2012年12月30日(日) |
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著 「千のプラトー 資本主義と分裂症」を読んで |
本書は文庫本三冊(上中下)の大作で、読むのに時間が掛かった。おまけに日数を開けることが多かったため、読み終わったときには分かった部分もあったはずであるが、いつもの通り書いてあることが頭の中に残っていない。従って、本書を横に置き頁を捲り眺めながら感想文を書くことにする。たぶん必要になると思って読みながら簡単なメモを残していたが結構役に立ちそうである。そういえば、本書はてっきり「アンチ・オイデップス」の続編として、資本主義の分析を論理的に行っていると思ったが、そうではあるものの、プラトー(高原)として、新たな概念への挑戦でありこの概念の提示であると思われる。
ここまで書いて、本書を読んでいてよく分からない言葉、特に「アレンジメント」と「抽象機械」、他の言葉は何となく理解できるが、この二つがよく分からずに、15章結論に使用されている言葉の定義が記述されているが、返って分からなくなり、困ったものであって、この言葉について調べた結果を示し、あと各章について簡単にまとめ感想文としたい。なお、「地層」や「脱領土化」などについては15章の説明で理解できたはずである。
確かどこかに、違う本かもしれなくとも、記述されていたと思うのであるが、「アレンジメント」とは「多様体の連結」機能だと思い込んでいたのである。ところがどうも違うのである。「地層」と「表現と内容」に密接に結びついており、そして「抽象機械」は「アレンジメント」に結びついているのである。それでまず「地層」から調べてみたい。なお『 』は本文からの引用である。『地層は、それぞれに実質化され形式化された表現と内容を、二重の文節の挟みにおいて取り上げる。これが表現と内容の独立性あるいは現実的な区別を確立し、たえず再生産され、再分化される二元論を君臨させるのである。・・地層は逃走線の結合を妨げ、脱領土化の先端を押しつぶす』(上、294頁)なお『脱領土化の機能、つまり<脱>とは領土を立ち去る運動である。それは逃走線の作用である。・・<脱>は、これを再領土化によって覆われてしまうことがあり、このとき逃走線は封鎖されたままである』(下、313頁)なお、ここで「地層」は表現と内容に結びついた狭義の意味で使われており、15章の多様な形式と実質を示し異なる<様態>を持つ「地層」の広義な定義とは異なっていることである。あくまでも、ドゥルーズの意図とは異なってくるかもしれないが、狭義であっても「アレンジメント」と「抽象機械」について、少しでも結び付いた理解をしたいのである。
さてアレンジメントである。『あらゆるアレンジメントは最初は領土的である。・・少なくともアレンジメントの一側面は地層に接している。・・アレンジメントがもはや地層に還元されないのは、そこで表現は記号論的システム、記号の体制となっており、内容は行動と受動からなる実践的システムとなっているためである。それは顔と手、身振りと言葉という二重の文節になっており、二つは互いに前提しあっているのだ。・・内容と表現のあいだにはまだ地層には見えなかった新しい関係が確立される。つまり言表または表現は非身体的変形を表し、この非身体的変形は、このようなもの(特性)として、身体または内容に帰属するのである。地層においては、表現は記号を形成することがなく、内容はまだ実践を形成していなかった。・・アレンジメントは内容と表現の区別に従属しているかぎりでは、まだ地層に属している。そして記号の体制と実践的システムは、先に見たような広い意味では、地層の構成要素と考えることができる。しかし内容−表現の区別が新しい形象をおびているかぎり、厳密な意味ではすでに、地層とは別の要素にわれわれは直面しているのだ。アレンジメントは別の軸によって分割される。・・別の側面は脱領土化の線からなり、この線に横断され、この線に巻きこまれる』(下304〜306頁)ここまでくるとアレンジメントがなんとなく分かってくる。それは内容と表現の区別が新しい形象をおびることによって、もはや地層とは異なってくるのである。
こうして『アレンジメントにおいては・・表現の形式あるいは記号の体制(記号的体系)と、内容の形式あるいは身体の体制(物理的体系)とを同時に考慮するような何かに達しなければならない。それをわれわれは抽象機械と呼ぶ。抽象機械は、アレンジメントの脱領土化のあらゆる点を構成し結合する』(上、289頁)そして『抽象機械はそれ自体、地層を脱し脱領土化されていて、自身においては形式をもたないし(また実質ももたない)、表現と内容をそれ自体として区別することもないのである。しかし抽象機械はその外で、このような区切りを取り仕切り、地層の中、領土の中にこの区別を配分する。抽象機械はそれ自体では、物理的あるいは身体的でもなければ、記号的でもない。それは図表的である。・・抽象機械とは純粋な<機能>−<物質>である−−それは図表であって、この図表が配分することになる形式と実質、表現と内容とは独立している。・・したがって抽象機械は、確かにもう個人も主体も示しはしないで、物質と機能を示す固有名詞をもつ(そして日付をもつ)。・・いつも問題なのは<物質>と<機能>の結合なのである』(上、290〜292頁)『抽象機械はアレンジメントの第四の側面、つまり脱コード化と脱領土化の先端に定義される。抽象機械はいくつもの先端を描き出す。だからそれは領土的アレンジメントを別のものに向けて、別のタイプのアレンジメント、分子的なもの、宇宙的なものに向けて開き、生成変化を構成するのだ。だから抽象機械は、つねに特異であり内在的である』(下、317頁)具体的に表現されている文章を引用して理解の手助けにしたい。『われわれはとりわけ人間的な形態をした、異形的な二大アレンジメント、戦争機械と国家装置について考えてみた。それは性質を異にするだけでなく、抽象機械に対して異なる量化可能性をもつ二大アレンジメントなのである。・・アレンジメントは連結を開き、多数多様化するとき、強度や強化の量子作用子をともなって存立平面を描くときこそ、生き生きとした抽象機械に近づく』以上の記述によって「アレンジメント」と「抽象機械」が少しは分かったような気がするのである。内容−表現の区別が新しい形象をおびた「アレンジメント」の先端に「抽象機械」は位置し、この「抽象機械」は別のものに向けて「アレンジメント」の生成変化を構成するのである。
さて、各章を引用した文章を中心にして簡単に説明したい。
1.序−−リゾーム『樹木やその根と違って、リゾームは任意の一点を他の一点任意の一点に連結する』即ちリゾームは樹木状システムとは異なっており、カフカの作品「巣穴」に記述されているような変動する方向からなっていて、『n次元からなる線形の多様体、主体も客体もなく、存立平面状に平らに広げられ、そこからつねに<一>が引かれるような<nマイナス1>多様体を形成する』
2.一九一四年――狼はただ一匹か数匹か?『狼とは群れなのだ。つまりあるがままに一瞬にして把握される多様体、ゼロへの接近と遠ざかりによって、そのたびに分解不可能な距離によって把握される多様体なのだ。ゼロとは<狼男>の器官なき身体である。無意識とは否定を知らないとすれば、それは無意識の中に何一つ否定的なものはなく、そこにはゼロ点への限りない接近と遠ざかりの動きがあるからである。・・狼たちは、一つの強度、強度の徒党、<狼男>の器官なき身体上の強度の閾を表示しているのだ』
3.BC10000年――道徳の地質学(地球はおのれを何と心得るか)『イェルムスレウは、質料、内容と表現、形式と実質という観念によってある解読格子の全体を構成するにいたった。そのようなものが「地層」なのだと、イェルムスレウは言った』『地層のシステムは、だからシニフィアン−シニフィエとも下部構造−上部構造とも、物質や精神ともまったく関係がない。・・こうして地層は、さまざまな運動によってつき動かされる二重文節をいたるところに確立する。つまり、内容の形式と実質、表現の形式と実質を確立し、これらが、そのたびごとに規定可能な諸関係のもとに切片的な多様体を構成するのである。地層とはこのようなものである』
4.一九二三年十一月二〇日――言語学の公準 T言語は情報を与えるもの、そして伝達するものであろう Uどんな「外的」要素にも依存しない言語抽象機械が存在するであろう V言語を等質的体系として定義することを許す、言語の定数や普遍的特性が存在するだろう W言語は主要な、あるいはスタンダードな言語という条件においてしか、科学的に研究されないだろう
5.BC五八七年、AD七0年――いくつかの記号の体制について『少なくとも表現が言語的である場合、われわれはあらゆる特有な表現形式を、記号の体制と呼ぶことにする。ある記号の体制は、一つの記号系を構成する。・・言語学的前提の不十分さを照明するのは何よりもまず、記号の体制という立場から行われるシニフィアン的体制の研究である』『記号のシニフィアン的体制は八つの側面あるいは原則によって定義される。・・そして、さらにもう一つ、逆シニフィアン的と呼びうるような記号系が存在する。こんどは、この記号系は切片性によってではなく、むしろ代数によってあるいは計数法によってのみ機能する』『円環や、拡張する螺旋にかかわる意味性の中心はもう存在しないで、線の出発を促す主体化の点が存在する。シニフィアン−シニフィエの関係はもう存在せず、主体化の点から発生する言語行為の主体が存在し、ついで第一の主体と決定可能な関係にある言表の主体が存在する』 『実体〔実質〕は主体となったのである。たとえば言表の主体は他のプロセスの場合に現表行為の主体に再補給するとしても、現表行為の主体は言表の主体に向かって下降するのである』『記号の体制に依存するのは言語の方であり、記号の体制は、あらゆる記号学、言語学、そして論理学を逸脱する抽象機械に、図表的機能に、機械状アレンジメントの依存するのである』
6.一九四七年十一月二八日――いかにして器官なき体を獲得するか『マゾヒストは、自分自身と馬と女主人によって、器官なき身体、または存立平面を形成しながら、欲望の内在野を成立させ、これを満たすことになる一つのアレンジメントを構築したのだ』『器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは有機体に対してである。身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要としない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ』
7.零年――顔貌性『顔貌性抽象機械から・・シニフィアンにホワイト・ウォールを、主体性にブラック・ホールを与えつつ、具体的な顔の一つ一つを生産する』『ある風景、ある絵、ある短い楽節とともに冗長性を形成する顔、統一された壁の表面の上のブラック・ホールの中心の渦巻きの中で、一方がいつでももう一方を思わせるような顔はもはや存在しない。そうではなく、顔貌性から開放されたそれぞれの特徴が、風景性、絵画性、音楽性から解放された一つの特徴とリゾームをなすのである』
8.一八七四年――ヌーヴェル三篇、あるいは「何が起きたのか?」なおヌーヴェルとは中短編小説であり、『「何が起きたの? いったい何が起きたのだろう?」という問いを中心にすえて全体が構成されるときヌーヴェルは生まれるのである』そして『われわれとしては、ヌーヴェルは複数の生きた線、肉体の線との関連で定義されるものであり、これらの線についてきわめて特殊な啓示を行うのだということを証明してみたい』ということで、ヌーヴェルその一、ヘンリー・ジェイムズ作「檻の中」、一八九八年 ヌーヴェルその二、フィッツジェラルド作「崩壊」、一九三六年 ヌーヴェルその三 ピエレット・フルーティオー作「深淵と望遠鏡」、一九七六年 の三作品について線をもとに何が起きたのか説明する。
9.一九三三年――ミクロ政治学と切片性『われわれは、あらゆる角度から、あらゆる方向に切片化されている。人間は切片的な動物なのだ。切片性は、われわれ人間を構成するすべての地層に含まれる』『国家は、さまざまな切片を養い、存続させておき、そこに力をおよぼしていくばかりか、みずからの内部に独自の切片性をもち、その受け入れを強要するものだからである』『要するに分子性、ミクロ経済学、ミクロ政治学とは、その要素が小さいことによって規定されるのではなく、その「群集」の性質によって規定されるのである』『いわゆる全面戦争とは国家による企てというよりも、むしろ国家を手中に収め、絶対戦争の流れを国家に貫通させる戦争機械が企てるものであり、このとき絶対戦争には国家の自滅以外に、もはやいかなる結末もありえないということだ。・・もはや戦争以外に目的をもたない戦争機械。破壊を中止するくらいなら、むしろ自分に仕える者すべてを滅亡させる戦争機械』
10.一七三〇――強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること・・記述量の多い章の一つであり、生成変化について能弁に語っている。『生成変化は想像力の世界で実現するものではないということだ。・・動物への生成変化は夢でもなければ、幻想でもない。生成変化は完全な現実なのだ』ドゥルーズは各人の思い出としてテーマに沿い語らせるのである。『一つの身体は、それを規定する形態によって定義されるのでもなければ、規定された実体や主体として定義されるわけでもないし、それが所有する器官やそれが果たす機能によって定義されるのでもない。存立平面の上では、一つの身体はもっぱら軽度と緯度によって定義されるのだ』『あらゆる生成変化は分子状なのだ。われわれは動物や花や岩石になるが、こういった事象は分子状であり、<此性>であって、われわれ人間の外部で認識され、経験や知識や習慣を動員してはじめてそれと知れるようなモル状の主体や客体ではないのだ』
11.一八三七年――リトルネロについて なお、リトルネロとはバロック時代の協奏曲に多く見られた形式で、リトルネッロと呼ばれる主題を何度も挟みながら進行する。ロンド形式と類似しているが、ロンドの場合にロンド主題が毎回同じ調(主調)で奏されるのに対し、リトルネッロ形式では、楽曲の最初と最後以外は主調以外の調で奏される、とのことである。『リトルネロとはテリトリーを示すものであり、領土性のアレンジメントだということ』『カオスからは<環境>と<リズム>が生まれる』『われわれはカオスの力から大地の力にたどりついた。複数の環境から領土に、機能的なリズムからリズムの<表現への生成変化>にたどりついた』そして『リトルネロは領土的アレンジメントに向かい、そこに落ち着き、そこから外に出る。一般に表現の質料が集まり、それが領土を成立させ、領土的モチーフや領土的風景に発展していくときこれをリトルネロと呼ぶ』のである。『リトルネロは、プリズムであり、時−空の結晶体である。リトルネロは、音や光など、自分を取り巻くものに作用をおよびし、そこから多彩な波動、分光、射影、そして変形を引き出そうとする。リトルネロは触媒の機能もある』
12.一二二七年――遊牧論あるいは戦争機械 重要な章であり公理、命題、問題形式で記述されている。公理一――戦争機械は国家装置の外部に存在する。 命題一――この外部性は、まず、神話、叙事詩、演劇、そしてゲームによって確認される。問題一−−国家装置(および集団におけるその等価物)の形成を妨げる手段はありえるか? 命題二――戦争機械の外部性は同様に民俗学によって確証される。命題三−−戦争機械の外部性は<マイナー科学>ないし<遊牧的科学>の存在と継続をかいま見させる認識論によっても確証される。問題二−−思考を国家モデルから引き離す方策はありうるか? 命題四−−戦争機械の外部性は最後に思考学によって確証される。公理二−−戦争機械は遊牧民の発明である(それが国家装置の外部にあり軍事制度と区別されるかぎりにおいて)。この意味で遊牧的戦争機械は空間的・地理学的側面、算術的ないし代数的側面、情動的側面、以上の三側面をもつ。命題五−−遊牧民の現実存在は戦争機械の諸条件を空間に現実化する。命題六−−遊牧生活は必然的に戦争機械の数的要素をともなう。命題七−−遊牧生活の<情動>は戦争機械の武器である。問題三−−いかに遊牧民は彼らの武器を発明し発見するのか? 命題八−−冶金術はそれ自身、遊牧生活と必然的に合流する一つの流れを構成する。命題九−−戦争は必ずしも戦闘を目的にしないし、とりわけ戦争機械は必ずしも戦争を目標にしない、もっとも戦闘は戦争から、戦争は戦争機械から必然的に導かれるのであるが(一定の条件の下で)。
13.BC七〇〇〇年−−捕獲装置 命題十−−国家装置の二つの極 命題十一−−第一のものは何か? 命題十二−−捕獲 命題十三−−国家とその形態 命題十四−−公理系と現状 この捕獲装置は『地代と利益の他に第三の捕獲装置、税がある』のであり、国家装置と結びついているはずである。
14.一四四〇年−−平滑と条理 『平滑〔滑らかな〕空間と条理〔区分された〕空間、−−遊牧民空間と定住民空間、−−戦争機械が展開する空間と国家装置によって設定される空間』の性質は異なっていて、これらの空間について織物、フェルトなどの技術的なモデル、音楽モデル、海洋モデル、数学モデル、物理学的モデル、美学モデルに基づいて説明する。これらの二空間は、事実上、互いの混合においてしか存在しえないのである。
15.結論−−具体的規則と抽象機械 本節は次の重要な用語の説明を行っている。「地層、地層化」、「アレンジメント」、「リゾーム」、「存立平面、器官なき身体」、「脱領土化」
最後に、〔原書の裏表紙にかかげられた跋文〕の一部を掲載する。『・・・それぞれのテーマが「プラトー」を、つまり強度の連続する地帯を形成するとみなされる。様々な地帯の接続はリゾームの線にそって、次々に、あるいは距離をおいて実現される。リゾームの線は芸術、科学、政治学の諸要素にかかる』のである。本書の最後に「解説−方法についての解釈について」と題して、宇野邦一が各章の読み方や分類をしていて、その通りであると思うので本書の内容を詳しく知りたい方はそちらを参照して頂きたい。そして本書は最初に述べてように、プラトー(高原)として、新たな概念への挑戦でありこの概念の提示であると思われ、特に地層、多様体のアレンジメント、存立平面、戦争機械などが重要であると思われるが、一貫しているのはこれらの諸概念が論理的に結びつきながらも、決して完全に統一された思想へと展開されないことであって、これはドゥルーズの意図であるかもしれない。提示されるもろもろの概念が抽象機械の描く抽象的な線によって描かれこの線がよじれ曲がってまた新たな展開や生成を探っているような気がして仕方がないのである。ドゥルーズの本を全部読み終えたら彼の意図するところを自らの思うままに記述したいとは思っている。
以上
|
|
|
|
2012年12月23日(日) |
ヘンリー・ミラー著 大久保康雄訳「北回帰線」を読んで |
本書ではヘンリーではなくヘンリとなっていたが、ワープロでは誤字と判定される。どちらでも良いのであるが、この感想文ではヘンリーとしている。この「ヘンリー・ミラー」は相当昔に読んでいたかと思うのであるが、最初の頁を読んでみて、たぶん昔には読んでいないはずである。名前を見て読んだかどうか判断するのは、特に昔はランダムに読んでいて、一冊しか読まずに記憶に残らず立ち去った作家もいるに違いなく、記憶とは不正確なもので曖昧なものである、そのような性格を持つ当てにならないものであるに違いない。
さて、読み始めると、詩的な文章で好いのである。最初の五十頁は感動して読むことができた。どこかランボーのように、この現実を剥奪、咀嚼、直訴するように書いていて好いのである。その後の百頁位は少し退屈してきた。同じようなことが綴られているからである。でも真面目に読んでいたが、混沌として代わり映えのしない文章に、残りのすべての文章、たぶん二百頁位は流し読みした。きっと「地獄の季節」のように頁数が少なければ、少し文章を切り詰めて呪詛と嫌悪に甘美な言葉も交えて表現すれば、きっと傑作本になったはずである。
裏表紙の文章を引用しよう、少し甘ったるいが。『ぼくは諸君のために歌おうとしている。すこし調子がはずれているが、とにかく歌うつもりだ。諸君が泣きごとを言っているひまに、ぼくは歌う。諸君のきたならしい死骸の上で踊ってやる』 やはりどこかランボーに似ている。訳者の大久保康雄も解説において確か指摘していたはずと思っていたが、今調べるとロレンスは出てくるが、ランボーが出てこないのである。またしても記憶違いか、もう頁を捲り探すのは止めよう。
本書は訳者大久保康雄の解説に基づくと、やはり筋がない小説とは言えない混沌とした代物であり、性的描写の過激なるがゆえに発禁本ともなったとのことである。シュールリアリズムとリアリズムを使い分け、また創作部分と自らの体験部分とを混ぜているということである。この混沌も面白くないこともないが、私は微妙に筋がある方が好きである。また性的描写の過激さはそれほど感じない。むしろこの性的な描写と友人との無駄な会話がこの貴重な本の品質を落としていると思っている。当時としては賛否両論あったらしいが惜しいものである。でも混沌を含みうごめく生命を描いていて詩的に表出する文章からなる良い本であるとも思うが、ただ吉本隆明の述べる「自己表出」が多い文章が並ぶと、返ってうんざりするものでもある。吉本隆明の「言語にとって美とはなにか」にさまざまな作家の「自己表出」文が引用されているが読むのが嫌になってすっ飛ばしてしまうのである。どうも「自己表出」なるクライマックス部分は静かにゆっくりと訪れるほうを好むようである。最近はダイナミックよりもスタテックな文章の方が好きである、いやきっとどちらの文章とも、それに幻覚的な文章も好きであるはずである。
さて、感想文を書こうと思ったがこれ以上書くことが思い浮かばない。ヘンリではなくヘンリーのヘンリー・ミラーの「南回帰線」を読むことはもうないであろうと思われる。
以上
|
|
|
|
2012年12月16日(日) |
荒金直人著 「写真の存在論 ロラン・バルトの『明るい部屋』の思想」を読んで |
なぜかロラン・バルトの『明るい部屋』を読むつもりが、その解説本を読んでしまったのである。致し方ない。著者は学生との講義、ゼミを通じて『明るい部屋』を活発に議論していて、その真摯な結果が本書には表れていて、論理的にも筋が通り表現も哲学的に相応の力量があって良い本である。ただ、写真や存在の意味論がふらついていることだけが気に掛かった。どうもロラン・バルトはサルトルの存在論の影響を受けているらしい。マルニエの根の醜悪な存在、露になった存在を思い浮かべれば、バルトがどういう存在論的な思考になるかおおよそ見当がつくが、本書に記述されていることをざっと述べて感想としたい。
「私にとって存在している写真」が「私のうちに微細な歓喜を惹き起こす」ものであり、「出来事として到来する写真」が、即ち「主観への現われ」が、主観と主観に訴える写真との関係がバルトの写真論の根本であると著者は述べる。こうして「存在している写真」は写真に関する一般的関心や文化的興味を惹き起こす「ストゥディウム」と、その一般的関心を妨害し私の方に突き刺さってくる「プンクトゥム」の二重性を持つ概念にバルトはまとめていると著者は述べる。「ストゥディウム」は常にコード化されているが、「プンクトゥム」は言語化が困難で「名指すことができない」ものなのである。そして、絵画がその指示対象が現実に存在したことを強制できないのに対して、写真は存在していた事実を強制する、否定できない強制力を持って主観に現われてくる存在を与えるものなのであり、過去の存在を経験させるものなのである。更に写真は記号ではなく「事象それ自体になる」ものであり、存在一般を問わざるをえない存在なのである。
このあと著者はデジタル写真やコンピューターとの親和性、改変された写真、記憶と記録などに対して、バルトの概念などが成立するかどうか考慮している。写真の問いと存在の問いはどうしても切り離せない関係にあるのであり、特に存在の経験(写真)と経験の経験(記憶)について著者はあらゆる経験がそこで経験としての地盤を失う<経験の臨界点>という考え方を取り入れ、意味との係わりを持たない純粋な経験などないのだから、『経験の臨界点に向かう経験として写真経験を考えるべきである』とする。この意味と係わりの持たない純粋な経験などないと著者は言っているが、実は意味と係わりの持たない純粋な経験があるのではないかのというのが私の考え方である。言い忘れたが、確か存在が意味を剥奪されてそこにあるといいながら、後になって意味を付加してくる点が私には論理的にふらついて見えたのである。意味を剥奪された存在があり、意味と係わりのない経験があるのである、あるはずなのである。まあ、まだ、私の考え方もまとまっていないし、ドゥルーズをほぼ読み終えた時点で存在やイマージュに対する自らの考え方をきちんとまとめて、それなりの感想文を書きたいものである。
以上
|
|
|
|
2012年12月13日(木) |
東京国立近代美術館偏「アンリ・ミショー ひとのかたち」を読んで |
本書は2007年に国立近代美術館にて開催された、「アンリ・ミショー展 ひとのかたち」に際し出版されたものである。アンリ・ミショーのムーヴマン、メードザン、グワッシュなどが、技法としては、墨絵、油彩、メスカリン素描などが、アンリ・ミショーの詩もしくは詩的散文とともに掲載されている。
確かミショーの絵は何時であったかどこかの本の中で見たことがあるはずである。文章よりもこの絵に関心を持ったはずで、改めて見直してみるとやはり良いのである。シュールリアリズムとは距離を置いたミショーの絵はュールリアリズムよりもシュール気が抜けて奇異を狙わず、ある意味で抽象化されていて、はるかに好いのである。そしてドゥーズがたびたび引用するクレーよりも私はミショーの方が好きである。ただ、フランシス・ベーコンがポロックよりも優れていると言ったとか、言わないとか、そうした話があるが、ポロックよりは劣ると思う。なぜならシュールリアリズムよりも抽象化されているが、まだ完全に線として描画として抽象化されていないからである。まだ形を残していて形を通じて何かを伝えようとしている意図が見えるためである。
完全に抽象化されたのはポロックたちの抽象絵画であろう。フラクタルな曲線は抽象化というより自然そのものである。たぶん最高の芸術は自然そのものの中にあるはずであり、芸術家は自然からその意図、崩壊するならその秩序と過程を見出して描くのが良いと思う。渦巻く銀河、爆発する超新星、葉脈の枝分かれ、川の流れ、波打つ海などの絵などはわくわくさせて心を引き付けるものである。そういう意味で言えば、印象派や象徴派などの絵は心を、感じる心を露骨に表現しているために劣ると言わざるを得ないはずである。なぜなら自然そのものは感情を、感じる心を排除しているからである。ただ人間が勝手に感じ取っているに過ぎない。露骨に絵画へと変換された心はあまり見たくないものであり、あまり関心がない。この頃は、線と面と点などによって何も語らない画が好きである。
以上
|
|
|
|
2012年12月6日(木) |
マルセル・シュウォッブ著 多田智満子訳「少年十字軍」を読んで |
九つの小作品の集まりであるが、最初の一遍「黄金仮面の王」を読んだとき、とても好いなと思ったものである。筋立てに工夫がしてあって、黄金仮面を付けた王が乞食の慰めによって外に出る。偶然出合った乙女にくちづけしようと仮面を取ると乙女が逃げる、水に顔を映して自らがライ病であると知るのである。王は自ら仮面を取り、神官や妃嬪にもそれぞれの仮面を剥ぎ取らせる。歴代の王の欺きによって、王はライ病を受け継ぎ仮面を被っていたのである。そして、自らの目にオィデップスのように鉤を突き刺すのである。暗い野をさまよって、盲目の王は若い娘と会い流れる血をぬぐってもらう、若い娘の唇に唇を休ませることを望みながら、穢すことを恐れそのまま王は死んでしまうのである。ところが流れ出る血によって王のライ病は治っていて、この若い娘こそがライ病を病んでいたのである。最後に乞食が娘に言う。「しかし、いまやすべての仮面を、黄金の、ライ病の、肉の仮面を、この人はことごとく脱ぎ捨てたのだ」
訳者である多田智満子が言うように、とても詩的な文章でもある。「白い」という言葉がほんとうにとても印象的である。ただ、訳が少し硬いのか、原文がそうなのか良く分からないが、もう少し丸みを帯びた文章の方が一層詩的になるような気もするが・・。マルセル・シュウォッブという人は1867年にフランスに生まれたユダヤ系の人らしい。情熱的な恋をし、三十七歳で死んでいる。「モネルの書」、「ギリシア猿楽」、「架空伝記集」などの著作があるとのことである。「少年十字軍」は現実の出来事を元に作った作品であるとのことであるが、やはり詩的であり、彼の感性は暖かみと優しさに満ちていて、とても好いのである。
以上
|
|
|
|
2012年12月4日(火) |
エミール・ゾラ著 寺田光徳訳「獣人 愛と鉄道物語」を読んで |
本書は全部で十二章からなる約500ページの大作である。読んだのは一章と十二章の二章だけである。一章を読んだとき、読み切れない文章だと思い、物語そのものの大部分を読み飛ばしたのである。確かゾラは自然主義文学と言われていたかもしれないが、素直に現実を捉えてそのままに表現する会話や行為に風景の描写力に、良いとは思いながらどこか戸惑いを覚えたのである。そしてその文章が全体を貫通しているのはどうしてもやり切れない。若い頃なら読めたのかもしれないが、例えば志賀直哉の「暗夜行路」などは読み切ったはずであるが、今はマゾッホのような幻覚的な異端的な魔教的な内容のほうが俄然好きなのである。
ただ、ゾラは頽廃主義文学とも呼ばれていたかもしれないが、殺人を起こすその動機は饒舌な語り口の中に情動を、押さえ切れない狂気を忍ばせていて、決して文章が下手なわけではない。やはり頽廃文学ではなくて条理にかなった筋立てに基づき構築された自然主義文学であるのだろう。この表現される情動と狂気はそれなりに納得できるのである。訳者による解説によるとゾラは執筆草案で「こうした列車の機械的な轟音、つまり社会的、知的成果を背景にして、神秘的で胸をえぐるようなドラマによって示したいのは、感情面での現在の状況、言い換えれば人間の奥底にひそむ野蛮さである。それは獣性の遺伝であり、夫は愛人を襲い、エチエンヌは遺伝病で人殺しをする」と言っていたらしく、そのように物語は完成されていると思われる。
また訳者によるとゾラは、フロイトに先駆けて「エロスとタナトスの結合から無意識へ」の先見性を発揮していたらしい。ネットで調べると、セザンヌと絶交したゾラであることがわかり、やはりそうかと思ったものである。
以上
|
|
|
|
2012年12月2日(日) |
ピエール・クロスキー著 若林真訳「ロベルトは今夜」を読んで |
ロベルトは今夜、男に背後から抱かれ甥に覗かれながら、震える手で夫の口の中に毒を注ぎ込むのである。
確かそういう情景であったかも知れない。本書は「ナントの勅令破棄」と「ロベツトは今夜」の二つからなり、両方とも妻ロベルトと夫オクターヴが主人公である。最初の「ナントの勅令破棄」を半分ほど読んだ時点で面白い作品ではないと悟り、さっと読み飛ばしたため、この最後の場面が正確な表現かどうかは分からない。文章が長すぎて緩慢であり、それが性描写や何らかのありきたりな思想を述べているだけとするなら、確かにそのようにありきたりであって読み飛ばすしかないのである。
夫は退職を間近にした神学教授で、ロベルトを男どもの共有化にして、妻の中に原罪を植え付け、戒律があることを知らしめようとしているらしい。だが、ロベルト無神論者で肉体を享受するだけのようである。オクターヴの絵画論は、フーコーの「言葉と物」に描かれた確かベラスケスの絵画「宮廷の女官たち」の文章に質的に比べようがなく緩慢で、この老神学者の野望は活人画を描き切ることはできない。ロベルトは今夜活人画から抜け出て新しく誇りをもって肉体を持ち、甦ることができるであろう。それとも何かに対して魂や肉体が悩むのであろうか。よくは分からないが、マッゾホの作品のほうが面白かったのは確かである。
