2013年12月27日(金) |
アンリ・ベルグソン著 合田正人 松本力訳「物質と記憶」を読んで |
ベルグソンの文章は難しい。分かっているつもり読んでいても次第に分からなくなる。きっとたくさん記述されている言葉の定義を忘れて読み進めるためであろう。従って普段、本に線は引かないが、ベルグソンに関しては、重要な文章に線を引くことにした。後でこの線を引いた文章を読み直すと、ベルグソンの言いたいことが分かってくるのである。なんだか混沌として読み終えると、本書の最後に訳者松本力による解説が項目ごとに丁寧に分かりやすく記載されている。従って感想文としては、本書の内容を簡単に記述したい。ベルグソンが「物質と記憶」で何を述べたいか理解したい人は、本書と訳者松本力による解説を読むのが一番良い。本書は「ちくま文芸文庫」である。
簡単に述べると、ベルグソンは実在論と観念論を引き合いに出し、これらに反論しながら話を進め、精神と物質との連関を記憶という例から解き明かしていくのである。即ち、物質はわれわれの精神からは独立した現実存在であり、われわれは物質をイマージュとして知覚し、身体に運動を引き寄せるのである。知覚と不可分な記憶は過去を現在に差し込み、もしくは想起されて現在の知覚に加わるイマージュである。こうして私の現在は、諸感覚と諸運動の組み合わさった体系(システム)であり、本質からして感覚−運動的なものなのである。なお、私の現在は諸瞬間の過ぎ去りによって過去に、未来への傾きによって未来に食い込んでいる。
精神は身体に働きかけ身体は精神に働きかける。つまり精神は身体が受け取る諸感覚、身体が実行できる諸運動によって錘と均衡を与えられているとする。この精神の錘と均衡は過ぎ去った経験全体の運動的な記憶に基づき想起される行動の平面と、観想的な記憶に基づき想起される夢の平面のとの極限の間に含まれた間隔を絶えず踏破する。このとき記憶は隣接と類似によってそれらを混ぜ合わせながら、有益なものが意識の中へと導きだされるのである。本書の最後の文章が簡潔に本書の記述内容を示している。『精神は物質から知覚を借り、この知覚から精神はその糧を引き出しては、運動の形で知覚を物質に戻し、この運動にみずからの自由を刻み込むのである』(354頁)
本書に出て来るさまざまな言葉、「イマージュ」、「純粋知覚」、「純粋記憶」、「観念連合」、「空間」、「延長」、「伸長」、「時間」、「持続」、「収縮と膨張」、「多様性」、「凝縮」、「表象」などを少しは説明しようと思ったが長くなりすぎるので、また言葉だけを説明しても仕方がないので止める。ただ、「イマージュ」だけは記述しておきたい。イマージュとは『私が感覚を開けば知覚され、閉じれば知覚されないような最も漠然とした意味で』(8頁)あり、『他の全てのイマージュと対比を成すような、内部からの感情によっても知ることができるイマージュが身体なのである』ということらしい。訳者松本力によると、精神の中だけに含まれる観念としての観念論や感覚として事物を捉える実在論を遠ざけると同時に、観念でもなく事物でもない中間に位置するものとして、ベルグソンに「イマージュ」という言葉を使用させたのではないかと指摘している。更に私たちが対象を「イマージュ」としてしか知覚することしかできない、という以上に我々の身体における知覚の制約を無視できないことが「イマージュ」という言葉をベルグソンが使った狙いなのではないかと述べている。
本書で示されている図形が理解する上で大いに役に立っている。例えば平面に接した逆円錐形による知覚と記憶や想起の説明は、とても分かり良いのである。ベルグソンは数学が得意だったらしい。そういえばドゥルーズのベルグソン論の感想文に少しは言葉の定義を記述していたかもしれない。きっと、ベルグソンの哲学は「私の現在の生」を問題にしている。神秘的で読んでいて面白いけれど、深みに入ると抜け出せないような怖さがある。そこそこ読んで切り上げたいけれど・・美しい文章が好きである。
以上
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2013年12月20日(金) |
佐藤勝彦著 「気が遠くなる宇宙のはなし」を読んで |
著者の本は5、6冊おおよそ読んでいるが、本書は特に目新しいものは少なくて、今までに書いた一般向けのまとめのような、より簡明に書いた本である。宇宙に始まりがあるからには終わりがあるということが具体的に述べられている。
宇宙の曲率は宇宙背景放射に基づき測定できるようで、その曲率は正であるか負であるか、ゼロであるかは誤差を考慮すると分からないということである。なお曲率とは宇宙の内部にある物質やエネルギーによる時空の曲がり具合のことである。曲率が正であれば宇宙の膨張が止まって収縮し、一点に収縮するビッククランチを引き起こす。負であれば膨張し続け、物質は消滅しブラックホールとそれに飲み込まれなかった素粒子だけになる。曲率がゼロであれば、膨張は止まるである。物質はきっと崩壊するのであろう。
この宇宙の曲率は暗黒エネルギーの密度に依存するが、この密度が宇宙の膨張にあわせて増加することも考えられるとのことである。ファントムエネルギーと呼ぶこの増加するエネルギーが存在すれば、宇宙の膨張は加速されるが、銀河団などは合体せずに、原子さえもバラバラになり引き裂かれる「ビックリップ」を引き起すとのことである。こうして著者が最後に強調するのは、知的生命体である人間は「生きる意味」をこれからもずっと考え続けるだろうと述べるのである。
この宇宙の最後が早ければ1000億(10の12乗)年後、遅くなって、100溝年のさらに1溝倍(10の100乗)年頃に生じるのであれば、私やきっと人間は生きていられなくてこの最後を看取ることができない。地球や人間そのものの生存が危ぶまれるのではなくて、もはやどれもが何もが無いのであろう。特に人間の生存は100世紀(10000年)以下で、早ければ10の3乗年(1000年)程度なのではないかとも私には思われる。ただ著者が、宇宙が収縮と膨張を繰り返す可能性について言及しており、人間もある臨界点で膨張から収縮へと繰り返して、つまり原始状態へと戻り、また文明を栄えさせて、生存している可能性もあるに違いない。ただその時にはきっとDNAが歪み狂っており、生態系も変わってしまって、もとの人間であるかは違う生命体であるかは不確かであると思われる。それにしてもいつも思うのであるが、著者の言う通りに、宇宙とは気の遠くなる話を詰め込んでいるのである。
以上
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2013年12月13日(金) |
I.ブリゴジン著 安孫子 誠也、谷口 佳津宏訳「確実性の終焉 時間と量子論、二つのパラドックスの解決」を読んで |
本書は表題の示すとおりに、時間と量子論の二つのパラドックを解決し、この世界における確実性が終焉したとの思想を展開する。当たり前と言えば当たり前でありながら、とても新鮮に感じることができるのである。言い換えれば、著者は世界は還元不能な確率論的表式であらわされると主張するのである。本書は物理学的な数式の記述を多数含む物理学書でもあり、哲学書でもある。数式の大部分は理解できなかったが、著者の思想はなんとか理解できたのである。つまりニュートン力学も相対性理論も量子論も「時間の矢」を否定して、過去も未来も同じ役割を演じる。だが熱力学の非平衡過程並びに不安定型な力学として、揺らぎやカオスを導入することによって、「時間の矢」は一方向にしか流れず、現実世界は決定論では予言し記述できないし、また偶然性でのみ支配されているのでもないとして、著者は新しい自然の概念や地平さらに人間観をも切り開くのである。なお「時間の矢」とは過去から未来へと一方向にしか流れないとする考え方である。裏表紙にはこの私の文章以上に丁寧な記述があり、また本書も150頁程度で短いため一読することをお勧めする。なお、私はこの思想に賛同したいが、正しいのか試論であるのか判断できかねている。きっと正しいのだろうと思われるが・・。
著者の記述を簡単に述べると次のようになる。熱力学の本質はエントロピーであらわされ、不可逆過程―時間に方向づけられた過程―をあらわすものである。熱力学の第二法則では不可逆過程はエントロピーを生成するものであり、宇宙のエントロピーの増大は不可逆過程に基づいている。ところがラプラスの想像した「悪魔」では「十分に情報を与えられた」観測者にとっては、世界は時間的に可逆過程のように見えるのであり、その描く軌道を知ることができるのである。詳細は省くが、これに対し著者は非平衡物理学と化学とから、また「集団的動力学」からカオスの世界から、初期状態の記述の精度がどれほどあろうとも、軌道を破壊してしまうような不安定な系が存在するとする。そしてポアンカレが多くの動力学系は不可積分であると証明したと述べる。それは自由分子運動の間に共鳴が存在するためであり、つまり運動の様式に振動が付随しているためである。この共鳴が「拡散的運動」をもたらすのであり、不確実性を導入して時間の対称性を破るものなのである。
なお、化学反応の解を平衡から非平衡へと外挿していくことができて、この解は「熱力学的分岐」とよばれるが、平衡からの隔たりがある臨界的な値のところで、「熱力学的分岐」が不安定になるのである。即ちこの分岐点を超えると、振動的な化学反応とか非平衡の空間構造、化学波などが現れて出てくる。平衡付近ではエントロピー生成を伴う散逸は最小となるが、この平衡から遠く離れたところでは新しい過程が出現して、エントロピーの生成は増大するのである。著者はこのような空間的・時間的構造に対して「散逸構造」と名付けている。この「散逸構造」が「散逸構造論」の源であるようである。この非平衡の散逸構造における多くの分野で、例えば生命や経済などの分野を含めて研究されている。
こうして著者は数式を駆使し、多様な知識による論述を極め、冷静にかつ熱く、ニュートン力学と量子論におけるシュレーディンガー波動方程式の可逆性の欠陥を補正し、不可逆的なものとして補正して行くのである。そして宇宙の起源について言及し、時間について『時間に始まりはなく、時間は我々の宇宙の存在にすら先行するという可能性は、ますます強まっているのである』と述べるに至る。更に我々の宇宙の誕生は時空の物質への生成転化、エントロピーの爆発の結果だろうと述べる。結局、著者の述べる「確実性の終焉」とは未来は決定されていないということであり、確実性はないということである。以上、ありきたりの結論とも思われるが、その過程にニュートン力学の時間可逆性や散逸構造などなど新鮮な考えが含まれていて、この宇宙や自然の中の人間の位置に影響を与える思想に違いない。本書に引用されていたベルグソンの時間に対する引用文が極めて印象的である。ベルグソンは確か相対性理論の時間や空間の考え方を批判していたはずであるが、とても肯けるのである。
以上
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2013年12月6日(金) |
ソシュール著 山内喜美夫訳「言語学序説」を読んで |
一度ソシュールの言語論を読んでみたいと思って、この初心者向きと思われる「言語学序説」を選んだのである。言語論はあまり読んだことがなくて、三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」など少々である。この「日本語とはどういう言語か」は結構良い本であった記憶がある。膠着語としての日本語を言語論として展開していたはずである。ただ、記憶に残っているのは視線の文学に対する評価だけである。観念的な自己分裂を認めず対象の側にまるごと行ってしまった私はもはやこちら側に作者なる私は不在で、存在するのは人称と無関係な視線だけであるという主張である。作者が存在しないのに小説が生まれるということであり、これをつきつめていくと人間が存在しないところに言語が生まれるという言語論になると確か三浦つとむは言っていたはずである。他はほとんど忘れてしまった。従って、初めて言語論を読む気持ちである。
「言語学序説」(1908−1909)はソシュールの講義を聴講生たちが記録したその記録を元に、ローベル・ゴデルが編集したらしい。どうも解説を読むとソシュールはあまり本を書いていないらしい、学究肌の人間とのことである。本文を読むと少し反語的な言い方を含めてはいるが、間接的ながらソシュールの緻密な思考が伝わってくる良い文章である。注釈を除くと、T「言語学とその対象」とU「言語学の物象の内部的分割」の二部にて構成されている。U「言語学の物象の内部的分割」では、民族学や諸制度などと絡んだ言語の外部的側面ではなくて、言語の価値や単位などといったキーワードを元に、言語の内部の固有の系しか受け付けない体系について説明している。例えば通時的、共時的や現象と単位などを、フランス語を例に取りながら説明している。これを理解するのは面倒であり、また専門的すぎるので省略する。ネットで調べてみると「通時的言語」とは言語の歴史的な側面を扱うものであり、「共時的言語」とはある一時点における言語の内的な構造をも対象にすることで、全的に言語を理解することであり、ソシュールはこちらの立場を取っているとのことである。
T「言語学とその対象」にて、ソシュールは自らの言語に対する思想を簡潔に述べているので、初心者にはこの考え方を知れば十分である。そしてこの思想が核心をついていると思われる。ただ本書を咀嚼できずに書いている所がありとても分かりにくい文章であるが、ともかく私なりの努力し理解した言語で箇条書きにて示したい。
1)言語は発音的な音なのであり、思考の道具である。音と意味とを同時に取っている形態である。社会的な文法と個人的な言語とでは重層的な関係がある。ラング(言語)とパロール(発言)。そして言語と文字とは明確に区別されるべきものであり、話ことば(言語)のみが言語学の対象となる。書き言葉(言語)は話ことば(言語)への反作用でしかないが、文字と文学的な言語との合体によって、注目を迫られているとする。
2)言語とは「諸記号の一要素である」のであり、文字そのものが諸記号の一体系の同類のなかにいる。そして文字とは共同体のある合意、社会的な約定に立脚している。この言語は記号学に基づいて科学として扱われるべきなのである。記号とは思想を呼び起こすものであり、時間の歩みの中で記号と思想とを変質させていくのである。そして記号の性質は物象に取り囲まれ、物象から組み上げられているとする。また言語とは記号的生産物であるなら、社会的生産物であると述べることになるのであろうとする。
3) 諸記号の体系はある価値の体系なのである。記号的体系はある多量の単位から組み立てられており、これらの単位の混同を防ぐのが「諸価値」なのである。この「諸価値」は複合的なのであり、いくつもの価値を持ちながら直接的に把握することは難しい。この価値は社会的な目的から結実しているのであり、集合性に見出すことができるとする。科学や天文学における単位を例に取りながら、こうして言語の単位についてソシュールは考察していくのである。そしてソシュールの考えは記号が形態を持たず無定形であるため「諸単位」を見出すのが難しく、思考と音とが歩み寄って一つの中間的な場を創出し、分割を前提にした思考=音が言語学の最終単位であるとする。思想と音、この共有の土地の外では純粋心理学的な思考と音律論に基づく音が支配しているのであり、言語学の領域はこれらの境界現象であるのである。
4)諸単位と同等な問題としてソシュールは「諸同定」を取り上げている。同定の例として、男性諸氏!と二度発音すること。これは同じものである。ただ別の例として、ある街路を再建する、それは同じ街路なのである。こうして、同定は何に立脚しているかの問題は単位の問題へと戻っていくのであり、単位の理念を求めているのである。現実と呼ばれるいろいろな物象はどのような同定の絆がそれらの間に存在しているか、どのような単位を形成することができるかを決定することなのである。言語活動においては音的素材を常に必要としており、これが線形的ならばそれを裁断する必要があり、諸単位はこうした裁断を通じて確認できるのであるとする。
5)最後にソシュールは発言主体の意識と表意的単位について述べる。発言主体らの意識のなかにあるもの、何らかの一階梯で感知されているもの、それが表意である。表意的なものは諸単位の一示差化を通して表明されるのである。単位が先にあるのではなくて、それを創出しているのは表意なのである。このために意味が単位を創出しているとソシュールは結論付ける。
どうも訳者山内喜美夫の解説によると、動物の知性の低迷に比べ人間の知性が格段に優れているのは、イデーを記号に結び付ける、観察と分類の内面作業の能力によるらしい。本書を通じて、「表すもの」と「表されるもの」の関係についての思想の匂いは感じたが、明確な記述があった記憶はない。音を言語学の対象としているのは意外でもあった。ただ、声と音の重要性、卓逸性は哲学者たちも述べていたはずである。それにしても言語学とは子細な言語の構造に入り込むと、やっかいな緻密な作業を必要として、哲学と同様に難しいものなのである。
以上
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2013年11月29日(金) |
伊藤計劃 円城塔著「屍者の帝国」を読んで |
この本は思い白いということで読んでみたが、結論から言うと少しも面白くなかったのである。プロローグの出だしの5、6行は良い文章だと思いながら、数頁を読むとすぐにこの本の文章は読めないことが分かり、約5分間頁を捲って眺め見ただけである。私の文章の好き嫌いはとても激しい。
作者が二人いるので不思議に思っている。哲学書においてはドゥルーズやガタリが章分担しているが、文学書では章よる分担も簡単にはできないはずで、ネットで調べると、伊藤計劃と言う夭折したSF作家の遺稿数十枚をプロローグに持ってきて、その後を円城塔が約400頁を記述した本であるらしい。即ち伊藤計劃の草案を円城塔が受け継いで書いた本なのである。ほとんど読んでいないために筋は分からないが、屍なる人間と生きた人間の戦いであるのか、人間が生きた屍になって何かの争いが生じるのだろう。ただワトソンなる人物がでてくるからには屍を作り出し「屍者の帝国」を作り出そうとする犯人を割り出し、捕まえるなどして解決するはずである。
奇妙なのはフライデーという登場人物である。これはミシェル・トゥルニエ作「フライデーあるいは太平洋の冥界/黄金探索者」におけるフライデイーを意識しているのかどうか。でも私に分かるはずがない。本書はSF作品ということで、文章はそのように劇画調に記述しているが、人間の知性や生体などについて、円城塔の視点から文学的に記述している文章も擦り込まれている。即ち、SF作品は殆ど読んだことがないために分からないが、どこか作品として中途半端である気がする。筋が込み入りすぎているし文章も乾きすぎている。その乾いた文章に円城塔の感性が少しばかり入り込んでいる違和感がある。彼の作品は数編しか読んだことがないが、「烏有此譚」が一番良かったと思う。ただ、彼はジャンルを問わずに書いていて、SF作品の方が向いているのかもしれない。
作家とは稼ぐために書かなければならないのか、書いた結果が稼ぎになっているのかよく分からないが、そして文学とは何かよく分からないが、彼が文学なる位置から遠ざかりつつあるのは確かである。無論、文学なる位置があればの話であるが・・。そうした位置などあるはずがなくて、彼は彼自身の記述する言葉の渦の中で揺らいでいるだけであろうとも思われるけれど、よく分からない。分からないのは文学そのものであり、文学が記述する言葉の渦である。渦巻く文章の言葉の単語の並び綴られる文字の可解性でありその意味性であり可逆性でありその可能性である。
以上
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2013年11月22日(金) |
野口広著 「カタストロフィーの理論」を読んで |
部屋の整理をして、衣服をきちんとしまい、押し入れに押し込んでいた本などを片付けていたら、ほとんど田舎に送ったはずの本のうちに、また送り返して貰ったのか関心深い本が結構出てきたのである。モーリス・ブランショの「文学空間」「至高者」やアントナン・アルトー全集やロートレアモンの「マルドロールの歌」などなど。本当に読んだのか、確かに読んだはずでありながら、理解できずに記憶にないのか、うっすらと感触だけの記憶はあるのか、それさえも定かではない本たちが現れ出てきたのである。これらの本についてはいつになるか機会があれば読みたい。
それらの本の内にこの珍しく理系的な「カタストロフィーの理論」が含まれていたのである。カタストロフィーとは良く聞く言葉であるが、どうも理解しているとは思われず、さっそく読んでみた。記憶では「破局の論理」として一世を風靡したはずであるが、恋の破局としてしか思い出せない。もう数学的には終わったとしか思われない、この理論は読んでみるとトポロジーの問題だったのである。カタストロフィーとはトポロジーにおける面から他の面への急激な飛躍だったのである。
著者によるとルネ・トムがこの理論を1960年代に語り始め、本としては「構造安定性と形態形成」の出版を予告しながらなかなか出版されず、やっと1972年に発刊されたとのことである。著者はこの本を下敷きにして「カタストロフィーの理論」を分かりやすく説明しているはずであるが、頭の固いものには数式も含んでいて理解に時間がかかるか、理解できないということで、理解できたほんの少しの部分だけを記述したい。
トポロジーとは位相幾何学のことである。ドーナッツや球や湾曲した面などを思い浮かべると分かち良い。以前日記に記述したはずであるが、ペレルマンによるポアンカレ予想の問題の解は簡単に述べると、宇宙はドーナツではなく、球の形であることを証明した。この証明の方法はもう殆ど忘れたが、トポロロジーというより、微分幾何学と物理学の熱的なフローの観点から解いたと記憶している。ただ本書を読んでみると微分幾何学とフローとはトポロジーとは密接に関係しているのである。即ち、微分方程式が与えられるとは、ベクトル場が与えられることなのである。例えば放物線のある点の接戦の傾きと微分方程式のその点のベクトルの傾きとは一致するのである。
こうして曲面上のベクトル場は微分方程式と同等以上の概念となり、力学系と呼ぶとする、すると曲面上を水が流れるようなフローが力学系であり、流れ出す点がリベラーであり、流れ込む点をアトラクターというのである。例えば地球の緯度の線を閉軌道を持ったフローとみて、このフローに小さな摂動を加えると渦巻のような線に分岐するのであれば、これは前者の構造不安定なフローが後者の構造安定な渦巻のフローに分岐するからであり、リベラーからアトラクターへと流れが生じるのである。このリベラーとアトラクターは北極と南極を思い浮かべれば良い。このフローの分岐の問題が、カタストロフィーの問題なのだと著者は述べる。
つまり、二つ以上のアトラクターが力学系に現れた時には相争う形になって、一つのアトラクターが消滅し、示していた現象が他のアトラクターに奪われた時、不連続な急激な変化即ちカタストロフィーが起こるのである。本書ではコントール面とくさび曲面を図示して説明していて視覚的に分かり良いのであるが、例えば「乙」の字に曲がった曲面の「乙」の中心がリベラーであり、下の横線が旧のアトラクターを含む面、上の横線が新アトラクターだとすれば、旧アトラクターが力を増した新アトラクターに現象のフローをジャンプさせるのである。
こうしたカタストロフィーはトポロジーにおける写像の特異点の研究であり、ルネ・トムは自然界、特に生物学における変化や進化に応用できるとしている。この後本書では、七つのカタストロフィーのモデルや生物界での応用の例や「カタストロフィーの思考」について、意識や意味モデルとして言語についても述べられていて関心が深いが省略する。付録として「ことばのカタストロフィー」が掲載されている。ソシュールの言語学が「表すもの」は「表されるもの」に決定される、文や言葉の形態は意味とは無関係としたとし、これらの考え方とトポロロジーを用いて単純な文章のカタストロフィー的な解釈を行っているのは興味深い。
以上
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2013年11月15日(金) |
レヴィ=ストロース著 川田順造訳「悲しき熱帯T、U」を読んで |
この本は哲学書などにも結構引用されていて、一度読んでみたいと思っていた。二冊合わせて700頁もあるとても長い本である。それが読み始めると結構面白い。ただ速読を許さない前半の特異な文章が、後半の原住民の記述などでは少し普通の読みやすい文章に変わり、やっと読み終えることができたのである。著者は哲学者を志向しながら人類学者となり、ブラジルにての原住民調査などを終え、帰国後十五年たって一気呵成に本書を記述したらしい。その空白の期間が何を意味するのかなど私に分かるはずがない。最初に著者と訳者のまえがきが載っていて、その後読み始めた出だしがよく分からなかったが、帰国時の話を最初に書いていたのである。どうも本書は時間と空間の配列を著者の脳髄の中で再構成しているらしい。そして現地調査ばかりでなく著者の幼時の体験や各種の文明に対する感想や批判も交えた文明論としても読むことができると思われる。
訳者の川田順造は原題の「Tristes Tropiques」の訳を、特にTristesは「憂鬱な、暗い、うんざりする」という意味を持つらしいが、この語の訳を「悲しき」としたらしい。この訳がぴったりするのである。どう感想文を書こうか迷っているが簡単に箇条書きにて示したい。1)文章が散文詩的に特異なのである 2)深い憂鬱が立ち込めている 3)構造主義的な人類学らしい 4)他者との区別なる存在論など 本書を眺めながら気楽に書いてみたい。
1) 文章が散文詩的に特異なのである
構造主義とは言語構造に始まるらしいが言語論など知らないために、この著者の文章を構造論的に論じることができない。ただ長めの文章が兪を伴って修飾関係が曖昧となり、語と語の繋がりが逆転した位置関係を持って、瞬時の想起を許さないのである。そして次の文章へと移動していく。これらの文章の隙間が密に繋がって、むしろ話を繋ぎながら内容を異ならせて疎であることもあり、どうしても読み飛ばしを許さないのである。濃密な散文詩を読んでいるような気がしてくるのであるが、その記述内容はとても論理的なのである。訳者がはじめに、この特異な文章について翻訳の苦労も含めて述べているので、著者の文章の特異性については、そちらを参照して頂きたい。
2) 深い憂鬱が立ち込めている
本書にはどうしても深い憂鬱が立ち込めているのである。それは文明人に圧倒されて消えなんとする原住民対する思い以上に、この文明人を含めた人類そのものに対する憂鬱である。これは文章を引用すればすぐに分かるであろう。『世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう』(U425頁) 序文の『ローランのために お前と同じように、これまでそうした世代は亡びてきたし、これからも亡びるであろう ――ルクレティウス「事物の本性について」第三巻九六九』こうした晴れることのない気分が本書を支配して覆い尽くしているのである。ただ思いがけない楽しさや原住民とのたわいもない会話や、原住民の地位や身分の多層な関係を細かく述べるとき著者の気分が少し健やかに晴れるのである。
3) 構造主義的な人類学らしい
本書は構造主義的に人類学を手掛けて記述しているらしい。原住民の社会構造や死者との関係、男と女の役割分担などを記述するとき、その構造関係が明確に記述されている。ただそれが構造主義であるかどうかは私には分からないが、明確に諸関係が記述されているのである。例えば氏族や半族に属すると同時にそれらの族における上中下の身分が複雑に絡まっているはずが、当人たちにもよく分かっていないようであり、結局は人間の数が少なくなって上中下の簡単な身分しかないと述べるとき、納得するのである。この記述されている入り組んで複雑な身分の諸関係は、半分程度しか理解していない。
4) 他者との区別なる存在論など
他者との区別なる存在論などは、そう述べられているわけではない。原住民たちを見て自分たち文明人を振り返る程度である。ただルソーやライプニッツなどについては何回か述べられている。特にルソーの文章が多く引用されている。それは主に社会形態の在り方である。著者はこのもっとも単純な形態に還元された社会形態を見ながら、もはや人間だけしか見出していない、そこから逃げ出してくるなんてと述べるのである。単純な形態の社会から逃げ出してくる著者自身を苛んでいるのである。こう述べる著者の心持は分かつるような気がする。その他、男女や首長など一夫多妻や一妻多夫などについての記述は割愛する。第九部の表題「回帰」での、「神にされたアウグストゥス」の章などで、幻影のように忍び込んでくるこの世界、甦る記憶、そして響き渡るドビシュッシーの音楽について語るときは、一遍の抒情詩のようである。
以上
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2013年11月8日(金) |
ジャン=リュック・ナンシー著 澤田直訳「自由の経験」を読んで |
久しぶりに本を読んで感動した。ドゥルーズ著「フーコー」を読んで以来の感動である。私はこの人の硬直な文章が好きである、この人のまっすぐに思索する姿勢がとても好きである。
リュック・ナンシーはジャック・デリダ著「ならず者たち」を読んで知った哲学者である。文章は少し晦渋であるが、この文章に散りばめられた細かな意味を完全に理解することを放棄すれば、一遍の詩として読むこともできる。そしてこの著者は「自由」を完全に定義することの困難さを、むしろ不可能性を指摘しているとさえ思われる。著者は荒々しいとも思われる文章の中で、ハイデカーの存在論をベースに存在と自由について、その他の多くの哲学者の思想を引用し、考察し、批判し、自らの自由についての思想を順次多岐にわたり展開していくのである。全部で十四章あるが、巻末に訳者が各章の記述内容を簡潔にまとめているので、本感想文では良く理解はしていないが、全体の思想の流れを少しばかり追ってみたい。
自由は存在の境位、存在の根本的な様態であり、現存在の可能性の根拠として自由を探求する場合にのみ立ち現われてくるものなのである。つまり自由においてでなければ実存はないのであり、これは哲学が常に認めていた立場であるとする。経験とは事実と与件の出会い、実在の試練なのであり、「自由」の経験を思想の実践として問題にするとした基本的な立場を取り、著者は論述を進めている。なお、実存の根拠とは、純粋になされるべきものを現実に意欲する理性の実践的な事実である。
ハイデッカーは、存在は現前と意味との退隠の自由であると述べたとし、だからこそ存在の退隠と自由の特異な事実性とともに、根源的な問いかけを行うべきであると著者は述べる。またハイデッカーの『根拠律』に示されている、理性による根拠としての存在への問いから、理由として根拠なき存在への思考へと移行させて、思考を飛躍させるべきであると著者は主張する。それまでの哲学が理念と主体性から自由を捉えていたに対し、存在を必然性として思考すべきなのである。この思考することが経験なのであり、思考が思考するものが自由なのであると著者は改めて述べるのである。
こうした存在論は質量的には、存在が特異であること、特異性という存在の仕方だけがあること、この二つの可能性しかもたないとして「そのつど」その時だけの特異性という存在について著者は語る。存在は諸存在者の存在する連続体ではないのである。ただ存在を他者と関係を持ち分有することができるというありかたでのみ我々に共通なのである。即ち実存はこの分有されることの外に、自己の外において自分であることができるのであり、自由はこの自己の外にあるのである。自由はこの存在の分有の特異な空間における自己の外での自己への接近の論理であり、自由はロゴス自身の分有されているなかで開かれたロゴスなのである。こうして分有のロゴスとして自由は平等と等しいと、また自由は無から測定されること、友愛、正義との関係について著者は述べるのである。
経験とは思考の経験であり、経験は自己への現前化の正確な裏側へと、自己が立つ同じ境界の他の縁へと開かなければならないものである。この思考は物質性を持つのであり、思考の身体ないし肉体とも言えるのである。かくして自由は極限まで推し進められた自己への現前の肯定であるとする。自由は自由な存在の露現の覆い隠しであり、露現を動きとして解すれば、実存は露呈されているのである。つまり現存在は存在者の露現の不意打ちとして露呈されるのである。存在の現において不意打ち以前にはそれに属するものは何もないからである。即ち現存在は実存する自由によって不意打ちされていることを意味する。なお、自由も不意打ちされるのである。自由は主体性を持たないための、主体性の境界上で主体の行為により成される。例えばアンナの列車の下に身を投げ出そうとした決断の不意打ちであると著者は語る。
こうして更に著者は悪と善について述べる。悪が善の欠如ではなくて、善そのものの損ないであって、善の剥奪ではない。先立つのは悪でも善でもなくて自由のみが自ら先立ち、それに決断によって悪や善が続くのである。このように悪は自らに対する約束を破って自らの鎖を解き放つ自由であるとする。『自由自身こそが自ら自身において自らに抗して爆発するのである』悪とは激怒なのである。この激怒が恩寵と同様に存在に込められていれば、平等性の原則は既に破られているのである。激怒は「健全なもの」に災禍をもたらすが、健全なものは何も「しない」からである。悪は実存の自由である「自己」の憎悪であり、こうして実存の憎悪であり、実存者の可能性である。実存者が実存を退隠させるという意味で、実存の拒否のもっとも固有な可能性としてあるのである。
思考においてはその行為において決断するのではなくて、『思考が自らを自由に不意打ちする事実そのものにおいて、善と悪の、結合した無差別な爆発ではなく、それ自体においてそれ自体によって、善きあるいは悪しき決断なのである』なお、決断とは古典的な道徳による決断ではなくて、実存に向けての自由な決断である。決断の一般的な空間においては規定された義務も権利も我々に何も与えないのである。最後の第十四章の「断章」において、リュック・ナンシーはこの本の主題とそのさまざまな思考とを改めて、また新しく著者の言葉によれば『薄暗がりの必然性において』思考し続けている。関心を持った二点を示したい。哲学のエクリチュールについての文学との関係性の危険性。「哲学」、「文学」、「科学」の分割可能性。そして、「自らの法」と「始まりの開け」について。これらについてはこれ以上書かないこととする。
以上
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2013年11月1日(金) |
古川日出夫著「ベルカ、吠えないのか?」を読んで |
読売新聞の読書案内で知った本である。劇場タッチの良い文章である。ただ、どうしても私には読めないのである。ぱらぱらと捲ると老人が出てくる、たぶんマフィアのボスのように人を簡単に銃殺する老人であって、少女が人質になる。この少女はやくざの組長のボスの娘であるらしい。そしてこの老人と生意気な少女のいざこざが結構たくさん書かれていて、老人は最後にはどうなるのであろうか、たぶん殺されるに違いない。ベルカなる戦争後に取り残された犬もその仲間の犬の話はあまり見かけなかったし、戦争の経緯やその後の国家間の争いも書いてあるらしいが、さっと読み飛ばしたために見逃したのかもしれない。本書の感想はここまでで終わりとする。
どうして読める本と読めない本がなぜでてくるかという小さな問題がある。この本ばかりではない、メジャーやマイナーも含めて、現代の小説や詩などの大部分も読めないのである。ドゥルーズは、作家は言語の内部に新しい言語を生み出し、この言語を習慣的な枠の外へと言語を引き出して、言語を錯乱させる者であると述べている。即ち、言語の錯乱を通じて、文学は健康を成り立たせているのであり、読者はこの言語の錯乱に共鳴することで、自らの健康を保っているとする。ベルグソンは言語は無数の感情のうちの個人を離れた客観的な非個人的な層だけを表すものであるとし、各人の人格全体の表現はできないとする。結局ベルグソンによれば小説家の才能はこうした表しえない個人の感情や観念を、公衆の領域から生き生きと甦えらせる者である。
こうした哲学者の文学論は非常に良い指摘であって納得がいくが、読める本と読めない本との区別が、境目がどうしてでてくるのか、まだ分からない。人間がこうした本来的な人格を表して生活をしていない、例えばハイデッカーのように人として自分自身を失っている現存在の日常のあり方を頽落と呼び、現存在の基本的なあり方とする考え方とベルグソンの考え方を折衷して少しばかりの解決策としたい。即ち、日常に埋もれて自分自身を失っている現存在の基本的なあり方には、多様なあり方の質的な差異もあるはずであり、また取り戻すべき自らの人格の量の差異もあるのであり、そして日常に埋もれた好みの違いが人それぞれにあるのである。
結論は高尚では有り得ずにありきたりであるが、多様な人格という日常に埋もれた人間の質と量と好みの違いが選択すべきものを異ならせているのである。これは内なる多様性であるが、視線と行動を伴えば外に生み出される多様性でもある。多様性、何と素敵な語感を持つ解決策なのだろう。そうすれば、この日常にて健康を取り戻すべき人間、生き生きと甦るべき人間、自分自身を失っている現存在とはどういう人間であるのだろうか。彼らは気のふれた狂人であり、きっと数が少ない異端種なのである。我々は常に日常の真っただ中において感情を取り戻しており、健康であり、超人であり、自らが意志で動いて生きているはずである、と言うことができる。きっとこの健康も含めた記述はまったく詐欺的である、欺瞞に満ちている。どうしてこのような記述になったのか自分でも分からずに困っているが・・。
以上
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2013年10月25日(金) |
ケネス・ウォルツ著 渡邉昭夫 岡部知子訳「人間・国家・戦争 ――国際政治の3つのイメージ」を読んで |
