自己紹介
を読んで
2011年12月30日(金)
ミッシェル・フーコー著 田村俶訳「狂気の歴史 −古典主義時代におけるー」を読んで

いや大変に長い本である。上下二段組みで600頁はある。最初はフーコーの文章に惹かれて真面目に読んでいたが、途中から斜め読みに変更した。時間の制約と記述内容の重要度・深度の問題があるからである。はっきり言うとこれほど長く書かなくとも、フーコー自らの思想は展開できたはずであり、知の考古学者以上に文筆家としてのフーコーの面目躍如の感がある。感想は短くしたい。狂気は広く一般社会に受け入れられていたが、歴史的にみて感化院などに阿呆、癩患者、貧困者などと共に隔離され消えてしまう。そしてそれが長く続くのである。狂気とは非理性の一部なのに理性の隅っこに小さくすわっていて、歴史的にもその意味合いは変遷し異なってくるのである。狂気と狂人の関係、精神や妄想や夢との関係、そして言語活動との関係などなどについてフーコーは語るのである。付録の「私の身体、この紙、この炉」にてデカルトに対するデリダとの解釈の相違が述べられていて面白い。

さて、フーコーは本書で何を言いたいのだろう。たぶん、本書に書かれている以上のことはなくて、考古学的に知を扱ったに過ぎないのだ。歴史的に見た狂気の意味合いの変遷、狂者の取り扱いの変遷が主題であり、そして、フーコーの知の全貌が知りたければ、ドゥルーズの書いたフーコー論に見事に解明されている。あと「知の考古学」を読めば、フーコーの全著作物のうち前半を読み終えたことになるが、この「知の考古学」がとても難解なのである。

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2011年12月27日(火)
ポーリモ・レーヴィ著 竹内博英訳「アウシュヴィッツは終らない」を読んで

この本を読んでどう感想文を書こうか迷っている。それは体験記としての著書の評価について書くべきか、事実の重みとしての洞察としての観点から書くべきかでの迷いである。きっと取りとめもなく書き連ねるのが一番よいのであろうし、そうするつもりである。

本書は読んでいて面白いものではない。収容所に収監されて奇跡的に生還した著者の、収容所における生きるための、死を目の間にしながらも仔細な出来事に、収容所において少しでも有利な状況を得るために悪戦苦闘する日常生活そのものの体験記であり、この事実そのものがあまりにもみみっちくて面白くないのである。反対に、死が目の間に在りながらも、どうしても人間はみみっちい仔細な出来事に心を奪われている、そうした行動しか取り得ないのであろう。このことが返って事実の正確さと重みを、心のどうしようもない愚かさと率直さとを表わしているのだろう。そして、著者は感情移入をなるべく抑えて事実そのものを伝えようとする。文章そのものも読みやすい的確な表現であろう、過度な感情や不安や絶望など交えずに、むしろ淡々と事実をこと細やかに書こうとする姿勢に徹している。無論、収容所に収監され強制労働を強いられていた著者がこの収容所を含めた全体の構造を知ることはできなかったはずであり、こうした細かな日常しか描けなかったのは仕方がない。一番感嘆したのが、危険を冒しながらも収容所の日常をメモに取り、戻った後に本を書くつもりだったことであり、奇跡的にこれを成しえたことである。彼の考え方は、本文の後に質問への回答という形で書かれている。もうこれでこの本に対する取りとめのない感想を書くのは止めることにする。

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2011年12月25日(日)
コクトー著 「恐るべき子供たち」

ずうっと昔からコクトーの豪華本を持っていたが、読んではいなかった。ちょっと眺めて私には合わないと思ったからである。フーコーがコクトーを取り上げていて、読んでみようと決意し読んだ本である。読むには決意が必要なのである。無論、コクトーが、詩、小説、戯曲など幅広い活動を行っていたのを知ってはいて、一冊この本を読んでもコクトーを評価できるはずもなく、ただその感性の一端を知りたかっただけである。

姉と弟を含めて、主に四名の子どもたちの怠惰な生活と、その感性に基づいた行動、破壊されずにいられない衝動などがこの本には描かれているが、姉弟の近親相姦は精神的なもの以上に行われてはいずに、ただコクトーの詩的な抒情を含んだ生きた文章が、子どもたちらしい思いつきやある種の生への嫌悪感や破壊的衝動が伝わってくるのであるが、どうも納得がいかない。きっとこの物語の姉が自殺する理由がよく分からないためと、小説の筋が都合よく運ぶためであろう。ただ文章の描写力はとても優れていると思っている。「阿片」を読むのは止めにする。

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2011年12月22日(木)
森鴎外著 「雁」

以前、NHKのJ文学で紹介されていて、いつか読んでみたいと思っていた本である。お玉と大学生との淡い恋物語と思っていたが、事実そうなのであるが、実際に読んでみるとイメージが異なっているのである。

どうも学生の指に跳ね跳んだ蛇の血の小さな痕跡を無理に見つけ出して、ハンカチを差し出すお玉のイメージが強すぎて、実際そうした場面もあるのであるが、全体は悲恋というより、「雁」という題名が示すように、石を投げられて殺された雁の切なくもはかない運命に象徴されるように、生きる人の運命と意志を描いた作品である。高利貸しの末造とその妻のケンカやお玉の父への思いやりの方が印象に残る。良い作品であると思うが、どうも心理描写が漱石に比べて傍観的で論理的で、また筋も戯作じみたところがあって、こんなものかという思いだけが残る。「高瀬舟」も読んでみたが、森鴎外の傑作の一つにあげられているが、囚人を運ぶ町役人や囚人の思いなど、文章も含めて私には今一つ納得できない所がある。以前にも書いたことがあるが、私には森鴎外は合わないようである。


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2011年12月19日(月)
立花隆コーディネーター 「宇宙究極の謎 暗黒物質、・・・」

本書の正式な題名は「自然科学研究機構シンプジウム収録集6 科学者が語る科学最前線 宇宙究極の謎 暗黒物質、暗黒エネルギー、暗黒時代」であり、プログラムコーディネーターが立花隆 監修が「大学共同利用機関法人 自然科学研究機構」である。題名が示す通りに、天文学者や物理学者が、暗黒物質、暗黒エネルギー、暗黒時代について講演したもの(全部で九講演)をまとめ、「宇宙究極の謎」と題して、パネルデスカッションした内容を掲載したもので、(株)クバプロから2009年に発行されている。殆ど知っていることで目新しいことはなかったが、写真や詳細な解析方法などか記載されてわりと面白い本であった。

パネルデスカッションにて示された、宇宙の加速膨張こそ一般相対性理論の破たんを示しているのではないかとの考え方、加速膨張を引き起こす暗黒エネルギーを一般相対性理論なしでの説明できる可能性、これらは結局物理学の新しいパラダイムを示唆しているのではないかということ、暗黒エネルギーは本当に時間に依存しないパラメーター(宇宙定数)なのかなど興味深いテーマが話されている。またある講演で述べていたが、この当時に光りより早い速度の物質が期待されていたらしい。どうも、科学者たちはこの謎の解明の研究を行いながら、多次元宇宙の可能性や統一理論よりも先を行った物理学の新しいパラダイムを期待している。この物理学の新しいパラダイムが生じる可能性についてであるが、いずれ生じるだろうと私は思っている。きっと突然にパラダイムは生み出されるであろう。なお、パラダイムとは天動説とか地動説などの思想の枠組みのことをいうのである。

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2011年12月15日(木)
関根正雄訳 「旧約聖書 創世記」

どうも、キリスト教のことが良く分からなくて読んだ本である。昔、「旧約聖書」も「新約聖書」も読んでいるが、すっかり忘れている。ただ映画で見たのか、モーセの「十戒」だけは鮮明に覚えている。当然、「旧約聖書」の方が好きであったはずである。
「創世記」は「旧約聖書」を成り立たせる「モーセの五書」と称する「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」からなるという。「ヨシュア記」も加えて六書とよぶ場合もあるらしい。また「祭司資料」と「ヤハウエ資料」があるとのこと。「創世記」は神が天地と人間を作り、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ等の人物の話が記載されている。当然、エデンの園からの追放、カインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔、などの話が掲載されている。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教との関係も調べて分かってきたことは幸いである。「旧約聖書」はこれらのどの宗教にとっても経典である。特徴は、神は既に居て神話がないことであり、神と人との契約であり、民族の歴史の含んでいることである。「古事記」などもそうであるが、こうした古い本の文章は簡潔に書かれていてかつ淡い抒情と悲惨さなどを含んで良いものである。

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2011年12月11日(日)
小牧治著 「カント」を読んで

読んだ本は、清水書院の発行している「Century Books 人と思想 カント」である。哲学はカントに流れ込みカントから始まると言われる、カントの思想をおおまかにも知りたかったのである。カントはどの哲学者にも共通のテーマでもある、人間とは何かを追求した哲学者であるらしい。当時の哲学者と同様にカントも自然科学にも通じている。

簡単に言うと、カントはわれわれの悟性が認識を体系化し統一しようとする能力を「理性」とよんでいる。『外的な対象があってそれにわれわれの知が従うのではなく、考えるわれが、対象や経験世界を可能にするのだという、コペルニクス的転回を成し遂げた。』と小牧治は述べている。続いて『「純粋理性批判」にて、真の哲学の問題として、「わたしは何を知りうるか」、「わたしは何をなすべきか」、「わたしは何を望んでよろしいか」』が課題であったと小牧治は言う。つまり理性は他の動物とは異なって、最高の道徳原理を求めるものであるとする。即ち、新しい形而上学的は道徳の立場において、可能になったとする。ヒュームの影響を受けたらしいが、感情主義とも言われる「理性は感情の奴隷である」また「倫理は情念からうまれる」とも言うヒュームの考え方とは異なっている。私は当然ながらヒュームの考え方に近いし、この感情主義のほうが正しいと思っている。なお、カントは国際連盟のアイデアなど数々の業績を残したらしい。「純粋理性批判」を読む優先度は下げることにしたい。

以上

2011年12月8日(木)
ミッシェル・フーコー著 神谷美恵子訳「臨床医学の誕生」 みすず書房1986年

フーコーにしては約300頁の珍しく薄手の本である。訳者や出版社が異なると、「狂気の誕生」(読みかけ中)や「ことばともの」とは体裁も文章もだいぶ変わって来るものである。この本は「序」の出だしに『この本の内容は、空間、ことばおよび死、さらに、まなざしに関するものである』と記述されているように、こうした観点から十八世紀の医学の誕生について語られたものである。神谷美恵子が最後に、丁寧に手短に手際よく各章ごとの記述内容の紹介を書いているので、本書の記述内容はそちらを参考にして頂きたい。「臨床医学の誕生」を「空間」、「ことば」や「もの」の観点からフーコーとしては割と淡々と平易に記述している本であって、「ことばともの」の架け橋となっている概念も含まれている。

本書の面白い点は「附」として、「構造主義と精神医学」と題して、著者は神谷美恵子なのか不明であるが、「精神疾患と心理学」、「狂気の歴史」、「臨床医学の誕生」、「ことばともの」の各著書を通じた、フーコーを論じている文章が掲載されている点である。フーコーの精神医学を通じての狂気への関心、その構造主義的な解析などを紹介し、最後に「人間は消滅しつつある」ことの存在論的な矛盾をやんわりと批判している点がとても興味深く面白いのである。フーコーの初期のこれらの著作物はフーコー自身の著作物「知の考古学」にまとめられて自己解説されているはずであるが、この本は若干目を通して見たが難解でまだ読む予定は無い。


以上

2011年12月5日(月)
谷崎潤一郎=渡辺千萬子著「往・復・書・簡」を読んで 

この本はどういう書簡内容かという興味本位で読んだものである。あまりにも個人的な細事が書かれていて、私は文学研究家では無いので、さあっと目を通して終らせてしまった。

谷崎潤一郎の溺愛ぶりがうかがえるし、渡辺千萬子のはっきりとした物言いの中にも、彼女の心の底に流れる谷崎への甘えも私には感じられる。松本清張や「瘋癩夫老人日記」の女主人公の颯子を演じる女優に関する評価、セックス場面の演じ方などの彼女の意見は納得でき得る、ただ異なった演じ方もあり得るはずが、精神的に感応しているはずの二人であり、谷崎がこの千萬子の意見を取り入れて対応したことは有り得ることである。ただ夫の話が殆どでてこない。もしや禁句であったかもしれず、そんなこと詮索しても意味がないが、谷崎潤一郎が最後の創作意欲の源泉を渡辺千萬子という女性に見い出していたという巷の意見は事実のようである。


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2011年12月4日(日)
ソポクレス著 藤沢令夫訳「オイディプス王」を読んで 

昔、ギリシア悲劇全集を持っていたが、きっと今でも田舎にはあるのだろう、でも殆ど忘れてしまった。ギリシア悲劇の中でも、とりわけ「オイディプス王」を読んだのは、エディプス・コンプレックスがどうも最近言われていて、その関連を知りたかったためである。無論、父を殺し母と臥所を同じにしたオイディプス王は偶然の出来事が積み重なった結果の行為であって、神託により告げられて怖れてはいても決してオイディプス王は望んではいずに、長年この恐るべき行為がもはや成されていたことを知らなかったのである。デバイの国に疫病や飢饉によって危機に瀕している、この地にはひとつの汚れが巣くっている、この汚れを除かなければならないとする神託を知り、その汚れ人が自分自身に外ならぬと知って、初めてオイディプス王はことの次第を知り、目を射差して盲目となり、この地を去るのである。母であり妻でもあるイオカステは真実が明らかになった時点で自ら首をつり死んでいる。

不思議な疑問点が二つほどある。

1) 三叉路で先王を殺したのは自分であるとオイディプスは認識している。また、昔、先王の子が両くるぶしを留金で刺し貫かれて捨てられた状況も新たに知ったのである。そして不思議なのは、オイディプスは自分が両くるぶしに傷を負っているのに、自分が父殺しの犯人であると状況証拠は確実に示しているのに、先王の子とはすぐに認識せずに(私にはそうと読みとれたのであるが)、捨てられた時の状況を確かめるために羊飼いを呼び寄せる点が、なんとも摩訶不思議なのである。

2) これにたいして、母であり妻である賢明なイオカステは留金の話を聞いて、すぐに事情を察知してしまう。出生の秘密を明らかにしようとするオイディプスに止めるように勧める。ただオイディプスは聞き入れないのに絶望して、「おさらばです」と言い走り去る。イオカステは子が母と夢の中で枕を交した人もたくさんいると説いているし、きっと彼女はオイディプスが羊飼いを呼んで既に明らかである出生の秘密を無理に知ろうとしなければ、自殺しなかったかもしれないのである。

つまりこの物語の悲劇は、オイディプスが自らの秘密を状況として知り得たのに知らないままに、無理強いに公然と秘密を暴こうとした点にある。自らの出生の秘密を状況としてでもほぼ確認できれば、異なった対応も可能であったかもしれないのである。この地の汚れが明らかにされなければならない状況設定があるとしても、その恐ろしさを拒否することも可能であって、イオカステも羊飼いを呼び寄せ無いように勧めるのであるが、聞き入れようとしないオイディプスの知ろうとしない、もしくは認識しないが故の真摯さが悲劇を生むのである。ただ、彼はこれは間違いであると一縷の望みを羊飼いに託したのであろうか。たぶん、状況証拠が確実でありさえすれば、神託にて述べられた言葉は、羊飼いを呼び寄せて確認しなくとも必ず実現されなければならないのだろう。羊飼いを呼び寄せれば、なお更にどうしても実現されなければならないのである。

近親相姦は昔から今でも山とあるのであろう、ただ婚姻は禁止されている。この禁止は遺伝学上の問題からなされていると思うが、法律なる言語が認めれば、単純に実現でき得る摩訶不思議なことでもある。無論私は遺伝学上のことは分からない。それにしても、上記の疑問点などどうでもよくて、ギリシア悲劇とは迫真の悲劇を演じなければならず、その点に関して、「オイディプス王」を読んでは、その悲劇のあまりの悲しさに涙するのである。


以上

2011年12月1日(木)
パウル・ツェラン著 飯吉光夫訳編「パウル・ツェラン詩集」を読んで 思潮社 1992年

どうも、フーコーの著作物を読んでいて、パウル・ツェランなる詩人を知った。パウル・ツェランはユダヤ人でナチの迫害を受けたらしい。最後には自殺しているようである。最初の頃の詩は心の荒廃が広がりを増しながらも穏やかに、静かにも語る詩行が印象的である。後半の詩は亀裂が生々しく き出しになって、それはなおも優しさを含んではいるが、彼にしか知り得ない絶望、深い喪失感、悲しみに捕われているようにも思われる。代表作といわれる「死のフーガ」よりも、遺稿とされる「あらかじめはたらきかけることをやめよ」の方が好きである。この詩人への深い思い入れはない。

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2011年11月30日(水)
越智啓太・雨宮有理・丹藤克也訳 カール・サバー著「子どもの頃の思い出は本物か 記憶に裏切られるとき」を読んで

著者はかって心理学を専攻したジャーナリスト(作家)で、本書で取り扱っている分野は認知心理学の記憶研究分野における自伝的記憶研究分野である。多数の人の幼い時の記憶が引用されているが、どうも著者は表題に記述があるように『あらゆる記憶はあてにならない』ということを言いたいらしい。記憶は無意識にねつ造されることもあるようだ。例えば、セラピーの誘導によって両親から性的虐待を受けたとする女性の間違った記憶が生じる例などが記載されている。それ以上に感想として特に記述することはない。

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2011年11月24日(木)
三上真司著「もの・言葉・思考 形而上学と論理」を読んで

心を引く表題だったので読んでみたが良い本である。どうも大学のテクストらしい。私の関心を持っている課題が、それが正しいかどうかは判断できないが適切に回答されている。それもオペレータを用いた論理学記述によって検証されていると同時に、言葉によって丁寧に解説されている。感想文は概略を説明することとしたい。形而上学における「言葉」、「もの」、「思考」の概念や詳細な考え方を把握するには本書を読むことを薦める。なお、本書の章立ては「ものとは何か?」、「存在とは何か?」、「同一性とは何か?」、「私が思考しているとき、何が生じているのか?」の四章から構成されている。それらの中で例えば「もの」ならば、デフレ派、インフレ派の考え方を紹介している。無論「実体」の在る無しによって「実体論」と「束理論」に区分されるが、これらの基本の概念が紹介されているのも、今まで知らなかった故に非常に良いのである。「存在」、「同一性」の考え方もとても興味深い。デカルトの『私が思考する限り、私が存在する。』などの引用文も多彩である。

さて、『私が思考するとき、何が生じているのか。』これを「思考」、「世界」、「私」の観点から語ると、私が「思考」する時、私は事実の総体たる「世界」の流れを止めて、「世界」から退いていると言うのである。退くというより極論すれば『私自身を含めた世界全体を想像的に破壊し、すべてが虚無化した思考状態』なのである。この時、私の意識は「世界」から離れ「意味」そのものに向かっている。では、どうして「私」は「世界」にもどれるのか。懐疑的思考を世界に連れ戻すのが「言葉」である。この言葉を使用することは他者の世界の中でしか意味を持たない。即ち、「言葉」によって「もの」としての「私」は公共の世界に付属する「私」の「存在」を見出すのである。「言葉」、「もの」、「思考」に関するもう一つの解釈は、「私が存在する」とは「私が考える」の命題から推測される命題とする、カントの主張である。そして「私が考える」そのものは、非人称的な「何かあるもの」であって、このものが「私」を超えて「思考」しているということである。ただ、「共通感覚」を必要とする。即ち、「他者が存在していることをアプリオに示す感覚」が「思考」の否定的な作業に没頭させることができるとする。

著者は突然にハイデッカーの言葉を引用して次のように述べる。「もの」より「言葉」の方が我々に近い。「もの」が意味するのは「言葉」の想定する以上のものではありえないために、たえず亀裂が生じるのは当然であるとする。そして、『私が思考するとき、何が生じているのか。』の最終的な結論として、結論は無いとしながらも、私を世界に連れ戻すのが「共通感覚」であるならば、私の「思考」は他者との共有化を目指す行為として捕えている。著者、三上真司のこうした考え方が私には意外だったのである。やっぱり「他者」が絡んでくるのか、この「他者」への歓待を述べていたのはデリダだっただろうか、良くは分からぬが「世界」で「他者」と出会うために「私」の「存在」は成り立っているのだろうか。「他者」抜きで「私」の「存在」は成り立たないのか。どうもハイデッカーの「存在」の概念を忘れて混乱してしまっているようである。

以上

2011年11月17日(木)
永上英廣訳 ニーチェ著「ツァラトゥストラはこう言った」を読んで

昔の表題は確か「ツァラトゥストラはこう語りき」であったように思う。もしや全部でなくとも、一部であったとしても、昔読んでいるかもしれない。本書は文庫本で二冊(上下)に分かれている。特に下巻は、文章の詩情味が増してなかなかに読み応えがある、良い本であると思う。キルケゴールの先へと進む文章に比べて、比喩などや引用、構成が綿密に計算されていて、激情を含みながらも落ち着いていて、そして後に行くほど吐露の密度が増そうとも作者は冷静なのである。特に最後から二つ目の章「酔歌」は、正午ほどに陶酔でき得る真夜中を称える賛歌を描いている。最後の「微」の章では、ツァラトゥストラは彼の仕事をなすために、正午に向けて出発するという「真夜中」から「正午」に転換させるのには少し驚いたものである。なお、ニーチェには「超人」、「永劫回帰」、「大いなる正午」など誰もが知っている思想をこの「ツァラトゥストラはこう語りき」に込めているが、これらの思想については詳しくは記述しない。良く分からない点もあり、ニーチェの専門家がたくさんいるためでもあり、ニーチェの思想が知りたければ、彼らの紹介本を読むと良い。

簡潔にニーチェの思想をどう書こうかと考えた結果、ありきたりに「ニーチェはニヒリズムやペシミズムの克服するために強靭な肯定的意志を選択したのである」ということにしたい。ハイデッカーはニーチェを、『人間を主観として世界を対象化する試みが極限まで徹底されている形而上学の完成者としてみる』と解釈している。一方、フーコーは『ニーチェがその設問を自分自身、すなわち語り合う主体、<エッケ・モホ>にもとづかせるため、結局のところみずからこの設問の内部になだれこむことまで覚悟して、だれが語るのかという問いを最後まで発し続けたのに対して・・』と述べている。フーコーは言語を語る主体を問い続ける者としてニーチェを捕えているのかもしれずに良く理解できないが、ハイデッカーの考え方は良く分かり、私も同様に考えている。ただ、ニーチェの思想の内、「永劫回帰」とは何なのか、良く分からぬ思想である。差異などなく、そのままに回帰してくる事物や人生、生命を、嫌悪と虚無に偽善や虚構に満ちた人生を再び送ることができるそのことが、ニヒリズム侵されながらも肯定的に生きるとする強い意志の表れと捕えるべきなのだろう。もしや過去にも未来にも永劫に続く時間の内に、繰り返し訪れる人生を強い決意によって何度も乗り越えることができる、「然り」と答えるそのことだけによって、ニヒリズムに陥ることなく「超人」へとたどり着くことができる、強固に肯定する、どうしても「人間」を克服し「至高の超人」へと上り詰めなければならないとする、ニーチェはニヒリズムに満ちた者が逆説的に強い意志を要求される弱者の反逆的思想であるかもしれない。

結論を言うと、ニーチェの本は読みやすく吟遊詩人に似たところがあって面白いが、その思想は少し言い古されたのではないかと、言い換えれば私には少し新鮮味の無いところもある。ただ、どこかその孤独に蝕まれながらも外へ攻撃をしかけ内に内省する強い意志が、羞恥と嫌悪に泥まみれになりながらも、逆に少しばかりの称賛を浴びながらも強く生を生きること肯定するその強靭な意志に、そして薄明の意識のうちに過ごした晩年にひかれるのである。「善悪の彼岸」、「道徳の系譜」、「この人を見よ」なども読んでみたいが、灰汁の強さに困惑することも、逆にモルヒネのように酔うこともあるので注意が必要である。

以上

2011年11月15日(火)
酒寄進一訳 フェルディナント・フォン・シーラッハ著「犯罪」を読んで

元弁護士が、現実の犯罪を元に著述した11作品の短編集である。あまり面白くなかったので、さらっと読んだ。以前読んだウィリアム・トレヴァー著「アイルランド・ストリーズ」の短編の方が、怒り・憂鬱・悲哀などの情感を含んでいて短編集としては優れていると思う。ただ、現代の小説そのものが、読めなくなったような気もする。その原因は、現代小説の質が落ちたか、私が単に小説嫌いになったか、そんなはずはないが、むしろ文章の質というより、なんというか論理的な、もしくはまったくに正反対な非論理的に書かれている文章を好んでいるためとも思われるが、自分のことながら理由は良く分からない。

本書の出だしに、ハイゼンベルクの文章が一行引用されていて、そちらの方が気にかかった。『ヴェルナー・K・ハイゼンベルク 私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものではない。』無論、不確定性理論で有名なかのハイゼンベルクである。彼がこういう言葉を述べたとは知らなかった。きっと、ハイゼンベルクは不確定な現象は、現実でありながら、現実的な実感として把握するにはあまりにも微視的であって、現実そのものからかけ離れたように見える、という意味なのであろうと勝手に推測している。

つまり私なりに解釈するときっとハイゼンベルクの本意は「私たちが物語ることのできる現実は、現実そのものである。」と言いたかったに違いないはずなのである。日常は非日常を含んでいる。事実は小説よりの奇なり、なのである。この「犯罪」という小説では、奇怪で異様な、かつ不条理に生じた犯罪が書かれているが、現実の中で、日常の中で生じたのであって、非日常と言うにはあまりにも通俗的すぎる話ばかりが記載されている。「物語ることのできる現実は、現実そのものではない。」という言葉が、この現実を歪曲、ねつ造し、実際に生じた犯罪からヒントを得て架空の非日常的な現実を記述したのなら理解はし得る。だが、どの話も何回も言うが日常的なのである。

なんか、ここまで書いて読み返してみて詰まらない感想文であって、そうであるに違いない文であり、もうこれ以上書くのは止めよう。哲学の本を読んでいると普通の小説はもう物足らないというのが、本当の所なのだろうか。

以上

2011年11月9日(水)
渡辺一民・佐々木明訳 ミシッル・フーコー著「言葉と物」を読んで

ても厚く、軽く原稿用紙換算で1000枚を越えるだろう。哲学とは難しいものだという感想が、まず初めにくる。フーコーの紹介書などを読んでいなかったならば、とても読み切れなかったであろう。急ぎ読みしたが第九章「人間とその分身」など興味ある章は精読したしたつもりである。それにしても難解なる故に、たぶん理解度は50%に届かないであろう。「人間は波打ちぎわの砂の表情にように消滅するであろうと。」(409頁)との最後の文章に至るには、さまざまの分野での思考・分析があり、フーコーの知識の広範さ、生物学、経済学、文献学などは強靭な頭脳を知らしめるものである。それにしても哲学者とはとてつもない怪物である。その読書量とその思考し記述する執念は、並みの人間とは桁外れに偉大である。本書は有名であるが故に解説書も多数あり、感想は若干の全体の説明と気づいた点のみにしたい。

フーコーは人間について考える。人間の主体性・存在について考える。その切り口は、労働・生命・言葉である。人間はみずからを認知することにより表象のうちに自身を表象するものとして、わずか二百年前にみずからの手でこしらえた被造物にすぎない(328頁)。労働や生命や言語が既に始められていたものと連接された起源には、それから二百年前までの古典主義時代までは、まだ人間は居なかったのである。そして近代の中で、人間を、その主体を知の中に創始する可能性、思考に連接することよって、人間そのものが現れて可能性を見出すことができるとする。ところが、知の場に現れた人間は、あらゆる秩序の一般的な基礎としての表象の理論を失い、言語も消失して、もはや知が新しい形式を見出さなければ、早晩消え去るものだとする。なぜならば知に結びついた思想の地殻変動が言語の逃げ去り、逆に言うならせり出しなどによって生じており、人間の根拠がせり出した言語の規定などによって失われつつあるからである。

フーコーの言う「人間の終焉」とは近代からの歴史的な新しい断層(エピステーメー)の到来を予言させるものである。このフーコーの思想は果たして悲観論なのだろうか、人間に対する警告なのだろうか。ドゥルーズの書いた「フーコー」の最後では、『・・超人は・・新しい形態の到来であり、私たちは、この形態が、前の二つの形態に比べて、もっと劣悪でないことを希望することができる。』と極めて意味深長な言い回しにて終えている。きっと一つの人間への、この世界の体制に(権力に)組み入れられて住む人間に関する、人間と世界に関しての新しい思想なのである。本書はフーコーの初期の本であり、これ以降の本も含めて考えなければ、容易に彼の思想の評価・結論は出せないだろう。なお、本書は初期の本であるが故にその後のフーコーの思想の芽、人間諸科学と知、知と権力装置、道徳的規範などが埋め込まれている。


フーコーの全体の思想について語るのは止めよう。把握できていないのだから。個別に関心を持って記述したい点がある。まずニーチェとマラルメについてである。『ニーチェが・・だれが語るのかという問いを最後まで発し続けたのに対して――マラルメは・・おのれの固有な言語から自分自身をたえず抹殺しつ続けたのである。』(325頁)この解釈は私には新鮮に映る。『貨幣の持つ物質的実在性のうちには、商品の共通の尺度と交換機構における代替物という、二つの機能が混在している。・・貨幣の価値はその含有する金属の量によって決めなければならない。・・君主が・・自分の肖像や印章を刻まなかった時代の状態に戻らなければならないのだ。』(190頁)このことは金本位制の取らない世界の現状では何を意味するのであろう。貨幣の持つ「共通の尺度」という機能はもはや幻想でしかないと思われる。『労働がもはやその生産する品物よって栄養を補給されないようなそうした瞬間がくるにかならずやってくるに違いない。・・いまや補足的などの労働も無駄になるに違いない。人口の超過分はすべて死滅するからだ。』(279頁)つまり労働が食糧を得るために十分な価値を生み出せずに、食糧不足のために人口は最終的に縮小均衡すると述べている。これは誰もが知っているが言っていない、ある意味では「人間の終焉」よりも恐ろしい表現である。

最後に私なりに意見を言わせてもらうと、「人間の終焉」が訪れるにも拘らず、人間は生き続けていくということである。「超人の到来」やハイデッカーの言う「実存の開示」などなくとも人間は常にこの世界に生き続けて行く存在であるに他ならない。フーコーが言う「人間の終焉」とは、この生き続ける人間にある種のカタストロフィーが生じて、腐敗する人間たちに満ち溢れる時、虐殺される人間の高く積み上げられる時、一瞬にて消去される時が来るという予感なのだろうか。ある種の原因によって、例えば言葉の消滅、反対に言葉のせり出しなどによって、時間軸上を移動しながら生き続ける人間が時間を停止・消滅させて終局へと近づいていくことを警告しているのだろうか。良く分からぬ謎でもあるが、それでも人間は砂のように数えることのできる個体の粒として、時間と空間的に有限なこの世界において、絶対的な数がゼロとならない限り生き続けるに違いないということである。

以上

2011年11月5日(土)
「トラークル詩集」を読んで

デリダのハイデッカー論を読んで知った詩人である。若くして死に、死んだ後に評価があがったようである。読んだ詩集は次の三つである。なお、全編に目を通したのは、1)のみで後の二冊は必要な部分のみ読んでいる。なお、古いものを増補して新しく出版されている全集があるが読んではいない。訳者もこれら三冊とは異なった人である。