以上
|
|
|
|
2012年11月25日(日) |
ドゥルーズ著 宇野邦一訳「襞 ライプニッツとバロック」を読んで |
今まで読んだドゥルーズの著作物は難しいけれども、どこか分かるような気がしていたが、本書はなぜか理解できる気が全然しなかったのである。途中まで読んで、ドゥルーズ自身が既に保有しているはずの知識を前提にして、例えば、モナド、微積分学、論理学、言語学、バロック、物理学などの多数の知識を説明なしに駆使し使用しているためだと気がつき、慌ててまずモナドについて調べたのである。
フリー百科事典ウィキペディアによると、モナドとは『複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真の存在者である。従ってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象perceptionと欲求appetiteとを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるのである。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである』と記述されている。
このモナドの理解により、その後本書はやはり難しいが割りとスムーズに読むことができたのである。なお、遅れたが本書は、ドゥルーズによるライプニッツ論であり、その主要な概念は「たえまなく襞を生み出すバロック」をベースにして、襞とモナド論が中心になっている。特にモナドと世界との関係はなるほどと納得させられたものである。本書は主要な三節、全9章から成り立っているが、頁を捲りながら気ままに各節の概要について書いてみたい。なお理解できた範囲であることは断っておく。
T 襞
第1章 物質の折り目
バロックは襞を折り曲げ、無限に襞を増やしていくが、襞に二つの差異を与え、この無限は「物質の折り目」の下の階と「魂の襞」という上の階の二つの階層をもつかのようであるとドゥルーズは述べる。この二階層から始まってドゥルーズの論理が展開されていくのである。物質は弾性であり、無限に分割され、下の階では有機物的な物質からも成り立っているとする。物質に内部を与え個体化の原理をはたらくようにするのは有機的身体であり、有機体は自分に固有の部分を無限に折り畳み、また折り目を広げる力よって定義されるとする。この物質の劇場(下の階)が精神の劇場(上の階)に移行できるのは、即ち魂が身体といつも不可分でありながら、物質の折り目に閉じ込める動物性を身体に見出しながら、魂を上昇させ、他のあらゆる襞の上まで高める有機的な人間性を見出すことができるためであるとする。つまり魂と身体は不可分でありながら、建物の二つの階に魂と身体なる物質に区別され配分されるのである。
第2章 魂の中の襞
変化する湾曲の、つまり襞の理念的な発生要素とは屈折であるとする。ここでドゥルーズは三種類の線を描いて見せるが、観点という概念を導入する。これは複数の線が交差し出現する、変化あるいは屈折を表象する箇所である。こうして変化する湾曲から、湾曲の焦点に、変化から観点に、襞から包まれた状態に、屈折から包摂という概念を導き出す。包摂がなされ、完成された行為という意味で包摂するもの、観点でもなく、観点にとどまるもの、観点を占めるものが、一つの魂であり、主体なのである。『まさに一つの魂こそが、自分の観点から捉えたもの、つまり屈折を包摂するのである。屈折とは、それを包み込む魂においてだけ現実的に存在する理念性あるいは潜在性である。こうして魂こそが襞をそなえ、襞にみちている』とドゥルーズは述べる。こうして『世界全体が、それを表現する魂の襞においてのみ現働的に存在する一つの潜在性にすぎない。魂は内部において拡げられた襞を操作し、これによって魂は包摂される世界の表象を獲得する。・・包摂は魂または主体を定義する』のである。この魂あるいは主体にライップニッツが名づけた名前がモナドなのであり、ライプニッツは屈折としての無限の系列として考え、他方包摂をめぐる完全不可能な個体的統一性としてこのモナドを定義したのであるとドゥルーズは述べる。『世界がもし無限の系列であるならば、このとき世界はもはや個体的でしかありえない一観念あるいは一概念の論理内容を構成し、それゆえに、それぞれが独自の還元不可能な観点を保存する無数の個体化された魂によって包まれている』のである。即ち世界は個体的であり、かつ無数の固体化された魂に包まれているとドゥルーズは指摘する。
第3章 バロックとは何か
『バロックは新しい光と色彩の体制と不可分である』とドゥルーズはバロックに関してこう述べる。上の階の戸も窓もない部屋の中にいるとすれば、私たちはほとんど黒の「暗い地」に覆われているのであり、でも光が天窓から、肘型に曲がったあるいは折れた開口部から、鏡を介してやってくるのであり、光が灯るとき白がしだいに影を帯び、モナドの全体のなかの暗い底にむけて広がっていくにつれ、暗さに影に場を譲ってしまうのである。こうしてバロックにおけるモナドや襞について述べた後、バロック芸術とライプニッツがもたらしたものについてドゥルーズは次のように総括する。1,襞 2.内部と外部 3.高みと低み 4.拡げられた襞 5.織物 6.パラダイム
U さまざまな包摂
第4章 十分な理由
言語論に論理学と数学的知識が混じっていて、かつデカルトの延長と物体の概念に反駁してライップニッツ論を展開している理解の難しい章である。「すべてが理由を持っている」のであり、これは原理の叫びであり、理性の叫びであるとドゥルーズは言う。『因果関係が及ぶということも含めて、一つの理由をもつことを要求するのである』のであり、『物に起きることを出来事と呼ぶならば、十分な理由とは、出来事をその述語の一つとして含むものである』こうして、屈折から包摂への道筋になったのであり、『屈折とは、線あるいは点に対して起きるできごとである。包摂とは、線あるいは点の概念に、つまり形而上学的と言われるようなあの別の点に屈折を導く述語化の作用である』と述べて、ドゥルーズは物の出来事から観念の述語に移るようにして、主語と述語に関して、命題に関して述べる。そしてやはり神の無限と属性や<存在>、実体の話も含んでいくが、述語とは一つの行為、運動、変化であり、命題そのものなのである。ドゥルーズは存在の分類をキーに、述語、主語、包摂、無限、原理を一覧表としてまとめている。つまり『諸原理を創造しようとするこの法外な哲学活動においては、・・むしろ二つの極があるのであり、一つの極にむかって、あらゆる原理はいっしょに折り畳まれ、もう一つの極にむかって、反対にあらゆる原理はみずからの帯域を区別しながら襞を広げるのである』がどうも結論らしい。
第5章 不共可能性、個体性、自由
世界は特異点のまわりで、たがいにおいて延長可能な無数の収束する系列なのであり、従ってそれぞれの個体、それぞれの個体的なモナドは同じ世界の総体を表現しているのである。ところが獲得された諸系列が、特異点の近傍で発散するときには、ある別の世界があらわれるのである。即ち一つの世界を構成するたがいに延長可能な収束する系列の総体、同じ世界を表現するモナドの総体は共可能的であると呼ぶとするなら、発散するゆえに二つの可能世界に属する諸系列、そのおのおのが他の異なる世界を表現するモナドは不共可能性と定義することができるのである。『それぞれのモナドの中心には、もろもろの特異性が存在するが、それはいつも個体的な観念の必要条件なのである。おのおのの個体が世界の一部しか明晰に表現しないということは、実在的な定義から由来する。それは構成要素としての特異性によって限定された区域を明晰に表現するのである。おのおのの個体が世界全体を表現するということ、これも実在的な定義から由来する。それぞれを構成する特異性は、実際に、他の特異性に届くまであらゆる方向に延長されるからである。その条件は、対応する諸系列が収束し、それによっておのおのの個体が共可能的世界全体を包摂し、この世界と不共可能的世界な他の世界だけを排除するからである』こうドゥルーズが述べるからには、特異性とともに収束するあらゆるモナドとは共可能的であり、特異性が発散しあるいは延長されないならそのモナドとは不共可能的なのである。世界の戯れは特異性を放出する、戯れとは原理そのものであり、空虚が充たされるまでの空の場所を飛び越え、飛び越した駒を払うのではなく、自分の飛び越した欠落を充たすものであり、チェスではない囲碁に近いとドゥルーズは言う。そして、『意志的な行為とは自由なのである。自由な行為とは、持続の一定の瞬間に魂全体を表現する行為、自己を表現する行為である。・・包摂の体系において脅かされているのは自由ではなく、道徳である』とドゥルーズは述べ更に魂の進歩に関して憎しみと怒りに基づき話を続ける。即ち、呪われたものは、その最後の思考が神への憎しみだったのであり、ライプニッツの楽天主義は無数の呪われたものに根拠を持っているが、彼らは最良の基盤であって、可能な進歩の無限量を解き放ち、それこそが彼らの怒りを倍増し、進歩する世界を可能にする。ただこの進歩の総量は無限の系列の計算によって永遠に決定されている、とドゥルーズは述べる。この進歩させる呪われたものとは何か、誰なのか、なんとか想像できる気がする。
第6章 一つの出来事とは何か
『出来事は一つのカオスの中に、カオス的な多様体の中に生じるのだが、それにはある種の篩(ふるい)が介入するこが条件である。・・カオスとは純粋な多であり、純粋な離接的多様さであるが、何かとはある一つであって、・・任意の特異性を指示する不定冠詞なのである。』つまりカオスとは可能なものの集合であり、実在を目指す限りにおいて、カオスとはすべての個体的な本質なのである。カオスとは普遍的な眩暈であり、無限小のものであり、ありうべき知覚の集合であり、篩はそこから知覚の中に組み込むことのできる微分をとりだすことができるである。この篩は全体と部分の系列を無限に構成するのであるが、カオス的な任意の系列に見えることもある。全体と部分の連結が無限の系列を形成するとき、即ち出来事の構成要素として外延が存在するとき、出来事とは一つの振動であり強度である。また出来事の構成要素として、あれよりもむしろこれの指示代名詞であり、個体という人称的なものであり、そして侵入なのである、とドゥルーズは言う。『外延はたえず移動してやまず、運動によってさらわれる部分を、獲得しては失う。事物はたえず変質するのである。・・出来事とは流れである』 そしてドゥルーズは『分岐、発散、不共可能性、不調和は、同じ多様な世界に属し、この世界は表現的な統一性に包摂されることはありえず、把握的な統一性にしたがって、また可変的な配置や、変化する捕獲作用につれて、形成されては解体されるだけである』と述べる。つまり発散する戯れになったがために、もろもろの存在は引き裂かれ、収束する世界上に閉じられず、不共可能的な集合によって開かれたままとなるのである。
V 身体をもつこと
第7章 身体をもつこと
『私は身体をもたなければならない。・・一つの身体をもつがゆえに、われわれの中に薄暗いところがあるのではなく、われわれの中に薄暗い場所があるゆえに、われわれは身体をもたなければならないのだ』ライプニッツの思想に基づいてドゥルーズはこう述べる。『無数の個体的モナドが存在するからこそ、各々のモナドは個体化された身体をもたなければならないのであって、この身体は一つのモナドの上に映った他のモナドの影のようなものである』そして『世界は、それを表現するモナドの外には実在しないので、世界はそれぞれのモナドに、知覚や「表象するもの」の形で、つまり無限に小さい現実的要素として包摂されている』と続ける。こうしてドゥルーズは知覚が世界を微粒子状のもとし、いかにモル状の知覚に移っていくか、微分的な考え方に基づき、微分の相互的な限定から小さな知覚の対象を限定し、更に小さな知覚を選択し、意識的な知覚を生み出すことについて論じる。『いつも私は二つの襞の間で襞を拡げる。もし知覚することが襞を拡げることなら、私は襞において知覚するのだ。知覚は対象をもたないのだから、あらゆる知覚は幻覚的である。大きな知覚は対象を持たないし・・小さな知覚も対象をもたず、・・世界は・・モナドの中に折り畳まれていて、小さな知覚は、世界を表象するものとしてこれらの小さな襞なのである』とドゥルーズは述べる。このあとなぜ身体なしですまされないのかについて、「小さな知覚/意識的な知覚=物質の振動/器官」の式であらわされるような相似や類似に微分法に基づいて論じる。
第8章 二つの階
『モナドは、おのおのと他のもの全体の関係にしたがって、配分的な単位なのであり、一方、身体は、あるものと他のものという関係にしたがって、集合的であり、群れであり、集積なのである。・・上の階には理性的なモナド、あるいは<おのおの>があって、・・作用しようもなく・・個室のようであるが、下の階には身体の物質的宇宙があって、たえず運動を伝え、波動を拡げたがいに作用しあう<共通のもの>がある』とドゥルーズは言う。こうして『上の階には個体的存在と真の形式あるいは始源的な諸力があり、下の階には塊と派生的な力、もろもろの形態と構造がある』のであり、個体的存在とは最後の十全な理由となる。ただ、形態の序列と調和と変化が構成要素の個体性を失わせて複合的な集まりのタイプに、物質的なまたは二次的な結合の力をもたらすために、下の階ではもはや何にも還元できないのである。こうして下の階では、世界の錯綜した線はモナドに現働化される潜在的なものとなる「潜在的−現働的」であり、一方、「可能的−実在的」という対も存在するのである。即ち『世界とは、モナドあるいは魂の中で現働化される潜在性であるが、また物質や身体において実在化されなければならない可能性であるのである』とされる。こうして紐帯によって所有物を振り分けるような身体についてドゥルーズは論考を進めていくが、紐帯の主語としての支配的なモナドと支配されるモナドとを明確に区別する。ただ紐帯が支配される可変的なモナドではなく、じかに支配的あるいは恒常的な要素に結びつく場合には、それは身体の個体性を決定する、即ち私のもつこの身体は私の身体なのであると言う。更に支配するモナドでもない、支配されるモナドでもない第三のモナドがあるのであり、外から期待するものが現実態に移行することではなくて、次の瞬間には再創造される傾向であり、この第三のモナドは照明するのでもなく照明されるのでもなく、点滅するのである。結局『われわれは身体を実在化するのではなく、魂において現働的に知覚されたものを、身体において実在化するのである』とドゥルーズは述べるのである。
第9章 新しい調和
『もしバロックが無限にいたる襞によって定義されるとしたら、それはもっとも簡単には、何によって識別されるのだろうか』とドゥルーズは問い、『着衣の物質が暗示しているように、何よりもまずそれは繊維のモデルによって識別されるのである』とドゥルーズは自ら答え、こうしてバロックの衣服について、絵画に表れる衣服、テーブルクロス、更に建築、彫刻物について述べる。圧縮され折り畳まれ包まれていても、これらは世界を拡大し伸張させる力能なのである。そしてドゥルーズは調和について考慮する。即ち、有理数の無限級数を発見することは可能であって、この時調和的とはnの逆数の1/nように逆数あるいは反数の形式である。モナドはもっとも「単純な」数であり、つまり調和的な逆数、反数であって、神の反転したイメージである、∞/1ではなく、無限の逆数1/∞であるゆえに、無限の<存在>が調和的と判断するもの、この<存在>が、世界の鏡あるいは表現として知的にモナドを認識することができるとする。調和の二つの側面、「協和」、「協調」それらの連鎖についてバロック音楽に基づきドゥルーズは述べる。『世界は今や発散する系列(カオスモス)によって構成されており、骰子の一が<完全なもの>の働きにとってかわるかぎり、モナドはもはや、投影によって変化しうる閉じた円環のようなものの中に世界全体を包摂することはできず、ますます中心から遠ざかって膨張する軌道や螺旋の上に開かれる。・・』という最後の文章は詩的で好きである。
どうも襞とは線、曲線、湾曲した線、隠蔽する線であって、繊維となることによって、折り畳まれることによって、より複雑化するように思われる。拡げられることによって遠くに開かれ投げ捨てられるような気がする。
以上
|
|
|
|
2012年11月18日(日) |
レオポルト・フォン・ザハー=マゾッホ著 藤川芳郎訳「魂を漁る女」を読んで |
マゾッホの作品は先日の「毛皮を着たヴィーナス」に続いて二作目である。三割ほど読んだところで、本書がありきたりであり「毛皮を着たヴィーナス」の方がマゾッホの思想が明確に表れていて良い作品だと思っていたが、推理小説や冒険小説の優れた例に漏れず、後半は悪魔的儀式の描写力、ドラゴミラとアニッタの対決など引き込められるように読み進め楽しむことができた。そして最後には正義が勝つのである。本書の表書きの紹介では、ドゥルーズが絶賛した暗黒小説と記述しているが、楽しむことのできる冒険小説と言うことができると思う。ドゥルーズがもし褒めていたとしたなら、魂について、それも暗黒な魂について書いているためであると思われる。平行して読んでいるドゥルーズの著作「襞」では、ライプニッツのモナドを元にした魂について記述されている。この「襞」の感想を記述する時に、魂の問題に触れたいと思う。
本書で記載される魂とは、人間の心であり命である。「魂を漁る女」とは人の心を虜にし教団の生け贄として従わせ神に捧げる女のことを言う。アニッタはドラゴミラに向かって叫ぶ。「何もかも、あなたの心が殺人と血を求めているからなのよ。この地獄の祭司、魂を漁る女!」こうしてアニッタは愛する青年士官ツジェムを救うために、ドラゴミラと戦うのである。では、なぜドラゴミラはそうするのか、彼女は初めて体を委ねたソルテュク、結婚したばかりの夫でもあるソルテュクに言う。「私は祭司、あなたは生け贄なのです。あなたは罪を贖う。そして卑下と苦痛によってあなたの魂が浄化されたなら、そのとき私があなたを神に捧げます。嘗て、アブラハムがイサクを捧げたように」即ち、神に捧げるためには罪を贖い魂の浄化が必要なのである。ドラゴミラは言わば神のために魂を浄化し救済しながら、魂を悪魔から救い永遠の堕落から救い、生け贄を捧げているのである。
では、神はアブラハムに要求したように生け贄を望んでいるのだろうか。こういう疑問が生じるが本書が長いために調べるのは止めよう。ただ、アポストル(ドラゴミラの唯一の仕える者)の次の行為は手掛かりにはなるだろう。『アポストルは十字架に向かい、これから流される血を、生け贄として捧げられた人間ならびにすべての人間の罪の償いとして受け入れられんことを、と神に懇願した』即ち生け贄が受け入れることを神に懇願しているのである。生け贄を神に捧げるのは神の意志ではなくて教団の意志と見るのが穏当であろう。言い換えれば教団が血の儀式を必要としているのである。
そして、アポストルの次の最後の言葉はすべての者の救済の必要性を説いている。「そなたは愛ゆえに、神を冒涜し、神の僕たちを迫害するあの者たちを罰するのだ。そして彼らを罰するのは、目も見えず耳を聞こえぬあの者たちに天国を、永遠の至福を得させるためであり、あのものたちを悪の力から救ってやるんだ」この教団の見解は、最後には正義によって打ち滅ばされる。本書は読んでいて面白いが、やはり「毛皮を着たヴィーナス」の方がマゾッホの思想が良く表れていると思われる。
以上
|
|
|
|
2012年11月11日(日) |
土屋大洋著「サイバー・テロ 日米VS.中国」を読んで |
サイバー空間とは何か、そしてその空間の中で起こる出来事について、知りたくて読んだ本である。サイバー空間の定義は書かれていなかったが、サーバーなどのコンピューターで構成される空間、サイバースペース即ちインターネット空間のことであるに違いない。
著者は、日本の情報セキュリティに関して公の仕事に携わった経験があるらしく、日米、中国などに生じたサイバー・テロを中心に話を進めていくが、それほど新味があるわけではない。まず初めに著者はネット・ウォーとサイバー・ウォーに分ける。前者がネット上での破壊、損壊、変更であるなら、後者は物理的な破壊であるということである。そして、サイバー・テロとはもはや国家間の戦争であるし、例えば電気通信、原子炉などのインフラストラクチャが攻撃の目標になるのである。陸海空軍の攻撃の前にサイバー攻撃によってダメージを与えておけば、自国に有利に展開できるはずなのである。従ってネット・ウォーとはサイバー・ウォーの前哨戦と位置づけることができる。
このネット・ウォーの戦いは激しさを増しつつある。これは、陸海空、宇宙以上に負けず劣らずサイバー空間上における技術的な優劣が重要なことを意味する。サイバー空間を構築する部品に紛れ込む「偽物製品」やハッカーの育成、ここでハッカーとは悪意を持つ者と一般的に理解されているため、過剰に知的である人物として「ギーク」という言葉を著者は使用する、いわゆるサイバー戦士、そしてサーバーセキュリティの問題、組織上の問題、例えば精製された情報を政府に提供するインテリジェンス機関などについて、更に海底ケーブルなどの冗長構成の必要性、サイバー攻撃シミュレーションについて著者は語る。無論法律の問題も絡まってくるのである。
ここで特に印象に残った文章を引用する。『優秀なギークたちに政府は十分な報酬を払うことができない。仮に彼らを政府の中に引き入れることに成功したとしても、すぐにまた出て行かれて、政府内部の脆弱性を知らしめてしまうだけになる。・・ギークたちは、もはや社会の中で蔑まれる存在ではない。社会が情報通信技術に依存を深めるほど、彼らの能力は必要となり、彼らが多様な社会システムの根幹を握るようになる。そして、やがてはその力を政治的な目的に使うようになる。これが今起きているさまざまな問題の一つの要因である』分子状のものがまさに逃走しモル状のものに襲い掛かるか平伏するか、それともモル状の中に安らぎを得て一つの分子として暮らすかが問題となるのである。それはそれぞれのギークの生き様に関係したことでもある。
さて、サイバー空間とは何か。ネット上の辞書により調べると『コンピューターネットワーク上の仮想的な空間。インターネットとほぼ同義に扱われることもある。元は米国のSF作家、ウィリアム=ギブスンの自著で使用した「サイバネテックス」と「スペース」を合成した言葉。電脳空間。サイバー空間』とのことである。
以上
|
|
|
|
2012年11月4日(日) |
フェルナンド・ペアソ著 澤田直訳「ペアソ詩集」を読んで |
読んだ本は思潮社刊「海外詩文庫16 ペアソ詩集」である。初めて読む詩人である。目次を見たとき、四人の名前が記載されていて、不思議だなと思いながらも読み進めると、それほど難解でもなく叙情的でもない。むしろ存在論的に分裂症気味な自己への問いかけが綴られている詩が多い。普通の文章とも思われるが、妙に歪んでいる文体が気に掛かるのでる。何篇かの詩を気に入るが、それほど熱中させる詩人でもない。本の表紙に記述されている詩はこうである。
詩人はふりをするものだ/そのふりは完璧すぎて/ほんとうに感じている/苦痛のふりまでしてしまう 書かれたものを読む人が/読まれた苦痛のなかに感じるのは/詩人のふたつの苦痛ではなく/自分たちの感じない苦痛にすぎない こんなふうに軌道のうえを/理性を楽しませるためにまわっている/そのちいさなぜんまいの列車/それが心と呼ばれる
今ワープロしながら「自分たちの感じない苦痛にすぎない」を「自分たちの感じる苦痛にすぎない」と誤読していたことに気づく。「感じない/感じる」の違いは大きい。速読していたため、自分の苦痛を感じると勝手に思い込んでいたのである。無論「感じない」の方が苦痛の所在無さを増幅させる。この詩を読み返すと、詩人は苦痛を感じているのか、苦痛を感じているふりをしているのか、そして読む人がその詩人の苦痛を感じるとることができるのか、できないのか何だか分からなくなるのである。先に「妙に歪んでいる文体」と述べたのは、ペアソのこうした文章のことを示していて、主体の不透明さや不確さに起因すると思われる。たぶん、ふたつの苦痛とは感じることとふりをすることの苦痛の宙吊りの状態を指し示しているはずであり、読む人(他者)はこの宙吊りの苦痛を感じ取ることはできなくとも、詩人の苦痛を感じ取ることができるはずなのであり、それはもはや別の苦痛である。というよりこの宙吊りの苦痛そのものであるのかもしれない。この詩が好きなのは、その後に続く「心と呼ばれる」の定義が理性的に明快に行われ、前半の歪んだ文体が一層際立って、かつ理知的に終わっている点にある。原文で読めたら良いと思うけれども無理である。この際もう一つ別の詩を紹介しよう。
事物の驚くべき実在性/それが日々のわたしの発見/あらゆるものがそれ自身である/この事実がどれだけわたしを喜ばせるか/そしてそれだけで十分なのか 説明するのは難しい 完璧であるためには 存在するだけでよい・・・わたしは 石をじっと眺めることがある/石に感覚があるだろうかとなどと自問しているのではない/石に わが妹よ と呼びかけるような 世迷い言は言わない/そうではなくて 石が石であることが好きなのだ/石が何も感じないから好きなのだ/石とわたしがまるで関係ないから 好きなのだ・・・
訳者による解説、複数の著者による詩人論が載っているが、ペアソは複数の筆名もしくは異名を持っていたらしい。アルベイト・カエイロは師であり、太陽であり、リカルド・レイスは形式を、アルヴァロ・デ・カンポスは感覚を、フェルナンド・ペアソは象徴を信じ、師であるカエオレの太陽の周りを回る惑星のようなものであったらしい。詳細は本書を読んで頂きたい。最後にたぶん一番好きな詩の一部を載せる。
月光と茂みの間を、/静寂と木立の間を、/夜気と微風の間を、/一つの秘密が渡っていく。/我が心よ、その後を追え。
以上
|
|
|
|
2012年10月28日(日) |
ザッヘル=マゾッホ著 種村季弘訳「毛皮を着たヴィーナス」を読んで |
ドゥルーズ著の「マゾッホとサド」を読んだのが、今年の春先である。もうこの本の内容は記憶にないがマゾッホの本を読んでみたいと、その時から思っていて、そしてやっとこの「毛皮を着たヴィーナス」を読むことができたのである。当時書いた日記を読み返してみて、記述不足が明確である。マゾとサドについて、その関係につき強度や深度とか契約とかの言葉を用いてドゥルーズは論理的に展開していたはずなのである。それらが十分に記述されていない。
日記の中で、役に立ちそうな文章は『サディズムが否定性と否定に基礎を置いているのに対して、マゾヒストは否認と宙吊りというまったく異質の方法を代表しているとドゥルーズは言う。サドが文学で問うているのは否定の領域、深度であり、否定は否定性の部分的過程としてしか表れずに、純粋な否定は一つの錯乱、それ自身である理性の錯乱のことであるとドゥルーズは言う。否認とは否定や破壊ですらなくてむしろ現に存在するものの正当化であり、理想的なものの中に自分を中性化し宙吊りにして、現実から被るかもしれぬ打撃を廃棄することにあると言う』この一文と女性論、母性論である。
従って、本書はドゥルーズには捕らわれず、読んだままの感想を記述していく。いや、本当に久しぶりに面白い小説を読んだ気がする。描写が繊細で美しいのである。谷崎潤一郎の「春琴抄」を思い出してどちらが優れているかなどと考えたがまとまりがつかない。「毛皮を着たヴィーナス」では谷崎が言葉にしない部分を会話にて明確に言葉にして思考する趣があるが、「春琴抄」は出来事そのものが繋がって妖しげな雰囲気がかもし出されているのである。女主人公の身体を洗う場面も両方に出てくる、そもそも出だしが他者の語りや小説となっていて、共通しているのである。心理的な側面からすると「毛皮を着たヴィーナス」が優れ、妖しげな雰囲気と描写力は「春琴抄」の方が優れているとも思うがよく分からない。
「毛皮を着たヴィーナス」では確かに、男主人公の理想とする「超官能的」を実現するために女性を育て、そのように女性は育ち鞭をしならせるが、それが育てられた結果であるのか、そもそも女性がそうした天分を持っていて、男主人公によるきっかけにより目覚めたのかよく分からないのである。最後の女主人公の手紙によると、不健康な男主人公の治癒するために女主人公はこの鞭打つ役を演じていたのであり、もっと強い男に憧れておりこうした男を見出してこの男に仕え去って行くのである。著者の教訓は明確である。『女は男の奴隷になるか暴君になるのかいずれであって、・・女が男の同行者になるとすれば、女が権利において男と同等になり、教養も労働も男に匹敵するとき』なのである。果たしてそうなのだろうか。簡単にこの結論に同意するのはできないのである。
この女主人公の天性の性分そのものが冷酷なのか、役を演じているのか分からないときが結構あって、女主人公そのものも宙吊りにされているのである。即ち主体たるもが持っているはずの本性の区別のつかない、もしくは混合した状態である宙吊りが続いているのである。一方男の主体は首尾一貫している。きっとドゥルーズが言う宙吊りとは、理想的なものなかに自らの意志によって身を委ねた男主人公のもはや意志を持ち得ない立場が宙吊りであって、この状態では確かに現実から生じる打撃を廃棄し得るであろう。
ここで問題になるのは契約書である。この契約書は女主人公が企画した男主人公が奴隷となる契約書である。殺されたとき自殺を証明する男主人公の文書もそえられる。期間の定めなどない。男主人公はついにサインする。この契約書が男主人公を宙吊りにし、女主人公を宙吊りから解き放ち、主人として存分に奴隷を冷酷に扱うことができる自己同一性を獲得するのである。そして自らが解約することで、もう一方の自己に同一化もする権利も得るのである。女主人公はもはや宙吊り状態ではない、彼女はどちらかの自分になることを自らの意志で選択できるのであり、一方この契約書によって男主人公は「宙吊り」となるのである。いや契約書など問題ではなくて、一方が破棄すればそれですむはずであり、遺書を手中にすることにある。これが男主人公の「宙吊り」状態を保つ唯一のものである。言ってみれば契約書とは形式的なものであり、遺書によって男主人公は理想的なものの中に自分の性を剥奪して中性化し「宙吊り」にするのである。この「宙吊り」状態のなんと歓際まることか。本書ではこの状態の恐れと慄きに歓びを描いているのである。確かにこの状態では深度を探り測っても、もはや意味を持たないかもしれない。それはもう定められた深度を契約しているからである。機会があればマゾッホの「魂を漁る女」、それにもう一度ドゥルーズ著の「マゾッホとサド」を読んで確かめてみたい。
以上
|
|
|
|
2012年10月21日(日) |
出口顯著「レビィ=ストークス まなざしの構造主義」を読んで |
結論から言うと、何を主題にしているのかよく分からない本であった。確かにレビィ=ストークスについて書かれている、だが彼が何者であるかよく分からないのである。哲学者だと思っていたが人類学者であるのか、その活動範囲に制約があったのかなかったのか。構造主義とは言語論理学から発生したものだと思っていたが、何を元にしているのか。本書の言うように、レビィ=ストークスの構造主義の方法(構造分析)が密に関係しているのか。
もしや、エリザーベート・ルディネスコ著 信友健志訳「ラカン、すべてに抗って」が結構ラカンの人と生り、その思想をうまくまとめていたために、また「ドゥルーズ 千の文学」が素敵な文章であったがために、こうした感想を持つのだろうか。きっとそうではない、本書の構成と表現内容が劣ると思われるのである。
ジル・ドゥルーズの構造としての他者を紹介しているのはいいとしても、最後のドゥルーズの構造主義批判の文章「構造主義・・・逃走線を塞いでしまう」を引用し、その後レビィ=ストークスの文章を引用し、著者が『構造分析は出来事を抑圧・回収するのではない。ひたすら構造を目指す、・・』という時、「ひたすら構造を目指す」、そのことが「逃走線を塞いでしまう」そのものに他ならないことであり、そのような気がする。良くは分からなかったが、レビィ=ストークスがきっと人類学者で、「まなざし」などに関心を持っていたと理解できても、それがどう思想として体系付けられたのか、もしくは主な著作物など何であったなどは、よく分からない本なのである。