結論から言うと、古典的名著というからには、ハイエクの「隷属への道」のような本を期待していたが、哲学書などの引用が多すぎて、著者の思想がどこにあるのか分かりにくい、というより伝えようとする思想は不明もしくは単純化された本に違いない。それでもぱさぱさした読み憎い文章を最後までさっと目を通したのである。きっと、ベルグソンの「時間と自由 ――意識に直接与えられたものについての試論」を平行して読んでいたことが影響していたというより、国際政治そのものが難解なのであろう、国際政治そのものがぱさぱさと乾いた文章そのものなのであろうと思われる。なお、本書の原本は1959年に発刊されている。ハイエクの「隷属への道」は1943年に発刊されている。
3つのイメージとは、たぶん「人間」、「国家」、「国際システム」である。著者はこれらのイメージを批判し相関関係を考察することで、「戦争の主要原因はどこにあるか」との問いに答えようとするというより、参考文献が多数掲載されているので、国際政治をスタディするばあいの参考書として、何らかの参考にすべき意見が述べられている本として理解しておくと良いと思われる。
簡単に内容を紹介すると、スピノザ、カント、ルソーなどの哲学者や思想家がたくさん出てきて、彼らの思想が、特に「人間」や「国家」などについて述べられた思想、この引用された思想が正しいかどうかは私には判断できない、これらの思想をもとに著者の話は進められ、各章のおわりに結論がまとめとして記述されている。なお、紹介した内容は誤りを含んでいるかもしれず、かつ私の感想そのものであるが、誤りがあっても何も保証するものではない。以下は簡単な内容の紹介である。
スピノザは人間の不完全性を論じることによって、感情が理性に代わった結果、暴力について論じこれを国家レベルに環境を変えて、解決策を模索したらしい。カントは人間は感性と理性の両方の世界に属すると定義し、世界の中の国家もこのような個人として捕らえ国家間の紛争や暴力は不可避であるとしたと著者は述べている。またルソーは紛争原因についてはいかなる目的を追求することでも起き得るとして、著者はルソーの考え方を一番引用して重要視しているようにみえる。結局どうも結論は良く分からなかったが、3つのイメージの関係させたそれぞれの交差点に戦争の原因はあるようであり、また戦争の直接的原因は些細なことでも生じると著者は認めている。なお最後に、国家は自らが最善とする方法で自己利益を追求するものであり、軍事力が国家の対外目標達成の手段なると著者が述べていることには、そのような同じ考えをもつのである。
著者は戦争が経済に結びついているのを知っていたと思われる。第五章のアナトール・フランス「ペンギンの島」にて製品市場がなくなったときの製品のはけ口を求めた戦争についての小見出しや、第七章の「国家の関税と国際貿易」については国の経済政策について論じている。さらに経済から「国際政治における勢力均衡」へと話を進めている。この経済の周辺に一番戦争の原因があるような気がしてならない。国家を突き動かすのは資本であり、その資本が経済を牛耳っているはずである。この資本の特性を、経済を刷り込ませた国家の性質の議論を深めれば何がしかの結論が出てくるような気もするのである。もうすでに著者がこうした考えを述べているはずである。
本書を読んで国際政治とは難しいものであると知る。それにしても何であっても原因を探ることは難しいことである。人間が感情に支配されて理性を失うとしたら、国家にもこの人間の本性が適用されて戦争が起こるのは必然であり、3つのイメージの関係させたそれぞれの交差点に戦争の原因がある以上に、また経済上の争い以上に、スピノザやカントのように国家を人間として捕える必要がある気もするのである。なぜなら国家を動かしているのは結局ごく一部の人間の思い付きや感情であるからである。その暴走を阻止するシステムを国家は持つことができないというより、暴走はこれらを阻止を軽々と乗り越えていくためである。いずれにせよ個々人と社会との関係を、国家との関係を述べたルソーをどうしても避けて通れない、読む必要があるのである。
以上
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2013年10月18日(金) |
ベルグソン著 中村文朗訳「時間と自由 ――意識に直接与えられたものについての試論」を読んで |
少しベルグソンを読んでみようと思った。何か面白そうと思ったからである。読んでみると簡潔で易しい文章、美しい文章で、素敵だなと思っているうちに、たくさん出てくる言葉の意味や相互関係が分からなくなり、数学的な記述もあって、段々難しくなり結局はお手上げとなった。仕方がないのでもう一度ぱらぱらと捲って、必要なところは鉛筆で線を引いて、それでやっと少しばかり理解できたのである。今まではノートにメモを取ったことがあるが、本には線は引かないようにしてきた。図書館から借りてくる本も結構あって、線を引く癖をつけないようにしてきたのである。ベルグソンの著書を読むとしたら、全部買わなくてはいけないだろう、でも結構文章が美しくてできるだけ読み続けたい。
本日記は私のメモ書きのようなものである。ドゥルーズが影響を受けているはずである、だがドゥルーズとは少し言葉の持つ意味が違うのである。まあ、哲学とは自分なりに解釈するものだから、それはそれでよくて、私も言葉の意味に惑いながらも読んでいて楽しいのである。全部を読んだ後に解説を読むと、まず結論を読むと良いと書いてあって、失敗したなと思いながら、ベルグソンは数学にも特異な才能があったと記述してあって、なるほどと思ったものである。メモ書きは私の理解できた範囲のみで記述する。なお、本書は序、三つの章、結論から成り立っており、各章は短い見出しで分割されて読みやすい。『 』は引用文である。
序
ある種の哲学的な問題は空間に場所を占めない現象を空間に並置することであり、質を量へ翻訳したために生じるのである。本書では自由の問題を取り扱うが、持続と延長、継起と同時性、質と量とを決定論者とその反対者で混同していることをはっきりさせることであり、こうした前提が自由という問題を解き得るとベルグソンは述べるのである。
第一章 心理的諸状態の強さについて
本章では感覚、感情などの諸状態の強さについて論じている。量には外延的で測定可能な量と、内包的で測定できないが強さを表すものがあるが、これらを区別すること自体が問題の回避であるとベルグソンは述べて、まず量について話を進めていくのである。『量は増減可能であり、そこには言わば〈より大きなものに包まれているより小さなもの〉が認められる。だとすれば、量というものはそのこと自体からしてまさに分割でき、またそのこと自体からしてまさに拡がっている』のであるとする。この考え方は重要である。
そして、感情、意識の状態と筋肉運動との関連、情動、感情、音の感覚、熱と重さの感覚、光の感覚などについて運動との関連などから考慮していくのである。なお運動とは筋肉的な身体の動きであり、動かそうと努力することで、身体の部位が大きくなるという意識が、動いていくという知覚に到達することである。なお、こうした意識は空間で考えることに慣れていて、感情を一点に押しとどめたまま性質も変えずに大きくなるものとして錯覚することもある。そして『感情的運動の強さは、私たちが非意志的な運動についてもつ意識に他ならない』(50頁)とする。例えば苦痛の強さなら、非意志的な苦痛の反応を起こす身体の部分の数と拡がりによって定義されるのであり、これは意識が取るべき諸反応や行動へ訴えているのである。この強さは量ではなくて質なのである。
さらに感情的感覚と表象的感覚を区別して、感覚の強さが量として非延長的な分割できないものへ侵入していく点について考慮を進めていく。結論を先に述べると、先ほど苦痛の例で述べたように感情的感覚は質なのである。味、においなどの表象的感覚も質なのであるが、それらの表象的感覚も暗示する快感や嫌悪といった反作用の運動によって量の差異と解釈されてしまうのである。これは結局『結果のうちの或る質に対して原因のうちの或る量の観念を結合し、後天的などんな知覚にも起こるように、観念を感覚のなかに、原因の量を結果の質のなかに置き入れる。まさにこの瞬間に、感覚の或るニュアンスないし質に他ならなかった強さは、大きさになるのだ』(57頁)即ちこのようにして表象的感覚は、無意識のうちに質が量として、強さが大きさとして解釈されるのである。
更にベルグソンは精神物理学上の刺激量について考慮を進めていくのである。ここで物質的世界では『あらゆる現象、あらゆる物体が、性質的なものと延長的なものという二重の相の下に現れる』(79頁)のであり、外的事物の測定を可能にするために初めから除いていたこの性質的な質こそ測量したいものなのである。フェヒナーの独創性は『刺激が連続的な仕方で増加するのに感覚は突然の飛躍によって変化する』(80頁)ことで、これらの外的な刺激の最小の増大に対して、感覚の差異を同様に定義したことにあるとベルグソンは述べる。これにより共通の基盤ができあがる、つまり相等性として定義できる一つ一つの感覚に生じる最小の差異である。そして差異の二項が同時に与えられることで、対照が見られるのであるとベルグソンは述べる。こうしてベルグソンは『対照は差異として、刺激は量として、突然の飛躍は相等性の一要素として私たちに現れることになろう。私たちはこれらの三つの要因を一緒に結合して、結局、相等しい量的差異という観念に到達する』(85頁)と述べる。なお対照とは算術的に明確でなくとも異なる違いである。
ここで重要なのは「強さと多様性」である。強さは外的原因に基づき結果の大きさとして推測するか、それとも心的諸事実の多様性にあるのかということである。結論から述べると『強さの観念は二つの流れの交流点に位置しているもので、一方の流れは外から外延的大きさの観念をもたらし、もう一方の流れは意識の奥まで内的多様性のイメージを求めにいって、それを表面に導くものだ』(91頁)とする。
第二章 意識の諸状態の多様性について ――持続の観念
『数は一般的に単位の集合、あるいはもっと正確に言えば、一と多の総合とされる』(93頁)こう述べて、ベルグソンは数の観念について考察を進めていくのである。すべての数は一である、一つの名前を与えるからであるが、『この単一性は総和の単一性であり、別々に多様性を含んでいる』(93頁)観念であるとする。五十匹の羊の数え方を例に取り、我々は空間のなかよりもむしろ時間のなかで数える習慣を身に付けていると述べる。五十という数を数えたとき『その数を持続のなかで、持続だけのなかでつくりあげたと思い込んでしまうだろう。なるほど、空間の各点ではなく、時間の各瞬間がそのような仕方で数えられたのだということには異論の余地はない。だが、問題は、持続の各瞬間を数えたのは空間の各点によってではないかということである』(96頁)ここで持続の思想が現れていることに注意したい。持続は時間の各瞬間として表現されている。そして、総和というものは異なる諸項をそれぞれ継起的に考えていくことによって得られるのであり、これは持続によって作り上げられたのではなくて、空間のなかに局在化していたことにより数えることができたとする。『私たちは私たちが数える各々の瞬間を知らず知らずのうちに空間の一点に固定しているのだ』(97頁)とベルグソンは述べる。
数が一であると断定する時は、全体性において象徴しているのであり、一つの全体の単一性という意味で、多様性をうちに含むのである。だが数を構成する諸単位について語るときには純然たる単位であって、無限に合成されて数の数列を作り上げるのである。結局単位には、多様性をうちに含む単位ともはや総和ではない還元不可能な純然たる諸単位との二種類の単位があるとする。そして、精神は単位を別々に考えることができて、次の単位に移るや否やこれまでの単位を客観化し、一つの物に、一つの多様性にするのであり、多くの部分に分割できるものと認め拡がりのあるものとみなされるのである。こうして『単位は考えている間は還元できないものであり、数は構成されている間は非連続的なものである。しかし、数が完成状態で考察されるや否や、それは客観化される。そして、まさにこの故に、その場合、数は無限に分割可能なものとして現れるのである』(102頁)とする。
次に音を例にとって純粋持続について定義する。音は数えるのではなくて質的な印象をとりまとめているだけである。音を数えようとする場合、音を分離しなければならない。『音が分離されるのは、相互のあいだに空隙を残しているからである。音が数えられ得るのも、それらの間隙が過ぎていく音と音の間に残っているからである。これらの間隙が純粋持続であって、空間でないとしたら、どうしてそれらが残ったままじっとしていられようか。演算が行われるのは、まさに空間においてなのである』(107頁)即ち、瞬間が保存されて他の瞬間に付け加わることは時間ではありえずに空間なのである。そして、この演算が意識の奥深く入り込むに従って、感覚と感情の混然とした多様性に直面するのである。『多様性には二種類ある。一つは直接に数を形成する物質的対象の多様性であり、もう一つは、必ずや空間が介入してくる何らかの記号的表象の媒介なしに数の様相をとりえないような意識事実の多様性である』(107頁)こうして純粋持続と多様性が定義され、時間と空間という等質的な環境で、継起と同時性について考慮していくのである。その結果、純粋持続は互いに溶け合い、数とは何の類縁性もないような質的諸変化の継起以外ではありえないと述べる。
こうしてベルグソンは持続と空間、そして同時性や自我との関連を考察していくのである。結論だけ述べると『空間と持続という二つの項の連結線は同時性であり、これを時間と空間との交差点と定義することもできよう』(133頁)と言うのである。
第三章 意識の諸状態の有機的一体化について ――自由
本章では意識と記号、言葉との関連、さらに観念連合と自我について考察を進めていく。『私たちは相互に外在的な諸項を知覚することになるが、これらの項はもはや意識の諸事実そのものではなく、それらの記号・・それらを表現する言葉なのである』(195頁)即ち意識状態を説明するには『個人的な意識状態は相互に外在的な非個人的諸要素に分解され、その各々が類の観念を喚起するとともに、言葉によって表現されるようになる』のである。こうして意識の諸事実の集合体から非個人的な相しか保持しようとしないのであれば幻影的な自我しか見出せないのであるが、特定の人の帯びている特殊な色合い、すべての心理状態を反映する一つ一つの色合いに姿を見せる『それらのうち一つでも選ぶことができるのであれば、人格が丸ごと存在するのである。そして、この内的状態の外的表れがまさに自由行為と呼ばれるものであろう。というのは、自我だけがその作者であったし、その外的な現れは自我全体を表現するからである』(198頁)と述べる。こうして自我と自由について論じられる。
さらに科学も含めて、時間と量と持続が論じられる。ひとは『数へと還元されるような時間を、その量と見えるものが本当は質であるような真の持続、それを充たす諸事実の性質を変えることなしに一瞬たりとも短縮できないような真の持続と同一視しているのである』(236頁)人は操作できる権利を持っていて時間を真の持続と同一視していることに気づいていないのである。来るべき事実はもはや過去の物となった静的状態ではない動的状態の進行としてそれに先立つ意識の諸事実を眺めなければならない。そして、持続と因果性との関連を述べた後、即ち一定の先行性が一定の結果を生む規則性が意識の領域でも見出されるかどうかが、これこそが自由の問題のすべてであると述べて、自由の問題について定式化する。『自由と呼ばれているのは、具体的自我とそれが行う行為との関係である』(261頁)この自我には二つの異なる自我があり、内的状態が相互に浸透し合い持続における継起を把握させるのではない、他方の自我の外的投影の自我に生きており『私たちがこのように自分自身を捉え直すのは稀であり、これ故に自由でであるのは稀なのだ』(276頁)とベルグソンは述べる。
結論
本章は新たな視点も若干加わっているが、今まで述べてきたことのまとめであり、二つ気に入った文章だけ引用しておきたい。『私たちの内部にある持続とは何か。数とは何の類似性ももたない質的多様性である。有機的発展性であるが、増大する量ではない。純粋な異質性であるが、そのなかにははっきり区別された質というものはない。要するに、内的持続の諸瞬間には相互的に外在的ではないのである』(270頁)『意識のうちに私たちが見いだすのは、互いに区別されることなく継起する諸状態である。また、空間のうちに見いだすのは、継起することはないが、後のものが現れるときには前のものはもはや存在しないという意味で、互いに区別される諸同時性である。――私たちの外部にあるのは、継起なき相互的外在性であり、内部にあるのは、相互的外在性なき継起である』(271頁)
私の雑感として、ドゥルーズと言葉の使われ方がそのニュアンスが異なると思われる、その言葉は次のものである。「多様性」、「持続」など。これらについては機会があれば調べなおしてみたい。それにしても最初にも述べたが、ベルグソンの文章は美しいが難しい。
以上
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2013年10月11日(金) |
キャロル・キング著 松田ようこ訳「キャロル・キング自伝 ナチュラル・ウーマン」を読んで |
こういう自伝物は通常読まないのであるが、懐かしさのあまり読んだのである。キャロル・キングは何回か来日しているが、一度コンサートを見に行こうと思って、結局行けずに残念な思いをした記憶がある。自伝物ではもう内容は忘れたが「ニジンスキーの手記」などが面白かったはずである。
本書は自然に生きる女性の一人としてのキャロル・キングの姿が赤裸々に、それも原文が良いのか訳文が良いのか、きっと両方であるのだろう、しっかりとした文章で綴られている。結構分厚い本で、全四部で合計89章からなり、約500頁ある。日頃から彼女は書きためていたようである。ただ、内容は幼少の頃からの育った環境、音楽との出会い、両親の生き方、何回かの結婚、そして出産、DV(ドメステック・バイオレンス)、音楽家たちとの出会い、音楽活動、人権活動などについて繊細ながらもダイナミックに語られているキャロル・キングの歩んできた人生そのものであって、本書はそれ以外の何物でもない。
「ナチュラル・ウーマン」とは彼女自身の生き方を指しているに違いない。ただ彼女が、アレサ・フランクリンのために依頼され作曲した曲名でもある。キャロル・キングはポップス系として売り出しているはずであるが、その細く消え入りそうでありながら、かつ凛と澄んで柔らかに伸びのある声に比較して、アレサはきっとソウルの王道を進んでいるはずであり、響き渡る豊かな声とソウルらしい表現力には大きな差がある。両者のこの「ナチュラル・ウーマン」を聴き比べてみたが、私はやはりアレサの方が好きである。もともと私はR&Bやソウルなどの方が好きなのである。
キャロル・キングが歌手としてデビューしたのは、ジェイムズの演奏会のその場で無理やり歌ってほしいと要望されたためである、この話が面白い。その他、有名歌手がたくさん出てきて面白い話が結構載っているが、私にはあまり関心がないので割愛する。最近は聞く歌手が限られて、ホワイトスネークやローリングストーンズなどである。これらロックとソウルであるはずが、三味線と箏に移行しつつあって、それに胡弓も加わってくるが、一方が増加すればきっと他方を聞く機会が減少するのかもしれない。ただロックもソウルも三味線も箏もどれもが好きに違いない。
以上
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2013年10月4日(金) |
ペーター=アンドレ・アルト著 瀬川裕司訳「カフカと映画」を読んで |
本書はカフカの文章表現と映画の映像との関連性について、似るというよりもはや同一な描写方法であると述べた本である。ベルグソンなどの哲学者の名前が出てくるが哲学的記述はなくて、カフカの実際の文章と映画の映像とを主に比較し検討した、そして映画好きだったカフカの日常を少し描いた、たぶん文芸評論の書である。
「失踪者」、「審判」、「城」などのカフカの文章表現と映画の映像から著者はまず「動くイメージ」として捕える。ベルグソンやドゥルーズの考察した知覚と運動の観点について少しばかり述べた後、著者は静止と力動性との緊張関係を、例えば機関車のような力動性をカフカは文章表現に用いていると述べる。そしてカメラ視線からの観察力が鋭く、断片化されたショットにカフカの文章は構成されているとする。更にこの見ることの知覚データに集中することにより、カフカは自己忘却をなすことができて、執筆が可能になったとする。著者のこのカフカの文章と実際の映画の場面を含んだ映像との関連性の指摘は、感嘆するほど詳細に記述されている。著者によるとまさにカフカの文章が映画なのである。
また著者は心理学的な観点からの影響も述べる。それは内面を描くのではなくて内的な原因を探るのでもなくて、諸疾病の諸症状のみが書かれている可視的な表層として、人間と事物の間に現れるような社会構造の階層関係などが、心理学的な自我の分裂や二重化を記述しているとして例をあげて説明する。例えば二重化は「変身」のように新しい姿を取る必要はなくて、「審判」のようにKの意識が有罪と無罪に、現実も法廷も混じり合っていてどちらも二重化されているとする。ただこうしてみると、映画とは反心理学的なものであり表層を捕えるのみである。著者が心理学的な観点からの影響も述べても、やはり本書の記述は映画へと戻っていくのである。
身振りが特にカフカの文章表現だと著者は述べ、無声映画のパントマイムとの関連性について「兄弟殺し」なる短編を例にあげ述べる。そして、ステレオコープ(カイザーパノラマ:円筒形の構造において静止画像を等しい間隔で提示する装置)との関連や、「ぼんやりとしたイメージ」ついて知覚の観点から考察した後、これらのカフカの小説への影響も述べる。第八章の「トランシルヴァニアの測量士――城」は具体的なカフカの旅と、現実的な城の構造と、「城」に描かれている情景のついて述べていて、一番興味深い章である。また、この「城」が映画の影響も受けていて、小説の構成も映画の「場面」に分割されていると著者は述べる。ただ最後に著者が述べているように、カフカの文章は内的独白などが多くなり因習的な語りの形式に変わっていくのであるが、その原因を著者は主人公の境遇の正確な記述が必要なためと述べているが違うはずである。カフカにはこの無限に続くような語りの構造が必要だったのである。
訳者の瀬川裕司が「カフカの映画化の(「不」可能性――解説にかえて)」で、カフカの作品の映画化と、カフカ自身の映画化について記述している。映画化によって作品の魅力が薄れること、またカフカの作品は映画よりも写真、カイザーパノラマに近いのであり、情景をコマ送りのスケッチをするように小説を書き進めていたのではないかと述べているがそういう感じもするのである。なお、紹介されている何本かの映画で私が見たいと思ったのは、映画作家ミヒャエル・ハーネケによる「城」である。また、調べると「カフカ、映画に行く」や「カフカと情報処理社会」などという別な著者による本も結構出版されて、それらも読んでみないと本書の正しい評価はできないのかもしれない。それにしても今更ながら、評論が多数出版されるカフカの魅力はまだ色褪せていないというより、一層魅惑し続けているのかもしれない。その理由はドゥルーズが記述したように表層に現れる意味、その意味を表しだす深部との関係性を探りたいためであると私には思われる。
以上
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2013年9月27日(金) |
井原西鶴著 「好色五人女」を読んで |
古典文学については、岩波の古典文学大系全百巻にて結構読んでいるが、近世の、特に江戸時代の作品はほとんど読んでいない。平安朝などの文学に対してあまりにも感覚が近代に近くて、また義理人情が色濃く記述されているだけの作品が多いと思い、読まないうちから毛嫌いしていたのである。そこで、どう記述されているか確認しようと思って、この「好色五人女」を選んだのである。「好色一代男」や「好色一代女」を選ばずに本書を選んだのは、手に取ってさっと斜め読みしながら殆ど偶然に決めたものである。解説の東明雅によると、西鶴の好色本のうちでも、女性の悲惨な運命を描いていて、同情的にも哀れにも感傷的にも描かれている、「好色一代男」の遊里の理想郷を描いた作品とは全く別の趣の異なる作品であるとのことである。
確かに恋に狂った女性たちの哀れな姿が、洒落や笑いを含みながら、一途に思い募る心を遂げようと必死になって、その思いが遂げられた結果の悲劇が、もしくは幸福な結末もあるが、流れるような文体で描かれているのである。本書は岩波版の文庫本であって、補注は最後に詳細に記述されている、ただ面倒で読まない。少ししかない本文内の注釈だけを手掛かりにするととても読みにくいのは確かである。そして文章の流れるはとても速くて、変わり身が早くて、何度も読み直さなければ、誰がどうなったのか定かではない個所も、結局分からなかった箇所もある。だが流れは寄り道をしながらも分からずとも結末へとおのずと導かれていくのである。私にはこの文体がとても新鮮に思われる。そして各巻五章の構成が、五巻五章の構成が、いみじくも私の作品構成に対する思いと同じだったのである。ともかく現実的な描写に徹していて、作者の視線は感傷と同情を含みながら、女の末恐ろしさを含ませながらも、美しい女たちの恋に狂う姿を冷静に描いている。
無論、この五人の女たちには現実の出来事があるようである。だが解説の東明雅による現実の出来事の説明と作品の内容とを比較するとだいぶ変更されているようである。西鶴は悲劇を少なくして、より幸福な結末に至る筋を選択しているようである。それは商人の子として育った西鶴のこの時代とそりを合わすための生きるための知恵であったのか、西鶴の心根の優しさであるのか、作品としての完成度を求めたのかは分らない。ただ東明雅が言うように、封建制の掟や道徳に反発した女の生き方を描いたとの主張は疑問である。彼女たちは自らの思うがままに率直に生きただけであり、それを西鶴は自身の目を通して鮮やかに描いただけである。ともかく、本書の五人の女たちの物語に描かれた大筋を簡単に紹介しておきたい。
1)「姿姫路清十郎物語」は、主人の娘お夏と手代の清十郎との密通、駆け落ちの話である。清十郎の豪遊によって手代に身を落として律儀になったはずが、お夏の熱意によって恋に陥るのである。清十郎は盗人の罪で処刑され、お夏は出家し清十郎を弔うのである。
2)「情けを入りし樽屋物かたり」は、樽屋なる夫を持つ身のおせんが、姦通を余儀なくされというより、いやがらずにきっと恋なのであって、その情交場面を夫に見られて自害するのである。
3)「中段に見る暦屋物語」は、おさんは手代の茂兵衛と密通し、その手助けをした下女とともに逃避行を行うが見つけ出されて、処刑されるのである。
4)「恋草からけし八百屋物語」は、有名な八百屋お七の話である。大火で避難先のお寺の美少年吉三郎と恋仲になったお七が、また吉三郎に会いたくて放火し、火刑となるのである。お七はそうとうな美人であったらしい。
5)「恋の山源五兵衛物語」は、男色の源五兵に恋したおまんの狂おしい恋が遂に実を結び、源五兵衛はおまんの実家の富を得るのである。
今度機会があれば、近松門左衛門の浄瑠璃に挑戦してみたい。
以上
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2013年9月20日(金) |
ワイルド著 福田恆存訳「サロメ」を読んで |
ずっと以前に、ジュリア・クリステヴァ著「斬首の光景」を読んだことがある。本書では多数のことが述べられているが、テーマは首の光景の分析を通した「イメージ論」である。簡単に言えば、可視から不可視の世界への橋渡しとしてのイコン、もしくは極限の恐怖の視覚化の光景からイメージの彼方にある不可視の世界を見る者へ没入させる構造をクリステヴァは指摘していたはずである。ただ、そう言うこととは別に、「斬首の光景」に多数述べられているうちに、斬首された首を所望した女たち、デリラ、ユーデット、サロメに関心を抱いていたが、彼女たちは確か旧約聖書、新約聖書に登場する魅惑的な女たちなのであり、その物語を知りたかったのである。
特に、このワイルド著 福田恆存訳「サロメ」は挿絵が魅力的である。それ以上に、新約聖書に書かれている原本の物語は思い出せないが、サロメを最初は少女っぽく描きながら、美しくも官能的でかつ非情な女として振る舞わせていく描写はとても好い。ワイルドは世紀末文学といわれるようであるが、この戯曲「サロメ」の後半の王様が首を所望したサロメへの翻意を促すセリフ、首を入手したサロメの高ぶる感情を表したセリフは詩情豊かである。世紀末文学的な頽廃という以上に、何か根源的なものを感じさせる。訳者福田恆存は、このサロメの解釈を『スペクタル的官能美の表現と見る従来の定説に与しない。それはあくまでせりふ中心の運命悲劇である』と述べて、本書の岩波版ではなくて新潮社版に自らの解釈を記述していると言っている。残念ながらこの新潮社版は読んでいない。福田恆存の内容を敢えて逆説的にとらえ、幻想の内であっても切り拓こうとする強い意志の力、女の母性の淫婦のこの世界を動かし得る意志の力を表現した物語と推測するのは、あまりにもうがった見方であろうか。新潮社版を読めばすぐに分かることであるが・・。
なお、本書の筋書きは、預言者ヨカナーンに恋をしたサロメが少しも取り合わないために、サロメの魅力に魅せられている王様の前で舞踏を踊る代償として、サロメが王様にヨカナーンの首を所望し、その斬首された生々しい首にサロメが望んでやまなかった口づけをするのである。なお、この斬首は王様の弟の妻であった母王妃、ヨカナーンに淫婦とそしられていたこの母王妃の望み通りに行ったことでもある。なお、デリラ、ユーデットは、機会があれば旧約聖書を読んでみたい。読んだはずであるがどうも記憶にないのである。彼女たちは格好な画題であって多くの魅惑的な絵画が描かれている。その絵画を眺めるのは恐ろしくとも美しい。
以上
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2013年9月13日(金) |
題:河本英夫著「哲学、脳を揺さぶる」を読んで |
三年ほど前、丸山茂著「自己創生するガイア」、河本英夫著「オートポイエーシス 第三世代システム」を読んだことがあって、オートポイエーシスに関心を持っていた時がある。そのときに購入した本が河本英夫の「哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題」であるが、何だか面倒な本だと思って長い間放っておいた、この本を読んでみたのである。簡明に書かれた本であって、イチローや松井秀樹、カフカやデリダなど具体的な例が多数記述されていて、分かりやすいが、その分かりやすさが返ってわかり難いのである。
本書の帯に書かれているキャッチコピィーはこうである。『こんにちは「哲学」です。SFでも、デザインの教科書でも、クイズでもありません。副作用で頭も少し良くなります。創造性への果敢な踏み出し』と書かれている。読んでみると、どうも「はじめに」にて「身体行為とイメージの活用法」と書かれているように、イメージを通じて経験の動きを自在に獲得することである。そのため『からだに聴くから脳に効く』のであって、認知能力の向上ではなく、もっと根本的な能力そのものの形成を主眼にしたエクササイズを設定して本書は記述しているのである。記述されている簡単な例で言うと、なぜ逆上がりができるのか、なぜ自転車に乗れるのか、などの能力の獲得、そしてオートポイエーシスに基づいたシステム論による能力の再組織化即ちリセット、パラダイム変換による新たな能力の形成について展開し述べるのである。詳細については省略。なお、読んだ限りでは、私自身の頭は少しも、いやまったく良くはならないと思われる。最近、脳力の向上に関する本やゲーム機などがたくさん出ているような気もするが、たぶんそれらは認知能力の向上を目的としたものであろう。
以下は、終わりにするはずの感想文の追加文である。三年前に「自己創生するガイア」、「オートポイエーシス 第三世代システム」の感想文を書いているが、私自身が思い出すためにも多少引用して、オートポイエーシスをわかりやすく簡潔に説明したい。まず、この本の表紙のキャッチコピーである。
『オートポイエーシス論は、システムの境界の意味、システムの作動の意味、コード化の意味、そしてなによりも自己組織化するシステムの「自己」の意味を根本的に変えてしまう・・。自己を本質や本体の側から想定していくのではなく、また自己が決定されずさまざまに変貌していくのでもなく、オートポイエーシスは境界をみずから作り出すことによって、そのつど自己制作すると考えるのである。』
『オートポイエーシスは、最先端のシステム論である。本書は、このオートポイエーシスの基本的な機構を描いている。オートポイエーシスは、システムの作動から組み立てられるスピード化時代のシステム論であり、あらゆる規範や規則や目標が揺らぎ消滅したのち、なお創造的に行為することの可能性を理論化したものである・・』
さすがに表紙に記述している文章だけあって、思わず引き寄せられる表現である。有機体をオートポイエーシス・システムだとしたとき、そこには四つの特徴があると指摘されている。自律性、個体性、境界の自己決定、入力と出力の不在という四点である。ただ、本書の記述が有機体だけではなくて、広範なシステムに適用されていると言うが、いやどうも有機体としての小さな生命の範囲を越えられないのではないか、という思いが強い。
なお、このオートポイエーシス論を記述した本の終章にて記述されていた「システムの日常 カフカ『プロセス(審判)』をめぐって」には驚かされた。一瞬本当に疑いもなく納得させられたからである。ドゥルーズ以外のカフカ論などは遠い昔に忘れてしまったが、現実世界の不条理な、日常に含まれる非日常の象徴としての捉え方が多かったようにも思われる。本書では独自のシステム論に基づき展開しているのである。自らが行為を行うことによって、Kは複数のシステムを作動させていくが、自己意識は錯誤を含み行為し、そしてその行為は複数のシステムの浸透を通じて、境界を作り出し、自らが住むべき主たるシステムを消滅させてしまうのである。この論理はすんなり納得したが、どうもおかしいのではないかと思い迷っている。つまりカフカ論を独自のシステム論から書いただけで、カフカの本質を捕えていないという思いが強いのである。やはりカフカは書かなければならない文学機械という表現がぴったりするのである。そして書いたものは廃棄されなければならないのである。
何だか感想文が混在してしまい分かり難いかもしれない。陳謝。たぶん脳を鍛える一番良い方法は、好奇心と調べること考慮すること、そしてそれらをすべて忘れ去ること、この繰り返しにあるような気がしてならない。
以上
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2013年9月6日(金) |
ジャック・デリダ著 鵜飼哲 高橋哲哉訳「ならず者たち」を読んで |
だいぶ以前に、ジル・ドゥルーズを「論理的な詩人」、ジャック・デリダを「抒情的な散文家」と称したことがある。この本を読んで更にその印象を強めたのである。ドゥルーズの文章は難解ながら頭の中では半ば理解して読むことができるが、読み終えると何が書いてあったかあまり記憶になくて、本をまた捲らなければならない。ジャック・デリダは流れるような文章が何を言いたいのか、その使用されている単語も含めて曖昧に少ししか理解できぬまま読み終えると、もう疲れて本をまた捲り理解しようとする気力の有無以上に、理解できないのではないかと心配になる。ちなみに、ミシェル・フーコーは過剰に記述されている文章であって大筋では理解できながら、細部を理解できないのである。ただ、再度読む気はしないが、読むと理解できるだろうというという安心感がある。これに対してデリダは最後まで理解できないのではないかという不安が常につきまとい、どうも本文中の断定的な文章を拾い集めて、理解するしかないのである。
こうした印象は、たぶんデリダは講演や講義の文章が多いのと、定義のない語彙を使用して思想を語ることと、一番は言葉の源泉や変化、発音や意味のすり替えを本文中の論理として示し行うため訳文では読むのが面倒である。更に回りくどい、逆にいえば逆説的にもみえる言い方をするためである。たとえば「来るべき民主主義」は結局「永久に到来することはない」などなど。ただ、デリダの良いところは、積極的に講演を行い、時事問題にもあからさまに意見を述べることである。こうした意見はもはや陳腐化したところも多いが、考えさせられることもある。デリダの思想、脱構築や差延はまだ良いが、友愛や歓待は分かりにくいというより私には嫌いな言葉であるが、彼のこうした言葉に鋭い指摘が含まれていることがある。真意は分からないが「人権」などなど。こうした指摘は良いのである。
少し前置きが長くなったが、本書は前文「来たれ」に続き、「強者の理性(ならずもの国家はあるか?)」と「来るべき啓蒙の「世界」(例外、計算、主権)」の二本立てである。デリダの亡くなる一年前の本だと言うことである。前文によると、来るべき民主主義としての来るべき理性を語るにあたり、主権、とりわけ国民国家的主権が謎であり、強者の理性としてならず者国家について、そして来るべき民主主義と理性について語ったものである。最初に述べたように、散文的な文章があちこちに飛んで分かりにくいために、自分の理解した範囲で感想というより本書の内容を簡単に紹介する。なお、訳者あとがきとして、鵜飼哲がとても上手にまとめているので、本書の理解にはそちらを読むことをお勧めする。なお、鵜飼哲が言うには、このデリダの原書は〈9.11〉後の世界の状況の急激な変化、ブッシュ政権の国連安保理決議なしのイラク戦争への強行など現実的な出来事が多大に影響しているとのことである。当然、デリダは国の名前なども含めて現実的な出来事を結構引用して思索的に展開し記述している。
「強者の理性(ならずもの国家はあるか?)
