容が気にかかるのである。簡単で抽象的な手紙であり『固より世間体の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私には重大事件に見えたのです』(253頁)と先生はその時の心理を説明する。お嬢さんとの結婚が決まっていて、先生の出し抜きが倫理上の問題点を含んで知れ渡るのを恐れたのである。その後のKの親類などへの説明も手紙の内容のみに基づいた説明を行う。こうした世間が実生活においても漱石を圧迫していたのは事実であろう、ただ、どれほど恐れていたかは知らない。こうした世間と先生は隔絶して、ただ奥さんとのみ暮らす、この二人暮らしが先生の心に影響を与えずにはおかないはずである。
6) Kの自殺以前に、男らしい気性を持つ奥さんは、先生がお嬢さんを貰うことを先生より先にKに言っている。そして、先生がKに言わなかったことを責めている。その奥さんがお嬢さんにこの事実を知らせないはずがない。そしてお嬢さんはKの死の本当の原因は、こうした先生のKを出し抜いた結婚と関係があり、自らのKへの振る舞いやKが自らに好意を抱いていることも含めて自殺の原因となっていることを知らないはずなどないのである。お嬢さんはただ笑うけれども、それなりの分別を備えているとの記述が確かにあり、死の直接的な原因を把握できる十分な能力は持っている。だが、お嬢さんは思い当たることがある、変死したと言っているだけである。そして『然し人間は親友を一人失くしただけで、そんなにも変化できるものでしょうか。私にはそれが知りたくって堪らないんです。だから其所を一つ貴方に判断して頂きたいと思うの』(52頁)と、この後お嬢さんは、Kの死の直接的な原因を知らないという態度を貫いている。先生も最後は寂しくて死んだとの解釈に移行している。ただ、こうした記述が解釈を惑わせるが、やはりKの死の原因は恋の破綻にあると考えるのが順当であり、先生と妻はこの自殺の原因を作り出した当事者として、その後世間から隔絶し静かに暮らしているのである。
7) 最後に私の結論を述べると次のようになる。つまり騙されるなどして「馬鹿に違いないのです」という先生は、まだ二つ騙されている、もしくは自らを騙しているのである。それこそが漱石が仕掛けた絶妙な罠である。一つは指摘されてはいるが、結婚したのではなくて結婚されられたということ。もう一つは非常に重要なことであるが、Kの自殺の原因を本当は妻は知っているということ。『私はただ妻の記憶に暗黒な一点を印するには忍びなかったから打ち明けなかったのです。純白なものに一雫の印気でも容赦なく振り掛けるのは、私にとっては大変な苦痛だったと解釈してください』(258頁)『私は妻には何も知らせたくないのです。妻が己の過去に対してもつ記憶を、なるべく純白に保存して置いて遣りたいのが私の唯一の希望なのです』(268頁)こうした先生の妻に対する純白というイメージは当初の「能く解かるように振舞って見せる痕跡さえ明らかでした」の記述から見ると、少し軽蔑すべき女から清き女性の位置へと昇華させられているのである。なぜ、このような違いが結婚後生じたのであろうか。
8) 更に先生は妻がKの自殺の原因を知っているのを知っているのである。ただ、知らないものとして取り扱っている、自らの馬鹿さ加減を知っているのである。Kの自殺以降、もしくは結婚後、先生にとってお嬢さんと暮らすうちに、お嬢さんは分からない謎の女から先生の理想とする無垢の女性になったのである。自分を好いてくれると信じて、妻になるべき女を先生は純白に無垢に飾ろうと決意したのである。これは馬鹿げていようとも、もはや先生の信念である。妻がKの自殺の原因を知っていることは、もはや先生の脳の奥底に密やかに隠されたと言うべきである。こうした先生の意識下もしくは無意識化における心の変化もしくは決意は、十二分に推測として成り立つはずである。この疑問を直接漱石に聞けば「お前は馬鹿だ」と罵られるに違いない。「私を信用しなさい」と説教されるに違いない。いずれにせよ本書「こころ」は、心の馬鹿さ加減を記述したものに違いない。そうしてこの馬鹿さは真面目な人にのみ語ることができる。真面目な人しか理解できないためである。
分かりにくい長い文章であるため結論を再度簡単に記述すると、先生は妻が作為をもって先生と結婚したこと、また妻がKの自殺の原因を知っているという事実を自らの記憶から消し去り、この妻なる女を純白に美しく飾らせた「こころ」の成させる偽装の業を、漱石は馬鹿だと言っていると私には思われる。なお、作品論としては「こころ」を持ち偽装する頂点を入れ替え、未来に向けて葛藤しながら進行し続ける三角形なる論旨が一番優れていると思われる。
以上
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2015年1月2日(金) |