以上
|
|
|
|
2012年10月14日(日) |
宇野邦一・堀千晶・芳川泰久編「ドゥルーズ 千の文学」を読んで |
てっきり、本書はドゥルーズが書いたと思っていたが、別な評論家などが作家論を書いているのである。またドゥルーズが結構作家論を書いてそれぞれ発刊しているのに、また多くの作家論を書くのは変だと思いながらも、そう思い続けていたこれらは間違いであった、この本はドゥルーズの著書に引用される作家たちを、編者たちが選定した44名について、その専門の論者たちが、ドゥルーズの文章と思想に基づいて、作家たちを論じたものである。いわばドゥルーズが関心を抱く作家について、ドゥルーズの思想を踏まえたそれぞれの論者の視点から論じた作家論であり、ドゥルー論も内包しているのである。なお、編者の宇野邦一その他を含めて、論者はすべて日本人である。
宇野邦一が言うには『選ばれた作品に、ある共通の特徴がないわけではない。しばしば意味や形式を引き裂くようにして「限界」に達し、ある哲学的な問いに横断されて不安定なテクストが選ばれる』とのことである。私は44名のなかで、17、もしくは18名の作家について一冊以上読んだはずである。数が不確かなのは、名前は知っているが読んだどうかか記憶の不確かな作家が数名いるためである。名前さえ知らない作家が結構いる、ただ、ベケットとカフカは全集を購入し殆どの作品を読んでいる。ダリも結構全集などを買って読んでいたが、読後感が殆ど無いのである。あと一人ドゥルーズにとって大切なプルーストはそのあまりにも長き作品ゆえに、面白みに欠いていて冗長であったのか、途中で挫折している。
ドゥルーズの著書は十数冊読んでいる、また今平行して「千のプラトー 資本主義と分裂症」を読んでいるため、論者の言うことは殆ど理解できたのではないかと思っている。これら論者たちの論じ方や文章の質が高くて、ドゥルーズの思想の理解に役立つテクストも結構あるのである。読んでいない作家については作家を選定して読んでみたい。宇野邦一の言う「文学と哲学の限りない浸透」については共感する。また彼が『ドゥルーズのなかには実にペシミスト的な面があるし、倒錯的なもの、器官なき身体の倒錯性を、たえずテーマにしてきましたが、にもかかわらず「大いなる健康」というテーマが何人かの作家に発見されて、・・』と言う下りにも共感するのである。これにつては機会があれば感じたことを述べたい。今回は論じられている作家たちの名前を紹介してお終いとする。
アルトー 思考の死または生殖性 ウルフ 蝸牛の余白、あるいは超−女性の創造
ウルフソン 寡黙なバベルの塔の下で
カネッティ 群集・分子・変身 カフカ ホロビならぬフルビの戦意
キャロル 構造と表面 クライスト 「群れ」の民主政
クロソフスキー 思考の名前 ゴンブロヴィッチ 運命の名前
ジェイムズ 幽霊の知らなかった二、三の事柄 ジャリ ハイデガー大<転回>の予示
シュオブ あるいは「ひとつの生」 ジュネ 墓の彼方の生
ゾラ 頽廃文学の裂け目
トゥルニエ 他者なき世界 ド・クインシー ライップニッツ的哲学者
バタイユ マイナー文学論 バトラー 百腕巨人の恋愛
バルザック まるで文学の闘いみたいな バルト 迷宮の入口/出口
フィッツジェラルド 崩壊という出来事 ブスケ 戦争を受肉する卵
ブランショ 死と出来事 プルースト シーニュを捕捉するクモのように
ペギー 反復と出来事 ベッケト 犬の思考
ペソア 多様体としての私 ベーネ 虚空の産出
ヘルダーリン ギリシア精神の詩人 ボスヘス 可能世界への分岐としての
マゾッホ 鞭打ちと永遠 マラルメ 偶然と襞による肖像
マンデリシターム 吃音化することばの「ざわめき」 ミショー 速度と壁
ミラー 回帰線/逃走線 ムージル 感情の実験
メルヴィル あるいは<新しい人>
ラウリー 三つの線 ランボー ひとりっきりの戦争機械
ルカ 痙攣する言葉 ルーセル 差異と反復の実践者
ロブ=グリエ 「量子論」の射程 D・H・ロレンス 生の作家
T・E・ロレンス 反乱の掟は、裸足で熱砂を踏みしめる
以上
|
|
|
|
2012年10月7日(日) |
田中慎弥著「共喰い」を読んで |
期待はしていなかったがその通り質の高くない作品であった。読める文体ではなかったため、飛ばし飛ばして読んで感じたのは、読後感の悪さと著者の嫌悪、憎悪、もしくは情念、怨念に陰鬱や破壊などの情感が色濃く滲み出ていることである。石原慎太郎が何を言ったが忘れたが、きっと新鮮味がなく訴える力に乏しい作品であるような言い方をしたような記憶があるが、慎太郎どういう言葉で言ったにせよ、この作品に対しては同じような意見を持っている。ただ慎太郎の言い分とはきっと異なる部分があるはずで、なぜなら慎太郎の書く小説を一度も読んだことがないために、彼の言葉の言う意味を正しく理解できるはずがないからである。
さて、この著者の説明文とも思われる奇妙な文体に時々描写力のある所があり、もっとこの怨念や憎悪の深さを昇華させれば、即ち、もう少し谷崎潤一郎風に軽い文体にするか、サドや家畜人ヤプーなど風に内容を深めれば、読み得る小説に成り得るのかもしれない。ただこの意見は著者には受け入れられないであろう。この文体こそが著者の文体であり、この表現こそが著者の表現であるのである。ただこの文体を変えないとしたならば、これからも著者は稚拙な小説を書き続けるに違いない。変えないとしてもこの情念と怨念を昇華させた作品が創作されれば、相当な質の高い作品になるに違いない。それは内容を伴って境界を生きる人間の作品に変貌できるからである。それにしてもこの小説の救い難いドロドロとした閉塞感は異質のものでありありながら正統なものでもあり得て、きっとこの時代にこの時代を超えて生きる人間にとって考慮しなければならないはずのものであるからでらる。
ここまで書いて「共喰い」とは何を示しているのか理解していないことに気づく。きっと字面通りに共に食って生きているのだろう。
以上
|
|
|
|
2012年9月30日(日) |
エリザーベート・ルディネスコ著 信友健志訳「ラカン、すべてに抗って」を読んで |
ラカンについての伝記といより、ラカンの思想をその生き方を含め、ルディネスコ自身の考えも明確に記述した精神科医師かつ哲学者ラカンについて記述した本である。ただ、思想は言葉が少ないため概要しか分からない。雰囲気が伝わってくるだけである。フロイトがオイディップスを拠り所にしたのに対しラカンはアンティゴネーを拠り所にして女性的な「補填」概念を立ち上げ、『絶滅とはこういうことなのだ。すなわち、身体と、それから犯罪行為の痕跡と、二重の消滅がそのあとに訪れるような殺人なのである』と述べているらしい。この文章をどう理解するのかが難しい。即ち文章そのものの表現が少しずれていて、その本来的な意味が分かりにくいのである。身体はオイディップスから生み出された罪深き身体の痕跡であり、その身体が禁じられた屍を葬るという犯罪行為を成し痕跡を残すのである。これら二重の痕跡の消滅があとに訪れる殺人とはそれ以前のオイディップスの父殺しそのものを示すのだろうか。こうした痕跡が消滅して絶滅が訪れる。絶滅とは生命の系譜の断絶であり、成した行為の消滅に他ならぬとも解釈できるのであるが、いずれにせよ良く分からないのである。もっともこれら面倒な点を軽く読み流して、ラカンの思想と彼の並外れた性格を少しばかり知りたければ好都合な紹介本でもある。
以下はラカンについて書かれ関心を持った文章である。『フロイトは・・それぞれの時代はつねに人間の進歩そのものを通じて、そのもっとも破壊的な欲動の絶えざる回帰によって脅かされていることも確信していた。言い換えれば、人間の攻撃性や性的欲動を抑えておくためにも欲求不満は必要不可欠であるが、しかしそのことで人間は不幸になる、なぜなら生きとし生けるもののなかでただ人間だけが、ほかの動物とは違い、自分でもよくわかっている破壊の欲望に取り憑かれているから、主張していたのである。人間社会へのアプローチについては、ラカンはなお陰鬱であった。そしておそらく民主制のもろさという観念を色濃く持ち、狂気や犯罪、神秘にいっそう心惹かれ、その結果にひどく苦しんだ。・・フロイトの後継者たちとは異なっていたのである。・・フロイトの体系のなかに哲学的な思惟を再導入する』この文章は著者の捕らえ方が色濃く反映している文章だとは思われるが、ラカンの位置を明確にしている。
次の文章も興味深い。『ラカンはフロイト的なやり方でアウシュヴィッツの遺産を考察することのできた唯一の精神分析家だった。その脅威を描くためにかれはギリシア悲劇からマルキド・サドの著作まで活用している』ということでる。どうもラカンという人物は『ラカンは、怒涛のような言葉とモノのリストそれにコレクション、物件脱落した対象のラカンであり、意味作用の反転、裂け目、あくことをしらない享楽、世界の起源、他者から引き起こされ他者に差し向けられる憎しみ、そんなラカンである』と著者は述べる、ラカンはその通りの人物であったようである。彼の著作物を読むかどうかは優先順による。時間があればということか。きっと哲学者というより稀有な精神分析家と言ったほうが良いのかもしれない。
以上
|
|
|
|
2012年9月23日(日) |
ジル・ドゥルーズ著 宇波彰訳「ベルグソンの哲学」 |
最初、ドゥルーズの著作物としては易しいなと思って読んでいたが、次第に分からなくなって、また手元に本を置いて少し眺めながら書いている。本書の原本は1966年に発刊されている。つまり1968年に発刊された「差異と反復」よりも少し早く、ドゥルーズとしては初期の著作物に入る。従ってドゥルーズは「ベルグソンの哲学」においては、ベルグソンの哲学的な思想を語ると同時に萌芽し発展する自らの哲学的な思想を語っていて、それが「差異と反復」以降に結実していくのである。たぶん、ドゥルーズはベルグソンからスピノザと同様に大いに影響を受けているはずである。
さて、本書は何を書いているか、答えは簡単である。本書の最初と最後にドゥルーズはきちんと本書の書くべきこととその結論を記述しているからである。これらを引用する。『持続・記憶・エラン=ヴィタルは、ベルグソンの哲学の三つの大きな段階を示すものである。本書の目的は、この三つの概念がどのようなつながりを持ち、どのような進展を含んでいるかを規定することにある』エラン=ヴィタルとは生命の飛躍とでも言うのだろうか、生命の進化とも言っていいかもしれない。結論は『持続は本質的には潜在的多様性(質的に異なるもの)であるように思われる。そして記憶はこの多様性・潜在性のなかでのあらゆる差異の段階の共存として現れる。最後に、エラン=ヴィタルは、もろもろの段階に対応する差異化の線にしたがってなされる、この潜在的なものの現実化を示している。それは人間という明確な線において、エラン=ヴィタルが自己意識を把握するところまで到達する』つまり人間の意識、記憶、その生命についてベルグソンは哲学しているとドゥルーズは述べて、差異化、多様性、持続などという概念を用いてその哲学を説明するのである。これはドゥルーズ自身の概念ともなる。ドゥルーズは結構多岐に渡って述べているが、簡単に重要と思われる何点かを補足する。
1)直感はベルグソンの哲学の方法であり、この直感によって「にせの問題」を除去し、問題そのものを発見、提起し、解決することができるのである。質的な差異があるところに段階の差異、強度の差異しか見ないのが一般的な思想のあやまりであり、直感こそが段階的な差異の下に性質の差異を見出し、真とにせの問題の区別を行わせ、問題の真偽を決定できるとする。
2)質的な差異は持続のなかにのみ存在する。持続とは質的な差異であり、多様性である。決して数的な差異ではない。なぜなら、持続は性質を変えずに分割されることはなく、分割されることによって性質を変えるためである。こうした考えに基づく本文から引用した次の文章はとても意味深くて好きである。『主観的なもの、または持続は潜在的なものである。もっと明確に言うならば、それは現実化の過程のなかで、現実化の運動と不可分に現実化される限りにおいて潜在的なものである。なぜなら現実化は差異化によって、分割した線によって作られ、それ固有の運動により、質的な差異を作るからである。・・』こうして持続とは潜在性とも定義される。この文を理解する鍵は「主観的なもの」であり、「潜在的なもの」の概念が記憶と生命のベルクソンの全哲学を基礎づけたとドゥルーズが指摘する、この概念の重要性にあるはずである。
3)過去と現在は、連続する時間の流れを示すのではなくて、共存するのである。過去の純粋存在とは過去の即自存在であり、存在論的記憶である。過去はかつての現在と共存しているばかりではなくて、過去はそれ自体を保存するのであり、それぞれの現在と共存するのは、全体としてのわれわれのすべての過去なのである。そしてわれわれのすべての過去は、それが描くあらゆるレベルで同時に運動し、おのれを把握し反復するのである。なお、記憶の現実化の運動には収縮と膨張という二つがあるとドゥルーズは述べる。ベルグソンは収縮と膨張を、記憶の共存としての円錐形を例にとり収縮のレベルを、膨張は弛緩として説明している。収縮は記憶内容がイマージュとなって現在と融合するからであり、弛緩は眠りの中のようなすべての収縮が存在しないような弛緩のレベルの再生である。この後ドゥルーズはイマージュと知覚の関係について述べているが、この詳細については本書を参照のこと。
4)ベルグソンはリーマンの多様性の概念に基づいた多様性を概念としている。一方アインシュタインは潜在的なものと現実的なものの多様性を混同したとして非難している。ベルグソンにおいては時間の仮説のみが潜在性の多様性の性質を説明できるのであり、アインシュタインは時間を空間化する新しいやり方を説明したに過ぎないのである。『ベルグソンが始めから否定しているのは、空間が既製のものと考えられ、従って時間が空間の第四次元と考えられるような、よく分析されない混合体の中に空間と時間を結合する考え方のすべてである』とドゥルーズは述べる。これは弛緩の極限には物質があり、おそらく物質はまだ空間ではないがすでに延長であり、限りなく緩んだ持続がそれぞれの瞬間において、死に絶え、次の瞬間につねに再開され新たに生まれるという、この弛緩の運動を極限まで進めれば空間を得ることができ、このとき空間はもはや持続とは結びつかず、差異化の腺の終わりなのである。結論としてドゥルーズは『重要なことは、弛緩と収縮がいかに相対的であり、またいかに互いに相対的かを知ることである』と述べる。
5) エラン=ヴィタルに関してドゥルーズは次のベルクソンの言葉を引用しているのは興味深く本質を捉えたものだと思われる。『エラン=ヴィタルが成功して通過するのは、人間の線のみであり、この意味において人間は発達全体の存在理由である。人間において、そして人間においてのみ、現実的なものは潜在的なものに適合すると言えよう。また人間は、潜在的な全体において共存している弛緩と収縮のあらゆるレベル、あらゆる段階を見出せると言えよう。・・』
以上、ベルグソンの生の哲学が的確に述べられている良い本である。
|
|
|
|
2012年9月16日(日) |
ドナル・オシア著 糸川洋訳「ポアンカレ予想を解いた数学者」 |
本書を読んでみると、確かに「ポアンカレ予想」を解いた数学者として、グリゴリ−・ペレルマンを紹介しているが、著者の目論見は「ポアンカレ予想」に到るまでの幾何数学および数学者の歴史を知らしめることにあると思われる。そして、ポアンカレが示した数学的な、宇宙構造的な謎でもある位相幾何学的な問題をペレルマンが解いたのである。本書は専門的な数学の記述を(注)として別途示し、容易に理解できる文章にて幾何数学の歴史を記述していて、読み安いし読んで面白い本である。
ユークリッド幾何学、非ユークリリッド幾何学、位相幾何学、微分位相幾何学などの幾何数学を簡単ながらも説明すると同時に、ピュタゴラス、ガウス、リーマン、クライン、ヒルベルト、ポアンカレなどの人物の業績とその人物像に迫って記述している本書は、格好な数学の初心者向け本であろう。ただ少し背景文章は冗長ながら、簡単な幾何数学であっても、数学を理解するのは少し面倒で難しい面もある。もう結論を記述しよう。この結論は私の理解できる範囲を超えているが・・。
「ポアンカレ予想」とは本分から引用すると『多様体の基本群が単位元ありながら、その多様体3次元球面と同相でない可能性はあるのだろうか』ということである。言い換えれば『境界を持たず、単連結でコンパクトなすべての3次元多様体は3次元球面と同相である』なお、単連結というのは、すべてのループを1点に縮めることができれば、多様体は単連結であるということ。即ち基本群が一つの要素(必然的に単位元)から構成されるということと同じである。多様体が有限個の地図から構成されるアトラスを持っていれば、その多様体はコンパクトと呼ばれる。この問題をペレルマンは大方の人がトポロジーの観点から解こうとしたのに対して、微分幾何学と物理学の観点から解いたのである。即ちリッチフローと呼ばれる熱的な流れのように湾曲のきつい部分からゆるい部分へ曲率が流れることで、多様体上の計量の変化させるリッチフローの思想に新たな方式を付加して、サートンの幾何化予想(「ポアンカレ予想」を解く過程で、コンパクトな3次元多様体は幾何構造を持つ8つの部分多様体に分解される)の解の一部として解いたのである。驚異的なことのはずである。
この結果、宇宙の形に関する問題は、宇宙に存在する同値でない閉ループの数が有限であれば、宇宙は正の曲率を持っているとのことである。即ち閉じた宇宙でありビッククランチを引き起こす。ただ、曲率0の平坦な宇宙を支持している学者が多いが、この宇宙の曲率と形に関してはまだまだ問題が残されている。余分な話であるが空間の曲率を表したのがアインシュタインの一般相対性理論であるといえる。重要なのはペレルマンが純粋に空間で考慮したこと、ペレルマンはこのことを知っていたように思われるのであるが「スケールによって変化する時空をモデルにした多様体」を考えることの必要性である。「多様体」なんと心地よい響きの言葉であるのだろう、そうとただ思い込んでいるのかもしれない。
以上
P.S.多様体:個々の点ではユークリッド空間のように見える数学的集合(正式にいえば、任意の点に十分近い領域がn−空間と同相であるような点の集合)
|
|
|
|
2012年9月12日(水) |
工藤重矩著 「源氏物語の結婚 平安朝の婚姻制度と恋愛譚」 |
表記の通りに、平安朝の婚姻制度から源氏物語の解釈を行ったものである。最初それほど期待していなかったが、面白くてあっという間に読んでしまった。平安朝の婚姻制度とは今の一夫一婦制度とほぼ同様であり、一夫多妻制度ではなかったと著者は説明する。即ち、正妻、妾、愛人、召人、行きずり、密通などについて著者は説明するが、言うまでもなく、重要なのは正妻と妾のあいだには格段に重みの違い、立場の相違があるということである。
こうして著者は源氏の正妻葵の上との結婚、妾としての紫の上の立場、女三宮を正妻とした結婚、それに愛人なのか召人なのか子をもうける明石の君との関係などを通して、源氏の女たちへの行為や心使い、女たちの立場としての嘆きや卑下などを解き明かすのである。そして女たちが取り巻く源氏との関係において、紫式部がどのようにして女たちを源氏から遠ざけるか、筋を展開する上での伏線を含めて描き切るその用意周到さを著者は褒め称えるのである。また著者が時々描き覗かせる源氏の本心が何とも言えずに憎々しく思われるとも、これは主に紫の上への愛の執着、元々の色好み、子供たちの中宮や帝王の位の取得にかける執念と解釈すべきなのであろう。いずれにせよ、さまざまな男や女の心の根本には、当時の婚姻制度があったとする著者の主張は理解できるのである。
では源氏物語とは何なのか、何を言わんとしているのか。仏教の教えに背いて色を好む男への六条の身息所の怨念、生霊によって果たされる復讐、教訓物語と解いた人もいる。もうこの長い物語も読むことはないと思われるが、私は当時の心ときめかす大衆文学であったと思う。そして、色を好み眉目秀麗な男を主人公にすることよって、女たちが多いと思われる読者の心を捉え自らの身に置き換える代償行為によって、自らが愛されていると錯覚させることで、興味津々たる筋書きによって、そして精緻な筆使いによって満足させたのである。娯楽の少ない当時には貴重な本であり、読者には次の発刊が待たれる人気本であったはずである。従ってこの源氏物語には言わんとする所は何もない。ただ、特に色を好む男と関係した女の愛憎の関係、それも男女の身分の相違によって悲劇ともなり得る長編の愛の色の物語を紫式部は構想し書き続けたのである。何度も言うがそれ以外の意味を持たない物語であるが、紫式部の力量はすごいものだと感心する。そして大衆文学とは時折大きな力を発揮する、夏目漱石や三島由紀夫はとても優れた大衆小説家のはずであり、その作品は大衆文学である。
以上
|
|
|
|
2012年9月7日(金) |
デイヴィッド・J・リンデン著 岩坂彰訳「快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか」を読んで |
表題の通りであって、脳細胞の構造を示しながら、薬、タバコ、満腹感、セックス、ギャンブルなどの快感について、生物学的観点から記述した本である。特に面白くはなかったが、最後の快楽の未来について、脳の中に極小機器(ナノボット)を埋め込むという発想には関心を持った。ナノボットがセンサをそなえ対外のコンピューターと通信を行い、完全没入バーチャリティが体験できるというものである。更に未来では脳を分子単位でスキャンし、自分のプロセスをコンピューターにアップロードするというものである。無論ニューロンの刺激・制御も可となるだろうということ。
こうした未来において、人間の快感、人間の情感や思考はどうなるのか、人間と複数の人間、コンピューターとそれを操作する人の関係についても果たしてどうなるのか、社会の変革が起こるであろうこと、起こるとすればその構造とはどうなるのかなどと少しは思い巡らせたものである。
以上
|
|
|
|
2012年9月2日(日) |
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ著 宇野邦一訳「アンチ・オイデップス−資本主義と分裂症」を読んで |
本書はとても良い本である。高度な哲学本、詩的な散文小説、どうなるかとわくわくさせる推理小説として、とても良い本なのである。そして、仔細な点は分からずとも、初めてドゥルーズの言わんとする所を大まかに理解できたのである。それは、欲望機械などの使用される言葉のイメージをつかめさえすれば、論旨を明確にしており、極端に難しく書いていないためである。即ち、資本主義社会では、人間は父−母−子の三角形なる家族的なオイディプスなる抑圧を抜け出ていて、パノライア(狂気)と分裂症とを生み出しているのであり、そして人間はその中で生きるものであるとする。本書では、遥かな昔に読んだサミュエル・ベケットの文章が多く引用されていて懐かしく思ったものである。
最後の希望を含んだかに見える、もしくは常に冷静さを失わないかに見えるドゥルーズの文章を引用しておこう。『新しい大地は(「ほんとうに、いつか大地は治癒の場となるだろう」)、神経症的な、あるいは倒錯症的な領土化の中に存在するのではない。こうした再領土化は、プロセスを中断し、あるいはプロセスに目標をあてがうものだ。新しい大地は前にも後にも存在しない。新しい大地は、欲望的生産のプロセスの完成と一致する。このプロセスは進行するものとして、また進行する限りにおいて、いつもすでに達成されている。それゆえ分裂分析のこれらの多様な課題が、現実に、同時に、どのように進行するのかを見ることが、私たちに残されている』なお、新しい大地とは遠くへと進んだ大地である。プロセスとは生産なるプロセスであり、精神病なるプロセスであり、精神病はプロセスの中断と呼ぶべきものかもしれない。要は、欲望機械と欲望の抑制との作用の全体を把握すること、プロセスの完成であることとしながらも、プロセスは新しい大地に手も、現在進行中ということである。
本書はこうした主張を文庫本約700頁にて精神分析、マルクス主義、言語・意味論などたくさんの哲学者、文学者の文章を引用しながら進めていく。最初はメモを取りながら読んでいたが、途中からは止めた。言わんとするところが分かったためである。また、ぱらぱらとめくって記述しても意味がないので、各章に書かれている内容をごく簡単に説明するだけに留めて感想文としたい。
第一章「欲望機械」では、欲望的生産、器官なき体、欲望機械など本書を読むに当たっての言葉の定義をその思想とともに述べている。だが抽象的であって、下巻の補遺「欲望機械のための総括とプログラム」の方が分かり良い。第二章「精神分析と家族主義 すなわち神聖家族」では、フロイトに基づくオイディプス的な精神構造、コンプレックスについて述べている。第三章「未開人、野蛮人、文明人」では原始社会、専制君主主義、帝国主義、資本と貨幣との関係、更に資本主義、国家と資本主義の関係について述べている。第四章「分裂分析への序章」では、資本主義と分裂症の、分裂症の分析について述べている。
要するに今までドゥルーズの本を読んで分かってきたのであるが、人間の意識、認識の分析と主体としたドゥルーズの思想が、社会の構造そのもの、資本主義や国家へと及んだことである。これはマルクス主義的な生産と資本との関係を、オイディプス的な精神分析を通じて社会の構造を資本−貨幣の関係に置き換えて新たに展開した思想なのである。まだ仔細に読みこなさなければならず結論は容易にだせそうもない。ただ、ニーチェが超人なるとする、ハイデッカーが実存の開示を待つ、フーコーが言葉とともに消え去ろうとする人間と言う時と、どれ程の変わりがあるのだろう、新しい展開が分裂分析を通じて見出せるのだろうか。少しばかり疑問に思うのである。これは「千のプラトー 資本主義と分裂症」を出来る限り精密に読んでから結論を出したい。
本書ではあまり記述されていなかったが、重要と思われるのは「量」と「質」もしくは「質と量」との関係、その分断・剥離の思想であると思われる。この思想はどうもベルグソンから発生していると思われ、機会があればベルグソンの著作物も合わせて読んでみたい。即ち、強度なる「質」を重視していたものが「量」へと移行し、「質と量」が同時に増大していたものが、強度を落として「量」の重視へと移行しているのが現在のこの社会であると思われるからである。まあ、専門家ではないので気楽に進めていきたいが、差し迫った課題でもある。なぜなら、またしても強度なる「質」も同時に加速的に指数関数的に増大してきているからである。
以上
|
|
|
|
2012年8月25日(土) |
ジル・ドゥルーズ著 小泉義之訳「意味の論理学」を読んで |
この本を読んでまず今までのドゥルーズの著作物とは異なっていると感じた。そしていつものように何を書いているのか良く分からないのである。またその原因の一つなのか、ドゥルーズにしては珍しく最初の文章・単語が少し硬直しているような気がしてならない。訳者が異なっているためか、ドゥルーズ自身のためか、本書のセリー構造のためなのか良く分からない。たぶん言語・論理学などを含めた多くの概念が束ねて語られているためと推測する。ともかく分からないからには、またパラパラと捲って調べるしかない。
その前に本書が書かれた時期を調べると、差異と反復(1968年)とアンチ・オイデップス−資本主義と分裂症(1972年)の間であり、意味の論理学は(1969年)でこの二つの重要な著作物のちょうど中間にある。論理学上の言語論を下敷きにしているが、述べているのはルイス・キャロルやストア派による言葉のパラドックス、そして表層と深層における意味と無意味についてである。当然ながら時間としてのアイオーン(永遠の時間)とクロノス(現在的な時間)に、出来事の定義も関連付けて述べられている。更に器官なき身体についても、言葉をついて、性についても同時に示しているのである。即ち、ドゥルーズの思想の核心の一部を、意味論を通じて語っている本であって、ドゥルーズが自らの思想を展開するためにまず必要な思想の定義を行った本と考えて良いのではないか。うがった見方をすれば、構造主義的な言語論を避けて通れずに、言語の意味論として自らの思想をまとめておく必要があったとも思われるのである。
ぱらぱら捲るのを止めると、ちょうど見逃しやすい本当の最初の頁に〔原書の裏表紙〕からの訳文が8行あって、分かり良くするために一部を掲載したい。『・・本書は、意味と無−意味の位置を決定すること、そして何よりも、意味と無意味の場所を決定することを探究する。「出来事」と呼ばれるものは、正確には、どこを通り過ぎるのだろうか。・・』ドゥルーズが本書を書いた目的であり、またこの目的は目的以上に果たされている。従って感想文としては重要な考え方のみ、意味と無意味、出来事、アイオーンとクロノスなどを理解した範囲で項目別に示したい。なお、再読すればもっと良く理解できて、全体を通じた感想文が書けるはずである。
1)「意味」について
生成することの本質とは、一回で二つの方向〔=意味〕へ行くこと、射ることであり、良識〔=善き意味〕とはあらゆる事物には決定可能な一つの方向があることを肯定することであり、パラドックスとは一回で二つの方向を肯定することであると、まずドゥルーズは述べる。即ち二つの方向を肯定する二元論を認めることによって、意味論が始まるのである。「何かを言えば口を通り過ぎる。荷車と言うと、荷車が口を通り過ぎる」このパラドックスは深層の解任、表面の出来事の拡大として、言葉の展開として現出するのであって、ルイス・キャロルはこの操作を行うことによって、ストア派と同様に平らな表面を見出すのであるとする。アリスはもう落ち込むことはありえず、境界を辿り表面に沿うことによってこそ、物体から非物体的なものへ移行するのである。出来事は表面で、物体から漏れ出る非物体的な薄い霧の中で、体積のない薄皮の中で探し求められ、表面の効果がすべての生成と生成のパラドックスを言葉の中へと上昇させるのであるとし、こうして表面の重要性が指摘される。
そして、命題は出来事−効果と言葉の可能性の中に本質的な関係があり、命題と外的事物の状態を示す「指示」、命題に対応する欲望や信憑として提示される「表出」、語と概念の合意の関係を表わす「意義」よって表わされる。そして、命題の第四次元である「意味」とは、命題の表現されるもの、事物の表面の非物体的な、事物の表面の非物体的なもの、命題の中に存在する純粋な出来事であるとする。これはフッサールが表現と名指しているものであり、意味とは表現されるものであるとする。ただ表現の命題の外では実在しない。また意味は何らの命題の属性ではなく、事物や事物の状態の属性であるのである。そして意味はまさしく命題と事物の境界であり、意味はこのような何かであり、同時に外−存在かつ存立であり、存立に相応しい最小の存在であり、この意味において「意味」は出来事なのであると重ねてドゥルーズは言う。
ただ、意味は事物や命題の境界であり、二項の間の差異の刃ないし連接であり、意味は意味に固有で意味がそこに反映される不可能性を駆使する故に、内的なパラドックスが展開されるはずで、それは後退のパラドックス、無際限な増殖のパラドックスとなる。即ち対象を指示するすべての名前は当の名前の指示する別の名前の対象となることができる。これは無際限な増殖の名前を作り得る。このようにアリスの例を取りながら不毛な複製化や乾いた繰り返しのパラドックスを述べて、意味は命題から引き出され命題から独立しているとドゥルーズは言う。というのも意味は命題の肯定と否定を中断し、命題の消え去る複製であるからである。パラドックスにおいてはその命題は指示の実現の可能性を定める意義の無い不条理としながらも、意味は持つとする。どうもドゥルーズは話し言葉がいくらナンセンスであろうと意味を持つと言っている、命題なる言葉が事物そのものを把握できれば良いのであるが、そうなることはなくて出来事を通じてのみ把握でき意味を持つことができると述べていると思われる。