本分は7章から構成されるが、各章の説明は行わずに、気の付いた点のみを簡単に記述する。本当にデリダの言葉を抜き書きすれば、彼の言いたいことは極端に圧縮され簡単に見える。ただ圧縮される前の諸々の記述の中に、重要な思想が隠されていないかその点だけが気にかかるだけである。なお、投稿前に自らが書いたこの感想文を読んでも分からない点があるのである。ただ、本書が手元にないために修正できないない、この点はご容赦頂きたい。『 』は本書からの引用である。
来るべき民主主義と問うときに、回転と車輪という拷問器具を引き合いに出して、その器具の責め苦にあうのである。なぜなら二重に問われているからである、同時にかつ代わる代わる問いは訪れているのであり、われわれに向けて発送されているのでありながら他の場所(国)に転送しているからである。民主主義とは主権的権威として限定された力、法の力を与えるすなわち民衆の自権性である。この主権は円環性、さらには球面性を持つのである。このため民主主義と問う時にこの主権の円環、回転などが、車輪が回転し体を裂くような責め苦を味あわせているのである。
こうしてデリダはプラトンやアリストテレスなどを通じて、国家、民主主義について述べていくのである。民主主義は多数決制と比例制の投票様式よって自らを排除と転送によって保護し維持する、即ち制限すること自身を脅かすことで成り立っていると彼は述べる。排除による他者の転送、およびよそ者の、他者の他者性の尊重である他者への転送の二つの転送の矛盾した運動が、代わるがわる取り憑きあい自己免疫化していると述べる。何か面倒な書き方であるが、他者の選出、投票箱の空間的な転送と遮断、また選挙権を持つ者と移民などの弱者の選挙権を持たない者をも民主主義は拘束しているなどとするデリダの考え方をデリダ自身が普遍化したものである、そう思えば理解可能であるはずで、こうしてこの二重の転送は『概念無き民主主義の概念にじかに自同性と自己性を欠落した民主主義にじかに書き込まれている』とする。なお、代わるがわるとは政権党の入れ替えによる投票のことを指している。自己免疫化とは病理学的な免疫であり、自同性と自己性を欠落した民主主義は矛盾によって発病の恐れを抱えながらも、自己のシステムの概念にこの転送の運動の矛盾の概念を書き込み保持する免疫によって民主主義を保持しているとする。
「支配と計量」の章は面白そうであるが省略。「神よ、言ってはならないのでしょう? 来るべきいかなる言語で?」の章では、来るべき民主主義について本格的に記述され始める。来るべき民主主義とは来るべき一人の神であるかということである。そしてならず者国家と民主主義について記述する。ならず者国家とはアメリカが使用した言葉でありながら、国際法を無視続けた国アメリカそのものであるというのがデリダの言い分である。そして来るべき民主主義とは『主権なき神ほど、確実ならざるものはない、それは確実である。・・・それは確実に明日到来することではない、来るべき民主主義もまた』と結論されるのである。
「来るべき啓蒙の「世界」(例外、計算、主権)」
まず、前半では、理性の名誉を救うために、建築術に基づいた理性から話が始まる。そして理性の二つの終わり方、座礁と揚陸について語る。カントやフッサールに基づき純粋理性に話が及ぶ。結局はフッサールが引用したデカルトの言葉、「太陽も唯一、理性も唯一」と述べたことばで終わるのである。後半は、至高性=主権、国家の理性、理性的動物人間、主権国家などについて具体的な事例をあげながら語っている。そして理性とは、『それが不可能に思われるところでこそ、計算不可能なものを斟酌し、説明し、勘定に入れ、考慮する――すなわち到来するものないし者の出来事を考慮するのである』と述べて、デリダは複数の短文にて理性について定義するのである。この定義は省略。
最初にも書いたとおり、デリダの亡くなる一年前の本だと言うことである。それにしても、『グラマトロジーについて 根源の彼方に』が1967年、本書は2002年発刊のはずで、両本の書き方、文章が殆ど同じということは驚異的なこととも思われる。本書に記述されている民主主義の考え方はあまり関心を持たなかった。ならず者たちの範囲が狭義なのであり、民主主義以前の僭主政治なども含めてもっと広く捕えなければならないからである。実はそう記述されていることを期待して本書を読むことにしたのである。ただ、デリダが少し触れている理性的動物としての人間が持つ「人権」についての疑義は、大いに関心を持ったのである。生けるものと死せるものとの境界、人間的な生者と動物的な生き物との区別・限界を想定している境界線に対する疑義である。なお、この点の詳細は本書では記述されていず、機会があればこの境界線の疑義についての真意を別の著書で調べてみたい。ちなみにドゥルーズも境界線や逃走線を描くのが好きで多く記述している。もしや「人権」ならば「社会契約論」まで立ち返らなければならないだろう。
以上
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2013年8月29日(木) |
ミシェル・フーコー著 慎改康之訳「知の考古学」を読んで |
フーコーの著作物は、「狂気と歴史」、「臨床医学の誕生」、「言葉と物」を読んでいて、この「知の考古学」を読破することで、フーコーの前半の思想の締め括りとしたいと思っていたのである。でも一年くらい前に一度挫折していて、今回は全部読み通すことができたのは、何とか締め括りたいという執念からであろう。本書は筋だって書かれていて、読んでみると仔細は分からずとも、大筋での理解は難しい本ではなかったのである。前半は「言説」と「言表」の定義にあけくれして、後半に考古学的な観点から思想史や主体との絡みについて記述する時に少しばかり面白さを感じた、そして最後にぽろりと『・・政治的な答以外ないように思われる』(393頁)と言う時に納得させられたのである。簡単ながら各章に何が記述されているか、頁を捲りながら自分のためにもメモを書いて感想文としたい。なお、「訳者解説」として慎改康之が、この「知の考古学」の内容について、分り易く解説しているので、本書の内容を正確に知りたい方は、そちらをぜひ参照にして頂きたい。
T 序論
フーコーは歴史学、思想史、非連続性、人間学、外在性などについて語り、最後に空白の空間を、言説に形を与える空間に定めることを試みたいと、本書の目的について言うのである。
U 言説の規則性
本章は7つの節からなる。一番分かりにくいのは「言説」と「言表」の違いである。どこかで述べていたはずで、そこで記述したいが、まず「言説」とは「医学」とか「生物学」、「政治経済学」などの形態別の記述の規則性と理解しておきたい。「言表」とは記述すること、発言であり、記憶に残るものであり、まずは言い表すことと理解しておきたい。なお、「諸言表」や「言表」が逆に「言説」の意味で使われることもあり、この時には「言説」が言い表すこと、言い説くことになるが、必要に応じて再定義したい。
どうも、「言表」がシステムを記述できて規則性を定めるのであり、これを「言説形成」が扱われると定義して、言表行為の様態や諸概念などが従う諸条件を「形成の諸規則」と呼ぶこととフーコー定義している(77頁)。即ち、先に述べた意味で「言表」と「言説」を捕えるのが良いようである。システムという言葉に捕われることなく素直に理解すればよいのであって、最初から混乱して申し訳ない。なお、「形成の諸規則」とはある一つの言説配分における存在の諸条件でのことである。
こうすれば言説の「諸対象の形成」にて言語実践における諸規則の集合が得られる、言説は諸記号からなる、ただ言説が行うのはそれ以上のことであり「このより以上のこと」を明らかにしなければならなないという主張が理解できるのである。こうしてフーコーは言表行為の多様性が多様な位置へ主体の分散が明示され、主体自身の非連続性が決定されると述べるのである。また諸言説が諸概念の匿名の分散を記述できるとする。
V 言表とアルシーヴ
本章の初めで、やはり「言表」と「言説」の定義がなされているのである(151頁)。言表は言説の集合の対置に用いていたが、言表は言説の基本単位であると、このあと分かりにくい説明が続いているが、結局は言表とはその存在機能によって、一つの単位ではなく一つの機能であるとする(164頁)。言表と文章との関係、言表の主体が操作の主体など、言表について詳細にさまざまに述べられるのであるが省略。そして更にまた「言表」と「言説」の話が続くのである。『言説とは同じ形成システムに属する諸言表の集合のことである』(203頁)と至るとき、きっと言表がシステムを記述できるとする最初の理解が正しいと分かるのである。そして言表と意味作用の関連、言表の出現の様態を定める言表的レヴェル、言表分析における希少性や主体のさまざまな位置、言表の累積の厚みなどについて記述するのである。
言説実践の厚みの中には言表の数々を出来事と事物として設定するシステムが現れるのであり、フーコーはこれをアルシーヴと呼ぶのである。ただ、我々はこのアルシーヴの諸規則の内部で語っており、その全体を記述することは不可能とする。このアルシーヴの記述が我々を我々の時間的な連続性から断ち切るものなのである。そして、少し文章を引用するが『その記述は超越論的目的論の糸を切断する。そして人間学的な思想が人間の存在もしくは人間の主体性を探索する場所において、その記述は、他者を、そして外を、白日の下に晒すのである』と述べるとき、このアルシーヴの記述の効果について述べており、このアルシーヴの一般的なシステムのレヴェルにおける探査、明るみの出す作業を考古学ということができるのである。
W 考古学的記述
考古学的記述を行うとき、「思想史」と袂を分かたなければならないとする。思想史は知よりも諸々の意見、諸々の誤謬、思想ではない心性のタイプを記述するからである。言うならば、考古学とは諸様態の差異をめぐる分析なのである。書かれたものへの規則的変換、換言うなれば言説のシステマチックな記述なのである。『考古学とはただ諸言表の規則性を立ち打ち立てようと努めることのみなのである』
言説は自らを説明する必要がある場合には、その存在の法則そのものを構成する矛盾を持つことになる。考古学が分析するのはこうした矛盾のタイプやレヴェル、機能なのである。そして考古学的分析は形成される言説を個別化して記述する。言説形成の明確な一つの集合を明るみに出すことなのである。更に言説形成が連接されうる諸々の制度や経済プロセスに社会領域の全体を発見しようとするのである。ただ時間との関係の緩慢さや、断層における異質な時間、それらの間で区別するために変換により種別化された一つの非連続性な時間の断絶、考古学的な断絶があるのである。
知とは規則的なやり方で科学に必要な諸要素の集合のことであり、言説実践の中で語ることのできるものであり、そして知とは主体が言説によって自らの位置を獲得できることでもある。ただ、知を考慮する場合、科学的領域と考古学的領土を明確に区分する必要がある。科学が意識と認識を軸にする代わりに、考古学は言説実践と知と科学を軸にしており、主体が何らかの資格を持っているとはみなされない地点に均衡点を持っているためである。こうしてフーコーは知の領域に局在されて役割を果たす科学、更にイデオロギーと諸科学の関係などについて述べて、エピステメーに触れる。エピステメーとは諸科学の中に発見される諸関係の総体なのである。
X 結論
あなたと私との問答形式として記述されている。構造主主義と考古学との関連については省略。私は諸言説の中で主体が占めることのできる位置および機能を定めたかったのであり、考古学というのは一つの領域において言表的規則性、考古学的な派生などの諸概念を作用させるに過ぎないとフーコーは述べるのである。
訳者解説で、慎改康之が最後に『フーコーの研究は「知」、「権力」、「主体化」という三つの軸から成るものとして知られている』と述べるとき、そしてこれらの広範に多様な領域は、これらのあいだに立てられる諸関係抜きでは語れないという時、なるほどそうだと思ったものである。この諸関係はフーコーの著作物を全部読んでいないためよく分からないが、太い輪郭線を描きながら記述されていると思われる。本書では「主体化」を含めながら考古学的な「知」の必要性について記述している。ただこの「知」が、「思想史」と異なった差異を分析する考古学的な「知」として必要とするその主張が当たり前のような気がして今一分からないのである。つまり、我々はフーコーが述べたことを当たり前のこととして既に知っていたのか、フーコーによって知ることができたのかよく分からないのである。また細部では自らが思考の内に錯綜としていることもあるようにも思われる。つまりフーコーの書物が難解なのではなくて、フーコー自身が揺らいだ文章を書いているために難解さが生じているとも思われるのである。こうした思いや、私自身のフーコーへの評価も含めてまだ分からない点が多いのであり、「生権力」などに関する思想を読んでみたいが、私にあまり益になるか分からずに躊躇している。
以上
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2013年8月15日(木) |
柳父章著「未知との出会い 翻訳文化論再説」を読んで |
以前、もう忘れてしまったが、翻訳とは新しい創造であるような意見の本を読んだことがあるが、本書はそうした翻訳論とは異なって、翻訳とは未知との出会いとして捕える。この出会いは、シンメトリー構造観としての事を基にして言が作り出している西洋的な文化に対して、「オモテ・ウラ」構造の日本文化に注目している。つまり西洋のシンメトリー構造は数式のように左右均整であり「平等」とか「等価」のが基本であり、等しくないものを切り捨てた上で有効なのであり、等質で等価な製品を生み出し生活を豊かにしてきたものである。このシンメトリー構造観では、初めての出会いが「事」のあるはずが、時間とともにこの「事」を「言」が覆い隠されていくものとして著者は捕えている。
これに対して「オモテ・ウラ」構造の文化では、その人の集団や制度などの理解は「オモテ」からまず始まるが、「ウラ」はなかなか理解し難い。ただ、「オモテ」は人間の顔面であって出会いはまず「オモテ」で始まる。そして、この「オモテ」は「ウラ」前提としており、こうして「オモテ」から「ウラ」を理解して行くようになると言う。著者は文日本化での漢文、かな文字などを例にとり、この「オモテ・ウラ」構造を重要視するのである。一般的にコト(言葉)とはコト(事実)との区別の始まりであり、言葉が構造として「閉じている」ものであり、人間の意識を拘束している限界を指し示しているのである。そして著者は翻訳としての異国語の文字と文字との出会いについて考察していく。「権利」や「花」のなどの翻訳の難しさ、翻訳語の意味が必ずズレることなどについて著者は語る。こうして話を進めながら、著者は異文化に出会ったとき、「オモテ・ウラ」構造による理解の方がより有効性であるのではないかと主張を展開するのである。
谷崎潤一郎の「春琴妙」の原文と英語からの訳文を見て、そのあまりの違いに驚いたものである。そして「・・・た。」とする訳文について述べた後、著者が「カセット文」と称する英文訓読、独文訓読について述べる。要は「・・は」で始まり「・・た。」で終わる有無を言わさず断定する文型である。この辺の第二章までは面白かった。ただ、その先の章では、著者は古今東西の知識を駆使して話を進めていくが、少し引用が拡散して焦点がずれているような気もする。
きっと本書は最初に結論があって、その内容が普遍化、演繹化され展開さるのではなくて、個別的なエッセイに移っていくのである。どうも著者の思い描いていた翻訳論のまとめのような本である。ただ「春琴妙」の訳文を見ただけでも、翻訳の難しさとその近似値的な表現の表現力の乏しさには改めて気付かされたのは確かである。
ここまでの記述で終わりにするはずが、日記の掲載にあたって、この感想文を読み返すと、どうしても自分で書いた文章でありながら理解できない箇所がある。西洋や日本で文化が異なっていて、その文化論と言語論と翻訳論が論点として混じり合わさっているために、もしや本書は私が思う以上に難しい本だったのだろうか。『初めての出会いが「事」のあるはずが、時間とともにこの「事」を「言」が覆い隠されていく』とは、どの文化言語においても当てはまると思われる。結局私は言語論も文化論もほとんど知らないために、本書を誤読していたのかもしれない。
以上
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2013年8月22日(木) |
船越美夏著「人はなぜ人を殺したのか ポル・ポト派、語る」を読んで |
本の表題は販売部数を伸ばすためにか、印象深くかつ衝撃的につけるらしい。本書もその例に漏れずないが、記述している内容は副題に書いてあるように、ポル・ポト派へのインタビュー記事である。私は乾いた、感情をあまり入れ込まない著者の文章が好きである。そして、ポル・ポト派へのインタビュー記事は、事実を簡明に直接的に書いていて、ルポタージュであるはずが、とても文学的に思われる。
ポル・ポト派の7人への、そしてスタッフ1名へのインタビュー記事、そしてカンボジアの歴史と用語解説を本書では掲載している。ポル・ポト派政権下で死亡した者は正確な数が分からず、おおよそ100〜200万人らしい。飢餓、病死などが一番多いらしく、粛清や虐殺で死亡した者はそれより少ないとのことである。また他国からの爆撃や内戦の死者数が含まれているかも定かではないらしい。
著者の果敢にポル・ポト派幹部にインタビューを求める姿勢は一貫していて、その背後になぜ多数の者が殺されたのかという思いと、著者自身が述べているように「集団を信じるな」という著者の父親の教えが強く響いているようである。無論インタビュー記事には、人を殺したことを否定する幹部の鋭い眼差しの写真なども含めて、彼らが他人に責任を転嫁する用心深い言葉が語られているが、それはそれほど関心を抱くことはない。ただ、以前ポル・ポト派の有力者の息子、スタッフ1名の壮絶な経験談が一番印象に残る。
結局多数の人が死んだもしくは殺されたのは、ポル・ポト派の農業主義という新しい国を作るための、都市から全ての人間の農村への移住にあったらしい。そしてポル・ポト派の上からの指示だけによる秘密主義が生み出す疑心暗鬼に、派内部での権力闘争が壮絶に行われた結果であるらしい。信じ難いのは、ポル・ポト派が禁欲的なまっとうな集団であったことである。ただ、組織的に未熟であるが故に、そして結局は農業主義という考え方が人々の完全な都市部から農村への移動を、施策的に間違った移動を強いたことである。今でこそマルクス主義は敬遠されているが、その昔には究極の救済思想として崇められていたのである。きっと人類史を紐解くと、マルクス主義ばかりではなくてある思想に基づき指導・行動されて民衆が動いて、そして権力闘争が行われ、強欲な人間が居たためにか人間は多数殺されたに違いない。そして、それが反復して繰り返されている、繰り返されるに違いないのである。
以上
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2013年8月3日(土) |
ショアオ・マゲイショ著 塩原通緒訳「マヨナラ 消えた天才物理学者を追う」を読んで |
表題の通りに、消えた天才物理学者マヨナラの失踪の謎について記述した本である。消えたマヨナラが生きているのか死んでいるのか、何十年になっても分からないまま、著者はその謎の解明に挑むが仮説だけが残り結局分らないままなのである。この本を読み始めたとき、初めは面白くないと思いながら読んでいたが、謎解きが結構面白くなって、物理の話も逆向きの時間の話が出て興味深く、最後まできちんと読んだのである、つまりはとても面白かったのである。
面白しろかった理由は、1)失踪のなぞ解きの推理小説的な面白さ、2)物理学者、特にフェルミなどの極端な性格描写の面白さ、3)物理学的な関心からの、特にニュートリノ、統一場理論などの可能性の記述、4)黒こげになって死んだ子供のマヨナラへの心理的な影響、5)世界状況、ヒトラーやムッソリーニによるファッシズムの台頭の描写、6)多重人格詩人ペソアの描写などである。この本を読んでいる時に、ニュートリノに関して、『「ミュー型」と呼ばれるタイプから「電子型」へ変わる現象の確認』とのニュースが飛び込んできて、タウ型も含めてすべてのニュートリノの存在確認ができたとのことである。こうして物質が出来上がった時の反物質より物質が少し多かったとする、この理由の解明がどのように結びつくかなど私などは良く分からないが、一歩前進したとのことである。
どうも書き出すと長くなるので簡単に関心を持った点のみを簡単に箇条書きにて記述することにする。なお、著者に従ってマヨナラのことをエットーレと記述する。
1) エットーレはディラックの反物質の予測と負のエネルギーが無限の数の粒子に埋め尽くされている海を真空とする考え方に反対し、粒子が無限に積み重なるタワー(塔)のようなもので、すべての粒子が同じ方程式に記述され、量子力学的な波に統合されると考えている。エットーレの理論では負のエネルギーも反物質もないのだから、ディラックの海に訴える必要がないと著者は言う。そして著者は多様な粒子は同じ基本的な物質の別のあらわれかもしれず、エットーレのタワーの考え方は、まだ編曲し取り上げれば究極の統一がもたらされるかもしれないと述べている。ただディラックの理論は既に評価されて拡張、解釈の見直しが行われているはずである。
2) 核分裂の問題にフェルミは気づいていなかった、ウランに中性子を当てると、ウランの原子核は二つの原子核に分裂し、それと同時に大量のエネルギーを放出する。この時中性子がさらに放出されることによって分裂過程が、連鎖反応を起こすのである。核分裂に対してのこの連鎖反応についてフェルミなどは懐疑的であった。そしてこれに気付かなかったことにフェルミは最後まで深く後悔していたようである。
3) 精神が乱されている子守女に、エットーレの親族の赤ん坊の眠っている揺りかごが燃やされたのである。この他殺鼠剤による毒殺事件も生じていて、これらの事件は表面的には現れない隠れた層があり、これがエットーレ個人の悲劇と混じり合っていたかどうかは定かではないが、誰も知る由がないと著者は述べている。
4) ファインマンなどの考え方にもとづけば、時間を巡航している正のエネルギーの陽電子と時間を逆行している負のエネルギーの電子が同等になる。即ち陽電子と電子が対消滅する時、電子の質量の二倍のエネルギーが吐き出され、二個の光子が存在するはずなのであるが、このとき実は粒子は一個しか存在しないとする。この一つの電子は自分のエネルギーを吐き出すだけではなくて、負のエネルギーも奪い取っているのだとする。即ちこの負のエネルギーを持って時間をさかさまに進む粒子が陽電子と映るのであり、対消滅時点でこの結果二倍のエネルギーが存在するのである。
5) エットーレはニュートリノと反ニュートリノとは区別つかない、粒子と反粒子は同じと主張する。時間を順行しているニュートリノと時間を逆光しているニュートリノは同等の確率で「量子的重ね合わせの」になっている状態であり、非対称はありえない。つまりエットーレの考え方は「シュレーディンガーの猫」の状態の重ね合わせよりもひどい、反対のものを重ね合わせられる量子の力が可能にした、反対向きの時間の矢を重ね合わせたものと著者は述べるのである。この辺りは本書に詳しく書かれている。ただ、現在の物理学的な見解は示されていないので、正しいか知るためには異なる本を読んだ方が良いと思われる。
6) 太陽により発生させられるニュートリノの観測で、予測の1/3しか観測されなかったとのことで議論が行われたが、これは先にも述べたニュートリノのフレーバー振動によるもので、ニュートリノには三つの型が存在することに起因するのである。
7) 「カイラル」とは「パリティ対称性」がないことを示す用語であり、即ち「パリティ(遇奇性)」と鏡の世界との関係を用いて、「パリティの破れ」について著者は説明する。カイラルについてはずっと以前、自然界の左手系右手系を含めて日記に書いたことがあるので省略する。本書にも少しは詳しく書かれている。
8) 結局著者は、エットーレの失踪は、核計画を実行に移す国に誘拐されたのでも殺されたのでもなくて、核計画に巻き込まれる恐れを感じて修道院に逃げ込んだという説を有力視しているようであるが、その他の説もあり、結局は分からないのである。
どうも推理小説的な謎解きの過程があまり示されず、またフェルミとの対立なども記述しなかったが、科学的な推理小説が好きな人は、物理的な謎解きが気になる人はぜひ本書を読んでいただきたい。
以上
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2013年8月10日(土) |
イアン・スチュアート著 水谷淳訳「世界を変えた17の方程式」を読んで(副) |
タイトルに(副)がついているのは、素稿が書き過ぎていると思い、大幅に内容を変更したためである。
表題の通りに「世界を変えた17の方程式」について、その式の意味や歴史的な経緯も含めて丁寧に記述した本である。ただ一つ、デリバティブに関する方程式「ブウラック=ショールズ方程式」を除いて、おおよそ名前とほんの少しばかり内容は知っていたが、これらの方程式がなぜ選択されたのかは全く記述されていなかった。以前、同じように10の方程式を記述した本を読んだことがあるが、学者たちの人気投票で選択したように記憶している。従ってここに記述されている方程式以上に、世界を変えた方程式があるのではないかと思っている。でも、歴史的な背景などが細かく書かれており、もし方程式をそれなりにきちんと知りたい人がいればすごく役に立つ本である。感想文としては、コメントのある方程式の名前を挙げ、簡単に済ませたい。なお、方程式の名前は、表題に用いられている意図的な修飾もしくは隠喩は用いずに、よく知られている一般的な名前を使用することにする。また、方程式そのものは記述しない。
1. 微積分
ニュートンは当然であるが、知の巨人ライプニッツも居るのである。無論本書でも彼を丁寧に記述している。積分記号などは確かライプニッツの草案である。
2. ニュートンの重力の法則
衛星の軌道計算にも使われるが、燃料効率の良いチューブを通って惑星間飛行を可能にする方法も発見されたらしい。要するに重力場におけるチューブの交差点で軌道を乗り換る方法である。チューブの交差点とは重力場と遠心力が打ち消し合う地点であり、地球と月の間にもそれらの反対側の位置に在るものも含めて5個あるらしい。正式にはラグランジュ点と言うとのこと。このラグランジェ点の図示した画像をテレビで見た記憶がある。
3. オイラーの多面体の公式
立体の面、稜、頂点の数の関係を表現する方程式。中央に穴が開いたゴム製の輪のようなトーラス、結び目、これらを含んだトポロジーへと数学は展開するとしている。
4. 波動方程式
ドブロイによって提唱された物質波をすぐ思い浮かべたが、音や光、水の波などを含んだ波動方程式。
5. ナヴィエ=ストークス方程式
ニュートンの第二法則(力と物質の運動との関連)の姿を変えたもので、流体の運動の仕方を表現している。
6. マックスウェル方程式
電気と磁場の密接に関連していることを示している。昔この方程式に苦しめられた経験がある。解答を考える苦しみではなくて、模範解答が回ってこない時に解いてくれる人を探す苦しみである。
7. カオス理論
簡単にいうと、蝶の羽ばたきは台風を引き起こすのである。これがカオス理論である。
8. ブウラック=ショールズ方程式
デリバティブの価格の時間的な変化を表して、この商品の取引が可能となる。
以下、本書にはたくさんの関心あることが記述されているが、二つばかりピックアップして述べたい。14章で記述されている波動関数が、測定した時にある特定の結果が得られる確率を示しているということである。つまり「シュレーディンガーの猫」の思考実験である。猫は生きているのか、死んでいるのか。結論から言うと、宇宙の量子波動関数は取り得るべき固有モードの重ね合わせであり、量子力学の多世界解釈である。猫は生きてもいるし、死んでもいる。共存する二つの宇宙が存在するのである。そうした多世界解釈を著者は反対しているが、多くの量子物理学者が受け入れているということである。ただ、人間が別の宇宙に居て別の人生を送っている確率は無視できるほど、ありえない小さい値のはずである。
17章の次の最後の「次は何か?」という章で、量子力学と相対論を統一する「統一場論」について記述してその可能性として「超ひも理論」に触れている。ただ著者は否定的で、現実はとても複雑であり、それを方程式として示すことの不可能性を示唆している。離散的でデジタルな構造をした新たな自然法則、それは方程式ではなくアルゴリズムかもしれないと著者は述べている。ただ、アルゴリズムとは方程式を解く計算手法のことであり、著者のアルゴリズムなる主張がよく分からないが、もっと広義に解釈して新たな自然法則の解釈手法を示唆しているのかもしれない。いずれにせよ、久しぶりに理数系の本を読んで、数式に苦しめられた経験を思い出したが楽しくもあったのである。
以上
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2013年7月27日(土) |
都筑響一著「ヒップポップの詩人たち」を読んで |
以前何年か前に、都筑響一の書いた「夜露死苦現代詩」を読んで面白かったので、本書も読むことにしたのである。なお、「夜露死苦現代詩」は狂人や死刑囚の詩や俳句であって、多少詩句を引用して、感想文も書いているはずである。本書「ヒップポップの詩人たち」では15人ほどのヒップホップの詩人たちの詩が、子供のころからの生い立ちも含め紹介されている。結論から言うと、これらの詩は「ヒップホップの詩」であって、読むのではなくその奏でる声とともに聞かなければ分らないということである。
「ヒップポップの詩人たち」は薬物中毒とか人情沙汰による刑務所入りを経験した者が多いが、そうした経歴とは無関係に「ヒップホップの詩」は皆が皆なぜか直接的に心の叫ぶ声であって文字にすると、どうしても冗長すぎて皆が皆同じに見えてくるのである。最初はそれぞれの違いを認識していたはずが、読み進めて行くうちに、どうしても同じ詩に見えてくるのは、彼らが自らの経験を心の内をただ言葉に託して述べる直接的な手法を取ってからである。どうしてももっと理解するためには叫び響く声が、音として聞こえてくる声が必要なのである。
書物に対する声の優位性をデリダは「声と現象」で述べていたはず、ドゥルーズも「千のプラトー 資本主義と分裂症」でリトルネロに絡めカオスからのリズムの生成変化を述べていたはずであるが、これらはすっかり忘れてしまったため本書に絡めて論じることはしない。私には難しすぎるからでもある。ただ、何度も言うが声がどうしても発せられる必要があるのである。と言えばヒップホップの詩とは詩独自で評価は難しい、そうした文章の質であるのかもしれない。
そういえば「祭文」とか「盲僧琵琶」とかこの頃YouTubeでまれに聴いているが、これが面白いのである。かれらはもはや抽象化言語というより「抽象化された声」で奏でているのかもしれない。きっとヒップホップとかラップの昔行われていた音の表現というより、それらのおおもと、原型であるのかもしれない。西洋にも詩句の弾き語りがあったはずである。つまり文字に対する声や音、そして絵画の優位性がどうしてもあるのである。私は声や音に、絵画が好きである。文字も好きなのである。小説などを読んで、文字が感性に直に訴えて感動してくると、声や音に絵画以上に素敵だと思うのである。
まだ「ヒップポップの詩人たち」の声をYouTubeにて声で聴く楽しみが残っている。実はすでに半分以上聞いていて、その違いは思った以上にあり、好き嫌いはどうしても生じてくる。海外も含めてもあまり歌い手は知らないのであるが、Jay-ZのThe Black Albumなどが好きである。静謐にリズム感持って歌うのがきっと好きなのであろう。ただ、この頃は「祭文」とか「盲僧琵琶」を聴くほうが多い。
以上
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2013年10月20日(日) |
佐々木中著「夜を吸って夜より昏い」を読んで |
何かの縁で本書を読むことになった。長い一編の抒情詩との他の感想文もあったが、初めて読む作家であり、抒情詩ということで多少の関心もあって、読んでみたのである。結論から言うと、私には佐々木中という人はとても才能のある人だと思う、そして本書は抒情詩と述べられていた感想は当たっていて、通常の散文詩よりも濃めの散文は確かに抒情詩である。ただ、それなりに不確かながらも筋があって、現代詩的な文章の形態を取った文章は詩的でありながら、やはり小説であると思われる。新しい形態の新しい文体を持った小説、作者はそうした小説という形態や文体に果敢に挑戦しているのかもしれない。なお、本書は処女作ということであり、それなりの欠点も含んでいるが、もう多数著書を残しているということで、それらを読んでみないと片手落ちの評価になるが、敢えて本書の評価を、さっと読みながら記述してみたのである。
本書にも筋は流れているが、理解するのはやや面倒である。著作権の問題もあり、全貌を明らかにせず明瞭に意味を持つ言葉を用いずに、簡単に記述したい。津軽生まれの兄の所に弟が引っ越してきて同居する。津軽の思い出話、特に海や女が語られるのである。兄は賃貸マンションの仕事場でネット関係のプログラミングの仕事をしている。兄弟は官邸へのデモに参加し、そしてチェニジュア革命について話をする。どういう訳か昔の女友達が引っ越ししてくるのである。本小説の筋の話はここまでにするが、この後、表題の「夜を吸って夜より昏い」の意味することが分かる話が展開されていくのである。
題名の「夜を吸って夜より昏い」は確か最初に一回、その後二回でてきたと記憶しているが、最後に記述される時、それは無慈悲に無性に甘く切なく、昏いのである。本書の出だしの文章が素敵である、一片の散文詩である。それは詩的というより、言語間の距離を離し移行させていき、イメージを固定させるのではなくて、流れ去るようにして柔らかにイメージを喚起する、いやむしろイメージを拒否しながら反対に浮かばせる言語手法を取っているのではないかと思われる。こうした出だしや風景の描写は素敵なのであるが、現実的な警官の動作などの表現はありきたりで、表現の質がはっきり落ちるのである。また、会話も少し本文から離れていて、すっきりと結びつていないように思われる。Cの高級言語のようなプログラム言語、関数のようなメールのやり取りの会話などは遊び心があって良いのであるが、別になくても構いはしない。こうした本書の一番の欠点は全体の文章の整合性やリズム感がないということであろうが、だがそれほど目立つわけではない。