1) 瀧田夏樹編・訳「トラークル詩集」 双書・20世紀の詩人 1994年初版 小沢書店
2) 吉村博次訳「トラークル詩集」 世界の詩51 1968年初版  彌生書房 
3) 平井俊夫訳「トラークル詩集」 筑摩叢書100 1967年初版 筑摩書房

「20世紀の詩人」にて、トラークルの詩を初めて読んだ時に、ヘルダーリンに似ていると思った。どうもヘルダーリンの詩の影響を受けていたようである。それにトラークルはランボーも愛読していたらしい。ヘルダーリンの詩が、後年の薄明した意識の中で、自然を歌う中に精神の気高さを保っている、揺らぎながらもあたかもそれが当然なこととしてその揺らいでいる詩行が奥深くこの世界の一端を象徴していると同様に、トラークルの詩もこの世界を象徴している。それは薬物中毒になりながらも、戦争などによって生と死の極限を見詰める以上に、錯乱せざるを得ない状況において、冷静な詩行が示す象徴はただ狂気と死へ誘うこの世界そのものであったのだろうか。

ヘルダーリンの詩が薄明の中にこの地を捕え気高い精神として揺らぎ表わすとしたら、トラークルの詩は混濁したこの地の表面を、この地の限りなく絶望的な状況を詩行によって呟き囁くように表わしたのだろう。それは錯乱しもはや狂気の手前にありながらも、透明な意識を持って、美しく織り成した言葉によって表象される限りなく美しいこの地、絶望的なこの地、逃亡せざるを得ないこの地、亡霊が現れるこの地、悲しみに満ちた罪深いこの地を描き出したに違いない。彼の詩行は呟き囁いては、この地を冷静に普遍化し悲しみを称えて昇華させていくのである。この地平の彼方に、腐敗した人間の彼方に、人間を、この地を没落させる以上に埋め尽していく、思い出す以上には愛に報われないのに妹を思いながら、彼の精神と肉体はただ詩行だけを残してこの地を去ったのである。ランボーが異郷に去ると同様に、彼はこの錯乱しやるせないこの地を愛していていながらも、消えるように去ったのである。私はトラークルの散文詩が非常に好きである。少し分裂的に断片化されたイメージが並んでいるのが、言葉の錯乱のように思われて好きなのである。


「世界の詩 51」は「20世紀の詩人」よりも、どうも美文調に訳し過ぎているような気がする。そういえば、マラルメ詩集も確か「世界の詩 31」だったような気がする。美文調に翻訳されては困るが、原文を読めない私には評価できない。詩などはできる限り原文で読むのが良いのである。もしくは、このように訳者の異なる本を眺め比べてみるのがいい。「20世紀の詩人」は割と簡明で直接的であるが、文章が何と言うか少し文法的に動詞と目的語か、装飾語の位置関係かがずれていてトラークルの精神と合致しているような気がする。「筑摩叢書100」は一番たくさん詩を掲載している。更にエミール・バルトのトラークル生誕五十周年記念の文章が掲載されているが、訳が丸みを帯び過ぎていて、言葉が文章も単調になっているような気がする。なお、詩の比較は「夜への帰依」と「グローデク」にて調べている。できれば新しく出版された全集の詩も見てみたいものだ。

以上

2011年10月28日(金)
村山斉著「宇宙は何でできているか 素粒子物理学で解く宇宙の謎」を読んで

暗黒物質とダークエネルギーのことについて書いてあるのかと思ったら、主に素粒子に関して記述してあり期待外れであった。副題の「素粒子物理学で解く宇宙の謎」に騙されたらしい。素粒子の区分けの知識以外には内容には乏しい。それでも確か放送大学の講義か、佐藤勝一の本を読んで知っているが、忘れていたもの、新たに知ったものをメモしておきたい。

1) 電磁気力、強い力、はすべて「粒子(ボソン)」のやり取りで行われる。電磁気力は光子(フォトン)、強い力はグルーオン、弱い力はWボソンとZボソンである。重力は{グラビトン}らしい。
2) スピン即ち各運動量が半整数になるのがフェルミノン、整数になるのがボソンであり、力を伝えるボソンは同じ場所にいくらでも詰め込める。一方電子、ニュートリノ、クォークなどの素粒子は同じ場所に一つしかおけない。パウリの排他原理で言えば「2つ以上のフェルミ粒子が、全く同一の量子状態を持つことはできない」ということである.。

3) 5次元以上の空間で運動している粒子の質量は、見えない次元で生じている運動エネルギーであり、もしかしたらこれが暗黒物質の正体かもしれない。
4) CP対象性『Cは荷電共役変換(Charge Conjugation:粒子を反粒子へ反転する)、Pはパリティ変換(Parity:物理系の鏡像を作る)』は「物質と反物質の間の真の対称性」として提唱されたが、宇宙の初期の段階で、物質の方が10億分の2だけ多くあった。即ち物質と反物質は対となって消滅しが、少しばかり多い物質がこの世界を作っている。なお、弱い力ではパリティ対象性が破れることが証明されている。

5) フレーバー(素粒子であるクォークとレプトンの種類)間を振動して見えなくなるニュートリノもあり(ニュートリノ振動とよばれる)、今、ニュートリノが注目を集めているらしい。
6) 超ひも理論は4つの力を統一できる可能性がある。なお、ひもは「閉じたもの」と「開いたもの」があり、回転や運動によりさまざまな状態になり得て多様な「素粒子」となることができる。なおひもの長さは10の−35乗メートルとのことである。

P.S.: 9月23日にニュートリノが光よりもわずかに速いとの実験結果が発表されて、相対性理論が疑われている。まずは実験結果の正確性を検証するらしい。果たしてどうなるのか、関心が尽きない。

以上

2011年10月25日(火)
ジル・ドゥルーズ著 宇野邦一訳「フーコー」を読んで 1987年10月発行

ドゥルーズがフーコーの死後2年後に出版したフーコー論である。両者ともにあまり知らない私は最初ドゥルーズの言葉や文章に難解さを感じたが、全編を読み終えるとある種の感動を覚えた、それはドゥルーズの徹底したフーコー思想の解読であろう。どこまでもフーコー思想を極めようとするドゥルーズの一貫した真摯な姿勢であろう。無論ドゥルーズがフーコーを論じるとき、ドゥルーズの思想が入り込んで、彼は自分とフーコーを区別して論じているが、どこか渾然一体となってある種の高みに到達している文章が、硅素の力によって超人とは決して人間の消滅ではなく、新しい形態の到来であるとフーコーが述べたとする最後の一連の詩的な文章に、ドゥルーズの論理的で厳密に難解な文章に感動したのかもしれない。本当に本を読んでこれほど感動したのは久し振りのことである。どう感想文を書こうか迷うが、本書の構成とドゥルーズによるフーコー思想の根源を、本書に唯一示されたダイアグラムを簡単に説明するだけに留めたい。

本書は比較的独立した六つの論文から成り立っている。古文書からダイアグラムへ(新しい古文書学者(『知の考古学』)、新しい地図作成者(『監獄の誕生』)、トポロジー「別の仕方で考えること」(地層あるいは歴史的形成、可視的なものと言表可能なもの(知)、戦略あるいは地層化されないもの外の思想(権力)、褶曲あるいは思考の内(主体化))、付記―人間の死と超人について、の以上六つの論文である。即ち、ドゥルーズはフーコーを新しい古文書学者、新しい地図作成者とし、「知」、「権力」、「主体化」をフーコーの「思考」の問題の三つの根源たるとし述べる。無論マグリットのパイプの絵と言表については触れるが、問題となるのは言表と可視性、言語と光についてである。「知」を始めとした各論文について述べると長くなるので止めよう。

フーコーの思想をドゥルーズが本書に描いたダイアグラムまた文章から簡単にまとめるとこうである。世界は重なり合って古文書からあるいは地表からできている、とドゥルーズはいう。即ち「知」でできているのである。地層の表面には亀裂が走り、一方には視覚の光景たる光を、他方には音声の曲線たる言語を配置する。この時、光景と曲線を横断し世界の内部へ到達する運動と同時に、外、大気的要素に「地層化されていない実体」に到達しようとする、地層を越えようとする二重の運動に我々は捕われる。しかし力のダイアグラムによって「地層化されていない実体」は地層化され統合され差異化されるが、力の関係によっては亀裂の上で不安的に嵐のようにダイアグラムをかき回す、まさに嵐に遭遇した船のような恐ろしい線ともなるし、また恐怖を越えて彼方に人を連れていく生命線ともなることもできる。つまり亀裂のある所では線は輪になっていて、あらゆる外の線と共通な拡がりを持つ一つの空間を作り出しており、遠いものが近いものへと転換によって内的となる、もう怖れることのない「襞のなかの生」にて、自己の主人となることもできるのである。船は、もう外部でありながら内部のようなものになるのである。

「襞」がフーコーにとっては重要な概念となっており、力によって状況は変わるとしながらも、これらの記述を行っているドゥルーズの文章は詩的散文で、結論はフーコーの描く地層の恐ろしさを、見事に救い出している。まさしくフーコーは「フィクション以外書いたことがない」と言っているが、ドゥルーズは上記の物語を描いて見せ、フーコーの偉大なフィクションとして称えるのである。デリダの流れるような文章とは異なるが、ドゥルーズの文章は緻密で詩的で、両者ともに好いのである。どうやら今は文学書よりも哲学書の方が文学的で、私には大いに関心がある。


以上

2011年10月18日(火)
ジャック・デリダ著 港道隆訳「精神について ハイデッカーと問い」を読んで

知的な推理小説のように楽しく一気に読むことができた。無論、ハイデッカーもデリダも知らない私は細部の分からない点はあまり気にせずに、ハイデッカーが「精神」という言葉を使用するに当たってデリダの解釈がたどる道筋を、どう結論付けるかと気に掛けながらも、最後は感嘆し読み終えることができた。今、その読後の余韻に浸りながら、どう感想を書こうかと考えている。それにしても、デリダが多彩な知識をもとにして、ハイデッカーが使用する「精神」という言葉、その「精神」の言葉に潜む思考の背景に執拗に迫り展開しようとするその熱意にはとても感嘆するものである。それにしても哲学とは難しいものだ。特に引用符まで読み解き言葉の変遷をたどるその解釈学、そして仏語、独語、日本語間に横たわる翻訳の問題以上に、ここではヘブライ語やギリシア語などまで言語論まで加わっている。無論、直接的にはハイデッカーが独語の優位性を言い出したことから起因しているが。本書は、どうもハイデッカーとナチの関係を潜ませながら記述しているのでないかと思っていたが、訳者港道隆は明白にそう言いきっている。そして、それ以上にデリダ自身の独自のハイデッカー論が加わっている。もう感想文は簡単に済ませるのが、労力が少なくて済むはずである。

ハイデッカーには「精神」という言葉への問いかけがないとデリダは言う。そしてハイデッカーの「総長就任演説」に使われている「精神」という言葉の引用符を含めた変遷を、ハイデッカーの著作物「存在と時間」や「形而上学入門」などの文書をたどっていく。まず『世界とはつねに精神的世界である』一方『世界とは暗黒である』というハイデッカーの文章を引用して、デリダは初めに『世界とは何を意味するのか』と問う。石は世界を持たない、動物にとって世界は希薄である、人間にだけ世界はあるのである。ではいかにして精神を覚醒させてばよいのか。それは精神の辞職状態から『われわれの民族の歴史的使命を引き受けることでと呼び醒ますことである』とハイデッカーの文書を読み解き説明する。そして、ニーチェは身体としての動物性を生の哲学に向けて説くが、ハイデッカーは人間の思惟を形而洋学的な、生物学的でない様態で解釈するとデリダは言う。そしてヘルダーリンとトラークルの詩を引用して、ハイデッカーの言わんとする「精神」について説明する。特に「火」と「炎」について。それから「魂」について。

特にトラークルの「死の七つの歌」[おお人間の腐敗せる姿よ]を引用して、精神の薄明や夜から出発して日の出であれ、日没であれ、日の年の往きそのものの回転する往−来が示す精神的な遍歴につて、人間の形体の変質ないしは腐敗の解釈が可能であるとし、この点に関しハイデッカーはいかなる精神性よりももっと根源的と述べているとする。そしてデリダは『精神−は燃え上がらせる/炎に包まれている−は、優しきもののかつ破壊的なものの可能性にそってその本質を繰り広げる、とハイデッカーは言う。灰の白さは、・・』とデリダは言い、そして裂線そのものを定めるとし、『・・この種の内部的な拮抗関係、つまり悪を炎にいわばじかに刻み込むことによって、悪に機縁を与える内部的な対抗関係へと自らを分割する。まるで火のエクリチュールである。・・燃焼の筆致線たる線は燃え上がらせる・・』とする。トラークルの詩が何度も引用され、ハイデッカーの思想がデリダによって語られる。最後はデリダが作成したハイデッカーと神学者の想定対話にて説明は終える。最後の文章はこうである。『見守る(=眠ることのない)精神は、帰り来て常に残っていることをするでしょう。炎や灰を通して。しかし全く別のものとして。避けようもなく。』この文章は好きである。


以上、少し長過ぎてしまったが、本当にデリダの文章は、知的な論理性をもったある種の散文詩を読んでいるような気がしてくる。このデリダのハイデッカー解釈論について、なんら私は意見を言うことができない。両者とも良く知らないからである。哲学そのものにつても。

以上

2011年10月12日(水)
ジル・ドゥルーズ サミュエル・ベケット著 宇野邦一 高橋康也訳「焼尽したもの」を読んで 1994年1月発行

本書はジル・ドゥルーズによるサミュエル・ベケット論である。ドゥルーズによるベケット論「焼尽したもの」に加え、ベケットの戯曲作品が4作品ほど掲載されている。訳者宇野邦一が「訳者あとがき」で書いているが、ドゥルーズがベッケッと論を書いているのを知ったのは、1992年に日本に来たガタリから聞いたとのことである。その年に彼はドゥルーズに会うがドゥルーズは病床にいたらしい。そして宇野邦一はこのベケット論を読み手紙を書き、ある時電話をしたら「この本と同じ状態だよ」と言ったらしい。

本書を読んで、ベケット自身が、自分のベケット論を書いているのではと思って驚いた。文章がどこか似ている。当然、ベケットの作品と訳者が同じである影響もある。ただ、言えることは、ドゥルーズの思考がベケットの思考に強く共鳴していることである。思考が似ていると文章も似るのであろうか。ただ、この作品は哲学書であって文学書ではない。哲学と文学が境界を越えて結びつく、もしくは逸脱したどこかの同じ領域で出会っているのかもしれない。本書においてドゥルーズは「焼尽したもの」は「疲労したもの」よりずっと遠くにいると切り出し、「焼尽したもの」は可能なことを焼尽するために自分を焼尽するか、その逆も言える、として可能なことに訣別したものとして、「焼尽したもの」も定義する。そして、ベケットの言語を三つに分けて、ベケットの作品の登場者やその行為などによって説明し論じるのである。その記憶力には驚くべきものがある。宇野邦一は本書の戯曲のビデオを見てその感想を記述している。私もベケットの戯曲を見てみたいが、DVDを探してもないのである。何年か前、日本人が演じている「ゴドーを待ちながら」の演劇を見に行く予定が結局行くことができず、DVDもなくて、今までに一度も見たことがない。ただ、私は戯曲よりも小説のほうが好きであると強がりを言いたい。

以上

2011年10月6日(木)
ジャック・デリダ著「カフカ論−『掟の門前』をめぐって」を読んで

ジャック・デリダ自身の著作物を読むのは初めてである。本書を手始めに選んだのは理解しやすいと思われたからである。ジャック・デリダの文章は、滑らかさがあり多岐の話題に及びながら問題を収斂させていく、問いに答えを見出そうとしていく、複数の流れを操りながらも穏やかに答えに近づいていく分かりやすいが難しい文章でもある。少しばかり不安定である。それは、問いそのものも答えそれ自身さえ不明になるのではないかという怖れであり、読者はデリダの思考の流れに身を委ねるしかないためである。きっとたどり着く地点が分からないためであり、ある意味ではデリダの思考の流れに身を委ねた者の不安であると同時に逆に言えば知的な流離いの旅ともなるのではないだろうか。本書の縮小版のデリダ自身による公演が1983年に東京日仏学院で行われたとのことである。そう言えばデリダはよく公演を行っている。その理由は私などに分かるはずはない。

本書を読むとどうもデリダは、カフカ論を展開するというより、カフカの『掟の門前』というテクストを読み解くことによって、デリダ自身の主張、即ち『掟の門前』を解釈すると同時に、1)掟とは何か、2)文学、テクストとは何か、を主眼に俯瞰的に論理を展開している。確かドゥルーズのカフカ論がどこかで紹介されていたが、婚約不履行(キルケゴールと同様にカフカにもあったらしい)などオイデップス的な負い目を中心に展開していたのとは根本的に異なった論理展開となっている。このデリダの独特とも思われる主張がフロイトやカントそしてハイデッカーの思想を踏まえながら紹介されている。簡単に説明したいが、たぶん困難であり分かり得る文章にはならないかもしれないが、メモ代わりにも以下に記述しておきたい。『 』は本書からの引用文である。 

まず、デリダは最初『掟というものは・・文学的事象とその可能性の基盤を共有しているのではないか。』とし『物語と掟の同時出頭について語ろう。』と述べて、これらについて語って行く。即ち、掟は原始的な起源として殺害と近親相姦の禁止が創始されることから語られる。この掟それ自身が禁止されたものであり、禁止された場所であり、本質をもたない非−真理であるとデリダは言う。掟は何ものか分からが確かに在るのである。そして、おのれ自身についてしか語らない『テクストは掟であり、掟を課し、そして読者を掟の前に置き去りにする』こうして『作品は常に掟の前に立ち現れ、掟の前に存続するのである。』デリダの主張を解釈すると、掟と文学はこのように『掟の門前』に掟として、文学として同時に在るのである。これは文学が『掟の言表を、行為遂行的発話として産出する力を想定し、そのとき文学は、掟を立て、そして掟が成立するするその場所において出現する。』ためである。

ただ引き続くデリダの説明は『ある定まった条件のもとでは、文学は、この言語の行為遂行機能による立法機能利用して、文学にその出現の保証と条件の与えている既存の掟をひっくり返すこともできる。・・・法をもて遊ぶ捕えがたい瞬間に、文学は文学を通り抜けてしまう。それは掟と掟の外を分かつ線の両側に位置するのだ。』とのことである。そして『掟の門前』にいる番人と田舎男について、『田舎の男のように「掟の前」にありながらしかも同時に「掟」以前にある。番人の存在でもある<掟の−前の−存在>以前。このありそうもない地点において、文学は場所をもち生起したのだろうか。文学を名付ける必要があったのだろうか。』とデリダは結ぶ。文学は掟を分かつ線の両側に居ると言うより、文学と掟の同時出現のその位置以前の位置から既に単独で生起したか、せざるを得なかったデリダは示唆していている。ただこの考えは私の推測であって、デリダは掟と文学の関係についてこれ以上述べずに、カフカ作『審判』との関連について話を進めていく。

本書を読んで今までデリダの紹介本でしか理解していなかったデリダの思想に触れることができたのは幸いである。最初にデリダの文章について感想を書いたが、もしやデリダの文章は脱構築しながら構築されている、揺れるような文章なのではないだろうか、そんな気もした。ドゥルーズのカフカ論も若干記述したが、それぞれの哲学者に異なった解釈を行わせるカフカとは何ものなのだろうか、というより哲学者とはそれぞれに異なった自らの思想によって解釈を行っているものであるに違いない。また、このカフカ論の紹介も、人それぞれによって参照場所が異なるのは今までの読書の経験から体得している。そして、デリダとは何者だろうという思うがこみ上げてくるのは、この本の質が高いためであろう。

以上

2011年10月1日(土)
吉本隆明著「共同幻想論」を読んで

本書は角川文庫より1982年に初版発行された文庫本である。なぜか分からないが「定本言語にとって美とはなにか」よりも文章が幾ばくか清楚でみずみずしく感じる。次の文が吉本隆明の主張することである。『国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法も共同の幻想である。・・長年つくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。』ただ『とうぜんおこりうる誤解を取り除くために一言すると、共同幻想という概念がなりたつのは人間の観念がつくりだした世界をただ本質として対象とするばあいにおいてのみである。』という条件がつくらしい。「禁制論」、「憑人論」など11の項目から成り立っている。そして「遠野物語」と「古事記」から主に引用して幻想論の話を進める。最後の「起源論」では、『はじめに共同体はどんな段階に達したとき<国家>とよばれるかを、起源にそくしてはっきりさせておかなければならない。』として古事記などを引用し、邪馬台国の国家としての段階を話して終える。それ以降本書の続編を記述したとは聞いたことがない。従って本書は近代国家について触れることがないままに未完了の作品であると考えざるを得ない。

初めから50頁くらいは真面目に読んでいたが、なんだか読むのが億劫になってきて、あとは流し読みをした。一番気に入ったのが「対幻想論」である。フロイトの集団の心(共同幻想)と男・女のあいだの心(対幻想)の話がでてくる。夏目漱石の「道草」の夫婦の会話が引用される。イザナギ・イザナミの「国生み」の話がでてくる。結論としては、<対>という幻想に固有な時間性を自覚し<世代>という概念を手に入れて、<親>と<子>の相姦がタブー化されたというのである。このようや吉本隆明の共同幻想論については、その理論に納得するか、反論するか、無視するか、どうでもよいとするしかないのであるが、私は半ば納得し半ばどうでもよいとしたい。確かに「幻想」はあるのであり、「対幻想」も「共同幻想」もあるのである。ある意味で我々は相手に、もしくは集団にて「幻想」を見ているのである。即ち、人間の観念がつくりだした世界をただ本質として対象とする「幻想」があり、ふと気づいた時そういう世界に生きていると知るのである。

吉本隆明はフーコーとも日本で対談したらしい。吉本の日本批判とフーコーの西洋批判がかみ合わないままに終わったとのことである。発想・思考が大幅に異なるが故に、当然なことである。話は逸れてゆくが、本書と同時期に生まれたドゥルーズの「アンチ・オイデップス」も吉本隆明は後からかもしれないが知ったに違いない。両者ともにフロイトの作品を読み込んでいて、異なった結果を生み出している。国家を論じながら一歩は「共同幻想」とし、一方はマルク主義的な構造的な体系的手法を取らずに、解釈学に基づき地層を通じて現実の国家として説明される。国家とは「幻想」でありながら「幻想」ではあり得ずに、コード化(規則の集合)などとして現れ出ているのである。このコード化も吉本隆明は「幻想」というが、観念としての「幻想」であって、現実には確実に表れ出ていて人間を束縛しているのである。吉本隆明についてはあと一冊「心的現象論」を読む予定であったが、ずっと先のことになるであろう、もしくはもう読まないかもしれない。なぜなら思想にある種の面白さがあるが、どうも不完全さが付きまとっているとも思われるからである。

以上

2011年9月25日(日)
ライダー・デュー著 中山元訳「ドゥルーズ哲学のエッセンス 思考の逃走線を求めて」を読んで

今まで読んだドゥルーズの紹介本では一番良い出来であると思っている。即ち、著者が捕えたドゥルーズ哲学を論理的に展開して紹介している。ドゥルーズ哲学がたぶん根底から把握されていて、その把握された概念が歯切れよく説明されているために、ドゥルーズの思想・思いが分かりやすく伝わってくるのである。アリスと出来事がでてこないのも良い。アリスと出来事は仔細なことでドゥルーズの思想の根本ではないからである。ただ、少しばかり説明不足の所があり、また最後の方は理解が難しかったが、この本を読んでドゥルーズ哲学の本質に触れたような気がする。ドゥルーズ自身の著作物を読むときには、ぜひ手元に置いておきたい本である。

著者は「内在」と「表象」がドゥルーズの中核となる概念であると指摘する。この中核概念の説明は都合上行わずに、本書の記述内容を簡単に説明すると次のようになる。目次から拾い上げると「内在と主観性」を手始めに「文化の記号学」を通して「近代的な主体の歴史」にてエディプス的主体が生み出されて「社会的な存在論」へと展開される。即ち欲望の運動のうちに内在する主体が、資本主義における資本の下で欲望する生産を行うのである。なお欲望する生産とはエディプス的構造を通じて社会的な生産に適用された生産である。国家は資本を規制し資本が脱領土化し分解するものを支え防波堤としての制度を作り出す。即ち資本主義国家においては資本の脱領土化するエネルギーと国家とは対立することが懐胎されているとする。一方欲望する生産を行う主体はエディプス的な構造の内に再領土化されている。このように『資本主義国家では、個人の主体の水準に脱領土化と再領土化がもたらす両義性が存在する』のである。簡単に言うとこれが近代の自己抑圧的な主体である。この主体がどのように政治的な行動の主体となり得るか。この点については明確に述べられていないが、『社会的な決定からの自由は、〈生成〉によって遂行される』が、生成の主体は地層の末端部分に位置しているに過ぎないらしい。そして〈生成〉は人そのものを変えるが、基本的に予見できないものとする。「哲学と芸術」の章では、ドゥルーズは芸術を哲学と同じような思想の創造と考えるようになったという。最終章「結論―哲学の目的」では三つの縦糸からドゥルーズの特徴をまとめている。

以上の簡単な説明では、「コード化」、「シーニョ」、「ノマド」などの重要な単語や思想の紹介はすべて省かれている。ただ言いたかったのは、ドゥルーズ哲学は存在論を含めて資本、資本主義を通じてこの社会の構造を論じた哲学を行ったということである。また芸術にも通じていて、独特のカフカ論は簡単に触れていたが興味深い。当然ドゥルーズが言うからには、カフカ論の内容は想像がつく。本書のドゥルーズ哲学の解釈の正統性については、私は何も言うことができない。まだドゥルーズ自身の著作物を何も読んでいないからである。ただ、本書は最初に記述したように論理的に展開していて深みがあり、読んでいて面白かったのは確かである。なお、逃走線とは簡単に言うと根源的な種類の脱領土化の境界線のことであり、著者はこのドゥルーズが使用する逃走線を巧みに表題に使用したようだ。

以上

2011年9月19日(月)
吉本隆明著「定本言語にとって美とはなにか」を読んで

この本を仕入れたのは、一年以上前である。予備知識として三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」を読む必要があるとのことで、三浦つとむのこの本は既に一年以上前に読み終えている。結構良い本であった記憶がある。膠着語としての日本語を言語論として展開していたはずである。記憶では視線の文学に対する意識と対象の関係が成り立たないという主張が鮮明に残っている。ぱらっと頁をめくって読む必要がないと判断したこの一年前の判断を翻して、今頃になってなぜ吉本隆明著「言語にとって美とはなにか」を読むかというと、これから哲学書を読むにあたって、まず易しい本、かつ関心のあった本を読んでみたいという単なる思いつきからである。でも本当は吉本隆明の本は一度読んでその思想を確かめたかったのである。

読んでみると結構な力作である。実は数十年前に確か黄色い表紙の「言語にとって美とはなにか」を持っていてそれを読もうと探したが見つからず、新しく仕入れた本である。改訂にあたって相当加筆がなされた、2001年に文庫化された本である。きっとこちらの本の方が加筆・修正された分読み易いと思われる。挑発的で乾燥したような吉本隆明の文章が、昔の本ではもっとあからさまに き出しで表現されているような気もするし、今の文庫本以上に難解であったような気がする。三浦つとむ著の「日本語とはどういう言語か」を読む必要などなくて、そのまますぐに理解できるのである。理論は簡単明瞭、不明瞭な所もあるが、数多の小説・詩などのサンプルを入れて吉本隆明は独特の熱弁を振るうのである。そしてその範囲は私も読んだことのある古事記・日本書紀から始まって、古典文学や近代文学に演劇論など、更にヘーゲルの美学を取り上げて「言語にとって美とはなにか」という難問に挑み、一定の成果を得るのである。なぜ一定の成果というと、「言語にとっての美」そのものではなくて、「表現された言語にとっての美とはなにか」について書かれているからである。即ち私は良くは分からないが、私は言語そのものに内在している美について書かれていると即断していたが、小説や詩として表現された言語の美、それも歴史的な多数の文学書を吉本隆明の理論によって読み解き、解明された文学書の紹介を経て、最後に芸術論的な展開を行って締めている。言語は表現を通してしか成され得ないはずであり、この観点からすると私の「言語そのものの美」の考えは狭義でありたぶん間違っている。吉本隆明も言語そのものの発生当時からの本質を、更に「言語の価値」と「文学の価値」とを分けすっきりと説明している。

でも、なぜかどうしてもしっくりといかないのである。即ち、「美」という概念を広義に捕えるか、狭義に捕えるかによって異なってくるか、そもそも表題に「美」を入れたことが間違っていると思われる。言語に「美」は無関係であって、表現された文章や小説に「美」があるかないか、もしくは言語表現の「質的な差異」がどうして生じてくるかが問題なのである。質的に高い心を打つ表現がなぜできるのかが本来的な課題なのである。吉本隆明は詩を例にあげて質の高い表現の仕方を少し説明している。小説の価値についても美についても論じている。ただ、それは果たして本来的な「美」であり「価値」なのだろうかと疑問に思うのである。ただ、こうした捕え方は吉本隆明の思想を理解できていない私の漠然とした思いであるかもしれず、まずはこの広大な難問に取り組み論理的に矛盾なく展開して説明でき得た本書を称えたい。即ち吉本隆明は「表現された言語に表れる質的な差異」もしくは「表現された言語の価値もしくは美」について真正面から取り組み、歴史的に有名な文学書等を読み解き果敢な問題提起を行ったのである。吉本隆明の後にこの問題に取り組んだ人を私はうかつにも、素人である故にか知らない。もうすこし吉本隆明の思想を別の本から仕入れるなどして、本書を評価するのがいいのかもしれない。


もう感想はあらかじめ書いたから簡単に本書の主張を紹介しよう。本書からの引用は『 』で示してある。そもそも、言語の本質としては『言語は、ふつうのとりかわされるコトバであるとともに、人間が対象にする世界と関係しようとする意識の本質だと言える。この関係の仕方のなかに言語の現在と歴史の結び目があらわれる。この関係から、ある時代またが社会には、言語の自己表出と指示表出とがあるひとつの水準を、おびのようにひろげているさまが想定される。』と吉本隆明は主張する。そして、『言語は、現実世界とわたしたちとのあいだで故郷をもたない放浪者に似ている』即ち言葉は象を措定できずに『言語の意味と象との深淵が横たわっている』という。これを結びつけるのが「喩」であると吉本隆明は言う。つまり、言語表現は韻律・選択・転換・喩によって表現され得て、文学はこれらを使用した自己表出へと進み、話し言葉は指示表出へと進むとする。即ち文学作品を表出の歴史で扱うとき二重の構造を取り、表出の体は文学体と話体として成り立っているとし、近代の文学を引用して長々と説明する。私の読んだ作品も結構あって懐かしい思いもしたが、切り出され並べられた文章のみを読むのも疲れるものである。