題:ウィトゲンシュタイン著 藤本隆志訳「ウィトゲンシュタイン全集8 哲学探究」を読んで |
著者の前期の著書「論理哲学論考」において著者自らが指摘している「思想の誤り」を知りたくて本書を読んでみた。とても平易な文章で書いている。ただ肯定に否定が混じり、問いや反語が多くて何が書いているのか良く分からない。この文章にはサミュエル・ベケットやフランツ・カフカの言葉のみが連なる文体を思い出す。彼らは『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』のではなくて「語りえぬものを語っている」のである。ただ、ウィトゲンシュタインの本書は言葉が言葉を生み出し永劫に連続するのではなくて、明確に論理的な意志を持ち、論理的な結論を導き出している。
本書を読んでみると、私見では「論理哲学論考」の誤りとは言えず、ウィトゲンシュタインの思想的な発展・展開を示していると思われる。ただ、言語に対する立場の変更であると言うこともできるかもしれない。即ち単純に言えば、言語が世界を映す像であるとの記号論理的な考え方から、チェスのように言葉をやり取りする言語ゲームとして考えているためである。言語が交わされるこの言語の意味は、もはや言語内における慣用でしかないのである。ただ、私は論理哲学体系を構築しようとした彼の思想的な基底を次の文章に見出す。即ち『対象に対して私は名を与えることができるだけである。そうして記号は対象の代わりをする。私は対象について[その性質等を]語ることはできるが、[性質を抜きにして]対象を[単独で]言い表すことはできない。命題はただものがいかにあるかを語るうるのみであり、それが何であるかを語ることができない』(「論理哲学論考」三・二二一)との立場が一層深まっていると見る。「何であるかを語ることができない」に注目したいのである。これに対する私の独自の見解を示すために、「論理哲学論考」の感想文から少し文章を抜き出して、更に「哲学探究」について若干説明したい。
――――以下は「論理哲学論考」の感想文からの抜粋 始まり――――
一 世界は成立していることがらの総体である
ウィトゲンシュタインが言うには、世界は現実に成立している論理空間上の事実の総体と定義される。なお、論理空間とは論理的に可能な事態の総体のことである。
二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である
ここで述べられる事態とは起こりうる可能性であり、事実は現実に起こっていることである。結合しまた構成要素になり得る対象が世界の実体を形式的に、または秩序だって配列されることによって、実質的なあり方を成り立たせている。こうしてウィトゲンシュタインは像という概念を述べる。この像とは思考、言語、命題と理解できる。この像はいかなる形式であれ論理形式を現実と共有していなければならない。なお、論理形式とは対象がどのような事態の内に現れうるか、論理的可能性の形式のことである。像の真偽とは像の意味と現実との一致・不一致であり、真偽を知るためには像を現実と比較しなければならない。この像なる思考、言語、命題は現実の模型であり、構造を持ち現実を写像する。この像は論理的なものである。むしろ正確な写像を行うことができるように論理的な言語なのでなければならない、これがウィトゲンシュタインの主張である。
三 事実の論理像が思考である
ここでウィトゲンシュタインは記号と命題との関連について述べる。知覚可能な記号によって命題として思想が表現可能なのであり、また世界を命題として射影できるのが命題なのである。さらに名と表現について定義する。名は命題の要素なのであり、要素として新たな命題を構成する作業を構成することができる。そして記号は対象について語ることはできるが、対象を言い表すことはできない。つまり、言葉は対象を明晰にその性質について雄弁に語り続けることができるが、対象そのものの全体を言い表すことは決してできないのである。きっと対象は示すべきものであるのかもしれない。定項と変項とは数学における定数と変数を思い浮かべれば良い。変項に値を定めれば数式を解くことができる、即ち命題を作成できることなのである。なおここでも著者は論理的に表現可能な言語の必要性を説いている。
四 思考とは有意味な命題である