散文詩的な小説はあまり読んでいないが、伊藤比呂美の「とげ抜き新巣鴨地蔵縁起」は、最初妙にねじり曲がった癖のある文体が好きであったが、段々老婆の話になっていく、それよりは本書のがは文学的に質が高いと思われる。川上映美子の「乳と卵」の均一したリズム感には負けるが、この「乳と卵」には甘さが潜んでいて、それは作者自身のテーマ性をこなし切れない文章と内容の甘さである。ただ、本書の著者にもその甘さの傾向がみられる。円城塔との比較は難しいが、円城塔よりもより鮮明に文学的であると思われる。文学的とは一般に言われている感性に訴える純文学であるということである。従って、佐々木中は知性に働きかける円城塔とは立つ位置が異なるはずである。
著者が「夜を吸って夜より昏い」と同様の小説を書いているのであれば、一般受けは難しいのではないか、あまりにも詩文であるからである。詩の読者は少ないのである。私の思いを述べれば、全体を均一化した質の文章でリズム感を保ちながら記述して欲しいし、テーマをもっと掘り下げて欲しいのである。もう、一、二冊読んでどうテーマが展開されているか知りたいが、・・。ただ、著者にはぜひとも新しい小説の領域を、形式を、言葉を切り拓いて欲しいのである。
以上
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2013年7月20日(土) |
船橋洋一著「カウントダウン・メルトダウン(上)」を読んで |
ノン・フィクションを読んだのは何年かぶりである。確かNHK出版から発刊された国分拓著「ヤマノミ」を数年前に読んで、日記にも書いたはずであるがとても良かったと記憶している。結論から言うと、福島の原子力設備に地震により発生した困難な絶望的状況を、本書はノン・フィクションを前提に記述しているのか創作も含まれているのか、本書を小説風に記述した目的が分らなくて、そして文章も単調であり斜め読みしてさっと終えた。敢えて少しだけ感想文を書くことにしたい。
ヤマノミは南米のほぼ文明を知らない原住民であり、NHKの取材班が期間をかけてドキュメンタリー番組を作ったが、その時の体験等を記述したものであり、そのことが前文にて明確に記述されていたはずである。ところが「カウントダウン・メルトダウン(上)」ではプロローグとして、『3月11日午後2時46分』から突然始まって、現場の状況を再現しようとする文章と正確な会話なのか創作なのか分からない会話が続いていくのである。斜め読みした限りでは福島の原発事故が政治的、社会的、人間的危機として捕らえたいと著者は思っているかもしれないが、何も書かれていない。きっと下巻のあとがきでも少しは書かれているのかもしれない。こうした小説風の記述方針は間違いのもとで、本書は何に基づいて何を目的としてどういう取材活動を行うことによって書いたか、まず前文にて明確に著述目的及び範囲などを提示すべきである、その記述がなければ読めないと私は思うのである。
従って、本書はノン・フィクションではなくフィクションである。どうして多数の会話が行われているのか、これはテープなどから聞いたのか取材をもとに創作したのか、勝手に会話を思い描いたのか皆目分からないのである。再度言うが、本書の位置づけを、主体を欠いて延々と続く文章を誰が何を目的として書いたのか明確にすべきであって、そうした位置づけが分からない限り読むべきではない。著者は「財団法人 日本再建イニシアティブ」を設立し、福島原発事故独立検証委員会(「民間事故調」)をプロデュースし、事故調査・検証報告書を刊行したらしく、まずこの報告書を読むべきであると私には思われる。そしてこの事故の原因を探るには政府側にも何冊か報告書があるはずで、それも合わせて読むべきである。時間のない人には、きっと新書版程度の薄い本が発刊されているはずであり、原因と状況を知るにはそれを読むのが手っとり早く一番良いはずである。
こうした主体を欠いた嘘とも真実のこととも区別のつかない、無味乾燥な文章と得体のしれない会話を読み続けることは耐えられない。ただ、本書には事故の切羽詰まった状況や、各種の問題点らしきものも描かれていて、それなりに思い浮かんでくるかもしれない。結局私が読みたかったのは、メルトダウンの生じる物理的な解説やこの厳しい状況の事実的な経緯であり、この状況等を元に創作された小説風なドキュメンタリーではない、きっと論文調の事故報告書もどきの事実の経緯のみを記述した文書である。哲学書や評論などは、はじめにきちんと記述目的と記述内容を説明している。そうした著作物の位置づけを記述していないノン・フィクションの小説風味付けを読むことは私にはできない、それだけを言いたかったのである。
以上
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2013年7月13日(土) |
ドゥルーズ、ガタリ著 財津理訳「哲学とは何か」を読んで |
本書は読んでいる途中で数週間中断があり、それでも最後まで読みとおしたが、何かよく分からない。何が書いているのかが分からないのではなくて、何のために書いたがよく分からないのである。『ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年』が来たために「哲学とは何か」を書かせたに違いない。そうと信じよう。最初は簡単だと思って読んでいると、難しくなって、心地よい文章もあったが、最後は脳に関した話も加わって、何か尻切れトンボなのである。無駄な文章、余分な話も多いような気がするが、消耗仕切った体が書かせた最後の著書に違いないのである。私の期待が大きすぎたためか、それとも最後まで彼らは系統だった思想体系を拒絶し続けたために違いなくて、彼らの哲学への切ない思いがこの本の行間を流れているような気もするのである。
本書の主要テーマは、概念であり、オピニオンであり、そして哲学と科学と芸術との諸関係なのである。本書は大きくは二章から成り立ち、各章が細分化されているが、私自身のためにもこれらを簡単にまとめてみたい。『 』は引用した文章である。多すぎるかもしれないが分かるためには致し方ない。
序論 こうして結局、かの間は・・
哲学は概念の友なのである。そして『つねに新たな概念を創造すること、それこそが哲学の目的である』『今日、哲学体系の破産が言われるけれども、実は体系の概念が変化しただけなのである。概念を創造する場所と時期が存在する以上、それを遂行する活動はつねに哲学とよばれるだろう』と彼らは主張する。そして『概念は、創造されればされるほど自分を定立するのであり、自分を定立すればするほど創造されるのである。自由な創造活動に依存するものはまた、他の何にも依存せずにかつ必然的に、自分自身において自分を定立するものである。つまり、もっとも主観的・主体的なものがもっとも客観的・対象的なのである』この考え方は彼らの思想からは予想されるものでありながら、もっとも重要な考えだと思われる。まさに自らを定立するために概念の創造は必要なのである。
T 哲学
1ひとつの概念とは何か
概念とはひとつの多様体であり、諸合成要素の総和でありながら、一個の断片的な全体でもある。他者との主体との関係における概念において、概念の新たな裁断、新しい輪郭の纏いや復活、更に概念の他の概念への移行を説明した後、彼らは概念の合成要素性、概念の共立性、この合成要素の集結点として概念の本性を述べるのである。そして概念はいくつかの強度=内包量であるとするなど、関心あるテーマが例をあげながら説明されるのである。
2内在平面
『哲学的諸概念は、たがいの縁が合致しないがゆえに、それぞれがたがいにぴったりと組み合わない断片的な全体である』そして『そうした全体は、限界のない・・ある総体であり・・それは、或るひとつの卓であり、・・あるひとつの共立平面であり、諸概念の内在平面であり、揺動面である』と彼らは述べる。そして『平面が有する唯一の諸領域は、まさに諸概念であり、諸概念を保持する唯一のものが、まさに平面なのである』この内在平面の運動について、創建について、内在平面につきまとう錯覚について、思考との関係について、この後詳しく説明するのである。なお内在平面とは言わばカオスの断面であり、篩のように作用するのである。なお、存立平面との関係は書かれていない、当然であろう、これらの平面は全く異なっているはずであるであるからである。
3概念的人物
概念的人物とは思考することを欲し、理性によって自分自身で思考する者である。それはデカルトのコギトを例に取りながら、前概念的内在平面と概念とのあいだで行ったり来たりする在る朧な存在を持っており、さしあたって白痴であると彼らは述べるのである。そして『概念的人物は哲学者の代理ではない。その逆でさえある。哲学者は、彼の主要概念的人物の、そして他のすべての概念的人物の外被にすぎず、それらの人物こそが、彼の哲学の仲介者、その真の主体である』とする。この後、概念的人物と美的=感性的人物像との相違点を述べるが、まず『前者は概念の力であり、後者は変様態と被知覚態の力である』とする。この説明は「概念」を軸に「科学の命題」も交えて展開され結構長く続くのである。哲学がギリシア的と見なされるのはギリシアの都市国家がひとつの内在平面を描き「自由なオピニオン(臆見:ドクサのこと)」を支配的な位置につけていたからであるとする。哲学はオピニオンから知を引き出さなければならない、哲学は反ドクサ的であるのは、『何かオピニオンのレヴェルにも命題のレヴェルにさえ属さないことを表現するからである』なのである。こうして三つの力域[概念、平面、人物]は互いに含みあっているが、同じ本性をもっているわけではなくとも、共存し存続して互いに相手のなかで消え去ることがないとする。
4哲学地理
領土と大地の関係の中で、思考することが成立するのだと彼らは述べる。なお主観と客観の視点からは思考に関して悪しき近似値しか得られないとする。この節で重要なのは思考に関して、領土化、脱領土化の観点から述べられる説明以上に『概念というものは、範例的ではなく連辞的であり、投影的ではなく連結的であり、階層的ではなく隣接的であり、指示的ではなく共立的である。従って、当然のことながら、哲学、科学、芸術は、もはや内在平面への超越的なものの、同じひとつの投影の三つの水準として組織されているのではなく、また、ひとつの共通の母胎から分化しているのでもないのであって、反対に、それぞれ独立して、あるいはそれらのあいだに連結関係を引き起こす分業において、何ものにも媒介されずに定立され、あるいは再構成されるのである』という一文であると思われる。
それ以上に『近代哲学は、古代哲学が都市国家の友でなかったように、資本主義の友ではないという点を挙げなければなるまい。哲学は資本の相対的脱領土化を絶対的なものへと移行させる。哲学は、資本を、無限なものの運動として内在平面に移行させ、資本を、内的な限界としてのかぎりにおいて消去し、新たな大地に、新たな民衆に訴えかけるために、資本をそれ自身に反抗させるのである。しかしそうすることで、哲学は、概念の非命題形式に、すなわち、コミュニケーション、交換、コンセンサス、そしてオピニオンがそこで絶滅する当の形式に到達する』(171頁)の文章の方が重要である。この後ユートピア、革命との関連について述べるのである。この章は好きである。特に悲嘆の混じながら落ち着き、可能性を秘めながら絶望している文章が好きである。
U哲学――科学、論理学、そして芸術
5ファンクティヴと概念
科学の対象は概念ではなくて、ファンクションであり、命題という形をとるのである。そしてファンクションの要素がファンクティヴと呼ばれるのである。哲学的概念は決してファンクションのなかには与えられないが、ファンクティヴを合成要素と見なすことができる。ただこのことは概念とファンクションの本性上の差異を示すことを目的としていると彼らは述べて、本節では話を進めていくのである。
6見通しと概念
本節では概念と見通しについて、命題論理学を踏まえて記述している。なお、見通しとは命題の諸エレメント、様々なタイプ、あるいは判断の諸様相のことである。こうして、概念とファンクションの混同は哲学的概念にとって壊滅的であり、概念はファンクションを省察することはなく、ただ概念とファンクションはそれぞれがおのれの線をたどりながらも、互いに交差せざるを得ないとする。『哲学が自分と同時代の科学を必要としているのは、科学が概念の可能性と絶えず交差するからであり、概念が、事例でも、応用でも、反省でさえもない、科学への暗示を必然的に含んでいるからである』と彼らは述べる。
7被知覚態、変様態、そして概念
『保存されるもの、つまり物、あるいは芸術作品は、諸感覚のブロック、すなわち被知覚態と変様態の合成態』であると彼らは述べる。なお『被知覚態が非人間的な風景であるとすれば、変様態はまさしく人間の非人間的な人間ではないものへの生成』であるとする。さらに被知覚態の定義を進めて『世界に生息し、わたしたちを変様させ、わたしたちを生成させる感覚しえない諸力を感覚されうるようにするとこと』と述べる。被知覚態と変様体は人間の境地を越えた諸力を感覚するものであり、その感覚の生成として記述されている。この後コスモスを含め芸術について語り進められる。『思考の定義、あるいは思考の三つの大きな形態、すなわち芸術、科学、および哲学の定義とは、つねに、カオスに立ち向かうこと、カオスのうえに或る平面を描くことである』とする。そして『思考するということ、それは概念によって思考するか、ファンクションによって思考するか、感覚によって思考するかのいずれかである』とする。
結論 カオスから脳へ
本章では、カオスのかけらを捕える脳へと順次話が進められる。『カオスとの闘いは、オピニオンに対するもっと深い闘いの手段にすぎないのであって、それというのも、人間たちの不幸は、まさにオピニオンというものからやってくるのである』とする。『カオスはそれと交截する三つの平面のうえで生み出される実在をカオイド[カオスに由来するもの、カオスの娘]と呼ぶのだ』であり、『三つの平面の(統一ではなく)接合が、脳なのである』と述べる。こうして私の脳について、脳−主体の観点等から述べられて、概念と感覚とファンクションが生成するものが語られる。
「哲学とは何か」を読み終え、今までドゥルーズの著書もしくはガタリとの共著は、たぶん24、25冊読んで、それなりに感想文は書いている。最初よく分からなかったものが、まだ詳細は分からないが、少しは直感的に理解できるようになったのである。こうしてみると結構時間がかかったが感想文を書いていることが非常に役に立っている。まだ読んでいない何冊かの本は機会があれば読みたい。また彼らが言わんとしたことは薄々感じているが、それを確かめた後、改めてまとめの感想文を書くかは、その後にでも考えたい。ただ、ドゥルーズの思想を私の言葉でごく簡単に言えば、正しいか否かは別にして「多様体なるカオスの潜在的可能性から常に生成することができるのであり、概念を創造することで思考することで自らを定立させて、資本を手なずければ自らを切り拓くことができ得る」となる。敢えて主語は除いている。
以上
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2013年7月6日(土) |
井伏鱒二著 「黒い雨」を読んで |
定かではないが、井伏鱒二の小説はきっと「山椒魚」など何篇か読んだはずである。記憶が曖昧なのは、それほど印象の深い作品は無かったのかもしれない。今回「黒い雨」を読もうと思ったのは、この作品が原爆の被害をテーマにしていると知ったからである、というよりこの「黒い雨」という小説がそうした内容であるのを知っていても、別に気にかけていなかったのであるが、どうわけかこの小説の内容が知りたくなったのである。その理由はよく分からないが、たぶん放射能の汚染水の海への流出とは全く関係はないであろう。
読んでみると、井伏鱒二の小説は普通の小説であって、特に感激することもなかったが、被害者の心や肉体や野辺送りなどを淡々と短く描写しているところは味わうことができた。ただ文章が緩慢であって切り詰められていないために、さあっと速読したのである。あらすじは、どうも黒い雨に打たれた原爆の被害者の姪の病状の方が、日記を丹念に記述する直接的な被害者たる主人公よりも重いらしいということである。日記形式で記述されていて、話が進んでいる。姪と主人公の病状が示唆されているだけで、結論は描かれていないようである。どうも、本書の値打ちは、日記として記述されている多くの被害者の悲惨な描写が含まれていて、原爆の悲惨さを間接的に直接的に描写した作品であるということと推測される。
ずっと昔、吉永小百合が原爆に関する詩の朗読会を催していて、確か「原爆の詩」と称した本も発行していたはずである。記憶では、何百の詩の中から朗読する詩や本に掲載する詩も選んでいたのである。同じ出来事を記述したとしても、文字を使い文章として表現した時には、それらの作品の優劣が生じるのは致し方のないことである。そして確かに作品には優劣があったのである。私がここで言いたいのは、いくら悲惨な状況でも作品とした場合、質の差がでるということではない。その背後にある出来事の重みに差があるということではない、というより小説なる作品とその出来事の関連や意味論的な位置づけである。小説なる作品は常に虚偽であり、本来的な出来事とは差があるのである。ここまで書いてこれ以上深入りすると、意味そのものの概念を論じなければならず、私には無理なのでやめておこう。その代わりに、私の簡明な黒い雨をテーマにした詩「聖なる夜」を紹介しておきたい。少し暗くてデカダン風な味付けを潜ませているが・・。本当にこの感想文はなんで書いたのであろう、よく分らない。この詩を紹介したかった、ただそれなのだろうか。
聖なる夜
聖なる夜には雨が降る
黒い雨が降り注ぐ
この地表のあちこちで
倒れている樹木や子供たちが
叫んでいる
救いは求めてはいない
まだ死んでもいない
ただ叫びうずくまっている
トナカイは黒い
空を飛んでやって来るトナカイの
贈り物はチョコレートではない
玩具でもないし絵本でもない
ただ一本の黒い絵の具である
黒い雨と一緒に降り注ぐように
絵の具はゆっくりと落ちてくる
若い女たちが賛美歌を歌う
その声はこの地表のあちこちへと
そよ風が吹き抜けるように
さわやかに駆け巡る
だが子供たちは聞いてはいない
ただ叫びうずくまっている
もう起き上がろう
一本の絵の具を握り締め
力強く描き始めよう
この地表を黒く塗りつぶし
もう二度と生けるものが
見出されないように
赤く爛れた皮膚さえも塗りつぶし
どれをも真っ黒に塗りつぶそう
だが子供たちは立ち上がらない
ただ叫びうずくまっている
聖なる夜には
黒い雨だけが降っている
以上
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2013年6月30日(日) |
谷崎潤一郎著 「鍵・瘋癲老人日記」を読んで |
谷崎潤一郎の小説は、「痴人の愛」や「春琴抄」などきっと五、六編しか読んでいないであろう。ただ、この少ない数の著書を読みながらも、やはり卓越した文章能力の作家であるとは思っている。掲題の著書はずっと読みたいと思っていたのである。死ぬ五、六年前に書いた老人の性や肉体への執念を知りたかったのである。ただカタカナが読むのが面倒で今まで読めなかったのであるが、今回もカタカナは読めなかったのである。仕方なしにカタカナ語のほんの一部と「鍵」の妻の日記がひらがら漢字で書かれていて、その部分だけを読んだ感想文である。従って、本書の一部を読んだだけで自分でもよく分からないままに書いた感想文である。
カタカナ語がなぜ読めないか、たぶん文章を読み理解するとは、ある直接的な知覚する通路が、書かれた文字を意味として理解する通路が存在するのであろう。カタカナ語の場合、この通路は途方もない長い時間を必要とするか、閉ざされているに違いないのである。これは将棋や囲碁の局面の理解と同じに違いない。これらのゲームの規則を理解していないと、ただ駒や碁石が意味もなくただ並んでいるのである。川原に転がっている石のように乱雑に無意味に物質や形象が転がっているだけなのである。ただ、カタカナ語は努力すれば、時間をかければ通路は閉ざされていず読むことができる。読みたければ石に齧りついても読むはずであり、きっとそれほど読みたいのではなくて、何が書かれているかただ知りたいだけなのに違いない。
結論から言うと「鍵」は「春琴抄」や「吉野葛」などより質は落ちる作品であると思われる。「春琴抄」の引き締まった文体や濃密に底流するエロシチズムや情念の濃度、そして物語としての卓越性、「吉野葛」の母恋や友人の故郷の自然な情景に、人の心の優しさや暖かさが含まれる作品の方が好きである。「鍵」は妻の日記だけを読んだのであるが、淫乱さを秘めている貞淑な妻が夫の日記に書かれている示唆に従って、夫の部下と関係を結ぶのである。それはきっとこの相手の男に恋している娘の陰謀も手助けして実現したのかもしれない。そして夫はこの妻の淫乱さに嫉妬し欲情し続けて、結局は脳溢血で死ぬのである。それは妻の病気持ちの夫を死なせるための策略でもあったらしい。結局これら四者の関係が、夫と妻の日記と言う体裁を取って記述されているために良く分からない、微細に描き切れていないと思われるのである。そして病気になった夫の死ぬまでの妻の後半の日記の大半が無意味に疑心暗鬼と病状のみを描いていて長いのである。更にこの妻の書いている日記の文章が非常に冷静に分析的で、疑念を抱きながらも論理的で、妻の貞淑さや淫乱さやその葛藤が、夫の死後を除いて作為的な感じがして、その思いが切に伝わってこないのである。
きっと谷崎は文章の余白を強調していたと記憶している。それは美しい文章として余韻を残すためであるが、今回は余白が多すぎて、こういう小説であったのかと少し記憶に留めて置くことにしたい。なお、「瘋癲老人日記」はすべてカタカナ語のため読んではいないが、嫁の颯子という若い女性を得た老人の話らしい。どういう風に颯子を得てどういう行動を行っていたかは分からない。ただ「鍵」、「瘋癲老人日記」とも性に執着する老人が描かれているはずが、「鍵」では老人の執着も発表当時はインパクトが絶大であっても、現代においては少し古くなって、少し作為性を感じさせて、飽くなき執念として心底願う切実さが妙に削がれて伝わってこないのである。ただ先ほどの少し述べたが、妻が夫の死後の本心を語る日記の文章はさすがに谷崎と納得させるものがある。「瘋癲老人日記」の老人の執念は読んでいないために、どうにも分かるはずがない。
だいぶ以前に、谷崎潤一郎選集全三巻として、「谷崎純一郎随筆選集」(昭和26年発刊)を古本屋から入手していて、ちらっと読むと古い活字タイプながら面白そうであるが、読む本がたくさんあるために、いつになったら読めるのかまだ分からない。気長に待ち続けたい。
以上
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2013年6月23日(日) |
ジャン=ピエール・デュピュイ著 森元庸介訳「経済の未来 世界をその幻惑から解くために」を読んで |
本書は最初良い本であると思っていたが、読み進めるうちに著者の偏狭した思考と思考を詳細に詳述しない大まかな文章、更に引用する作家や哲学者の偏向さにうんざりし、さっと読み飛ばしたのである。どうも著者の考えは、経済に虐げられている政治を取り戻すことによって、本当の意味での「政治経済」を実現したときに、経済は未来を開けるだろうというのが基本的な考えであるようである。そして、どうしてもこの世界に破局は訪れるものであり、それを認識した上で経済が自己超越のメカニズムによって、未来に向けて自己投企しなければならない、そうしなければ経済自身の死が待ち構えているとする。破局があるにしても投企さえすれば未来は明るく開けているというのが著者の主要な論旨であると思われる。
本書は経済書でもエッセイでもない、ある種の哲学書の類であろう。簡単に、章を追って何が書かれているか見てみたい。重要な思考はきっと自己超越であろう、従っていろいろ書かれていて、理解しがたいパラドックスの問題や論理学なども含まれているが、本当に簡略化して言うと、サルトルが提唱した実存主義の自己投企に基づくような、何度も言うが自己超越による自己投企により、未来を拓くことにあると言うことができる。著者にとって破局はあろうとも未来は暗くはなく明るいのである。
序 政治を幻惑する経済
政治は経済に屈していると著者は言う。こうして経済は暴走を起こしており、この状況を抜け出すためには新しい経済理性そのものを創り出すべきと著者は述べる。それは時間、未来への関わり方にあるとする。その後、本書各四章の記述内容を著者自身が概説している。
第一章 経済と悪という問題
経済はいかにして悪という問題を解決することになったかについて述べる。巨大な悪は悪意の不在を通じて引き起こされるのであり、犠牲者であるとも責任者であるとも思考することが人間にできなくなったとき、そこには悪を自然化する誘惑があるとする。例として原爆とホロコーストをあげる。これらの出来事を地震や津波の自然災害と同一化するというのである。更に経済の暴力化について述べる。ハイエクは市場からの痛撃や生存の暴力的な略奪は抽象的な規則と力に従うものだと述べたとし、著者はその理由を破壊的な(破壊しようとする)情念の源泉が干し上がるからだ説明している。
そして、市場は自己調整機能を有しているが、この調整を成すに当たって自身の外在性を生み出し、この外在性は強制力であるかのように現われるのであり、『こうした自己調整はシステム内部での外部性の産出を経由しておこなわれる。これが自己超越ということである』と著者は述べる。市場が自己調節を行うのは各行為主体の行為の相乗結果なのであり、これが外在性そのものになるのに対し、外部性とはシステム内部から産出される、つまり価格やその動きなどが構成しているものなのである。こうした市場の自己超越が、市場の行う暴力を自らの暴力によって追放するのであると著者は結論付ける。どうも著者言い方は分かりにくいが、市場から痛撃や生存の暴力的な略奪を受けようとも、価格やその他の変動なる外部性が対処し緩和してくれると主張しているらしい。善き暴力は外悪しき暴力を制止すると著者は言うが、このあと金融商品の説明などを行うが、著者の話が流れていて論理がよく分からぬのである。また外在性と外部性は同じではないかとも思うが、よく分からないのである。
第二章 自己超越
この章では価格の自己超越と未来の自己超越について、行為主体の観点から述べる。行為主体は自分は価格に対して因果的な影響力を持っているのであり、つまり未来に対する因果的な影響力を持っているとする。哲学的な文章のためなのか、なかなか理解しにくい難解な文章で、聖書における預言やこの時代の数億人の経済主体やリスクの問題などに話が及ぶが、『未来についての預言がまさにその未来に与える因果的な効果のループ、つまり自己超越の問題である。・・未来についての記述は未来を決定するひとつの要因である』と言いたいらしい。単純に記述するなら、選挙の投票前の世論調査の選挙結果に与えるような話なのである。このあと「破局期におけるコミュニケーション」や「言葉を介さぬ自己超越」、「拷問のふたつの形」など難しい話はよく理解できないので省略する。
第三章 終わりの経済学と経済の終わり
経済は自己超越というメカニズムによって自分を未来に投企するのであり、これは経済が自分には未来があると信じることにあると著者は述べる。そしてこの楽観主義は破局主義でなければならない、アプカリプス(黙示)の経済学であれねばならないとする。なお、アプカリプス(黙示)はヨハネの黙示録など、この世の終末などを預言した黙示文学を考えると理解しやすい。その後カルヴァン主義やヴェーバー(マックス・ウェーバー)の理論について、また量子力学の話などが続く。
更にサルトルの実存主義やカミュの異邦人について話が及んだときに、そうだ確かに「異邦人」の主人公はムルソーであった、「嘔吐」の主人公はロカンタンであったと思い出すが、こうした人物を主題に挙げる著者とは反りが合わないはずである。もはやサルトルは、カミュは私の内から殆ど逃げ出したからである。もはや住んではいない人物について語られる時ほど苦痛を感じる時はない。つまり著者との感性、思想や文章は最初から私には受け入れ難かったのである。
結び 運命論を脱けて
自分は理性に導かれていると信じ、未知は自分たちの意志の産物であると考えている社会の反運命論が、みすみす敗北に終わる戦略を選んでしまうのが、今の社会のパラドックス的な運命論であると著者は指摘する。こうして著者は運命論を退け「投企の時間」と名づけた形而上学を提唱する。つまり、経済自身の死が待ち構えている、予告された破局があるにしても、それらから私たちを引き離している時間をめぐる新しい形而上学であると著者は強調するのである。
確かにこの本に書かれている、破局の論理を踏まえた現実への未来の引き戻し、言い換えるならばその訪れるはずの破局への計測できない時間の流れ、その流れの考え方、その流れの内になすべきことがらなどは重要なテーマではあると思われる。経済であっても現実であっても未来に起こり得る決定的な破局を考慮に入れることは本当に大切なことである。ただ、これはある意味では時間そのものの流れ方としても考慮されるべきであり、「投企の時間」が時間の幅でも長さでもなくて、もしや歪曲性をもって歪んだ流れかもしれず、それ以前に流れそのものがあるのかも含めて再考されるべきであり、「投企」そのものの概念も果たし何を指し示し、何をできうるのか再検討されるべきである気がする。ただ、この著者の大まかな考え方はこの本一冊で分かりえても、その細密な全体的な思想ははとうていこの一冊では理解できないと思われる。著者の言う「投企の時間」とは未来を本当に明るく導くのであろうか、謎である。私にはそうは思われないが・・未来は明るくも暗くもなくて薄明にそのままであるはずである。
以上
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2013年6月16日(日) |
樋口一葉著 「にごりえ・たけくらべ」を読んで |
樋口一葉の小説は一度読んでみたいと思いながら、なかなか読めなかったのである。今回ちょうど古本屋に安く売っていて、一葉の小説初めて読むことができた。感想はこういう小説だったのか、という簡単なものである。それではどう感じたが良く分からないので、率直に記述すると、客観的によどみなく流れるように記述する古典文とも思われる文章は筆力があって良いと思う、ただ小説そのものは普通の小説であって、私には今一つフィットしない、ということである。ただ、才能は感じさせる。
なお、読んだ小説は「にごりえ」、「十三夜」、「たけくらべ」、「大つごもり」である。なお、「にごりえ」は娼婦お力の恋なのか、しがらみなのか、お力とお力に恋する男との行く末が描かれている。「十三夜」はDVにあう女が実家に帰りたがるが、諭され嫁ぎ先に戻る途中に、若かりし頃にいくらか思いを寄せた男の、落ちぶれた車引きに出会う話である。「たけくらべ」は若かりし美登利と信如のきっと互いに思いを寄せているはずが、そうした心が通じて確認することも無くて、もはや互いに遠く離れていく話である。「大つごもり」は世話になったおじの借金を返済するために雇い主の金を盗むが、道楽息子の機転によって、雇い主には知られることなく罪にならなかった下女の話である。
文章は当然ながらゴーストライター以外、作家自身が書いているのであるが、樋口一葉の場合森鴎外と同様に、文章の背後に冷静に観察し記述する作家が隠れていて、そしてその作家の思惑通りに、筋書き通りに物語が進んでいくのである。夏目漱石のように、登場人物に作家が乗り移ることも無い。激情が綴られるとき、夏目漱石の場合、露わな漱石自身を感じるのであるが、樋口一葉の場合、森鴎外と同様にあくまでも作家は登場人物に冷静な視線を注いで記述している。ただ、物語そのものも時には作られた感が強まり、おやっと思うほど強引に筋書き通りに記述を進めている作品もあるのである。また、情感もそれなりに匂わせているがどちらかというと希薄である。この情感の記述の仕方も森鴎外に似ている、また森鴎外の小説にも読んだ本の数は少ないながら、物語が作られているという感じがしないこともない作品がある気がする。もともと勘ぐれば物語の筋とは当然ながら現実以上に作られたもの作ろうとするもの、そうしたものであるのかもしれない。
この観点からすると、樋口一葉の小説の書き方は森鴎外に似ていて、森鴎外に称賛されるのは当然であろう。両者の資質が同じなのである。さて、もう一人の文豪である夏目漱石が一葉をどうみていたのか調べてみたが、年代を見ると、漱石が小説を書き始めた時分にはもう樋口一葉は死んでいたのである。それでも諦めずにネットで調べていくうちに、漱石の一葉への評価は載っていなかったが、漱石の兄と一葉との縁談話があり、結局破談になったとのことである。昔も今も世の中は狭い時があると尚も調べていたら、夏目漱石の俳句、確か「あるほどの菊を投げ入れよ棺の中」とほとばしる感情も露わに歌われた大塚楠緒子の花婿候補のうちの一人が、夏目漱石であったらしい。結局、どうも両親の意向にそって大塚楠緒子はもう一人の花婿候補と結婚したらしい。花婿候補の選定から結婚するまで、その間は一年半ばかりあり、文学を目指していたに大塚楠緒子はその後、夏目漱石に弟子入りするのである。一年半とは長い躊躇、ためらいの期間であるはずである。そして、この三人は顔見知りでもあり、いろんなことが生じたはずであり、漱石の小説に登場する女性の典型的なタイプとなり得る、結構つじつまがあう気もするのである。
彼らの生活など、たとえ文人であっても私はあまり関心を持たないが、そして漱石論は、江藤淳の「夏目漱石論」しか読んでいずに、嫂登世とばかり思っていた漱石の女性関係が、別の女性であって、もしくは複数に入り混じっていることに驚いたものである。なお、作家論は基本的には作品から行うべきである、例えばドゥルーズのフーコー論のようにというのが私の考え方である。どうも話が本題からだいぶずれたようである。外れたついでに私の好きな漱石の簡明な詩を江藤淳の「夏目漱石論」から一つだけ紹介しておきたい。無題である。
I looked at her as she looked at me:
We looked and stood a moment,
Between Life and Dream.