そして文学作品の価値の本質を知るにはその作品の「構成」を知ることだと主張する。「構成」とは有形的なものを指し示す指示表出の空間の展開、時代的な空間の広がりであると吉本隆明は主張する。吉本の主張を単純に言い変えれば、自分の考え思うことをうまく主題として展開させて的確に記述することであると思われる。そしてここでは「竹取物語」などの古典が題材として取り上げられている。最後は「文学的価値」について述べる。『文学の価値はただ言葉のうえからは、とても簡単に定義できる。自己表出からみられた言語表現の全体の構造の展開を文学の価値とよぶ。』どうも簡単明瞭にて理解できる、理解できなさそうな定義である。本書の評価は評論家・文学者などの専門家が行うのが良いであろう。私の本書に対する評価は問題の提起である、という見方を変えていない。どうも阿部公房など抜け落ちている作家がいると思われるからである。阿部公房などは状況だけを客観的に書くために、自己表出や指示表出ではない「抽象表出」なんて新語で表わすのも良いと思っている。また「自己表出」がやたら騒々しい文章である。夏目漱石がわめきちらす文章が一つあったが、漱石にとっては全くに稀有な例なのである。この自己表出として引用された作家の作品は、もううるさすぎて読みたくない思いになる。きっと引用した作家の文章が多すぎるために加えて、最高潮の場面の文章のみを抜き出したためにこのような感想を持つのだろう。ただ、本書にていろいろな言語に関する具体的な表現について大いに参考になったのは確かである。

以上

2011年9月15日(木)
思索的な詩集を読んで

読んだきっかけは「ニーチェ詩集」の新刊が出たからと知ったためである。読んだ詩集は「ニーチェ詩集」などである。

1) 「ニーチェ詩集」(浅井真男訳 世界の詩41 1975年12版)

ニーチェが詩を書いていたとはうかつにも知らなかった。ニーチェは哲学者でもあり、抒情詩人でもあるというのが一般的な考え方らしい。今まで読んだ詩集とはやはり表現が異なっていて、重く言葉が響いてくる。だいぶ以前に、ブルドンの詩を読んで殆ど理解できなかった記憶がある。きっとツァラの詩も一部は理解できないだろう。でも、ニーチェの詩はその思想が理解できなくとも、すべてが読めて理解できたような気分になるのである。この散文詩は、もしや哲学書の前ぶれではないだろうか。「ツァラトゥストラ・・」も分かり良い散文で、しかも観念的でありかつ抒情も滲み出ている。先日読んだキルケゴールと似た所がある。ただキルケゴールよりもニーチェは文章を走らせずに、重みがある。さて、この詩集には「歌謡と箴言詩」、「フォーゲルフライ公子歌謡集」、「たわむれ・たくらみ・しかえし」、「ディオニュソス領歌」の詩集の一部が掲載されているが、ツァラトゥストラが最後の孤独に耐えようとしてみずからに歌ってきかせた歌という「ディオニュソス領歌」が一番好きである。観念的でかつ抒情を含み、問いかけては高みに昇りもしくは地の上を這う絶望と孤独と、哄笑に憤怒、真理と幸福に、愛を与え渇望する者の歌が好きである。

2) 「ヘルダーリン詩集」(川村二郎訳 岩波文庫  2002年 初版)

ハイデッカーが好きだった詩人の一人のようである。聡明で論理に満ちたハイデッカーが最終的に人間は開示されることのない実存としてただ待ち続けるしかないと結論付け、詩の中に逃げ込み隠れ住んだその心を覗きこんだような気がする。即ちヘルダーリンは気高い精神を持ち哲学的な意味を込めた詩を書きながら、晩年は明晰さを失った薄明の意識の中に住んでいたようである。ニーチェも晩年は薄明の意識の中に長らく住んでいる。ヘルダーリンの詩を読むと、対他の意識は希薄で対自の意識も次第に失っていき、即ち私と書きながらも詩の言葉そのものが薄明りの天から降り注いで来るように感じるときがある。文章が訳のせいか、英文と同じSVOの形式を取ることがあり、また長文の詩が多く記述されていても、その展開が、意味が深いのか分かり得ぬ詩もある。そして私にはそもそも「あなた」が誰を指すのか分からない。たぶん神ではないはずである。ハイデッカーはこのヘルダーリンの哲学的な精神そのものを読み解いていて好きだったのだろう。私は「ライン」や「祭りの日の・・」、特に最後の作である「眺望」が好きである。『森は黒々と形をあらわす。』の一文を含めたこの「眺望」の全部が好きである。もう一度機会があればこの詩集を、一語一句を細かく再読してみたい。

3) コウルリッジ詩集(上島健吉偏 イギリス詩人選(7) 岩波文庫 2002年初版)

実は私は詩に対する思いがあった。それは「詩は物語である」という、叙事詩的な詩を書きたいという思いである。そしてその物語は起承転結されて結論付けられるが、物語そのものは幻覚的な性格を持ち、空間と時間を歪めて展開される、文章そのものも混沌とした表現に陥っていき文が連なり意味そのものも、論理性も次第に失なわれていく詩を書きたいという思いである。結局、私が作った何偏かの詩はそうした性格を持つが、完全な作品は一つもない。コウルリッジの「クーブラ・カーン」や「古老の船乗り」などは私の詩に対する思いの原型であろう。ただ、これらは物語性が少し強すぎている。幻想的でありながら、言葉の一つ一つがが明確に意味を成している。でも、これらの詩はとても好きである。コウルリッジの詩は元々が散文詩、叙事詩的な性格を持つのであろう。これにヘルダーリンのように言葉そのものが揺らぎ観念的なもしくは無観念的に連なれば、きっと私の理想の詩ができあがるだろう。この詩集は英文と和文が並列に印刷されているが、当然和文を読んでいる。英文も拾い読みしてみたが、和文があるせいか割と読めるのである。英文で読むと異なったイメージを持つ。詩を訳すなんて大変な仕事である。以前、詩を読むならば原文が良いと言ったことがあるが、語学力と想像力の問題があって私には無理である。手元に置いて、時々英文を眺めるのも楽しみになる日が来るかもしれない。

4) マラルメ詩集(加藤美雄訳 世界の詩31 彌生書房 平成7年 11版発行)

かの高名なマラルメの詩集である。もう何年も前から少し眺めては2、3編読んでその後は読めない。全編を通じて読めないのである。印象としてはランボーの詩に淫美さを込めて精神が首切れ、肉が躍動しながら豪奢に着飾った墓掘り人夫に担がれている、心が蠢きながら腐敗した肉の上に踊っている、そんな印象などを持つ。どうも怖いのである。嫌なのである。飾られた言葉の美しさ以上に美しい汚物を吐き出したくなる精神のあからさまな拒否なのであろう。もし、いつか全編を読むことができたならば、また感想文を書くことにしようではないか、勇気を持って・・。

以上

2011年9月9日(金)
キルケゴール著「誘惑者の日記」「反復」を読んで

読んだのは筑摩世界文学大系 32 キルケゴールの「誘惑者の日記」と「反復」である。「おそれとおののき」と「死にいたる病」は読まなかった。「おそれとおののき」はアブラハムの信仰を例にとり、個別者が神の前にただ一人立っていると普遍的な倫理が色あせ価値を失ってしまう、即ち人間が実現すべき普遍的な倫理よりも、絶対者に対する絶対的な高度な倫理、高度な信仰とでも言うのだろうか、そういった神の愛を信じる者、明かすことなく高い課題を課せられた背理な立場に在る者が、通常では有り得ない子を捧げることによって高度な倫理を実現しようとすることにより得られた宗教的な倫理の世界を題材にした話である。私は宗教的な高度な倫理というよりも、人間に対する普遍的な倫理、即ち背理などない立場に在る者の通常の普通の倫理が色あせ放棄されて、どういう事態がこの世界や人間に生じるのか知りたかった。このため「おそれとおののき」は読まなかったのである。

たぶんに私の思い描いている通常の倫理は、既に色あせて喪失していく過程にあるのか、そうした過程を通じてこの世界では全くに倫理など無くてしまうのではないかと、どうしてもその危惧をぬぐい去ることができないのである。もし読んだなら参考になって面白かったかもしれない。「死にいたる病」は「不安の概念」を先取りした文学的な作品と理解しており、できればハイデッカーなどの近代哲学者が影響を受けた、論理的な文章で書かれているとされる「不安の概念」の方を先に読んでみたかったのである。


さて前書きが長くなったために感想文は短めにしたい。「誘惑者の日記」はキルケゴールが婚約者レギーネの婚約破棄事件を取り扱った文学作品であり、「反復」はレギーネとの関係の回復を願ったやはり文学作品であるが、レギーネが他の男と婚約したことを知る前と知った後に書き直した二つの作品がある。いずれにせよこれらの作品を読むとキルケゴールの文学的な才能に恵まれていたことが、その文章、即ち次から次へと浮かぶ情景の描写やその詩情豊かな言葉の並びによって分かるのである。話せばきっと機知に富んで相手を飽きさせない紳士であったことだろう。物語が確実に正確に狂いなく進んでいく正統な近代小説とは異なって、キルケゴールの文章は寄り道をし、そして肯定と否定を織り交ぜながら少しばかり不安定になりながらも、決して狂い迷い込むことなく結論に導いていくのである。これはキルケゴールのレギーネに対しての揺れる心・思いというよりもむしろ彼の卓越した資質によるものだと思われる。心の矛盾を、考えられる可能性の経路を露呈しながら、その狙いを導き出して正確に結論に辿り着くのである。

現実がキルケゴールに対してどう影響を与えたか疑う余地はない。即ち現実は確かに存在していて彼を生かしめているのである。彼は婚約破棄後全作品を、そしてわずかながらの遺産もレギーネに捧げている。即ち彼にはレギーネという現実や、マスコミ的な論争「コンサール事件」があったとしても、彼の現実は父から受け継いだのか深い内面的な憂鬱な思い、女中上がりでキルケゴールの文章には出てこない母からの誕生が決定的に支配していていたと思われる。この両親が青年キルケゴールのその後の現実を支配していて、彼はきっと定められていた行動を行っていたと思わざるを得ない。即ち彼の未来の現実はもう若いうちに作られていて、その作られた予定表に記載された通りの行動を行っていたとしか思えないのである。彼はレギーネに恋をし、婚約を破棄し終生後悔していたとしても、知的で魅惑的な女性であればきっとレギーネでなくとも誰でもよかったのである。抜け出すことができぬと知りながら、彼が彼自身から脱出できるわずかな可能性を有する他者、書くことに情熱を捧げる他者が要求されていて偶然にもレギーネが目に留まり白羽の矢が立てられたのである。即ち、無意味に書くことではない著作物を捧げる者、無償に捧げ尽くす者、狂おしくも思い想起でき得て愛することのできる他者、苦悩と絶望の対象になる得る他者が居ることが必要だったのである。

私にはもしやキルケゴールには例え戦うべき現実的な宗教家などが居たとしても、この現実はその時彼の前に在るのではなくて、むしろ思弁の中に作られた架空の世界のように思われる。自らが作り上げたその架空の世界の中にて、キルケゴールは色濃く思弁し展開しながら、彼が思考した真理を引っ提げた著作物によって敵と戦っているのである。即ち、言い換えると彼が戦っているのはこの世界ではなくて、彼自身が真理を求めて彼の内部にて戦っている目に見えぬ世界の目に見えぬ敵なのである。一段と「個人の高度な倫理」に達するために、反復などできずにもはや見えぬ想起され得ぬレギーヌに向けて、この目に見えぬ世界における殺伐とした暗闘を、きっとキルケゴールは思い切り彼女レギーヌの心に向けて叫び続けずには居られなかったのである。


すこし私の筆が滑りすぎて、文章が歪みずれたので次に「反復」について語る。キルケゴールの「反復」では引用すると次のように書かれている。『反復は、ギリシア人が「追憶」といったものをあらわす決定的な言葉だからである。ギリシア人は、あらゆる認識は追憶であると、と教えたが、同じように新しい哲学は、全人生は反復である、と教えるだろう。』どうも哲学の用語は、どこかで密接に結びついているために不思議である。ドゥルーズが述べる「差異と反復」の反復の発想もどこからでてきたのか調べなければならないだろう。そしてこの「反復」ではレギーネの婚約を知った時に後に書き改められたものである。私にはこちらの後に書かれた反復の方が、文学的に優れていると思われるが、ヨブに対する思いが共鳴しているのかもしれない。ただただ悲痛に訴える響きがある。「反復」の最後に、『この書の本当の読者 NNさま』としてレギーネに向けて書いている文章があるのである。きっとレギーネはキルケゴールが述べるように『一見愚にもつかぬ暇つぶしのように見える洒落が気になったり、なんの薬にもならない強情さに気持ちをかき乱されるかもしれません、しかしのちはおそらくそれとも和解なされるでしょう。』そのようにレギーネは心に痣や傷がついたその後に気が散って仕方ないが、やがて心の内に痣や傷をつけているそのことも普通のこと、もしくは気づかれぬことになっていくのかも知れない。心は和解し痣や傷は融和して、もはや少しばかりの思い出、思い出すことの無い思いでになるのかもしれない。

とにかくキルケゴールは文才のある人であるが、今の私には倫理観や不安の考え方などが異なって、この不安の考えは特に記述しなかったが、ただもう年月は経過し哲学思想は新しく展開しているために異なっているのは当然かもしれない。別の機会にでも書ければ書こう、キルケゴールはもう私にはそれほど関心のある哲学者ではないが「不安の概念」だけは目を通しておきたい。ちょうど今キルケゴールの本を持ってきて「死にいたる病」の最後を見ると、『絶望が死に至る病であること・・』などそうであるとは思うが、あまり乗り気のしない考え方である。私の関心のあるのは絶望があるかどうかということ、絶望が生じるには精神的な力が必要だということである。先日テレビでイギリスの人道家がアフリカの飢餓難民を救うために基金を創設するニュースを流していたが、飢餓難民は絶望を、不安を感じているのだろうか。ただ、現実はこういうものだと認識しているだけなのではないだろうか。即ち絶望とは衝動・衝撃であり、不安は未来に期待を持っているからこそ生じるのである。衝動や期待が失われたら、現実感を喪失して無表情に無感情にただ地べたに座り転がっていることしかできないのではないか。すがり付いて生きることさえ望むこともなくて、ただ座り横たわっている、それはもう一個の物質でしかあり得ないはずである。

以上

2011年9月2日(金)
「脳に関する本」を読んで

脳に関する簡単な本を読んでみた。脳と感情や理性がどのように関連するか、そして意識というものがどういうものか知りたかったのである。専門書では生物学的な構造は詳しく書かれているが、脳と意識の話が出てこず、読んだのは本当に簡明に書かれた本である。どうも生物学の写真の出てくる本や化学構造の塩基のたくさん書かれている専門的な本は苦手で、こういう簡明な本が良い。

1)「脳科学の教科書 神経編」理化学研究所 脳科学総合研究センター偏 岩波ジュニア新書680 2011年 第1刷発行
人間においては情動をつかさどる「偏桃体」、記憶・学書に関わる「海馬」、さらに複雑に高度な高度情報処理をつかさどる「大脳新皮質」があるということである。これらの領域で働いている遺伝子群は他の生物でも見つかっており、生物種が脳の同一の起源を持ち、それぞれ変化・進化してきたものと考えられている。本書では「運動のしくみ」や「記憶と可塑性」が述べられているが省略。まだ発行されていないが「脳科学の教科書 こころ編」に期待したい。

2)「心と脳の科学」苧坂直行著 岩波ジュニア新書298 2003年 第6刷発行

心と物質のあいだの科学的な関係を解明したいと願っていたフェイヒナーによって「心的強度」(たとえば主観的な明るさの強度)を増加させるには、「物質エネルギー」を幾何学的に増加させると良いと提案された。このアイデアは画期的で行動主義の考えに捕われていた心理学の世界に、幅広い意味での「認知科学」(当然任意心理学を含む)が誕生したとのことである。そして本書では「心から脳を見る」の科学、「見る」という「心の働き」を、脳を通じ考えていきたいとのことである。なぜなら「見る」はその言葉の意味からして、心の働きの諸相を観察することができるためである。なお引用は、『 』で示している。

「見る」とはシンプルに世界を構成し、おぎない予測し、そして意味づけることであると苧坂直行は述べる。即ち見たものを経験的枠組みで認知的に消化しようとする心のはたらき「意味づけの論理」が最終的に生ずるが、これらは精緻な視覚のシステムにより行われると著者は言う。更に、記憶とは脳のいろんな場所に分散して保持されているが、想起(思い出す)ときに束ねられるとのことである。自分は「誰であるか」、「どこから来たか」、「これから何をしようとしているのか」は記憶に関連しているとのことである。記憶には長期記憶と短期記憶にワーキングメモリがあり、長期記憶は更に細分化される。「エピソード記憶」や「意味記憶」はなど含め長期記憶の情報は失われることがなく、容量にも制限がないらしい。短期記憶には容量の制限があり、「不思議な数7±2」の数字の列しか覚えられないとのことである。

感情と情動は好悪(好き嫌い、快・不快)の「価値判断」が伴うが、「感じる」という情報処理を基にして生じるようである。感情の起源には「感情の抹消起源説」よりも「感情の中枢起源説」(視床を起源と考えたので「視床情動説」ともいう)のほうが支持されているようである。「感情の回路」として脳のさまざまな領域が結びついているようである。即ち感覚として入力されたものが、記憶と結びつき、かつ価値判断され生成された感情情報が処理される結果として考えられている。「意識」はデカルト以来のテーマであり続けたが、「意識」と「こころ」の概念はだいたい同じであると著者は言う。そして覚醒(生物的意識)、アウェアネス(知覚・運動意識)、リカーシブな意識(自己意識)の三層からなると言う。そして、『自己意識というのは、いまの心の状態にたいして向けられたもうひとつの心の状態ともいえ、したがって、一種の”入れ子”構造を想定することになり、心は自己を認める別の、もうひとつの意識をもつことになります。』と述べる。ミンスキーの考える仮想的なふたつの脳「機能的な入れ子」には高度な情報処理が並列して行われる必要があると結論付ける。

簡明で良く分かり良い本である。哲学的な意識の結論としては生物学を参考に考えたい。といより、なぜか哲学を考えているのに生物学に支配されてしまうのか、根本的におかしいとは思うが、生物学を踏まえた哲学的な知というものがあるはずである。存在と意識、この世界の認識とこの世界そのもの、そしてこの世界と存在との関係についてもう少し調べてみたい。

3) 「意識とは何か 科学の新たな挑戦」苧坂直行著 岩波科学ライブラリー36 1996年 第1刷発行

同じく苧坂直行によって意識を中心に書かれた本である。2)と重複する所は省き簡明に書きたい。意識は脳による情報の選択と統合という、いわば志向性をもつ情報処理の一様式であるという考え方は2)の本と同様である。リカーシブな脳(自己意識)は自らの認識と行動を説明できると同時に、他人の行動と心を予測し理解できると著者は説く。無意識とは意識されない脳による情報処理である。脳はニューロンという神経細胞からなり、シナプスという微小な接続体によりつながれているが、ニューロンが意識を基盤とするニューロン主義と、ニューロンより下位の量子によるものだとする意識の量子論などもあるということである。デカルトは心を機械である身体との複合体として考え、脳の視床上部の松果体を意識即ち心のある場所とし、意識の局在論としての「デカルト劇場」モデルとよばれることになったとのことである。無論、意識は局在せず、脳全体という科学者もいる。また意識は直列処理を行うのか並列処理を行うのかの問題もある。「意識の流れの」の問題も関わってくる。高次のリカーシブな意識では逐次直列処理を行い計算効率も低いらしい。そして意識は情報のバインディングにより処理されたもので、認識と行動の環境への適合化を図るためにあるらしい。なお今後の困難な研究課題もこの本では述べられている、ただ感情と情動については述べられていない。

つまりこの本によると意識は脳による情報処理により基づき作り上げられたものであり、この作り上げられた意識のうちの自己意識は自己の環境への適合化と他者の心の理解をあげている。意識の生物学的な理解には大いに役立つ本である。この本を読んで単純に考えてみると、この世界が在るとするならその人の意識に捕えられた世界が、世界そのものである。他の人の捕えられた世界とは異なっているはずであり、もしや情報処理が間違えば世界そのものが無いことも在り得る。即ち、言語や映像に表現され感覚によって感じ理解された意識による自己認識の共通項が世界そのものになるということである。また認識する意識も、その情報処理の過程にこの世界の影響を受けて処理方法の偏在化もしくは変質化されたプログラムを埋め込まれていることも、きっと確かにあり得るはずであって、この世界と存在は相互に密接に絡んでいると思われる。

では、問題はこうなる。1)意識が何も捕えられない時、この世界は在り得るのかどうか。たぶん、無いはずであり、これは唯物論なのだろうか、観念論だろうか。その両方なのだろうか。いや、世界は自己の意識とは別に在り続けるのだろうか。2)感情や情動も含めて考慮した場合、これらの感情や情動は、生れた時から潜在的に埋め込まれたものであったのだろうか、それとも自己の成長と共にこの世界からの経験として学び取ったのだろうか。その両方なのだろうか。そして更に尚もこの世界から影響を受けて、新しいプログラムを無意識にダウンロードして情報処理システムを変更し続けているのだろうか。これらの単純な問いはまた、別の機会に考えることにしよう。ただ、言えるのは「われ思う、故にわれ在り」ではなくて「もの思うわれが在り」であって、もし自己の意識が失われた時、意識を持つ他者の存在を認識できないとしているのであれば「われなくばあなたは世界も無い」となり、われが意識を持つ他者の存在を別個の対象として暗黙に認識し了解しているのであれば、自己の意識がなくとも「われなくともあなたは世界と在り」となる、などなどいろんなケースを考えてみたが、こんがらかって、こんがらがってきてやはりまた別の機会に考えることにしよう。

以上

2011年8月26日(金)
佐藤勝彦著「「量子論」を楽しむ本」を読んで

以前、同じ著者の「インフレーション宇宙論」を読んで日記を書いたことがある。記憶では、「無」と「真空」の違いがどうしても分からなかったことがある。「無」とは著者の文章から、時空がないことと日記に表現した記憶がある。無論、真空とは物質と反物質が生成と消滅を繰り返す、結局は真空に見える時空がある空間のことであり、この理解は変わっていない。ところで、量子力学には非常に関心を持っていて放送大学の講座を視聴して(眺めて)いたことがある。無論難しい数式がたくさんでてくる。懐かしいプランクの定数も微分記号もたくさんでてくる。テレビを眺めているだけなら、虚数も行列もハミルトニアンもなんでもすぐに理解できそうに思われから不思議である。大学で物理の勉強をしたことは殆どないが、勉強さえすれば理解できたはずと思うのは、きっとすべてが錯覚なのであろう。

さて、超一流の科学者でありながら佐藤勝彦の本は簡明に記述されていて素人にもよく分かるのである。本当によく分かるのである。今まで結構この著者などの本を読んで知っていたこともあったが、新たに知ったことを重点にして感想文を書きたい。従ってこの感想文はこの本のごく一部の感想である。「量子論としてのコペンハーゲン解釈」はボーアを中心にコペンハーゲンで量子論の議論が行われていたことは知っていたが、「さまざまな位置にいる状態が重なり合う電子」が「観測すると電子の波は収縮するのだ。」との考えに決めたとは知らなかった。なお「重なり合う」とは別の場所に居る状態が重ね合わさっている(共存している)ことである。このことは後に非常に重要な考え方をもたらす。

量子論とは不確定性原理などが示すように、「物質や自然が一つの状態に決まらずに、非常にあいまいである、あいまいさこそが本質であることを示したのです」には非常に納得させられた。「シュレデンガーの猫」は知っていたが、アインシュタインなどの「EPRパラドックス」は知らなかった。一光年離れていてもスピンを定める瞬時の遠隔作用がアスペの実験によって検証され、量子論が勝ったとのことである。実験の詳細は割合されているが知りたいものである。ボーアの言う「相補性」とは聞いたことがあるが、ボーアが古代中国の「陰陽思想」を象徴する太極拳の図を好んで使用したとは面白い。さて、「多世界解釈」であるが、『一個の電子の中で「それぞれの場所にいる状態が」が重なっているのではなく、「電子のそれじれの場所にいる世界」が重なっている(同時進行)しているわけです。』は非常に重要なすっきりとした考え方であると私は思う。

さて、デラックの真空という状態は、マイナスの電子で埋め尽くされた「海」になっているという「空孔理論」は面白い。最後であるが『量子論は「何もない」という状態を許さないのです。概念的にまたは哲学的な意味での「無・ゼロ」は、物理的にあり得ないということも、量子論が明らかにした真実の一つです。』という文章には愕然とした。時空がなくとも「無」はないとのことである。今までの無や真空の理解、特に「無」の理解ができなくなるのである。この「無」について考え方は重要であり、哲学的にも物理的にもこれからも調べ考え続けていきたい。

以上

2011年8月19日(金)
「生命の誕生に関する本」を読んで

大島泰朗著「生命の誕生 原始生物の物質の進化」を読んだが、その他にも二冊同様の本を読んだので感想を書いたものである。結論からいうと、大島泰朗の本が一番古いながら簡明に論理的で分かり良いし、「生命の誕生」に関する入門書としては最適だと思われる。引用は『 』で示している。

1) 伏見譲 責任編集「生命の起源 「物質の進化」から「生命の進化」へ」パリティブックス 丸善 2004年初版

内容は10の記事もしくは論文から成り立っている。結構専門的で数式なども含み生命現象の証明などを行っていて、本当に理解するためには熟読しなければならない。ただ内容は大島泰朗著「生命の誕生 原始生物の物質の進化」からほんの少しばかり進んでいるとしか思われない。生命誕生の謎解きには先の本が出版されてからの数十年の年月の経過は微々たるものであるのだろう。面白かったのは宇宙の「がらくた」分子から生まれたとする説である。原始地球の大気成分がミラーの実験時の成分と異なっていて、アミノ酸は生じにくく、地球圏外からやってきた隕石などに含まれる有機物から生命が誕生したということである。あと、RNAワールドを試験管内でつくるという記事である。たんぱく質の生体反応とDNAに保存する遺伝情報の中間体としてのRNA(以前私はDNAの遺伝情報の運び役と理解していた)が遺伝情報そのものを持っていて、生命機能を持つ最初の生体ポリマーではないかとの説である。まずたんぱく質の進化以前にRNAのみで構築された生命が存在し、次にRNAとタンパク質からなる世界が構築され、その後DNAが作られたというのである。

責任編集者伏見譲の言葉を借りると『情報のないところに生命はない。これと逆の命題、「生命のないところに情報はない」、は正しいだろうか。それは「情報」の定義によるだろう。この逆の命題が成立するような「情報」をもっぱら取り扱うことにすれば、生命の起源とは、情報の物理的起源にほかならないことになる。情報科学と物理科学が生命科学を媒介項として統合されることもありうるのである。』私は以前、生命の誕生とは秩序の形成、生殖とは情報の伝達と書いた記憶があり、納得させられるものである。そういえば、生命の進化を理解するでは、フォン・ノイマン(数学物理学者でノイマン型計算機の創設者)が生命現象を抽象化し、自己複製に系の安定度を踏まえ取り組んだ話をベースにした記事も掲載されている。一度は目を通しておきたい本でもある。

2) 中沢広基著 「生命の起源 地球が書いたシナリオ」 新日本出版社 2006年初版

この本は生命の起源を、表題の通りに原始地球との関連で捕えた新説である。ただ、1) にて示した本「生命の起源 「物質の進化」から「生命の進化」へ」と同様に、地球外有機物からの生命の誕生の可能性が記述されていたが、既に知っていたため驚きはしなかった。エントロピーに関する話が載っていて面白かったのである。生命が秩序の形成であるならエントロピーは下がる。ただ生命そのもの維持はエントロピーを増大させずにおかないはずである。宇宙では増加し(確かに増加しているはずだが器も膨張しているため今は少し疑問に思っている)、熱力学第二法則では『断熱系において不可逆変化が生じた場合、その系のエントロピー(原子や分子の「でたらめさの尺度」を表す)は増大する。』であり、なぜ生命体の維持がエントロピーを増大させないか疑問に思い続けていたその謎が解けたのである。中沢広基によると、シュレデンガーが『「生物は負のエントロピー食べて生きている」と考えて解決した。』と言っている。負とはエントロピーの小さなものを食べ、大きなものに変えて排出するための差を表わしているとのことである。即ち生命が生命体を維持するために増加するエントロピーを負の(小さな)エントロピーを摂取し排出することで減少させ、エントロピーの増加が物質を崩壊させて平衡状態とする現象とは、別種の安定性を獲得していると理解したい。ただ開放系の非平衡状態の話でもあり、植物が負のエントロピーを持つという良く分からない点もあり、生物のエントロピーの話はこの位にして、機会があれば別の本を読んで調べ直したい。

この本は『なぜ生命が発生し、生物が進化し続けるのか、増加し続けるのか』を解明することを目的としている。地球の成り立ちやその構造などを基本知識として説明し、その後原始生命の発生についての解説に向かう、分かりやすくかつ専門的な本でもある。結論から言えば、原始の地球の大気成分ではアミノ酸は生じない。隕石や小惑星の海洋衝突で発生する、高温・高圧・還元的な衝撃蒸気流の中で、多種・多様な「有機分子のビック・バン」が生じたとする。そしてこの有機分子は海の底の堆積物となるが、地球のプレートテクトロニクス理論による地層の移動によって上昇する圧力や温度が濃度を高め、高分子へと重合させたとするのである。結局生命は地中で発生したのちに海洋に出たとする。RNAワールド説に対しては、遺伝よりも代謝機構の成立が先であるとし、代謝先行仮説を支持し、代謝機構の鉱物起源説について説明する。そして、生命を宿すまでの分子の進化が地球のダイナミックな局面における自然選択であると結論づける。本書の今までと異なった生命の誕生説はここで終り、なぜ生物が進化し続けるかについては書かれていない。ただ、話として筋道は通っており理解もでき得るが、無論私にはこの考え方の正統性の判断など言えない。ただ生命誕生の謎解きは、これからも長く研究され続けるのであろう、とだけは確実に言うことができる。

注)08/012に偶然にも次のような記事があった。『(CNN) 米航空宇宙局(NASA)は、生命の設計図といわれるDNAの基となる物質が隕石から見つかったと発表した。宇宙からの隕石や彗星が、地球上の生命の形成を促す役割を果たした可能性があることを示すものだとしている。(CNN.co.jp)』

以上

2011年8月12日(金)
大島泰朗著「生命の誕生 原始生物の物質の進化」を読んで

この本は地球における生命の誕生を明快に説明しており、かつ著者の貴重な意見も加えており非常に参考になる良い本である。1973年の発行であるが、1992年には第22刷を発行している、人気のある本であるらしい。以前ニック・レーン著 斉藤隆央訳「生命の飛躍」を読んでそれなりに生命の起源を知っていたが、「存在」について考慮するために新たに何冊か生命の起源に関した本を読んでみたくなったのである。つまり、生命はなぜ誕生したのか、その目的は、なぜ自己を複製、即ち生殖するのか、これらなどに関して知りたかったのである。結論から言うと、生物とは秩序の始まりから生まれ、即ちエントロピーを一定または減少させる可逆過程とも考えられ得るとも思っている。

原始の地球ではメタン、アンモニア、水素の混合ガスがあったらしい。メタンとアンモニアからシアン化水素ができるなら、シアン化水素のカリウム塩は毒薬として有名な青酸カリであり、この毒薬を最初から試験室で使用することで、非常に速い時間で原始地球の生命の誕生を模擬することができるらしい。これらからアミノ酸や糖や塩基が生成される。ただ、これらは生命を作る部品であって、直ちに生命が誕生するのではない。