さて、パラドックス的な語は、自分自身の意味を指示するのだが、自己が指示するものも表現する。この語は何かを語り、語られることの意味を語る。つまり、その語は自己自身の意味を語ることによってまったくの異常であり、自己自身の意味を語る名前は「無−意味」以外ではありえないとドゥルーズは述べる。こうして、意味の論理は、意味と無−意味との間に、独特のタイプの内在的な関係、余現前〔=共現前〕の様式を定立するように必ず決定されているとする。
2)「出来事」について
出来事がわれわれにおいて実現されると同じく、出来事はわれわれを待ち受け、われわれを待ち焦がれ、われわれにサインを送るとドゥルーズは言う。出来事がわれわれに作り出すこの意志に到達すること、われわれの内で生産されるものの準−原因になることで、<操作者>になること。表面と裏地を生産すること。そこでは一般と特殊の彼方で、集団と私人の彼方で、出来事が、反射し、非物体的な自己を再び見出し、非人称的で前個体的な出来事が所有する中立的な光輝をわれわれの内で表出するのである、とブスケを引用しドゥルーズは続ける。即ち出来事は我々が実現すると同時に、我々を待ち受けるものであり、この出来事によって我々は自己を見出し表出することができるのである。ただ出来事は、到来することの中で、把握されるべきもの、意志されるべきもの、表象されるべきものであるとする。そして、自由な人間だけがあらゆる暴力を唯一の暴力において把握し、あらゆる出来事を<唯一の出来事>において把握できるとする。
なお、出来事とは理念的であり、出来事は<唯一の同じ出来事>において交流する観念的な特異性であるとする。出来事の様態は問題性であり、出来事はもっぱら問題の条件を定める。出来事について語ることができるのは、その出来事によって条件が決定される問題の中だけであり、問題的な場で展開されてその近傍で解として特異性について語るときだけであるとする。特異性とは個人的・人称的であるどころか、個体と人格の発生を取り仕切るものである。特異性が真の出来事であるとするなら、特異性は絶えず特異性を再配分する<唯一の出来事>において交流し、特異性の変換は歴史を形成するとする。この辺りは難しいが、戦争を本質的な出来事というとき妙に納得させられるのである。即ち、『戦争が出来事の本質に相応しい<出来事>であるのは、おそらく戦争が同時に多くの仕方で実現され、各参加者が各々の現在の変化につれ実現の異なる水準で戦争を捕えることができるからである』と言う時である。即ち特異性が個体と人格の発生を取り仕切り、<唯一の出来事>を再配分し、多くの仕方で実現され、個人や人格は異なる水準の把握が取り仕切られて可能であるからである。
3) 「アイオーン」と「クロノス」について
出来事は<唯一の同じ出来事>において交流する観念的な特異性である。だから、出来事の時間(=時制)は、決して出来事を実現して実在させる現在ではなく、出来事が存続し存在する限りないアイオーンであるとドゥルーズは言う。ただ過去と未来を吸収するさらに広大な現在が常にあるのであり、現在に対する過去と未来の相対性は、複数の現在相互の相対性をもたらすものであるとする。その神〔クロノス〕は、私にとっての未来や過去であるものを、現在として生きている。私の方はもっと限られた現在を生きている。クロノスは神を末端の円周や外側の包絡線として合わせた相対的現在の入れ子・渦巻きであるとドゥルーズは言い、クロノスについて深層の狂気−生成する悪しきクロノス、善きクロノスについて、アイオーンと表面の関係、アイオーンとクロノスの差異について論じる。
そして<瞬間>がアイオーンの直線全体を駆け巡り、絶えず<瞬間>は移動し、常に自己の場所がない。瞬間が現在を絶えず未来と過去に分割するので、アイオーンには現在がないように見えるが、アイオーンに属する現在があるはずで、この瞬間を表象するアイオーンのこの現在は、決してクロノスの広大で深い現在ではなく、厚みの無い現在、役者の現在、転覆の現在でも実現の現在でもなく、反−実現の現在であって、実現が反−実現を覆すのを妨げ、反−実現が実現と混じり合うのを妨げ、裏地を付け替えにやって来るとドゥルーズは言う。どうも過去と未来を吸収するさらに広大な現在を生きるクロノスをアイオーンよりもドゥルーズは称えていて、ただこの今、即ち現在はアイオーンの世界であると言っているとも見受けられるが、この出来事と時間の概念については、ドゥルーズの著作物をほぼ読み終えてから再考慮したい。
4)その他
気になったこととして、「シミュラクル」や「幻影」などがある。「事物」そのものと事物のイメージを区別すること、オリジナルとコピーを区別すること、モデルとシミュラクルを区別する必要があるのである。ドゥルーズは、コピーは類似性を授けられるイマージュであり、シミュラクルは類似性なきなきイマージュであるとする。人間は罪を犯してイマージュを保持しながらも類似性を喪失し、シミュラクルになったとする。幻影については純粋な出来事とし、自我との特異性や動詞と言葉との関連について述べている。これらについては、読み返すなどしてからまた機会があれば記述したい。
以上
|
|
|
|
2012年8月18日(土) |
藤縄謙三著「ギリシア神話の世界観」を読んで |
ギリシア神話は語り継がれた神話であるようで、でも単純に創作された物語でもないはずである。古事記のように後代になって政権の正統化を、国家建設に結び付けて記述したのでもないはずであり、このギリシア神話がいかように成立したか疑問に思っていたら、ひょいと偶然に見つけ出して読んだ本である。著者はなかなか知識があり読んでいても飽きずに、その考えた結論にも納得できるものである。
結論から言うと、ギリシアに侵入した父権制を持つ遊牧民族と、ギリシアに先住していた母系制的な社会が融合してできた系譜を語る神話が、ギリシア神話ではないかということである。系譜なる血統は遊牧民族にとってより良い子を生み出すためには大切なことなのである。そして牧歌的な環境で詩人によって語り継承されていたとのこと。ゼウスになるともう母系制から父権制に移行していて、神話の語る数々は現実の都市の歴史を反映した結果であるとのこと。即ち、ギリシア神話は最初のからのいくつかを除いて、やはり宇宙の生成部分たるガイア(大地)とウラノス(天)あたりまでだろうか、それまでが本来の神話であって、その後の神話は現実世界の出来事と密接に関係しているらしいのである。
『ギリシア神話は、見方によってはさまざまな犯罪の物語であると言えよう。戦争や殺人、神々への冒 、姦通や生児遺棄、窃盗や略奪など。その豊富さは新聞や週刊誌にも匹敵する。・・また人間の文明の進歩にとって、罪悪は不可避なのでではないか、という重大な直感がギリシア神話のあちこちに表明されているようである』この著者の見方は間違っていると思われる。即ち神話はそうした直感なしにただ関心を引く出来事を記述しているだけであり、倫理観などまぜこぜにせずにしていないと思うが、この著者のいう人間の進歩に関する懐疑は正当なものであると思われ、それを罪悪と言う道徳に結び付けている点が良くないのである。
英雄たちペルセウスやヘラクレスの話は魅惑的である。でもプロメテウスの話はなぜか物悲しい。火を人間に与え、人間との分け前でゼウスを欺き、ゼウスは鷲に命じてプロメテウスの肝臓を貪り食わせるのである。そして人間への刑罰として女を与える。この女性の名がパンドラである。プロメテウスは技術を人間に教え、イエスにも似て人間を救うために犠牲になったということである。宇宙と神々の誕生、特に大地の女神ガイアと天なる去勢されたウラノスあたりをもっと詳細に書いて欲しかった。というよりもっとギリシア神話を精読せよということであろう。確か呉茂一の本を持っているが長くて字が小さく読みにくいのである。柳田國男の本は簡単で分かりやすい。野上弥生子の訳本は記述項目が多く良く分からなかったが、夏目漱石の序文が載っていて懐かしく思ったりしたものである。
以上
|
|
|
|
2012年8月10日(金) |
沢田允茂著「現代論理学入門」を読んで |
1962年初版であるが、日常言語の文の構造と論理から始まって「論理学」の基本、並びに哲学・記号論との関係などを論じた良い本である。論理学そのものの意味は読みながら半ばまで理解していたつもりが、証明などはついて行けずに残念であった。ただ、言語と論理学、哲学との関係を知るために読んだ本であり、その意味では初期の目的は十二分に達している。
「ない」「そして」「あるいは」「ならば」によって文の構造、複合文の真偽が表わされる。これは伝統的な論理学である。これに「すべて」と「ある」を加えて、即ち主語と述語を加えて、現代の論理学は成り立っている。即ち『前者では主語が指すようなものが必ず存在していることを前提とする。後者は主語が指し示しているようなものが存在しない、すなわち主語に当たる本文が偽の場合の可能性を考慮して論理を組み立てている』とのことである。ただ、現代論理学は、限定された形の主語―述語の文の論理化であるアリストテレス的な名辞論理学に根ざしていずに、即ち世界は事物の総体に存在し最大の関心事である出来事を偶発的なものとして無視するのではなくて、ウィットゲンスタインの言うように、世界は物の総体ではなくて事実の総体であり、事実とは事態が成立することであると著者は言う。
こうして著者は『現代の論理学と、その土台になっている記号論が、無意識のうちにも私たちの思想の基本的な構造に影響を与え、いわゆる「物の見方」に一つの変化をもたらすであろうことを、現代の哲学の流れはしめしているように思われる』と言う時、まさにその通りであるのであろう。そして著者が『人間の非人間化とわれているものは、人間の集団である社会のある部分がまだ不完全で原始的な機械であるということだろう。このメカニズムを明らかにしていくことのなかに論理の果たしうる役割の一つである』と言う時、なぜかドゥルーズなどの哲学者の名前が浮んだ。
以上
|
|
|
|
2012年8月8日(水) |
西丸四方著「狂気の価値」を読んで |
エッセイ風でありながら結構知識があり内容も広く深く取り上げていて興味深い。著者は狂気の価値とは自らの生命を守るために無意識のうちに狂気を体現させることにあると言う。これを佯狂(ようきょう)と呼ぶ。ただ無論、病原菌を原因とするものは除くとする。真なる狂気は「真狂」と呼ぶ。また、とんでもない価値ある芸術を作成するなど「狂気の価値」は別の面でも見出されるが、佯狂そのものが「狂気の価値」であると、また「真狂」との区別をどうするか実例をあげて順に説明していく。
著者は精神科医でも哲学者でもあるらしく、その年月をかけた実例の内容が、また狂気に対する考え方に、特に地獄、極楽、空、無という死後の世界に触れられた時、少し怖さを覚えたのが実感である。
以上
|
|
|
|
2012年7月28日(土) |
A.シーグフリード著 鈴木一郎訳「ユダヤの民と宗教」を読んで |
ユダヤ教とユダヤ民族を知りたくて読んだ本であり、岩波新書1992年第30刷発行である。仔細なことは定義されていない。例えば私の理解では、パレスチナ人とはユダヤ人であって、もしくはユダヤ人ではなくてパレスチナに住む、もしくは住んでいた民族である等々。
格調が高くて、ふと著者を見ると翻訳本であったという次第である。そもそもの宗教の始まりはアブラハムとモーゼによる神との契約に基づく一神教であり、偶像を作ることが許されない。ユダヤ民族とは元々遊牧民族で、定住しない民族であったらしい。そしてユダヤ教とは律法を頑なに守る純粋宗教であるとのこと。このためにキリスト教の布教に後れをとり、各国に散在して悲惨な出来事にも遭遇したらしい。
イザヤ、エレミヤなど、十二人の予言者はキリスト生誕以前に存在している。なおユダヤ教にとってキリスト教は認め難いものである。ユダヤの神は「わたしは第一である。わたしには父もなく、子もない。わたしの他に神はなく、わたしには兄弟もいない」であり、イエスや処女マリヤなどによって、神を多様化することは許し難いものであるからである。こうしてキリスト教と分離したユダヤ教であるが、少しは分派をしながらも永らく今も続くメシヤの思想を持った一神教の宗教なのである。
以上
|
|
|
|
2012年7月21日(土) |
ミシェル・トゥルニエ著 榊原晃三訳「フライデーあるいは太平洋の冥界」を読んで |
ドゥルーズ著「原子と分身 ルクレティウスとトゥルニエ」を読んで知った小説作品である。久し振りに本格的な小説を読んだと言う思いがする。文章も本格的で良い小説である。けれども、どこか物足りない気がする。もしや私の頭そのものが、残念なことに小説そのものを読めなくなっているためか、本小説が孤独者の行動と他者の侵入の出来事を中心に描き、極まった情感を薄めているためなのか良く分からない。
巻末にドゥルーズの「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」が掲載されている。以前読んだ時には、雄山羊との戦いの文章を結構長く引用していたが、短文にするなど、「原子と分身 ルクレティウスとトゥルニエ」とは少し文章が異なる部分もあるが、記述内容は他者のない世界、他者を通じて知覚する構造を述べている趣旨に変わりない。ドゥルーズが、ロビンソンとスペランザ(島)との性的な関係において述べる時、性的倒錯に踏み出して論じていることを知った。そう言われてみればそう理解できるのである。「マッゾホとサド」と著作年が近いかもしれず、または「性的倒錯」というドゥルーズの「生の哲学」の一部をなす主要テーマの一部を見出しているかもしれない。
本小説につき独自に感想文を書こうと思い「プロセスの生成と崩壊」と勝手に表題を付けたが、訳者榊原晃三が、スピノザの「エチカ」に書かれている知識の三つの段階が、ロビンソンの発展段階に対応していると書いてあって、既に私の書こうとしていたプロセスのことなどは書かれていたのである。独自の感想文を書くのは諦める。そもそもきちんと読みこなせていないと感想文は書けない、薄っぺらに読みこなした評論は無理なのである。
以上
|
|
|
|
2012年7月16日(月) |
吉本隆明著 「吉本隆明詩集」を読んで |
読んだ詩集は、株式会社思潮社からの第十刷発行 1968年版である。吉本隆明の詩は生硬な言葉を使うこともあるが、簡明ながら結構上手であって驚いたものである。もし、他の詩人を知らず若い時に読んだならば感動したかもしれない。
思想を語るというより、憂愁な孤独な内に秘めた決意を表わすのであるが、同時に私的な抒情的にも思われる今まで読んだ日本の詩人には見られないタイプである。「固有時との対話」などが良い。ただ、後半の学生運動を素材にした詩は、それなりに昇華させているが、やはり少し青臭くて単純である。「吉本隆明論」として、鮎川信夫が詳細に彼の詩を解読しているのでそちらを参照して頂きたい。もう少し色艶を秘めた言葉が良いのか、思想を展開させた方が良いのか、私には分からないが、そういう意味では、孤独に満ちて憂愁に抒情を含んだ、かつ簡明に色の欠けた言葉使いは吉本隆明に似合っていて、彼の特質を描き出している。
以上
|
|
|
|
2012年7月15日(日) |
ジョセフ・ヒース著 栗原百代訳「資本主義が嫌いな人の経済学」を読んで |
著者は哲学者でもあり期待して読んだが、知りたい部分に触れてはいるがどうも記述が横道に離れていることもあり、また文章も冗長で飛んでいて、途中で挫折。もっと哲学的な文章で書いて欲しい。私の知りたかった点は以下の通りである。
1)国家と福祉、失業、保険の関係についてどこまで国は関与すべきなのか。また、自由、生存など基本的人権との絡みはどうなるのか。
2)資本による労働力の再生産の問題、再生産の限界。また資本外の領域で生きる人の再生産の問題。
3)世界的な生産・蓄積と人口数の均衡点、言い換えるなら生産の増加と人口の調和的な均衡点。
4) 富(財貨、蓄積された利潤)が貨幣などであるならば、その崩壊、崩壊過程(インフレ、国家による強奪など)。
5)技術の進歩(効率的な生産、もしくは新技術)と労働者数や賃金の関係。労働の二分化(知的、習慣的、雑用的など)の現象との関係。また人間の二分化現象は生じるのか。
以上
|
|
|
|
2012年7月8日(日) |
ジュリア・クリステヴァ著 星埜守之 塚本昌則訳「斬首の光景」を読んで |
本書はメドゥーサ=ゴルゴンに絡んで知り読んだものである。なお、著者のジュリア・クリステヴァは「21世紀の哲学」でも、ラカンの影響の元で「意味の生成と消滅」に取り組んでいる思想家と紹介されている。彼女は「意味生成の過程」を「サンボリック(記号象徴形態)」と「セミオテック(原記号態)」の二つの形態の弁証法として捕えているらしい。機会があれば彼女の記述した「詩的言語の革命」などは読んでみたい。
なお本「斬首の光景」は哲学書と言うより、美術論もしくは図版を多数入れた随筆なのかもしれない。ルーヴル美術館が外部から招ねいた展覧会シリーズ「パルティ・プリ」の一環として出版されたものであるということで、原書では出品作品の詳細な解題などを記述しているが、当然訳書では省かれている。哲学書であるかどうかなど関係なくて、彼女の思想が伝わってくる良い本である。首の光景のデッサンや絵画に冷静さを保ちながらも彼女自身が歓喜し陶酔しているようにも思われるのは錯覚なのだろうか、それとも首の光景の示す構造を明らかにしたという喜びのだろうか。いずれにせよ繊細にほとばしる文章はとても文学的である。ただ哲学書であるためには良くは分からないが何かが欠けているように思われる。きっとそれは「構造」と「深さ」の問題とだけ記述して、本書の記述内容について簡単に紹介しよう。
本書では多数のことが述べられているが、テーマは首の光景の分析を通した「イメージ論」である。簡単に言えば、可視から不可視の世界への橋渡しとしてのイコン、もしくは極限の恐怖の視覚化の光景から、イメージの彼方にある不可視の世界を見る者に没入させる構造があると言うことであろう。またイメージは西洋伝統的な神話などから得られる出来事の「表徴(象徴と同じ)」の問題でもあるのである。私は「表象」の問題と捕えたいが良くは分からない。ただイメージされたものが何なのか、それが意味を持つのか、固有なものか普遍なものかなどはもう少し考慮する必要があると思われるが、今現在はクリステヴァの考え方を受け入れざるを得ない。
彼女が述べている多数のことを項目だけあげると次のようになる。1)太古の時代の頭蓋骨崇拝・人食による能力の獲得、2)古代ギリシアのゴルゴン、3)おぞましい母の棄却よる幼児の独立過程 聖ヨハネの首 4)女たちデリラ、ユーデット、サロメによる斬首、5)近代のギロチン などなどは本書を読んで把握して頂きたい。斬首の画として、ジャチント・カランドルッチの絵ではなくて他のもっと関心を引き付けられる絵があったのである,が、どうしても不思議なことに見つからないのである。別の本で見たのかもしれない。最初の目的であったメドゥーサ=ゴルゴンの記述のうちの気に入った文章を引用して感想文の終りとする。『主体もなく客体もなく、べとべとし、ねばねばしたおぞましさ以外の何ものでもない、あの古代の未分化状態を保持している原初の母として、メドゥーサは嫌忌されるべきものなのだ。その上、欲情をそそられた女として、メドゥーサは呪いによって男根以上の力を与えられた陰部を人前にさらす』きっとクリステヴァの思想の根底にはメドゥーサがイメージ以上にこびり付いているに違いない、どうしてもそう思われるのである。
以上
|
|
|
|
2012年7月1日(日) |
笠松幸一 和田和行編 11名の共著「21世紀の哲学」を読んで |
八千代出版から2000年に出版されたものである。おおまかな哲学の流れと簡明ながら内容に富んだ20〜21世紀の哲学紹介が行われている。1)分析哲学 2)プラグマティズム 3)実存思想と現象学 4)構造主義 5)社会理論の変革と展開 6)倫理学の変革と展開 が章題としてつけられている。近代の哲学の概要が分かり得る本であり、だいぶ頭の中が整理された。面白いのは社会理論の展開、科学との関係が示されている点であり、示唆に富んでいる。
関心を持った哲学者が結構居て、これからも哲学書を主に読むことになるに違いない。思想的にはポスト構造主義も面白いが、社会理論と倫理学を読みこなさなければならないであろう。どうにもやっかいな関心を持ったものであるが面白いが故に致し方ない。
以上
|
|
|
|
2012年6月24日(日) |
ドゥルーズ著 原田佳彦 丹生谷貴志訳「原子と分身 ルクレティウスとトゥルニエ」を読んで |
本書は「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」と「ルクレティウスと模像」の二つの章からなる。ドゥルーズの中期の作ながら分かりやすく分量も短く、とても読みやすい本である。
1) 「ミシェル・トゥルニエと他者なき世界」は、トゥルニエ作の「フライデーあるいは太平洋の冥界」の他者のいない世界に基づいて、ドゥルーズはこの世界と他者との関係について論じるのである。なお「フライデーあるいは太平洋の冥界」は「ロビンソン漂流記」をトゥルニエが哲学的観点から極限化した作品である。近々読みたい。
『物質の上に行使される主観的総合へとそれらのカテゴリー(現代の心理学は知覚野の機能とその地平における様々な客体に関して仕上げてきた豊富な系列、図−地、深さ−幅、主題−潜在性、周縁−中心、移行状態−定位部分など)は諸知覚へ投げ返すことになるのか(二元論的問い)』とドゥルーズは問う。そして『他者は知覚野の総体を条件づけている構造なのであり、知覚野の総体の機能である。他者こそが前述の知覚野における諸カテゴリーの構成と適用を可能にしているのだ。知覚を可能にしているのは<私>ではなく構造としての他者なのである』こうしてドゥルーズは話を進めて行く。まるで推理小説みたいで、かつ<性>やサディズムにイマージュ、表現などに時々話が進み面白い著作物である。結局ドゥルーズにとって他者は可能的世界なのであり、世界を客体へと組織する中心なのである。
2) 「ルクレティウスと模像」はルクレティウスの思想に基づき、自然の多様性について論じたものである。『われわれの世界においては、自然の多様性は相互に重なり合う三つの形態、すなわち、種の多様性、同一種の構成要素である諸個体の多様性、一個体を構成する諸部分の多様体として現れる』とドゥルーズは述べる。自然学とは無限論と時間的空間的な最小理論とからなり、そしてその諸物体からはルクレティウスとが模像と呼ぶ諸要素が表皮もしくは深部から流出しているのである。即ち模像の放出は最小の時間よりも小さな時間で行われ、映像だけが感覚で捕えられるとする。更に模像として幻像が存在するとし、幻想と随伴する神話との展開を指摘する。『多種多様なものとしての多種多様体は、多様なものとしての多様体が喜びの対象であると同時に、肯定の対象である』とする、ドゥルーズは自然論の帰結について述べる。この帰結は特に記述しない。分かり得るからである。
以上
|
|
|
|
2012年6月17日(日) |
宮本啓一著「インド人の考えたこと インド哲学思想史講義」を読んで |
本書はインドとの哲学・思想を簡単ながらも知るために読んだ本である。やはり簡単にしか記述していないが、インド哲学思想史、並びに少しばかりインド思想哲学の内容を知ることができたのは確かである。ただ、いろんな思想、またその分岐した多くの思想の流れが絡み合っていて複雑である。
簡単に述べると、インドでは多神教であるインド・アーリア人が奉じる宗教、ヴェーダ(知ること)の宗教が元になっている。神々は「デーヴァ」(天)と称される神々としての、雷霆神インドラ・シャラック(帝釈天)や太陽神スーリヤや曙神ウシャスと、「アスラ」(阿修羅、非天)と称される神々がいる。このヴェーダの宗教を核にしたのが後のヒンドゥー教であり「シュルティ」(聞くこと)と「スムリティ」(記憶のこと)の二つの聖典がある。このヴェーダ聖典のことばは「ブラフマン」(拡大・膨張うる力を持つもの)と呼ばれ、ことばを発する意図の通りにものごと(世界)・願望を実現させる力を持つものである「真実語」なのであり、この宇宙・世界を創造したのである。バラモンは「ブラフマンに関わる者」であり、この者が述べたことばはその通りに実現されるのである。そして、宗教的な目的のために瞑想と苦行が行われる。このヴェーダの宗教から種々の学派が生まれることになる。
一方仏教はサキヤ(釈迦)族のゴ−タマ・ブッタが開祖である。苦行と瞑想によって真理を明らかにして解脱し、目覚めた人・ブッタになるのである。真理とは苦楽中道であり、八聖道という実践道を作り上がる。前五世紀ころである。他の宗派に信者を奪われていたバラモンもヒンドゥー教を打ち立てる。前三世紀頃のことである。このヒンドゥー教とイスラム教とは融和的であったらしい。ムスリム(アラビア語で神に帰依する者)とはイスラム教徒のことである。インドとほぼすべてがイルラム教徒であるパキスタンの関係悪化は十九世紀にイギリスの行った分割統治に原因があるらしい。
各種の哲学学派も生れる。実在論と唯名論は面白そうである。「真四角の円形ドーム」は実在論では有り得ないものとして実在する。唯名論は「有の哲学」であり、「水がめ」などはただ名称によって区別されるに過ぎず、本質的にはすべて有に他ならないとする。ヤージュニャヴァルキヤ(インドの哲人)の自己(アートマン)の本質は認識主体であることにあり、認識主体であるがゆえに決して認識対象にはなりえないと看破したとのこと。シャンカラ(中世インドの思想家)にとって、世界は幻影(マーヤー)であり、自己は世界外存在であるとのこと。インドでは昔から「無」や「数」について論じられていたとのこと。
ともかくインドの思想哲学は、西洋哲学に似た所に同じ所、まったくに異なる所が在り、少しは西洋哲学の知識を知った上で入るのが良いと思われる。なぜなら、「有の哲学」や「世界は幻影(マーヤー)」など面白い思想が結構あるが、少し仙人的もしくは空想染みた思想が含まれているからである。それはそれでもいいが、この認識主体そのもの、認識主体と世界との関係、構造的な関係が主に哲学には問われていると思われるからである。
以上
|
|
|
|
2012年6月15日(金) |
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン著 橋本一径訳「イメージ、それでもなお アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真」を読んで |
表題の通りに、四枚の写真のうち、二枚は「ガスで殺された死体の野外焼却溝での処理」、二枚は「五号焼却棟ガス室に追いやられる女性たち」である。前者はわりとはっきり見えるが、後者は人物と言われればそうと思われる小さな粒が大きな暗部の片隅に映し出されている。
著者はこれらの断片的な写真から「すべてに抗して」イメージを想起しなければならないと説き、ラインズマンたちのこれらの写真を史料として使うことの消極さへの、徹底的な批判を行う。ラインズマンたちはこの写真が「すべて」であるような前提から出発することで、他の証拠探しを回避する誤解を与えるのを恐れたため、資料とすることにためらったようである。なお、ラインズマンは映像「ショアー」の製作者らしい。著者のラインズマンへの批判はアガンベン、サルトル、バタイユ、ブランショ、アーレントなどの言葉を持ちあいに出して、激烈を極めるが、仲間内のケンカのようで見苦しい。
私はラインズマンたちの方が正しい気がする。なぜなら、イメージはドゥルーズが確か定義していたはずだが記述した文章が見つからないので、自分の直感で答えるが、写真以上のイメージは想起できないからである。イメージとは経験した以上のことは確かイメージできず、従って「すべてに抗して」は限定されたイメージにすぎないはずである。
以上
|
|
|
|
2012年6月10日(日) |
フィリップ・ボール著 桃井緑美子訳「枝分かれ−自然が作り出す美しいパターン」を読んで |
本書は自然の作り出す数理を解説した本であり、「かたち」「流れ」の三部作の最後を締めくくる。自然の作り出すものの形は美しいものが多い。写真は少ないながら綺麗である。本書の各章の表題は以下の通りである。また気のついた点をいくつか感想として記述する。
1冬物語 六角形の雪の結晶 2ほっそりとした怪物 次元のはざまで生れる形
3亀裂のわかれ道 なめらかなひび、ぎざぎざな裂け目
4水の道 地形のなかの迷宮 5木と葉 生物の枝分かれ
6世界をめぐるネットワーク 私たちはなぜつながっているのか
エピローグ タバストリーを織る糸
1)木の枝別れが成すフラクタルなる構造は好いものである。ポロックのドロッピングやポーリングで描かれた抽象絵画はこのフラクタル構造を持っていて、ポロック絵画の真贋を判定するために使われたとテレビで見た記憶がある。枝別れは血液を循環させるためのエネルギーを最小にするために作られるとのことである。
2)ひび割れにもいろんな形があるのを知った。なめらかなひび、ぎざぎざな裂け目。亀裂はちょっとした傷から始まるとのこと。少しの応力で崩壊始めるとのこと。フラクタルな構造を持つひび割れもあるらしい。
3)『平衡近傍の非平衡系はエントロピー生成速度が最低になるよう振舞う性質を持つとのことである』当然であろう、『平衡状態(エントロピーの生成速度がゼロ)になれなければ、系はエントロピーの生成速度が最低限の、定常だが動的な状態に落ち着くだろう。これが、平衡でない(が平衡に近い)系が優先する状態を決める基準だった』・・だったとは、良く分からなくなるか良く分かったのか! そしてこの考え方は平衡から大きく外れた系には当てはまらないらしい。
4)『ジェインズは、本人によれば平衡系にも非平衡系にも等しく適用できる「物事はどのようにして起こるのか」を決定する原理を導き出した。エントロピーが最大になろうとして起こるのである。非平衡系の系であれば、エントロピーが最大速度で生成される状態になろうとする。つまり、系はエントロピー生成を最小ではなく最大にするのだ。この主張はまだ異論もあるが、支持を広げつつある』なんだ、当たり前のことである。エントロピーは増大するのが熱力学の第二法則である。統計力学と情報工学におけるエントロピーも同じようなものか少し異なるだけであろう。ただ非平衡ではなく平衡なる系がエントロピーの生成を行うにはある種のトリガーが必要なのではないのか。このトリガーがないと平衡系はそのままのはずであり、変わることがないはずである。それとも量子力学みたいに揺らぎがあると言うのか、良く分からぬ点である。3)の「定常だが動的な状態」を指し示すのだろうとも思われる。
5)『エントロピーが増大する、しかも最大速度で増大しようというのなら、なぜまぜ無秩序ではなくて秩序を生むのだろう? ジェインズの最大エントロピーの原理によると、その答えは秩序状態の方が無秩序状態よりも効率的エントロピーが生成できるからなのである。言い方を変えて、多くのエネルギー蓄えた系が、それを放出する「必要」に迫られていると考えてほしい』
なんだが話がエントロピーと秩序とエネルギーが入り、ごちゃまぜにややこやしくなって、卵や鶏の話になってきた。もしや、エントロピーとは「不可逆性」ではなくて、エネルギーによって生じる「乱雑度」もしくは「可能性」であるとするなら、平衡系や非平衡系に蓄積されたエネルギーが放逐されてエントロピーは増加するが、即ち「乱雑度」や「可能性」は増加するが、これは新たにエネルギーを蓄えるために、即ち秩序を形成するものなのであろう。素人が思うには、きっとエネルギーの放出と充電が必須であって、それを成すための形態として秩序が必要とされる、エントロピーとしての「乱雑度」や「可能性」はエネルギーを蓄積させるために変化していくということなのだろう。こう考えるとどうもエネルギーは「可逆性」によって秩序をもたらすことになる。この後何か書いてあるが面倒なので考慮は止める。