ここでウィトゲンシュタインは命題と現実との関係を示す。命題は現実の像であり、先に述べた論理形式によって命題の要素として対象と名の論理形式も明らかになり、これらを用いた有意味な命題の構成もできるのである。これは論理形式が明らかになった論理空間上の真理操作によって行われる。そして、真と偽、さらに否定命題へと話を移していくが、命題の真や偽の領域の取り出し操作である真理操作の話に他ならない。更に話は哲学に移って行くが哲学の役割は上述している通りである。形式的概念とは形式的性質という語を用いたと同様に導入可能であり、旧来の論理学上における狭義な概念と混同を避け区別する必要があるからであり、この形式的概念は命題変項によって表される。即ち変項は形式的概念を表す記号となるのである。つまり変項とはすべての値が共有する一定の固定された形式を表しており、これはこれらの値の形式的性質とみなしうるからである。この形式的な概念は関数や集合によって表されるのではなくて、今まで述べて来たようにただ変項によって表されるのである。こうしてウィトゲンシュタイは要素命題という文脈に現れる、名について言及し、真理値表を用いてトートロジーと矛盾について説明するのである。こうして最後に、一般的な命題形式は一つの変項であると述べるに到る。
五 命題は要素命題の真理関数である
ここでウィトゲンシュタインは簡単な論理式を用いて説明する。それは確率であり因果でありできごとであり、世界であり主体であり知覚であり独我論であり、秩序であり限界である。なお、真理関数とは真偽を入力して真偽を値として出力する関数である。独我論とは私と他者の比較に際し、他者の存在を否定し自分だけが存在すると主張することである。後半で、私と世界、そして主体、限界との関係が論じられている。すなわち私の言語の限界が私の世界の限界なのである。対象の総体によって限界づけられるこの対象は名によって表わされるものである。要素命題はこの単純な記号の名から表される。即ち対象は要素命題の総体によって限界づけられることでもある。この名と対象の組が私の経験する世界であり、即ち要素命題を記号の名として表す記号とは私の言語であり、この言語が私の世界の限界となるのである。思考する主体は世界の中の対象ではない。なぜならこの世界と身体とその身体の部位との関係をすべて語り得ないからである。主体は世界に属さず世界の限界でもある。関係が対象と対象の対応を通した関係が、即ち記号を通じて像が物語る事実が重要なのであり、意味的関係を持つのである。独我論による自我は広がりを欠いた点まで縮退し、自我に対する実在が残されるだけであり、この自我は「世界は私の世界」として哲学に入り込む哲学的自我であり、魂や心理学的な主体ではなく形而上学主体となるのである。
六 真理関数の一般形式はこうである[P(−)、ξ(−)、N(ξ(−))]これは命題の一般形式である。
――――以下は「論理哲学論考」の感想文からの抜粋 終わり――――
さて、「哲学探究」では以下のことが述べられている。『 』は引用文である。なお、項番が連続してつけられていて分類されていず、まとめるのは難しいが、主要な点を選び出したい。
『わたしは、自分の手稿によって他の人が[みずから]考える労を省くようになるのを望まない。できることなら、誰かが自分自身で考えるための励ましになりたいと思っている。わたしは、良い書物を著したいと思った。だが、そのような結果にはならなかった』序におけるこの記述がなんと謙虚なことか。ラッセルへの批判を思うと隔世の感がある。こうしてウィトゲンシュタインは、まず、アウグスティヌスの「告白」を引用して、言語が対象を名指している、ただ語の種類の区別を語らないということから記述し始める。例えば、色彩や数などが語の種類となるはずである。
詳細は省くが、言語は発生変化する多様な種類を持つものであり、チェスのゲームの駒のやり取りを例に取り、この多様な言語のやり取りを「言語ゲーム」として捉え、ウィトゲンシュタイは思考を進めていくのである。名と名指されるものとの関係、意味との関係を踏まえ、ゲームの表や図を援用し規則について考慮する。なお、『語の意味とは、言語内におけるその慣用である』とする。『われわれがゲームをするとき――〈やりながら規則をでっち上げる〉ような場合もあるのではないか。また、やりながら――規則を変えてしまう場合もあるのではないか』(84頁)として、この規則の突き抜ける可能性も示唆している。
更に論理学は『経験的なものすべての基礎ないし本質を理解しようとする努力から生まれる』のである。現象の見通しは現象そのものではなくて、現象の〈可能性〉に向けられるのであり、それは語に関する誤解を解くための言明の種類の想起であり、文法的な考察であり、表現の分析であるとする。ウィトゲンシュタイは命題や思想、言語に哲学についても言及するが、彼の思考は常に真実を求めるため当然なことに、逆説的、批判的でありさえする。例えば哲学について『哲学はまさにあらゆることを立言するだけであって、何事も説明せず、何事も推論しない』などと述べている。