さて、生物とは何かと定義するのは厳密には難しいが総括的に言えば「エネルギー代謝」をすることが特性の一つだということである。すなわち『地球上の生物の一つ一つは、太陽エネルギーに支えられた一つながらの真珠のネックレスのなかの、一粒一粒の真珠のようなものだといえる。』という大島泰朗の言葉は美しい。『化学反応の立場から、化学進化、すなわち、生命の誕生へ至る過程を見ると、それは、雑多で能率の悪い初期の化学反応から、秩序だった生体内の化学反応へ、反応の質を転換していくことだ、といってよい。』という言葉は、生命の誕生は公然とした秩序を構築していく過程であることを示している。即ち生命とは先に述べた「代謝」、そして効率的化学反応を行う場所としての「細胞」、そして効率的化学反応を行う情報としての「遺伝」によって効率的な反応を行う系・システムなのである。

生物が誕生するにはアミノ酸や糖や塩基から高分子化合物としてのたんぱく質ができなければならない。アミノ酸からタンパク質ができあがるには、蓄積したアミノ酸が重合反応を起こしたこと、もう一つの考え方はアミノ酸が生ずる途中に現れる中間体が重合し変化した考え方もあるらしいが専門的なので除外。結局たんぱく質を作るアミノ酸は多数から二十種に限定され今の生物のたんぱく質ができており、地球上に生命は共通の祖先から分かれたらしい。なおアミノ酸にはD型とL型があり、これらは分子構造が鏡像関係にあると思えば良い、一方の型のみから作られる不整合成になったとのことである。地球上の生命のアミノ酸はL型からのみ作られている。この原因は光の偏光性との関係が指摘されている。核酸も同様に作られたと考えられている。なお核酸は生物の自己複製機能に関連しているが、D型とL型が混じっていればらせん構造を取れない。きっと原始にはD型とL型がL型に少し偏っていて、それが広がっていったものと考えられている。従って、地球外にはD型の構造を持つ生物がいてもいいのである。

これらの生じた原始たんぱく質は触媒活性化学の進化に大きな影響を与える。たとえばリン酸エステル結合であるATPはエネルギーの放出・貯蔵、また、物質の代謝・合成に重要な役目を果たすが、原始の池に安定して存在していたはずである。これがたんぱく質の触媒作業によって分解される。即ち『つまり有機物の運命は、有機物が握るようになったのである。原始たんぱく質による触媒作用の出現は、地球上における有機物の“独立宣言”だといってよい。・・こうして、有機物は池の中の安眠からめざめ、最初の生命の誕生に向かってかりたてられるのである。』こうして細胞の起源としてたんぱく質のコロイド分子が多く集まってできたとする「コアセルベード」が考えられ、この中にて代謝することも確かめられている。ミクロスフェアいうと原始細胞モデルもある。リボソーム(細胞内でたんぱく質の合成を行う工場)は確認されていない。いずれにせよ池か粘土にて、粘土は生物の含むカリウムを多く含む、海はナトリウムが多すぎるため考えられず、原始の細胞は原始細胞のモデルが細胞膜を作ることを覚えてできあがったのだろう。

さて、自己複製機能であるが、核酸は親が子に送ったこういうたんぱく質を作りなさいという通信文なのである。この通信文は三文字の生物言語である。無論一文字を間違うと突然変異ができる。核酸とタンパク質の出会いが生命誕生と言える。ただ、たんぱく質そのものによるたんぱく質の情報から、もしくはたんぱく質を組み立てる情報をもつ核酸が原始生命の母体になったとも考えられる。いずれにせよ、原始地球上での化学反応によって細胞が生まれ、生命が誕生したのである。きっと効率の悪い化学反応が時間の経過に従って改善されて秩序が次第に高度に形成されていったのである。生物とは目的や意志などとは無関係にある偶然的な出来事で形成され高度化した秩序である。生殖とは秩序を維持するための通信であうということができるであろう。従って、存在とは非生物も人間も含めた生物も秩序の構築された結果というのが基本源泉である。それがどうして秩序を維持できるのか、もしや秩序を乱しているのか、秩序を乱すについての定義はまた別に考えるとして、それは構成物たる生命に内在する原因とも思われるが、次の機会にでもできれば調べ考えたい。

以上

2011年8月5日(金)
佐々木健一著「美学への招待」を読んで

哲学者の紹介の本を読んでいて、ちょいと美学に興味を抱き読んだ本である。どうも哲学者はそれぞれに芸術には否定的であるか、肯定的であるか半ば拮抗しているように思われる。ハイデッカーは実存を開示させるのが芸術と言っていて、例としてムンクの「叫び」などを上げているようだが、一方では存在は開示され得ないとも言っているのであるから、芸術はない即ち美は無いといっているに等しいのかもしれない。一方忘れたが積極的に芸術の美について説く哲学者もいたはずである。本書からの引用は、『 』で示している。

さて、この「美学への招待」は美学の周辺を語りながら美学そのものへ近づこうとしている著者の思いが伝わってくる良い本である。ただ、内容が簡単すぎて少し冗長な点と結論がありきたりである欠点を除けば、定義の難しい「美学」がなんたるかを広範囲な知識をもとに易しく語られている入門書としては打ってつけの本であろう。最初は佐々木健一の意見に賛成することが多い。美概念、美範疇など。更に『美学と言えるためには、美と藝術と感性についての哲学的である、というだけで十分です。』まさしく美は感性(彼はこの感性という言葉を彼の言葉にて定義する)の問題であり感性学なのである。美概念、美範疇として、一番分かりよいのがデシャンの「泉」(便器のこと)、ウォーホルの「マリリン」であろう。美の定義が揺らぐのが実感できる。更に彼はミュージアム、コピー、身体などを語るが省略。『藝術においては、永遠で変化しないものがあると同時に、新しさが必要であり、この両者は矛盾するものではない、という考え方です。』藝術は新しさを求めその新しさがすぐに理解され得るものではないことも彼は言っている。そして確かに美学は美学を行うことによって成り立つと佐々木健一は言う。哲学が哲学を行うことによって成り立つのと同様である。

さてここからは私の反対意見である。佐々木健一は日本語の「美」に西洋と同様に『華やかで、感嘆を誘うもの』の意味合いをはらんでいるとのことであるが、確かにそうでもあり得るが『華やかで、感嘆を誘うもの』以外の日本的な簡素・簡明な美の特質も付け加えたい。更に大きな問題は、次のように彼が言うことである。『「人間を越える美学」の概念は、・・人間中心主義に立つ近代文明のその本質を、批判の対象とします。』最初この文章を読んだときには、安易なヒューマニズムの否定と理解したが、全く異なっていて著者は環境と自然破壊の問題と断定している。『人間以上に偉大なものが存在することをわきまえることです。それが美学と結びつくのは、美がそのようなものだからです。』即ち『大自然の美に触れるとき、われわれは自らの矮小さを認め、それに愉悦を覚えます。』この結論は、美の、美学としての結論を放棄していると私は思う。われわれは矮小でも偉大でもない、ただ単に人間であるだけである。「人間を越える美学」など在り得るのだろうか。宗教家が言うような言葉である。たぶん先ほどの美とは『華やかで、感嘆を誘うもの』とも矛盾するし、サン・パウロ女子修道院の天井画を飾った部屋に足を踏み入れた途端に恍惚となった彼の体験とも矛盾する。たぶん美とはこのようなうっとりと恍惚に、忘我状態になる対象に存在すると思われるのである。即ち佐々木健一は近代という社会における美と社会状況と理想の境地とを絡み合わせて混乱した話を行っているのだろう。それだけ美の定義は難しいと思われる。

きっと美は純粋に美そのものについて、きっと存在論・認識論・感性論から定義を始めなければならないのだろう。そしてこの本は近代から記述しているが、本来的な美はラスコーの壁画からの儀式的な呪術的な素描から始まっていうのが私の意見である。最初にも若干書いたが、この本は最後にはありきたりにも、安易にも美の定義として「宇宙的(宇宙論的)な美」を目指すことを結論としている。哲学で「宇宙論的」というのは人間を取り巻くひろがりの全体、例えば神のような無限の実体を指すはずである。彼にとって美とは神のようなひろがりを持つ自然なのだろうか。それはそれでも良いが、私には納得できない。だがこの本は美学に関するさまざまな周辺事項を記載していて入門書としては著者の目的を達成していると思われる。他の本では、たぶん今読んでいる竹内敏夫著「現代藝術の美学」が良い。読んでいる途中であるが、サルトルのジュネ論まではたどり着こうと思っている。あと渡邊二郎の「藝術の哲学」などか。カント、ヘーゲルなどの美学に関する哲学者の著作を読んでみるのも面白いかもしれない。カントは美学の始祖でもあったらしい。

以上

2011年8月1日(月)
阿部ねり著「阿部公房伝」を読んで

阿部公房とは懐かしい。昔、結構読んでいたはずである。「砂の女」が一番記憶にある。あと「燃えつきた地図」、「箱男」とか。阿部公房の作品はいわゆる日本の文学の系統から少し外れていて、通常観念小説と呼ばれるのだろう、でも埴谷雄高みたいに直球ではなくて、日本の昔話のような寓話性を主にした取っ付きやすい小説だと思っている。伝記などはあまり好きではないが、阿部公房の懐かしさに読んでみた感想文である。

阿部公房が詩を書いていたとは知らなかった。「無名詩集」は飾り気なしに素直に感情が現れていて良い詩だと思う。売れ残りがまだ十何冊残っているとのことであるが出来れば読んでみたい。全集に載っているのだろうか・・。

そういえば、つまらない事であるが本書に書かれていて間違っていると思われる点をあげる。平家物語の「沙羅双樹の花の色」の話で「盛者必衰」をあらわすのは釈迦が死んだときに、沙羅双樹が白く変色した由来からきているのが言われるように定説であるが、数年前疑問に思って調べたことがある。涅槃に入るものと盛者とは無関係と思ったからである。どうも釈迦の居る部屋の四方に二本ずつある沙羅双樹の木が、それぞれ一本ずつ白く変色となど諸説あるが、この説では生と死の両方を表わしているとも言われる。またインドの沙羅双樹は日本では育たたないらしい、即ち日本とインドでは沙羅双樹の花は種類が異なるとのことである。日本での沙羅双樹は「ナツツバキ」とも言われ、「ナツツバキ」は朝に白い花を咲かせて夕べに散るとのことである。結局1)平家物語の作者が釈迦の死を「盛者の死」と取り違えたか、2)沙羅双樹が日本の沙羅双樹を示しているのか、分からなくなった記憶がある。どうも2)が正解らしい。またGPSにおける相対性理論による誤差補正の話であるが、本書に記述されている通りに、誤差11メートルならば相対性理論による補正を行った後の通常発生するGPSの誤差範囲である。この最終的な誤差は位置の分かっている固定された基準局を設けて、もっと精度をあげる方法もある。相対性理論による時間の誤差であるが、衛星は毎秒数キロメータの速度で移動するため、かつ地球の重力場の影響もあるが、速度による時間の誤差は小さくマイクロ秒/日程度であると思われる。それに比較し重力場による誤差は数十マイクロ秒/日と大きく、きっと1両者合わせて、距離に換算して10キロメータのオーダー前後の誤差になると思われる。なお、特殊相対性理論に基づく速度による誤差は時間が遅れ、一般相対性理論に基づく重力場の影響による誤差は時間を進ませる。もう死んだ優しいお父さんは幽霊になって出もしない限り二度と説明してくれないに違いない。

話は変わるが、実は何十年も前から、阿部公房はサミュエル・ベッケトの影響を受けているのではないかとの秘めた思いがあって、というのは阿部公房にベケットに似た作品の発想があると確信していたのである。今回、阿部公房がベッケトを評価している発言が記載されていてこの確信を深めている。ただ、小説を記述する際の発想は読んだ多数の小説などの影響を受けて複雑に絡まっているはずであり、どの程度影響を受けたのか、本当に影響を受けた作品があるのかは今後の文芸評論家の調査を待ちたい。三島由紀夫と仲が良かったらしいが、よく分かる。右と左の反対方向に向いているように思われる二人であるが、あうんの呼吸で無駄話と小難しい話の両方をできる人はそういないのである。仲が良いはずである。天才は天才だけが知るということだろうか、この事実は通常なる人でも知り得ることである。

以上

2011年7月15日(金)
「人と思想」を読んで(続編)

以前の日記に書いた文章をそのまま序文として引用する。『Century Books「人と思想」における哲学者を読んだ感想文というより、メモ書きである。この紹介文書を読んだのは、哲学書そのものを読むより、短時間で手軽に哲学者の思想の概略を知ることができるためである。そして、その結果、詳細に調べるべき哲学者を選択できるためである。』全くその通りである。なお『 』は「人と思想」の本文からの引用を示している。

1) ヒューム 泉谷周三郎著
ヒュームは1704年生まれの哲学者である。著作物は当時ほとんど注目されなかったらしいが、近年多角的でかつ体系化された彼の思想が注目を集め研究されているようだ。著者の本書の初めに書かれた文章がヒュームの思想の中心を表わしているようだ。『「原因と結果に関するわれわれの推論のすべては、習慣のみに由来する。また信念とは、われわれの本性の知的部分の働きというよりむしろ情的部分の働きである。」』きっとヒュームの主要著作「人性論」からの抜粋であろう。知的というより情的とヒュームは主張し思想を展開するのである。アダム=スミスと友人だったとは知らなかった。どうりで著書が経済から政治にまで思想の範囲が広がっていることが分かる。

泉谷周三郎は廣松渉の話として『現代哲学がヘーゲルのところからでてきたことを認めながら、デカルトに始まる近代哲学は、ヒュームが主客図式の自己否定にまで行きついたことで一応終わっているとし、もう一度同じ図式の主客図式を位相を変えてやり直したのが、カントからヘーゲルまでの展開であると主張している。』と述べているのはとても興味深い。今まで何人もの哲学者の紹介本を読んできたが、同じ単語が用いられその単語が繰り返されながらも思想が変化し姿を変えていく例を幾度も見ている。「差異」などもそうである。約2000年以上の哲学の歴史が流れているのを感じて驚嘆するというより、なにが明らかにされなければならないのか分からなくなってきている。というより逆に矛盾するが、明らかにされなければならない問題が浮かびつつある、哲学のイメージが私の頭の中にはっきりはしないが少し形を成し渦を巻き始めた感じがする。

2) フッサール
どうも哲学を始めるには、フッサールの現象学を知らなければならないと思い読んだ本である。ハイデッカーもサルトルなども現象学の思考方法を取り入れ、かつ現象学を批判することから始まっているからである。まず、フッサールは数学・論理学の専門家でありながら、論理学以前の、論理学が成立する認識−思考について「論理学研究」にて考慮し批判する。即ち副題が示すように「現象学と認識論のための研究」である。フッサールの現象学の有名な言葉に『「ものそのものへ」つまり還元と「意識はすべて何かあるものについての意識である」という志向性がある。』と記述が、彼の現象学的基本態度を表わしているのである。即ち、『人は自分自身の経験から始めるしかない。・・自分の経験とは自分の意識経験のことである。これが根本的な始まりである。・・純粋な意識あるいは意識経験に還って(現象学的還元)、その意識経験の様々な本質構造が記述(観察)、分析されなければならない(本質学)。すべてのものは私の経験を通して私に与えられ、現れるのであるが、私にとってのこの現れ、与えられる様を現象というのである。』

通常現象学は三段階に分けられている。また言葉としての記号、他者問題、科学の意味の再構成、生活世界などについて記述しているが、長くなるのでかつ理解の難しい所もあり、省略。ハイデッカーとの思想方向の違いが鮮明になってきたのにも拘わらず、フッサールはハイデッカーを後任教授に推薦する。どうも意識の絶対的権利を主張する超越論的現象学にハイデッカーはついていけなかったらしい。両者ともユダヤ人であるが、ハイデッカーはナチス側にあり、フッサールの晩年は孤独に執筆作業を行うが、死後速記されたフッサールの多量の原稿は弟子たちによって周到にドイツ国外に運び出されたらしい。二十世紀はユダヤ人以外の哲学者にも哲学者以外にもある種の暗い影・没落のイメージがあるように思われる。無論例外はあるが・・。

3) カント
カントは当時の哲学者の例に漏れず自然科学の知識も豊富であり、最初の代表的論文「天体の一般的な自然史と理論」では宇宙の構造および起源について記述している。一生独身で、時計のように規則正しい生活を送ったらしい。ただ社交家であって大勢の人と交際があったとのことである。カントの代表作としては「純粋理性批判、「実戦理性批判」、「判断力批判」の三批判書を発表し、批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらしたとされている。この三批判書は「我々は何を知りうるか」、「我々は何をなしうるか」、「我々は何を欲しうるか」という人間学の根本的な問いに基づいて書かれているともいう。従ってカントは人間学について追及したとも言われる。

「コペルニクス的転回」とは、外的な対象があってそれに「われ」の知が従うのではなくて、考える「われ」が対象や経験的世界を可能にするのだという立場を徹底する。そして創造する神の知は素材の創造はなしえても、人間はその素材の源泉、本質はなんであるか分からない。そこに人間の限界、人間の知の限界があるのである。こうしてカントは『根源としての自我(自意識)は、思考能力としての悟性、直感能力としての感性を働かせて、自然を、経験的世界を、対象を構成していったのである。』従って人間の能力の限界を越えた理論的に認識できるとする古い形而上学は、こうして否定されなければならなかった。人間は悟性的な認識を対象化し統一しようとして、カントはこれを「理性」とよぶ。そしてカントは道徳原理を述べるのである。自然の最終目的を「文化」といい、国家の平和論を述べるカントはまさに生涯を賭して人間学を歩み続けていたに違いない。

4) ニーチェ
ニーチェとは懐かしい。確か昔一部読んだ記憶があるからである。この本を読んで感じたのは、ニーチェはニヒリズムを克服し「超人」を生み出しては、ダイナミックな生へと回帰しようとする肯定的な思想家ではないかということである。その無上の生への回帰故に徹底して価値やキリスト教を批判し否定し破壊しなければなかったのである。もう忘れてしまったがドゥルーズも同じように感じていたようにも思う。ニーチェは「正午の哲学」を目指していたのである。またこの本を読むとニーチェは人懐っこい性格をしていて、裏切られては傷つけられていたらしい。生前中に彼の著作物は、中傷は浴びても評価されることはなかったらしい。ただ、晩年だけは結構な印税が入り、狂気とともにありながらも静かに暮らせたようである。

『永劫回帰の思想のみが、生成の各瞬間を存在につなぐことによって、あらゆる生の現実そのものを永遠化し、存在の秩序の中心たらしめることができるのである。それはまた、現在の瞬間において過去と未来を一つの円環につなぎ合わせることによって、過ぎ去れる過去の必然をも可能化することができ、また逆に、まだ来ぬ将来の可能性をも必然化することができるのである。』この永劫回帰により現れるものに差異はなく同じに現れるのである。そして『ニーチェは、こうした決断の生を生きることを「運命愛」と名づけた。』また、ニーチェの道徳は階序を求める。卑賤・汎俗と高貴に「距離の感覚」で階序を求める。本書に引用されている彼の書いた文章は詩的な文章が多い。キルケゴールと同様に、もう一度読んでみたいものである。ただ彼の思想がもう古いのか、回帰してまた戻ってくるのか見定めは難しいが、示唆されることは多いはずである。

さて、だいぶ哲学者の紹介文を読んできた。これからは哲学書そのものも読んでいきたい。私なりの哲学的なイメージを固めるために記述も行っていきたい。6章、42節からなる目次の素案ができあがっていても、書き始めるのは当分先のことになるであろう。たぶん書きながら修正・追加しできあがるのは、何年も先の話になるはずである。きっとあと十年生きていれば、それなりの哲学書ではなく「眠る魚の思い」などと題して綴った、訳の分からない詩小説的な思索編が3〜400頁ほどできあがるかもしれない。

以上

2011年7月3日(日)
朝吹真理子著「きことわ」を読んで

さっと読んでどう感想文を書こうかと思案している。欠点が多数あるが、良い点もあるのである。その良い点・長所も資質として潜在的に秘められているだけであって、この小説ではあまり生かされていない。今後の小説に活かされるのかも疑問である。簡単に率直に感想文を書いてしまう。

たぶん、「きことわ」とは貴子(きこ)と永遠子(とわこ)から取って名づけたものなのだろう。昔遊んだ別荘の主?の娘と管理人の娘の、別荘を売り払う段になっての過去の思い出と現在の現在の出来事が、それぞれの長い25年との経緯を含めて、時間を横断して語られる。物語性も殆どない。冒頭に語られる二人の「夢をみる」、「夢をみない」がどう展開されるか気に掛ったが、本小説の物語とはなんら関係がないと思われる、つまり展開することに失敗している。そして、作者も含めて、三人の時間的な感覚がどうにも不分明である。だが、良いと思うのは、作者の時間という概念を取り上げ、この難解なテーマをこなし切れずとも冷静に書いている姿そのものである。物語性が希薄であるそのものである。でもこの思いは極めて通常的であって、今後の小説に活かされるのかは疑問であるが、こうしたチャレンジ精神は評価されるべきである。また、二人の女の指や髪が溶け込む場面は好い。

欠点は多数あると述べたが、何点か取り上げると、文章がちぎれている。何を書こうかとその場しのぎで題材を見つけてきた感があり(チェス、楽譜、心臓病などの題材は継続しており除外)、また文章そのものが伸びを欠いていてあまり読む気が起こらない。更に会話文が単語を一つ二つ並べただけであり、会話が成り立っていない。これは時間性をテーマにした作者の意図なのかもしれないが、読者には受け入れ難い。もっと異なった読み応えのある手法も考えられる。また、地球の生命の歴史を記述することも避けた方がいい。地層を見つけ出すのはいいが、3億5千万年は突飛過ぎて何を言いたいのか分からない。即ち、テーマが大きすぎて作者は自分がどう書くのか全く消化し切れていない。過去に有名になった作家の処女作を思い出すと、テーマは単純明快であって、なおかつ文章の余白が意味や余韻を重ね持っていたような気がする。まあ、作品はそれぞれの人の好みによるものであるが・・、これからも彼女の小説を読むかは不明である。

以上

2011年6月29日(水)
「ドゥルーズなど哲学者の紹介本」を読んで

各種ドゥルーズなどの哲学者に関する紹介本を読んだ感想を簡潔に記述する。たくさん読んだので混同し少し間違っている記述もあるかもしれない。

1) 船木亨著「ドゥルーズ」 清水書院 人と思想123 1994年初版
歴史・哲学的背景から始まり、「アンチ・エディプス」を中心としてドゥルーズの思想を展開する。記述内容は分かりやすいが、20年近く昔の本とあって解釈が平板のような気がする。最初に読むには良いのかもしれない。「欲望する機械」などのドゥルーズ独特の言葉が理解できた気がしてくる。巻末に関連文書、年表も記載されていて、参考になる。

2) 檜垣立哉「ドゥルーズ入門」 筑摩書房 ちくま新書 2009年初版
入門書というより檜垣立哉独自のドゥルーズ論を展開していると思われる。ドゥルーズの「差異と反復」、「意味の論理学」の二つの著書、即ちドゥルーズの前半生の思想の紹介であり、後の思想は今後書くということで、残念である。ただ、「俯瞰」としての捉え方、「潜在性」や「システム論」は非常に納得がいく。言葉が定義なく使われている、文章が少し飛んでいるなどの欠陥があるが、檜垣立哉の論理に挑戦しようとする人には最適である。関連文書、簡単な年表も記載されている。

3) 宇野邦一著「ドゥルーズ流体の哲学」 講談社 2001年初版
昔、宇野邦一の翻訳書にはずいぶんお世話になった。彼がドゥルーズの指導を受けていたことなど経歴については何一つ知らなかった。本書はドゥルーズの主要著書を通じて、ドゥルーズの思想を明快に平易に解き明かしている、格好の入門書である。ドゥルーズの私的生活(自殺や講義時の語り口などを)を客観的な事実として捉えて静謐に記述する文章は詩的な感動すら呼び込んでくる、本当に好い本である。ただ、参考文書が少し手薄な感じがするが、ぜひ手元に置きたい一冊である。

4) 檜垣立哉「フーコー講義」河出ブックス 現代思想の現在 2010年初版
同じ著者の「ドゥルーズ入門」よりは分かりやすい。著者の意識的な記述方法の変更のためであろう。ドゥルーズよりもフーコーの哲学の方が理解しやすい点も考えられる。ただ、本文やあとがきを読むと著者の文章の硬直性がみられ説明文的である点には変わりはない。人と思想のドゥルーズ論では忘れていた、「生権力」や「人口の生政治」などを思い出したのは良い。第八講義「フーコー以降のフーコー」も明快に捉えられていて良い。『このあとなされるべき作業・・「人間」なきあとの「自己」の議論であり、「人間」ではない「自己」を問うものである。』は意味深い感がある。

5)  檜垣立哉「ドゥルーズ 解けない問いを生きる」 NHK出版 シリーズ・哲学のエッセンス 2002年初版
100頁足らずの薄い本であるが読み応えのある好い本である。著者の考え方が的確にまとまっている。檜垣立哉はこの本を書いたがために、ちくま書房では難解な内容になったのではないのか。解けない問いがあらわになってくる哲学やこの時代を述べることから始まって、世界は解けない問いであるとするドゥルーズ哲学の世界の捉え方、卵・生成する流れの論理・潜在性・理念と内在などなどか語られていく。興味深いのはポジティヴィストとしてのドゥルーズ、特に生命の哲学者としてのドゥルーズである。生―権力を論じるフーコーとの共振や端的に不在と論じるデリダとの思想の違いなども踏まえながら論じている。著者の圧倒する把握の仕方には感嘆する。ドゥルーズ小伝や読者案内もあり、ぜひ一冊手元に置きたい本である。

6) J.-L.ヴィエイヤール=バロン著 上村博訳 「ベルクソン」文庫クセジュ 白水社 1993年初版
この本を読んだのはベルクソンの思想を知りたかったためである。約140頁の薄い本であるが、文章も好く内容も濃いものになっていて、初期の目的は達成できたはずである。時代のなかのベルクソンを語り、次いで思想を、最後に「方法と繰り返される主題」について順序良く語っている。言葉の定義では「持続」とは自己のなかでも空間内でも同一であるようなさまざまな時間的区切りのない『連なりであり、相互に浸透した多重性であり、そこではおのおの要素は他の要素と連帯していて、そしておのおのが意識を代表するものである。』また『記憶は過去が現在のうちに現前していることを、それと気づかれると否とにかかわらず、指示しているのである。』更に『笑いは、夢と現実とのあいだの、また、自動運動と生命とのあいだの調和から生じる。』ベルグソンの重要な思想は『生命を意識のモデルによって考えること。つまり、生命を「変化の連続、現在における過去の保存、真の持続」として、またさらには「発明」、「絶え間ない想像」として考えることである。』

7) ジェフ・コリンズ著 ビル・メイブリン絵 鈴木圭介訳 「デリダ」 ちくま学芸文庫 筑摩書房2008年初版
劇画タッチの文章に漫画絵はとても分かりにくい。デリダが「脱構築」「差延」の概念を述べているそれだけを知って、いらぬ先入観が入らぬよう?一分間で読むのを止める。やはり文章だけの本を慣れ親しんだ者には劇画調の本は読めないものである。なぜこうした劇画タッチの本を発行したのか、デリダの思想と関係あるのか、分からないのである。

8) フランソワ・ズーラビクヴィリ著 小沢秋広訳 「ドゥルーズ・ひとつの出来事の哲学」
河出書房新社 1997年初版
気鋭の哲学者に信念を持った翻訳者による好い本である。今まで読んだ本に比較し相当に難しいが、論理に詩を加えたような文章が、ドゥルーズを熱く伝えようとする姿勢が良いのである。ドゥルーズの死ぬ前年に発行されている。著者は結論において、『ドゥルーズの中心テーマを出来事とするひとつの考えへの導入と、・・ドゥルーズの考えの抽象レベルでの起動力を外(異質性、関係の外在性)と折り込み(折り、包み込みー包み開き、潜勢的折り合わせ)の中に見出せるとした。・・論理上の運動を抽出することだった。』と本書の目的を述べている。一方訳者も『上手に説明できるという「知の意志」によって語られるドゥルーズ哲学に、わたしたちは無残なものしか感じられない。』と強い意志を述べている。ドゥルーズ自身の著書を読んでいないため、彼らの考えに何も言えないが、ただ直感的には彼らの考えは正しいのではないかと思っている。

9) 林好夫 廣瀬浩司著 「知の教科書 デリダ」講談社選書メチエ259 2003年初版発行
項目に分けて書くことは分かりやすく理解するためである。テクスト(原文)にエクチュール(書かれたこと)をすべてとするデリダの否定語の多い分かり難いテクストはまだ読んでいないために何とも言えないが、分かりやすく章立て・項目分けして説明することはデリダの思想を裁断化して切り捨てることではない。主要な思想を項目ごとに関連付けてダイナミックに魅力的に展開することが最大の目的である。そのように記述している哲学者の紹介本もたくさんあり、原書を読んでみようかという気も起ってくる。そういう意味からすれば、本書は教科書的に思想を切り捨て、用語等に分断化し小奇麗に纏めたテクストである。最後に「知の問題」があってまるで試験である。8問あって回答は1問も浮かばなかった。問題は自分で探してくるものである。試験は嫌いなのである。ただ、「デリダを読むためのブックガイド」は今までの本とは比べようがないほど丁寧に書かれていて参考になる。

10) ニコラス・ロイル著 田崎英明訳 「ジャック・デリダ」 青土社 現代思想ガイドブック 2006年初版
「知の教科書 デリダ」とは対象的に、章立て・項目分けしながらもダイナミックにデリダの思想を展開している、良い本である。ただダイナミックさが少し過剰すぎて波しぶきを浴びる船に乗ったような気がするが、デリダの思想が直に伝わってくる。即ち、「脱構築」などを主体とするデリダの思想が著者の絶えず問いかけ答えようとする文章の中に潜んでいて、読者そのものが著者のエクチュールを解釈し続けて理解に到達するような気がするのである。「読書案内」で書かれているデリダに関する本は今まで読んだ中では一番豊富である。

以上

2011年6月25日(土)
西谷啓治著「西田幾多郎」を読んで

西谷啓治は、西田幾多郎の人と思想を個人的な想念から書いたと「まへがき」で謙遜しているが、私には西田哲学を知る上でとても役に立った本である。西田幾多郎の個人像も浮かび上がってくる。中学教師などをしていてだいぶ苦労があったらしい。でも苦難にもめげず哲学者特有に頑固一徹であったようだ。「善の研究」を読み西田哲学を知ろうとしている者にはさあ〜とでも目を通しておいた方が、後が分かり良いと思われる。なお、私は「善」をなぜか「禅」と誤解していたがどうやら『先生には最後まで、自分の哲学が先生自身における禪の展開であり、禪の精神の新しい発揮であるという信念があったと思ふ。』とのことである。以下、おもな言葉の定義を抜き出して感想文としたいが省略する。

「純粋経験」「主観的自己」「絶対矛盾的自己同一」などなど。

どうも西田哲学はヘーゲル哲学を批判しながらも、仏教思想と西洋哲学を融合した独自の境地にあったらしい。田辺哲学からは非現実的との批判を受けているようである。「無の境地」を哲学論理化した純粋経験論、即ち『事実と認識の間に一毫の間隙がない。・・』については良く分からない。そもそも純粋とはいったい何なんだろうか、純粋、ピュアとは有り得るのだろうか。純粋が在るとすること自体疑うべきなことなのではないだろうか。今この日記を掲載するにあったて以前書いた文章を加筆、修正しているが、「善の研究」の本は手元にあるとも読む意志が失われてきている。他によむべき本がたくさんあるというより、読むべき価値を疑っているのである。たぶん、さっと目を通すか優先度を落とすということになるであう。