We never met since:
Yet oft I stand
In the primrose path
Where Life meets Dream.
Oh that Life could
Melt into Dream,
Instead of Dream
Is constantly
Chased away by Life!
本当に話がだいぶ逸れたが、樋口一葉は二十台後半で死んでおり、作家の円熟期がある程度年老いてから訪れる点を考慮すると、もっと長生きすれば、彼女はこれらの作品で見せた才能を開花させて、質の高い作品を生み出した可能性が強いのである。その作品は人情を濃くして葛藤させるとうより、人情が薄くなり透明感を増した文章が、淡々と例の長い古典的な文章が、非情なこの世界を、非人情な世の中を客観的に冷静に描き出しているはずである。惜しいというより、きっと人生そのものが非情さでその人を包む時があるのだろう。
以上
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2013年6月9日(日) |
題:アルベルト・ルイ=サンチェス著 斉藤文子訳「空気の名前」を読んで |
結構良い小説であると思う。数ヶ月前にマンデリシュターム著の「時のざわめき」を読んで感想文を書いているが、ざわめく時代が、街などの風景を通じて良く伝わっていたような気がする。本書ではモダドールという町の色を染めて静かにざわめく風景が、ファトマという娘の性の目覚めを中心にして、詩的にざわめき動き、そして内奥の襞に通じる肉感的な欲望と船出した父母の帰らない死の織り成す奇妙に交差した幻想的ではない確かな現実が静かに詩的に語られていて良いのである。もしやこの幻想的でない現実が、実は幻想的とも思われるほど文章は巧みに屈折していて、織り成す光がまばゆく輝き、そして影が移ろい、町は静かに眠りにつきながら、その静けさの中に入り込んでいくのである。入り込んでいくのは誰であるのか、きっと目覚めたファトマやこの町に住む男たちや女たちに違いない。
本書は確か読売新聞の読書紹介欄で知って借りたのであるが、確かファトマという少女の性の目覚めとして紹介されていた以上に、噂話や性に色めきうごめく町そのものが描かれていて、この町の落ち着きのないざわめきそのものが主テーマであるに違いない。きっとファットという少女の性の目覚めを通じて町そのものを、色めいてさざ波を打ち光り輝いては暗い影に埋もれる、かつ開放的に生きては、色を染めた蒸気の粒のような煙を発して、風に流れる空気の流れに身をさらけ出すようなこの町の淫らな姿と静けさを描きたかったに違いない。
あらすじを簡単に紹介するとこうである。遠くを見詰める少女ファトマは祖母の占い通りに性に目覚めつつある、ハンマーム(公衆浴場)でカディアと出会い、視線が交差し、二人の動作が能動と受動で交差し、ファトマは歓びを味わうのである。だが、彼女たちは再び会うことはない。ファトマは彼女をものにしようとする競り人のアムフルスや猟師のムハンマドの手を逃れる。船の中の売春婦カディアは若者に、今まで誰にも話したことのない自らの過去を町の誰にも知られてもいいと思い物語るのである。これは横道に逸れた話ではない、本書の物語の別の入り口である。遊牧民が自らの不幸な出来事の原因が、村の老人の視線の内に捕らえられることに起因していると思い込んで老人を殺す。その結果、逆に遊牧民の男は全員殺され、女たちは犯され売り飛ばされるのである。その女の一人がカディアなのである。こうして町に語られる物語の近くにファトマは近づきながら、自らの物語がこの語りに交差していると知らずに、やはりカディアと出会うことはないのである。
題名の「空気の名前」とはどこから由来するかは本書を読んで頂きたい。なお、本書の章立ては 1.空気の手のなかで 2.名前 の二つの章で、各章は何節かによって構成されている。裏表紙を読んだときに、まさに本書にぴったりのキャッチコピィーがあったので紹介する。本書は著者の処女作であるとのことであるが、機会があれば別の著書も読んでみたいものである。
時空を超えた/幻想の町モガドール。/交錯する生と性、/予感に満ちた物語
以上
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2013年6月2日(日) |
題:ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著 「カフカ マイナー文学のために」を読んで |
本書はもう半年以上前に読み終えていて、まだ感想文を書いていないのに気づいて、慌てて書こうと思ったのであるが、今まで読んだドゥルーズの著書の中にカフカに対する評論や文学論は結構記述されていて、そして以前書いた感想文にも結構記述していて、結局は「マイナー文学」という思想が主であるという以外に何も浮かばないのである。あと「巣穴」という短編に記述されている巣穴の構造に似た、リーゾーム(地下根)か。本書をぱらぱらと捲ってみると、第三章に「マイナー文学とは何か」と記述されて、三つの特徴をあげているので、マイナー文学についてはこちらを参照にして頂きたい。簡単に言えば『言語の非領域化、直接に政治的なものへの個人の結合、言表行為の集団的鎖列である』ということである。
そして本書を眺めると、結構面白そうなことが記述されているのである。とうに私の記憶から消されたものが浮き上がってくるのである。カフカについて多視点的に捉えていて、デリダの確か「掟の門前」の法と文学の絡みを記述した単調さとは格段の違いがあるのである。ここで気に入った一つだけを本書から文章そのものを引用し紹介したい。『カフカの関心をひくものは、常におのれ自信の廃棄と関連している、強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌。ことばを欠いた叫び声、まだあまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音饗性である。音において重要なのは強度だけである。それは、一般的には単調で、常に無意味な強度である』(7頁)これほど端的に表現されたカフカが今まであっただろうか。
そして、第九章 「鎖列」とは何か である。『言表行為の集団的鎖列と、欲求の機械状の鎖列である』と記述されている本章の内容の詳細についてはここでは記述しない。「作動配列」という概念との違いについては、明確である。「鎖列」は機械状の配列なのに対し「作動配列」は身体なのである。ただ「カフカ−−マイナー文学のために」(1975年)が「ディアローグ」(1977年)よりも少し前であるか、ほぼ同じ頃の思想であるために、相互に影響を与えているのかもしれない。この「鎖列」と「作動配列」が思想としてどう展開されたか、機会があれば今まで書いた感想文や、本文を照らし合わせて調べてみたい。なお、カフカを「文学機械」というとき、ぴったりである。カフカの文章は機械のように永遠に続くように思われるからである。カフカはどうしても廃棄しても書き続けなければならない機械なのである。
以上
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2013年5月26日(日) |
ジル・ドゥルーズ著 「記号と事件 1972−1990年の対話」を読んで |
ドゥルーズの対話や序文を集めた本である。ドゥルーズの写真が掲載されているので、文庫本ではなくて、1992年の古い本を入手した。今まで読んだ本とはまったく異なった文章である。普通の散文であって、緻密で丁寧なかつ緊張感のある散文であって、とても分かりが良いのである。ただ普通の文章であるが故に却って分かりにくい点もある。訳者のあとがきによると対談の後には文章を加筆訂正しているらしい。単行本に収めるにあたってはドゥルーズの責任においてテクストがまとめられているとのことである。五章からなるが、今までドゥルーズの本を結構読んできたので、「映画」と「政治」を除いて殆ど理解できたつもりでいる、「政治」については、知らなかったことが記載されていて新鮮味を感じたのである。なお、本書の原題は「折衝」であって、これはクレール・パルネとの対話でも出てくる、また序にも記述されているが「哲学にできることは折衝だけである」という概念であるが、本の題としては分かりにくく、販売数を伸ばすためにも改題したとのことである。特に記述することはないので、いつも通り各章にて何を記述しているか、簡単に述べたい。
T 「アンチ・オイディプス」から「千のプラトー」へ
「口さがない批評家への手紙」、「フェリックス・ガタリとともに『アンチ・オイディプス』を語る」、「『千のプラトー』を語る」の三つの短編からなり、表題の通りに、これらの書物へ到る経緯などが対談などで語られている。
U 映画
「『6×2』をめぐる三つの問題(ゴダール)」、「『映像=運動』について」、「『映像=時間』について」、「想像界への疑義」、「セルジュ・ダネへの手紙――オプティミズム、ペシミズム、そして旅」の四つの短編からなる。なお、『6×2』とはゴダールが制作したTV作品であり、それをドゥルーズが語ったのである。ゴダールには「労働力」と「情報」という二つのさまざまなものが詰め込まれた理念があり、一般的な「労働力」と「情報」の概念にゴダールは疑問符をつきつけているとドゥルーズは言うのである。そして「イマージュ」と「事物」と「運動」に話が及ぶのである。
V ミシェル・フーコー
「物を切り裂き、言葉を切り裂く」、「芸術作品としての生」、「フーコーの肖像」の三つの短編からなる。ドゥルーズとフーコーとの関係、フーコー論などについてドゥルーズは語っていて、質問者の厳しい質問にも丁寧にドゥルーズは答えている。フーコーの「汚名に塗れた人々」について、その主体化について語る内容は興味深い。
W 哲学
「媒介者」、「哲学について」、「ライプニッツについて」、「レダ・ベンスマイアへの手紙(スピノザについて)」の四つの短編からなる。哲学について、ライプニッツやスピノザ、ベルクソンなどについてドゥルーズは語っているが、彼の著書「哲学とは何か」を読んでから感想文を書きたいので、本章では省略。ただひとつ、『そしていま、永遠不変の価値の代役をつとめているのが人権です』の真意を調べてみたい。本章はなかなか興味深い哲学に関することが述べられている。
X 政治
「管理と生成変化」、「追伸――管理社会について」の二つの短編からなる。やはりドゥルーズは代理=表象というよりも、むしろ集団による創造のほうに興味を持っている。そして『私たちは管理社会に足を踏み入れている』と言い、『管理社会にはサイバネステックスとコンピューターをそれぞれ対応させることができる』のであり、『管理をのがれるためには非=コミュニケーションの空洞や断続器をつくりあげること』と彼が述べるとき、ずっと昔から言われていた管理社会という言葉がとても新鮮に響き伝わってくるのである。フーコーは規律社会を十八世紀と十九世紀に位置づけたとし、規律社会は短命だと知っていたのであり、管理社会では工場に企業がとって代わるのである。企業とは『抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく・・この敵対関係が個人対個人の対立を産み、個々人を貫き、個々人をその内部から分断する』のであり、数字が重要であり、『モグラが監禁環境の動物だとしたら、管理社会の動物はヘビだろう』とドゥルーズは続ける。『現在の資本主義は過剰生産の資本主義である。・・もはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである』と言う時、本当にとても新鮮に聞こえたのである。『人間は借金を背負う人間になった。・・』と言うこの真意を含めて、この資本主義について更に人間との関係においてもう少し調べようと思うのである。ただ、資本主義における資本の増殖や逃走についてドゥルーズがもっと仔細に書いていればもっと良かった、即ち彼がもっと経済に軸足を移していれば良かったとこの頃思い続けている。致し方ないことであるが・・。
以上
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2013年5月19日(日) |
黒田夏子著 「abさんご」を読んで |
あまり読んでいないが、現代小説には面白いものが少ない。この「abさんご」は他の現代小説とは異なる文体表現にて記述されているとのことで、とても期待していたのである。だが、読み始めてすぐに期待が外れたのである、つまり面白くない小説と気づいて、後はさっと読み流した。なぜ、現代小説が面白くないか、私の感覚が少し通常から異なっているのか、作家が現代を捕らえ切れていないか、独自の言語表現が為されていないためか、理由はよく分からないが、ともかく本書を読んだかからには成り行きに任せに感想を書いてみる。
本書は、前扉から読む作品として「鞠」、「タミエの花」、「虹」の短編三作品があり、後扉から読む作品として、横書きの「abさんご」があるのである。まず「鞠」を読んで、期待外れだったのである。あらすじは、タミエという少女が、柔らかく空気の抜けかけたお気に入りの鞠の代わりに、玩具屋から新しい鞠をポケットに入れて盗むのである。帰り道に果実のなっている木の実に手を触れると、盗むのは良くないと男に注意され、貰った果実の芳香を味わい歩きながら食べる。盗んだ鞠を果樹の根元にこっそり置いて去りたいと作者は書きたいと言うが、タミエはそうせずに川に壊れかけた鞠と果実の食べ滓を捨て、ポケットには泥で巧みに汚した鞠が、盗んだ弾む鞠が入っているのである。
本短編の出だしには鞠は「タミエの掌のくぼみにきっちり嵌る」のであり、「鞠の音は世界中を充たすように響く」との表現があって、これが主テーマである。結末が掌のくぼみに毬はきっちり嵌り、鞠の奏でる音が世界中を響かすと思い込み読んでいたのが私の間違いであった。結末はどちらでもなくて、まるで幻想であるかのように、果実の残り香と共に不確かな甘酸っぱい匂いがタミエの心に染み付いて止まなかっただけなのである。こうした小説の出だしと結末を思えば、三島由紀夫の作品は両方とも非常に上手くて、つい作品に没頭し読み込み、その結末のどでん返しにはあっと驚いたものである。結局鞠はタミエの掌のくぼみにきっちり嵌ったのであり、鞠の音は世界中を充たすように響かせたのである。そういう風に最初と最後とを上手く合わせて欲しい、というより私ならそう書くであろう。ただ文章はぱさぱさして意識的に情感と動感を削いでいるが、読めないことも無い。
「タミエの花」は少女が中年男と山を歩き、花の名前を言い合う話である。中年男の知識の深さに、タミエは最後には自分の得意の領域を犯されていることを承知し、呪文のように花の名前を叫ぶのである。「虹」にもまたタミエが出てきて、昔、幼い子供を川に墜落させて殺したのである、その時見た川の向こうの美しいものが虹なのである。両作品とも「鞠」よりは少しだけ質があがってはいるが、やはりどうも読むに耐え難い。その点「abさんご」は最初のaとbとの学校と、最後のaとbとの道が繋がってはいる話があり、その間には散文詩作品であるのか、短文がとりとめもない乱雑性を持っていて、「虹」のような死の匂い、家族の死の匂いを漂わせながら、幻想なのか秩序などなしに断片的に流れていくのである。ただそれだけである。そして、ひらがなが読みにくい。私は谷崎潤一郎の確かカタカナで書かれた「瘋癲老人日記」も面白そうと関心をひかれながら面倒で読んでいない。まして、その内容が希薄と思われるひらがな文章はとても読めないのである。
最後にこの作者について簡単にまとめると、1)登場人物と作者との位置関係の問題、2)言語表現の独自性の問題として指摘することができるだろう。最も重要なのは3)言語のリズムであると思われる。良い作品には遅くとも早くとも独特のリズムがあり、それが読者を知らずうちに引き付けるのである。この著者はまだ自分の文章のリズムを確立していないと思われる。1)で言うと、登場人物は作者と独立しているのが望ましいが、そうでなければ作者そのものであって欲しいと思うのである。思い出や幻想を描くとしたら、作者つまり主体が客体を描くのではなくて、主体が主体そのものを描くことによりもしくはこれらの隔たりの中間から記述すること、これによって際立って作品の質が良くすることができるはずである。質が良くなるとは現実と幻想の境界の位置が定められて描き切ることができるのである。2)は言語表現の特異性とは、ひらがななどの表現に捕らわれるのではない。前にもどこかで記述したはずであるが、詩を書くときに、一つ一つの文字を書いて大きな文字の形を表すとか、一頁の上中下に三つの文章を同時並行的に書くことではない。これは趣味の領域であって、言語表現の独自性とは、自らの言語表現の特異性や異化化を追及することであり、言い換えれば自らのリズムや文法や言語を作り出すことなのである。
以上は、私の感想であって、ただ一人の読後感である。きっと作品の質とは、永く読みつながれること、ただその一点だけによって評価可能である、もしくはそうした評価がされるべきと思っている。そういう意味でいけば、著者の作品群は幸か不幸か評価可能な位置を獲得したと言うことができる。きっとこの位置を獲得したことは著者にとって、好悪の批判、感想、賞賛などを得て息苦しさなどを感じながらも幸福なことであると言うべきである。
以上
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2013年5月12日(日) |
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ著 江川隆男・増田靖彦訳「デァローグ ドゥルーズの思想」を読んで |
本書は2008年に日本語にて「対話」として出版されたものを、表題を変えなど変更と修正を加えて、再び出版された文庫本である。ジャーナリストであるクレール・パルネとの共著であるとのことであり、五つの章から構成されている。原書は1977年に出版され、その後1980年に「千のプラトー――資本主義と分裂症」が出版されている。そういう意味では確かにクレール・パルネの書いた易しい文章が最初にあると思われるが、後は殆どドゥルーズが自らの思想の源泉を記述したと思われるほど、分かりにくいのである。内容そのものも、その記述した意図も分かりにくいのである。本当に何を書きたかったのか、たぶんドゥルーズに宿していた思想のカオス源泉が、明らかにされていると考えるのが妥当と思われる。本来的には「対話」そのものとは何か、何の役に立つのかが目的であったはずであり、その観点から記述しながら、記述範囲の思想が大幅に逸脱して記述されているのである。
最初はボブ・ディランの詩などが掲載されて楽しめそうだと思いながら読んでいくと、いつものドゥルーズの文体へと変わっていくのである。そしはいつもの詩的な論理文である。従って本書の感想文としては、ドゥルーズの重要な思想を述べた後に、各章に記述されていることを私なりに簡単にまとめてみたい。そうすれば、少しは本書を自分なりに理解できるというものである。なおボブ・ディランのレコードは殆ど持っていて、歌はたくさんの頻度で聴くが歌詞は読んだことがない。魅力的な歌詞であると知ってはいたが、これほど好いものだとは思わなかったのが率直な感想である。ただ、これからもディランの歌詞を眺めることをしないだろう。歌は歌っている歌詞の内容が分からずに、ただ流れる音を聴いているのが良いのである。なお、各章は第一部と第二部の二つに分かれていて、ドゥルーズとクレール・パルネが互いに書いているような形式を保っている。引用文は『 』で示している。なお、本書の最後に、「対話と折衝」と題して江川隆男が、「回帰の反復――ベルグソンからベルグソンへ」と題して増田靖彦が本書の解説を、江川隆男が「訳者あとがき」で本書の経緯を明確に記述しており、そちらのほうがこの感想文より正しく本書を捕らえて記述していると思われる。無論、当然ながら本書を一度読んでみることをお勧めする。
本書を思想が貫いているとすれば、第二章の最初に記述されている「作動配列」という概念である。最小の現実的単位は語でも概念でもなく作動配列であるとする。言表は言表主体としての主体に関係づけられるのでもなくて、言表は常に集団的作動配列の産物であり、私たちの内と外で諸々の個体群、多様体、出来事などを作動させるのである。『作動配列とは共−機能配列あり、「共感」であり、共生である』『共感とは憎しみや愛といった、身体間の努力や浸透である。・・憎しみはひとつの身体であり、・・共感とは愛し合い、あるいは憎み合う諸々の身体のことであり、そうした身体の中で、・・身体の上で、諸々の個体群などである』『共感にはいかなる判断もなく、あらゆる本性を備えた身体間の諸々の適応がある。「この上なく激しい憎しみからこの上なく情熱的な愛まで、無数の魂のあらゆる繊細な共感」。作動配列するとは、そうしたことである。つまり中間にいること。内部世界と外部世界が出会う線の上にいることだ。中間にいること』従って、ドゥルーズは共に語り、ともに書かなければならないとする。そして『私たちに隔たりと同一化という二つの罠を仕掛けるのは、世界それ自身である・・二つの罠に・・抵抗しなければならない。私たちは諸々の作動配列の間で作動配列することしかできない。私たちは闘うための、書くための共感しかもっていない、そうローレンスは言っていた。だが共感とは容易なことではない。それは身体と身体のぶつかり合いであり、生が増殖する場を愛することである』(94頁)同一化と隔たり、隔たりというより生が増殖する場を共有すること、きっと中間に居ることができずに、外部世界にはみ出さなければならない集団的作動配列の産物である私たちの言表行為を、そうした生の形態をドゥルーズは思想として捕らえていたに違いない。
第一章 ひとつの対談、それは何か、何に役立つのか
『・・ある項が別の項へと生成するのではなく、各々が他方に出会うというわけである。この出会いは、二つの項が相互に何の関係もないないために共通でないのだが、しかし両者の間にあり、それ自身の方向をもった唯一の生成であり、一つの生成のブロックであり、ひとつの非平行な進化である。・・それは両者の間に、両者の外にあり、別の方向に流れる何かなのである。出会うこと、それは見出すことであり、捕獲することであり、盗むことである。・・そして相互的な何かをつくり出すのではなく、非対称なブロックを、非平行な進化を、婚姻を、つねに「外」と「間」をつくり出すのは、そうしたものなのである。だとすれば、ひとつの対談も、きっとそうしたものなのだろう』対談とは両者の間に、両者の外にあり、別の方向に流れる何かをつくり出すものなのである、とドゥルーズは言っている。
そして哲学史について述べる。『哲学史は哲学において、そして思考においてさえも、つねに権力のエージェントであった。哲学史は抑圧者の役割を演じてきたのである。・・哲学と名づけられた思考のイメージは歴史的に構成されてきたのであり、人々が思考することを完全に妨げるものである』ドゥルーズの哲学史、哲学に対する批判は厳しい。マルクス、フロイト、ソシュール更にデカルトもヘーゲルについて特に厳しい。ドゥルーズは哲学史の一部をなしているように見えるが、一面ではあらゆる部分でそこから逃れ出ている著者たちが好きだったと言い、ルクレティウス、スピノザ、ヒューム、ニーチェ、ベルグソンをあげている。ここで哲学者といわず「著者」と言っていることに注意。それから、ガタリとの出会いについて、ブッラックホールとホワイトウォールについて、ドゥルーズがエッセイのように記述した章でもある。
これに対して、クレール・パルネはドゥルーズの作業内容についてガタリも加えて論じ紹介しながら、ジャーナリストなども含めて「著者」であろうとしない人たちを非難する。更に『一本の道において重要なこと、一本の線において重要なこと、それはつねに中間であって、始まりでも終わりでもないということである』と言い、ノマドの中間、言語学、多様体、「と」について述べる。これらの記述内容は、ドゥルーズの思想を咀嚼した記述である。
第二章 英米文学の優位について
『逃走線とはひとつの脱領土化である。フランス人にはそれが何であるのかよくわからない。・・諸々の世界が発見されるのは、長い折れ曲がった逃走を通じてのみである。英米文学は絶えずそうした断絶を、そうした人物を呈示している』とドゥルーズは言う。こうして逃走について語り『逃走は一種の錯乱である』と述べるに到る。『書くこと、それは逃走線を描くことである。・・書くこと、それは生成することである。とはいえそれは作家へと生成することではまったくない。それは別のものへと生成することである』(77頁)結局『エクリチュールに「とって生はつまらない秘密であるどころか、エクリチュールは貴人的な生以上のひとつの生にとっての手段となるのだ』と言い切る。
こうして最初に私が書いた「作動配列」の思想が述べられる。「と」の技法、さらに身体と情動と諸器官の関係についても述べる。《存在者性》=《出来事》としての思想の恐怖、また多くの喜びについて語る。作動配列―共生について多いに語っているが、これは最初にも書いたとおりであり、すべて変化するものは「作動配列」を通過するからなのである。「作動配列」の線を通過して生成することができるのである。
第三章 分析せよ死せる精神分析
『精神分析はつねに無意識を縮減し、破壊し、厄介払いをそうしてきたのである。無意識は否定的なもののように構想されている』これがドゥルーズの主張である。こうして精神分析、フロイトの定式へのドゥルーズの批判が始まる。だが無意識を生産するとは容易なことではないのである。そして無意識と欲望の関係について『無意識とは、制作されるべき、流出されるべき存在者性であり、征服されるべき社会的かつ政治的な空間である。対象が存在しないのと同じように、欲望の主体は存在しないのだ。諸々の流れだけが欲望それ自身の対象性である。欲望とは、社会的領野の中で無意識の流れが算出される際に用いられる無−シニフィアン的な記号のシステムである』と述べ、『欲望とは革命的なものである。なぜなら、それはつねによりいっそうの結合と作動配列を望むからだ。しかし精神分析はすべての結合を、すべての作動配列を切断し、引き下ろす。精神分析は欲望を憎む。精神分析は政治を憎むのだ』このあと精神分析や欲望機械について、さらに存立平面やクロノスとアイオーンの時間について結構記述されているが、地図における存立平面と緯度と経度の内在平面も論じていて面白いが、三章の趣旨は以上の通りでありこれらの説明については割愛したい。
むしろ、第二部に欲望、有機体、器官なき身体や女性への生成、諸記号の体制、「集合体」になっていくあなたなどが述べられていてなお面白いが、「「集合体」になっていくあなた」を除いて、今まで読んだ本のなかで私が深くはないながらもす少しは理解していたドゥルーズの源泉思想であり、割愛したい。「「集合体」になっていくあなた」とは群を成す狼のことであるかもしれない。
第四章 諸々の政治
『個人であれグループであれ、私たちは諸々の線でつくられている。そしてそれらの線には非常に多種多様な本性が備わっている』これがこの章の出だしの文章である。ドゥルーズにとって線と切片は重要な思想であって、この線の種類と切片に関して、二進法機械や権力装置に抽象機械を、国家装置を通じて論じている。そして、『私たちが作動配列と呼ぶものはまさにひとつの多様体である』とし、『革命、抑圧、権力、等々は所与の作動配列の諸々の現働的な合成線である』とする。『・・それらの線は相互に内在しあい、相互の中にもつれて描かれ、合成されるのである。何が傾斜線として機能することになるか、どのような形式がその線を遮断しに来ることになるかは、前もって分からない』のである。
ただ、作動配列の中に現われる再−領土化、そして脱領土化の運動。人間、脱領土化された動物。そして社会的な領野が形成する脱領土化の運動において、最初にあらわれる諸々の線、諸々の逃走運動を研究しなければならないとする。社会は矛盾を抱えていて、すべてが逃走するのであり、社会は変様を及ぼす逃走線によって規定されるとする。この逃走線の優位、そして逃走線、断絶線、モル的な三本の線について詳しく語る。そして、戦争機械が国家装置と別の本性と起源を持つことについても語る。このあたりを記述する文章は荒々しく詩的で迫力がある。そして『革命の永遠の不可避性と戦争機械一般のファッシズムへの回帰とに賭ける代わりに、なぜ新しいタイプの革命が可能になりつつあることを思考しようとしないのか』と声高に繰り返しドゥルーズは叫ぶのである。
付録 第五章 現働的なものと潜在的なもの
『哲学は多様体の理論である。多様体は現働的要素と潜在的要素を含んでいる』これがこの章の出だしの文であり、本章はこうした観点から現働的なものと潜在的なものについてイメージや時間の観点から述べて、『内在平面は同時に、潜在的なものと別の諸項の関係として現働化を含み、かつ潜在的なものが交換される項としての現働的なものさえ含んでいる。・・現働的なものは、すでに構成されている諸々の固体と通常の点における諸々の規定とを含んでいる。これに対して、現働的なものと潜在的なものの関係は、現働化しつつある個体化を、あるいは各々のケースにおいて規定されるべき特別な点による特異化を形成するのである』と結論付ける。
私はこの文章が好きだし、この章がドゥルーズの思想の根幹を表現した文章であると思っている。つまり現働化しつつある個体は、潜在的なものと現働的な関係によって、潜在的なものを特別な点による特異化として形成することができるのである。即ち内在平面なる多様体から、個体は潜在的なものを現働的なものとして表し出すことができるのである、この表し出すことのできるその可能性を明確に表現している文章なのである。この潜在的なもの現働的なものへの生成変化がドゥルーズ哲学を流れる源の思想なのである。ドゥルーズが「生の哲学」と呼ばれる所以なのである、その他の悲観的な記述箇所を除けば、そしてある意味ではこの文章そのものが悲観的あることを除けば・・・。
以上
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2013年5月5日(日) |
ジル・ドゥルーズ著 守中高明・谷昌親訳「批評と臨床」を読んで |
本書はドゥルーズが今までに読み評論を書いた作家や哲学者をまたしても取り上げ、気ままに書いた文学論でもある。即ち書くことの意義を、作家や哲学者への思いを過去の評論を踏襲しながら新たな観点も付け加えて、まるでエッセイの感じのする自在な書きぶりが目につく、文学と哲学について論じるというより語った、書くことを問題にした著書なのである。「記号と事件」が1990年に発刊され、「批評と臨床」はいつ発刊されたか不明であるが、「哲学とは何か」が1992年に発刊され、ドゥルーズの没年が1995年であるので、もう本当に本書はドゥルーズの最後の著書であるかもしれない。
本書は全17章からなる。「批評と臨床」のこの表題の意味が訳者のあとがきを読んでも書いていないので、私なりに本文を引用して解釈してみると、次のようになる。序論と第1章「文学と生」から簡単にまとめたものである。なお、引用は著作権等の問題から最小限に留めたい。『作家は・・言語の内部に新しい言語を・・生み出すのである。彼は言語をその習慣的な轍の外へ引きずり出す。つまり、言語を錯乱させるのだ。のみならず、書くことの問題は、見ることと聞くことの問題と分かち得ないものである』(9頁)とドゥルーズは述べて、言語活動から生じる外の臨界、この『臨界はさまざまな非−言語的な視覚と聴覚から成り立っているが、それらの視覚と聴覚を可能にしてくれるのは言語だけなのである』とする。錯乱こそが、言語活動の境界線上の出来事を生じさせるものであり、『錯乱が臨床的状態に陥ってしまったら、言葉はもはや何ものにも到達することはないし、人はもはや言葉を通して何一つ聴くことも見ることもない。・・つまり文学とは健康であることなのだ』(10頁)とドゥルーズは断言する。つまり言語の錯乱を通じて、文学は健康を成り立たせており、それが臨床状態に陥ったなら、もはや聴くことも見ることもできないとするのである。
では、文学の臨床状態とは何か。文学とは錯乱であり、病いなのである。ただ『押し潰し監禁しにかかるあらゆるものに抵抗し・・みずからの姿を白抜きに描き出すあの私生児的―雑種的人種の力に訴えるとき、錯乱は健康の尺度となる』のである。ところが『支配という錯乱が私生児的=雑種的錯乱と混淆してしまい、文学が闘いを挑んでいる病い・・のほうへとひきずりこむのではないかという絶えざる危険が再び見出されるのだ。文学の最終的な目的――錯乱のなかからこうした健康の想像を、あるいはこうした民衆=人民の創出を、つまりは生の可能性を、解き放つこと』(19頁)ができなくなる危険を避けなければならないのである。病なる文学が病のほうへ引き摺り込まれていく臨床状態を避けるために批評が必要なのかもしれない。ただどうもドゥルーズはそこまで述べてはいない。彼は誰が何に何を批評するかも、たぶん何も述べていない。批評が成り立つのかさえ一読した限りでは書いていなかったような気がする。錯乱であり病である文学を通じて、聴くことと見ることができること、これが批評であるのかもしれない。ドゥルーズ自身の文章による批評であれば皮肉であり、闘いであり、生成変化に対する批判に対する彼の攻撃であるはずである。