本書では最後に地球上の生命の誕生につて述べているが、簡単に言うと、シュレディンガーのいう「負のエントロピー」による生命の表現は無理であり、『最大エントロピー生成とそれに伴う非平衡秩序の不可避的な生成の概念は・・生命とは平衡からはずれたところに秩序をもたらす』のではないかと結論づけている。この辺は難しい問題であり、簡単に解けはしないだろう。生命とは平衡からはずれたところに秩序をもたらすとは面白い考えかたである。現在、私は各種の本を読んで、生命の誕生は、地球外からの隕石が有機物を運んで来たことが源であると理解している。ネットワークについて少し記述する積りであったが忘れたので、機会があれば書くことにする。
以上
|
|
|
|
2012年6月3日(日) |
ドゥルーズ著 工藤喜作 小柴康子 小谷勇訳「スピノザと表現の問題」 |
本書は、法政大学出版局による叢書・ウエベルシタス321として1991年に発行されたものである。「スピノザ 実践の哲学」(平凡社ライブラリー 440 2002年 初版)のような簡便なスピノザ紹介ではない、本格的なスピノザ論を展開している。なお、原書は「スピノザと表現の問題」が1968年「スピノザ 実践の哲学」が1981年に発刊されている。即ち、本書はドゥルーズは43歳の時に発刊されている。「ニーチェと哲学」が1962年、「カントの批判哲学」が1963年の30歳代に発刊されているから、それに比較するとだいぶ遅い。どうもニーチェ的な力の概念もでてくるが、きっとスピノザ的にまとめた力の概念であろうと私には思われる。ともかく本書はドゥルーズがスピノザ哲学を「表現」としてとらえ、それをドゥルーズには珍しく分かりやすい文章で私見を交えることなしにスピノザの思想を記述している。
ただ、最初に出て来る「実体」、「属性」、「本質」、「様態」などの言葉の理解をなおざりにすると、後が大変理解し難くなる気がする。本書の結論にて書かれている分かりやすい文章を引用しておこう。『表現の概念は神として規定された有に適用されるが、それは神が世界において自らを表現する限りにおいてである。またそれは真なるものとして規定された諸観念に適用されるが、それは真の諸観念が神と世界を表現する限りにおいてである。そして最後に個別的な本質として規定された諸個体に適用されるが、それは個別的な本質が諸観念のうちで自らを表現するかぎりにおいてである。その結果、三つの根本規定、つまり存在する、認識する、活動するあるいは産出するは、この概念のもとで測られ体系化されるのである。存在する、認識する、活動するは表現の種類である。充足理由の時代であり、充足理由の三分肢、存在の理由、認識の理由、生成あるいは作用の理由は表現のうちにそれらの共通の根を見出すのである』
だがドゥルーズはこの長い哲学史上の歴史をもった表現の概念は、流出と創造の神学的な伝統の中に忍び込んでいるとする。即ち、スピノザやライプニッツは『人間を神にふさわしいものとし、また新しい論理の所有者とした。つまり人間は世界の組み合わせに等しい精神的な自動機械である』とすることによって、これらの概念は神学的な伝統なる有の超越性を否認すると同時に、有にまさる一者の超越性も否認すると述べるのである。だが『スピノザの場合、表現は創造と流出と和解するのではなく、むしろそれらを放逐し、非十全な記号、多義的な言語の側に投げてやるのである。スピノザは表現の概念のうちに内含されている哲学本来の「危険」、つまり内在性と汎神論を受け入れる。そればかりか、彼はこの危険に賭ける。スピノザの場合、表現の理論全体は一義性に奉仕しているのである。そしてすべての意味は、一義的な有を無関心にあるいは中立性の状態から引きぬいて、それを汎神論あるいは表現的内在性において実際に実現される、純粋肯定の対象とすることである』ことによって表現を行うのであるとする。
そしてドゥルーズは最後に『表現されるもの、それは意味である。つまり、因果性の関係よりも、また表象作用の関係よりも、いっそう根源的である。一方には実在性に従った諸物体の機械論があり、他方には観念性に従った思惟の自動機械がある。・・それらの「意味」と「対応」を・・必然的根拠として受け取るとき、それらがいっそう表現的となることを知るのである』以上のこの辺の文章は少し分かり難いので、本書の思考の流れに従って自分のためにも少し引用文による補足説明を入れて、感想文としたい。
1)『表現という概念の独創性は、本質が存在するかぎり、本質はそれを表現する属性の外には存在しないが、本質が本質であるかぎり、それは実体にしか関係しないことが現れている。本質はおのおのの属性によって表現されるが、属性は実体そのものの本質として表現されているのである。・・表現が実体にふさわしいのは、実体が絶対無限であるかぎりにおいてである。表現が諸属性にふさわしいのは、諸属性が一つの無限であるかぎりにおいてである。表現が本質にふさわしいのは、おのおのの本質が一つの属性において無限である限りである。従って、一つの無限の本性がある』(16頁)これはこのまま理解するものとする。
2)『あらゆる形相は等しいので(諸属性)、神は他の形相を持つことなしにある形相をもつことができないということであり、また神は他の形相とって優越的な価値がある形相を持つことができないということである。有のすべての形相は無限に完全であるから、それらの絶対無限の有としての神に無制約的に属さなければならない』(62頁)これは諸属性の間にはいかなる不平等もないという理解をしなければならない。
3)『スピノザ主義においてあらゆる力は、様態の本質に対応し、しかもそれと不可分である、変様をうける能力を受けるからである。ところでこの変様を受ける能力は常に必然的に行使される。能力は能性あるいは権能が対応しているが、現実化されないような能性あるいは能力は存在しない。・・様態の本質は力であり、この力に対応するものは様態においては変様を受ける一定の能力である』(89頁)受動といわれる、また能動といわれる変様がある。
4)『神は同時にあらゆる属性のうちで産出する。つまり、神は同じ秩序において産出する。従って異なる諸属性の様態の間には対応がある。しかしこれらの諸属性は実在的に区別されるから、この対応あるいは秩序の同一性は相互間の因果的なすべての作用を排除する。これらの諸属性はすべて等しいから(注:きっと不平等がないという意味だろう)、属性を異にする諸様態の間には連結の同一性がある。これらの諸属性は唯一のそして同一の実体を構成するから、属性を異にする諸様態は唯一のそして同一の様態的変様を形成する。・・従って、われわれは実体の三つの組が様態の三つの組(属性−様態−様態的変様)へと広がって行くのを知るのである』(107頁)『様態的変様は、おのおのの属性において本質を表現している様態の外には存在しない。むしろそれは実体の様態的変様として表現され、そして属性を異にするあらゆる諸様態にとって同一である。・・原理的にいえば、様態は属性の変様であり、様態的変様は実体の変容である』この文章はつまりこういうことになる。『唯一のそして同一の事物(様態的変様)は諸属性において「表現される」。この事物がおのおのの属性においてそれを表現する様態の外に存在しないように、属性を異にする諸様態は同じ秩序、同じ連接そしてそれ自身における同じ有を持つのである』(107頁)説明が面倒なのでこのまま理解するように努めよう。
5)『われわれがわれわれの身体を知覚するのはそれは刺激されるかぎりにおいてでしかない、そしてわれわれが自分の精神を知覚するのはその変様の観念によってである。われわれが「対象」と呼んでいるものは、対象がわれわれの身体に及ぼす影響の結果にすぎない。そしてわれわれが「私」と呼んでいるものは、自分たちの身体と精神が影響をうけるかぎり、われわれが身体と精神についていだく観念にすぎない』(147頁)なお観念とは思考の対象となる意識の内容であろう。精神とは心のこと、もしくは心の作用である。つまり『諸観念はせいぜい偶然の産物として現れるにすぎない』のである。
6)『実体はまず自己自身のうちで自らを表現する。この最初の表現は形相的であるか質的である。実体は形相的に、質的に、そして実在的に異なる諸属性のうちで自らを表現する。おのおのの属性は実体の本質を表現する。そこには包み込みと展開の二重の運動が見出される。つまり、実体は諸属性「包み込み」、おのおのの属性は実体の本質を展開し、実体はあらゆる属性によって自らを展開するのである。・・実体は自己自身のために自らを表現する。・・実体は自らを再表現し、諸属性は諸様態のうちで自らを表現するというのである。・・諸属性は諸様態の本質を「包み込み」、そしてそれらによって自らを表現する。これは神の観念があらゆる観念を包含し、それによって自らを展開させると同じである』(190頁)ドゥルーズは『彼は属性の質的数多性と実体の存在論的統一とを直接に一致させることを可能にしている。・・諸属性は流出ではない。・・諸属性の区別は存在論的に一なる実体の質的な構成と同じものに過ぎず・・』と、スピノザの有の一義性との関連を述べている。即ち、有の表現の内在性に言及しているのである。
ここまで書き引用文が長すぎるので止める。自分のためのメモのつもりだったのである。ドゥルーズが本書で、「実体」「属性」「本質」から始めて、受動的力に能動的力、その量、更に身体やコナトゥス、倫理や道徳などに話が及んでくるのは興味深い。「共通概念」については以前に記述したので省く。ドゥルーズが、どうしてこうも淡々と深く入り込んでかつ構成的に書けるのは、そしてそれに感銘を受けるのはなぜなのだろうか。それにしても早く包括して感想文が書けるようになりたいものである。
以上
|
|
|
|
2012年5月27日(日) |
J・デリダ著 足立和浩訳「根源の彼方に グラマトロジーについて」 |
読んだ本は、現代思想社から1985年に発刊されたデリダの初期の大作である。上下合わせて、約800頁、注は除き本文だけで、約600頁もある大著である。ただ、第一部 文字以前のエクリチュールは約280頁ほどで、「エクリチュール」(書くこと、文字言語、文章表現、書差作用、書)と呼ばれるなど多様な意味を持つこのエクリチュールを、西欧哲学的な歴史を踏まえて、グラマトロジー(書差学)の観点から、デリダ自身の概念を用いて考察した結果を記述している。即ちロゴス中心の西欧にて音声言語(パロール)に従属する文字言語(エクリチュール)をその優位性において逆転させる必要があるとする、もっと大きな意味で捕えれば、ロゴス中心の西洋哲学の閉域からの脱出の必要性を論じたものである。第二部 自然・文化・エクリチュールは、このデリダのエクリチュール論、即ち差延作用を中心とした論理による読解を、ルソーに当てはめて記述したものである。本書の内容、特にデリダの思想については、足立和浩が訳者あとがきとして懇切丁寧に説明しているので、そちらを参照していただきたい。足立和浩はデリダの思想の源なる差延作用などの言葉の意味も含めて、デリダの思想を当時としてはその欠点も含めて的確に把握しこの思想の積極的な評価を下している、大いに参考になる文章である。
感想文としては、デリダの思想を理解し切れていない私のデリダへの若干の感想と、本書の目次を示し、必要と感じた部分を抜き書きして説明するものとする。目次を掲載するのは、目次を見るだけでその本が何を記述したいのか、更にその本の良し悪しが分かるためである。デリダの文章は散文的に流れてあまり好ましい思いを持たなかったのは事実である。哲学を「揺るがせたい」とするデリダ自身の根本思想そのものが「揺らいでいる」かのようで心配になり、どうも納得しづらいのである。デリダの持つ問いそのものが妥当であるか、妥当であるならその解なる思想は充分に納得出来得る深さや強度を持つものであるのかどうか、素人ながらもどうも疑問に思うのである。もし、デリダ著「フッサール現象学への序論 声と現象」を読んでいなかったなら、本書はまったく理解できなかったであろう。
「声と現象」は、頁数は少ないながら思想がまとまっていて良い本であったと思う。この結果、音声言語を基にした西欧哲学の源泉とも言える「存在」そのものへの問い、少なくとも存在の構造や意味との関連を含めて「現前」、「再―現前」の再度の記述が深まっていてしかるべきであったと思う。これらが本書にて記述が深まることはなかったし、第二部のルソー論は軽く流した感じがする。ただ、哲学者は自らの問いを自らに課して思考作業を行うのであって、そう性急に評価を決めつけてしまうのは良くない、まだ何冊か読んでから結論を出しても遅くはないのである。またどうしてもドゥルーズと比較するのも良くないのであろう、デリダの本質を軽く見てしまう傾向を持たせるからである。デリダはプログラムやサイバネテックス、サイバー空間など今日的な電脳諸学に通じているはずであり、これらの観点からの指摘は重要である。今後はこれらの主要著作物を何冊か読んでみたいが、訳本が少ないのが難点である。
本書の目次は以下の通りである。第二部は詳細目次を省略。
第一部 文字以前のエクリチュール
第一章 書物の終焉とエクリチュールの開始
プログラム <意味するもの>と真理 書かれた存在
第二章 言語学と書差学
内部と外部 外部は内部である(であるは×で消去されている) 書かれた存在
第三章 実証科学としての文字学
代数学:秘密と透明性 科学と、人間という銘柄 判じ絵と根源の連累性
第二部 自然・文化・エクリチュール
「ルソー時代」への序論
第一章 文字の暴力:レヴィ=ストロースからルソーまで
第二章 <この危険な代補・・>
第三章 「言語起源論」の生成と構造
第四章 代補から本源へ:文字言語の理論
本書にて特に注目した文章は以下の通りである。
1)『その非=表音的契機において文字自身が裏切るのは、まさしく生命である。文字は同時に息と精神を脅かし、精神の<自己への関係>としての歴史を脅かす。それは精神の終末であり、有限性であり、麻痺である。それは、息を断ち切り、精神創造を文字の繰り返しや注解あるいは注釈の中で不毛化したり不動化したり、自身は一つの狭い場所に閉じ込められていて少数者だけに保有されている。それは存在の生成における差異と死の原理である』(58頁)主張したいことは分かるような気もするが、あまりにも文学的な表現ではないのだろうか。
2)『いわゆる「物自体」は、いつもすでに直感的明証性の単純性から引き離された<表現するもの>である。<表現するもの>は<解釈するもの>〔解釈項〕を生むことなしに機能せず、この<解釈するもの>はそれ自身記号となり、かくして無限にいたる。・・・意味が存在し始めるや否や、諸々の記号しか存在しないことになる。われわれはただ記号のうちでのみ思惟するのだ。このことは、ニーチェにおける如く、まさに記号の要請が記号の絶対的権利という絶対性の中に認められるときに、記号の概念を破壊してしまう。超越論的な<意味されるもの>の不在は戯れと呼ぶことができようが、この不在は戯れの無限化であって、つまり存在論=神学と現前の形而学上との動揺である』(102頁)果たして、<表現するもの>は<解釈するもの>〔解釈項〕を生むことなしに機能しないのだろうか。われわれはただ記号のうちでのみ思惟するのだろうか、などなど私には良く分からないが分からないままにしておく。
3)『(純粋な)痕跡は差延作用である。それは、聴覚的であれ視覚的であれ、また音声的であれ表記的であれ、いかなる感覚的充溢にも依存しない。逆にそれは、そういった条件である。それは現実存在しないけれども、またそれはあらゆる充溢の外にある一つの<現前的=存在者>ではないけれども、その可能性は、記号(<意味されるもの>\<意味されるもの>、内容\表現など)、概念あるいは活動(発動的であれ感覚的であれ)と呼ばれているものに権利上先立つ。・・』きっと痕跡による差延作用とはこう理解すべきなのであろう。
4)『直線的文字の終焉は、まさしく書物の終焉である。たとえ、新たな文章表現―文学的あろうと理論的であろうと―がどうにかこうにか包括され得るのは、今日でもなお書物という形式においてであるにしても。しかしながら、問題なのはこれまで記述されなかった文章表現を書物に委ねることではなく、けっきょくのところ、すでに書物の行〔直線〕間に書かれていたことを読み取ることである。それゆえわれわれは、行〔直線〕なしで書き始めることによって、また過去の文書表現を空間の別の組織化に従って読み直す。読解の問題が今日学の前面を占めているとすれば、それは文章表現の二つの時代間のこの宙ぶらりんな状態による。われわれは別なふうに書き始めるがゆえに、別な風に読み直さなければならないのだ』(180頁)直線性とは伝統的時間概念、世界と言語との組織化に密接に関連しており、直線的文字とは、非直線文字に対応した言葉である。とくに表音文字は、非直線文字の過去の中に根を下ろしており克服されなければならなかったものである。即ち、過去において書かれた、直線的文字の終焉が書物の終焉になり、新しい書物の読解と新しい書物が始まるとデリダは言うのであるが、行〔直線〕と言う時、どうしても昔「行間を読みなさい」と教えられたことを単純に思い巡らすのである。そして、これは新しい思想なのか疑問に思うのであるが、まだ良く分かっていないのかもしれない。
5)『ここで良く理解せねばならないのは科学のこの無能性であって、これはまた哲学の無能性であり、エピステーメーの閉域でもある。それらが言説の前=科学的あるいは哲学的な形態に環帰するというのでは全くない。まさにその反対である。この共通の根―と言っても根ではなく根源の隠蔽なのだが―は共通のものではない。というのも、それは差異の殆ど千変万下の要請によって、つまりわれわれが戦略的に痕跡、保蔵、差延作用などと呼んでおいた、差異そのものの名状し難い運動によって、はじめて同じものに帰結するからである。そしてそれが書差作用と呼ばれ得るのは、ただ歴史的な閉域の内部においてだけであって、つまり科学と哲学の諸限界の内部においてだけである』(193頁)これは文章通りに理解するしかないであろう。「エピステーメーの閉域」言い換えれば「歴史的な閉域」とはデリダの指摘する通りにあるはずだと思われる。ただ、科学と哲学の無能性に、閉域の内部だけあると論じることが可能であるのかどうか。
以上、今回の掲載に当たり読み直してみたが、記述した本人にも理解に苦しむ箇所があり、機会があれば再読して評価し直してみたい。
|
|
|
|
2012年5月22日(火) |
J・デリダ他 著 「現代フランス哲学12講」 |
本書は、面白そうな哲学者を探すために読んだ本である。ただ、「ル・モンド日曜版」の企画であり、表現される文章の簡明さと頁数の制限があり、面白そうだと思っても、どうも中途半端である。取り上げられているテーマの大半は関心があるので、今後も面白そうな現代哲学者を探していきたい。一つ一つ記述内容を簡単にでも紹介したいが、日記としては著者と表題のみにし、感想も一切記述しない。
第1講 言語 j・デリダ 第2講 感情知 F・アルキエ
第3講 欲望 V・デコンブ 第4講 想像上のもの C・ロッセ
第5講 個体 E・ド・フォントネ 第6講 他者 C・ドゥラカンパーニュ
第7講 風景としての現実 M・セール 第8講 国家 L・サラ=モラン
第9講 暴力 J=T・ドゥサンティ 第10講 芸術 G・ラスコー
第11講 信じることと知ること M・ド・ディエゲス
第12講 宗教と無限の観念 E・レヴィナス
2〜9講がどうも興味を引くが、どう評価していいかは分からない。先ほど述べたように調べ続けるしかないのである。「現代哲学講座」を読む手もあるし、他の手段もきっとあるに違いない。
|
|
|
|
2012年5月21日(月) |
青木淳悟著 「私のいない学校」を読んで |
「私がいない」というので興味を持ったが、それほど内容に関しては期待はしていなかった。今まで書評には裏切られ続けていたからである。担任の日記なのか無味乾燥に書かれていて、良く読んでいないために、事件は起こっていたとしてもたいしたことはないはずで、もしや起こっていないかもしれない。たぶん私がいない代わりに、最後に登場人物なのか100名以上の名前が記載されている。ともかく文章が読めない。三島由紀夫の「愛の渇き」の解説にて、田中美代子が『文学は文体によってしか伝達されない』というのは正しいと思われる。この無味乾燥な文体は何を伝えようとしているのかが良く分からない。そして文章が読めないと言うのはどういうことか、書き手、読み手に加えて、そうと伝達不可能とさせる時代背景に染まった世代間の断絶や、隔離に、文体が拘束されているということか、それとも著者や読者の一方、もしくは両方の個性の強さなのだろうか。良く分からぬ謎でもある。
以上
|
|
|
|
2012年5月14日(月) |
アラン・ソーカル ジャン・ブリクモン著 田崎春明 大野克嗣訳「知の欺瞞 ポストモダンにおける科学の乱用」 |
表題の通りに著者は、ポストモダンにおける人文・社会科学系における科学的概念の誤用を指摘する。それは各学者の全体の思想ではなく、あくまでも科学的な見地からの数学・物理的な分野での概念の誤用の指摘であり、決して全体の思想に関して判断を下しているではないと言う。序文にてここまで読んで純粋な見地からと思ったが、エピローグにて、確かポストモダンへのこうした批判を行ったが故に、垂れ幕を掲げ抗議を受けた旨の記述があったはずで、これらの純粋性は疑いざるを得ず、彼の論争は泥沼的な様相を見せ始めているような気もする。たが、一読すると著者の姿勢は厳密な数学・物理的な指摘に留まり、これらの誤用の弊害を記述しているのみである。
だが、個人的には著者の指摘はあまりも厳格すぎ、また人文科学者の記述はあまりにも勉強不足であり、痛み分けの感がする。というより、人文科学者は理解の不確かな数学・物理的な理論の話は避けるべきと思うが、そうできない理由が、伝統的に記述する習慣になっているとか、これらの理論に論拠を置いている故に完璧でなくとも書かざるを得ないとか、そうした事情があるのであろう。そして、哲学者にも過去の思想を完全に屈曲した自己の思想として展開している人もいるのである。さて、本書はドゥルーズが乗っているとのことで読んでおり、知らない人が多いが、項目ごとに、もし感想があれば短文にて記述したい。
1.はじめに
2.ラカン
指摘の通りであれば、ラカンの文章はそうとうひどいという印象を受ける。ただラカンを引用する哲学者は多い。
3.クリステヴァ
4.第一の間奏
ヒュームの引用した文章を完全な懐疑主義として記述しているが、そうとは思わない
5.イリガライ 6.ラトゥ−ル
7.第二の間奏
カオス理論、フラクタル幾何学、カタストロフィー理論などについて記述している。理論とは無関係な余談だが、ギリシア神話においてカオスには「裂け目」という考え方があるらしい。
8.ボードリヤール
9.ドゥルーズとガタリ
やはりドゥルーズの「差異と反復」において記述した、dx/dyなどの微分的な無限小のライプニッツなどによって生まれた数学は、1820年にコーシーの極限の概念の定義を導入することで解決したと著者は述べる。この後ドゥルーズの長い文章が引用され、古典的な数学を扱って長く混迷した思索に入っていくと著者は批判するのである。確かにこの「力=累乗」という概念は理解できない。なぜならテーラー展開における無限解の微分化の可能性が「力=累乗」とは無関係に思われるからである。たぶん、力とはニーチェ的な力を表わしたかったのであり、それは比例でもなく加速でもなく、累乗化する驚異的な力、超人がそうであるならば、そうした力を示したかったのかもしれない。差異と反復で、確かドゥルーズは知の境界で書くことを述べていたはずである。これは彼の謙遜と受け止めていたが、もしかするとこの数学的な古さや真実に知識の不確かさを暗示していたのかもかもしれない。私は細かな点にはこだわらずに全体を読んで著者の主張を理解するようにしている。そういう意味では差異と反復にて記述されている思想の大雑把な把握はできて文章も良かったし、まだまだドゥルーズは読む価値のある非常に才能豊かな哲学者であると思っている。なお、ここに掲載されているガタリの文章はだいぶ不味い。ガタリの文章の判断はこれからになるであろう。
10.ヴィリリオ 11.ゲーゲルの定理と集合論 12.エピローグ
以上
|
|
|
|
2012年5月7日(月) |
ドゥルーズ著 木田元 財津理訳「ヒュームあるいは人間的自然 経験論と主体性」 |
ドゥルーズにとっては処女作である。分かり良く書いているがやはりドゥルーズらしい晦渋を含ませた文章である。最初の章に書かれた言葉の定義を頭の中に叩きこんでいなかったために、次第に展開するドゥルーズの論理が分からなくなってきたが、もう二度ほど読めばきっと理解できるであろう、そうと思われるそれほど複雑化していない論理ではある。ヒュームについて人間的な自然と経験の認識からドゥルーズは主体について解き明かすのである。精神の感情の心理学というより解剖学的とも思われる手法によって主体の構造とその諸関係を解き明かすのである。たぶん、ドゥルーズの思想の原点とも見られる思想がここにはある。日記の感想文としては、第T章 「認識の問題と道徳」から、主要な言葉の定義等を記述するだけに留めたい。
『精神の心理学ではなくて、感情の心理学のみが人間に関する真の科学を構成しうる』とドゥルーズは主張する。「人性論」が教えてくれるのは精神が触発される二つの形式は情念的なものおよび社会的なものである。ヒュームは『いかにして精神は人間的自然〔人間本性〕になるのか』と論じているのである。知性つまり観念連合〔連想〕は情念を社会的なものにする。ただ、知性は社会的なものになりつつある情念の運動でしかなく、知性は情念と別個の問題となる時も知性が情念に従属する時もあるのである。精神と想像と観念は同じものである。精神は精神内の観念と同一であり、観念とは与えられるがままの所与であり、要するに経験である。精神は諸観念のコレクションであって、諸観念のこのコレクションが想像と呼ばれるのであり、『いかにして精神は主体になるか、いかにして想像は能力となるか』が問題になるとドゥルーズは問う。
ここまでをおおまかに図示すると、主体――精神=観念=想像、情念に知性となる。ただ、観念は想像のうちにあり、想像は場を提供することによって、何ごとも想像のうちで生じるのであり、この想像は空想的かつ妄想的なもの、諸観念の運動であり、結局『精神の内実は妄想であり、あるいは偶然であり、無差別である』とドゥルーズは言う。そして、諸観念が想像のうちで連合される仕方、即ち近接、類似、因果性という三つの原理が想像を触発し、この連合が諸観念を接合する性質を持つのである。そして、主体は信念においてかつ因果性によって所与を超出するが、その理由は、『主体とは精神のうちにありながら、精神を止揚し触発する原理の効果のためである』とする。近接や類似が現在印象に対象を連合するとするなら、因果性が客観性や堅固さを観念に与える。これらの三つが精神を安定させ、自然的なものにするのである。『人間的な自然は想像であるが、他の諸原理によって恒常的にされ定着させられた想像なのである』ここまで書いてたいぶ整理されて本書の記述内容が分かってきた。ただ、この言葉の定義性や拡張性を通じて、哲学とは他者の思想を参照して自らの思想を自らの言葉に託して語ることではないのか、という思いが募っている。
こうして観念を代表できる<一般観念>、精神による諸観念の接合が獲得する規則性を<実体と様態>、一つの観念が他の観念を導入する<関係>が定義される。『主体性とは一つの結果〔効果〕として規定されるものであり、それは反省的な印象なのである』なお、反省的な印象とは感覚的印象が消えた後にも残っている感覚的観念が新たな種類の印象を呼び起こす、この印象が感覚的観念を反省することにより生じるものである。こうして『精神は諸原理に触発されることによって主体となるのだ』とドゥルーズは主張する。『人間的自然こそ人間に関する唯一の科学〔知識〕である』とし、ヒュームは原子論ではなくて、連合原理をたずさえて思考を進める道を選択したとする。
ところがドゥルーズは、ヒュームの哲学の問題は<いかにして精神は自然になるのか>と指摘したが、なぜそういうことであるのかと問い直し『もっぱら事実に関わっている。つまり、その問題は経験的なのである。・・認識という事実とはどのようなことか。超越ないし超出がそれである』として話を進めていく。私は私の知っている以上のことを断言し、私の判断が観念を超出する、私は主体なのである。私が一般的に語り、信じ、もろもろの連関を設定する、こうした超出としての認識が事実なのであり実践なのである。そうした実践が一つの観念という形式で表現されるならば、その観念は矛盾したものにならざるをえない、ということが事実なのであるとドゥルーズは述べる。この辺は少し分かりづらいが、観念とは与えられるままの所与であれば、超出した認識(この超出という言葉に注意)に基づく観念とは矛盾したものにならざるを得ないと今の所は理解しておこう。『こうした矛盾は抽象的な観念と或る一つの観念の本性との両立不可能性、もしくは諸対象間の実際の結合〔関係〕とその結合が適用される諸対象との両立不可能性である。・・ヒュームはそこから出発するのである』とドゥルーズは言う。こうしたヒュームの思考の足取りを表象に理性や反省的印象などという言葉を用いながら進める。『科学の真の対象は人間的自然である。けれどもヒュームの哲学はわれわれにそうした自然の二つの様相、触発という類の二つの種を提示する。一方は連合の効果、他方は情念の効果である。前者は知性の体系、後者は情念と道徳の体系の規定である』とする。
ここまでまとめておくと提示された言葉の概念がほぼ結び付き、再読する時に役に立つであろう。こうして、第T章の最後で『もはや超出ではなく統合が問題になる。つねに部分から部分へとことを進める理性とは反対に、感情はもろもろの全体に反応する。そこから、道徳の領域において、一般規則のもつもう一つの別の意味が明らかになる』とドゥルーズは結論付ける。なお、一般規則とは認識や実践に導くために人間によって樹立された規則であり、制度である。
以上
|
|
|
|
2012年5月3日(木) |
多田智満子著「魂の形」「神々の指紋 ギリシア神話逍遥」を読んで |
「魂の形」は多田智満子の五十歳頃の作品であるが、古今東西の神話・思想(ギリシア、エジプト、日本、インドなど)などを良く知っていると感服した。それ以上に、客観的な視線の内に捕える感性はユーモアもさりげなく交えてとても好い。「魂の形」と題して、まとまっている読み応えのあるエッセイなのである。プシュケとは魂のことであったか、魂の計量を行う天秤も、魂の昇り降りる梯子も知っていたような、知らないような。エジプトの「死者の書」やインドの聖典「ヴェーダ」「ウパニシャッド」、「イーリアス」は読んでみたい気がする。
「神々の指紋 ギリシア神話逍遥」は六十四歳頃の作品である、広範囲であるギリシア神話をほぼランダムに語るのは焦点ボケしてなかなか理解し難いのは確かである。また、文章もどうも気ままに逍遥して発散している。家族もしくは修学旅行?の話は、日常的な感性が露わになり、多田智満子もこうした日常的なおどけた感性を持っているのだと、改めて納得した。ただ、それほど面白くはないおどけ方であって、読むのが恥ずかしくためらわれる。挿入されている詩は良いのだけれども、やっぱりつけたしの感を免れない。どうも飛び飛びに発表した短文エッセイをまとめたことが影響しているらしい。以前、白石かずこのエッセイを読んだことがあるが、どうしても探さないと題名を思い出さないが、文章は多田智満子より修飾を省き簡潔で、男好きの話も時々でてくるのであるが、何ごともあけっぴろげでいて、まるで原始人の肉食系の女性たちが旅行しているようで、でもどこか爽快に感じさせる感想を持ったことがある。
以上
|
|
|
|
2012年4月30日(月) |
ジャック・デリダ著 梶尾温子 野村英夫 三好郁郎 若桑毅 坂上脩 他訳「エクリチュールと差異」を読んで |
本著書はデリダが数年間に発表した個別のテクストをまとめたものである。そのせいか、記述する対象も文章も異なっていて、どこかつかみどころがない。バタイユやアルトーにフーコーなど知っている人物は少ないし、そもそも文章がどこか流れていて、漂い彷徨っていて、デリダの主張が良く分からずに、つまらないのである。分からないのはいつものことではあるが、この著書には「声と現象」のように食らいついていこうとする意欲がなぜか湧かないのである。従って各章の標題ごとに感想や記述内容の概略を、ごく短文で示したい。