以上

2011年6月21日(火)
辺見庸著「生首」を読んで

初なんかで2、3作品読んだときには、良い詩だなと思っていた。ところが、この詩集を手にして全作品を通読すると、だんだん読むのが苦痛になり嫌になってきている。つまりは、ありきたりの旧来型の詩を脱していない、普通の詩だという印象である。一部の若い女の子の方がよっぽど良い詩を書いている。たぶん良い詩とは精神の感受性に裏付けされてはいるが、この感受性に捕えられた精神や風景を直接的に描かずに、浮遊し捕えがたい言葉をうまく利用しながら、空虚でも事実でもいい言葉による表わしえる世界そのものを繊細にかつ大胆に詩的な表現に収めた詩である。つまり私など私の外にいて見えずに何ごとにも関与せずと思わせながら、実は巧妙に私の思いを込めた感性や観念を風景や精神を述べる言葉のうちに密やかに忍ばせたものである。この詩集にはこれらが欠けているのだろう。ただ前のめりする果敢な精神だけはあるが、細かい言葉使いや表現が洗練されていないと私には思われる。手短に何点か感想を書きたい。

1) どうも文章が説明文になっていて、色も形もない。いままで結構詩集を読んで感想文を書いた記憶があるが、良いと思う詩集には文章に色と形があって、艶というかある種のリズムと滑らかさがある。この滑らかさは否定や肯定、生と死、死骸と天使などなど美醜問わずに対象を描いていながら、思わずに感嘆してしまう表現力の豊かな文章なのである。少しまどろっこしい説明文が多いこの詩集は滑らかさを意識的に削いだのではなくて、本来的な素の文章のような気がする。

2) 著者の立場が不鮮明である、というより混乱していて一貫していない。つまり自分を否定し客体化して書いていると思えば、主観的な自分の思いも描いている。通常詩とは主観的な立場の私が描いているが、その私が客体化された「私の生首」を見ていてもいいいが、主観を越えなければならない。私が「一部の若い女の子の方がよっぽど良い詩を書いている」と書いたのは、この主観を越えて客体化した私なども居ずに描いていて、艶のある滑らかな文章なのである。きっと一番良い詩とは、主観や客観という地平線を乗り越えた、もしくはそれらとは無関係に、どこからともなく情念や観念だけが浮き彫りになって擦り寄い絡まって来て離れないしなやかな詩なのであろうと私は思っている。

3) 前にも書いたように、言葉そのものを対象にして詩を書くのは、私は嫌いなのである。どうも著者は言葉、国家、規律などに関心があるようだが、できればフーコー、ドゥルーズ、デリダの思想を踏み台にして普遍化した現在の状況や思いを詩に書けばもっと分かりよかったのではないか。とうより彼が捕えた現実や思いをもっともっと普遍化し哲学化すればよかったのではないかと思うのは私の独断であろうか・・。詩が哲学のインスピレーションであるなら彼から得られる思想はあまりない。きっと彼は現実が悲惨である、精神は狂気を冷静に見詰めているというようなことを述べたいのであると思われる。

以上もっと普遍化した、言葉を変えるならば抒情と風景を追い払ったこの地の地平線の彼方から詩を書かなければならない。すると海の向こうの水平線の彼方から抒情や風景や思想が微かに匂ってくるのである、聞こえて、見えてくるのである。以上私の詩に対する漠とした思いを述べすぎたかもしれない。ただ、詩を書く人は誰でも詩人である。批評は受けるのは確かな詩人である証拠でもあるが、各詩人の力量には厳然たる差異があるのは事実であり、この差異を埋めることができない、飛び越えられないのが現実なのかもしれない。更に感想を書く者その者の力量にも厳然たる差異があり、勝手気ままに思いつくままに感想を書いている者がいるのもまた事実である。

以上

2011年6月16日(木)
今道友信著「未来を創る倫理学 エコエティカ」を読んで

どうも哲学書というより、網羅的に思想を記述した随筆集の感じがする。でも、きっと長年暖めていた思想を開示した哲学書なのだろう。哲学が倫理学へ向かうとどこかで読んだ記憶があるが、その流れに沿った哲学的な倫理学であるのか、私には判断がつきかねる。ただ、はっきりしているのは、著者の今道友信は未来への希望を託しているという点である、本書を貫いている考えは四つの枢要徳と三つの宗教的徳を通じて徳目を通じた価値を創造しなければならない、その結果未来が切り開けるというその一点につきる。

まず、目次を見て驚く。哲学で取り扱わなければならない諸問題がたぶん殆ど取り上げられている。これら全部について、自説を詳細に展開するには相当程度の分量の文章が必要と思われる。そういう意味では本書は単に徳が必要だと説いているにすぎずに、それ以上の見解は記述されていないと私には思われる。従って、過去の哲学を乗り越えた新しい哲学・倫理学を本書は示してはいない。「網羅的に思想を記述した随筆集の感じがする」と述べたのはそのためである。

エコエティカとは「人類全体の生活圏(エコ)」を守るための「倫理学(エティカ)」である。エコエティカを道徳・徳目を通じて構築し思想しなければならないと著者は説く。では、どうすればよいのか結論は先にも言ったように道徳が必要だと以外は何も書かれていない。引用されているカントの「判断力批判」は確かに道徳を基盤にしているが、この思想そのものが現代においては批判されるべきであると思われる。「道徳的実存の向上」など本当になされ得るかは、はなはだ疑問である。人間は道徳悪を含むものというカントの考え化を踏まえたとも思われる文章『今や人間の敵は、二種類に絞る込むことができよう。すなわち、人間の第一の敵は、同じ種である他の人間であり、もう一つは肉眼では見えない危険な微生物である。この二つにのうち、人間にとって最も恐ろしい敵が人間である。』は非常に納得できる。では、こうした状況を抜け出すことができるのか。まず、理性を論じて認識や判断がまさに出来得るのかどうか、この点から話を進めて欲しかったのである。解決策として出された徳目とは理性を信じた極端に言うと妄想、性善説にすぎないのではないだろうか、そういう思いを拭い去ることができないのである。消える人間や終焉論を唱えるフーコーや身体を中心に据えて未来への潜越性に着目し、広範囲な社会システムを論じるドウルーズの方が今の私の考え方に近い。いや、何よりも人間に対して洞察が鋭いのが哲学者たるフロイトであり、ヒュームであると思っている。

以上

2011年6月10日(金)
岡ノ谷一夫・小川洋子著「言葉の誕生を科学する」を読んで

岡ノ谷一夫・小川洋子の言葉や心がどうして生まれたのかなどなどについての対談集である。簡単に読めながら、岡ノ谷一夫の科学的な知識が結構新しい見方・学説を紹介してくれる。鳥の囀りやクジラの求愛の歌が、つまり「言葉」は「歌」からうまれたとすり「さえずり起源説」など、いろんな「・・・説」が登場する。

面白く感じたのが、岡ノ谷一夫が言う物理学者フェルミの唱えた「フェルミのパラドックス」の悲惨な解き方、解の一つが「言語を持ってしまうと滅びる」ということらしい。『言葉を持ったがゆえに/滅びゆく、その途中で』それと『不条理なのは死ぬことではなくて、意識を持ったこと、創造してしまうことなのかもしれない。』というあとがきに、そうかと大いに納得したものである。これ以上書くと長くなるから止めよう!

以上

2011年6月2日(木)
「人と思想」を読んで

清水書院による発刊のCentury Books「人と思想」における哲学者を読んだ感想文というより、引用を主にしたメモ書きである。このシリーズ本を読んだのは、哲学書そのものを読むより、短時間で手軽に哲学者の思想の概略を知ることができるためである。そして、その結果詳細に調べるべき哲学者を選択できるためである。なお、この「人と思想は」簡明でなおかつ質の高い本が結構ある。

読んだのは、フーコー、サルトル、ハイデッカー、ヤスパース、ヘーゲル、マルクスなどである。当初の日記では、引用が多く頁数が増えたため、不要な引用を削除し出来る限り圧縮する。説明の不十分な点はご容赦頂きたい。なお、『  』が本文からの引用である。

1)フーコー

フーコーの研究は精神医学や臨床医学などの科学史から始まり、「知(サヴォワール)」という独特の観点を生む。即ち『「知」とは、物事に関して人々が共有する構えであり、それが具象化した社会制度や施設あり、そしてまたそれを理論的に純化する科学が成立するための社会的で歴史的な条件=背景をさす。・・・諸科学の間を調整づける、思考の全般的なシステムを「エピステーメー」と名づけ、・・一時代の知の総体が一気に崩れ去るような断層を確認できる。』このようにして考えると、『狂気を成立させる知とは、学問上の諸見解、さまざまな概念、制度、法的・治安上の処置、諸々の社会的施設や私たちの日常的な実践を一度に貫いているはずである。・・・狂気を狂気として排除している現在の私たちの身振りも、歴史的に形成されてきたものである。』という考え方が良く分かり、狂人に対する扱いもエピステーメーによって異なってくるのは当然である。狂人が比較的自由に動き回れる時代もあったのである。ここまで記述すると、フーコーの考え方の基盤がある程度理解できる。

「言葉と物」は爆発的に売れた本とのことである。『言語と物とは分離した。・・・それぞれの科学を支える知の仕組みにおいて、人間は認識の主体であると同時に、その客体=対象でもあるのだ。・・・ルーセルからブランショにいたる現代文学が投げかける作品空間は、明らかに言語が人間の手の内から逃れ去り、逆に人間を規定する方向性を持つ。そこでは、言語自体の存在がますますあらわになり、人間は人間に関する根拠づけを放棄し始めているのではないだろうか。・・・西欧文明において、かつて人間の実存と言語の存在は、一度なりとも両立したことはないという。・・・新たなエピステーメーとは、言語の存在の前で人間の能動性が奪われ、口をつぐみ、消えてゆく時代である。フーコーにおける「人間の終焉」という表現は、この新たなエピステーメーの到来を表わしている。』どうも『「規範」、「規則」、「体系(システム)」といった概念は、近代のエピステーメーに生まれながらも人間の顔を背けようとする。それらの概念は、人間の本性の探求へと向かうのではなく、私たちを「人間の外部の諸限界を構成するもの」へとおもむかせるのである。』という考え方が基盤にある。どうも分離した言語は、客体・対象化した人間を取り扱うことによって人間を実存させることはないとの考え方らしい。即ち、言葉によって生み出された「規範」などによって人間は消滅していく運命にあると理解している。この「言葉と物」は読んでみたい。どうも、他の哲学者にも人間が実存するのは難しい、というよりあり得ないという考えがあり、たぶん、このテーマが哲学上の最重要課題になると思っている。

フーコーの思想は変遷するが、『近代の権力の技術が、その戦略的合理性ゆえに私たちへ「規格化された主体」の姿を強いてくるなら、合理化を生む技術の問題に無頓着であってはならないだろう。特定の技術形態によって合理化された「われわれ自身」から脱却するには、技術論の観点から権力の問題に切り込んでみる必要がある。そこで、「テクノロジー」に関する再考が問われることになる。』との考え方は大切と思われる。フーコー自身の言葉である『私が驚いていることは、私たちの社会ではアート(技芸=芸術)が諸個人や人生=生活ではなくて、もはや物体にしか関係を持たなくなくなっていることです。つまり、アートとは専門的な一つの領域、すなわち芸術家といった専門家たちのための領域であるようです。しかしながら、すべての個人の人生=生活とは、一個の芸術作品でありうるものではないでしょうか。なぜ、絵画や建築が美術品(芸術対象)であって、私たちの人生=生活がそうなのではないのでしょうか。』とは大切な考え方である。これが自己のテクノロジーとなるはずである。

フーコーの考え方は「狂気の歴史」にみられるように、背後に隠されたその背景が変遷していき現実を実際に規定してくる、権力の技術が、人間をその精神を束縛してくる抑圧してくる、そうならないために人は「主体」たるべきである、と述べているような気がする。

2)ヤスパース

ヤスパースについては以前書いた日記を参考にして頂きたい。次の追加として書いた文章だけは再掲する。

後日、宇都宮芳明著「「人と思想 ヤスパース」を読んでやっと理解したような気でいる。引用すると次のようになる。『それら存在するものについて知がそのうちで初めて成りたつような包括的空間を考え、これを包括者と呼ぶ。つまり包括者は、本来人間存在をも含めたあらゆる対象存在の地平を包括する全体者であり、その意味でまだ主観・客観の分裂にいたらない超越的一全体であるが、しかし、われわれがこの「一なる包括者」を確認しようとすると、それはただちに主客に分裂し、「存在そのものである包括者」と「われわれがそれである包括者」とになり、さらに前者は「世界」と「超越者」に、後者は「現存在」と「意識一般」と「精神」と「実存」とに、それぞれ分裂する。・・・「包括者」が「空間」と呼ばれるのも、それが時間的歴史的な実存ではなく、無時間的偏在的な理性に直接対応するからだ、』

ヤスパースの良いところはものごとを包括的に考え視野が広いということである。物理的な統一理論を実現しているようで、筋が通っていてすっきりとする。個々の問題はこの全体的な知から解明される。彼の知的誠実さと哲学をする生き方が共鳴を呼ぶのだろう。今、まさに哲学に求められているのは、断片化された個々の知識ではなくて、この『哲学はそのつど一つの全体である』とする哲学であると思われる。今度「岩波講座哲学」を読んでもっと哲学に対する理解を深めていきたい。

3)ハイデッカー

著者は新井恵雄である。ハイデッカーの入門書としては分かりやすく書かれていると思う。以下、メモ書きとして必要部分を引用する。

『・・・家や、私たちなど「存在するもの」(これから簡単に「存在者」と呼ぶことにしよう)の存在である。しかし、だからといってこれらの存在している存在者とこれらの存在者の存在とを混同してはならないとハイデッカーはいう。・・・ハイデッカーにいわせると、存在者と存在のとの関係はその逆である。存在者が存在を定めているのではなく、存在の方こそ存在者をその存在者として規定し、存在せしめている。・・・私たちは、実はこの存在理解に基づいて存在者を把握しているのである。』

『存在論および「存在論的」という言葉と「存在的」という言葉の相違をこの際覚えておこう。存在者についての解明や記述をハイデッカーは存在的という。科学は存在的な学問であるし、私たちの日常的な経験や知識も存在的でしかない。それに対して、その存在者の存在についての解明が存在論的と呼ばれる。もちろん存在者ではなく、存在を解明する学問が存在論なのである。・・・すなわち私たちが存在しつつ、いつもあれやこれやとかかわっている自分の存在をハイデッカーは「実存」と呼び、自分の存在にかかわるという存在の仕方を「実存する」と呼んだのであった。・・・現存在という特別な言葉を与えたのも意味がある。』

『・・・現存在はこれらの根底になっている連関全体を、あらかじめ理解していなければならない。この理解された全体こそ、存在者を見いださしめる根拠であり、これこそ世界というものにほかならない。ハイデッカーは、この世界の世界性、つまり世界を世界たらしめている構造連関を「有意義性」と名づける。すなわち、私たちの日常世界は有意義性という性格を持つ世界なのである。ハイデッカーの説く世界はこのように、無機的な客観世界ではなく、究極は現存在のあり方に還元される主体的な世界である。・・むしろ世界が主体的であるということは、現存在が世界なしにありえないこと、世界はまさに世界−内−存在としての現存在を構成するものであることを示しているのである。』

ハイデッカーは実存主義を主観主義として否定する。彼は存在一般の意味を明らかにしたかったのである。ナチスに加担したとして非難を受けて、ある期間沈黙を守っている。彼は「野の道」と題する小文に回想したひばりや麦畑などの自然的な風景をもっとも好んだに違いない。思想的には分からない点もあるので、ハイデッカーについては引き続き読んでみたい。

4)サルトル

サルトルについては以前「実存主義とは何か」から引用し記述したことがあって、この昔の日記からの引用を主としたい。「人と思想」では結構うまくまとめられて記述されている。

『サルトルは、このロカンタンの体験をいっそうはっきりした形で「実存は本質に先立つ」と表現した(「実存主義とはヒューマニズムである」より)』「実存は本質に先立つ」は有名な言葉である。更に存在について続けると『意識は、はじめただひたすら存在を志向する非反省的意識であった。・・・この非反省的意識が志向する対象として把握したものをサルトルは「即自存在」とよんでいる。・・意識にはもう一つの態度が可能であった。・・意識が存在を否定する態度のことである。「即自存在」は、「意識でないもの」としての超越的対象であったが、逆に意識もまた逆に、「存在でないもの」として、「存在を否定し、空無化して、自らの能動性を発揮することができる。「即自存在」が、そこにあるものとしての存在自体であるとすると、意識はその存在を否定し「無を事物に来たらしめるような存在」となることができる。意識とはつねに自分の存在から自分を切りはなし、「あるところのものでない」という可能性に生きる存在である。この存在の在り方のことをサルトルは「対自存在」と名づけるのである。・・・サルトルが、人間を「絶えず自分自身の外にある」存在と呼ぶことの意味は、人間がつねに可能性に生きる存在であるということの意味なのである。』

サルトルはその著書「実存主義とは何か(実存主義とはヒューマニズムである)などを含む」で次のように述べている。『「存在と無」の記述を読むと、人間の行動はすべて挫折することが説かれている。たとえば、われと他人との関係において、われはあくまで主体としての自由を確保するが、他人がわれの全面にあらわれ、われを見ることによってわれを客体化する。そこで、われが主体であろうとする企ては挫折せざるを得ないのである』

また、同本の前書き「1945年の実存主義」を書かれた、海老原武さんは次のように言う。『「嘔吐」とは一言で言うなら、主人公のロカンタンが吐き気の体験をとおして事物と人間の実存を発見する物語なのである。この実存の発見は、ロカンタンにおいてわれわれの世界が、またわれわれ自身が、偶然であり、不条理であり、無償であり、余計な存在である、という認識へ通じていく。そしてこの認識はやがてそうであるがゆえに人間は自由だ、というもう一つの認識、楽観主義的な言説へと通じていくのだが、サルトルの哲学の原点に、世界に対する、ある意味では暗い、さめた視線があることも忘れてはならないだろう』

この本の中にサルトルの重要な思想、「まなざし」による「物化」や「投企」が見られるが省略する。また、楽観主義とは先ほど引用した「人間がつねに可能性に生きる存在であるということ」を意味すると思われる。後年サルトルは唯物論に近寄って行くが、決して承認したわけではない。やはり個別主義の域を出ないのである。同書に書かれている『各人はみずからを選ぶことによって、全人類を選択することを意味している。・・・われわれの責任は全人類をアンガージュするからである。・・・』を読んでその思想の飛躍に唖然としたものである。私はハイデッカーと同様に「ヒューマニズム」という言葉も行動も嫌いである。ただ「物化」という思想には注意しておく必要がある。「まなざし」の定義についても・・。

5)ヘーゲル

著者の澤田章は、あとがきで『世界の歴史が大きく変わっていく時代に、ヘーゲルが、哲学者としてよりも、むしろ一人の人間として、「いかに生き、いかに考えたか」ということを中心に考察してみた』と書いているように、フランス革命やナポレオンの出現などにより、歴史が大きく転換していく中で、ヘーゲルの生きざまを描いている。特に、群雄割拠するドイツの状況が非常に良く分かる。このドイツの状況が統一へと向かう時にきっとさまざまな歴史を生み出したのだろう。

『宗教の主体としての愛―――ヘーゲルによれば、感性的で理性的であるという人間の二重性格のため、感性を拒否することなくして、感性を理性的にし、道徳法則をまもる高貴な心をはぐくむことこそ、宗教の使命であった。』

『伝統的な論理学は「形式論理学」といわれているが、これは、事物の矛盾を考えられないとする静止の論理であり、不変の論理である。これに対してヘーゲルは、運動し発展する現実の世界が示す矛盾を解明する運動の論理、発展の論理を「弁証法論理」として示したのである。「形式論理学」では、矛盾はあってはならないものであり、主観の間違いとされたのであった。カントも、理性がどうしてもおちいざるをえない、しかも解決できない矛盾を「二律背反」と呼んだ。そして二律背反を四つあげたのだが、ヘーゲルによれば、このような矛盾は、現実のどこにでもあるので四つくらいではない。むしろ矛盾こそが、事物と現象の本性であり、思考の基本法則だと考えられている。』

『「この世に理性が支配している限り、理性的なものは現実に存在しなくてはならないし、現実に存在する本質的なものを理性として、すなわち、本質的な存在=現実=理性の実現態としてとらえていかなければならない」「ミネルヴァのふくろう(哲学をさす)は、たそがれがやってくると、はじめて飛びはじめる」』 『ところで、「法の哲学」には、二つの山がある。一つは自由と権力の関係についての問題、もう一つは市民社会と国家の問題である。そして結論としては、個人は社会の一員であるべきと説き、市民社会は最高価値としての国家に上昇しなければならないと説いている。』

どうもヘーゲルの理性主義はマルクスなどのヘーゲル左派から、ショーペンハウエルの厭世感思想やキルケゴールの非合理主義的哲学、その他西田幾多郎や和辻哲郎などから批判されたらしい。

6)マルクス

本書はマルクスの壮絶な人生を描いている伝記のようなものである。美しく聡明で強く優しい妻であるイェニ−や、思想や行動とともに物心両面から援助したエンゲルスがいなかったならば著者小牧治の言うように、マルクスの思想は生まれなかったであろう。下手な小説を読むよりも面白かった。それにしても執念とも思われるマルクスの不屈の精神と行動は、虐げられた人々を救済するただそれだけのために行われた純粋な思いから生じたものだったのだろう。次の文章だけを引用する。

『ブルジョア社会での自由論・教養観・法律論そのものが、ブルジョア生産関係ないし所有関係の産物であり、支配階級の意志にほかならない。ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想に過ぎない。永遠の理性的真理、永遠の道徳、などとよんでいるものも、ブルジョア社会を、ブルジョア的支配を確保しようとする打算にもとづいている。それらは、歴史的な所産として、ブルジョア生産関係(ないし所有関係)とひとしく、やがて消えていくものである。古い思想の消滅は、古い生活関係の消滅と同一歩調をとる。社会の変化ととともに、人間の意識や思想も変化する。』

読んでみるとなかなか意味深い真実を書いていると思っている。人間そのもの本質と各人間が共同で構築しているはずの社会構造とをともに解き明かすにはなかなか難しいものがあると思っている。即ち人間の性質がもしカオスであるとしたなら、社会に生きてその構造を支える理性は一部の性質であり、その他の性質も必ず露骨に顔を出して社会構造を維持しようするか、無視や破壊しようとするからである。打算のおべっかも泣きすがりや憐みも憎しみや妬みも生じるのである。

7)ドゥルーズ

最近になって知った哲学者である。今まで10冊程度読んで、一番理解し難かったのはきっと予備知識が何もなかったからであろう。彼は世界と人間主体を過去の思想を踏み越えて、彼自身の思想により捉え直している、確かにそう思われる。また、私の考え方と似通っていると思われる所が結構ある気がする。まだ頭の中が混乱しているが、新しい紹介本や原書を読むことにより整理しなければならない。また、他の哲学者との違い等について評価しなければならないと思われるが、そこまでゆくともう専門家の領域で、私にはきっと無理であろう。ただ、フーコーを含めて、彼らの思想をざっくりとでも検討し、世界と人間主体との未来に対して自分なりの解釈は必要である。従って感想文としては、著者:船木亨の序文とあとがきから引用して簡単に済ませたい。

『フーコーは、時代の終焉について語り続けたのですが、そのうえで「ドゥルーズ主義の時代」ということを述べるのは、おそらくドゥルーズの諸著作が、終焉についての新たな出発の扉を開いているといいたいのではないでしょうか。「終焉の始まり」とは、何と奇妙ないい方なのでしょうか、そして、何と謎めいたいい方なのでしょうか。』
『ドゥルーズにとって、哲学とは何であり、何をなし得るのであろうか。観念が潜在的に存在することを現象の側から捉えなおすと、現象が一般にシーニュであるということである。シーニュは、他のシーニュとの(段階的)差異を説明することを通じ、あたかもそれがただひとつの意味もつようにされて、われわれに現実の常識なるものを押しつける。因果性といわれるものも、シーニュが「信号」として、一様の意味しかもち得ないように拘束されていることにすぎない。しかしながら、ドゥルーズは、シーニュとは本来「ちぐはぐが交流しながら閃光を発するもの」であると主張する。その意味は、シーニュが万人によっての共通のものでありながら、各人の受け取りようで、より深い者、より高いものを導くことができるということである。シーニュは、それがもっている他のシーニュ対する(本性的)差異を通じて、それが合意している潜在的な秩序(観念)へとひとを送り返すのである。』

少し文字数が増えるが気になる箇所を引用する。『真理を探究する人にとっての問題は、可能性のある経験の種類や、経験の現実性の条件を列挙することではなく、出来事からくる問いかけとその解決の展開の仕方なのである。・・・ひとは、出来事や行為を自然と文化の合成物と解して、これを実践の条件とする。しかし、自然として認識されるものは文化的構築物にほかならないし、文化として理解されるべきものは、意識することの条件を含んでいるのだから、意識されるものを原理的に越えている。したがって、認識主観が要請する客観性は、実践とは何の関係もない。自然や文化といった客観的な秩序は、認識論的主観性の虚構と同様、表象として捉えられた、いわば出来事の残骸にすぎないのであって、表象それ自身は、何も生み出す力を持たないのである。それに対し、生成しつつある出来事は、表象の世界においては比較を絶していながら、これらこそがわれわれの行為にとって、もっとも重大なものであり続ける。出来事のこの次元は、自然や文化によって説明される、それらとは別の一次元などではなく、真にわれわれが見ようとしており、また見るべきところの次元なのである。』

ここで注意すべき点はいつの時代も「終焉」を述べる者がいるということである。とみに最近増えている気がする。その背景には、社会的な背景として、人口の爆発的増加、エイズ、オゾン層の破壊、核の問題等の抜き差しならぬ問題がある。結局、どこかに脱出でもしない限り人は死滅するはずである。それが何十億年後であるか、何十年後であるかも知らない。この星の命の尽きる前に人は自らの盲目的な生への固執によって死滅するとの予測は可能で、そしてたぶんそのとおりになるはずである。

8)キルケゴール

キルケゴールについては「死に至る病」を確か読んだはずであるが、その内容についてさっぱり記憶がない。どうも厭世家という先入観があって気嫌っていたが、本書を読んで立派な哲学者にしてかつ詩人であると分かった。また果敢な既成の教会に対する戦闘家でもある。恋焦がれるレギーネとの婚約破棄が著作へと向かわせたらしいが、いかに快活に取り作ろうとも彼の憂鬱な精神からすると、彼がレギーネを幸福にできないと判断するのは正しいと思われる。著者の工藤綏夫が秩序正しくかつ的確にて簡明に著述しているため引用したところは結構あるが削除する。

ここで興味深いのは、キルケゴールが匿名を多数用いて著作を行っていたことである。レギーネへの配慮、ある事件を契機にした大衆社会とくにマスコミがもたらす弊害への不信、彼の思想の浸透度を考慮した結果等があるらしい。このことはマスコミによる大衆社会への弊害、きっとマスメディアの論調に影響を受けやすい現代社会に通じる著作・思想もしくは記述がキルケゴールにあるのではないかということである。彼は教会を通じてキリスト教文化世界を攻撃するが、この世界の把握に教会という体制側は無論、大衆という概念も入っていたかどうかは興味深いことである。

さて、ヘーゲルの観念論への手厳しい批判がマルクスとキルケゴールによって行われたのは意味あることである。キルケゴールは1846年の「現代の批判」、マルクスは1848年の「共産党宣言」にて批判している。そして、実存主義とマルクス主義が誕生してくるのである。キルケゴールの思想はヤスパース、ハイデッカー、サルトルなどの実存主義哲学に影響を与えている。実存主義とマルクス主義はこの世界、あの世界ではないこの世界から人間を救い出すべく思考を重ねるがこの世界とは何を指しているかが問題である。世界の構造と人間との関係、これらが人間の終焉を主張するフーコーやデゥルーズ、デリダなどの最近の哲学においてもどう捉えられているかが問題である。その観点からも、もう一度さかのぼってキルケゴールを調べることは意味があると思っている。

9)スピノザ

スピノザはドゥルーズが関心を持っているのを知って読んだものである。17世紀の哲学者であり、ユダヤ人に生まれながら、聖書を研究することによってユダヤ教にも批判的になり、苦難に満ちながらも自由な立場から、人間の自由、この社会での思想・言論の自由の確立を主著「エチカ(倫理のこと)」で展開する。このエチカでは精神と身体から構成される人間についての考察を含んでおり、この点が非常に注目される。彼はレンズ磨きを生業の仕事の一部としていたのか、科学的な実験の必要性から行っていたのか定かではないが、一級の腕前であったらしい。

彼は無神論ではない、汎神論である。より神を信じていたとも言える。『スピノザがその哲学思索の当初から排撃してやまなかった、擬人的な神への否定があらわになる。神に自由意志も、創造も、また救済も認めようとしない彼の態度は、伝統的な神学者の非難するところとなり、彼が無神論者として葬りさられるのは当然であった。だが、彼のこのような態度は、「お前は自らのためにいかなる神の像を作ってはならない」という聖書の言葉に忠実ではなかったのではないか。信仰を離れた純粋な思惟の立場に立つ方が、神を真にそのものとして、つまり、絶対的な神、神としての神とみなすことができるのではないか。』こうして彼の立場は明確になる。『神がこのように無限に多くの属性から成りたっているとしても、スピザノによればわれわれ人間は、その有限性のために、この無限に多くの属性のうちから、思惟と延長(ものの空間的な拡がりを表わすもの)の二属性しか知ることができない。』以下省略。スピノザの物質論についても省略。

人間の感情と隷属について述べるとき考えらせる。『この感情を自然の産物としてとらえた。「・・従って憎しみ、怒り、妬みなどの感情も、それ自体として考察されるならば、感情以外の、感情以外の他の個別の場合と同じように、自然の必然性と力によって生じる」。・・感情を含めたあらゆる自然の諸物が、自分の存在を維持する努力(コナトゥス)をもっていることを論じている。』『人間は自然の一部分である限り、必然的に他から働きを受けるということである。かくして、「人間は必然的に、常に受動に隷属し、そして自然の共通の秩序に従い、それに服従し、自然が要求するだけ、自分を適応させることになる」』

『スピザノにおいて最高の認識とは直感知のことである。・・神をそれだけ多く認識する。理性は、神の普遍的な必然性を認識するが、直感知は個別の本質に現れた、神の具体的、特殊な必然性を認識させる。』のである。この後スピザノは「精神の永遠性」や「神の愛と人の愛」、「理性による救済」などを述べるが省略。そして最後に「最善の国家」、「国家の徳」を述べるのである。

身体と精神、感情、そして隷属について関心がある。スピザノの考え方とドゥルーズの考えとの関連、更に機会があれば私の考え方を含めて文章にてきちんと記述したいと思っている。

10)フロイト

フロイトの生涯と思想を簡明に述べた好い本である。どうも私はフロイトを誤解していたようだ。そういう意味であるがままのフロイトを紹介したいとする著者鈴木金彌の目的は達成されている。ユダヤ人であることと、「性的」な新しい思想はやはり相当厳しい生涯を送らなければならなかったようだ。でも、今まで読んだ哲学者がそうであるように、自説を曲げることなく突き進んでいくその真摯な姿勢には感動を覚える。