ここで全17章の目次を紹介して、気が付いた章には短文にてコメントしておくことにする。なお、ドゥルーズの著書を読んだ人には再掲の思想が多いはずであるが、読み直してもドゥルーズの文章は素敵な好いと文章だと思うのである。
第1章 文学と生
最後の文章の引用。『作家とはみずからに課した絶えず逃げてゆく臨界に自分が到達できたとはとても言えないことを。それは作家とは別のことになることでもある。・・こうしたクライティアを検討するとき、人は理解することになるのだ――文学的な意図を持つ書物を生み出すあらゆる者たちのうち、狂人たちの中にすら、みずからを作家と称することのできるものはほんのわずかしかいないことを』
第2章 ルイス・ウルスソン、あるいは手法
第3章 ルイス・キャロル
第4章 最も偉大なアイルランド映画――ベケットの「フィルム」
第5章 カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
ここに示されている四つの詩文、シェイクスピア、ランボー、カフカ、ランボーがとても良い。
第6章 ニーチェと聖パウロ ロレンスとパトモスのヨハネ
ロレンスの黙示録における生命の衰退、歪曲されたテーマを分析する際の文章がすばらしいと褒め称えていて、そのドゥルーズが説明する文章がまた好いのである。
第7章 マゾッホを再び紹介する
第8章 ホイットマン
ドゥルーズがホイットマンを記述している文章は初めて読んだ気がする。アメリカ人作家の「民衆=人民の問題」、「国家」などが諸関係として記述されている。
第9章 子供たちが語っていること
第10章 バートルビー、または決まり文句
バートルビーとはメルヴィルの作品の登場人物である。
第11章 ハイデカーの知られざる先駆者、アルフレッド・ジャリ
第12章 ニーチェによるアリアネドの神秘
テーセウスから捨てられディオニュソスのために歌うアリアネド。もはやルサンチマンの表現ではない肯定する歌、彼女が獲得した小さな耳。
第13章 ・・・と彼は吃った
吃りはドゥルーズの主要テーマである。
第14章 恥辱と栄光――T・E・ロレンス
第15章 裁きと決別するために
第16章 プラトン、ギリシア人たち
第17章 スピノザと三つの「エチカ」
エチカは三つの要素から構成されており、記号の論理、コンセプトの論理、本質の論理である。これらは影、色彩、光であり、これらはその本性の差異に拘わらず、他のもののなかに自らを延長し、ブリッジの役割を演じているとする。絶対的な速度と相対的な速度、触発=変様と情動の速度など面白そうな表現が含まれている。
ドゥルーズの恐ろしさは豊穣に溢れ出てくる言葉と概念に包まれながら、迷っていると底なし沼とも言える粘水の中に落ち込んでしまうことである。彼は明確な輪郭を持ってそこから抜け出る方法を語らないし、細い小さな救いの枝を差し出すだけである。それを掴むこともままならず、ますます粘水に絡まって、ますます逃れ出られなくなる。落ち込んだ者は、多様体なる混沌がただ粘性の属性しかを持たずに、沼地からこの粘水が広がって溢れ流れ出ていくのを、もはや生成することなしにただ流出して行くだけの不思議な粘水の溢れ広がって行く、非現実とも思われるあり得ない光景を見ているだけである。細い小さな救いの枝を太くしなければならない。それは粘水の粒子状の粒となった液体や記述された行間の隙間に、多様体なる混沌が生み出す可能性が埋められているのだろうか、太い救いの輪郭線を概念として創造できる方法を探し出すことができるのだろうか、その見出す力が、力の二乗などが我々に与えられていのだろうか。たぶんもはや奪われているかもしれない。その力そのものが、強大な力によって圧倒されてしまい、潜在的な可能性を実現すること概念を絶えず創造することができずに、危機に瀕しているのかもしれない。ただ今まで述べたことは悲観的な言い方であって、この力そのものはまだ圧倒されずに、むしろ反発し体内や頭脳内やこの世界に残っていて、生成変化して成すべきことを成し遂げようとしているかもしれないのである。
ここまで書いて感想文の終わりとするつもりが、この後に「ディアローグ」を読んでいて、ちょうど「批評と臨床」について記述した、たぶんドゥルーズの文章があったので引用して掲載しておきたい。『批評と臨床は厳密に一体化していなければならないだろう。しかし批評はひとつの作品の存立平面の描線のようなものであり、放出されあるいは捕獲された微粒子を、統合された流れを、作動している生成を引き出すひとつの篩であるのだろう。臨床の方は、その正確な意味に従えば、平面の上の諸々の線による描線、あるいはそれらの線が平面を描く仕方であるのだろう。・・』(199頁)どうも本書の「批評と臨床」を平面と線から、特に傾斜線から記述している初期のドゥルーズの考え方である。ただ、表現が変わっているだけで思想的な内容は変わっていないはずである。次の文が決定的である。『要するに、批評−臨床はひとつの作品の存立平面に達しなければならいと同時に、その作品の最大の傾斜線に沿わなければならないのである』傾斜線とは錯乱のことである。
以上
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2013年4月21日(日) |
ジョルジュ・バタイユ著 吉田裕訳「聖女たち バタイユの遺稿から」を読んで |
ジョルジュ・バタイユとは懐かしい。ずっと以前結構読んだはずが、哲学書というより思想書と言うべきなのか「エロシチズム」くらいしか記憶にない。そこで今回バタイユの遺稿に基づいて発刊されているということで、この本を読んで少しバタイユを思い出してみようと思ったのである。結論から言うと、はっきりしているのはもはやバタイユはもう私には向かないということである。この本を読んで感じたのは文章はまだ読むことができるが、その記述内容にはもう関心を向けることができない、ありきたりのものであるということである。きっと記憶に無いのはマルグリッド・デュラスについてよく言われるような、非Aの部分が彼にはない。エロスとタナトスが高揚として書かれているだけであって、それらの記述されている深さと強度がもはや特異な形式を伴って、より高度に表現されていないのではないかという思いである。
それでも読んだからには本書の内容を少し紹介したい。「聖ナル神」遺稿として、1)「エロチスムに関する逆説」の草稿、2)聖女、3)シャルロット・ダンジェルヴィルが掲載され、そして吉田裕が「淫蕩と言語と――「聖ナル神」をめぐって――」と題して評論を書いているのが本書の構成である。「エロチスムに関する逆説」では、快楽と死の間には理解しがたい絆があるとして、エロチスムは死と誕生の交差点として、いつもの通りの視点からバタイユは捕らえ記述している。「聖女」では淫売宿みたいな所での、聖女と呼ばれる色情狂なる女と私との心と言葉と行為を描いている。「シャルロット・ダンジェルヴィル」では領主の娘であるシャルロットの村の男どもや私の母との色情について、そしてシャルロットと私の関係について記述している。
本書はどうも吉田裕による「淫蕩と言語と――「聖ナル神」をめぐって――」と題した評論が主体であるように思われる。彼は「マダム・エドワルダ」と「シャルロット・ダンジェルヴィル」と「聖女」それに「母」を加えて、これらの女たちの現実のモデルも含めた関係性、更に「聖ナル神」の構想について語る。「マダム・エドワルダ」は読んだはずであるが、その内容がさっぱり浮かんでこない。たぶん神なる娼婦であろう、痙攣し立ち去ろうとする聖なる女であろうと思われる。このエドワルダを元にして、シャルロットと母と聖女との繋がりが語られてももはやあまり関心を引かないのである。そして、排泄に腐敗などを人間と自然との絡みから彼は記述している、生命としての物質の排泄と死による腐敗を隠蔽しようとすれば自然の否定そこからの切断になると彼は言うのである。
そして彼は次のように続ける。人間とは自然を拒否した動物でありこの拒否が禁止なのである。死者の埋葬と近親相姦と排泄物の忌棄が意識としての三つの禁止なのである。人間は排泄し腐敗するからには自然を完全に否定できずに、不確定な関係に置かれたまま自然は様態を変え始める。自然は隠蔽しなければならない嫌悪の対象から、逆に嫌悪され続けて禁じられたものとなったために価値の逆転が生じて、人間にとって魅惑を放つものへと変貌するのであり、欲すべきものとして呼び返されるのであるとする。そして何か未知のもの、度を失わせるものが生じて、変容した自然、様態を変えた自然は聖なるものであると吉田裕は結論つけている。この聖なるものが宗教性の発端と見ることができると彼は言う。この辺りの自然と人間の関係は私の文章だけでは理解しづらいと思われ、本書には詳細に記述しているのでそちらを読んで頂きたい。なお本書にも何か未知のもの、度を失わせるものについての具体例は記述されていず想像して読んで頂きたい。
シャルロットが告白で述べる、小便をたれ流しながら恍惚として歩く美しい女という、バタイユが生み出したもっとも美しいイメージと吉田裕が言うとき、私は同時に彼が述べている鏡張りの部屋の方に関心を引かれる。「鏡の国のアリス」の小説や、ベラスケスの描いた「宮廷の女官たち」の正面の鏡に映っている王様を思い出すからである。そしてこの絵画を文章で細密に書いたフーコーの「言葉と物」が頭をよぎるからである。確かにバタイユの小説では、鏡は鏡の内部から話者を誘惑し引き入れると同時に、鏡は虚像を映し出して実像を明らかにしないからである。つまりこの世界はいたる所に鏡を隠しているのではないかという私の思いがあるのである。この後吉田裕は生起し流動する言語について述べる。おののき身を捩じらせ震える女たちの振動は出来事が他の領域へと浸透いていく徴であり、バタイユの言語はふるえ起動し生成する言語であり荒々しい表現と直結していると指摘しているが、私もそう感じる。ただ、このバタイユの言語は荒々しく記述されているとも、もはやどこか粗々しく緻密さに欠いているとも言えるのである。即ち、単純に結論を述べるなら、バタイユはもはや粗々しく記述している生と性と聖を混同しているつかみどころの無い作家になったのではないかとの思いである。従ってこれから他のバタイユの作品を読むかは少し考えてから結論を出したい。
以上
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2013年4月14日(日) |
北川朱実著 「死んでなお生きる詩人たち」を読んで |
本書には13人の詩人がその詩の紹介と簡単な経歴とともに、病死や自らの選択した死について記述されている。どうも著者の視点は不遇に暮らしながら、とても良い詩作品残しながら、世の中にあまり知られることなく、もしくはもうすっかり忘れ去られ死んでしまった詩人たちを語ることによって、彼らを再びこの現世の人々の心の内に呼び起こしたいようである。著者の思い出や感想なども加わって、全体が200頁強であるから、一人の詩人に割り当てられた頁数は少なくて、ただどういう詩を書いて生きていたかが分かる程度である。どうもある雑誌に長年にわたり連載されていたものから選択し、補筆や修正を行って本書を作成したようである。それにしても、詩作品の紹介に重きを置いていず少ないために、返って詩集を読んでみたいと思う良い詩を書いている詩人もおり、著者の目的は達成されていると思われる。
驚いたことに私はこの13人すべての名前を知らなかったのである。まあ、たくさん出版されている詩集で私の感性に合う人は少ない、このため、この頃詩集はあまり読まないので致し方ない。ただ、この紹介された13人はそれ相応の作品の質を保ちながら、やはりその質には結構開きがあるのである。個人的な不遇や苦痛や孤独や狂気は、ただそれを言葉にして記述するだけでは詩の質は高くならない。共感し共鳴しなければならない体験や思想などの普遍化や啓示、はっと驚き、心惹かれる言葉使いのなどの鋭敏さが、詩の質を高めるには必要であるに違いない。これらの差からか私の好みからか良く分からないが、次の4名に関心を持ったので記述しておきたい。ただ前にも言った通りに、紹介されている詩が少ないので、まだ見逃している詩人が居る可能性がある。更に著者の視点が不遇と死に偏っていて、その上に少しばかり詩が加わっているような気がして気に掛かるのである。つまり、詩そのものの質から選んでいないのではないかという疑念である。ただ、たぶんそれは無いに違いないと思われる。
1)征矢泰子
この人の詩はとても好いのである。著者が言うように、何かに向かって切りかかっているのだろう、他人の届かない場所に立っているというより、傷口を開いた現実の奥底に深く潜り込みこの底を愛し嫌悪しそして抱き締めながら、同時に透き通ろうと透明になろうとしているように思われる。透明になるということはこの現実に絶望することでも拒絶することではない、この現実を受け入れて自らと運命を共にして心中し無化することである。この願いが叶わないために、手首を切って自殺したのだろう。彼女は透明になるために無化するために、ただ言葉によって詩を書くことのみによって、この傷ついた現実と格闘しながらも受け入れようとし生き続けたのである。詩を紹介できないのは残念であるが、一度読んでみたい。表現にものすごく鋭いに切れ味があるのである。
2)相良平八郎
彼の詩は平易な言葉によって書かれている。その表現も直接的であり、もう少し思いを普遍化させる必要があると思われる。ただ、この単純平明さのなかに純な気持ちが現われていて好感が持てる。直接的な言葉の中に、少しばかりエロスや幻覚を含んで高揚とさせる言葉が紡がれているところがあり、そのような箇所が関心を引いたに違いない。彼は筋肉萎縮性の病気であったらしい。
3)永塚幸司
彼の詩は短い文章の中に、物語風に書かれているところがある。敢えて言葉を区切り文章の修飾関係や主語と動詞を逆転させて述べても、柔らかくしなるような弾力性に富んでいて好感が持てるのである。この諧謔性とも言えないことはない表現が少しばかり関心を引くのである。著者が「死にふれた詩行」を指摘し引用している行は、こうした短文行だけでは直接的で、ありきたりの文章のようにみえる。彼は自殺らしい。
4)氷見敦子
彼女の詩には短い文章が光の当てられている立体的な風景を平面的に書いている、また誰もが見ているこの風景をそうっと他人事のように、第三者的に描いている詩がある。こうした詩は好いのである。ただ、自らのことを形相な露わな言葉で記述するとき、普通人の文章となんら変わりがない。もう少し言葉を紡いで欲しい、というより昇華させて欲しいと思うのである。彼女は胃がんであったらしい。
こうして読み終えたとき、この本に紹介されている詩人は古いタイプの詩人である。つまり征矢泰子を除いては、たぶん皆自分のことを書いているのである。征矢泰子も自分のことを書いているのであるが、私の見方では自分を超えた向こう側を書いている。詩は「私」が書くのであるが、この「私」がどの位置にあるかが問題なのであり、この「私」を超えて書くか、「私」を消さなければならない。それとも「私」を私自身のみを徹底的に描き切らなければならない。言葉はこの「私」を異化し向こう側に連れ去ってしまう、そうした言葉を選択する「私」、異化した「私」を書かなければならないのである。それが質の高い詩を書く近道であると思っている。
この時代にも客観的に描く詩人が結構居たはずである。戦争後の長い期間沈黙を守り、詩を書き始めた丸山豊などなど結構多くの詩人たちが居るはずである。彼らが除外されているのは、「死んでなお生きる詩人たち」ではなく「死んでなお生き続けている詩人たち」であるからに違いない。最近の詩もたぶん古いタイプの詩人たちがずうっと多いはずあるが、日本と韓国などの若い人の中に新しいタイプの詩人が生まれているのは幸いである。新しいタイプとは、私か誰かが分からない、私が失せているともただ感性が詩を描かせている、異化した私の言葉が詩を描かせているのである。それに加えて言語間の距離を遠く隔てて無関係に配置させて、秩序と無秩序とを巧妙にバランスを保ち言葉が勝手に表現するような詩なども出現しているのは良いことである。いずれにせよ、こうした詩は少数派である。ただ、私の好きな詩でもある。
以上
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2013年4月14日(日) |
題:F・A・ハイエク著「隷属への道」に関する本を読んで |
F・A・ハイエク著「隷属への道」に関して読んだ本は以下の通りである。
1)渡辺昇一著 「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」
2)松原降一郎著 「ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い」
3)仲正昌樹著 「いまこそハイエクに学べ 戦略としての思想史」
1.渡辺昇一著 「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」
本書はハイエク著「隷属への道」の各章ごとの重要な文章を抜書きして説明を加えたものである。「隷属への道」の解説であり分かりよいが、冗長な文章が多いのが難点である。ただ著者は「ハイエクを読む勉強会」を作って熱心に解説したらしい。私の理解も増進してくれて感謝しながら、気のついた何点を述べたい。
1)『自由主義の成功こそが、自由主義そのものの衰退の原因となった』(46頁)
ハイエクが日本に来たときイギリスのスラム街について質問が出て、ハイエクは「近代的な発明が生まれる以前は生まれた子供を育てていなかった」というようなことを述べていたと著者は記述し、戦前東北では間引きは行われていたが、明治以後は貧乏でも子供が育てられるようになった、ただ全員を理想的に育てられなかったようなことを記述している。しかし、この世界では近代的な発明が生まれた以後も子供は育てられず、全員を理想的に育てることのできない状態が続いているはずなのである。これは「自由」がまだ獲得されていず、「自由」を守ることの難しさを表しているというより、増殖や階層化や思想・宗教のしがらみなどによる人間社会集団に付き纏う常の問題ではないかと私は思っている。『自由主義の成功こそが、自由主義そのものの衰退の原因となった』とは私の考えに似ているが、この衰退の原因には人間社会集団に付き纏うこれらの常の問題も含まれているのであり、この社会システムの構築と衰退は、差異を伴いながら常にサイクリックに回帰し訪れて来ると思われるのである。
2) 『その神話は、意図的につくられているのだ』(83頁)
『競争の衰退と独占の増大が、歴史上どのような順番でどの国にあらわれたか』(87頁)テクノロジーの進化によって独占が生じるのは各種の政策の結果に過ぎないとハイエクは言うと著者は述べる。そして、技術が進めば寡占が進み競争が消滅していくという考えに対して、アメリカの臨時経済委員会の報告書ではそんなことはない「最適な効率を生み出す企業規模は、供給の大部分が独占的コントロールにゆだねられるという段階のはるか手前で、最適点に達する」などの報告を引用してハイエクは反論していると著者は述べる。そしてハイエクは「独占は企業間の共謀によってつくり出され、政府の公共政策によって促進されている」との一文を記述しているとのことである。それはその通りであると思うのであるが、独占を生み出すのはテクノロジーでなくとも、共謀ばかりではなくて大財閥などによる系列化による排除もあるはずである。即ち資本の集中による結果であるのだろう。この資本の集中はやはり自由な競争そのものから生まれてくるのではないだろうか。自由な競争にもフォローが必要ともハイエクは言っていたような気もするが、競争の重要性を述べるとするなら、資本の観点からの見解も必要と思われて釈然としないのである。
3)『経済的な自由とは、経済活動の自由でなければならない』(159頁)
前回の日記でも書いた部分である。「経済活動は自由でなければならない」のは当然である。「経済的な自由」を「経済的心配からの自由」と誤解してはならないというのがハイエクの主張である。本書ではソ連を示した非難にもなっているが、「経済的心配からの自由」とはどの社会体制でも起こるものであり、この経済的な心配が自由を束縛するのである。また人々の活動が社会と何らかの関係を持つようになり分業化が行われれば、ある種の断絶や束縛化が生じるのであり、また職業の問題などもあって、自由な生活が本当に成り立つとは思われない。「経済的心配」が自由を束縛するものであり、魂と体を売り渡す源泉となり得る可能性が非常に高いのである。この資本主義なる分業社会において「経済的心配」無しに仕事や諸活動の自己発現を行うことが望まれるのである。でも自由とは境界のないグレイゾーンの領域であり、錯覚や幻覚も伴って不幸でも幸福でもあり得る自由があることも確かなのである。以上の私の言い分はハイエクの主張へのむしろ言いがかりであって、素直にハイエクの主張を、「経済活動は自由でなければならない」という主旨をそのままに素直に受け入れるべきなのかもしれない。
2.松原降一郎著 「ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い」
本書は副題にあるとおりに、ケインズとハイエクの経済理論を比較検討しながら論じたものである。数式を用いた説明もあり、経済学部の学生以上の専門家向けの入門書であると思われる。特に数式を用いた説明は物理学の数式と同様に理解することは面倒であり、私はすぐに数式の理解を放棄した。ただ本書によって得られた知識もあるのである。
1)自然利子率と市場利子率
自然利子率とは貯蓄と投資とが一致する水準の利子率であり、市場利子率は貯蓄以外の資金供給や投資以外の資金需要が加わって市場に現われる実際の利子率である。ハイエクは各種の不都合が生じないように、早めに市場利子率を自然利子率に近づけるという立場を取っているそうである。一方ケインズ派はこの乖離を人為的にコントロールすることによって、経済変動を平等化するなどの措置が取れるという立場であるそうである。難しい問題でもある。
2)直角三角形を用いた迂回生産の図解
ハイエクが黒板に描いていたとする三角形の意味が本書によっておおよそ分かったのである。最終的に生産される消費財産出量(横軸:直角三角形の底辺)は時間(縦軸)の経緯に従って、中間生産物(直角三角形の斜辺)の総量が生産されているとする。つまり時間の流れによる経済活動は、生産手段を付け加えながらこうした中間生産物から消費財を産出する流れを取るのであり、中間生産物と消費財の産出量の比が迂回生産の長さにあたるのである。
3)自由の定義
ハイエクの自由論がカント的な義務論なのか、手段的な価値しか認めない帰結主義者なのかどうか論争になったことがあるらしいが、ハイエクは帰結主義だとすると「分類の再編」や「慣行の普及」は市場がなすことであり、帰結が予想可能である帰結主義者とは異なるタイプの帰結主義者であるとのことである。
4)複雑現象の理論
複雑現象とは構造体を特徴できるパターンを再現できる必須の変数の多数のものであり、ハイエクは言語や法といった社会現象も一括して「複雑現象」を呼んだとの事である。なお「複雑現象」の対になるのは「単純現象」である。主流派経済学は経済を「単純現象」として取り扱ったのであり、変数のすべての「時と所」について知識を得ることはできないとする。物理学なども「複雑現象」を取り扱っているが、それまでの仮説をうまく組み合わせたに過ぎないとする。
3.仲正昌樹著 「いまこそハイエクに学べ 戦略としての思想史」
本書は哲学者ヒュームやロックなども加えて論じており、また新しい用語が加わっていて面白い。「自然秩序」と「人為的秩序」と異なった人間の行った行為の結果ではあるが設計の結果とは言えない「自生的な秩序」や人々が自分の知らない知識を活用することによって自生的に形成される市場秩序を「カララクシー」と呼んでいる。「配分的正義」の問題も面白い。適正価格や適正報酬などが過去論じられていたが、この配分的正義そのものの論議が「大きな社会」にはそぐわない議論であるとする。また、「ルール」と「私の心」の問題も面白い。「ルール」が「心」の発達を促すのであるとする。なお、本書の内容の説明は省略する。
本書はハイエクの思想を自らの思想も加えて解釈し、思想的に語った本であり、ハイエクの思想を知りたければ、ハイエクの「隷従への道」と本書との両方を読むのが一番良いと思われる。すぐにハイエクを知りたければ、渡辺昇一著 「自由をいかに守るか ハイエクを読み直す」が良く、また経済理論も加えて知りたければ、松原降一郎著 「ケインズとハイエク 貨幣と市場への問い」が良いと思われる。
今までに三冊あげたがまだ結構ハイエクに関する著作物が発行されている。いろいろ手にとって見るのが良いと思われる。ハイエクを思想的に単純化して述べると、経済を含めた社会体制の仕組みのからくりと人間の在りよう特に自由についての仕組みのからくりを、経済を含めた社会体制の仕組みのからくりの方から研究し、人間の在りようを奪う社会体制の仕組みのからくりを告発し警鐘を鳴らし続けた思想家であると私には思われるのである。
以上
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2013年4月7日(日) |
題:F・A・ハイエク著 西山千明訳 「隷属への道」を読んで |
この本はたぶん良い本である。文章は反語や修飾語が長すぎて少し読みにくいが、慣れるとハイエクが言わんとしていることはすぐに分かる。そしてこの本は経済書でも哲学書でもない、社会科学一般か、ハイエクの啓蒙書もしくは警告書である。経験と慧眼に基づき秩序だって論理的に述べられている。この本に記述されている全15章はカオス的な事象を整理し重大な問題を提起して、警鐘を打ち鳴らしているのである。この警鐘は世界に人間が住む限りに発生する問題であり、哲学や社会科学をも巻き込んで解かなければならない問題でもある。ただハイエクが意図する以上に問題の根は深くまた広がっていて、もはや解くことはできないかもしれない。解いたとしても現在の世界はあまりにも警告された道の深くに突き進んでいて、後戻りのしようがないのかもしれない。むしろこう言うのが正しいのかもしれない、人間が集団で生の営みを行っている限り、いくら改革し対応策を講じようとも逃れられず常に付き纏う問題であり、解決策はなくてただ少しばかり緩和する施策のみが実施できるのであり、結局同じ道を進むことになるのだと。
本書を読むに当たって、初めて文章に線を引いて置いた。その文章を引用しながらハイエクの思想を辿り感想文を記述することもできるが、今回はそうした手法は取らずに、簡単にハイエクの思想を述べて、その思想についての私なりの考えを示したい。ただ私の考えは、ワープロを打ちながら考えているのであって、一度頭の中を整理してから述べるのが妥当であって、まあ思いつき程度のものでしかない。それに経済的な用語などに理解できないところがあって、調べることはせずに読み流したためである。本書のキーワードを浮かぶまま並べると「国家」、「資本」、「法の支配」、「社会主義」、「自由主義」、「全体主義」、「民主主義」、「計画経済」、「ファッシズム」、「個人」、「私有財産」、「価格」、「集産主義」、「自由」、「権利」、「競争」、「技術」、「進化」、「道徳」、「連邦国家」などである。これらの単語を連ねるとハイエクの言わんとすることがイメージできるはずである。なお、「集産主義」とはあらゆるタイプの「計画経済」(当然社会主義を含む)を含む用語である。
たぶん、一番良くハイエクの思想を表している言葉は、第七章の冒頭に引用されているヒレア・ベロックの言葉『真の生産に対する統制は、人間生活それ自体に対する統制である』(111頁)であろう。ハイエクの思想を端的に表したハイエク自身の文章は『独裁が必ず自由を破滅させるということではなく、むしろ、独裁は強制と理想の押しつけに最も有効であり、大規模な中央計画が可能になるために欠かせないがゆえに、計画化は独裁へとむかっていくものだということである。・・民主主義的手続きによって与えられているかぎり、権力は恣意的なものにはなりえない、という信念は、どんな正統な根拠も持っていない』(88頁)ということである。こうしてハイエクは「私有財産」が自由の源であり、「価格」は統制してはならず、「競争」や「法の支配」が自由を守るものであるとする。この辺の詳細は本書を読んでもらいたい。
私の単純な思いを簡単に述べると、社会主義社会ではないまた民主主義社会の「計画経済」でなくとも、個人の「自由」な「競争」と「権利」や統制されない「価格」が個人を社会からの脱落者や敗者とさせる、また寡占を進行させて巨大な勝者を生み出していることである。なお、日本では独禁法により巨大な勝者が生み出されえず適切な競争が行われるよう配慮されているはずであるが、抜け道はあるはずである。こうした状況が積み重なることによって、物を言わない夥しい群集を産出され、この無言の群集の集合体の無言の選択によってではなく、無言のままに放置させておくが故に結果的には恣意的な権力が生み出されるのではないかという懸念である。この群集に国家が対応することで法の支配のタガが緩んで権力を増強させ、彼らへの生への抑制が強まっていくのではないかという恐れである。そしてこの抑制は生そのものへの否定と繋がっていくはずなのである。確かハイエクも物言わぬ民主主義社会の大衆に触れ記述していたと思う。ただ彼は「競争」や「統制されない価格」とは価値あるものとして守らなければならないものとしてみなしていた。私が言いたいことはこれらも恣意的な権力を生み出し得るものであるという思いである。即ち、「法の支配」のように普段にフォローし手入れをしていなければならないものなのである。もしかするとハイエクも「競争」や「統制されない価格」のフォローの必要性を論じていたのかもしれないが、どうしても思い出せないのである。
ただ次のことは正しい。ハイエクが『経済的自由なしにどんな自由もない』と言うとき、この経済の自由とは経済活動の自由であって、「経済的心配からの自由」では決してない。「経済的心配からの自由」とは選択の自由を奪うものとしてハイエクは拒否している。ただ、果たして「経済的心配」をしなければならないものが国家に「隷従への道」を歩もうとするのを阻止できるのであろうか、そして「経済活動の自由」も結局は「隷従への道」を歩ませるものなのでないだろうか。私の思いとはこうした単純なものなのであり、ハイエクが絶対的な価値ある守るべきものとして「個人の自由」などを取り上げるとき、この「個人の自由」も「競争」や「統制されない価格」によって、もはや束縛や選択の余地を狭められて、望まぬ方向に進まされているのではないかという思いである。望むべき状態が望まれざる状況を生み出す、即ち「隷従への道」へと進もうとするある種の逆転された関係のジレンマである。私は悲観的で小さなことにこだわりすぎているのだろうか、それとも社会主義者や全体主義者の入り口に立っているのだろうか、よく分からないのである。
いずれにせよハイエクの主張は一貫しているのであるが、本書はさまざまに議論されるべき問題を含んでいるのであり、各種の問題が複雑に絡んでいて難しいのである。たぶんまったく違った哲学的な観点などから考慮しなければならないかもしれない。人間が個体で感情を持つかぎり、解決策などない本質的な人間集団に付き纏う問題であるのかもしれない。そしてそれはハイエクの述べる「個人の自由」を最大限に発揮できるように社会的な骨組み組織体系などは常にフォローを必要としているが、この社会では常になぜかフォローなど効かずに「個人の自由」は破壊されていくものであり、「隷従への道」を進んでいくような気がして仕方がないのである。望むべき状態が望まれざる状況を生み出す、ある種の逆転された関係のジレンマであるという以上に、この社会や人間に染み付き内蔵された諸関係・諸性質なのであるという思いに落ち込んでいくのである。哲学者などがどう述べているかも調べてみたいが、時間のかかる壮大なテーマでもある。いずれにせよ、ハイエクが書き残したテーマはきっと人間の自由に社会とその組織体制がどう関与するかの重要なテーマであろうと私は思うのである。
以上
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2013年3月31日(日) |
題:ニコラス・ワプショット著 久保恵美子訳 「ケインズかハイエクか 資本主義を動かした世紀の対決」を読んで |