この頃、差延とか脱構築とかの概念を薄々理解してきている。だが、それ以上に深くデリダについて知ろうとも思わない。もしやデリダに飽きてきたのか、難しい哲学の本に疲れてきたのか良く分からないが、今までドゥルーズと同様にデリダを高く評価していたがどこか疑問に思ってきたことも事実である。もともとは文学者であると知っている、このため先程述べたように文章が文学的に流れて、主題がダイナミックに展開されないのも事実である。「根源の彼方に−グラマトロジーについて」を読んで、今後もデリダを読み続けるか再考、再評価したい。また、他の思想を上手に展開しかつ文章の面白そうな哲学者を探してみたい。
1)T 力と意味
書くということと、言語と意味について記述している。たぶん、力とは意味と文字の間を仲介するまたは総合する想像力であるに違いない。
2)U コギトと『狂気の歴史』
なぜかフーコーの著書「狂気の歴史」について、デカルトの「省察」と共に狂気の観点から論じている。
3)V エドモン・ジャペスと本の問題
本と書くことについて、ジャスペスの詩を引用し論じている。
4)W 暴力と形而上学
光が暴力をふるうと論じる。存在の光の彼方に光があって、光の中心とは暗いものであり、光の無い彼方で他者と出会う、共同体がある。こうしてハイデッカーなどを通じて存在論を展開し全体主義とは光と権力の結び付きであるとする。本書では一番長くて、存在論的暴力を熱弁する。
5)X 《発生と構造》と現象学
表題の通りであって、フッサールについて論じる。
6)Y 息を吹きかけられたことば
アントナン・アルトーについて、言葉の無責任、言葉の意識や痕跡、糞尿などの観点から論じる。言葉に息を吹き入れられるにまかせるとは、ことばをしのぶものに委ねることであるとする。
7)Z フロイトとエクリチュールの舞台
表題の通りであって、フロイトの/とエクリチュールに関する論考である。
8)残酷劇と上演の封鎖
アントナン・アルトーの残酷劇について述べる。なお、残酷劇とは身体などへの暴力による残酷ではなく、二度と同じ言葉で再演されることの無い観念的な残酷さである。
9)\ 限定経済から一般経済学へ
ヘーゲル哲学をバタイユに絡めて、バタイユのテクストであるエロティシズムなどについて論じる。現象学における予告済みの意味を知へと関係づけるものが、商品価値に限定された限定経済学に対応するなら、価値の絶対的な生産と破壊、失われてあるほかないものとしての余剰エネルギーは限定経済学から逸脱してしまうとする。即ち、一般経済学とは意味にではなくて、価値の無限破壊に関係するという。意味の隷属性と死への覚醒とは全くの他としての、自身の組織を絶対的に引き裂く一般経済学的なテクストがあるとデリダは主張する。それがバタイユのテクストでもあるのだろう。
10)] 人間科学の言語表現における構造とゲーム
表題の通りに、レヴィ=ストロースが述べる人文諸科学の言語についての批判、ゲームの概念について述べる。
11)省略
エドモン・ジャスペスの文を引用しながら、エクリチュールについて本について論述する。エクリチュールの時〔時間のこと〕は変形した現在の線をたどらないとする。
以上
|
|
|
|
2012年4月23日(月) |
ジャック・デリダ著 高橋充昭訳「声と現象 フッサール現象学における記号の問題への序論」を読んで |
フッサールは意識が対象を捕えるその意識は志向性を持つものだとし、対象そのものを認識するためにさまざまな理論を取り払った直感(純粋意識)が必要だとし、現象学を提唱した人である。この現象学を段階を踏んで手直ししているが、超越論的現象学にてすべてを越えた超越論的意識を唱えるに至っては、弟子で後継者と考えていたハイデッカーもついて行けずに彼のもとを去ることになる。ジャック・デリダはこのフッサール現象学における初期の著作物である「論理学的研究」の第一編にて書かれた「表現と意味」のなかでの《記号》の論理的な緊密さを取り上げ、この意味するものに含まれる前提について考察し、意識としての現前の特権は声の卓越性によってしか成し遂げられないと結論付ける。なお本書は、ジャック・デリダの初期の本である。本書の最後に付論としてデリダの「記号学と書記学」が載せられているのがデリダの思想を理解するうえで多いに参考になる。
本書を読んで感じたことはドゥルーズの文章が論理的で詩的であれば、ジャック・デリダの文章は抒情的で散文的と言うことができるかもしれない。ドゥルーズの論理が入り組んで難解であるとするなら、デリダの論理も難解でありながらも素直に直線的に展開するのである。どうもドゥルーズとデリダには哲学的な諸問題に共通する所があり、本書でも「再―現前」などなど同じ語が使われているが、その意味する所の違いはまだはっきりとは分からない。ただ、今までに読んだ両者の記述された文章からのみ判断すれば、ドゥルーズが動的な肯定者であるとするなら、デリダは静的な肯定も否定もしない注釈者であるようである。この現実の諸問題に対し、両者は立ち向かうが結論は違う方を向いているのであって、共通するのはこの現実への痛切な思い、声にならない叫び声、不毛への挑戦であろう。両者の違いはまだ読んだ本は少ない故に、著書を読むたびに変わっていくのであろうが、興味深くも楽しみでもあり得る。こうして本書の感想文はもう書いたようなものだが、ごく簡単に本書の内容を紹介する。引用は『 』で示している。
1)序言
『言語こそまさしく、現前と不在の戯れの媒体』であり、『生とイデア性とが結合するように思われるまさにそういう場が、言語のなかにある』のであり、『生ける現前をも、最もよく維持するように思われる記号作用の活動領域―即ち表現の資料―は声としての気息の精神性であること、また他方において、イデア性という形式における現前性の形而上学である現象学は、同時に生の哲学でもあるということ、この二点をよく考えてみなければならない』とデリダは言い、意識としての現前の特権は声の卓越性によってしか成し遂げられないとする。
2)第一章 記号というものと諸記号
記号は〔意義〕と〔意味〕は運搬しないが、そういったものが指標であり、この指標も表現と同様に一種の記号であり、〔意義〕と〔意味〕観点から、指標と表現について論じる。
3)第二章 指標の還元
『或る密接な関係によって指標作用が表現に結びついており、経験上でそれらとからみあっているにしても、指標作用は、外的・経験的現象として、遠ざけられ、捨象され、《還元され》なければならないとする』
4)第三章 独語としての意義作用
指標作用が疎外された表現の意義作用についてまず論じる。そして無言の独語においては、『現実の語を使用せず、ただ表象された語のみを使用する。・・内面的独語においては、語は単に表象されるにすぎない』というフッサールの思想を元に、デリダは語の想像―存在、《心像》について論じる。『語の想像・・が現実存在しないばかりでなく、この想像の内容(すなわちノエマ)もまた〔想像〕作用と同様に現実存在しないのである』とする。
5)第四章 意義作用とルプレザンタシオン
第三章を踏まえて、表現と意義作用について論じる。なおルプレザンタシオンとは再―現前化のことである。内面的言表において私は私に何ごとも伝達、指標しない。また、『内面的言表において、私は私に何ごとも伝達せず、ただそうしている風を装うことができるにすぎない。だそうする必要がないからである。・・心的諸作用の現実存在は、現在の瞬間において主観に直接的に現前するのだから、指標されるには及ばないのである』このフッサールの援用した議論は、言語のルプレザンタシオンという地位に多岐にわたる諸問題を引き起こすとデリダは言う。『すなわち、〔表象〕という一般的な意味でのルプレザンタシオンにかかわっているばかりでなく、現前の反復ないし再生としての、つまり〔現前〕ないし〔現前化〕を変様させる〔再現前〕としての〔再―現前〕の意味でのルプレザンタシオンにもかかわってくる。さらには、他の〔表象〕の代わりになる、つまりその身代わりにとなる代理者(〔代理〕、〔代理者〕、〔代任者〕)の意味でのルプレザンタシオンにもかかわっている』としてデリダは話を進める。そして『内面伝達におけるこの〔無目的性〕こそが〔自己への現前〕としての現前の同一性における、無―他性、無―区別である。・・<自己への現前>の「現在は、一つのまばたきと同じように分割不可能なわけである』とする。
6)第五章 記号とまばたき
『それゆえ、瞬間の切先が、つまり同一の瞬間における<自己への現前する体験>の同一性が、上述の証明の全責任を担っているのである。<自己への現前>は、それが記号を代理として自己自身に何かを知らせるには及ばないためには、一つの時間的現在の不分割な統一において起こるのでなければならない』として、意識と知覚そして言語を、瞬間のまばたきにおける受け入れ・持続について話を進めていき、表現的言語そのものは<自己との関係>という絶対的沈黙のあとに付け加わるものであるとする。
7)第六章 沈黙を守る声
そして、現象学的《沈黙》をもとで、私のなかでの<他者との関係>と、意味層の外にある事後的な層としての<表現の層>の還元や排除によって、はじめて声は権威を聞かせるのである。声の作業としての自己―触発が、《自己への現前》を分裂させようとする純粋な差異を呼び込む。『けれども、生ける現在の<自己への現前>を構成するこの純粋な差異は、そこから排除しうると考えられていた一切の不純性を、根源的に再びそこに導入するのである。生ける現在は、自己との非―同一性と過去把持的痕跡の可能性から湧出する。生ける現在は、つねにすでにひとつの痕跡である』とデリダは生ける現在をこう主張する。そして『対象の、考えられた同一性には、言が《追加され》ざるをえなかったとすれば、それは、意味および言の《現前》が、すでに自己自身を欠きはじめていたからに違いない』即ち同一性を保持するためには言の追加が必要であるとデリダは結論づける。
8)根源の補欠
『このように補欠性〔《追加され》ざるをえないこと〕は、まさしく差延である。すなわち、現前を根源的な分裂と差延とに同時に服されることによって、現前に亀裂を生じさせると同時に遅らせもする差延作業である』とデリダは言い、補欠性の構造について、またこの補欠するものとしての能記について述べる。また《円は四角い》というフッサールの言葉の意味と対象を語っているのは興味深い。最後に「絵のなかに描かれている画廊、その画廊内に描かれている絵」の画廊は特有の抜け道を内蔵するあの迷宮であるとし、この迷宮から抜け出すには『そのとき、残された道は、現前の光輝を補欠するために話すことであり、廊下中に声を鳴り響かせることである』と結論づける。
以上
|
|
|
|
2012年4月16日(月) |
ドゥルーズ著 財津理訳「差異と反復」を読んで |
いや、とても難解な本である。頑張って約百頁読んだら、少し楽になって終りまでなんとか分かったような気にもなって読むことができた。ところが、ドゥルーズの書いた思想を思い出そうとしても殆ど何も浮かんでこないのである。ただ、感動した情感だけが残されている。これでは困るので、再度パラパラと捲り確かめると、少しは頭の中が整理された。無論、細かな点は除いてではあるが。大枠が整理されると、再読すれば細かな点も分かるはずであり、まずは読み終えたことを自らに褒め称えたい。従って、感想文としては全体に受けた印象と、各章にて気に入った文章や思想などを少しばかり書いてみたい。無論身勝手な理解であり真偽は、真が偽よりも多いことを望んではいるが、真より偽が多いかもしれずに注意が必要である。
本書はドゥルーズの博士学位論文である。ニーチェ、ライプニッツ、フロイト、スピノザ、ヘーゲル、プラトンなど多彩な哲学者、文学者の著作物から思想や文章を引用して自説を展開し、哲学の再配置を行っている。きっとドゥルーズのその後の思想を含んだ、即ち、存在に時間や言語にシステムや資本などの思想を含んだ貴重な本であるはずである。そして、この本に書かれている差異や反復、形象―再現前、永遠回帰などの用語は、今までの哲学でも使用されていた用語であり馴染みがあるが、ドゥルーズの手に掛るとまるで新しい言葉のように響いてくる。論理の展開が絶妙であり、きっと詩情性豊かな文章が為せる技なのであろう。ドゥルーズはまるで論理的な詩人のようにも思われるのである。さて、差異とは異なっていることであり、『差異を作る(差をつける)』のであり、無限小と無限大の幅の中にあるものなのであり、反復によって帰還してくる。反復とは行動であり、反復するものとは人間である。きっとドゥルーズは本書にて静止したイデア哲学に反駁することを主目的として書いたものなのだろうが、この世界に生きる人間の生についての強い思いも込めて書きたに違いない。それは動的な生ではあるが、ドゥルーズは非常に動的な生を望んでいながら、残念ながら結末はそれほど甘くはない。いずれにせよ、今後「アンチ・オイデップス」や「千のプラトー」を読む上で大いに役立つ知識を得ることができた以上に、本書に秘められた思想がまだあるような気がして仕方がない。なお本書より引用した文は『 』にて示している。〔 〕は訳者または私の補足である。
1)はじめに
『序文は最後によむべきだ、・・結論こそ最初に読まなければならない・・それ以外の読解が無用になりかねないこの私たちの書物、』とのドゥルーズの謙虚な主張はあたっている。ただ、初心者には序文を再び読み直すことでこの難解な書物を少しは理解できるのである。『哲学の書物は、一方では、一種の推理小説でなければならず、他方では、サイエンス・フィクション〔知の虚構〕のたぐいでなければならない』とするドゥルーズの主張は十分に活かされていて、読者は満足することができる以上に、この推理の行方を確かめ理解しなければならないという、「知の虚構」を背負ってしまうのである。
2)序論
反復は特異なものに対する行動することであり、一回目を「n」乗する「力=累乗」の「関係=比」のもとで、反復は内面化される、即ち転倒させられるのである。この「力=累乗」は微分的な考えから生じたドゥルーズ独自の思想であり後に説明する。『わたしたちは、一個の芸術作品を概念なき特異性として反復する』のであって、『反復を、極限的な類似ないしは完全な等価として「表象=再現前化」することはできる』のであるが、差異はなくなりはしないのである。こうして序論は書き進められて行くが、重要な点は、『差異は内的であるにもかかわらず、概念的でないことが可能だから』である。対象を「表象=再現前化」する前に差異は概念の外部にありながらも「理念」の内部にある内的差異があるのである。即ちこの差異の発生は内包量〔強度量のこと、これも後に説明する〕にあり、悟性〔感性に与えられる所与を認識へと構成する概念能力〕よりも理念〔経験を越えた対象〕に関係しているとドゥルーズは言う。なお、概念的差異とは『同じ概念のもとで表象=再現前化され、空間と時間において、無差異状態に陥った』諸対象間の差異である。ただこれらの考え方では十分に差異の概念も得られていないとして、ドゥルーズは『差異の概念とはどのようなものか、・・反復の本質はどのようなものか』と問い、次章以降に答えを見出そうとするのである。
3)第一章 それ自身における差異
差異が質料〔形相(形・構造)を持つことによって一定となる材料的なもの〕に由来している限りは偶発的であり、『本質あるいは形相における反体性のみが、わたしたちに、それ自体本質的な差異という概念を与えてくれるのである』『要するに、完全で最大の差異は、〔アリストテレスにおいては〕類における反体性のことであり、類における反対性とは〔類に現実的に付け加わることのできる〕結局種的差異〔種差〕のことである』『種的差異は形相的であるがゆえに、純粋である。言い換えれば、種的差異は、本質のうちに働くがゆえに本質的な差異である』この類的差異と種的差異は分かりにくいが、訳注によると、動物が=類なら「ヒト」は「理性的」であるという特徴によって他の「ウマ」などの種と区別できる種なのであり、この区別が「種差」なのである。このようにしてドゥルーズはアリストテレスの差異の論理学をまずは引用して自説を展開していくのである。
また、ドゥルーズはニーチェの永遠回帰における反復に対しては、まず『同一なものの差異から出発して考える』そして『還帰するものは全体の部分としての大や小ではないし・・ただものもろの諸形式だけが還帰するのだ――大きかろうと小さかろうと、限界へとおのれを展開して力の果てにまで赴き、変化しながら互いのなかへと移行する諸形式のみが還帰するのだ。ただ極限的な、過度なものだけが、あるいは他のもののなかに移行して同一的なものへと生成するものが還帰するのだ。・・永遠回帰、つまり還帰が表現しているのは、すべての変身の共通な存在であり、また、すべての極限的なものの、あるいは実在的な度であるかぎりでの力のすべての度の、限度および共通な存在である』と述べる。詩的な文章であり、ニーチェを借りて語るドゥルーズは正確に理解できずとも充分に分かり得るのである。たぶん、ドゥルーズが一番述べたいことは環帰できるものの条件であり、これにつては8)結論にても述べる。また、ライプニッツのモナド論や連続性を引用・批判・展開し、世界という表現〔表出〕について連続体について語る。即ち、有限な差異は、この世界という表現〔表出〕された領域として、モナドとして規定されるとするのである。
ドゥルーズは、ヘーゲル的ではないプラトン的な弁証法〔問題と問い〕を取り上げて「非―存在」という表現は「非〔ではない〕は、何か否定的なものとは別のものを表現していると考える。即ち「否―存在」は存在せず、ある種の「非―存在」が存在するとする。問題あるいは問いそのものの本質に「照応している」いるのは存在そのものであって、存在論的な「襞〔凹部〕」が存在と問いとを相互に関係させており、この関係においては、存在は《差異》それ自身であると言う。『存在は「非―存在」でもあるが「非―存在」は否定的なものの存在ではないのであって、問題と問いとの存在なのである。《差異》は否定的なものではなく、』反対に「非―存在」こそが《差異》すなわち<異>であって<反対>ではないのである。このため、「非」は「(非)−存在」やより適切に「?−存在」と書くべきとする。まさに「非」は「(非)」と書くことで正確に別のものに表現できるのだろう。この後、注ではハイデッカーの差異、非について詳しく記述している。そしてドゥルーズは、プラトン哲学は『差異を考えるかわりに、差異を根拠〔イデア〕に帰着させていると論じる』などとプラトン哲学の批判へと繋なげていく。
4)第二章 それ自身に向かう反復
反復は即自を有していずに、そのかわりに反復はその反復を観照する精神〔この観照する精神は即自ではないのだろう〕になんらかの変化をもたらすものであると、ドゥルーズは述べる。『観照する精神のなかに、ひとつの変化が生じる。つまり一つの差異が、つまり何か新しいものが、精神のなかに生じるのである』と言う。そして、この変化の本質としてヒュームの想像力を取り上げ、想像力が諸要素やいくつもの等質な瞬間を縮約し、それらを融合して、ある種の重みを持った内的な質的印象をつくり、この縮約が時間の総合を形成するものであるとする。即ち生ける現在を構成するのはこの瞬間の反復に関わる根源的な総合のうちでしかなされないとする。『時間が展開されるのは、まさにその現在においてである。過去も未来も、まさしく現在に属している』のである。『こうした現在は、過去から未来へ進むために、おのれ自身から抜け出る必要はない。したがって生ける現在は、おのれが時間において構成する過去から未来へ、それゆえにまさしく、個別的なものから一般的なものへ進むのである』この一般的という言葉が非常に重要に響いてくる。こうした総合は受動的総合と名付けるほかないのである。『この総合は、現在のなかで過去から未来に進み、したがって個別的なものから一般的なものへと進むのであり、そのことによって、時間の矢を方向づけるのである』この受動的総合によって一般的なものへと進むこの時間の流れがあることが恐ろしいのである。更にドゥルーズは時間論について詳しく書き進める。深さ〔奥ゆき〕という考え方が気に入っている。また物質的反復と精神的反復があり、前者は裸の反復、後者は着衣の反復である。ひびわれた私も居るのである。おのれの蝶番から時間を外した発狂した時間も在るのである。この時間の総合については難解ながらもう一度読めば読み応えがあるに違いない。
なおもドゥルーズはフロイトを引用して、生物心理学的な観点から差異の解消の量的にして質的なプロセスである快感について、この総体であるフロイトが《エス》と呼んでいた言葉を用いて、自由な差異、差異の拘束について、受動的総合の観点から述べるのである。当たり前のようにも思われるが『潜在的な対象は、本質的に過去のものである』ということが気に掛かる。『潜在的対象は、どのように現実のなかに体内化されていようと、どの現実のなかにも統合されていないのである。潜在的な対象は、現実のなかに、むしろ植え込まれ、打ち込められて』いるのである。そして性愛を自らの能力と立場によって自己保存する欲求、即ち能動的総合が作動するとする。更に無意識について、エロスとタナトスに基づいた死の本能についてドゥルーズは論じる。蝶番から外れた空虚な時間は、まさしく死の本能であって『死の本能は、決してエロスを補完するものでもエロスに敵対するものでもない。死の本能は、いかなる意味でもエロスと対称的になることはなく、むしろ或るまったく別の総合を意味しているのである』無底を指示し、根拠そのものが私たちを無底に突き落とす総合もあるのである。
ドゥルーズはシステムを定義し、文学システムも論じている。ただ、本第二章の最後にはプラトン主義の見せかけの問題、即ち似像(コピー)と見せかけについて論じ、『プラトンは表象=再現前化の完全に構成された諸カテゴリーをまだ所有していないがゆえに、そうした決定〔差異はそれ自身においては思考されえないものだと宣言し、差異を、そして見せかけたちを、底なしの大洋に送り出す決定〕を、イデア論のうえに確立させなければならないとする』似像(コピー)と範型(モデル)見せかけの問題について再び論じている。プラトン的イデアなどの西洋的な哲学の系譜をなす同一的な概念に対し、ドゥルーズには珍しく厳しい口調で非難するのである。
5)第三章 思考のイマージュ
ドゥルーズは差異と反復という、すなわち哲学の開始と再開に対する障害としての八つの公準について述べる。第一の公準としては、原理のあるいは普遍的本性たる《思想》である。人は思考することによって、思考することが意味することを暗黙のうちに知っているとみなされるし、哲学における概念的思考は哲学以前的で自然的な〔生まれつきの〕思考の《イマージュ》を暗黙のうちに前提しているのであり、このイマージュに即してこそ、真なるものとの類縁性のうちにあり真なるものを形相的に所有し、真なるものを質料的にも望んでいるのであるとする。だがドゥルーズはこのイマージュを元にした思想からは本来の思想は得られないとする。この普遍的本性たる《思想》が、《イマージュ》と諸公準から解放されることによってでしか、思考は開始されず再開もできないと結論付けるのである。この他の公準も加えて、これらの公準は、それらだけで思考のドラマチックなイマージュを形成し、表象=再現前化における《同じ》ものと《似ている》もののイマージュたるイマージュをかざして、思考を威圧し、思考するということが意味するものを裏切り、差異と反復という、力=累乗を疎外すると言うのである。ドゥルーズは思考のなかで生れる思考、思考の生殖性のなかで産出される思考する行為とは、生得性として与えられているのでも、想起のなかで仮定されているのでもなくて、まさにイマージュなき思考であるとするのである。
6) 第四章 差異の理念的総合
ドゥルーズの微分的な思想が書かれている興味深い章である。dx/dyという関係=比は分数として存在しているのでもなく、代数的な一般的な比でもない、相互関係のなかに存在するのであり、差異的=微分的な関係=比であるのであり、それが導関数として更に微分可能であるため、差異的=微分的な関係=比も更に微分可能であって、理念の力=累乗を証左しているとドゥルーズは述べる。即ち微分とは「イデア的な差異」であって、『微分は、まさしく純粋な〈力=累乗〉なのであり、同様に、差異的=微分的な関係=比〔dx/dy〕は、ポテンシャリティという純粋なエレメントなのである』なお、累乗とは諸変量が互いの相手の関数とみなされる相互規定の形式であり、微分法の最初の行為は「累乗の切り下げ」にあるが、この「累乗の切り下げ」は、構成される級数へと展開されことによって、しだいに累乗の高まる未規定な量と累乗化されていく未規定な係数があるのであり、ポテンシャリティ〔累乗的潜在力〕は最初の係数から出現し、その級数のすべての項は同じ操作の反復から生じるのである。こうして、先ほど述べたように、微分は、まさしく純粋な〈力=累乗〉なのである。
7)第五章 感覚されうるものの非対象的総合
『「強度の差異」という表現は、一種の同語反復である。強度とは感覚され得るものの充足理由たる差異の形式である』『感覚され得るものの理由、現象するものの条件は、空間と時間にではなく・・強度の差異のなかに、つまり差異としての強度のなかに含まれ、そこで規定されているような齟齬〔強度はカップリングであり、無限に二分化され、際限なく共鳴していく差異の状態を齟齬と呼ぶ〕の働きである』『感覚作用を引き起こし、感性自身の限界を定めているのは、他ならぬ強度である以上』どうしても強度は感覚され得るものなのである。なお、強度量〔内包量〕とは量の差異において取り消し不可能なものを表象=再現前化しているために、量に固有な質であるとする。即ち『量という類に属するひとつの種として現れるというより、むしろあらゆる量のなかに現前しているひとつの基本的なつまり根源的な契機の形態として現れる』のである。
こうしてドゥルーズは感覚されるものの話を進めていくが、興味深いのは、「延長」「延長量〔外延量〕」の概念や深さと強度との関係、個体化の差異としての卵からの考察、システムの進化、個体化のファクターとしての私と自我との関係、心的なシステムにおける他者の本性と機能などなどがある。また他者との構造とそれに対応した言語活動にも触れている。
8)結論
ドゥルーズはまたしても、表象=再現前化を取り上げ、ヘーゲルの無限大に関する技法が、最大の差異〔矛盾〕とその八つ裂きを取り込んでいるとし、ライプニッツにおいては無限小の技法が、最小の差異とその消去を取り込んでいると批判する。また〈否―存在〉や《理念》、時間の形式と反復の順序、〔永遠回帰という〕円環などについて述べる。『〔永遠回帰という〕円環は、直線の末端に位置する。・・永遠回帰は、すべてを環帰させないばかりでなく、その試練に耐えないものたちを滅ぼしもする。・・永遠回帰を否定するものは何ひとつ環帰せず、欠如も、等しいものも環帰しない。ただ過剰なものだけが環帰する。ひとり反復のみが環帰する』という文章は意味深い。
本書の最後の文章は素敵に詩的な文章であるが、この文章は引用しない。ドゥルーズは非常に動的な生を望んでいながら、残念ながら結末はそれほど甘くはない、と本感想文の最初に述べたのは主にこの文章から判断している。ただ、残念ながらこの判断は甘いものであってそれ以上の深みが何かが本書には横たわっているのは確かであろう。多様な全体と、存在と、水滴と、大洋とどよめき、それぞれの声のなかで、環帰できるのは偽装した過剰なものただそれであるのだろうか。それとも差異に達して環帰できるものが在るもしくは居るのだろうか。今はこの感傷的とも思われる文章ただそれのみを感想文の最後として記述しておくことにする。
以上
|
|
|
|
2012年4月4日(水) |
ドゥルーズ著 鈴木雅大訳「スピノザ 実践の哲学」を読んで |
どうもニーチェに関して、簡易版「ニーチェ」と詳細版「ニーチェと哲学」があるように、この「スピノザ 実践の哲学」(平凡社ライブラリー 440 2002年 初版)も簡易版であり、「スピノザと表現の問題」が詳細版であるらしい。でも簡易版と言っても、ドゥルーズのスピノザに対する思い入れが伝わってくる分かり良い本である。読むことをお勧めする。本書は全部で6章あり、それぞれについて簡単に紹介し感想文としたい。なお、学位論文の主論文として「差異と反復」が提出され、副論文として「スピノザと表現の問題」が提出されたとのことであり、ドゥルーズのスピノザからの強い影響を窺い知ることができる。
第一章 スピノザの生涯
ユダヤ人であるスピノザは、哲学的回心によってユダヤ教会を破門される。身の危険を感じたスピノザは、住む場所を変えレンズ磨きをしながら独学で哲学を行っていたらしい。大学の哲学正教授の職も断っている。『このつましい、無一物で、病にも蝕まれていた生が、この華奢でひ弱な体が、この輝く黒い眼をした卵形の浅黒い顔が、どうしてこれほどの大いなる生の活気に満ち、生そのものの力を体現している印象を与えるのだろう。・・』このドゥルーズのスピノザへの文章がスピノザを的確に表わしていると同時に、もしやある意味でドゥルーズ自身の核心をも表わしているのではないだろうか。『スピノザにとって生は観念ではない。理論の問題でもない。それは一個のありようそのもの、すべての属性において同一の、ひとつの永遠な様態なのである。・・人間がいわばねじれておかしくなっているなら、このねじれという効果=結果は、それをその原因から幾何学的にとらえなおすことによって矯正されることだろう。そうした光学的幾何学が「エチカ」全編をつらぬいている。・・幾何学的方法と、レンズ磨きの職業と、スピノザ自身の生と――この三つひとつの全体として理解されなければならない。・・』このスピノザの生涯を紹介するドゥルーズの文章は、素直でとても感銘するのである。
第二章 道徳と生態の倫理のちがいについて
スピノザの有名な理論的テーゼの一つに「心身並行論」があるとドゥルーズは言う。「身体」という新しいモデルを提供するのであり、『心における能動は必然的に身体においても能動であり、身体における受動は心においても必然的に受動なのである。・・身体は私たちがそれにつてもつ認識を超えており、同時に思惟もまた私たちがそれにつてもつ意識を超えているということだ。』そして深い思惟のもつ無意識の部分が発見され、ドゥルーズは「主要な大半の活動は無意識的になされている」と述べるニーチェの文章を引用する。即ち意識は錯覚を起こしやすく、原因を知らずにいるため、意識に対する評価の切り下げを行うのである。
私たちの身体にとって、<いい>とは身体の力能を増大されるような出会いであり、<わるい>とは身体の構成関係を分解させるような関係に陥る出会いのことであり、<善>も<悪>もなくて、場合に応じた個々の具体的な<いい>と<わるい>があるだけであり、ドゥルーズは、<エチカ>〔生態の倫理〕が<モラル>〔道徳〕にとって代わるのであると述べる。道徳とは神の裁きであり<審判>の体制に他ならず、<エチカ>はこの審判の体制そのものをひっくりかえしてしまうのである。『「エチカ」とはまさにエトロジー〔動物行動学、生態学〕であり、これは、どんな場合にもただ触発に対する変容能力から人間や動物をとらえようとする考え方に立つのである』とドゥルーズは述べる。
第三章 悪につての手紙
素人の神学者のブレイメエンベルクとスピノザとの間で取り交わされた「悪について」論じた手紙について記述している。スピノザにとっては〈存在〉そのものが善悪を越えているのであって、ただ彼は手紙を通じて、この問題にのめり込んでしまったらしい。第二章と同様の表現になるが『実際には私たちは、どこまでも私たち自身によって、そのときどきの状態にしたがって裁かれるのにすぎない。・・道徳にもとづく審判とはまったく逆に、〈生態の倫理〔エチカ〕〉をかたちづくっているのである。』がスピノザの一貫した立場である。ネロやオレステスや姦通などを通じて悪を論じていて、スピノザはブレイメエンベルクが悪を越えて論じようとした時、関係を断ち切ったらしい。