心的エネルギーとしての「リビドー論」は非常に納得できる。どうも「リビドー」という言葉は「性的な」匂いを残すためであったようである。『人間の欲動は性的欲動と死の欲動(攻撃的欲動)のふたつであるとした。・・性的欲動とはいわば自己保存・種族保存の欲動であり、エロスの欲動である。・・死の欲動(攻撃的欲動、あるいは破壊の欲動)とは彼の言葉を借りれば、「統一を破壊させ、事物を破壊し、生にあるものを死にいたらしめる欲動である。そして、これはエロスの欲動に対立するものであり、攻撃的本能が自己にかえったものである。』

性愛は、幼児期(誕生から4、5才くらい?)の三つの段階(おしゃぶり、肛門、お医者さまごっこ)、そしてエディプス・コンプレックス、更に異性愛へと進んでいく。心の装置のモデルは『精神的な機能のシステムを無意識部分・前意識部分・意識部分という三つの部分に分けて考えたのである。・・・第三の構想は構造的仮説と呼ばれている。心的装置は機能的にみて三つの層から成りたっており、それぞれの層は、エイズ(またはイド)・自我および超自我と名づけられた。・・心の層エスは、一生涯幼児的な性格をとどめていて、それに緊張に耐える力に乏しく、欲望をがまんする力にかけ、衝動的・非合理的・非社会的・利己的である。そこで、もし欲望の満足が得られず快感が得られないならば、それはすぐさま心的装置の他の層を刺激して空想や幻想に走らせ、また夢などを見させ、満たさざる願望のつかのまの満足を得させるのも、エスのはたらきである。・・いわば現実に即してエスの欲動を満足させていく機能であるはずである(現実原則に従うという)。これが自我である。・・エディプス・コンプレックスが心的装置の発達にとってきわめて重要な影響を与えるのは、その体験が超自我を形成するからである。・・もっとも重要な点は「自分で」エディプス的欲動を放棄し、抑圧することである。・・ところが、エディプス・コンプレックスにおける抑圧は「自分自身の内部からくる要求」として感じられるのである。』この構造的仮説の詳細については、また無意識にのうちに働く心のメカニズム、芸術論などについては省略。

最後にアインシュタインとの公開手紙「なぜ戦争はあるのか」に書いたフロイトの回答についてはそのとおりだと信じている。フロイトのペシミズムの色調、揺らぎもなく現実を直視する記述には感服する。さて、ドゥルーズはエディプス・コンプレックスを取り上げながら、死の欲動についてはどう語っているのか、まだ本が読み足りぬゆえに宿題としておこう。

11) デリダ

デゥルーズと同時にデリダという風変わりな哲学者も知ったが、彼の思想もなかなか面白いものである。ものもと文学に関心があったようだが、言葉のもつイメージを哲学が使いこなしているのを知って、彼を哲学に向かわせたらしい。彼の思想の基本は「脱構築」であるらしい。「脱構築」とは『彼の著作を読んでも・・わかったという気持ちにはなかなかならない。逆に明白であるという思われることをぐらつかせ、そこに決定不可能性を探り当てようとする。「不可能性の可能性」というアポリア(出口なし)について思想すること、これがデリダの核心である。』との説明がある。

どうもデリダの思想は哲学をぐらつかせるらしい。これは哲学を解体するのではなくて、哲学を考えなおすことに他ならない。デリダは「異邦人」という一貫したテーマを持ち、思想的には、「現象学」、「散種論」、「亡霊論」の三段階があるとのことである。これらの点と「差延」についての詳細な説明は省略。意外に思ったのが、彼がフッサールの現象学の影響を受け、ハイデッカーとニーチェについて盛んに論じ、彼の思想を展開している点である。

更にベンヤミンやアノルドへの接近である。『ベンヤミンやアノルド社会的現実を主観の意図や意味に還元せず、「力の場」として解釈する。たとえばベンヤミンは「ドイツ悲劇(哀悼劇)の根源」の序論やパサージュ論などで、アノルドは・・「哲学は・・常に解釈という手続きをとらなければならない」が「解釈の理念は〈意味〉といった問題と決して同一ではない」、なぜなら「我々の生きている世界は意味のまとまりを持ったものではない」・・「哲学の負うべき課題は、現実のなかに隠されてすでに存在する意図を探り出すことではない。そうではなく意図なき現実を解釈することだ」。』こうした解釈論はデリダの考え方に近いらしい。こうしてデリダは、解釈や翻訳について解明した後、「テレコミュカシオン」などについて語り、哲学と教育の実践者として実務労働し、民主主義について問いなおす。無論「亡霊論」から問い直すのである。カフカ論やツェーランの詩論などの書きものを含めて、彼の活動はまだ続いているのだろうか。


感想文の最後に

まだ、ニーチェ、カント、ヒュームなどを読む予定であるが、機会があれば簡単に書いてみたい。どうも、今まで読んだ中では、フロイトやヒュームなどが古典的ベースとなり、ハイデッカーとニーチェが仲介し、デリダとデゥルーズを中心に読んでいくのが私の哲学に対する正道であると思われる。私の考え方は、デリダよりもデゥルーズに似ていると思われるが、今は頭の中が混乱していて、少し読むべき本を整理しなければならない。読後少しずつ考え方をまとめていきたい。きっと哲学書は読むだけでも大変であるが、その読むことが楽しみになるか苦しみになるか分からないが、苦しければすぐさま逃げ出せるのが素人の好い所である。

以上

2011年5月16日(月)
「新岩波講座哲学 1 いま哲学とは」を読んで

これから少しずつ哲学書を読んでいきたいと思う。この「新岩波講座哲学」はおおよそ25年前の本である。講座哲学は50年前にも出版されているし、つい2年前にも出版されている。25年前の本を選んだのは、まず当時の哲学的状況を知りたかったからであり、予備的な哲学の知識を頭に中に入れて置きたかったためでもある。何冊か読んだ後に2年前の「岩波講座哲学」を集中して読んでいきたいと思うが、どの程度まで進めるかは自分でも分からない。また、著名な哲学者の紹介本や有名な著書そのものも並行して読んでいきたいと思っている。今哲学書を読むのは、小説や詩が面白くないこともあるが、何かこの存在や世界が良く分からなくなってきたためである。自分の根本的な考え方や見方そのものを少し確立しておきたかったからである。

「新岩波講座哲学 1 いま哲学とは」ではシリーズ本の最初として、序論的な11の小論文が掲載されている。専門用語などに分からない点もあったが、6〜7割は理解できたと思う。もう読んだ後の記憶も薄れているが、誤解を恐れずに述べると、この本ではいろんなことを書いていたが、主要なことを簡略化すると以下の3点なる。

1) 哲学には今存在論を含めた全体的な統一された知が求められていること。
2) 常に哲学とは何かと問い続ける必要があること。つまり哲学とは定義されているわけではなく、問いかけによって成り立っていること。
3) 生きていく上で哲学することが大切なこと。

まあ、ありきたりのことを書いたが、これについて説明すると長くなるので省略する。私の印象に残った論文は以下の通り。もう一度読み直したい。

ただ、本日記からは削除する。

ここで、私の直感的な考えを箇条書きにまとめたのでメモしておく。なお、少し否定的に、悲観的に書いている。今後、本人にも分からないが、できれば何年か後には結構な頁数に書きまとめたいとも思っているが、どうなるかは分からない。

1) 世界と存在は互いを成り立させている。時には溶解・結合し、時には分解・離散しながらも耐え難くに相互に在り続けることを運命付けられていること。そして相互の影響は、最終的には相手のもしくは自分の相互の変容・破壊・再存在として成立すること。この世界と存在との関係を明確にすることが、物事を考えていく上での確固たる礎となるのである。

2) 存在としての実存は開示されることは稀であること、もしくは開示されることは無いこと。我々は自由なのではなくむしろ不自由で自由なのであり、自由ながら知らぬままに露わな存在を隠蔽されていること。更に単に広義の意味で生物学的にもしくは生きながらに物質的に存在すること、そうなってしまうこと、そう区分されること。そして他の存在に出会うことによって、存在に対する他の存在からのこれらの生物学的な即ち脳や血や肉や物質的な変形と取扱いによる占領が間断無く行われ増大していくこと。

3) もしや、実存とは当初から開示されているのであって、実存するとは諸緒元を含むカオス的な粘体の物質でいかようにも変形でき、変形され得る粘性水流のようなものであること。時々氾濫を起こし時々支流に流れ込んでは思いがけない実相を表わし、また枯渇しては自らや他者を苦しませかつ喜ばせること。もしくは他者やこの世界に丸ごと飲み込まれ消去されること。

4) 死は実存を開示しないし恐怖でも不安でもない、怖れとは投企でもなくて、未来が見えないのでもなくて、確実に消去される道筋に通じていること。即ち、私の死は耐えられるが、種族の絶滅も関係ないと思われるが、この未来と呼ばれる何かの時間軸上に見える一本の線の遮断・消去を怖れている。つまり、救い出せはしないが、まだこの種への愛が残っていること。

5) 言葉は世界をかたどること、物を名づけること。そのかたどり名づけた途端に世界や物は変貌・変身し齟齬が生じて、するりと抜け出てしまう。つまり絶えずかたどり名づけることなど無理であること。もしくはそうせずに深まる齟齬の中に言葉とはあるものであること。いや、恐るべきことに最初から世界・実体から隔絶した言葉そのものがあったこと。死んだ老婆が作り出したのか真なる空が在って、生成しながら消滅し消滅しながら生成して、産声をあげながらに死に声を、死にながらに産声を、絶えず声の言葉の響きをこの世界に一人語りの波として多重に伝えていること。

6) 芸術は実存の本質を解き明かすものであること。そうなるべきものであるが、そうはならないこと、もしくはそうなることは稀なこと。なお、詩は哲学の知を示すものであるというより、情感、物語、思想を表わす導きや杖と成り得ること。小説は取り繕うべきかつ楽しかるべき時間を一時なりとも提供し、絵画は審美的に装うことにより一時の喜びを呼び込み、映像は存在の偶像礼拝の厳粛な儀式へと通じさせること。つまりこれら芸術は基本的には実存の忘我状態を引き延ばす性質を有しながらも、もし実存が露わであればそれぞれの役割を重ねながら、実存に忌み嫌われるまでに楽しまれること。

7) 科学は世界や存在から派生し、世界や存在を進化・発展させているつもりが、その初期の意図にも拘わらず、最終的には世界と存在を破壊してしまうこと。また世界構造そのものが進化する科学を求め続け、突き進む科学の慣性をより肥大化させていること。この構造を知り得たとしても、世界と存在の進化・発展を信じた振りをして、科学は目的などなしに突き進まざるを得ない巨大な慣性を有していて誰もが止められないこと。

8) 歴史は存在の歴史であって、その存在が開示されることもなく、広義に生物学的に生きてきたというログであること。このログは、なおも存在を問いかける者たちに意味があり、残しておくこと。即ち、もしや未来に通じる時間軸上に見える一本の線の遮断・消去が過去の歴史からの差異として見えているかもしれず、未来において遮断・消去さるたとしても過去そのものが遮断・消去されるのではない。まさに紐解くべき本来的なログはパソコンのディスクの中にではなく、地の奥深くに秘められていて多重化された頁もしくはの死者の層として土の中に眠っていること。

9) 存在は無の中で安らぐこと、眠ること、ログを紐解くこと、運動すること、これが一番の慰めとなる。もしくは愛や憎悪なる他者との幻想的な関係性の中に他者に占領されながらも埋没し、時間と空間なる多次元を意識しないように努める性質を有していてこの中に生きていること。そのうちに知らずに存在としての種としての生物的な終りが訪れてくるだろうこと。多次元の関係性に気づけば無ではなく場であって、紐に絡まってより高次な身体を従えた精神、精神を従えた肉体が蠢く場そのもの構成物となりながら、存在は場の多次元に無数の紐を垂らして支配していると錯誤し、この現在に未来に向けてこの未来が過去として遮断・消去されないように一縷の望みを託しながら揺らし続けること。

10) 時間と空間は、この宙を覆う薄膜のこちら側と向こう側にあること。膜は破られか破られないかもしれずに定かではないが、するりと擦り抜ければ、薄膜の向こう側には不透明で見通せない世界が広がっていること。こちら側の時間と空間はきっと存在を含めてリアルな世界を成り立させていること。といって向こう側の世界がバーチャルというわけでもなく分かり得ぬこと。もしくは膜などなくリアルやバーチャルがこの世界に矛盾なく両立している以上に重なり合っていること。本当でも嘘の情報でもいいが、これらの分かり得ぬ世界にて何かしらのコミュニケーションが取り得ること。そのコミュニケートされた情報は殆どが読まれず見られずに廃棄されること。もしや発信先や宛先が不明でこの時間や空間上に無いこと。時間と空間があるとしても、これらが、なぜかどうしても誰に因ってでもなく不知・不可視・不穏に隠蔽される性質を有すること。

以上

2011年5月11日(水)
川端康成著 「眠れる美女」を読んで

昨年、川端康成の「片腕」という映像化されたテレビ作品を見た。著名作家の怪気小説シリーズだったような気がする。この「片腕」の不思議な内容が心に残っていて、調べてみたら「眠れる美女」という新潮文庫に入っているのが分かった。他には、「散りぬるを」がある。あるとき文庫本を入手できる機会が偶然あって、この「眠れる美女」他を読んだ感想文である。なお「眠れる美女」とは金を支払い、死んだように眠り決して目覚めることの無い素裸の娘とともに一夜を過ごす、一老人の何回かの夜を描いている。

偶然にも、三島由紀夫が解説に引用している文章と同じ「この、家に悪はありません。」、「娘ももう一人いるでしょう」という川端康成にそう書かしめた文章に非常に関心を持った。何も悪というものはなく、死んだ娘の代わりにはもう一人の生きた娘がいるというのである。まことに虚無的である。三島由紀夫はデカダンの傑作というが、たぶん私もそうに違いないと思う。退廃的というより虚無そのものが簡明にかつ明瞭に書かれている。坂口安吾、太宰治などのデカダンとは一線を画す救い難い精神の荒廃と肉体の物質化がある。「雪国」などの小説とは全く異なった川端康成の一面を嫌というほど見せつけられた。確か川端康成は自殺したと記憶しているが、その原因が分かったような気がする。小説としての完成度も高い。ただ、なぜ川端康成は「悪のない世界」の長編小説を書かなかったのだろうか。ドストエフスキーもヤプーも顔負けになってしまうに違いない。これについて話をするのは止めよう。いろんな要因があるのだろうから。そもそも川端康成の資質は短中編小説家なのである。骨組のしっかりした高層建築物は似合わない。

当然、三島由紀夫は気づいているが解説に書かなかったことを一つだけ述べたい。自分の娘や自分の性遍歴が走馬灯のように脳裏を去って行くことではない。読んだ時の記憶では、確か赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのである。今手元の本の頁を捲っても、どうしてもその記述箇所が見つからない。探すのは止める。この不釣り合いな赤ん坊の泣き声は生命の誕生を祝福、呪う、そのどちらでもない。過ぎ去りし過去を無垢に思い出させる死に際に鳴り響く鐘の音のようなものでも決してない。自分の生を拒否する思いを暗示しているのだろう。きっと老人が聞く赤ん坊の泣き声は虚無の世界から響いてきて自らの死を誘い招き寄せる声なのである。

以上

2011年4月25日(月)
リディア・デイヴィス著 「話の終り」を読んで

新聞に感想が書かれていて、面白そうだったので読んでみた。その切り抜きがあったはずだが探してもどうしてみ見つからない。出だしは情感のある文章でそれなに約70頁は読めた。それからはどうも面倒臭くなってパラパラと読み捲った。どうも恋する年上の女の私に、その恋を思い出している私、その恋を小説に書いている私などの複数の私に分裂させていて、私が複数になってもたいして意味などないのに、長々と270頁も読めなんて酷過ぎる。詩で書くなら1/10の分量以下でもっと意味のある複数の私を多重的に書くことができるだろう。情感のある文章と言っても小説であって、詩的な情感ではない極めて冗長な文章である。

新しい小説を読んでも裏切られ続けている。ただ、図書館から借りているので出費はほぼなしということだけが救いか。詩集もだいぶ読んだし、少し哲学の本、もしくは宇宙や生物学などの科学的な本を読んだ方がいいのかもしれない。いや古文とか昔の文学の方が外れがなくて良いのかもしれない。

以上

2011年4月21日(木)
吉岡実著 「「死児」という絵」を読んで

詩集かと思ったらエッセイみたいなものだった。「死児」に関心を持っていてどう書いているのかなと思ったらこの詩の成立経緯をたった数頁で書いてあった。全体は約340頁。主に詩人・歌人を中心にした交流を書いている。高橋康也など思いがけない人と知り合いだったと唖然とすることがある。どうも吉岡実は趣味・感性の合う人との付き合いは嫌いではなかったらしい、というより楽しんでいたような気がする。出版社に勤めていて、俳句と短歌が趣味であったらしい。

こういうエッセイであれば白石かずこの「詩の風景・詩人の肖像」があるが、1980年に既発表の短編をまとめて発行されたこの本には、白石かずこの本よりもそれなりの規律は守っていると思われるが、少々感情などがはみ出て書かれている。白石かずこは奔放に書きながらもなぜかあるしき値を越えることがない書き方をしている。それに比べてこの本はどうも、しきい値を越えて書かれている気がして仕方がない。理由不明。当然夏目漱石の「硝子戸の内」などの繊細な情感とは比較しても意味がない。基本的には友人との交流においての出来事を、事実を中心に描いているのだから。吉岡実の感情は掲載された俳句・短歌を読み解けば分かるのかも知れないが、私はどうしても読み解くことができない。1句理解するにも相当な時間と労力を必要としながら上っ面しか理解できないのである。まあ、たまには気軽にこういうエッセイを読んでみるのも面白い。ただ、内輪が透けて見えてくるので、痛し痒しである。私は週刊詩的な内実なんぞにあまり興味がない。

以上

2011年4月16日(土)
ヤスパース著 「哲学の学校」を読んで

少し哲学の勉強でもしようかなと思って、ヤスパースのこの本なら簡明に書いてあるはずだと思い通読したところ、哲学は難しいものだと再認識した。ずうっと以前、ハイデッカーの「存在と時間」は途中までは読んで理解していたつもりが挫折した経験がある。たぶんサルトルの「実存主義とはなにか」など数冊くらいしか哲学書は読んでいないはずである。簡明な解説書の類は読んでいるはずだが、その内容の記憶はあまりない。

この「「哲学の学校」」はテレビ大学で十三のテーマを毎週三十分放送したものである。出発点として「宇宙と生命」から始まり、「認識や価値判断」などを通じて、最終的には「暗号」、「愛」、「死」を論じている。まえがきで、ヤスパースは『哲学的思索は、知識を役立てて唯一の中心に行きあたろうとこころみる。たんなる知識は一つの堆積である。だが、哲学はそのつど一つの全体である。・・哲学は、全体把握として一人の人間の本質をなすような考え方である。』 このように哲学を通じて私は全体を理解したかったのである。だがヤスパースは『・・しかしどんな答えも、最終的な答えではありえないだろう。すべての答えは新たな問いに通じている。結局、最後の問いは、なるほど答えのないままにとどまるが、しかしむなしい問いとして残るのではない。むしろ、最後の問いは、充実した静けさを可能にしてくれるのである。この静けさのうちには何もないのではない。かえってそこでこそ、人間にとって本来的なものが、人間の内的状態、すなわち要求、理性、愛をとおして、まのあたりに語りかけるのである。』この文章は好きである。でも結局はこの本を読んでも哲学は理解できないのである。まず「包括者」や「超越者」という言葉が説明なしに使われていて理解できない。

また哲学的な問いそのものが何を指すのかが私には良く理解できていない。きっと人間の存在論的な問いそのものであって、その存在の定義とその存在の意味、そしてこの世界における運命を洞察するとどうなるのか、が主題となるのだろう。この存在が主観―客観のうちに認識し、諸々の愛と死を経験するのだろう。この文章を書いていて、やはり良く分かっていない。この本を読んでいろんな考え方を知ったが、「暗号」はその一つである。ヤスパースは次のように言う。『意味が、それらの意味することがらの提示によって解き明かせないとき、われわれはこの意味を暗号と名づける。暗号は意味しはするが、しかし或るものを意味するのではない。何かは、ただ暗号のうちにのみ存在しており、暗号なしには存在しない。・・暗号は超越者の一つの言葉である。このことばは、われわれによって生み出されたことばであるが、それにもかかわらず、かなたからわれわれのところへ迫ってくる。・・・暗号は、主観―客観―分裂においては、客観的であると同時に主観的である。』真に面白い言い回しである。ただ感嘆して読むしかない。彼はシイナ山における十戒と暗号の関係についても説明する。以下省略。

理解するためには一度ヤスパースの哲学を簡明に書いた解説書を読んでみたい。それから再挑戦をしたい。ヤスパースが詳しく書いたもっと別な本もあるはずである。また哲学そのものもできる限り調べてみたい。

以上

P.S.:後日、宇都宮芳明著「「人と思想 ヤスパース」を読んでやっと理解したような気でいる。引用すると次のようになる。『それら存在するものについて知がそのうちで初めて成りたつような包括的空間を考え、これを包括者と呼ぶ。つまり包括者は、本来人間存在をも含めたあらゆる対象存在の地平を包括する全体者であり、その意味でまだ主観・客観の分裂にいたらない超越的一全体であるが、しかし、われわれがこの「一なる包括者」を確認しようとすると、それはただちに主客に分裂し、「存在そのものである包括者」と「われわれがそれである包括者」とになり、さらに前者は「世界」と「超越者」に、後者は「現存在」と「意識一般」と「精神」と「実存」とに、それぞれ分裂する。・・・「包括者」が「空間」と呼ばれるのも、それが時間的歴史的な実存ではなく、無時間的偏在的な理性に直接対応するからだ、・・』

ヤスパースの良いところはものごとを全体・包括的に考え視野が広いということである。物理的な統一理論を実現しているようで、筋が通っていてすっきりとする。個々の問題はこの全体的な知から解明される。彼の知的誠実さと哲学をする生き方が共鳴を呼ぶのだろう。今、まさに哲学に求められているのは、断片化された個々の知識ではなくて、この『哲学はそのつど一つの全体である』とする哲学であると思われる。今度「岩波講座哲学」を読んでもっと哲学に対する理解を深めていきたい。

2011年4月14日(木)
ヘルタ・ミュラー著 「澱み」を読んで

読み応えのある短編小説を書く作家が結構いるのを知って、ヘルタ・ミュラー著 「澱み」も以前「狙われたキツネ」は途中で挫折したが、短編集と知り期待して彼女に再挑戦したものである。結果は挫折に近い。最初の「弔辞」は短編としてはなかなか面白くて、更に期待しながら読み「澱み」にくると何が書いてあるのか分からなくなってしまった。現実が妄想のごとく筋が飛ぶのは良いが、文章そのものに面白みがないのである。長くて暗いのも致し方ないが時間や空間では無く文章そのものが歪んでいると思われるのである。結局半分以上は流し読みになってしまった。

一点だけ気に掛ることがある。それはこの本における短編が詩的性格を有していることである。私は詩的散文(こんな言葉があるのかはしらない)に非常に関心を持っていて、今後はこの詩的散文にて文章を書きたいと思っている。このミュラーの短編集における詩的性格は通常の散文に近いとは思うが、面白い表現も少ないながらあり、文章としては参考にはならなくとも読んだことは良い事であったと思っている。たぶん、ロートレモアンやブルドンやアルトーとかそういう文章の方が参考になるかもしれないが、結局独自の詩的散文を作り出したいがために、もう参考にすべき作家・詩人はいないのではないかと思っている。詩に近い散文、もしくは詩と散文の中間的な文章を目指しているが、どういう文章になるかは自分にも分からないが・・。もし詩的散文なる新しい小説を創作できたなら「詩小説」と名づけたい。

また、誰か他の作家が気になる短編集を出版したなら挑戦してみたい。

以上

2011年4月9日(土)
黒井千次著 「手を高く振る日」を読んで

黒井千次の小説は昔何冊か読んだことがある。でも、どういう内容であったかどうしても思い出せない。印象が薄かったためか、私の記憶がぼけてきたかのどちらかかであろう。

本小説は一人暮らしの年老いた男と昔にゼミで一緒であり、一度だけキスした年老いた女との恋とも言えないはかない付き合いのお話である。妻もゼミで一緒であったがとうに死んでいる。何回かの食事や携帯電話を通じた付き合いは老人特有の問題を含んでいている。そしてこの付き合いの結末は書かれていない。文章は落ち着いていていい、少しもどかしさもあったが一気に読んでしまった。最後の『電話の呼び出し音は家の中から止むこともなく続いている』が非常にいい終り方だと感じた。女が本当に老人ホームに入るのか定かではないが、娘と女からしか掛って来ない携帯電話ではなく『昔のままのその電話』が鳴って終るのである。即ち、娘との日常や女との付き合いではない別の日常に引き込まれるようにして終るのである。誰もが死ぬまで日常や非日常に関わっていて決してこの日常は終ることなどないのであろう。

島本理生の小説よりもこちらの小説に共感するのは私が年老いているからではない、決してそうではなくて小説の質によるものだと信じて疑わない。そして、どこかまどろっこしさを感じるのは、ゆきどまりのような老人の感性などどうしても理解できないためであり、老人の恋の行方や生きざまだけが妙に気にかかるためである。

以上

2011年4月2日(土)
酒井順子著 「金閣寺の燃やし方」を読んで

題名に引かれて読んでみたが、何が書いてあるのか良く分からなかった。論点が整理されていず、上っ面な話がごちゃごちゃと書かれていて面白みのない本であった。当然、金閣寺と銘打っているからには、三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉の「五番町夕霧楼」、「金閣炎上」を比較している論評であろう、もしくはエッセイであろう。三島は金閣寺を燃やした林養賢の動機を「美への嫉妬」からと捕え、水上勉は「底辺に生きた人のどろどろした情」からと捕えているというのが作者の主張のようだ。

もっときちんと論評するには、書き方を変えた方がいいのではないか。即ち、三島由紀夫、水上勉、林養賢、酒井順子がごちゃごちゃ書かれていて分からないし、考え方もありきたりであり、論評にはなっていない。ただ浮かんだ思いを書いたようにも思われる。各人それぞれに独立した章を与え、その中で論ずべきではないのか。特に最後の章を著者の見解・論評とすればよいのでないのか。もし、金閣寺ではなく、日本の裏表からと捕えて、もしくは論と情として論評するとしたなら、多数の作家の読書と論点の整理が必要である。ただ一つ良かった点は、三島由紀夫の生い立ちを知ったことである。どうでもよいことであるが・・。

以上

2011年3月29日(火)
松浦寿輝著 「松浦寿輝詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 101 松浦寿輝詩集」である。よく知らない人であったが、詩を楽しめそうなので買ってみた。結果はだいぶ裏切られた。若い人だと思っていたが、今まで読んできた詩人よりも若いが結構お歳を召されていて、感覚もだいぶ異なっている。どうも表現が表層的である。内部に深く沈みこんでいくというより、雨上がりの葉の裏側に隠れ潜んでいる蛞蝓のようにのろのろと動いていると錯覚する特異な感覚が持ち味の詩人である。以下さらっと読みその少しばかりの感想である。

1) どうも感覚が私と合わないのか、表現にリズムがないのか読み込むことができない。それに文章が古めかしいA≠Bの表現があるし、私から見れば文章が飛んでいる。行間を埋めるべき言葉が書かれるべきなのにその間が無意識に書かれていずに飛ばされている。そのためかどうしても一字一句を読み進めることができない。これは先に述べた著者の特異な感覚からくるのか私には分からない。感覚としての眼のつけどころはなかなか良いと思うのでもったいないことである。ただ、詩の題を見るに題材が物足りない。また、表現も浅いところがある。

2) 無時間で無感覚で視線だけがある感覚とするなら、もっとその感覚の深部を、目に捕えた深部を描くことができると思うが、こうした感覚故に表層的な表現にしか成り得ないのか、この点に関しては私には良く分からないということしかできない。ただ、私にはどうしても表層的な表現に見えるのである。もっと深く書けると思うのである。

3) 作品論・詩人論として丹生谷貴志が書いている「忘却」という考え方が面白い。以前似たような考え方の本を読んだことがある。「老い」との関係として、『「忘却」の中に消えた「記憶」・・・ありもしない「未来」の蒸発を見とり・・・』などの記述があるが結構論理的に纏まっていて納得できるのである。

丹生谷貴志の論からすると、私は松浦寿輝を彼の詩を理解していないことになる。どうしてなのだろうか。きっと文章のリズムに起因するに違いないと判断しているが、本当の所は分からない。リズムにもいろんな種類がある。私は「モデラートカンタービレ」以上の「アレグロアジテート」が好きなのかもしれないが、「アンダンテアリギエーリ」でも良いのである。

以上

2011年3月25日(金)
鮎川信夫著 「鮎川信夫詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 9 鮎川信夫詩集」である。なぜか鮎川信夫は観念的な詩を書くという思い込みがあったが、読んでみると全く印象は異なるものであった。適度な抒情とエロチシズムを含み描いている、この時代の情景を揺らぐことがなく意味があると信じている、そう願っている、簡明ながら罪深くも意識せざるを得ない言葉による鮮烈なイメージと問いかけを描いている、好い詩なのである。そして、読んだ後に鮎川信夫は結局何を言いたかったのだろうと考えざるを得ないのである。鮎川信夫についての評論は結構あるらしいが、自分の少しばかりの感想を以下に記述したい。

1) 鮎川信夫という人は文章を読む限りとても生真面目な人だと思う。誰もがそうであるように真摯に生きている。特に詩論として「詩人の出発」、「現代詩とは何か」、「現代詩の難解性をめぐって」などを読むと、彼の真面目さが際立っている。今までに読んだことのない低い位置から丁寧に簡明に真摯である。岩成達也の「接点と接線に例えた散文詩の詩論」、富岡多恵子の「ちょいとずれた視点からの詩論」などが今までに読んだ詩論として記憶に残っているが、それらとは異なって正面から問題を受け止め正面から答えている本当に真っ当な真面目な人なのである。他の人が不真面目というのではなく、鮎川信夫の生きる姿勢としての真面目な実直さが際立っているのである。

2) 詩論「詩の体験の拡大」において彼は「詩人が自らの言葉を信じなくなったら、それで終わりです。・・・」と言う。そして「詩は・・・ついには人類全体におよぶというような連鎖描いて広がるもの・・」と主張する。そして「書くという仕事によって、生きた世界との結びつきは何よりも大切である。」と言う。たぶん彼の言う言葉の意味については、戦後の荒廃した言葉の意味の喪失状態からの脱却を、信念を持って打破しようとしたのだろう。そして、それを頑固に実行している。彼はA=BもA=CもA≠Bも言わない。それは真実ではないからであるという信念に基づいていると思われる。そして描くべきものは最終的には彼にとってはこの世界であり、他の人にも共有され広がるものでなければならない。

3) この詩に関する鮎川信夫の主張はこの一冊の詩集を読む限り、取り組みとしては成功しているように思われる。だが彼は新たな難題に取り組まなければならなくなる。書くことによって尚も難題が浮かび上がってくる、これは鮎川信夫のジレンマなのだろうか、彼の根本的な問題なのだろうか、どういった難題が持ち上がってくるのか私には分からないが、彼は必死になって常に継続して難問に取り組み続けなければならない。