久しぶりに面白い本を読んだのである。本書は文学作品ではない、資本主義の経済理論に関してケインズとハイエクが長年に亘って対決する推理小説もどきのわくわくする展開が待ち構えている、事実に基づいた近代の経済的歴史小説である。無論、彼らの仲間を含めた活動や、ケインズとハイエクの著書を含めた経済理論も紹介されていて、経済理論の入門書的な位置づけも持っている。ハイエクは初めて知ったのであるが、彼の著書を読む必要があると思っている。つまりドゥルーズの著書では概念化されたもしくは抽象化され明示されていない、資本主義社会の経済的側面からの理論が、その社会的構造や倫理観も含めてハイエクの著書「隷従への道」や「自由の条件」、「法と立法と自由」には示されていると思うからである。ただ、あまり期待してはいけないと思う、なぜならどうもハイエクは資本主義的枠組みに絡んで経済や人間を論じていて、人間そのものの固有の本性については、例えばまだ読んでいないがヒュームの「人間本性論」にて記述する観念と知識の因果律に基づいた、人間を土台にした記述が不足している気がするからである。でも、やはり重要な著書であり、簡単に本書の記述されている順番に従って気が付いた点を引用して感想文としたい。なお『 』は引用文である。本書を理解するために引用するのであって、お許し頂きたい。
本書は全部で16章からなる。ケインズとハイエクの論争、彼らの浮き沈みを1929年の世界恐慌などの出来事を通じた時間的経過に従って記述しているのである。本当に勝ったのはだれなのだろうか。今でも弟子たちによって彼らの論争は続いているのではないだろうか。人間を幸福に導く経済政治構造体としての世界はどうあるべきなのだろうか。現在にも通じているはずなのである。本書に示されているこの文章が彼らの立場の違いを明確に示している。『ケインズが、人間は自分の運命を管理する役割を与えられていると考えていたのに対し、ハイエクはある程度不本意ながらも、人間は他のあらゆる自然の法則に従わざるを得ないと同様に、経済の自然な法則にも従って生きることを運命づけられていると考えていた。・・ケインズは権力ある立場の人々が正しい決定を下しさえすれば、人生は必ずしも本来のように厳しいものでなくなるという楽観的な見方を選択した。ハイエクは人間の努力には絶対的な限界が定められており、自然の法則を変えようとする試みは、たとえ善意からであっても予想外の結果に終わるのが関の山であるとの悲観的立場を支持した』(本書60頁)人間は自分の運命を管理できるのか、それともそれは無理であり予想外の結果をもたらすのか、私は後者のハイエクの立場を支持する。
こうした両者の立場は次のように展開する。『ハイエクは経済全体とは捉えどころのない対象であり、市場での個人間の相互作用を考えることでのみ理解できる、ただしその場合も部分的にしか理解できないのだと確信していた。いっぽうのケインズは「一般理論」の出版で明らかになる・・経済を理解する最善の方法は全体像を把握すること、つまり供給、需要、金利といった経済の各要素の集合体を上から見下してみることだと考えていた』(144頁)つまり「ミクロ経済学」と「マクロ経済学」という考え方の違いである。ドゥルーズの「分子状」と「モル状」の考え方に通じるものがある。こうしてケインズの記述した「一般理論」の評価は高まり、米国の大恐慌における公共事業投資へと導くのである。ただ本書の次の記述は面白い。『「何かをしなければならない」、「有権者は何かが実行されることを期待している」、「何かをしようとしていると思われるほうが、何もしないと糾弾されるよりましである」ということであった。・・「人々が失業しているために〔ルーズヴェルトは〕大規模な雇用を試み、その費用をできるかぎり課税でまかなおうとしていた。赤字が生じても、それは残念なことにすぎず、後で何とかすればよいものだった」』(179頁)とは、究極の策としてただ何かをしただけなのである。
ハイエクはケインズの「一般理論」に論理的な欠陥を見出している。ただ彼はすぐには反論しなかった。これにつてハイオクの言い分を本書の著者は何点か記載している。つまりはマクロ経済への反論の難しさであろう。そして、ルーズヴェルトの公共事業政策も短期的には失敗に終わるのである。この時期ハイオクは新しい概念に開眼する。即ち『全体主義的な支配者・・「計画者」でも、自分たちが物事を一番理解しているとの前提や、他者の考えを承知しているとの思想のもとに経済に介入すると、彼らが一人ひとりの利益のために働いているのだといくら主張しても、必然的に個人の願いはかなわなくなり、彼の幸福や自由も奪われてしまう』(208頁)のである。ただ、この時期ハイオクはケインズの評価の高まりとは反対に、ケインズと同様な経済の一般理論を書こうとして行き詰まっていたのである。
こうした経緯を辿りながらハイオクは「隷従への道」を出版するのである。『ハイエクは第二次世界大戦が連合国側の勝利に終われば、戦勝国は「戦時下の経済管理はより豊かで公正な戦後社会の成立を促す」と結論するのではないかと危惧していた。そして、そうした政策は全体主義が生まれる条件を整え、歴史がまた繰り返されるのではないかと警告した』(224頁)のである。ただ「隷従への道」は爆発的に売れたにも拘わらず、消極的などと相当批判を浴びることになるが、経済計画の正当性や有用性に異議を唱える主要著作として認められていくのである。ただ、もはやケインズ主義への転向は広まっていて、ハイエクなどが唱える正統派経済学を支持した人々は孤独感を覚え、戦後ハイエクはスイスのペルラン山の山頂(サミット)でサミットを開催するのである。いわば雌伏の時に取りえた唯一の行動である。
この後、ハイエクの離婚問題もありハイエクはフリードマンなどの支援を受けながらも、高い評価は受けていない。そしてケインズ理論によって米国は三十年以上にわたって繁栄するのである。フリードマンは『「ケインズが残したものは実際的な経済学にとっては大きなプラスだった」ものの、政治にとっては大きなマイナスだったと考えた。・・フリードマンは、政府介入から生じると考えられる結果を悲観するハイエクに同調したのである』(285頁)そしてレーガンやサッチャーによって、特にサッチャーはハイエク派の理論の採用、つまり公共部門の規模の縮小、貨幣供給量の削減、減税、経済活動への規制緩和などによって断固たる処置を施し成功を収めることによって、ハイエクの時代が到来するのである。だがその後も国家にとっての最大の災いはインフレとするハイエクの考え方に同調する「淡水学派」とケインズように失業をより深刻な問題と捕らえる「海水学派」との間で論争は続くのである。
なお、『ハイエクは国家権力を最小限の範囲まで縮小し、経済の構想要素を最後のひとつまで、たとえば貨幣の発行すら民間企業にまかせるべきと考えるようになった』(328頁)と極端な考えを持つに到ったらしい。いずれにせよ、ケインズとハイエクのどちらが勝利したのか。本書の最終章にはそれらしきことが記述されている。そして今なおこの世界の経済的状況において論争は続いているのだろう。経済理論としてはケインズが、国家の役割への警鐘としてはハイエクが勝利したのだろうか。マルクスは自らの生活を捨てても労働者を人間を救おうとして必死になって思想を打ち立てたが、その思想は労働者も人間も救うものではなかった。分子状のものがモル状へと集合すると様態を変化させ把握を難しくするというより、最初に述べたようにミクロの人間の取り得る本性の因果律が、発現できる因果律そのものなのであり、これは理性の源なる情念からの発現でもあり、正統に認識しなければならないのである。いずれにせよ、以前に読んだ経済書では「国家は破綻する」のであり、この前提に従って破綻した国家が「隷従への道」へ進まなければならないようにしなければならない。ただそうしてもどうしても「隷従への道」へ進んでいく気がして仕方がない。後四、五冊でドゥルーズの本を殆ど読み終えるので、これにハイオクの著書に他の必要な哲学者の著作物も含めて読み、改めて「隷従への道」について、自由と権利の剥奪について考えてみたいと思っているがいつのことになるかは分からない。
以上
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2013年3月24日(日) |
元村有紀子著 「気になる科学」を読んで |
何か科学部の新聞記者が書いた本だということで読んでみたら、面白ければよかったのであるが、普通のおばさんの発想で、このおばさんは、おばさんを抜け出すことができていないために、おばさんのまましたり顔で書いているのか、おばさんをさらけ出していて、何も私が恥ずかしがることはないのに赤面してしまったのは、このおばさんのおばさん言葉に発想の根源が詰まっている、つまりこのおばさんの脳みそがそこらのおばさんのままに生きていて、おばさんの幾つかの細胞のおばさんが、恥かしいのかどうしても赤裸に言葉を脱いで科学を露わにしないためであって、決しておばさんが科学の衣装をすっぱりと脱ぎ捨て、裸体をくねらせながら卑猥に誰へもその本来のおばさんの非科学的な姿態を見せつけようとしたからではない。つまり偽りの科学の衣装を体に纏わせたままおばさんの本をすぐさま閉じたということは、決して露わに明らかにしようとしないおばさんの科学への非科学的な愛着を尊重した懸命な健全なる判断だったのである。ただ、おばさんの非科学的な姿態も見てみたかったと後悔もしている。
以上
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2013年3月19日(火) |
谷川健一著 「蛇 不死と再生の民俗」を読んで |
読む前は、民話を書いているのかなと思っていたが、実際は民話を丹念に実施検分し、記紀や風土記などとの照合を行っている著者のそれまでの研究成果を含んだ本である。少し専門的な記述もありながら、軽くエッセイ風に流した部分もあり、読むことはできるのである。ただ記紀を調べるには良い本であるに違いないが、民話が主ベースとなっていない点が私には物足りなかった。イザナギがイザナミに追いかけられミソギをした話が面白い。彼らも元は蛇であったあったらしい。それにしても蛇はやはり不死と再生のシンボルに成り得るのである。もし民話を読むとしたら、確か柳田国男の遠野物語を読まなくてはいけないだろう。
以上
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2013年3月17日(日) |
アントニオ・ネグリ マイケル・ハート著 水島一憲監訳 幾島幸子 古賀祥子訳「コモンウェルス(上) <帝国を超える革命論>」を読んで |
ドゥルーズとガタリが記述した「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」の、第三章「未開人 野蛮人 文明人(承前)」には第九節「文明的機械論」、第十節「資本主義の象徴」など、資本主義の領土化と脱領土化、コードと公理化や資本と貨幣の関係などが結構具体的に記述されていたはずである。ただ、ドゥルーズであるが故に、ある種の抽象化を避けられずに、もっと具体的な資本主義と国家や資本に生産する人間について、それの関係を書いている本がないかと常々思っていて、本書はそうした私の狙いに入る本であると思われ読んだのである。なおコモンウェルスとは<共>の富のことである。
だが、特に第三部「資本(と<共>的な富をめぐる闘い)は興味深かったが、また哲学的な範疇に入ると思われるが、全体的には論理の流れが少し荒くて、文章がぱさぱさし乾いていて納得でき得る内容ではなかったのである。特に、ドゥルーズの思考を、狼の群とか家族の腐敗とかを拝借しているとも思われるが、フーコーの思想を主に取り上げていて、ドゥルーズは影が薄い。まあ、哲学的な思索とは誰かが誰かと結びついていて、結局自分の都合の良い人を選んで記述すればよいのであり、別にどうと言うべきことではない。こうした選別する思惑などとは裏腹な戦略を取り、著者は本書の第三部の最後「マルチチュードの好機」では、マルチチュードに対する反対意見を詳しく紹介してうまく利用しながら反論していくのである。ただ反論内容は、特に愛と悪に関する著者の論理はとうてい納得できるものではない。どうも、この本を読み始めた最初からこのマルチチュードに熱く期待する著者の思想に疑念を感じていたのである。どこか新しさを装いながら、一昔前の革命理論を読んでいるような気がしたのである。当然、私はマルチチュードに対する反対意見に賛成するのであって、著者のマルチチュードに対する甘く切なく愛を持って期待する心がどこから生じるのであるか、ただそれだけに関心があるのである。マルチチュードはある一定の条件でしか作動せずに、作動すればそれまでの民衆なのである。一定の条件とは資本主義が高度に発達した国々には、もはやこのようなマルチチュードは発生するとは考えられない、きっとその蜂起する活力が失われているか、マルチチュードそのものが居ないためであろう。まだ後進国の宗教などに絡んだ国々や体制の異なった国々でのみ彼らは存在し、結集されてその力が発揮されると思われる。もしくはネットワーク上の権力であれば姿は現わさずに、大勢ではない小数に限定された権力であるに違いない存在なのである。
ここまで書いて本書の内容の重要な思想である「マルチチュード」と「生政治」について簡単に説明したい。フリー百科事典ウィキペデイアでは『マルチチュード(Multitude)とは、マキャベリによって最初に使用され、その後スピノザが用いた政治概念である。最近では、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの帝国論を契機として再び注目を集めている。マルィテュード、ムルチチュードとも。ラテン語 では“多数”“民衆”などの意味を持つ概念である。 「多数性」「多性」「群衆性」などの訳語もあてられる。』
『ネグリ=ハートのマルチチュード論では、マルチチュードとは、共著『帝国』および『マルチチュード』において地球規模による民主主義を実現する可能性として、国境を越えるネットワーク上の権力として提唱している概念のことである。ネグリはマルチチュードを、近代以降に登場した超大国の覇権によるグローバルな世界秩序である帝国主義に対抗し、これからの世界を変革し得る存在としてそれぞれの国家の国民や企業を含む超国家的なネットワーク上の権力として位置付けている。ネグリはマルチチュードについて、いわゆる19世紀以降の社会主義に代表される革命に見られた多様性と差異性を無視したこれまでのありかたとは異なり、統合されたひとつの勢力でありながら多様性を失わない、かつ同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在としている』とのことである。ここで記述されている「超国家的なネットワーク上の権力」とは何を指すのであろうか。「多様性を失わない、同一性と差異性の矛盾を問わぬ存在」とは何を示しているのだろうか。確かにネットワーク上にはそうした特性やら性質・属性を持つ存在が存在出来ないこともない、いや存在できるのである。なお、この百科事典ウィキペデイアの記述は書き掛けである。
「生政治」については本書の本文の注から引用する。『ネグりとハートは、かつてフーコーによって提示された「生権力」の概念が社会の上からのみ考えられたものとして批判し、下から組織される生権力の概念、すなわちマルチチュード自身が生を支配するような権力を定式化するために、「生政治」という概念を独自の仕方で編み出した。生政治が生の諸形態全体のめぐるマルチチュードの闘争を意味する以上、そこでは従来のような政治・経済・文化といったカテゴリーの間の分割はなくなる。・・あらゆる社会的生の政治的・経済的・文化的な全側面にかかわり、それらを生み出すような生産モデルのことを「生政治的生産」と呼んでいる。・・政治的生産においては、情報・知識・言語・アイディア・イメージ・コード・情動・生の諸関係など、社会的生産の基盤および産物として分かち合える<共>が生み出される』きっと<共>とは共同体に起源を持つ思想に違いない。何人かの共同体の理論を見てきたが、分かち合える<共>が生み出されるとは、現在ではもはやある種の幻想のような気もする。社会的生産の諸結果だとするなら、著者が言うように『<共>の制度化の政治は・・私的でも公的でもなく、資本主義でも社会主義でもないものに向けて、新たな政治的空間を切り拓くものである』のであり得るのだろうか。この新しい空間に到るには、社会的生産の諸結果があるとしても、見えぬものが邪魔をして、決してそれを乗り超えたどり着けぬはずなのである。なぜなら、新しいものとは形態のない亡霊にように見えぬものそれ自身であって、邪魔をしているのではなくて決して存在しない、存在できないものだからである。著者の言う新しいものとはどうしても形態を持っていずに、決して現れることのできないものなのである。
ここまで書いたが、本書に何が書いていたのか忘れてしまったので、ぱらぱらと本を面繰りながらごく簡単に紹介したい。第一部 共和制(と貧者のマルチチュード)では、所有制について考慮している。マルチチュードは所有財産によって規定されるは共和制とは異なり、貧困によって特徴づけられるが、主体性と言う観点から考慮すべきであると著者は主張する。社会的階級や財産とは関係ない社会的なすべての人びと、きわめて幅広い多様性をなす集団であり、共和制への現実的な脅威でもあるのである。マルチチュードは包括的で開かれた社会的身体であり、無限の拡がりと異なる社会階層や集団が混在している原初の状態を特徴としていると著者は述べる。賃金労働者も含めて貧者のマルチチュードが貧困と闘い、共同の富を創出するのに必要なこの共同の力能は民主主義の可能性を支える主要な力になるのである。
第二部 近代性(と別の近代性の風景)では、反近代性の力は近代性の内部にあると著者は主張する。近代性を権力関係と規定するならば、支配の再生産であり、近代性の推進や完成に過ぎなくて、この内部にあるあまたの力が近代性に抵抗する反近代的な力が、抵抗が、生政治的な闘争へと切り拓いていくものであり基盤なのである。なお、反近代性には反動的な反近代性の権力概念と被自由者の自由を獲得する解放的な近代性があり区別が必要であると言う。「別の近代性」として、抵抗の諸力を反近代性より明瞭な形で自律的領域へと差し向けようとする。この「別の近代性」とは反近代性の伝統から生まれてくるものであり、近代性から決定的な切断を指し示すために著者は用いているようだ。こうして「別の近代性」は「多彩な社会」としての「マルチチュード形態」を生み出し、マルチチュードは政治組織化の一形態となり、闘う社会特異性の多数多様性になると著者は強調するのである。
第三部 資本(と<共>的な富をめぐる闘い)では、今日の資本主義的価値増殖過程における非物質的生産として象徴的・美的・社会的価値、即ちイメージ、情報、知識、情動、コード、社会関係などが重要さを増し、非物質的財に従属する度合いが増大していると著者は指摘する。「頭」と「心」の労働と呼ばれるものであり、その生産活動は身体的かつ知的なものなのである。これは言わば、現在の資本主義生産は「人間生成モデル」に向かっているのであり、生産の客体=対象が、社会関係や生の形態などによって規定された主体であることが特徴なのであるとする。更に「労働の女性化」として労働する女性の増加、「労働者の移住」の三つの動向の重要性を著者は指摘する。これは労働と生活、生産と再生産の境界が曖昧になっていくことでもある。そして生産者と生産物はともに主体なのであり、人間が生産し人間が生産されるのであるとする。従って資本主義的蓄積は生産の外部にあり、資本は<共>の収奪=収用として搾取し剰余価値を生み出すのであるとする。
こうなると階級闘争とは脱出の形、資本から身を引き離すことを意味する。脱出とは生政治的労働の拒否ではなく、資本がその生産能力にかける束縛を拒否することなのである。<共>のマイナスになる形態、これを著者は腐敗と呼んでいるが、この腐敗と闘うことが重要であり、プラスをもたらす<共>の形態を最大化しなければならないと主張するのである。腐敗した形で見られる社会制度は、家族、企業、ネーション〔=国民/民族〕の三つであり、これらは<共>を動員しアクセスを提供するが、<共>を制限し、歪め損ないもするのである。マルチチュードこそが脱出と自由への生成を政治的に組織できる十全なものとして著者は提示するのである。この考え方に対してマルチチュードは社会的連帯性と攻撃性の両方が備わっている、内的な政治的基準が欠けているなどの自らへの批判を著者は紹介し、反駁していくのである。自然と文化と社会に対して同時に作用を及ぼす<共>の形態の促進や変貌、自らを制作するマルチチュード、絶え間なく他者に生成変化し、中断することのない集合的な自己変容を遂げるのはマルチチュード自身であると著者は主張する。
最後に「特異性論T――愛に取り憑かれて」では著者は愛による<共>の生産について、愛の腐敗について語る。「間奏曲――悪と闘う力」では人間の本性を「善か悪か」という不毛性について述べる。「善か悪か」は偶発的な評価なのである。こうして著者は愛における<共>の力能などを通じて愛の政治学について語るのである。ここまで本書の記述内容を紹介したが、感想文の最後として、第三部資本(と<共>的な富をめぐる闘い)は前述したように面白い考え方ではあると思うが、本書は全体的には論理が粗すぎて、この社会のシステム構造を捉え切れていないと私には思われる。また細かく言わないが、主体についての思想も納得できない。ただ<共>としての財産は今日の富の一部であるはずであり、これを元に人間と社会と資本についてもっと鮮明な論理で切り拓いて欲しいのである。決してマルチチュードではない何者かが居るはずなのである。その何者とは何か、本当に居るのか、それが本物のマルチチュードであるのか、私にも分からないのである。
以上
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2013年3月10日(日) |
川合康三著 「杜甫」を読んで |
この本は杜甫の生涯をたどって描き、官僚を志願し何とか獲得してはたちまちに捨て、旅にて暮らすその先々で作成した杜甫の漢詩を多数紹介しながら、杜甫の心境を少しばかり推し量って杜甫を浮き彫りにしようとする、明確な輪郭線を描いていて素人にも分かりやすい好い本である。それより、改めて感じたのであるが、杜甫の漢詩がすばらしいのである。とても好いのである。
李白と同年代に生き、知り合いであったとは知らなかった。杜甫は712〜770年である。日本で言えば奈良・平安時代だろうか。そんなに昔とは思えないほど、杜甫の漢詩は現代にも通じるのである。この一年の間に、方丈記や伊勢物語などを斜め読みする機会があったが、漢詩は古文よりもどうも難しいのである。韻など分かるはずもないが、書き下し文でも古文より難しくて、訳文を読み理解してから書き下し文を読むとなるほどと思い、その内容のすばらしさに感嘆するのである。たぶん漢字表現そのものがもはや外国語であるからだろう、よほど精通しなければ理解はできないに違いない。
漢詩と古文の比較などやぼったいことは止めよう、どちらも好いものは良いのである。ここで、本書を読んで一番気に入った詩を引用して、感想文はお終いにしたい。著者もこのような詩を書ける杜甫の感性に羨望しているが、私も羨望している。「秦州雑詩二十首」のなかに散りばめられた自然、風景の描写の一部分である。
水落魚龍夜 水は落つ 魚龍の夜
山空鳥鼠秋 山は空し 鳥鼠の秋(その一)
月明垂葉露 月は葉に垂る露明らかに
雲逐度渓風 雲は渓を度る風を逐う(その二)
以上
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2013年3月6日(水) |
吉村武彦著 「女帝の古代日本」を読んで |
どうも私には難しくてよく分からなかったのである。表題に書いているように、飛鳥・奈良時代に六人、八代もの女帝が続けて誕生したその謎が解かれ示されていると思ったが、その理由はさまざまであり、それぞれの女帝に関して、系統図を示しながら説明しているが、あまりにも登場人物と複雑な人間関係に、単純明快な論理しか理解できない私のこの理解の能力をはるかにこの本の内容は超えているのである。律令制度との絡みも複雑であり、専門化が読んで検討するには良い材料となるであろう。むしろ、権力、天皇という地位を血みどろの戦いによって得てきたことが強い印象に残っている。それよりも母が異なれば兄妹でも婚姻が可能であるとのことであって、むしろこの近親婚を知らなかった故にこの事実への疑念と同時に、その影響、特に血族で固められた一族の末裔など、気に掛かったものである。
推古天皇と持統天皇の二人が記紀の最後の天皇であったとのこと、即ち女帝で終わっていることの意味を問うているがその答えは定かではない。なお推古とは「いにしえを推す」のであり、持統とは「皇統を維持する」ことであって、この過去と未来へのベクトルの向きが逆を向いていることの意味は本当に何なんだろうか。女帝が登場したのには、どうも能力ある男性の皇位継承者が居ずに、政治的資質と統治能力を備えた皇后経験者から選ばざるを得なかったとのことである。それに氏族などの実力者の賛同が得やすい状況があったらしい。例えば、どちらとも男性が天皇の地位を受け継げば、また争いが起きるために即位しなかったとか、そういう個別の事情があって、一般的な女性天皇の誕生の背景などやはりさまざまであって、規則性など見出せないのであろう。つまり、本書は古代の知識を仕入れるための本であって、読み物としての面白みはない。なお、天皇が男系のみになったのは明治以降であるらしいのである。
以上
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2013年2月27日(水) |
ロブ=グリエ著 望月芳郎訳「覗く人」を読んで |
以前からヌーヴォロマンを読み返してみたいと思って、まずロブ=グリエに期待していたが、残念ながらこの「覗く人」は1/3程度読んで挫折してしまった。まあいろいろあるのであろうが、ずうっと遠い昔に読んだロブ=グリエの作品が頭の中にこびり付いていないことは、記憶にないことは、元々この作家の作品に対しての評価は普通であり、作品の印象は薄い以上に殆ど無かったのかもしれない。
本書を読んで感じたのは「視線の文学」なるものが普通の文学とちょいと毛色を異ならせて、情緒や感情を相当排した小説であるという単にそれだけのことだけであるという結論である。無論感情を排したからといって感情は残っているのであり、視線は重きをなすとも誰の視線か分からずに、作者なのか主人公なのか誰のものとの知りえない視線に映った風景に、会話が、誰の知れないとも思われる動作に少しばかりの情緒が含んで、無味乾燥に文章が続くのである、そうとしか読み取れないつまらない小説なのである。
確かデェラスの短い作品であると思うが「廊下に座っている男」があったと記憶しているが、廊下に座って自慰行為をしている男を眺めている女なのか、作者なのか、一貫して見続けて近づいていく内容であったと思うが、そういう「視線の文学」を期待していたのが間違いであったのである。ベケットの小作品にそういうものがあったかもしれない。ただベケットの場合声の代わりに、声、声の響きだったかもしれない、ベッケトの場合視線など瞑想の内に消えて、限りない声の響きが反語と整合性を欠いて不合理に常に問いかける声がその主体性の欠如が主テーマとなっているのである。これからヌーヴォロマンを読むとしたら誰がよいのか、ナタリー・サロートなど、もしくはダリの作品なども記憶にないが読んでみようか、まだまだたくさんの作家がいたはずであるが、素敵な作家を探し出すのはもはや無理なのだろうか。決してそうではないはずであり、期待できるはずである。本感想文は珍しく本の感想を書かずに、昔の記憶をただ辿ってしまったのである。
以上
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2013年2月24日(日) |
ルイ・アラゴン著 生田耕作訳「イレーヌ」を読んで |
「小説のシュルレアリズム」と本書の表紙に書かれているからにはそうなのだろう。原題は「イレーヌのおまんこ」であったが、再版のときに「イレーヌ」になったらしい。作者は諸般の検証によってルイ・アラゴンと改められたとのことである。内容は挿絵を除いてまったくエロくなくて、エロい場面の描写はなくて「小説のシュルレアリズム」にふさわしい格調ある文章である。先に読んだマンデリシュタームとは異なって、ダイナミックに情景と感性とを交差させた文章である。イレーヌとは主人公の孫であり、小説の最初では主人公が売春宿を訪れたときのことなどが描かれているが、もはや座りっきりになった主人公が、娘の子供に欲情させられるのである。なぜか、座って眺めている場面から、ロッキングチェアに座り揺らしているマーフィーを思い出した。無論マーフィーは瞑想して眺めているのであって、このような孫の行為を眺めることはない、深い眠りの中のような瞑想の中にいて、もうきっと何も眺めていないのである。でも主人公の、即ちルイ・アラゴンの思いは、ベケットほど深くはなくともシュルレアリズム的な感性と独白に幻覚的な作用が加わっていて、それなりに肉体を含んだ精神的な活動の眺める意図が伝わってくるのである。
訳者の生田耕作による「訳者後書き」によると、ブルドンの「ナジャ」との関連やロートレモアン、ランボー、ブルトン、スタンダールなどの名前があって懐かしく思ったりしたものである。それにバタイユの「眼球譚」も同年に発行されたとのことである。でも悲しいかな、記述内容の思い出せないものが多いのである。年を取ったということではなくて、そのときの印象度の違いによって記憶に差が生まれたはずなのである。
以上
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2013年2月21日(木) |
題:マンディアルグ著 生田耕作訳「燠(おきび)火 マンディアルグ短編集」を読んで |
本書は短編集であり、最初の燠(おきび)火 を読んだとき驚いたものである。この燠火の粗筋は、南米人のパーティに出かけた女主人公は招待されたことに満足して嬉々としているとも、外に連れ出されたのか、そして『二つの刃が同時に彼女の左脇腹と右脇腹に突っ込み、出て行くのが感じられた。《南米人だろうか?》がっくりきて、すべてがぐらつきだす前に、歯を喰いしばりながら、彼女はもういちど考えるのだった』と結末は不条理にも、もしや幻想なのだろうか、無残にも殺されるのである。文章は割と落ち着き払っていて緻密に書かれているが、どこか幻覚の影を纏っている。一部冗長なところもあるが、読める文章であり得る。
この短編集にはこの「燠火」のほかに「ロドギューヌ」、「石の女」、「曇った鏡」、「裸婦と棺桶」、「ダイヤモンド」、「幼児性」が掲載されていて、読み進める内にマンディアルグとは幻覚性を持った現実を、もしくは幻覚そのものを描いているのである。江戸川乱歩よりも文章は上手だと思うが、乱歩が絵の中に入り込んだ人間を描くと同様に「ダイヤモンド」ではダイヤモンドの中に入り込んだ鑑定士の女がライオンみたいな男に犯されて、またダイヤモンドの外に出てくるのである。ダイヤモンドには赤い小さな汚点が残っていて父親は売り払おうとするが、彼女は残そうと願って指輪にする。まさに結婚指輪であって、彼女の腹の中でも、ライオン男との間に受胎された生命が宿っていて、迫害された民族(ユダヤ人)の栄光のために命を膨らませているのである。
「裸婦と棺桶」も愛する男女を描いているのであるが、どういう筋でどうなったためか忘れたが裸婦が棺桶を飛び越してくる理由そのものを裸婦が長々と説明しているのである。こうして読み進めていうちに次第に興味が失せていくのである。描かれている幻覚が表層であって光の届かない深部を照らし出そうとしないのである。もしくは深部を照らし出して描いていても、それはもはや意味の欠けた表層の出来事であり、どうでもよい幻覚なのである。もっとも表層の無意味さが小気味よく描かれていれば申し分ないのであるが・・。ただもこの短編にはそれぞれ短い文章が表題の次に掲載されていて、この短い文章が好いのである。訳者生田耕作が「あとがき」で、『全編をつらぬくライト・モチーフは、暗黒小説風な<エロス>と<タナトス>の結合であり、・・<少女陵辱>のテーマが・・』と述べるとき、確かにそうした傾向はあると思うが、この短編一冊を読んだ限りでは、少し評価が高すぎると思うが、判断は保留したい。
以上
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2013年2月20日(水) |
題:マンデリシュターム著 峰俊夫訳「マンデリシュターム詩集 石」を読んで |
訳者のあとがきでは、マンデリシュタームはアクメイズムの詩人であるとのことである。アクメイズムとは何であるか、三省堂の大辞林で調べると『1910年代にロシアで興った詩の流派。グミリョーフ・ゴロデツキー・アフマートワ・マンデリシタムなどの詩人が加わる。象徴主義に反発し、具象性と明晰さの回復を目指した』とのことである。そうであるかと思いながら、読んだこの詩集の内容を思い浮かべようとするが、具象性と明晰さが何であり、どのように書かれていたのか、ちっとも浮かんでこないのである。