こうしてウィトゲンシュタインは語を理解しているとき、映像を思い浮かべるかについて考慮する。更に規則について、感覚について、思考や表象について考慮する。〈痛み〉についての感覚表現に語の意味について、理解できるかについては各種の例をあげて『〈痛み〉という概念を、あなたは言語とともに学んだのである』と学ぶことができるとする。言語とともに概念は学ばなければならないのである。『言語の中では期待と充足が接触している』(260頁)とは、出来事との関連で述べられている。つまりある文章でのたとえば「彼がやってくる」出来事の記述は期待であると同時に、その結果の充足でもあるのである。こうしてウィトゲンシュタインは期待と知覚、命令などとの関係の話を更に進めていく。
ウィトゲンシュタインが感覚について述べているのは意外である。そういえばW.ジェームズに関した記述が確か四か所ほど肯定的に記述されている。詳細は本書を参照のこと。更に彼はゲームの規則について再考察する。それはチェスにおける駒の果たす役割の同等性である。つまり『同じ語、同じ駒の慣用に一つの目的があるように見える。そしてその目的は、ひとがその駒を再認知でき、どのようにゲームをしたらいいのか知ることができる。・・そこでは物理的な可能性が話題になっているのか、それとも論理的な可能性が話題になっているのか。後者であるなら、まさしく駒の同等性がゲームの一部になっている』(300頁)言い換えるなら、ゲームの最中に規則をみつけて、その規則の目的を憶測できるのであり、『わたしがゲームの性格を正しく理解しているとしても、そのことは本質的にその[性格の]一部ではないのである』結局規則について『問題はいまや、あるひとがこれ[これ]をいみしたかどうかを、われわれがどのように判定しなくてはならないか、ということなのである。』(345頁)つまり言語ゲームを行いながら、言語ゲームの規則が何を意味しているか問うて判定しなければならない。言語ゲームそのものが規則を作り出すかに見えるのである。言い換えれば、言語ゲームによる言語そのものは規則からは生み出されるものではないことになる。更にここから独断で憶測すると、言語ゲームによって語られた言語はさまざまな規則によって、規則を作り出すことによって、規則が無いことによって新たに意味を伝えることができるのである。この意味は共通化されていない、まずは個人の想起であり、この想起させた言葉がそれぞれの個人に伝わりそれぞれの意味を拾い出すことができるのである。私は詩の言葉を浮かべていることを断っておきたい。
本書は第一部と第二部から構成されていて今までは第一部について記述している。第二部は百頁ほどと短いか、第一部と比較して明確な文章で表現されている。ここでは一文章だけを引用しよう。まさにW.ジェームズと同じように経験の重要性を述べている文である。『人は人間通[の知識]を学ぶことができるか。もちろん。多くのひとはこれを学ぶことができる。しかし授業の課程を通じてではなく、〈経験〉を通して。・・ひとが覚えるのはいかなる技術でもない。ひとは適切な判断を学ぶのである。規則もあるけれども、それらは体系をなしておらず、経験のある者だけがそれらを正しく応用することができる。計算規則とは違って』こうしてウィトゲンシュタインは言語を写像の概念から、日常言語においてやり取りする論理性からかけ離れたゲーム性を重視するに至るのである。
ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」において、言葉は対象を明晰にその性質について雄弁に語り続けることができるが、対象そのものの全体を言い表すことは決してできないと述べている。また、彼はこの言語が私の世界の限界となるので主体は世界に属さず世界の限界でもあると述べている。ただ、私は対象そのものや言語の限界を超えた領域も含めた主体さえ「語りえぬもの」のではなくて「語りえる」と思っている。前にも述べたように、対象を[単独で]言い表すことは決してできないという思想の基底は変わらずに、ウィトゲンシュタインの思想が「哲学探究」にて、より切実に深化した結果でもある。つまり「論理哲学論考」に記述されている「何であるかを語ることができない」このことこそが、言語の規則性を踏み越えた領域があることを見通しており、この領域を含んで彼は思想を発展・展開させたのである。この領域は語ることはできないのではなくて、語ることは可能なはずであり、言語ゲームとは何をも語り得る、生きて共通な意味を経験することのできる世界の規則そのものなのである。きっと対象や主体の隠された無や空洞さえ語ることができるはずである。ただ、こうした私の解釈については独断の感があり、ウィトゲンシュタインの正確な意図を把握するには、再読して再検討する必要があるだろう。ウィトゲンシュタインの心の内には論理以上に、何かしら神秘を抱え込んでいる気がしてならないのは気のせいであるのだろうか。
以上
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