4) 時間や空間や死んだ人や戦争や女などが彼の詩には描かれているが、この時彼の使用する人称が妙に気にかかるのである。即ち、「おれ」、「わたし」、「おれたち」から「あなた」へと移行する、この「あなた」が私に難題を問いかけてきて考え込まなければならない。この「あなた」が分からないのである。ただ詩人論などにも父や自分と書いてあって解があるように見えて、決してそうとも思われない。むしろ、生きた世界の状況と解釈した方がいいのかもしれない。この日記を書いている私自身も書く場合に「あなた」を使用していながら、なぜ使用するのかよく分かっていないのである。

5) 誰かが、詩は哲学前のインスピレーションだと言ったように記憶しているが、まさしく彼の詩は言葉になる前の彼の信ずる言葉によって描かれた彼の哲学ではないだろうか。良くは分からないがそうとも思われる、好い詩を鮎川信夫は書いている。女などは実在するというより、幻想的な一つのイメージやインスピレーションとも思われる、この現実に基づいた世界を生々しくもかつ幻想的に観念的に開いて描いている鮎川信夫は「ほかにする仕事がなかったから」書いていたと面白いことを言う真面目な人である。

鮎川信夫の詩は読んでみたいと前々から思っていたがやっと読むことができた。彼の別の詩集を読むかどうかはまだ決めていない。

以上

2011年3月22日(火)
飯島耕一著 「飯島耕一詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 10 飯島耕一詩集」である。飯島耕一の詩は田村隆一以上に簡単なように見えて、そのように簡単明快な詩である。飯島耕一の場合、田村隆一における通常A=Bが有り得ないA=Cに定義されるのではなくて、A≠Bと記述される場合がある。そしてどうも詩を成り立たせている言葉の記述の仕方などが田村隆一に似ていて、同系統と思われる、というより亜流のような気がする。昔の詩人たちの仲間がどうであったかなど関心を持っていないため確かなことは分からないが、同じサークルに属していたかもしれない。以下、飯島耕一の詩集に関する若干の感想を述べる。

1) 「私有制にかんするエスキス」や「見えるもの」などは単純明快で良い詩であると思う。即ち表現が抒情を排し素直で散文的でありながら、リズムを持ち軽快に走りながら問いが密やかな伴奏としてかなでられている。というより彼は根底に「きみは誰なのか」とか「不条理の哲学」とかの哲学的な問いを抱え込んでいるように思われる。「何処へ」は確かにこの問いに基づいて書いている。だが深く掘り下がることはしせずに上っ面を言葉だけが流れて行く。彼の生きた時代、戦前や戦後にしてもそうである。上っ面だけを言葉だけが軽妙に流れて行く、このやり方が彼の生きる上での、表現としての流儀なのかもしれない。その奥があるのか、あるとしたらどれだけ深いのかは私には分からない。私は記述された表現しか読み取らないから、私の読み取りに間違いがなければ、彼の詩には奥や深みがないことになる。軽快に単純明快な詩を楽しみたいとしたら田村隆一の方が優れていると思う。

2) 狂言「神鳴」よりの「青少年のための火山学入門」ははっきりいって読んで良く分からない。いや読む気が起こらないのである。今、詩集を手にとって見ているがやっぱりなんだか良く分からない。いったい火山は何を象徴しているのであろう。彼はなぜ戯曲を書いたのだろうか。

3) 先ほども書いたが、彼は歴史とその記録(ログ)に対して思いを馳せる。それは古代というより近代、それも戦争に関しての記録である。私は戦後に生まれて戦争など殆ど知らないし、その戦争のもつ重みなども何も知らない。ただ記述された言葉のイメージから読み取るだけである。彼は軽く書くので私にはその重みを知り得ない。むしろ、私は古代からの歴史とその記録(ログ)に対して関心を寄せている。この歴史とその記録(ログ)をどう取り扱えば良いのだろうか。我々人間だけではなくて、最初に硫化水素の中から生まれた生物の化石を含めるとすると膨大な記録(ログ)である。我々は引き継げるのだろうか。我々は拒否すべきではないだろうか。いとも簡単に投げ捨てるべきなのではないだろうか。何万年か何千万年か何億年後には生命体そのもとと一緒に綺麗さっぱりと痕かたもなく捨てられて、そうした悩みもきっと抱かなくなるであろうから。きっと飯島耕一はこの連続する過程としての歴史とその中に生きる人を描きかったに違いない。哲学的な問いの答えを探したかったに違いない。でも答えは出てこずに虚しさだけが軽妙に語られる。

今まで何冊か詩集を読んできたがだんだん熱意が冷え込んできた。詩に関して疑問が生じてきたからである。一つには詩が現実的な状況を的確に把握し表現できるかということ。二つ目は一つ目にも関するが、詩は単に僕、もしくは私の感性を表わしているに過ぎないのではないかということ。いやそれ以上に自分はなぜ詩を読んでいるのだという疑念が生じてきたからである。いや本当はこの詩集の感想文が義務化して飽きてきたのである。無論、読んで楽しい詩集もたくさん見出している。その表現の豊かさや新鮮さに、感性の細やかさに知的な表現に感嘆している詩集もある。詩は哲学の先取りしたイメージであるという考え方も持っている。これからは時々読んでは時々感想を書いていこうと思っている。まだ読みたい詩集が数冊残っているためである。好きな詩人もできたからである。きっと惚れ惚れするような詩集は何十年かに一冊程度しか出てこないのであろう。

以上

2011年3月20日(日)
田村隆一著 「田村隆一詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 1 田村隆一詩集」である。田村隆一の詩は簡単なように見えて、そのように簡単明快な詩である。直喩・隠喩・諷喩・引喩・換喩など詩論など分からないが直接的に書かれているためである。この表現方法はどうも直喩ではなくて隠喩に近いらしいが、それとも異なる表法であると思われる。従って私は自分の言葉で「直線的」という言葉を用いる。この直線が時には別の線に繋がるが、同一の直線である。即ち、通常A=Bであるはずが、田村隆一の場合、有り得ないA=Cに定義されるのである。これはたぶん隠喩ではないだろう。私が言いたいのは田村隆一の詩の場合文章の根本が文法に則っていながら実は意味的に意識して破壊されている場合があり、こういう詩は良いと思う。文章の例をあげれば良いのであるが止める。この詩集を読めばきっと私の言いたいことが分かると思われる。以下少し感想を述べる。

1) 詩集「四千の日と夜」の出だしの数編は好きである。先に述べたA=Cに彼の感性に従って記述され、抒情が排除されていながらもなぜか薄らとした抒情を滲み出している。一本の単純な明快な直線が、美しく描かれている。こうした表法は今まで読んだ詩集の中では初めてであり、現代詩の中に取り入れられてしかるべきであると思う。無論、単純に真似るのではなく複数の線でも湾曲していてもいいし、線でなくとも半円でも三角でもいい。現代詩の殆どは今でも隠喩などの古臭い表現に頼っていてとても読めない。ただ、一部の若手が新しい表現法に挑戦しているのは良い兆候だと思っている。

2) 詩集「言葉のない世界」は詩人論で笠原伸夫が書いているように評価が分かれるようである。私には先に述べた「文法に則っていながら実は意味的に意識して破壊されている」ことを放棄して別の方向に進んでいる、即ち表層的な表現に陥っていると思うからである。吉岡実が「言葉」を用いるのを嫌うように、私も言葉という単語を用いるのは好きではない、嫌いである。もしこの「言葉のない世界」を描こうとするなら、言葉という単語を使用しないで、その現実的な状況を、その感覚的な鋭敏さを詩の表現の中に言葉でもって押し込めるべきである。「言葉のない世界」の1〜13を読む限りやはり捕えきれていずにもっと深く切り込むべきであり、それには意味的に破壊された言葉を用いること、もしくは別の表現を用いることが一番よい方法である。

3) 詩論「路上の鳩」を読むと詩の生成過程が書かれていて、成るほどと納得することもある。即ち「詩の種子」が「無自覚的意識」にて成長することが書かれていて、別にこれに反対するわけではないが、「詩人は詩を書くことによって詩を書くのです」にも特に反対はしないが、たった一語が詩を想起させることもあり得るが、どうも納得できないことがある。それは、田村隆一に限ったことではない。殆どの詩人の詩集がばらばらに作った詩の寄せ集めであるということである。どうして詩集全体のイメージを想起して、各一編の詩に何を書くべきか「詩集の種」を多数蒔いて成長させないのだろうかということである。詩の作品を群生させて育てるのである。ここまで計画性を持たせて書くともう詩的散文になってしまうのだろうか。

4) それとぼくという人間の意識の中だけで「詩の種子」が育つのだろうか。懐疑するぼくは詩を育てられるのだろうか。むしろ育たずに干乾び萎びた種子が詩を生み出すことも、ぼくではない分裂した他人のぼくの意識の中で詩が育つこともあり得るのではないだろうか。この思いは彼の詩論の記述とは無関係でありながら私にはとても関心があるのである。そして田村隆一は「ただひとつの心に詩が宿るとき、それが民衆のものとなりすべての人のものになる」と述べるが、心に宿る詩はあくまでも個人のものであって民衆のものとはならない。普遍化された表現のみが共感を呼んですべての人のための詩となるはずである。なお「一編の詩に物質化される過程は、・・個人的な領分であり・・伝えても仕様のない・・」と彼は言うが、これはまさしくその通りであって常に個人的な思いが書こうとして書いている「一種のエネルギーが」、「詩全体から発散してくるエマネイション(放射性)が詩の本体であり」と田村隆一が引用している高村光太郎の言葉が表現している通りであると私には思われる。と同時に矛盾しているが、私には消失するエネルギーで書くことも在り得るとも思っている。

実は田村隆一の詩には一番期待していたのであるが、少し物足りなく残念である。ただ、先に書いた「単純な明快な直線が美しく描かれている詩」は好きである。もしかすると詳しく調べないと分からないが、彼は詩の表現について先見性を持った詩を書いていたかもしれない。この「明快な直線」もしくは「複雑な曲線」のどちらかが詩や、散文詩の記述方法にもっとも適合しているような気がしてならない。

以上

2011年3月15日(火)
吉岡実著 「吉岡実詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 14 吉岡実詩集」である。この詩集はやっとのことで古本屋から手に入れた。1969年版で定価は320円である。吉岡実に関する「うまはやし日記」や「兎を抱く少女像」など新聞の切り抜きが数枚入っていて、きっと愛読していた人が死ぬなどして手放された本なのであろう。これらの切り抜きが含まれていたことに驚いたが、とても参考になる。

吉岡実は私の好きな詩人の一人に加えられる、好い詩である。言葉が重くて地を這うようにして伝わってくる。なぜか戦争の言葉など一つも出てこないのに、丸山豊の詩を思い出した。丸山豊の詩も重いのである。彼は軍医として従軍し、詩を書くのに帰国後確か数十年という経験を昇華させるための時を要している。どうも吉岡実も従軍の経験があるらしい。だが二人の違いはある。吉岡実はエロチシズムを含んで死が間近にありながら重くとも、リズムがりあり軽快さや諧謔性を含み持ち合わせているのである。そして現実が分解され再構築された独自の世界が広がって行く。丸山豊の特徴は彼に関する感想文を参考にして頂きたい。なお私は単に感想を書いているのであって詩人論などは専門家に任せたい。以下少しばかりの感想を書く。

1) どうも吉岡実の詩論・自伝を読むと、「苦力」などは現実の経験を書いたもので、その再構築されていく過程が書かれている。では他の詩はどうなのだろうか。すべてがその時々の経験に基づいているのではなく、ある時の経験の断片や本を読んだ思いや彼の願いや苦みなどをひっくるめて彼の脳髄の中に浮かんだ現実でもあり非現実でもある絵もしくは映像そのものが言葉として表わされているような気がする。きっと彼にとって言葉とはもう絵を描く絵具のようなものであって、その微妙な色合いがカンバスに塗られていくのである。きっと彼の詩は現実や非現実とも言われない小さな宙を形作っていく、この宙こそが彼の脳髄に詰め込まれている絵もしくは映像であり、彼の詩は描かれた絵もしくはイマージュとして意味を持っているような気がする。

2) 死の影がエロチシズムを伴い浮かびあがる。この時死が生へと喚起・転換されるある種の静かな力が吉岡実の詩には潜んでいる。我々は彼の詩を読むことによって生きる力を得ることができるのである。きっと彼は詩を読む限り生真面目な人であろう。日記抄や詩論などを読んでも踊る所がなく淡々と書かれていて分かりやすい。彼が現実を非難することは少ないし、非難していたとしても臆病に見える。詩そのものも簡明である、その簡明さが地を這うようにして、時には羽を広げて疾走するが如きに独自の小さな宙を作るその作り上げた宙が何ともいえずに好い詩なのである。

3) 私は有名な「僧侶」よりも初期作品の「静物」などが好きである。まあ、だいたい全部の詩・文章が好きなのであるが・・。「静物」にはまさしく静物が描かれていて、この静物が「めいめいの最も深いところへ至り」至っている気がする。即ち「僧侶」のような知を入り込めた華やかさや奔放さと諧謔性はないが、きっと彼の本質らしいものが何とも言えずに静かに現れてくる。彼によって捕えられた深いものがさりげなく置かれているのである。「死児」や「ライラック・ガーデン」なども好きである。では彼の本質とは何であろう。きっと彼の本質は捕えようとすると逃げるか、もともと無いか変化するようであって私にはよく分からない。

4) ただ、この詩集の後半に書かれている詩はどこか単調な気がする。影を帯びた哀愁なのか、ただそれだけが描かれていて「めいめいの最も深いところへ至り」至っていない。絵としても結実していないと私は思っている。そう感じるのはなぜなのか良く分からないが。「?」も時々出てくるが、本来的には好きではない。吉岡実が言葉とか文字という使わない嫌いな文字があるように、私は「?」や「!」が嫌いである。

5) 詩論に、「推敲は改悪する危険がある」と書かれているが、非常に参考になった。たぶん詩が切り取った一枚のその時の思い浮かんだ絵であるとするなら推敲することによってどんどん変わっていくのである。それも改悪されていく。確かに遂行していくに従ってもう別の詩・絵になっていくのである。それも平凡になって、元の思いが消え去って行くことには注意しなければならない。下手な文章や矛盾などがあっても出来たての作品がその時の感性を素直に表わして好いのかもしれない。この点に関しては少し考えてみたいが、私は自分の文章を鉛筆を舐め舐め直すのが好きである。

吉岡実の詩はもっと多くの詩を読んでみたい。それだけの価値があると思っている。

以上

2011年3月9日(水)
西脇順三郎著 「西脇順三郎詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 第U期 1016 西脇順三郎詩集」である。もう少し抒情もしくは観念的に痛切に訴えかける詩を書くと思っていたが、むしろ穏やかな淡々とした詩である。ただその裏側に皮肉やら批判やら抒情や諦念・観念を含んでいるらしいが、良くは分からない。言葉は平易で表面的には分かりやすい詩である。ありきたりと言えばありきたりで、この少し言葉を平易にして表現が豊かであり、かつあっさりとした情感が流れている西脇順三郎の詩集が好きな人にはたまらなく好きなはずである。どうも西脇順三郎は詩論とかたくさん記述して、古今東西の思想なども把握し、詩創作の理論的な土台を構築した人らしい。白石かずこなども含めて皆が先生と呼ぶ大層な人をこの本一冊から感想を書くのも気が引けるが、まあ詩集の感想を書き始めたのだから致し方ない。なお、西脇順三郎は私にとって特別な感慨はない。以下感想である。

1) 時々、西脇順三郎はイメージの異なる言葉が連鎖し反復して詩が進んでいく。少し分かりにくい。あとがきに、萩原朔太郎が「研究 難解の死について」で述べているが、分からない詩はないと言っている。つまり言葉というものが表わされたからには、主観の本心が必然に現れるというのである。私も同じようなことを書いたことがあって少し驚いたが、基本的に書くという行為は伝えることを意味する。心が露わになるということを意味する。伝えたくなければ書いたものを廃棄しなければならない。もしくは書いてはいけない。朔太郎は連鎖する言葉の修辞も分かるという。その例として、西脇順三郎の「皿」という詩をあげている。なるほどと理解する。ただ朔太郎はポエジーの無い詩は分からないと言っている。私はポエジーが無い詩を作りたかったが、たぶん無理なのかもしれない。西脇順三郎の詩はきっとポエジーをエッセンスとして含んでいるのだろう。ポエジーとはきっと「好いにおゐ」のことに違いない。

2) 西脇順三郎の詩にはあっさりとした抒情が流れている時がある。それは本当にあっさりとして穏やかであって読んでいて気持ちの良いものである。当然に時間もゆったりと流れていて一時彼の詩に酔うことができる。郷愁を思い起こさせる時もある。どうも詩集によってその抒情などの含み具合が違うようだ。西脇順三郎のこの抒情は今まで読んだことがない、悲しくも寂しくもない、心の故郷のようなものだと思っている。

3) どうも、西脇順三郎は時々言葉によって直かに定義する。「生存競争・・」、「永遠を象徴しない時に・・」、「空も有も・・」などなど。このありきたりな定義は好きではない。全体の詩からするとほんのごく一部であるけれども、慣れてしまえばどうということはないが気にかかるものである。その他の詩のように別の言葉に言い換える方が好きである。また、説教調な文も、「無」とか「永遠」とかの言葉も頻発するのは詩としてはマイナスの表現だと思う。

4) カタカナ語が時々出てきて困る。無論、西脇順三郎の博学からきているのだろうけれども、分かりにくいし、イメージを損なう。私にはギリシャは良く分からないのである。世田谷やシブヤはまだ許せるがニーチェやマラルメは許し難い。まあ、勝手な読者の反応であるが故に勝手に聞き流して欲しい。

5) どうも西脇順三郎は人間について、もしくは人間の進歩について懐疑的であると思われる。たぶん「人間」というより「人間の進歩」についてと言う方が正確な表現だと思う。彼は悩みはしないが「永遠の裏側を越えて違った太陽系の海へ」行くことはできずに、「ヒルガオの咲く時刻に十字架につらなければならない」思いがある。この彼の懐疑もしくは疑念が心の故郷のような思い寄せる人間への抒情を生み出しているではないかと思われる。

今、この感想文を書くためにちらちら彼の詩集を読んでみたが、やはり上手だなと思う。そして、不思議なことに先の文章とは異なって、なぜだかうら悲しくなってくる、この澄んだ哀しさが西脇順三郎の底流を流れている、というより本質なのかもしれない。それは煙草の煙となって消える、一瞬に消える、笑い飛ばして消える哀しみであるのかもしれない。西脇順三郎に対して私は何らの感情も持っていないが、萩原朔太郎の強烈な情念とも思われる抒情に比較し、あっさりとした飾らぬ普段着の笑い飛ばして消える哀しみの抒情も非常に好いのである。彼の詩集に込められた少しばかりの皮肉やら批判についての感想は分からない点もあるため別の機会があえば書きたい。

以上

2011年2月28日(月)
吉岡剛造著 「吉岡剛造詩集」を読んで

読んだのは「現代詩文庫 41 吉岡剛造詩集」である。たぶん、吉岡剛造の詩は上手に違いない。ただ、私の感性には受け入れがたい詩である。この頃時たまこういう齟齬が生じる。即ち上手な詩は好きな詩である、という単純な思いから外れる詩があるのである。こういう時には結局、詩は好みに属するものなので、彼の詩の技法や圧倒的にエネルギッシュな精神の存在は認めても、即ち詩と人が在るとは覚えおくが、きっともう読むことはしないだろうという簡単な結論になる。

吉岡剛造の豊饒な言葉を用いて展開するイメージ豊かな詩は、精神のたどり着くことができるのか果てのない世界を描いている。ただ、この世界は言葉を多様に使用することによって、逆に言葉とイメージの貧困に陥っている。これについてはあとで触れる。吉岡剛造は古い詩の形式に従って詩を書く。即ち、言葉が確固として意味を象徴し、その言葉を使用する自分自身の存在を、感覚を、思いを疑うことはしない。彼の詩集を読んでみると、思いつくままに豊かな言葉を永久に吐き出し続けるに違いない。それは泥酔者の吐き出す汚物に似て、吐き出し続けなければならない宿命である。そして彼は泥酔者が自分を愛するように、自分を耽溺している。吐き出す者を信奉している、確固たる自分が居るのである。彼の評論を読むと揺るぎのない自分を描いていることが良くわかる。これは外側から眺めるとある意味では悲劇であるに違いない。ただ、世の中は旨くしたもので、二重の悲劇を滅多に起こさせはしない。確信する者に疑惑は生じさせないのである。永久に吐き出し続けて形式さえ変形させるかもしれないが、その変形させようとする自分に疑念を生じさせはしない、ただ突っ走るだけである。もし二重のテーマを背負わせたならば、悲劇というより狂気を呼び起こして何もが書けなくなるであろう。

吉岡剛造は言葉を多様に使用することによって、逆に言葉とイメージの貧困に陥っているとは先に述べた。これについて説明する。詩集<頭脳の塔>の多彩な言葉とイメージ、もはや言葉もイメージもないのかもしれず、ただ大声で叫んでいるとしか思われないこの詩集は泥酔者の喚きとしか聞き取れない。この時、読者はここに書かれている言葉とイメージの許諾か拒絶、豊富か貧困の選択も迫られていて、私はためらいなく貧困を選ぶ。たぶん、多数の人が逆の選択を行うだろう。通常は豊饒に拒否して渇望する精神の真髄を読みとるはずである。ただ私には断片化された言葉の記述されるべきいわれの無い貧困をみる。もう少し確固たる証拠を上げるとするなら、<黄金詩篇>に表れる「地獄」や「死人」や「太陽」や「宇宙」や「現実」な「水稲」などが述べられる時、これらは言葉として使われているだけで、もはやイメージを想起しては打ち消している、言葉の羅列でしかない。即ち彼はもはや貧困というより、イメージを持たないもしくは拒否した姿勢を一貫していて、内在化した精神は貧困なもしくはイメージを消した言葉でしか表わせないのである。こうして言葉が物質と反物質とが打ち消し合って消えるように、イメージのわずかな痕跡のみを残して消え去るのであれば言葉を発してはならない。無論、残された言葉の切れ端を楽しむ読者が居るのであれば残していてもいいが、本来的には消去して何も書かないのが一番良いと私は思っている。書きたくなる気持ちは良く分かるが・・書くことを放棄した人は何人もいる。

詩の評価とは結局は感性的な好きか嫌いかであると私は思っている。修辞学上とか思想的とか斬新な発想・表現とかそういう評価は後からの論理的な文章上の評価であろう。通常私には嫌いな詩の方が多いから、このような詩の感想は書かない方が良かったのかもしれない。つい感想を書いてしまったのは、彼のエネルギッシュな精神に反発したかったからに違いないと子供じみた心を反省している。

以上

2011年2月24日(木)
富岡多恵子著 「新選 富岡多恵子詩集」を読んで

読んだ本は「新選現代詩文庫 107 富岡多恵子詩集」である。いや、とても好い詩である。今までいろんな詩集を読んできたが、これほど不思議に言葉などが解体された詩を読んだのは初めてである。人称がすり替わっていく、他の人称に征服されていって、作者自身も居ずに、言葉だけが勝手に話し始めているような混沌とした泥沼に、もしくは何もない空間に落ち込んだような気がする。即ち「きみ」、「あたし」、「あんた」などが呼ばれているうちに何者も居ずに、空間さえ失われてしまって、ただ生暖かいどろりとした粘性の言葉だけが語られていると錯覚する不思議な世界である。たぶん、肉感を持っているから体はあるのだろう、空間も決して失せてはいないのだろう、でも確かに在るのは果てしなく続くと思われる言葉だけで、その他の存在は不確かになってしまうのである。

富岡多恵子はある時期から詩作を止めて小説家になったらしいが、こういう詩を書き続けていたらピカ一の詩人になったであろう。どうも何か良く分からないが、彼女はきっと今までの抒情詩や観念詩の枠を飛び越えたものごとの本質如きを突いた詩を書いているのである。天沢退二郎が最後に富岡多恵子論をまとめているが、なかなか面白い書き方をしている。彼女が書く詩人論はちょいと通常の詩人論からをはみ出て話が逸れてしまうのだ。確かにそうである。彼女の詩集を編集する際、「肉声の美質」の言葉も「哲学的存在論」的な詩も両方選択できる紙数がなかったことは残念である。「哲学的存在論」的な詩も締まっていて好い詩である。もし、この詩の技法をそのまま用いて小説を書いたならばどんなにか良い作品が仕上がったことか計り知れない。彼女自身が小説の主人公の名前をつけることに初めは恐れていたらしいが、良く分かる感覚である。名前などつけずに、詩と同様に「きみ」、「あたし」、「あんた」で小説を書けなかったのだろうか。筋などない思うままの感性のみで小説を書けなかったのだろうか。即ち彼女は主人公の名や筋などをメモした創作ノートを書くのを嫌がっていたが、そのノートを無くして、その日の気分で思うままに記述できけなかったのだろうか。本当に惜しいし残念であると思っている。ただ、そういう小説はごく少数の人からしか認められないだろう。

なお、読んだ詩集に「女友達」が入っていなかった。これらの詩集を含めた富岡多恵子の詩を読んでみたい。ただ、詩集のみで小説は読まないでおこう。きっと名前があるからには創作ノートがあるからには、読んだならば落胆するような気がするためである。

以上

2011年2月22日(火)
吉原幸子著 「吉原幸子詩集」を読んで

読んだ本は「現代詩文庫 56 吉原幸子詩集」である。まず、最初の一冊であと二冊出版されている。あと二冊も購入しようと思っていたが、期待外れで購入は見合わせる。言葉がありきたりで、その言葉が素早く飛んで表層を走っていて、イメージを掴むことも言葉を楽しむこともできなかった。相反する言葉や修辞上歪曲されていてイメージが掴めなければそれでも良いのであるが、抒情も観念も怨念もなくて、ただ内省に似た郷愁もしくは苦痛・傷口を含んだ表現が記述されているだけあったと思っている。疑問符が所々ついて自らに問いかけているが、疑問符は付けない方がよいと思う。なぜ自分に問うのかよく分からないからである。記述された詩そのものが自らの問いであると同時に回答であるはずである。ただ、女性に在りがちな甘ったるさを排除して切り込もうとする心意気は感じ取れる。切り込むナイフはもっと切れ味が鋭いか斧のように鈍重でなければならない。

たぶん、小説でも詩でもいろんな感性の人が書いていて、私の好みにあう人はごく少数である。今まで多少なりとも本を読んできたが、感性のあう人は少ないのである。きっと好きな詩人などから芋ずる式に読むべき詩人を選べば好い詩に当る可能性が強いと思われる。ただ、この詩集は十六刷も版を重ねていて吉原幸子の熱烈なファンが多数いるに違いない。

これから10名ほどの詩人の詩集を読んで感想文を書く予定である。岩成達也、安藤元雄、天沢退二郎、藤井貞和、鈴木志朗康、丸山豊の感想文は既に書いてあるが日記として掲載はしない。詩集からの詩の引用が多いためである。程度の差はあるが、いずれも好い詩を書く人であったことは確かである。即ち私と感性がうまくマッチしたのであろう。ただ、それだけのことである。何度も言うが世の中に生きている人の感性は千差万別であり、それぞれ好みが違うのである。

以上

2011年2月20日(日)
三島由紀夫著 「愛の渇き」などを読んで

読んだのは「愛の渇き」、「美徳のよろめき」、「潮騒」、「美と共同体と東大紛争」(全共闘との共著)である。「仮面の告白」は敢えて読まなかった。昔の記憶が薄らと残っていたというより、告白本は読みたくなかったためである。今までに「午後の曳航」、「獣の戯れ」も読んでいる。なお「豊饒の海」などは読んでいないが、昔読んでいて薄らと記憶にある。

田中美代子が『文学は文体によってしか伝達されない』というのは正しいと思われる。なお、文体とは如何と問う時に、私は「並んだ文字の残した一つの痕跡」と捕えている。無数の組み合わせの中から、この単語や文章を選んだその脳細胞の在りようがこの痕跡を介して見えてきて、その脳の特異なもしくは通常な在りようが文体を読む者に切に伝達されてくると思っている。

さて、三島由紀夫を単純な言葉で表わすなら、「禁忌と相克」であると思っている。簡単に言うなら、掟や規律を破ることによって生じる葛藤と言うより、陶酔である。彼はこの「禁忌と相克」に巧妙にバランスを保たせて美を見出すのである。このバランスの上に構築した脆くも崩れそうな構築物こそが彼にとっての美であるはずである。

「愛の渇き」は期待したより面白くなかった。どこか構成が微妙に歪んでいて、この歪みは美ではなく欠点であると思っている。それより「美徳のよろめき」はさすがに好い小説だと思う。文章がどこか彼にしては穏やかで張り詰めていずに、そして構成も単純なようでいて緻密に作られている。最後の文章『節子はこの手紙を出さずに、破って捨てた。』はとても好きである。「潮騒」は初め地理等の説明文が多くて少しはしょったが、どう筋が展開していくのか、三島のことだからどてん返しをするのではないかと、はらはら心配しながら読んだが、ハッピィエンドで終って安心した。時には「禁忌と相克」を横置きにする心境が生まれてくるのである。というより、彼は「豊饒の海」の本田の「もう忘れた」地点と同様に「清浄・無垢」も心の片隅に潜ませていたのかもしれない。「美と共同体と東大紛争」は昔大騒ぎをした全共闘の三島由紀夫との討論で感想を書いても致し方ない。

さて、谷崎潤一郎は常に「幸福」であるが、三島由紀夫は常に殆ど「不幸」である。これは小説上の出来事として、三島は谷崎みたいに無償に耽溺できないためである。禁忌と相争わざるを得ない三島は、相克を増幅せざるを得ない。これが三島由紀夫の「不幸」の悪循環である。雲の晴れ間みたいに「清浄・無垢」が表れた時の三島は一時のみ「幸福」であるうだろうか。きっとそうなのだろうと信じたい。

最後に、今まで近代の日本文学の代表的な気になる作家を読んできたが、ここでちょいと感想を書いてみたい。読んだ作家は、夏目漱石、森鴎外、泉鏡花、谷崎潤一郎、芥川龍之介、折口信夫、三島由紀夫である。若い時に、たぶん日本の代表的な作家はその読んだ本の量は別として、6〜7割方読んだ記憶があるが、ここにあげた7人はみな文章の上手な作家である。好みからいくと、やはり夏目漱石が一番好きな作家で、次に谷崎潤一郎、三島由紀夫といった所か。あとの作家は好きかどうかも定かではない。現代には気になる作家が数名ほどいるが、好きな作家は誰もいない。たいぶ前に読んだ村上龍、山田永美も飽きてしまった。もう読む気は起らない。でも、できれば新聞の文芸欄に掲載された現代の小説は気に入れば読んでみたい。ただ、書評はこの頃殆ど綺麗ごとしか書かないので信用していない。夕刊に載っている「斜め読み」、もしくは「うしろ読み」だったかもしれないが、この欄は的確に面白く感想文を書いている。ただ古い本ばかりである。古い本だからこそ忌憚なく感想を書けるのだろう。このように本音で書いた感想文はどこかにないだろうか。やはりアマゾンなどのネットになるのだろうか。

以上

2011年2月12日(土)
ニック・レーン著 斉藤隆央訳「生命の飛躍」を読んで

本書は生命の源から発して、著者が選んだ生命の進化の10の革命について記述したものである。専門的な知識に基づいてやや難解な箇所もあるが、おおよそは平易で読みやすく理解できる。著者の広範な知識と軽快で示唆に富んだ文章は思わずに引き摺り込まれてしまう。ただ、過去の論点に反証し現在の学説を踏まえて結論を導き出す過程の全てを理解するには精読してなおかつ他の書物も読む必要があるであろう。本書は生物学的な書物であり、生物の持つ各種の意味について哲学的な領域まで求めるのは無理であるが、というより著者は科学的な根拠に基づいてのみ解説しているが、生命の各種意味について考えさせられたことは確かである。私なりにその結論を出していきたい。なお、本書はガイア論などとは無関係な、純粋に生命の進化について記述したものである。