第四章 「エチカ」主要概念集
「エチカ」の主要概念をまとめたものである。特に重要と思われるのは「共通概念」、「変様」などである。「共通概念」とはすべての身体がもしくはいくつかの身体にとって相互に共通な何かを表わすものである。「変様」とは様態そのものである。というのはいっさいの様態は、実体もしくはその属性の変様にほかならないからである。本書では多数の概念が詳細に説明されているので、とても役に立つ。
第五章 スピノザの思想的発展
スピノザにおける神と実体と属性と自然の関係について、また共通概念、認識の思想的な展開を記述している。更に「エチカ」の展開においての緩急の問題、即ちすべてがゆっくりと流れていくが、浅瀬となり、淵となって流れていく一本の大河なのである、とドゥルーズが述べているのは面白い。宇野邦一は「流動の哲学」という表題なる本でドゥルーズを紹介しているが、まさしくドゥルーズ自身がダイナミックに流れる大河なる哲学であると思われる。
第六章 スピノザと私たち
スピノザは体をつねに無限数の微粒子にて、微粒子間の運動と静止、速さと遅さの複合関係と捕えている。またもう一方では触発し触発される体のもつ触発される力〔変容能力〕と規定している。運動的なものと力学的なものである。この二つの規定からドゥルーズはスピノザと私たちについて考えを展開する。即ちスピノジストなるものにつて。最後にドゥルーズは多くの注釈者が彼を<風>に例えていたと言い、突然の疾風なのか、魔法の風かと問い、結論はその両方であり、ロマン・ロランの言葉で結ぶ。
以上
|
|
|
|
2012年3月25日(日) |
ジル・ドゥルーズ著 蓮實重彦訳「マゾッホとサド」を読んで |
ドゥルーズの文章としては複雑な論理の展開は成されずに、簡明に分かりやすい。どうも本書はかの有名なサドの文学に比較して、それほど馴染みのないマゾッホの文学作品も優れていることを作品の解釈等を通じて示したものである。ただ二人の作品は異なった二つの芸術であるとドゥルーズは言う。それぞれが価値の持つ芸術作品なのである。彼らの作品にて表現されるサディズムとマゾヒズムについて簡明に述べると、サディズムが否定性と否定に基礎を置いているのに対して、マゾヒストは否認と宙吊りというまったく異質の方法を代表しているとドゥルーズは言う。サドが文学で問うているのは否定の領域、深度であり、否定は否定性の部分的過程としてしか表れずに、純粋な否定は一つの錯乱、それ自身である理性の錯乱のことであるとドゥルーズは言う。否認とは否定や破壊ですらなくてむしろ現に存在するものの正当化であり、理想的なものの中に自分を中性化し宙吊りにして、現実から被るかもしれぬ打撃を廃棄することにあると言う。これの点に関して本書では丁寧に説明している。
ここではマゾッホに描かれる三人の女性像を記しておきたい。1)異教徒の女であり、古代ギリシアの女性であって、娼妓か多淫な女、つまりは無秩序の母体となるアフロディアである。2)サディストである。他人に苦痛を負わせ責め苛むことを好む女である。3)「自然」とはそれじたい冷淡で、母性的で過酷なものである。マゾッホ的夢想をかたちつくる三要素の関係は、冷淡−母性−過酷であり、氷ついたもの−感傷的なもの−残酷なもの、なのである。即ち1)と2)の中間にマゾッホの理想の女性像がある。そして母親に関し、ドゥルーズは1)原始的で子宮としてあり古代ギリシアの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親、2)それから愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある、3)その中間に口唇的な母親がいる。ロシヤの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧するものだからである。彼女は最終的な勝利者となる。すなわちマゾヒズムに固有な要素は、口唇的な母親――子宮的母親とエディプス的母親の中間に位置する冷淡で、何くれとなく気を配り、そして死ももたらしもするあの理想像なのだ、ということであるらしい。
訳者の蓮實重彦の解説の中で一つだけ気にかかる文章を引用しておく。ドゥルーズの言葉に関して述べた文章である。『「マゾッホとサド」をかたちづくるドゥルーズの言葉も、その論理の展開ぶりの驚くべき緻密さと結論の明確さにも拘わらず、やはりある種の聞き取りにくい不明瞭な声として響き、フーコーを初めてとする一連の顔ぶれが口にする言葉と遥かに反響し合いながら、巨大な疑問符の消滅を証明しようとしている。その聞き取りにくさは、みずから積極的な希薄たろうとするドゥルーズの言葉たちの、暗黙の了解からきているように思う。その言葉たちは、ちょうどマゾッホの文学がそうであったように、世界の不可思議な陥没や隆起へと人びとの視線を無理に引き付け、その奇形性をあからさまに暴きたて、それに修正をくわえようとしない。むしろその奇形性の内部に静かに身をひそめ・・ただ、一つの関係が、ほとんど感知し難いほどの慎ましさで位置をかえたにすぎない。・・』とても素敵な表現でほぼ正しい指摘・考え方ではあると思う、ただ後半はそうかもしれないが、前半はその通りなのか今後検討したい。最初に訳者の書かれた『ドゥルーズの言葉は、もどかしさや苛立ちと戯れることなく、素直な発生で耳に吸い込まれてくるかと思われる。』 が、私が思うには正しいはずでありそのように一貫して記述しているはずである。ただ、ドゥルーズを読み進めるに従って彼の思想は表面的には「巨大な疑問符の消滅を証明しようとしている」とも思われるが、巨大な不条理の不合理の証明のように思われるのである。
以上
|
|
|
|
2012年3月19日(月) |
ニーチェ著 「人間的な、あまりにも人間的な」を読んで |
読んだ本は、「白水社刊 1980年 浅井真男訳 ニーチェ全集 第六巻(第T期)人間的な、あまりにも人間的な 自由なる精神のための書(上)」と「理想社刊 1979年 中島義生訳 人間的な、あまりにも人間的U 自由精神のための書」である。この「人間的な、あまりにも人間的な」は数年の間隔を置いて同じ題名にて、二度書かれているらしい。後者は「第一部 さまざまな意見と箴言」と「第二部 漂流者と影」から構成されている。
結論から言うと全部で800頁と長いし、人間に関するニーチェの定義・言い回しはありきたりで専門家でない私にはあまり面白い本ではなかった。序言を含めて最初から百頁ほどを、そして最後に複数案あるこの「人間的な、あまりにも人間的な」に対する序文を割と丁寧に読み、あとはぱらぱらと頁をめくって流し読みした。
割と若い時の著作である。どうもニーチェが精神的苦境に在った当時に、書くことによって自らの精神的苦境を脱しようと試みた作品であるに違いない。精神的苦境とはワーグナーへの幻滅であるらしい。専門家であれば、新しい思想の芽を見出すかもしれないが、私にはこうした言葉の定義が嫌いである。例えば題を記述すると「概念と感情の化学」、「哲学者の世襲的欠陥」・・・「謙遜」、「日の最初の思想」などなど。そしてこれの題に対する文章がニーチェ流に少しひん曲がっているが、最初に述べたようにどうでも良くなってくる、ありきたりに思われる。まさに書くことそれだけが目的なのだから。
ただ、最後の「第一巻第二版のための序文」から次の文章を引用しておきたい。『「お前はよからぬことをたくらんでいるらしいな!」――と私は言った――「どうやら、お前は人間を滅ぼそうとしているのだ!」・・・「人間にとって何らかのためになるものを結果するようにだ!」「いったい何をなのだ?」と私は好奇心にかられてきいた。「いったい誰がなのだ? とお前は問うべきだろう!」このようにディオニュソスは語った。』
この誰かとはドゥルーズにおいて「人間とは誰か」、更に「人間を克服するのは誰か」と進み超人と価値転換に結び付けられている。フーコーが『ニーチェが・・だれが語るのかという問いを最後まで発し続けたのに対して』と言っていたその「だれか語るのか」とは異なっている、「だれか語るのか」のではなくて「お前は誰だ?」ということである。この言葉はドゥルーズにおいては、まず初期段階にて越えられるべき「人間とは誰か」と同等の意味を持つと同時に、もっと別の「お前」を指示しているが、ここではこれ以上細かくは述べない。新井恵雄によるとハイデッカーが『ニーチェとは人間を主観として世界を対象化する哲学を極限まで徹底させた』と言ったらしいが、まさにニーチェは主観として対象化した世界に語る者であると同時に、居る者とは「誰か」と問うているのだろう。それは超人であるかそうでないかもしれず、もっと別の誰かかも知れないのである。
以上
|
|
|
|
2012年3月15日(木) |
カーメン・M・ラインハート ケネス・S・ロゴス著 村井暁子訳「国家は破綻する 金融危機の800年」を読んで |
たぶん、経済書の感想文を書くのは初めてである。ドゥルーズやフーコーの資本の論理・資本主義に関する思想を理解するための助として読んだものである。ただ、本書は経済の理論書ではなくて、長年(800年)の各国の経済データを元に、「国家は破綻する」ことを示した解説書であって、あまり役に立ちそうにない。でも豊富な過去のデータを元に展開されるお話は納得出来得るものである。
著者は金融危機を公的債務(政府債務)のデフォルト、銀行危機、インフレ危機、通貨危機などに分けて、公的債務については、対外債務危機、国内債務危機と分けて説明している。共通しているのは危機が生じつつある兆候が必ずあるのに、「今回は違う」(This time is not different)という当事者の意識であり、人間の弱さであると著者は指摘する。特にサブプライム危機直前の住宅価格に対する当事者の対応などは、まさに「今回は違う」との認識が鮮明に描かれている。そして本書に引用されている次の言葉『この世の中に新しいものなど存在しない。新しく見えるのは、忘れていたからだ。――ローズ・ベルダン』は意味深長である。ただ正確には金融派生商品の複雑化などによって、兆候はほぼ同じであっても、そのダメージは計り知れなくて、「差異」を伴った危機が現れるはずなのである。そして長年(800年)もの間に幾度ともなく発生してきた金融危機は、今後も何度も現れるに違いない。ただ、人のその生涯の内には、たぶん数度もしくは一度限り起こるものなのだろう。結論は各指標を監視する「早期警戒システム」の構築することであるようである。
私などは単純であるから、金融、国家、生命システムなどのシステムは破綻を運命付けられていると思っているので、本書の論旨には別に驚きはしなかったが、意図的に破綻しながらしぶとく生き残る国家が存在することには、それも多数の国家が生き残っていることにはある種の生命的な強靭さに似て感嘆したものである。なぜシステムは破綻するか、それはさまざまの外的負荷の変動に対して自らを追随・変貌させることのできない性質をシステム自身が持っているためである。なぜそうした変身できない性質をシステムは保有するのか、その点に関してはもう少し考えて別の機会に述べたい。最後に国家への負荷には、どうも基本的人権などが絡み、資本はこの負荷から遠ざかろうとするが、結局は国家と共に破綻の運命を同じにし逃れられないと思われて仕方がない。本感想の結論として、元々金融システムとは物々交換から物と貨幣を媒介にし、それが現在では計算機の能力の向上によって派生なる商品生み出して、そうした見えにくい絡んだ繋がりの糸が国を越えて巻き付いている、という誰もが思い付く状況にあるのであり、糸車を回せば必ずに巻き付いた亡霊のような首が、生き返る首と死んで行く首が現れ出るのである。
以上
|
|
|
|
2012年3月9日(金) |
ドゥルーズ著 中島盛夫訳「カントの批判哲学」を読んで |
最初読んだ時は良く分からなかった。きっと言葉の定義を知らないためであろう、そうと信じたい。でも、分からなくて本全体の頁をぺらぺら捲っていたら、細かい部分は抜きにして、ドゥルーズの言いたいことが分かってくる、不思議なものである。本書はカントの「純粋理性批判」、「実践理性批判」、「判断力批判」における諸能力の関係をドゥルーズが解釈し展開したものである。
ドゥルーズは『三つの批判は正真証明の置換の体系を提示している。まず第一に、諸能力は表象一般の関係(認識、欲求、感情)に従って定義される。第二に表象の諸源泉(想像力、悟性、理性)として定義される。われわれが第一の意味におけるしかじかの能力に注目するに応じて、第二の意味における能力が、諸対象に対して立法し、他の諸能力にそれぞれ特殊な課題を割り当てることを求められる』と述べる。『かくして認識能力にあっては悟性が、欲求能力にあっては理性が主役を演じる。・・想像力は立法機能を引き受けないが・・想像力が解放され、その結果あらゆる能力が共に自由な一致の状態に入るのである』とする。即ちカントの批判哲学では『諸能力相互の関係を陳述し、諸能力の自由にして無規定な一致を、いっさいの規定された関係の可能性の制約として露呈するのだとする』これが本書の思想の枠組みであり、ドゥルーズはこの観点からこと細かに論理的に展開するのである。
時に注目する点は道徳、自由についてである。『道徳法則は直感、並びに感性から全く独立である。・・自由は決して感性的世界のなかに奇跡を生み出すのではない』とする。そして『道徳法則によって直接規定されうるのは「自由の概念」のみである』とする。これらを感性的自然と超感性的自然から説明するが、これらと「理念」が複雑に絡み合っているらしい。なお、『いつでも自由の中には、われわれが道徳法則に反して選択することを可能ならしめる、自由意志の地帯が存するのである』とする記述が有るのは興味深い。この時にはわれわれは主体たることをやめるが、まず立法者であることをやめるらしい。そして理性については『悟性は判断するが、理性は推論する。・・「理性は一連の諸条件を構成する悟性の諸作用を通じて、一つの認識に到達する」』のであり、『理性とは・・単に認識の最高の段階として、この体系統一にわれわれが向かうことを、諸対象が許容する』だけなのである。
この「道徳」、「自由」、「理性」については、再度本書を、そしてもう少しドゥルーズの本を読んでから、ドゥルーズの思想を踏まえて私なりの考え方を述べたい。最初に言葉の定義が分からないと述べたが、広辞苑から調べた結果を忘れないために記述しておきたい。
「認識」とは知識とほぼ同じ意味。知識が主として知り得た成果を指すのに対して、認識は知る作用および成果の両方を指すことが多い。
「表象」とは知覚に基づいて意識に現れる外的対象の像。対象が現前している場合(知覚表象)、記憶によって再生される場合(記憶表象)、想像による場合(想像表象)がある。感覚的・具体的な点で概念や理念と区別される。
「悟性」とは、カントにおいては感性に与えられる所与を認識へと構成する概念能力で、理性と感性の中間にあり、科学的思考の主体。
「理性」は概念的思考の能力。実践的には感性的欲求に左右されず思慮的に行動する能力。古来、人間と動物とを区別するものとされた。特にカントの用法として、アプリオな原理の能力の総称。カントは理性が認識に関わる場合を理論理性、行為の原理となる場合を実践理性と呼んだ。
以上
|
|
|
|
2012年3月2日(金) |
ハイデッカー著 秋富克哉 神尾和寿 など訳「ニーチェの形而上学など」を読んで |
読んだ本は、「ハイデッカー全集 第50巻 1.ニーチェの形而上学 2.哲学入門−思索と詩作」である。創文社から2000年に出版されている。どうも文字が小さいせいか、ハイデッカーの思索が難解なのか、それともドゥルーズに比較して文章がぱさぱさ乾燥して読みにくいためなのか、読んでいると眠くなるのである。無理に読み続けているといつのまにか眠っている。それでも何回かに分けて目を通したが、この感想文を書こうとしても記憶があまりない。仕方がないので本を片手に文章を見ながら、ハイデッカーのニーチェに関する思索についてドゥルーズとの比較も含めて簡単に書くことにしたい。
「ニーチェの形而上学」では、ハイデッカーは「形而上学とは有るものそのものの全体の真理である」と述べる。そして「ニーチェの思惟は形而上学である、即ちニーチェの思惟は形而上学の内部で有るものの有を語ることを、このプラトン以来の西洋のすべての思惟に応じて形而上学である」と述べる。ハイデッカーはその後「ニーチェの思惟のなかで、有るものそのものの全体が言葉になろうとする」とし、「力への意志」、「ニヒリズム」、「同一物の永劫回帰」、「超人」、「正義」をニーチェの形而上学の五つの根本語であると指摘して、これらの言葉に沿ってニーチェの思索内容を述べる。ハイデッカーは同一物が永劫回帰を行うこと、超人は人間の従来の本質を初めて完全に肯定するとしていると述べるなど、ドゥルーズとは異なっている。ドゥルーズは、永劫回帰は差異を伴っているとし、超人とは人間が本質を獲得するのではない、新たな評価の仕方なのであり、「人間を克服するのは誰か」なのである。もともとドゥルーズは、ニーチェは「意味と価値の概念」を導入することを目的としているとし、「価値評価を下した形而上学」なのである。なお、ハイデッカーにおいても「力への意志」が重要視されている。最後に、ハイデッカーは「ニーチェの形而上学は・・ドイツ的なのではない。それは、ヨーロッパ的―全地球的である」と述べているのは、ニーチェを称賛しているからに違いない。
「哲学入門−思索と詩作」では、序論の題として「思索者ニーチェと詩人ヘルダーリンのよる本来的思索への手引きとしての哲学入門」と題して哲学について述べた後に、ニーチェの詩を解読しながら、ハイデッカー自らの「有るもの」への思索などを綴っている分かりやすい文章である。ニーチェについての思想は「ニーチェの形而上学」の書かれていることを簡単にした繰り返しである。ヘルダーリンの詩については一切記述が無い、きっと未完の文書である。ハイデッカーが生きていた当時の政治的状況などを考えると無理もないのかもしれない。この文書も講義のためであって、それも公職から七年間追放され復職した最初の講義の草稿であるとのことである。これ以上述べるのは止めよう。いろいろ物議を醸しているナチとの問題に触れざるを得ず、私としては、人はそれぞれの選択肢を進むことができ、その行動の結果は基本的にはその人自身が負うべきものであり、そして学問的な業績とは別個の問題として考えているからである。これはハイデッカーとはあまり関係無いが、科学研究の成果としての業績が生み出す結果に重大な危惧を抱くならば潔く中止すべきだと考えている。ただこの考えはなぜ中止すべきなのか、倫理か道徳なのか別の何かなのか、その明確な根拠を示せずにまだ固まっていないからである。結局、科学研究そのものは果てしなく進んで行く慣性的な性質を持っていて止めることはできないはずなのである。それは人間の本性に関わる問題でもあろう。それにしても哲学とは読むのが面倒ながら、きっと面白い所があるから読んでいるに違いないが、思想と文章が好いと読み応えがある。
以上
|
|
|
|
2012年2月27日(月) |
円城塔著「道化師の蝶」を読んで |
以前、彼の書いた「烏有此譚」を読んだことがある。ポンペイの遺跡の空洞、死人が腐敗し消え去ってできた空洞などを半ば小説の虚構性をテーマに書いた作品であって、淡々とした文章にも味があり良かったという記憶がある。確か、日記にも書いたはずである。
私にとっては二作目になる円城塔の作品「道化師の蝶」は期待していたが、残念ながら、「烏有此譚」の良さが活かされていない、中途半端な作品であったと言わざるを得ない。どうも小説の言語とか、虚構性や循環性をテーマに据えたらしいと思われるが、言語論を直接的に小説の中で取り上げるのは良くないし面白みが失せる。記述している個々の文章には正統的な意味を持たせながら、小説全体を虚構・空想化させているが、この手法は一定の効果をあげているとも思われるが、例えばカフカの作品と比較すると、描かれた虚構の世界が質的に異なっていると思われる。詳しくは分析していないし分からないが、文章を丁寧に一文字ずつ読めない質的差がどうしてもあるのである。そして会話文がとって付け足したようで、無理に会話を行わせているようで、気にかかる。
もう一つの小説の虚構化には、文章そのものを変質させる手法もある。例えばブルドンは自動記述法によって文章を歪ませて奇妙に異質な現実・世界に読者を導いて行く。先ほど言った通りに本小説の文章は正統的な意味を持ち少しも歪んでいない。その他の作家でも例えばロートレモアンなど奇妙に歪んでいる文章を書いていたと記憶している。日本の近代小説でも独特の文章によって異なった世界を切り開いた作家がいる。なお本小説を読んで行くと『娘から母が生れた』という文章があったが、この発想を源に小説を書けば面白くなるかもしれない。私が書くとすれば、そうするだろうし、その方がきっと素敵に良い虚構・空想化した小説が書けそうな気がする。
本小説を三十分で読み終えて、ハイデッカーのニーチェ論を読もうとした所、ハイデッカーはまずニーチェの次の詩を引用している。『次の詩節から解明される、すなわち 「世界―遊戯、主宰するもの、それが、/有と仮象を混ぜ合わせる:――/永遠に−道化めいたものが/われわれを混ぜ――入れる!・・』 どうも円城塔はこの辺りを書きたかったのかとも思ったりしたが、良く分からない。次の作品はより幻想的で奇怪な現実を書くように期待したい。
以上
|
|
|
|
2012年2月20日(月) |
高神覚昇著「般若心経講義」を読んで |
何十年も前に横に長く伸びる経本を何冊か持っていて、読んではまねごとに読経をあげていた記憶がある。般若心経もその中の一冊で、意味など分からずにただ唱えていた。無論、振り仮名がついていて読むのに不自由はしなかった。坊さんのあげる経本にも振り仮名がついているか知らないが、なぜかたぶんついているような気がして仕方がない。ただ、その大元なる昔の経本には返り点さえ無いに違いない。
今回、初めてこの般若心経の解説を読んで、今まで知らずにいたことがほぼ明確に理解できた。文章も易しく読みやすいが、また結構外国の哲学者の言葉を引用するなど博識を見せているが、その辺りは的外れの引用もあるようである。といって別にどういうこともなくて、キリスト教が罪を人間に押し付けたと同様に、仏教も苦を人間に押し付けて、両者ともにそれらからの救済を信じさせている。無論信じる者だけが信じるのであるが、キリスト教では神との契約によって信じることに厳格さが求められるのに対し、仏教では衆生の救済を目的とした慈悲によるのか、帰依でもしない限り、厳格さはあまり求められていない。
今まで書いてきたことはどうでも良くて、私が知りたかったのは「色」と「空」である。「色」とはやはり「形のあるもの」「この世に存在しているもの」であり、「「空」は有るようで、なく、無いようで、ある」という世間の実相であるらしい。「空」は「無」と「有」との間にあるようで、どうも否定でも肯定でも無いが、包み込むような優しさを感じるのは私だけだろうか。なお、付けたしに書くと「五蘊皆空」とは見るなどの五感であり、それらも「空」即ち『私どもも、私どもの住んでいる世界も、つまり一切のものすべて空なる状態にあるのだ』ということらしく、ただ「因縁」結びつけられているらしい。「般若」とは「智慧」のことらしい。これ以上書くのは無理のようだ。どうも本当は理解できていないようである。
他の文書から知ったのであるが、インドの思想では「無」が生み出すものとして定義されているとのことである。まさに宇宙物理のインフレーション理論の「無」に否「真空」に等価である。この生み出すものとしての「無」に強い関心がある。インド哲学の概要を読んでみるのも面白いかもしれない。
以上
|
|
|
|
2012年2月15日(水) |
ドゥルーズ著「ニーチェ哲学」に関する本を読んで |
読んだ本は「ニーチェ」と「ニーチェと哲学」である。どういう経緯があって、これら二つの本があるか知らないが、「ニーチェ」はニーチェ全集などを発刊する際に、簡便にまとめた本であるのかも知れない。ドゥルーズはニーチェ哲学の第一人者でもあるとのことである。また、原本が発行されたのは、「ニーチェと哲学」の方が「ニーチェ」よりも四年ほど早い。
1)「ニーチェ」ドゥルーズ著 湯浅博雄訳 朝日出版社 1985年発行
この本は「生涯」、「哲学」、それにドゥルーズが選んだニーチェの文章三十四編「ニーチェ選集」からなるニーチェ紹介を目的とした本である。特に「哲学」の文章は訳者の影響もあるのだろうか、素敵に良いのである。ただ、このニーチェの思想について述べた「哲学」を一読しただけでは、何が書いてあるのか皆目分からない。何かニーチェ哲学について本質的な何かが書かれていると思われるが、どうもよく理解できなくて、ただ論理的に詩的に書かれている文章が素敵に良くて読むことができるのである。「ニーチェと哲学」を読んだ後に本書を読み直してみたが、ドゥルーズのニーチェ哲学の解釈が簡明に記されていることが分かる。簡略化した骨組の思想だけを記述したが故に分からなかったのかもしれない。「ニーチェと哲学」を読まなければ分かるはずなどないのである。従って、ドゥルーズの「ニーチェ哲学」の解釈の全貌を知りたければ、「ニーチェと哲学」を読まなければならなし、この本だけで目的は達せられるはずである。
2) 「ニーチェと哲学」ドゥルーズ著 足立和浩訳 国文社 1982年発行
いつもながらドゥルーズの解釈、論理的でほぼ隙の無い明晰な読解力には感嘆するものである。読みながら、この解釈は誰が行っていると思い、ドゥルーズの思想に基づいた彼自身のニーチェの著作物に対する解釈なのであろうと自分に回答しながら読み続けて、最後に足立和浩のあとがき「ドゥルーズのニーチェ論」を読むと、まさしくドゥルーズ独自の読解に他ならいと書いてあって、やはり同じ思いを感ずるものだと納得したものである。この本以外のニーチェ論は読んだことがないが、それほどドゥルーズの解釈は、フーコー論についても同様であったが、対象者(の著作物)を細密に分析、解釈し一つの論理体系、思考システムの中に無意識の淵に潜むような思想さえも含み組み入れながら、対象者の全的な思想を明らかにするのである。この論理体系はドゥルーズが対象者に見出して構築した独自のものであって、対象者の思想でもあり、両者が合体したと言う以上に、ドゥルーズの論理体系・システムに組み入れられ解釈された対象者の思想とも言うことができると思っている。言い換えれば、ドゥルーズは対象者の思想を彼なりの思想の内に、きっとそうあるべきであるとする自身の思想に基づいて、対象者の思想を全的に矛盾なく体系化・システム化してしまうのである。ただ、フーコーについてはドゥルーズ自身の思想は少ないと思われるが・・。
ドゥルーズのニーチェの思想の解釈は書き出すと長くなる。ドゥルーズの条件分岐が多くてかつ時には反転する論理的展開を、理解した積りでも容易に思い出せない所、きっと理解できていない所もあるので、知り得た範囲で簡単に紹介するに留めたい。ドゥルーズは最初に書いている通りに『ニーチェの企ては・・哲学の中に意味と価値の概念を導入すること』としてニーチェを論じているのである。意味とは、その事象を所有し横領し占有している力が、どのようなものであるかを知ることによってのみ知ることができるとする。例えば、神の死とは複数の意味をもつ事件であり、このようにニーチェ哲学は本質的多元論を導入しない限り理解できないとする。そして事象はその事象を占有する力の数と同じだけの価値を持つのである。こうしてドゥルーズはニーチェ論を特に「ギリシア悲劇」、「ツァラトゥストラ」など元に展開する。重要なのは「力への意志」である。そして肯定的な力と反動的な力、この反動的な力が能動化されることにより、絶滅の意志、無への意志を持つニヒリズムが価値転換によって克服されるとする。価値転換とは今まで認識されていた認識可能ないっさいの価値が転倒されることであり、力への意志の質的な転換、即ち否定から肯定への転換のことである。そして肯定とは自己自身の対象であるかぎり存在そのものなのである。
ドゥルーズの容易に分かりそうでいて難解なこの本については、もう一度よく読んでみたい。即ち、ニーチェの哲学は存在を肯定することによってニヒリズムが克服されるとする点、特に「力への意志」の詳細について再読し確認したい。
以上
|
|
|
|
2012年2月10日(金) |
「抽象絵画」に関する本を見て・読んで |
読んだ本は二冊で、簡単にその内容を紹介する。抽象絵画とは面白いもので、印象派や象徴派よりも好きである。きっとこの抽象絵画に匹敵すのは、イコンとか聖像画あろう。ただ、抽象絵画も印象派などに起源を持つものらしい。
1)土肥美夫 著「抽象絵画の誕生」 白水社 1984年発行
抽象絵画の誕生からその経緯が文章にて詳細に書かれている。カラーの絵は少なく、白黒の絵が掲載されているが、この絵は本文の論旨を展開するために付随的に載せられたものである。ただ、文章の質は高く、抽象絵画を専門的に知ろうとする人にとっては欠かせぬ本であろう。作者が哲学者であることも関係しているのかもしれないが、読みやすい文章であり、絵画の意味するところを的確に表現している。「レアリスムからセザンヌのレアリザシオンへ」から始まり、最後に「抽象絵画の誕生」にてカンディンスキーやクレー、マレーヴィッチにについて論じている。
2)本江邦夫 著「すぐわかる画家別 抽象絵画の見方」 東京美術 2005年
表題の通りに画家別に代表的な画を載せて、簡潔に著者の印象を説明している。抽象絵画の流れを図化しているのも分かりやすい。「抽象絵画の誕生」にも共通しているが、抽象絵画の源を、セザンヌやカンディンスキーなどに求めている点は一致している。なお、この本は「戦後の抽象絵画」として、最近の画まで掲載しているのは嬉しいことである。全部で46名の画家のうち、1、2点の作品を見て個人的な好き嫌いと言うか、関心の深さを言うなら、次の画家の画が気に入っている。無論、どの画家の画もとても楽しめるが、きっと決めつけるのは無理があるに違いない。< >はとても好きな画家であり、この人たちだけをあげた方が良かったのかもしれない。
<セザンヌ>、カンディンスキー、クプカ、モンドリアン、マレーヴィッチ、ピカビア、ホフマン、ドローネー、ロトチェンコ、ミロ、フォートリエ、フォンタナ、<ロスコ>、<ゴーキー>、スティル、<ニューマン>、<ポロック>、ルイス、<ラインハート>、スタール、スーラージュ、フランシス、クライン、<リヒター>、ステラ、山口長男 など。
抽象絵画を描いたなら、きっともう行き場所はなくなるはずで、また元の具象画に戻るだろうと思うが、今後どう展開されるのかがよく分からい。きっと混在・並列しながら、それぞれの画家が自分のモチーフに基づいて描いて行くことになるには違いない。CGには期待している。超新星の爆発などの写真が画以上に素敵に思うことがあるが、これを画に活かせないだろうか。きっと、新しい画は突然やって来るのだろう。
以上
|
|
|
|
2012年2月3日(金) |
西郷信綱著 「西郷信綱著作集 第6巻 文学史と文学理論T 詩の発生」を読んで |
この本を読むと、どのように詩が発生してきたか非常に明快に良く分かり、とてもいいのである。特に著者の物事を追求する姿勢が、精神が落ち着いた文体の中に強く埋め込まれて、その思考結果が論理的に展開されていくのは読み応えがある。ただ、複数の論文を並べているために、少し論文間の間(ま)が飛ぶ面もありが致し方ないであろう。また、詩の発生そのものの思考も、私は正しいと思うが、正確には評価はできない。この奥行きのある分野について私はあまり知らないので、批評も評価も下せないのである。どうも西郷信綱は風巻景次郎と折口信夫の影響を受けて、彼らの思想を受容し批判することを原点として文学理論を展開したらしい。経済と政治の歴史を踏まえて、即ち経済上の生産性と政治的な急激な変革と体制、特に共同体とその変移の視線を加えて文学理論を展開したのは説得力を持つ。以下簡単に私には重要と思われる記述内容を紹介したい。なお、本書の記述内容は最後に「解説」として、滝澤武が簡明にまとめている。