この詩集の第一印象としては、同じマンデリシュターム著の「時のざわめき」の方がざわめく時代が、街などの風景を通じて良く伝わっていたような気がする。詩としての印象はどうしてもそれほど浮かんでこないのである。そもそも「石」という題はなぜつけられたのか。詩集にある「焔が絶やそうとしているのだ/わたしのひからびたいのちを/そしていまわたしは石をうたわない/わたしがうたうのは木」との一文があるが、この石のがきっと解く鍵になるのであろう。石とはきっと言葉そのものであるに違いない。マンデリシュタームはきっとひからびたいのちのある限り、言葉を、言葉が作り出す空間そのものうたいあげ築き上げようとしているようである。
どうも、マンデリシュタームの言葉が慎重で穏やかに語るごとく囁くごとく輪郭線を明確にしないように見えて、私は詩の内容をどうやら丁寧に読んでいなかったようである。今本を手元に置きながら、少し気に入った詩を紹介しよう。それが壮絶な人生を送った詩人への哀悼の意ともなろう。SILENTIUMでは、「彼女はまだ生まれていなかった 彼女は音の調べ 言の葉の神 そのゆえにこそ生きるものすべての 毀ちがたち強ききずな。/海の乳房はおだやかに息づいている だが狂人のように昼は明るい 水疱の青白いライラックは くらい紺碧の器の中に。/わたしの唇よ 見つけだしてくれ 生まれながらに汚れない 結晶のような 原初の沈黙を。/アフロディテよ 水泡のままでいるのだ ことばよ 音の調べに立ちかえれ 心よ 生の根底と一つになり いまおのれを恥じるがよい」
更にもう一つ。蹄鉄を見つけた人(ピンダル風の断章)から。「・・なにから始めようか すべてが音をたてて揺れている 空気は比喩におののいている とり立ててうまい言葉もない 大地は隠喩のようなうなりを出している 緊張に身を寄せあった鳥群の目にも鮮やかな馬具をつけた 軽快な二厘馬車の群が 鼻を鳴らして走る競馬の人気者さながらに ぱらぱら群を乱している・・」訳者のあとがきでは、自分を捕らえに来るであろう見えない手への恐怖として「だれにも話してはならぬ おまえが見たすべてのことは 忘れてしまえ 小鳥も老婆も牢獄も またほかのあれこれのことも」など数編が掲載されている。マンデリシュタームは恐れおののきながらも、決して絶望せずに石を紡いで積み上げていたし狂気にも陥らなかったようである。ことばが音のしらべに立ちかえることを望んでいたようである。それ以上にこの世紀の打ち砕かれた脊柱を抱えて悲しんでもいなかったし、自らが実在することを信じ「ぼくは黙らないし 痛みをかくさないで かける画はかいて行くのだ」と反骨精神も持ち合わせていたらしい。
以上
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2013年2月17日(日) |
題:マンデリシュターム著 安井侑子訳「時のざわめき」を読んで |
マンデリシュタームは初めて読む作家である、詩人でもあるらしい。このマンデリシュタームの文章は、個人や家族にペテルスブルグの街の風景やその動きを書きながら、この時代への不安に満ちた揺らぐ思いが根底に横たわっているのである。固有名詞が多すぎて人の名前なのか地名なのか分からないのが難点であるが、事物が人間が時には亡霊のように現われて徘徊し見詰めている、その詩人的な真っ直ぐでかつ叙情を廃しながら、本質を捕らえた哀しみに満ちた感性と絶望にも満ちた恐怖感が伝わってくる好い文章なのである。
訳者である安井侑子の解説によると、ソビエト生まれのマンデリシュタームは幾多の労苦を、責め苦のような労苦を何度も味あわせられていたらしい。彼は長い間忘れ去られていたらしい。解説に示された「世紀」という詩は好い詩である。詳細は解説参照のこと。本文中に一箇所「時のざわめき」に関する記述があったのでそれを引用したい。『わたしの願いは、自分を語るのではなく、時代のあとを辿り、時のざわめきとその芽ぶきを辿ることだ。わたしの記憶は、あらゆる個人的な記憶を憎む。もし思いのままになるなら、わたしは過去を紐解きながら、ただ過去を顰めるだけだろう。わたしは、叙事的なつれづれの思い出を書き連ねた・・・孫たちを決して理解することができない。繰り返そう――わたしの記憶は、愛情ではなく、憎しみに満ちており、過去を甦らせるためではなく、過去を遠ざけるために働くのだ』こういう文章を書かざるを得ないマンデリシュタームはきっと壮絶な人生を過ぎ去ったのだ。
以上
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2013年2月10日(日) |
レーモン・ルーセル著 岡谷公二訳「アフリカの印象」を読んで |
読み進めてもさっぱり著者の意図することが分からない。断片的な記述が続いていてどうにも理解できないのである。文章もきらめく部分もあるが荒々しくて少し羅列的に硬直している。理解させないことが目的であれば理解可能であるが、それすらもよく分からずに、百数十頁を我慢して読んだが、訳者なる岡谷公二の解説に駆け込んで、この著者のこの本の意味がようやくわかったのである。普通は全文を読んでから解説者の論表と感じたことを照らし合わせているので、稀なことではあった。
この本の目的や価値は岡谷公二の解説に丁寧に書いてあるが、あえて少しだけ仕入れた知識を記述したい。レーモン・ルーセルはシュールリアリズムの前衛・先駆けだということである。演劇なども手掛けていて、ブルドンなどは評価していたようだが、劇場では評価しない人々との小競り合いが生じて結構世の中を賑わしていたようである。また、本書の「アフリカの印象」という表題は、フランス語の仔細な読み替えによって生じているらしくなぜか「おあしのかかる印刷」になるらしい。レーモン・ルーセルはこうした言葉遊びを結構行っていたらしく、例えば別の短編では、一字変えるだけで「古びた撞球台のクッションに書かれた白墨の文字」が「年老いた盗賊についての白人の手紙」となり、この文章を最初と最後に位置させて、その間を文字で埋め尽くすために小説を書いていたこともあるらしい。
シュールリアリズムの前衛・先駆けとしての挑戦として読めば、それなりの感触は掴める。どうも本書は、百五十頁前後にて二部に分かれて、後半に物語の最初からの筋書きが書かれ、前半にはこの後半に書かれた物語の、即ちアフリカで難破した船の乗客の人質事件に基づく因果によって、周到に準備された見世物ショーのそれぞれの場面が断片的に記述されているのである。どうりで最初から読むと分かるはずがないのである。162頁から179頁まで珍しく乱丁があったが、それほど問題ではない。正確に言うなら156頁までが前半部分である。即ち物語の最初の場面が少し欠けていたが、言わば、物語が物語を呼ぶ二重構造上の身の上話であって、欠けていたとしてもなんら差し支えない。それほどに、横道に進む物語が多いのである。それに覚え切れないほどの多数の人名が登場して、私には誰が誰であるかさっぱり記憶できずに、最初から読んでも登場人物など数人しか分かっていないのである。
本書は韻文で書かれているとのことであるが、きっとフランス語の原文で読まなければ本当の評価を下すことはできないと思われる。少し羅列的に硬直した文章と称したが、韻文であれば日本語に翻訳して韻を含ませることなど無理なのである。とは言っても日本語の文章を読めば切れのある文書もあるが、やはり羅列的に思うがまま記述した文章が並んでいるだけなのである。岡谷公二の解説では言葉の運動を志向したとのことであるが、この評価はやはり私には原語も読めずに無理なのである。ただ言えることは、その後のブルドンの作品の方が完成度を極めているはずであるということだけである。
以上
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2013年2月5日(火) |
マルカム・ラウリー著 齋藤兆史監修「火山の下」を読んで |
約500頁の厚い本である。読み始めてみると、結構文章が的確であり、叙情を含み、いくらか幻想的でかつ情熱や倦怠に嫌悪を含んでいて良いのである、読めるのである。ところが100頁を過ぎても何を書いているか分からない。それでも読んでいくと、確か150頁前後の、4章または5章で、主人公の領事と妻との離婚が成立した記述があって、やっと事の次第を理解することができた。1章の傍流の男の登場が理解の邪魔をしていたのである。ただ、文章は良いが歩みはのろのろして亀のように進むために飽きてしまい、半ばまで読んで、すぐさま12章の最終章に飛んでしまうことになった。それでも作者が何を言いたいのか、何を書きたかったのかは分かった気がする。
主人公はアルコールによってかこの世界を確かに捉えられずに幻覚を伴うのである。この領事のこの世界の捕らえ方が主題なのであって、妻と主人公の弟との少しばかりの出来事により話で進んで行くが、その歩みの鈍さには本当にうんざりしてしまうのである。結局、主人公は部外者なる何らかの長なる男に殺され、渓谷に投げ捨てられてしまうのが結末である。良い文章の例が結構あるので少しばかり引用する。『火山の噴火とは、依然としてまったくの謎なのだ。噴火のある映画のなかでは、人々はかならず、じわじわと広がってくる溶岩の流れのなかに立ち、はしゃいでいる。壁が倒れ、教会がつぶれ、何世帯のもの家族があわてふためいて家財道具を避難させるのだが、煙草を吸いながら溶岩の流れの間をぴょんぴょん跳びまわる人々が常に存在する・・』叙情的でもない普通の文章を引用したが、なかなか味があるのである。結構ダイナニズムのある、いわば動的に揺り動かすような文章なのである。
最後に本書の巻頭に記述してある紹介文を引用しておきたい。今感想文を書きながら見つけ出した文章で、これを前もって読んでおけば容易に本書の筋書きは理解できたはずである。『ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ。クワウナウタの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。一九三八年十一月の<死者の日>の朝、イヴォンヌが突然彼のもとに舞い戻ってくる。ぎこちなく再開した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけることに。しかし領事は心の底では妻を許すことができず、ますます酒に溺れていき、ドン・キホーテさながらに、破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく』ここでドン・キホーテが比喩として用いられているのに気づくが、ドン・キホーテが悲劇的な魂の深い位置を表現した人物なのか、もう少し異なった人物なのか、多様な解釈が可能であって、人物を比喩に用いるべきではないと思う。なぜなら物語の主人公とはそれぞれに異なった悲劇、現実の捉え方、その行動などが微妙に異なっているためである。そして本書を記述したマルカム・ラウリーの著書はたぶんもう私は読まないに違いない。大江健三郎が愛読していたようである。
以上
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2013年1月31日(木) |
ムジール著 川村二郎訳「三人の女・黒つぐみ」を読んで |
本書はどこか日常や心の幻想性を含み書いていて良い本であると思う。「砂漠の反乱」よりもこちらの本の方が私には合っている。文章が時々正統に事実を描いているのか、幻想を描いているのか良く分からなくなるときがある。いや文章そのものではなく例えば、三人の女それぞれを描いた作品、たとえば「トンカ」では作品そのものが幻想、錯覚そのものを描いているのか、その幻想を望んでいる心の動きを描いているのか分からなくなるのである。この幻視、幻覚性がきっとムジールの物の捕らえ方にはあるのであり、彼は現実的な体験を幻想、幻覚として内在化しなければならないある種の感覚的な歪みを伴って生きているである。そしてこの幻覚性は日常生活を含み心と現実の揺れを伴いながら、時として亡霊がごとくに輪郭を失った過去さえもが現われ出てくるのである。確か「黒つぐみ」では、丘の上で過去に経験した戦時の飛行機から投げ落とされる飛箭に身を貫かれて高揚とし恍惚となる、もしくは恐怖を感じる下りも記述されている。どの時制においても現実に摺り込まれてしまい、形象はやっとの思いでおぼろげながらもその形を留めているのである、いや彼にとっては形を留めていなければならない現実や経験があるのである。
ここで簡単に物語の筋を紹介する。三人の女の中の「グリージャ」では鉱山調査に誘われ出かけた技師の現地の女と不倫、その結果夫により洞窟に閉じ込められるという復讐を受けて、女は逃れながらも、もう洞窟を出ることは肉体的もできないと思う男の物語である。「ポルトガルの女」は遠方の地ポルトガルから妻を娶り、その客人との不倫を疑う由緒正しい家柄の城主たる騎士の物語である。猫が、嘔吐する猫が象徴的な意味を持つ。この猫は殺されるが、客人は帰り、きっと妻も一緒に去ったと思いながら部屋に入ると、変わりなく妻はまだ居るのである。「トンカ」は若い端女を遠くの街へと連れ出した青年の、この端女の妊娠と性病に関する物語である。即ち女の妊娠も性病もこの男との関係では日にちも合わない無関係なはずなのである。ただトンかは他の男との関係を否定すると、この男は疑念を抱きながらもその疑念を信じることができなくなり、むしろ彼女の言葉を信じようとするのである。そのうち分からないまま女は死んでしまう。「黒つぐみ」は、窓枠に来る黒つぐみが鍵となる三つの話を話し手は話し始める。一つは黒つぐみ、即ちナイチンゲールの別の男のために歌うという話である。二番目は先に書いた戦時中の飛箭の話である。三番目は、母が死んだあとの自らの子供部屋で子供時分の筆圧の痕跡に驚いている、その男の眠りの内へ、たぶん夢の内なのか黒つぐみがやって来て言葉を交わす話である。
ここまで書いて思い出したのであるが、戦争体験に関する個人のその経験の現われ方の相違である。トラークルは狂気となる。丸山豊は数十年間沈黙を保つ。ムジールの飛箭に関してはもう戦争体験を超越した話である。彼には戦争体験以上に、この現実のすべてが奇妙なものであり非現実的に輪郭を失っていて、彼は結ぶ糸がたどたどしく繋いでいるこの現実に消え入りそうな存在を、消去されるのではない消え入る存在を、巧みに言葉で紡いでいるのかもしれない。それは死と近くにありながら、きっと死とは異なる別の感覚であるに違いない。
以上
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2013年1月27日(日) |
T・E・ロレンス著 小林元訳「砂漠の反乱」を読んで |
初めて読む作家である。砂漠の描写が素敵なはずだと思い込みながら、確かにそうなのであるが、裏切られた感じである。なぜなら正統的な文章で書かれた、正統な実際の出来事に基づいて書いている、ドキュメンタリーな作品でためである。砂漠の感触は確かに良い、輝く光と広がる砂地、駱駝との格闘も表現力のある好い文章である、ただ約300頁の中篇でありながら、70頁以降読むことができずにパラパラと捲っておしまいにする。なぜなら、砂漠と格闘する以上に、人間関係的な格闘が主題であり、集団と集団との格闘において勝利に至る過程が描かれているのである。この闘いの背景には国家や民族的な背景もあるのであろう、人間の機微な宗教的な心情もあるであろう、ただその微細な内面的な葛藤の記述が少ないのである。正統な文章で描かれた作品では、やはりメルヴィルの「白鯨」が何十年も前に読んでいるが、老人の鯨に対する闘い、その果敢な情熱そのあくなき執念みが記憶に刻まれている、そういう作品の方が好きなのである。
もう裏表紙に書かれた、T・E・ロレンスの簡単な照会文を引用して本感想文は終わりにしたい。『 』は引用文である。T・E・ロレンスは『英国の考古学者、探検家。・・ドイツ側に参戦したトルコの後方を攪乱するため、トルコ支配下にあったアラブ民族の反乱を指導し、その独立運動に貢献した。しかし、アラブに対する政府の戦後の態度に幻滅し官職を辞任・・・』この本の最後に松浪健四郎が解説で彼が関与しているアフガニスタンの記述もあったがこちらの方が気に掛かった。いずれにせよ歴史は動いていて、国家は不合理に動き人間も不条理を経験するものなのである。ただ国家とは人間が作りながらも人間とは離れた行動を取る、人間で構成されながらもはや別個の装置のように行動する、だからドゥルーズは国家装置と名づけたのだろうか。それはどうでもよくて、砂漠そのものの反乱が描かれていると面白かいと思う、それは阿部公房の「砂の女」のような観念小説や抽象小説になるに違いない。
以上
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2013年1月20日(日) |
ドゥルーズ、ガタリ著 豊崎幸一訳・編「エピステーメー臨時増刊号 リゾーム」(1987年発行)を読んで |
最初この本を読み始めたとき、詩集を読んでいるのかと思った。それがだんだん哲学的な表現が増えてきて、それでも使用される言葉に慣れているせいか、なんだか理解している気分で読み進めたが、よく詩集などの記述にあるように三つの文章が同時平行に記述されていて、なんだか分からなくなり、つまんなくなり余分な文章は読まずに、主文ひとつだけを読んだのである。最後に、訳者や編者の対談が載っていて、読者はこの本を読みたいのではなく、この本に触れたいという要望を持っていたらしいとのことで、当然のことであると思う。学生の時には、吉本孝明の「言語にとって美とはなにか」、羽仁五郎の「都市の論理」やサルトルやカミュの本は読むというより、持って手に触れていて肌で感じることが大切だったのである。時代の思想に肌で触れていたい、そうした欲望があるはずで、それは先端的な思想を知っているというある種の優越感、もしくは現実的な状況への飢餓感からきているのかは、無論後者の方から生じていると信じたいが、そうした欲望が確かにあるのである。
どうも本書は、エピステーメー臨時増刊号付録としては1977年(昭和52年)、単行本としては1987年(昭和62年)に発刊されている。読んだのは単行本1987年版である。60年安保も70年全共闘もとうに終わっていて、どういう政治状況であったかは分からないが、バブルの進行中であった、バブルの終わりの最盛期であったかもしれないが、なぜ本書を読みたいのか触れたいのかが、その背景が語られていないために分からないのである。いずれにせよ、どの時代においても、思想への飢餓や意味づけを求める心はいつも誰にも生じているに違いないということなのであろう。ドゥルーズ、ガタリは1972年の「アンチ・オイデップス」、1980年の「千のプラトー」との間1976年に本書を発刊している。「カフカーマイナー文学のために」の翌年である。
本書のリゾームは後に発行された「千のプラトー」に何箇所か削除し、追加されている文書の原本であり、本書では丁寧にその箇所を指し示しているがそれほど多いわけではないが、どうも「千のプラトー」に掲載されているリゾームとは印象が異なるのである。思想の芽が到るところに散りばめられ過ぎているような気がする。どうも編者が意図的に故意に編集し直し、「政治と精神分析」などから引用した文章を混在させ、文章の配列を転換配置した以上に、訳文そのものが違うせいであると思われる。ドゥルーズ研究も進んでいるはずであり、私の読んだ宇野邦一などによる訳「千のプラトー」の文庫版は2010年に発刊されて、分かりよい訳になっているはずである。従って、本書は当時としては先端的な手に触れたくなる思想を記述した貴重な本だったはずであるが、やはり編者の手は加えずにそのまま訳し出版するのが翻訳の常道であるはずである。
本書の記述内容はリゾームでありながら、このリゾームが多数多様体やファッシズムと密接に結びつき、地図であり、本の構造であり、精神分裂分析などを呼び込みかつ否定するものであることなどなどがたくさん述べられている気がして、やはり「千のプラトー」のリゾームとは異なる印象を持つのはほんとうになぜなのだろうか。よく詩集などに並列的に二つの文章を書く、文字型を象る文章を書く、文字数を次第に少なくするなどの表記が見られるが、そうした趣向は、本文から目を逸らさせるなどの欠点の方が多いと思われるのである。まあ、趣味の問題でもあり、私は単純なありきたりの構成の方が好きである、そう言いたいだけである。「千のプラトー」のリゾームを読むほうが良いと私は思う。
以上
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2013年1月13日(日) |
D・H・ロレンス著 福田恒存訳「黙示録論」などを読んで |
D・H・ロレンスは「チャタレイ夫人の恋人」で有名な作家である。彼の作品を読むのは初めてであり、読んだのは、「てんとう虫」、「死んだ男」、「黙示録論−現代人は愛しうるか」である。「チャタレイ夫人の恋人」は読んではいない、ただ女性でも見られるエロチシズムが表現されているという映画が何十年も前に作られていて、確か見たはずであるが、殆ど記憶に残っていない。先日チャタレイ夫人を演じていた女優が死んだとの報道があったが、誰なのかなど何も知らない。従って彼の作品をそれほど期待していなかったのであるが、とても良いのである。巧みな構成力に、精神が肉体と分離しながら、肉体を融合させる、その過程が葛藤ではなくて、互いに近づき離れなくなるその過程そのものが克明に描かれていて好いのである。きっと彼にとって、肉体は精神と共にあり互いに昇華させることのできる物質であるに違いない。こうした彼は少し硬直性も感じられる生真面目な作家なのである。
少しあらすじを述べる。「てんとう虫」は敵方の負傷兵である伯爵から貰った指貫が、伯爵の家紋のてんとう虫からできていることに由来する魂と肉体の救済や秘められた欲望をテーマにした作品である。主人公ダニフの夫は戦争に出かけていない。母親から昔なじみの伯爵の負傷を知らされてダニフは見舞い、「てんとう虫」を貰うのである。彼女は伯爵の暗い考え方についていけない、でも貞淑でありながらどこか燃える心の奥が彼に引かれていて、彼のために「てんとう虫」を使いシャツを縫い与える。そのうちに夫が帰ってくる。夫はダニフに跪くほどに愛を捧げている。夫は伯爵とは合いいれない考えを持ちながら、伯爵に惹かれていく。彼らは三人で別荘に出かける。そしてダニフは夜中に伯爵の密やかに魂を開放した子供歌を口ずさむのを聞き、魅入られというより戦慄を覚え、終には伯爵の部屋に押し入り、伯爵の足元に彼女は跪き、体に指先が触れていくのである。悲しみが深く彼らに浸み渡る。伯爵は夜だけはダニフを自分のものにできるが、闇の中の妻とすることができるが、この生の世界では一つになることができない。死後の世界でのみ一緒になれると言うのである。それでもダニフの心は開放される、彼女は伯爵への愛を、暗黒の愛を恐れていたのであって、魂が静かに満つるように安らぐのである。伯爵と夫との会話「最も内奥の要求に耳をかたむけることで幸福になることができる」に両者とも同意し小説は終わる。
「死んだ男」は殺され埋められたはずの男が死んではいずに生き返るのである。彼は以前救世主であってあって、偶然出合った女信者に戻るように懇願されながらも戻ることを拒否する。この女信者は死んだ男にただ恋焦がれて受け取ることなしに、無条件に与えようとする肉欲を持っているためである。死んだ男は、死んだ体を生き返らせるために肉に触れて甦るために、旅に出かける。そして、アイシスを守る女に出会う。女神アイシスは殺さてれちりぢりに裂かればらまかれた夫、オサイリスの肉片を集めている女神なのである。この女神を奉る女は、死んだ男をオサイリスの再来と信じ、死んだ男の傷口に油を塗り、死に至らしめた残酷な傷跡を生の温かみをもった体で覆うと、死んだ男は欲望の波に襲われる。こうして彼らは結ばれ、死んだ男は生きた男となるのである。女は子を宿す。ただ女の母親は死んだ男を追放しようと奴隷どもを集めて襲おうとしているのを知って、死んだ男はアイシスを守る女に留まるように懇願されながらも、この女を自らの肉に浸みこませることのできる尊い存在だと思いながらも、この地を立ち去るのである。死んだ男はあすのことはあすに任せるのである。
ロレンスの黙示録論については、福田恒存が詳しく解説している。以下の文章は福田恒存の文章と福田恒存がまとめたロレンスの思想に関する文章とを混ぜ合わせて書いた文章であって、詳細を知りたければ福田恒存翻訳全集(第三巻)を参照して頂きたい。私にこの作品の評はできない。当時の民族的かつ宗教的状況や記述内容など難しいのである。まず黙示文学の登場についてであるが、バビロン虜囚後のユダヤ教が、メシアの出現を預言されながら実現せず、現実世界において実現しないこの野望が一層ユダヤ教を純粋化させ、復讐の力を研ぐために黙示文学を登場させたとする。黙示文学は、かくして異教への懲罰と復讐を絶叫し、選民の思想へ移ると同時に、彼らを虐げる強大な権力への復讐として、古代の宇宙観によってメシアは雲の上に乗って現われる「人の子」とする。
このように黙示文学は地下に潜んだ陰鬱な形式となり、絶望の影に覆われて、隠語を含み晦渋となったのである。こうして黙示録は二千年もの間、支配力と権力欲の支えになっていたのである。そして、黙示録はするりと新約のうちにこの権力意識を擦り込ませたのであるとする。人は個人である限り聖者足りえるが、集団的自我に手に触れると支配者、優越者になろうとするのである。人は生きていくうえでパンや金よりも権力を欠くことができないとする。こうした黙示録にロレンスは嫌悪を抱いていて、キリスト教的な愛の宗教を信じていた、「チャタレイ夫人の恋人」においてはあたたかい心をやさしい心に到達していたはずと福田恒存は述べる。そして恒存は個人と集団的な自我と愛の自律性について論じるが、結論はロレンスの思想を「有機体としての宇宙の自律性への参与」とでもでも言うのだろうか、太陽や大地の断片たる人間を認識すること、そして敢えて矛盾していると知りながら、個人の自律性の放棄に求めているのであるとする。
この個人と他者との関係、更に共同体、国家については権力論も含めてドゥルーズが深く論じていて、機会があれば頭の中を整理したい。なおロレンスの「黙示録論」では第23章にてこれらを考察している。ヨハネ黙示録は全文章が示されていて、「大姦婦」、「大いなるバビロン、地の姦婦らと憎むべき母」は好きな言葉である。なお、確か大衆は権力を引き摺り降ろし権力を得ようとしながら、一方では権力に隷属する欲望をもった矛盾した存在であると記述されていたはずで、この辺も頭の中を整理しないといけない、いずれにせよ、今まで書いてきた自分の日記を読み返す必要があるのである。
以上
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2013年1月6日(日) |
ドゥルーズ、ガタリ著 杉村昌昭訳「政治と精神分析」を読んで |
どうも、本書は訳者の杉村昌昭によると、ドゥルーズとガタリが共同で著作を行っていた時のそれぞれの独自の論文を単に掲載し、彼らの基本的な見解を簡潔に示したものであるらしく、読んでみてもそう思われるのである。従って、まず、彼らの著作物を調べて年代順に記載する。
アンチ・オイデップス――資本主義と分裂症 ドゥルーズ+ガタリ 1972年
カフカ――マイナー文学のために ドゥルーズ+ガタリ 1975年
リゾーム・・序 ドゥルーズ+ガタリ
1976年
政治と精神分析 ドゥルーズ+ガタリ 1977年
千のプラトー――資本主義と分裂症 ドゥルーズ+ガタリ 1980年
哲学とは何か ドゥルーズ+ガタリ
1991年
「資本主義と分裂症」というテーマに従いドゥルーズとガタリが共同で作業を行っていたとするなら、本書に掲載されている論文は当初の彼らの基本的な考え方を述べたものだと思われる。従って、本書に掲載されている四つの論文は本書の発刊の相当以前に書かれたものあると思われるが、その辺の子細な事情は分からない。たぶん「アンチ・オイデップス――資本主義と分裂症」に本書で示されている考え方は既に明示されているはずである。従って、政治に精神分析をもちこもうとする、オイデップスなる精神分析を否定する、訳者が「導きの糸」と称しているが、彼らの思想を理解する上での助ける導きの著作物とし、簡単に記述内容を引用し簡単にまとめて感想文としたい。F・ガタリの論文が、単刀直入で分かりよいのである。
1)精神分析と政治(F・ガタリ)
革命的労働運動に課せられている問題は、(1)階級闘争の次元における表面上の力関係、(2)大衆の現実的な欲望の備給 のずれであるとし、ただこれらに基づく闘争は排除しあうものでなく、抑圧的な諸勢力に対抗できる「戦争機械」の存在を必要とし、欲望の戦線における闘争は「あらゆる権力の転覆」を行わなければならないとする。次の文章は単純明快で印象的である。『ブルジョアジーの権力をひっくりかえし、それにとってかえるのに、この権力の「かたち」を再構成するような構造をもちだそうとするのは、ばかげてはいないだろうか。ロシアや中国における階級闘争は、ブルジョアジーの権力が転覆したあとも、この権力のかたちが、国家や家族、さらには革命家の隊列のなかにおいてさえも再現しうることしめしている』
そして、精神分析家がブルジョア的主観性の本質を再生産しているとし、『マルクス主義やフロイト主義を科学として位置づけることは絶対に否定すべきことだとして考えている』と述べて、『精神分析はその出発のときから無意識の欲望を断罪している。無意識は精神分析にとって飼いならさなくてはならない獣的なもの、危険なものと映じていたのである』と談じる。『欲望は死を知らないし、また否定を知らない。否定はつねに主体、客体、そして基準となる対象といったものの位置どりに結びついている。それは流れであり強度である。・・集団的現表行為−身体の諸部分や、個人からなる諸グループ、あるいはさまざまな対象や強度の群れ、あらゆる種類の機械といったものへのリビドーの集団的微給−という考え方は、・・欲望をこういったオイデップの三角形と死の欲動への崩落とのあいだのゆらぎからひっぱりだして、それを社会的領野にたえず間口をひろげながら、たえず拡大していく多数多様性の世界に結合するのである』と結ぶ。
2)精神分析に関する四つの提言(G・ドゥルーズ)
精神分析に関する四つの提言とは次のものである。『精神分析はどのようにいっさいの欲望の生産を妨げるか』、『精神分析がどいうふうにして言表の形成をさまたげるか』、『言表の粉砕とか欲望の破壊といった結果を得るために、精神分析がどのようなやり方をするかということの明示』、『精神分析というのはあるきわめて特殊な力関係を持っている・・ひそかに別の契約が履行されている。すなわち、患者のリビドーの流れを変換して、それを夢や幻想、言葉などに仕立て上げるという契約です』である。最後に、フロイト=マルクス主義的なパーペクティブな線上にあるいかなる企てにも参加しないのは、「発達」という要求の名において自己表明するのではなく「未発達」で語るため、政治経済とリビドー経済の融合ではなくて、ただひとつの経済しかないこと、『真の反精神分析の問題は無意識的欲望がこの経済全体の形態にどのように性的に微給するかということを照明することである』と結ぶ。
3)言表の解釈(G・ドゥルーズ/F・ガタリ、他)
子供の言表が精神分析としていかに窒息させられていることか。その三例として、三人の子供の言っていること、それを精神分析家の聴衆していること、着目し翻解し、こしらえあげていることを上下段分けて記述している。さっと読んだだけでは、よく分からない点も多いが、このように、G・ドゥルーズ/F・ガタリは精神分析の書式を俎上に載せようとしている。
4)制度のなかにおけるシニフィアンの位置(F・ガタり)
ちょっと読んだだけでは分かりにくい。どうもシニフィアンと記号学の関係を論じたものであるようだ。意味形成の記号学は実質と形式によって再分割された表現と内容の四つの区画の中で機能するが(シニフィアンの記号学)、制度的精神療法の中で彼らが扱っている記号論は、表現の素材としての意味、内容の素材としての連続体を作動させること、即ち素材が加わる(非シニフィアンの記号学)と言いたいらしい。非記号的に形成された素材と記号的に形成された実質とのあいだには切断があり、制度的記号論ではシニフィアン記号学とは異なった、あらゆる記号論的実質の構成とは無関係に機能する非記号論的コード化と記号的に形成された実質をもとにしてつくられ、内容と表現の二重化の次元において形式化の関係を維持する意味形成の記号学とに分けたいとガタリは主張する。意味形成の記号学には前シニフィアンの記号学とシニフィアンの記号学の二つに分けられ、これらとは区別される非シニフィアンの記号学があるのである。
どうもガタリは非シニフィアン的な記号学の制度への配備の例を述べながら、きっと次のことを言いたいのである。『欲望の集団的配備は、もはや意識や法、責任制、また超自我の無意識的報復といったものと従来と同じようなタイプの関係をもたないひとつの主観性のかたちをあらわすものといっていいだろう。かくして、ある特異な欲望はもはや法や意識−超自我、あるいは意味形成の編みの目の決壊などに打ち砕かれることはなくなる。人々の状態を局所的、集団的に変えるということは、欲望の対象を変え、それらの機械的な結合の状態を屈折させるということだろう』
以上
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