1)詩は「信仰」、「性の牽引」や「咄嗟の感激」からではなく共同体社会にて必要であった「祭式や魔術」から発生したと著者は記す。すなわち、まだ詩とは呼べ得ないかも知れない「うた」を最初の段階とし、踊りと音楽に密接に結びついていた。当然リズムを伴い、共同体の成員を内部世界に沈め陶酔させるものであった。この祭りの中心であった巫女が成員全員を狂わせた最初の詩人であったと著者は記す。
2)大嘗祭では、降臨してくる新天子は嬰児として現れ出てくるのである。儀式では真床覆衾(マドコオフスマ)をかぶるが、これは嬰児を包む子宮と洋膜の象徴に他ならない。即ち、死んで胎児として甦る復活劇が行われている。これは原始的社会における幼年を葬って一人前の社会成員になる成人式の復活儀式の転用に他ならないとする。
3) 藤原定家などの歌が詠まれている新古今和歌集においては、記紀歌謡の感覚的なものから、むしろ感覚的なものが消えたところに現れた精神世界の抒情を読んでいるのではないかということ。和歌の精進道は、和歌と王法と仏法が緊密な三位一体をなしていること。これは俊成や定家の精進譚や禅定修行にて明らかであるが、新古今における人間不在の形式主義は技法としては洗練されながら、不毛に挑んだ無償の行為に近いものであるということ。
4)源氏物語は源氏の色好みへの英雄的な妄想を悪とみなす中世思想との絡みを描いているであり、六条の御息所はその「もののけ」が次々と取り憑き死や苦悶を呼び寄せる、即ち否定の面から定位されなければならない重要な人物であるとする。なお、仏教を忌み嫌う伊勢斎宮は罪深き所とされ、そこに在住した六条の御息所は苦患の炎に焼かれなければならないと作者(紫式部)はみているとする。
以上
|
|
|
|
2012年1月29日(日) |
ニーチェ著 秋山英夫訳「反時代的考察」を読んで |
訳者の秋山英夫によると「反時代的考察」という表題にはいろいろ経緯があるようであるが、ここでは触れない。ただ本書は現状のドイツ文化に対するニーチェの思いを憤怒を伴った激情にて、またニーチェの内奥の歴史と思想の源が詩情性を伴った比喩にて語られている。本書(角川文庫 平成二年 第五版発行)は「ダヴィット・シュトラウス」、「生に対する歴史の利弊について」、「教育者としてのショーペンハウエル」、「パイロットに於けるリヒャルト・ワーグネル」の四作品から構成されていて、読んだのは最初からの三作品のみである。憤怒を伴った激情にて書かれたのが「ダヴィット・シュトラウス」、「生に対する歴史の利弊について」であり、自分を理解でき得る手助け者としてショーペンハウエルに感謝する「教育者としてのショーペンハウエル」は、激情は治まってまずは穏やかに分かり良い文書で書いている。
そもそもニーチェの文章は比喩が混じり、分かりにくい所もたくさんある。だが、自己主張するとても攻撃的でありながら、詩情も含んだ魅力的でかつ読者には中毒に成り得る読み応えのある文章である。ただ詩情性と言っても、散文を基準としている以上本格的な詩文とは質的な差があるのは当然であるが、攻撃性は相手が目の前に居るだけに非常に激烈である。そして、枠組みは守られ少し脇道に逸れながらも、きちんと主題に戻って来る論理性がある。三作品の中で「教育者としてのショーペンハウエル」は一部学者などに激情し非難する所もあるが、分かりやすい比喩であり、分かりのいい文章で書かれている。私はこの作品が一番好きである。三つの作品で何が書かれているかごく簡単に紹介したい。
1)「ダヴィット・シュトラウス」では、シュトラウスの著作「古き信仰と新しき信仰」を元にシュトラウスを俗物と言って非難する。思想をあげつらって罵倒するのである。なぜならシュトラウスの形而上学的仮説が、その古い型の思想がニーチェには間違っていて理解できないとする、即ち鼻持ちならないのである。ショーペンハウエルを批判するなどもってのほかであり、彼はドイツ的教養と文化俗物の代表なのであろう。最後には頁数を示した文章を引用して、気違いじみた調子で反論するのである。
2) 「生に対する歴史の利弊について」では、歴史について問いかける。そして、歴史は忘却することができる非歴史的なものと、存在に永遠にして普遍の意味を持つ歴史的なものとがある。この歴史は、生あるもの、即ち活動し努力する者、保存し尊敬する者、苦悩し解放を要求する者の三者に必要であり、これに対応して記念碑的、骨董的、批判的仕方の歴史があると述べる。この歴史の解釈は一番高貴な特性を最強度に張り詰めた場合にだけ許されるとする。また、歴史的感覚が無拘束となって張り詰め、それがとことん進めば未来を根こそぎにすると主張する。最後に倫理的性質が高く誠実さを加え実現されたギリシア文化を、『誠実さが時あって潰滅させることに手をかし得るとしても』との文章で結ぶ。本作品では生を蝕み毒する歴史的な感覚や科学について述べたとニーチェ自身が言っている。
3) 「教育者としてのショーペンハウエル」では、ニーチェは人間は生への不安を持ち生の語る声を耳に囁かれることを怖れていると述べる。即ち人間は静けさを嫌い社交によって誤魔化して生きているのである。この思想はハイデッカーの存在への忘却、頽落へと繋がっている。そして、文化・芸術なるものは真の人間への発生を促進させるべきものでなければならないとする。この存在論を語るニーチェの文章は素直で分かりやすく美しい。ただ、学者や青年への教育を述べる時、特に学者・哲学者は酷評される。哲学そのものも攻撃される。ハイデッカーは「生に対する歴史の利弊について」を褒め称えていたらしいが、ハイデッカーの思想は「教育者としてのショーペンハウエル」の方により多く繋がっている。ハイデッカーはニーチェの歴史に関する思想を褒め称えたのであろう。ショーペンハウエルに関しては少しばかり書かれていて、ニーチェがニーチェ自身を理解できるものとしたことで称えられるが、克服されなければならない人・思想であるに違いない。
4) 「パイロットに於けるリヒャルト・ワーグネル」は読んでいない。
本書を読んでみると、「悲劇の誕生」と同様にキーワードが「ドイツ」、「文化」、「科学」、「国家」、「哲学」であって、俗物を嫌い孤独に落ちて居ようとも高みに昇ろうとするニーチェの強い意志が映し出されている。ニーチェを称賛する哲学者は多いが、その理由がいまだに良く分からない。
以上
|
|
|
|
2012年1月25日(水) |
古井由吉著 「蜩の声」を読んで |
もう、何十年も前に「杳子」など古井由吉の著書を読んだことがある。どこか主観と客観の入り混じった繊細ながらも、弱々しさを秘めながらも流れる情感に、小さな憤怒に、忍び寄る運命を暗示させる文章には確か巧いなと感嘆したものである。だが、今回「蜩の声」を読んでみて、基本的には文体は変わらないと思うのであるが、どうしても読めないのである。短編なのか、エッセイなのか知らないが、無理に最初からの三篇ほど「除夜」、「明後日になれば」、「蜩の声」をさらっと目を通した。どうも、終戦直後の情景を重ね合わせながら、思い出を語りながら現在の老いた心境を書いているようである。間違っていたらごめんなさい。
もう感覚的に合わなくなっているので、特に感想はない。ただ、読みながら小説を書いているのは誰か、文章に浸み込む感性は誰のものか、そもそも作者は居る、もしや居たのだろうかという思いが頭を過った。書く者と書かれる文章との関係に夥しい断絶があるような気がして仕方がないのである。自分の生んだ子が親では無いといって反抗するようだ。この断絶を無くすにはどうすればよいのだろう、親だと言って優しく抱き締めれば、認めてくれるのだろうか。そもそも文章には肯定や否定があるに違いない。宙ぶらりんもあるに違いない。反抗するのは肯定だろうか、否定なのだろうか。この肯定と否定とは作者の文章に対する態度でもあり、文章の作者への、また読者への、またまだ見ぬあなたへの思いでもあるに違いない。その思いが宙ぶらりんになってしっぺ返しを食らっているのだろうか。文章を書く作者が、書かれた文章そのものが、否定や肯定に宙ぶらりんも、まだ見ぬあなたも良く分からぬことでもあるが、これらの意味を求めればフーコーが言うようにどれもが砂粒のように舞い消え去ってしまうのだろうか。
以上
|
|
|
|
2012年1月23日(月) |
マーク・ルラ著 佐藤貴史・高田宏史・仲金聡 訳「シュラクサイの誘惑 現代思想にみる無謀な精神」を読んで |
哲学者とその政治行動に関する冒険的なエッセイである。分かりのよい文章で哲学者の思想の紹介にもなっているが、僭主政治に手を染めた者を非難する一貫した姿勢はとても厳しい。たぶん、著者は哲学者が真理へのあこがれと同時に具体的な秩序づけ(政治)を行いたいという欲望との間には関連があり、この衝動が、無謀な情熱とも成り得ることを人間の心の中にあることを見抜いていたプラトンの考えを受け継いでいるのである。即ち心が、観念を取り扱う哲学者にはこの心の衝動を統御する至高の自覚を求めているのであり、この自覚を持たない者に厳しいのは著者には当然のことなのである。そしてプラトンの「饗宴」の語りを受け継いで哲学と愛を論じ、イデアと知的に繋がって交流することが哲学の目的あるのに対し、節度を欠く者には必ずしも哲学となっては現れない肉の情念・エロスがその人物を狂気といった官能的な快楽の中に沈みこませ、理性と自然の本性をおのれの目的に従わせ、魂の僭主になることも有り得るとする。そして、エロス的な愛着、精神の生活、政治の世界のこの互いに独立した世界を非凡にも実現させた者たちについて(例外者もあり)、6章を用いて合計8名以上について書いては非難して行くのである。
この非難が正統なものであるのかは私には分かりかねる。著者の僭主政治としてのファシズムや共産主義、更に人間の知性と行動の完全性への断固たる潔癖性がなせる業かも知れない。そもそもヒュームのごとく人間の「倫理は情念から生れる」する哲学者もいるのであって、今や理性は情念に従属している付属物のようなものであるかもしれない。ヒュームは「理性は感情の奴隷である」とも言っているらしい。どういった政治形態になるか分からないが、将来的に「隷属」ということが起こるのは確かであると私は思っている。この辺についてはもっと本を読んで調べてみたい。いずれにせよ本書を読んで率直な感想は、「シュラクサイの誘惑」というより、誘惑などなくとも僭主政治は物怖じしない女のように押し掛けてきて、女房として亭主を乗り越え立派に切り盛りするのである。なお「シュラクサイの誘惑」とは、僭主政治を行う王に理と知を教えるために三度もシュラクサイへ出かけたプラトンの故事にならっている。また、ハイデッカーが大学総長(親ナチスと著者は言っている)を辞めた時には「シュラクサイからお戻りで?」と皮肉られたらしい。以下記述されている人物について著者の言い分を元に簡単に紹介したい。
1)マルティン・ハイデッカーは教え子であるハンナ・アーレントと関係を結びこの不倫なる恋人関係をほぼ生涯続ける。そして理性的な友人カール・ヤスパースの親切な忠告にも拘わらず、ナチスの政治に関わり、フライブルク総長就任のために活動を行い、実際に総長に就任してはナチスを擁護するとしている。この恋人にて友人の三人の関係を、書簡なども紹介し心の推移・行動などが割と詳しく記述されている。結局、著者はハイデッカーのこの行動を子供じみたものとし、哲学はおのれの情熱を飼い慣らさなければならないとする。
2)カール・シュミットはナチスに入党しその体制に肩入れし、その公認唱道者になる。ユダヤ人に対しても冷淡である。今もシュミットの研究がなされているのは、戦後の主要な政冶理論家であり、その「リベラルな政治など存在しない」を主テーマにした、即ち個人主義、人権、法の支配など自由主義的な思想はフィクションであり、権威、リーダシップ、恣意的な決断などの非リベラルな思想に傾斜する道徳的な幻想なしの理論家であったか、リベラルとイデオロギーの根本的な暴露者であるからである。そして著者は神学的絶望の政治を実践することのないよう、シュミットからは真に批判的な自由主義の思想について学ぶべきとする。当然シュミットのナチスへの肩入れは非難されるべきと主張する。
3)ヴァルター・ベンヤミンは文学批評家である。彼が描き出すバロック時代は、十七世紀ドイツの哀悼劇にアレゴリーとして表わされる。即ちバロック時代は歴史的危機の時代、宗教を秩序とした中世世界の崩壊であり、これを哀悼劇は世界に秩序も英雄もいずに、僭主、殉教者などのメランコリーとして提示するとする。ベンヤミンはこの哀悼劇が表現する神学的思索からマルクス主義に転向する。つまりこの結果ベンヤミンは形而上学的なものと唯物論的なものとのあいだで、聖なるものと世俗的なものとのあいだで「引き裂かれる」ことになったのである。ドイツ哲学の伝統そのものが、カント以来この原理の間で引き裂かれていたのだと著者は主張する。
4)アレクサンドル・コジェーヴはヘーゲル哲学の講義を行なうことに全知的人生を送ったのではなく、フランス政治家の貴重な助言者でもあったのである。ヘーゲルの自己意識の認識、即ち主人と奴隷の対立に奴隷が勝利し、即ち自己意識がおのれ自身と同時に他者のおのれも承認できるようになる。このことは階級間でも民族間でも生じるが、囚人−奴隷の関係の消滅は結局のところ哲学はひとつの終局に達したとし、コジェーヴはヘーゲル的な知恵を政治的に適用する時代であるとする。シュトラウスとの書簡では、彼は哲学者と僭主は歴史の仕事を成就させるために互いに必要とすると主張する。彼は資本主義と僭主政治的な国家社会主義(ソビエトを想定)の間で中立を保ち、公的な地位には一度も就かなかったとのことである。
5)ミシェル・フーコーはニーチェの弟子を自任した。自己創造というニーチェの教義を真剣に受け止め、この教義に触発された人物とその政治的見解に審判が下せる考えていたと著者は主張する。フーコーの苦痛の源は同性愛だったとし、自ら「限界経験」と呼ぶエロティシズム、狂気、ドラックなどを追求する可能性が、ニーチェ的道徳家として現れ、非理性にその適切な心理学的地位を復権させるのである。そして「限界経験」への病的な傾斜こそ、より大きな「権力」への自己と他者の支配の訓練として賛美したと言う。そして、フーコーはいかなる現実的関心を寄せず、いかなる現実的責任取らないものであり、この者が政治的な領域にデーモンを投影した時何が起こるのか、これを明らかにし得ると考えるのは馬鹿げたことであると、著者は痛烈に批判する。
6)ジャック・デリダは脱構築の中に単一の政治綱領を読み込ませようとする試みをことごとく躓かせた。説明なしに自分を左翼の人間と宣言して他人を訝しめたが、とうとう脱構築と例えばマルクス主義との類似性を発見したと言い張ることになる。一方サルトルは「実存主義はヒューマニズムである」によって押しつけがましいヒューマニズムを聴衆に届け、共産党随伴者に成り下がる。レビィ=ストロークの構造主義が「世界は人間なしで始まったし、人間なしで終るだろう」と述べた時、ラディカルに民主的な点などにおいて、サルトルよりも優れていると見なされる。そして、デリダの脱構築は、ハイデッカーの「解体」に思想の源を持っているが、テクストに埋もれているアプリアなどをあらわにすることによって、ロゴス中心主義、男根中心主義の終焉を告げる。だが脱構築が西洋哲学の政治的な原理に懐疑を投げ掛けるとしたら、政治的な判断は可能なのだろうかと著者はさまざまな問題を投げ掛ける。結局著者はデリダの思想はマルクス主義にも関係ない、種類のはっきりしない左翼系民主主義者として批判し結論付ける。
最後に一言。この本の内容が論じられることはきっとないが、作者の本来の意図も理解されることはないと思われるが、作者の懸念していることはたぶんこの今も一時も休まずに、確実に進行しているだろうと推測される。即ち、僭主政治なるものの延長であり、復活である。
以上
|
|
|
|
2012年1月20日(金) |
執筆者 中原佑介「新潮美術文庫28 セザンヌ」を見て・読んで |
印象派や象徴派の中ではセザンヌが一番好きである。当然セザンヌは印象派から抜け出して独自に絵を書いていた。中原佑介の巻末の「自然の再現を超えて」は繊細に理論的に書かれていてセザンヌの特徴が露わになる。セザンヌが自然の奥深さを知り、それが画面に描き切れないことを知りなが、らサント・ヴィクトワール山を繰り返し描いていたが、描き切れないことがセザンヌの能力の問題ではなく、セザンヌが不可能への挑戦ともいうべき性質を秘めていたからに他ならない、と言う時なるほどそうだったのか納得してしまうのである。
セザンヌの作品は形象の内側から捕えられていて形象がその姿を露わにされているところがある。ポロックの初期の作品もピカソの影響を受けながらも、どこかセザンヌに似ている所があると思っている。抽象表現主義とは、印象派や象徴派、超現実主義を超えてセザンヌから発したのではないかと素人は思うのである。いや、とにかく「サント・ヴィクトワール山」は見ていて好い絵だなと感心する者である。
以上
|
|
|
|
2012年1月18日(水) |
ジョナサン・カラー著 折島正司訳「文学と文学理論」を読んで |
ほぼ精読したが、読後感は得体の知れないものだった。なぜ、この本を読まなければならないかという思いが募り、少し虚ろな気分になりながら、しばし考えたものである。知識の拡大に少し役に立つ部分もあったが、アメリカ文学の理論家・批評家である著者の書いてあることが理解できないというより、肌が合わないのである。たぶん、文学の周辺を徘徊し文学の外側から書かれた評論の寄せ集めが、全体の理論を見えなくくし、引用する複数の評論家などの主張が交錯して著者の意見を希薄化してしまう以上に、この著者の文学と呼ぶそのものものが過去の堅牢な文学を取り扱っているのではないかと疑わざるを得ないというのが、少しばかり考えた結論である。
「理論」、「諸概念」、「批判的実践」の題する分類の中に合わせて十二章の論文ある。その論文ごとに少しばかり説明を入れようかと思ったが止めにして、題名のみにする。「理論」では「理論の中の文学」、「小説と国民国家」、「理論への抵抗」である。「諸概念」では「テクスト、その運命の転変」、「記号−ソシュールとデリダ、恣意性について」、「行為遂行的なもの」、「解釈」、「全知」である。「批判的実践」では、「悪い文章と良い哲学」、「批評的著述」、「カルチュラル・スタディーズ」、「とうとう比較文学」である。なお、「イントロダクション」にて、「形式」と「システム」の話が出てきた時には、とてもこの本の内容に期待していたのであるが・・。
「理論」においてアンティゴネー(オイディップスの娘であり、反乱者の兄の屍を王の掟に背き砂をかけて葬り獄中にて自殺)の名前がでてきたのが、そもそもこの著者に対する評価の誤りの始まりであった。少し前にオイディップスを読んだばかりで興味をそそられたためである。ただ、同じ「理論」においての「小説と国民国家」にて、『国民国家という想像の共同体と小説の関連があるという主張に絡んで』と述べて、最後に『国民の再現表象としての小説の内容でなく、国民の想像を可能にする前提条件としての小説形式』と結ぶ時、何か時代錯誤に陥った感があったのである。「小説形式」とはなんのために、そして誰のためにあるのかと少し考えてしまった。国民とは誰なのだろう。国民の再現表象ではなくて、想像を可能にする小説形式の「想像」とはいったい何なんであろう。また「理論への抵抗」にて『テクストの行為遂行的次元と事実確認的次元』について述べる時、文学の行為遂行性(文学の影響を受けて行為・行動を成すことである)などそれほど考えない私にはとても違和感を覚えたのである。「悪い文章と良い哲学」では著者は悪文を好意的に見ているが、当然悪文は「良い?哲学」ではないはずであって、「良い?哲学」とは文章でも思想でも酔わせてくれる名文であることが多いはずである。そもそも「良い哲学」とは何なんだろう。哲学に「良い」と冠をつけることは避けなければならな。、哲学とは良いと悪いとの判断とは関係なしに、ただ単にある種の思想を述べているだけなのである。
もう少し書こうと思っていたが何か、どうもくだくだ述べていているだけで、もう感想を書くのは止めにしよう。それが一番良いのではないか。
以上
|
|
|
|
2012年1月14日(土) |
土井守 松原隆彦著 「宇宙のダークエネルギー 「未知なる力」の謎を解く」を読んで |
本書は正面からダークエネルギーについて書いている貴重な本である。第1部の「ダークエネルギーの謎と物理学」と第2部の「ダークエネルギーの謎と天体観測」に分けて書かれているが、感想は「ダークエネルギーの正体」に的を絞りたい。なお、相対性理論における「宇宙項」というのは空間に薄く広がったエネルギーのことであり、空間が大きくなればそれに比例して全体のエネルギーも大きくなる通常の物質とは異なった性質を持つものであることを特筆しておく。以下は混迷するダークエネルギーのその正体の理論であり、箇条書きにて記述する。
1)量子論的な真空エネルギーはダークエネルギーには大きすぎ、小さくするために「超対称性」について検討する。即ち「超対称性」には「フェルミ粒子(電子など)とボーズ粒子(光子など)の種類は必ず対になっている」という仮説がある。ただ、フェルミ粒子とボーズ粒子の間(これら二つの粒子間)には超対称性はない。また、ある粒子と対をなす粒子のことを「超対称性粒子」と呼ぶが、この「超対称性粒子」も見つかっていない。ただもしフェルミ粒子とボーズ粒子間に対称性があって、この対称性の破れがあるとするならフェルミ粒子とボーズ粒子間の打ち消し合いが完全ではなくなり、余分なエネルギーが残っている可能性がある。この超対称性による消去を考慮しても、まだ真空エネルギーはダークエネルギー以上に桁違いに大きいのである。
2)方向のない「スカラー場」と呼ばれる種類の場がダークエネルギーのように振舞うことは知られているが、まだダークエネルギーほど小さくはならない。
3)一般相対性理論に重力が表わされている限りダークエネルギーの説明は難しいので、重力理論の修正を行う考え方もある。いろんなアイデアが提案されているが、やはり人為的なものになってしまう。「高次元理論」でもかなり恣意的な構成となり、矛盾のない高次元モデルを構成できるかもまだ分かっていない。
4)「宇宙の一様性」という考え方を捨て、非一様宇宙を考える可能性。われわれの銀河系が物質の薄い場所にあり、遠方の物質が多く存在する宇宙へ引き寄せられている可能性もあるが、なぜ非一様性ができたなど説明や説得力も乏しい。
最後に著者のエピローグの一部を引用して終りとしたい。『私たちはまだ、ダークエネルギーの問題を自然に説明するような理論を持ち合せていません。したがって、ダークエネルギーの問題が将来どのように解決されるのかは著者たちを含めて誰にも分かりません。しかし、何か我々は宇宙の見方に根本的な見落としをしていることは確かなようです。』この見落としを見つけ出すには、何十年、何百年後になるのだろうか。
なお、付け加えて記述すると、ダークエネルギーとは、宇宙全体に広がって負の圧力を持ち、実質的に「反発する重力」としての効果を及ぼしている仮想的なエネルギーである。現在提案されている2つのダークエネルギーの形態としては、宇宙定数とクインテセンスがある。前者は静的であり後者は動的である。前者はアインシュタインが膨張する宇宙と釣り合わせるために、即ち静的な宇宙を得るために加えた項であることは有名である。クインテセンスでは、ダークエネルギーはある種の動力学的な場が粒子的に励起したものとして生まれるとする。クインテセンスは空間と時間に応じて変化する点で宇宙定数とは異なっている。クインテセンスは物質のように互いに集まって構造を作るといったことがないように、非常に軽くなければならない。今のところクインテセンスが存在する証拠は得られていないが、存在の否定もされていない。このダークエネルギーによって示唆されるこの宇宙の未来とは、ビッククランチ、ビックリップなどがあるが、我々の実生活には関係ないように思われる。ただ、少しばかりの関心があるのである。
以上
|
|
|
|
2012年1月12日(木) |
佐藤勝彦著 「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」を読んで |
第1版2001年、第1班第7刷2008年の少し古い本である。佐藤勝彦のPHP文庫は3〜4冊ほど読んでいるが、特に目新しいことは書いていない。ただ、表題にあるように「無」から始まった、生れた宇宙は、エネルギーの高い状態から低い状態へと落ちていき、相転移が起こり、沸騰する水のように泡が出てくる。即ち急激なインフレーションが生じるが、領域によって進み具合が異なって、デコボコだらけの構造となり、この生じた泡が独立して、親宇宙(マザー・ユニバース)から子宇宙(チャイルド・ユニバース)、孫宇宙が生れ出てくるというものである。これらの宇宙は、ワームホール(相対論で言えば「アインシュタイン=ローゼン橋」)で結ばれているが、「事象の地平」に隔てられて因果関係を完全に遮断されているということである。無論、親宇宙もたくさん生れ出て来る、佐藤勝彦が発見した「宇宙の多重発生理論」が成り立つとのことである。
この本では多重宇宙に至る物理学的な「無」からの宇宙の生れる理論としてのインフレーション理論やホーキングの「宇宙創生モデル(ノーバウンダリなるモデル)」、そして「宇宙項」や「力の統一理論」や「ダークエネルギー」などに触れて、最後にインフレーション理論の証拠となるCOBE衛星の描き出した宇宙開闢30万年頃の宇宙地図がインフレーション理論と一致することを示している。興味深いのは「無」の『つまり「無」とは、時間も空間も物質もエネルギーも、文字通り何もないということになります。』という文章である。ただ、この何も無い「ゼロ宇宙」でも、量子力学的な「揺らぎ」があって、「ゼロ宇宙」も生成消滅を繰り返している不思議さである。どうも「無」と「真空」と「真空エネルギー」という言葉をまだ完全に理解していないらしい、というより『物理学的には「無」の状態であっても、物理量は完全にゼロではなく、小さな値であるけれども揺らいでいるのです。』という文章をそのまま理解するのが正しいらしい。即ち、「無」とは時間も空間も物質も無いが、量子力学的には揺らいでいるのである。真空中ではこの揺らぎの結果、素粒子が常に生成消滅を繰り返していると考えることができる。ただし、粒子は必ず反粒子と対になって現れ一瞬で消えてなくなるものなのであろう。
ここまで書いて、また「無」と「真空」との区別が分からなくなってきたが、どうも物理学的には「無」とは「真空」のことであろう。哲学的には「無」とは「有」対する言葉であって、いかなる有でもないことであり、存在一般の欠如であり、一切の有の否定である。ただ「無」とは万有の根源となるものであり、有と無を絶したものでもあるのであり、インド思想や老子に説かれているということで、誠にややこやしい。
以上
|
|
|
|
2012年1月8日(日) |
ニーチェ著 秋山英夫訳「悲劇の誕生」を読んで |
ニーチェの処女作である。後からは「音楽の精髄からの悲劇の誕生」、更に「悲劇の誕生、あるいは、ギリシア神話とペシミズム」と改題されている。ニーチェ独特の論調と抒情的な文章が加わって、最初何を書いているのかよく分からなかったが、秋山英夫の解説や以前読んだソポクレス著「オイディプス王」などを読んで調べているうちに、どうもギリシア悲劇の誕生と没落を描き、更にドイツ精神の復興として現代のオペラ文化に対し、ワーグナーの悲歌的、厭世的な「楽劇」をギリシア文化への、ギリシア悲劇への再生として正統な系譜として位置づけ捕えていることである。異なった言い換えをするなら、ニーチェは神話を破壊しようとした理論的なソクラテス主義の帰結が、はるか遠い昔までその根を探し求めている現代のペシミズムの姿に他ならずに、この神話的故郷を持たずにドイツ精神の復興は有り得ないと主張しているのである。
ギリシア悲劇は確かに酒神ディオニュソス(ローマ名:バッカス)を称える合唱隊から発生してきたことは確かなようである。そしてソポクレスは合唱隊の人数を増員させて成功している。ニーチェは本書で叙事詩や劇の対話部はアポロ的、抒情詩や音楽なる合唱隊はディオニュソス的と言いながら、これらを包括してしまい、ディオニュソス的はソクラテス的を対立概念とする。即ち三大悲劇詩人のエウリピデスの後見人であったとする論理の怪物ソクラテスが、ギリシア悲劇を没落させたと言うのである。そして、先ほど述べたように、ワーグナーの悲歌的、厭世的な「楽劇」を古代の復活として正統化する。ニーチェのソクラテス主義に対する嫌悪・反駁は以下の文章にても良く分かる。『確固とした神聖な祖先伝来の故郷を持たず、あらゆる可能性をあさりつくし、あらゆる文化の滋養を吸って細々と生きながらえる羽目におちいった文化を想像してみるがよい――これこそ、神話の破壊を目指したあのソクラテス主義の帰結である現代の姿にほかならない。こうして今や神話を持たぬ人間は、永遠に飢えながら、あらゆる過去のあいだに立って、土を掘ったりえぐったりしながら根を探している。』
このニーチェの処女作を読んでも分かったが、ハイデッカーがニーチェを『人間を主観として世界を対象化する試みが極点まで徹底化されている』と評したというのが良く分かる。ドゥルーズがニーチェをどう言っているか早く知りたいものである。ただ、私にはニーチェは良く分からない、ただ圧倒的なエネルギーで主観を構築した超人であることだけは分かるが・・。
以上
|
|
|
|
2012年1月3日(火) |
「ジャクソン・ポロック」を見て・読んで |
新しい年が始まった、と言ってもまだ二週間ほどある。日記の日付は正しく付けていたが、どこかで書いた日記の数が多すぎて、日付をずらしてしまったのが原因なのだろう。そのうちに正しい日付に戻り、新しい年がやって来る、きっと来ているのだろう。何冊かの本を並行して読んでいるため、どれを新年の最初の題材にしようか考える所であるが、迷うことなく、「ジャクソン・ポロック」に決めた。たぶん画集を題材にした日記は初めてのはずである。見て・読んだのは以下の通り。
1)「Jackson Pollock」 現代美術・・第6巻 株式会社講談社 1994年発行
2)「ジャクソン・ポロック」 エリザベス・フランク著 石崎浩一郎・谷川薫訳 株式会社 美術出版社 1989年発行
1)の方が絵が充実しているし、正確に年代順に掲載している、ただ2)の方の解説が充実している。どうも部屋に飾っているピカソに物足らない。まだ形象が残っているし、秩序化されて安定していし、どうも規則通りに計算され作成されている点が気に入らないのである。ただ、キュビスムといってもいろんな種類があるようで、その方面の知識は皆無であり、全くの主観的な物足らなさである。
ある日、突然ポロックを知って、たぶんピカソを超えている言われる通りの素敵な絵だと思った。そして、上記の本にて、絵画を見てとても気に入ったのである。ダイナミズムに不安定に見えて静謐に安定化を目指しており、無秩序がとても秩序化されて秩序に飼い慣らされている、繊細で神経質でありながら大胆に枠を乗り越える。心の襞に迫り捕えて離さずに居ながら、無限に解放する、無の中に解き放つのである。エリザベス・フランクが『批判の余地がないほど誠実に繰り広げられる論理上の厳密さと、表現上の至高性を明確なかたちで私たちに示してくれる道しるべなのである。』と述べるのはまったくに正しい。全作品が好きであるが、「第31番」、「第5番」やブラック・ペインティングとしての「肖像と夢」、「収斂」などが特に好ましい。ブラック・ペインティングとは「至高性」を実現した後の揺れ戻しと言うより、更に「至高性」を求める闇の彼方の誕生と終焉を含んだ、いや誕生と終焉などとは関係無い闇の奥に潜む何か何ものかを描こうとしたに違いない。
ちょうど「生誕100年 ジャクソン・ポロック展」が開催されるので、何度か見に行って来ようと思う。自らの意志で美術館に足を運ぶのは、モナリザを30秒間見た、30年以上前の出来事以来である。歩いても岡本太郎美術館に見に行けるのに、出不精なので見に行ったことはまだ無い。一日居るつもりなので、弁当を買って出かけるべきなのか悩んでいる、弁当など持たずにきっとレストランで食事をするだろう。
以上
|
|
|
|