この本で特に感銘を受けたのは、電子、プロトンを基礎に置いた理解と、深海における生命の誕生、それに細胞の丸ごと飲み込みによる「食作用」などである。10の革命を記述すると同時に、短文で何が書いてあるか、メモを残しておきたい。

1) 生命の誕生
深海の熱水墳出孔から生命は誕生した。高温の硫化水素を含んだ混合物から硫黄細菌は有機物を作り出せるらしい。エネルギー源は硫化水素と酸素ではなく、硫化水素と鉄との反応で黄鉄鉱ができる過程にて得ていた。なお、それ以前に、マグマと海水の反応により、二酸化炭素はメタンへ、窒素はアンモニアへ、硫酸塩は硫化水素へと変化している。いや、「生命はアルカリと強く還元された熱水溶液とを収めた鉄硫黄化合物の泡の集成によって誕生した。」というのがどうも正解らしい。精読が必要であるようだ。

2) DNA
DNAのコピーはメッセンジャーRNAを介して行われ、DNAの3文字のグループでアミノ酸1個のコードを指定する。そして、20個のアミノ酸を指定する。細菌と古菌類の祖先は熱水孔の岩石の小部屋から生じたが、DNAがRNAに読み取られ、RNAからタンパク質へ翻訳されるプロセスは基本的に同じであるが、DNAをコピーする酵素は異なっている。すなわち細菌と古菌類とでは、DNAのコピーの進化が一度は古菌類で二度目は細菌で起こったらしい。即ち両者は岩石の小部屋からであっても別々に誕生している。一般的DNAの話は省略。

3) 光合成
光合成の廃棄物にすぎない酸素が世界を生み出している。つまり空中のオゾンが紫外線を遮断するからだ。この遮断によって水の水素と酸素への分解を抑えられ、即ちこの海があることを守っているのである。光合成とは電子の問題であり、二酸化炭素にいくつかの電子を加えて、陽子(プロトン)もバランス上加えると有機分子である糖ができる。植物では電子を取り出す作業は葉緑体の中で行われる。光合成の理論の核心には「Z機構」がある。電子のエネルギーからみると、Nの方が理解しやすいようだ。

4) 複雑な細胞
原核細胞である細菌とそれ以外の生物との隔てるのは細胞レベルの構造の違いである。真核細胞の核は、核の外もその振る舞いも、原核細胞に比較し複雑で、細菌などの原核細胞に比べ1〜10万倍の容積がある。リボソームRNAによると、細菌、古菌類、真核生物に系統して図化できる。ダーウィンの進化論をかき乱すプロセスとしては、遺伝子の平行移動と全ゲノム移動がある。真核細胞の進化については「元始食細胞説」と「運命の出会い説」があるようだ。

5) 有性生殖

有性生殖はクーロンなどと比較し生殖の方式としては不利である。即ち、有利な遺伝子の組み合わせを壊し、パートナーを得るためのコストが必要などなど。でも、有性生殖は減数分裂によって染色体が複製され2セット、両性合わせて4個の染色体を組み合わせ、過去に存在しないような新しい組み合わせを作ることにある。このことにより「良い」と「悪い」遺伝子は個体に正味の利益はもたらさないが、集団として変異の排除や広まりにおいて遺伝子の好ましい組み合わせを作り、種を保存することにある。ただ、個体にも直接的な利益をもたらす説もある。

6) 運動
生命の活動の捕食者と獲物、「牙と爪を真っ赤に染めて」が運動をほのめかしている。筋肉の収縮は筋原繊維のフィラメントで相互に「滑る」ことが生じるらしい。いわゆる「サルコア」を構成しているフィラメントが関係している、「フィラメント滑走説」である。これはたんぱく質の働きをエネルギー減として利用しているようだ。

7) 視覚
視覚は多くの情報を提供してくれる。前方の水晶体のレンズ、後方の光感受性のシートである網膜から構成される。網膜の光受容細胞は奥にあって、それを覆うようにニューロン細胞が前を通り、迂回しながら脳へと伸びている。このニューロンの森を潜り抜けないと光受容細胞に到達できず、網膜を貫いて奥へ潜っているので、網膜のその場所は盲点となる。半分出来上がった目、即ち網膜だけを背中に持った生物もある。目だけで何回か進化を遂げている。

8) 温血性
当然「温血」の生物が「冷血」の生物よりも酸素の利用率も、スタミナやパワーも2倍になる。この代謝に必要な食物は多量に必要で、いわゆるコストが必要なのである。このおかげで得ているのが生息環境の拡大である。スタミナがあるのであり、生存と生殖に関係しているらしい。スタミナを選択することは高い最大代謝率を得ることで、安静時の代謝率も高くなる。これらの代謝率には相関があるようで、この差が大きい生物と小さい生物があるが、また爬虫類のように「冷血」動物もいるが、草食に含まれる窒素をどれだけ摂取できるかが「温血」と「冷血」の生物学的分岐を与えたのかもしれない。不明。

9) 意識
「意識」、「感情」、「知覚」などを理解できるのは私には容易なことではない。ただ、意識は数十ミリから数百ミリの単位で動いている。40ミリ秒の間隔で見せられた画像は二番目だけを記憶している。意識は画像を見ているようなものだ。「拡張意識」とは言葉や社会などによる人間の心の成果、「中核意識」は情動、欲求、痛みなど元始的な自己認識。『中核意識は、今この瞬間に働いており、一瞬ごとにそれ自体を作り直し、外界の対象による自我の変化を描きだすとともに、知覚に感情をまとわせている。拡張意識も同じメカニズムを利用しているが、ここでは記憶と言語を各瞬間の中核意識に結びつけ、自分を客観視した過去によって情動的意味を付与したり、感情や対象を言葉で分類したりしている。したがって、拡張意識は情動的意味の上に築かれ、記憶や言語、過去や将来を、今この瞬間に中核意識に統合させているのだ。』この引用した説が正しいかどうかは分からない。勉強が必要なようだ。

10) 死
死にはそれに見合う利益があるからだ。つまり同じ遺伝子できているものの生は利益がないからだ。環境に応じて変わり分化する細胞を保つためにも死はあるのである。老化は治せる。老化と死はおそらく種全体の利益になるようにプログラムされている。生殖と長寿がトレードオフの関係にあるらしい。サケは生殖にすべての生の資源を投げ打ち死ぬ。使い捨ての体細胞は生殖細胞の隷属となり、体全体としての利益が大きくなる。最も特殊化した細胞は人の脳のニューロンである。死ねば取り換えがきかないはず。

以上の短文を書いている中で感じ取ったことが一つある。それは「良い」と「悪い」遺伝子の種としての排除である。有性生殖をおこなうと種として「悪い」遺伝子を排除できない。例えばマラリアに罹りやすいかどうか、罹りにくい良いAと罹りやすい悪いB遺伝子の組み合わせで、AAは正常、AB、BAは発病せず、BBはマラリア病になるとしても、有性生殖ではリスクを犯してもこの遺伝子の組み合わせで生殖する。即ち、1/4はBBとなりマラリアに罹って死ぬのである。即ち5)で述べた、遺伝子を組み合わせることで多種の種を作り、種を保存するためである。ただ、医学・科学の発達によって死を免れたとしたら、種はより多く保存される。即ち医学・科学の発展によって、悪い遺伝子を持っていても死なずに生きながらえる人が増え、種として期待以上の繁栄を誇ることになる。このことは結構多くの人が述べているのであるが、この科学の進歩による生存確率の向上は何を意味しているのだろうか。淘汰されずに栄えるとは有り得るのだろうか。ちょいとした感想である。難しい問題であるので今後も考えてみたい。

以上

2011年2月7日(月
小野絵里華、カナエ・ナハの詩を読んで

これらの「詩を書く人」の詩は、ユリイカ2011年1月号に掲載されている。小野絵里華は「金魚姫」、ネットにて「流体時計の思い出」も読んでいる。カナエ・ナハは「Un Chant d'Amour(愛の唄。または悪人とは月明かりに踊るネクタイ/詩とは見えるものと見えないものの断絶。)」である。

ちょいと現代の詩人の詩を読んでみたが、とてもとても好い詩だなと感嘆した。久し振りのことである。基本的に述べることが隠されているか、無いことがとても良い。言葉を書いているからには何かを述べているのだろうが、赤裸々に表れずに、何を書いているのか分からないのが好いのである。書いている言葉の音感とリズムと想起できそうでできないイメージ、即ち質の良い変調された言葉の散文的な音楽を聞いているような心地良さがこれらの詩にはある。

小野絵里華の「流体時計の思い出」は習作のような気がする。「金魚姫」のように言葉が変調されていずに書かれていて、のっぺりとした感があり、また『ある日少年は・・・』以下と二つに分かれていて繋がっていないし、最後の『・・・お母さんなのでした。』は唐突な気がする。でも、発想そのものは格段に良いし、才能があることが分かる。私は「金魚姫」が好きである。この詩は表層的には彼氏が居そうでいないような、エロっぽい濃厚な女のようで、もしかしたら中性洗剤を溶かしこんだ水液的な性欲だけを望んでいる女の幻想的な恋の思い出を描いているのかもしれない。果たしてこの女、金魚姫は本当に金魚に恋をして子どもを生んでいるのだろうか、生んだ子どもを嫌い踏みつけているのだろうか。この最後の踏みつけるのも上の文と合っていて素敵な終り方である。

どうもこの詩は読むと言葉が時間とともに突っかかるのである。おやと思って読み直しをするとこの詩には堂々巡りをしながら進み、遡っては戻り、解体しながら構築しているとも思われる言葉と時間があるのである。空間は在るような無いような、懐かしい縁日を思い出しながら現在が在る。ただ、決して時間は未来に向けて進んでいない。問いかけても未来は誰にも分かるはずがないのである。解体された不思議な時間の流れと豊かでもあり濃密で、でも素っ気なくもある感性と言葉が繰り広げられていて暫し酔い痴れるのである。たぶん行間もしくは言葉の奥に濃密な抒情が流れている気もする。彼女の主テーマは思い付いているがここに書くことは止める。二作品しか読んでいないため確信が持てないためである。

カナエ・ナハのジャン・ジュネに捧げる愛の唄は何もジュネに捧げていないのである。その実、きっと彼女のジュネに向けての愛が濃密な言葉の連なりに織り込まれていて、その濃密さを薄めて消した切なる愛の思いが伝わってくる不思議な詩である。最後の十行程はどう読むのか理解できなかったが、それはどうでも良くて、読めればベターであった程度であろう。短文で区切った言葉が、イメージを発散させるのではなくて凝縮させるジュネに向けた想起となる。句読点なしに連なった文章が、ジュネなる死者がジュネの殺した死者が死刑を求めて行列のように並んでいるだけのようにも思われて、反対に想起を拒絶しているようにも思われる。

カナエ自身が「詩とは見えるものと見えないものの断絶」と述べているが、この意味がよく理解できないが、この詩は想起を拒絶しているが故に想起させる詩であると私は思っている。きっと「詩とは見えるものと見えないものの断絶」ではなくて、言葉である限りに見えるものと見えないもとを引っ提げて、片方も両方も伝えることができるのである。死者はその肉が骨だけとなって見えていても、灰となって消えて見えなくなっても、きっと詩の言葉として伝え想起させることができる、生者も同様に想起させるのが可能であって、それを表わすことができるのが詩であるはずである。きっと詩では何もが見えるか、何もが見えないかのどちらかであろうと私は思っている。

そしてついでながら、詩についてこのような定義の表現はしない方がいいと思う。この辺を書き出すと長くなるので、またどうでもいいことなので止めよう。詩はどう書こうと勝手な、自分の思うように書く楽しみでもあるはずで、言う方も勝手な言い分をただずらずら書いているのだから、もう言うのは止めよう。

この非常に素晴らしい詩の最後が『神はしぼんだ。神は空っぽだった。』は、別の引用に変えて欲しいとは思うが、作者がそう書きたいのなら仕方がない。でもあまりもありきたりではないだろうか・・。全くジュネには関係ないが、神が現れるなら思い切ってサイコロを振らせるのがいい。なぜ神などなぜ出すのだろうか。その真意が分からない。素敵な詩なので、終り方にはきっちりとした締めが必要だと私は思っている。

伊藤比呂美も若い頃には好い詩を書いていたが、年老いてからはからっきしである。念仏ばかりを唱えている。でも、好い詩の選択ができるのも才能である。小野絵里華、カナエ・ナハには好い詩を書き続けて欲しい。二人には久し振りに好い詩を読む楽しみを与えて頂き感謝している。

以上

2011年2月3日(木)
藤井貞和著「日本語と時間」を読んで

昔の日本語では時間を表わす、藤井貞和が「助動詞」と呼ぶ「き」、「けり」、「ぬ」、「つ」、「たり」、「り」、ついで「けり」、「あり」を含めて合計八種類の言語が、現代では「〜した」、「〜したろう」、ついで「する」を加えても三種類となり、多様な時間の表わし方が失われたとのことである。従って藤井貞和は出来る限り原文に忠実な現代語訳を試みたいということで、八種類の時間表現を源氏物語などの古典を引き合いに出し、文法的に解析し説明したのがこの本のである。著者は日本語の時間に関する表現は古文にて確かめることができ、時間の本質は〈現在〉や〈過去〉、〈経過〉を表わすものであり、〈動〉でも〈不動〉でもないとする。この時間に関する考え方は本書にて確認して頂きたい。良心的でかつ挑戦的な著者の意図はこれからも続くのであろう。特に図化された時制に関する助詞の遷移図は納得させられるものがある。

昔、岩波の古典文学大系全100冊の内、私は半分弱を読んだことがある。古文の文法は苦手で成績も良くなかった。でも果敢に挑戦して、「源氏物語」全5冊や「今昔物語」も確か全5冊なども注釈をたよりに読んだ。人間臭くない「古事記」や「古代歌謡集」が好きで、反面臭みが匂う中世以降の作品が嫌いである。文法に疎い私に本書はあまり役に立たなかったが、また学問的にも知識がなく何も言うことができないので、本書に書かれた著者のごく一部の意見に少々感想を述べたい。

現代の書店にあふれる小説が、〜た、〜た、〜た、の文末でいっぱいだ、という著者の意見に私も大いに賛成である。この〜た、が現代の所説の文章を貧弱にし、読む気の起こらないものにしている。中途半端なありきたりの説明的文章が多い。もっと削ぎ落として簡潔にするか、豊饒に華美にするか、独自の文体を確立して欲しい。

著者が引用している「婦人記者のはがき(工藤幸雄)」は素晴らしい作品だと私も称賛する。改行するだけでこれだけの詩作品ができるのか、感嘆するものである。改行は本当に難しいと私自身も思っている。改行によってイメージが全く異なってくるのである。さて、『ホロホロと泣いたのだっけ』の解釈であるが、著者の言うように「詠嘆」と捕えるのが自然なのだろうが、文法を知らない私がこのまま文を読むと「過去推量」と捕える。即ち、泣いたことを3割、泣いた状態(ホロホロ)を7割過去推量していると思う。『今も不思議。なぜあの日、母は泣いたんだろう。』は著者の言うように過去推量である。この文の過去推量は『ホロホロと泣いた』このことを確定させると同時に、当然ながら泣いたその理由を問うているのである。この理由に答えがないことはあとの文からも分かるが、この詩の私の好きな点は母の泣いた理由の分からない私も同じ母の立場に立つことにある。果たして同じように泣くのだろうか。泣くとしたらその理由は? そして「さめざめ」でも「おろおろ」でも「しくしく」でもなく、「ホロホロ」と泣いたことにある。本当に「ホロホロ」と泣くとはどんな風に泣くのだろう。ぜひ知りたいものだ。

あとがきに古文を読む際に文法が道しるべになって欲しいとある。できるだけそうしたいが、私は古文など意味など分からなくとも、音感が、その醸し出す不思議な音律が、素直に表現された感情が好きなのでる。もっとも素直に表現されているのが古代歌謡集である。源氏物語は臭みが匂う。もっとも物語、小説とはどれも匂いを発散させていてその匂いが好きか嫌いかの好みの問題であろう。古文を読むとしたら自分で読むのではなく誰かに読んでもらいたい。耳で音を聞き楽しみたいとう望みがある。昔子守唄のように古代歌謡集などを読んでもらった記憶がある。

以上

2011年1月30日(日)
芥川龍之介著「地獄変・偸盗」等を読んで

読んだ本は、「地獄変・偸盗」、「羅生門・鼻」、「蜘蛛の糸・杜子春」、「河童・或阿呆の一生」、「侏儒の言葉、文芸的な、余りに文芸的な」である。駆け足で斜め読みをした作品もある。感想文は谷崎との論争を中心にして短めに記述したい。

以前、谷崎の「春琴抄」を読んだ感想文で、芥川龍之介につき『研ぎ澄まされた感性からか、少しぎすぎすしていて滑らかさを欠いており、生きる意味そのものを疑い否定する意志が働いているように思われる。』と書いたが、この感想は今も変わっていない。どうも何事にも懐疑的で心を安らがせることも、高揚とさせることもできない。無論、各作品で文章は微妙に異なっているが、つっかえずに素直に読めるのは「或阿呆の一生」、「歯車」などの遺稿である。この遺稿には不思議な雰囲気があり、再読も可である。あと良いと思ったのは「藪の中」、「トロッコ」、「地獄変」(本当に良いのだろうか?)だけである。ただ、どの作品も中途半端な気がする。もう少し作品として完成度をあげることができたのではないだろうか。また教訓的で恣意的で作為的でとても懐疑的である。漱石や谷崎と比較して申し訳ないが作品・文章ともに劣る。短編作家としてはウィリアム・トレヴァーなどの現代作家の方が読みやすい。

谷崎潤一郎との論争は、小説の筋を中心にして行われたらしい。芥川が小説には必ずしも筋は必要ないのではないかということから端を発して、谷崎は筋の面白さを主張する。どうも芥川には後述するが小説の表現の可能性を模索していたらしい。小説を書く基盤となる「感性」も「構成」も「題材の発掘」も「精神的強度」も異なる二人が合うわけがないのである。二人は友達だったらしいことが不思議である。この論争は芥川をたいぶ傷つけたらしい。以下は、「文芸的な、余りに文芸的な」より引用した谷崎の主張である。なお、谷崎の主張は「 」で示してある。

「およそ文学において構造的美観を最も持ち得るものは小説である」
「筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまう」
「芥川君の筋の面白さを攻撃する中には、組み立ての方面よりも、あるいはむしろ材料にあるのかもしれない」
「詩的精神云々の意味がよく分からない」
「ゲエテの偉いのはスケールが大きくてなおかつ純粋性を失わないところにある」
僕ら二人の議論の相違は「おのおの体質の相違になりはしないか」

これに対して、谷崎の引用した芥川の言葉がある。
「純粋であるか否かの一点によって芸術家の価値は極まる」
あと本書の最初に芥川が次にように言っているのは本心のはずである。
「僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思っていない。従って「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言わない。第一僕の小説は大抵は「話」を持っている。

私の結論だけ言うと、谷崎の主張に分があると思っている。ただ、解説で平出隆が、芥川は詩に関心を持ち、『小説の中においてこそかえって露わになる詩の色彩について、その可能性を手さぐりしようとしていたのである。』 どうも芥川は萩原朔太郎とも交流があって詩歌を含め表現の可能性を探っていたようである。ただ、『朔太郎は、雑誌に出る「侏儒の言葉」などに詩人芥川龍之介を見出そうとしたが、・・・ついに、ただ「詩を熱情している小説家」という断定に達した朔太郎は、「詩が芥川君の芸術にあるとは思われない」と公言し・・・』ということで、芥川は萩原朔太郎からも谷崎潤一郎からも見放され、論争は芥川の死によって終る。

志賀直哉を最も純粋な作家「道徳的に清潔」として持ち上げ、精神的生活は道徳的属性を加えることにより広がると述べると同時に谷崎を悪魔主義と呼ぶ芥川龍之介は、狂気によって死んだ母の血を受け継いだのか、どこか狂気を内在している。ただ芸術至上主義とともに詩的抒情にしがみ付いて、これら主張する芥川龍之介は内在する狂気を冷静に見詰めて客体化している。ただ、母が狂気で死んだことは彼の生を根底から揺さぶる事実だったのだろうと思われる。

面白いには、芥川龍之介が筋のない小説を認めていたのである。詩的抒情を渇望していたのである。文章表現の可能性を飽くなきに追求していたのである。ただ、彼のあげた成果は芳しいとは思わないが、この観点から見直して研究されてもよい作家であると思われる。

以上

2011年1月24日(月)
鈴木志朗康著「声の生地」を読んで

図書館に置いてあったので、ひょいと借りてみた。昔読んだ詩人で面白かった記憶があったからである。はやり年老いて、他の年老いた大部分の詩人と同じく詩の内容、文体、精神、思想が様変わりしている。彼の場合、極端に変わっていて言葉が小石のように硬く確かな意味を持っていて、なかなか読み通すことができなかった。良い詩は柔らかく連なる言葉の奥にかすかに意味が潜んでいるものなのである。言葉そのものを楽しむことができるのである。固有名詞とまっとうな言葉による言葉の定義は殆ど読むに耐えないものである。どうも自己史のようなもので、散文で書いた方がよいと思ったほどだ。ただ、精神は昔の狂いから抜け出て、ある種の安楽さを得ているように思われる。

昔と変わらない詩を書いている詩人は、それほどたくさんの詩を読んではいないが、安藤元雄と白石かずこぐらいか。高揚として張り詰めた精神が孤独に少し郷愁を含めて書く詩や言葉を読んで楽しむことのできる詩などが私は好きであり、そういう詩には若い人を含めてなかなか出会うことができない。まあ、気長に待っているか。そのうちに出会えるに違いない。

以上

2011年1月21日(金)
モーリス・ブランショ著「明かしえぬ共同体」を読んで

本書は、マルグリッド・デュラス著「死の病・アガタ」を読んだときに、モーリス・ブランショがこの「死の病」について論じていると知って読んだものである。読んでも難解な文章のためかよく分からなかったが、訳者西沢修一があとがきにて、本書の書かれた政治的、思想的背景を丁寧に説明してくれていたため、おおよそ理解することができた。なお、詳しく説明すると長くなるので、簡単な感想文としたい。本文の引用は、『 』にて示している。

まず本書は、ジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」に呼応して書かれたものである。そして、T 否定的共同体  U 恋人たちの共同体 として、前者はジョルジュ・バタイユの著作・体験について、後者はマルグリッド・デュラスの「死の病」について、共同体の視点から記述したものである。なお、ジャン=リュック・ナンシーの「無為の共同体」は全体主義を批判するために記述したものであり、本書でもファシズム、ナチズムに関して述べている。この共同体の考え方は、ナンシーとブランショどこがどう影響しあったのか知らないが、重なり合った同じ考え方らしい。またモーリス・ブランショはジョルジュ・バタイユやマルグリッド・デュラスとは現実的な知人・友人の関係であったとは驚きでもあった。

『死にゆく者の隣人 それが共同体を基礎づけるものである。』この考え方が共同体の基本的な考え方である。『共同体は・・・いったい何の役にたつのか。死にさなかにいたるまで他人に対する奉仕を現前させ、そのことによって彼が、孤独に消えるのではなく、死のさなかで自分が誰かに代補されていると感じ、同時にこうして得ている代補を彼がもうひとりの他者にもたらす・・・』とブランショは言う。つまり彼の死がわたしに受け渡されるが、ただこの死をわたしは替わることができない。この結果人間の有限性が露わになってくるのである。西沢修一は『<共同性>とはまさしくこの「ひとがひとりで死ぬことができない」という事実にあるのである。そこで露わになる自己と他者との非相互関係は、両者を対照的な個として措定する可能性を奪い去り、ただたがいの差異をさらし合うだけの<特異な>者同士として両者を隔てる。人間の有限性はこのように<分割>として現れるが、この<分割>、両者を有限なものとして分かつこの限界が・・・<共同体>の逆説的な実質なのだ・・・』と述べる。つまり『生産する者としての人間の、生産の営みのための共同体ではなく、むしろそうした営みを失い、何がしかの目的に従う組織となりうる可能性を失って、無為の中で接し合う存在者のコミュニケーションによってのみ存在しうる共同体である。』

以上、ブランショの共同体についての考え方を簡単にまとめたが、分かりにくい点もあり詳細を知りたければ本書を読まれたい。この共同体とは、当時の政治的、思想的な背景がとても重い影を残しているようである。ブランショのデュラス著の「死の病」に関する評論は微細を極めていて、なるほどと納得させられたものである。ただ、賛同するかどうかは、つまり「死の病」が表わすものの評価については少し検討してみたい。なぜか、微妙に隔たりを感じているのである。確かに、共同体において死は他者に隣人として影響し共有され得るが、そして差異をさらけ出すかもしれないが、<特異な>者同士として両者を隔てて人間の有限性がこのように<分割>として現れると断定できるかは疑問だからである。即ち、「共同体」、「個人」、「死」の関連の再検討が必要と思われるのである。実存主義は基本的には個人主義であると思っているが、即ち共同体には触れていなかったと記憶しているが、サルトルはマルクス主義に傾斜したはずであり、彼が共同体についてどのように考えていたのかも興味深い。

まとまりを欠いたが、最後に、ブランショの最後の文章を引用して終えたい。『明かしえぬ共同体、これははたして、この共同体がそれ自身を明らかにすることはないということを意味しているのか、それともこの共同体には、その実態を明らかにするいかなる告白もありえないということを意味しているのだろうか・・・』 そうだ、この本の題名は「明かしえぬ共同体」だったのである。

以上

2011年1月8日(土)
佐藤勝彦著「インフレーション宇宙論」を読んで

佐藤勝彦は著名な宇宙物理学者であり、インフレーション理論の提唱者の一人でもある。また、ホーキングの翻訳も行っており、この翻訳本は何冊か読んだことがある。本書は朝日カルチャーセンターでの講義内容をまとめ、加筆・再構成したものである。非常に読みやすく分かりやすい本である。講義であり、語りかける口調で話される佐藤勝彦の優しく楽しげな表情が浮かんでくる。

特に、構成がいい。全部で6章ある。「インフレーション理論の以前の宇宙像」から始まって、「「人間原理」という考え方」でまとめられる筋立ては、論理的であり非常に納得できる。当然、その間に、インフレーション理論そのものやその後に生じた新たな謎(即ちダークエネルギーなど)、宇宙の未来、マルチバースと展開されていて、頭の中がきちんと整理できる。

ただ、二、三分かりにくい疑問点あった。「無」と「真空」と「時間も空間もエネルギーもない状態」の区別である。『「無」とは、われわれが考えがちな、宇宙空間に物質が何もない状態という意味ではありません。時間も空間もエネルギーもない状態です。』と言われているときの「無」の定義である。最初の宇宙の始まりは、無の場所にボールがあるとエネルギーは持たないが、量子論では揺らぎがあり、「トンネル効果」によってトンネルを抜け出ると、坂道を転げ落ちるように宇宙はポテンシャルエネルギーによって膨張する説明されている。即ち「無」とは「時間も空間もエネルギーもない状態」であるが、量子論的にはボールなる点、即ち物質が在ることもあり得るということらしい。この点がどうも分かりにくい疑問の一つであり、もう少し調べてみたい。たぶん、在る、無い、まだ決まっていない、の量子論の三値のうちに、「まだ決まっていない」ものが「在る」になった時のことだろうと思っている。

ホーキングなどがやはり量子論から提唱する「宇宙の始まりは特異点ではなく」つるんとした「果てのないもの」から始まったという説にも触れているが、とても興味深い。確かホーキングの本に書いてあったと思うが、ここでは割愛する。

一方「真空」とは粒子と反粒子がペアで生まれて消滅する繰り返しを行っている、物理的な実体がありエネルギー持っているということである。そして、この真空エネルギーは斥力として働き急激な加速膨張を引き起こし、空間を急激に押し広げると、宇宙の温度が急激に下がり、真空の相転移が起こり、真空エネルギーは熱エネルギーに変換するということである。即ち、ビックバーンという火の玉宇宙になったということである。この真空エネルギーは重力の「ポテンシャルエネルギー」で説明できると言う。即ち、宇宙は落下し続けてポテンシャルエネルギーを失う代わりに「真空エネルギー」を増加させ、この真空エネルギーが潜熱となって熱エネルギーに変わり、火の玉宇宙になったということである。また『真空のエネルギーは不思議なことに、宇宙がどんなに膨張しても密度が小さくなることがないのです。』と記述されている。この意味が、宇宙が落下し続けているために最初に最大であったポテンシャルエネルギーが真空エネルギーに変換されたとすれば理解し得るが、なぜ真空エネルギーに変換されなければならないのかは理解できない。またポテンシャルエネルギーとは位置ネネルギーと私は理解しているため、宇宙は何に対して位置エネルギーを失っているのかについても分からない。この辺についてはもう少し詳細に他の本などを含めて読み調べてみたい。

「人間原理」については『強い人間原理は・・宇宙や空間の次元などは、人間は存在するために作られているものです。』とは、私も同様に思っていない。佐藤勝彦が言う『究極の物理法則ができたとき、その方程式の中には数値はないはずだと思っています。』と同意見である。人間が存在するは偶然なのであり、井上ひさしが言うようにまさに「奇跡」なのである。だからといって、それ以上でもそれ以下でもなく、確率的に稀な現象であるという事実だけであり、この事実に意味は含まれないと思っている。

以上

P.S.佐藤勝彦 他著「シリーズ現代の天文学 宇宙論T――宇宙の始まり」において、次のように記述されている箇所があり参考にしたい。『宇宙とは物質が満ちた時空多様体のことである。ビレンキシのいう“無”とは、したがって単に物質が存在しないという意味ではなく、その入れ物である時空―時空空間−も存在しない状態である。ビレンキシはこの“無”の状態から量子重力効果により作られるきわめて小さいが、しかし真空のエネルギーが高い状態にあるミニ時空がトンネル効果により作られるモデルを示したのである。量子宇宙は大きさゼロの状態からトンネルをくぐって出てくるまで、虚数の時間で膨張してゆく。・・・』

2011年1月6日(木)
マルグリッド・デュラス著「死の病・アガタ」を読んで

この本は、新聞にて「アガタ/声」デュラス、コクトー著の新訳による文庫本が発刊されたことを知って、デュラスの「死の病・アガタ」(ポストモダン叢書:朝日出版社 1986年版)を図書館から借りて読んだ感想文である。デュラスの本は何冊か読んでいるが、この本は読んでいない。偶然にも「破壊しにと、彼女はいう」はこの間読んだばかりである。やはりデュラスの文章は懐かしい。

「死の病」とはお金で何日かの間契約で買った女が白いシーツの上に裸でいる、無防備に所有されるために女が差し出されているにも拘わらず、あなたは『あなたという違いのなかに、死のなかに再び自分を見出すのだ』と彼女が言うように、違ったあなたとの間であなたは存在の病「死の病」に犯されていて、所有することができない。肉体的な関係は持ちえたが、存在的な関係性は不可能なのである。そして彼女はいなくなる。もう彼女を見出すことはできない。

デュラスは映画を作る。そのためのテキストでもあり、デュラスのト書きなのか、説明が入る。あとがきで訳者:小林康夫はこのテキストを含めてあなたとテキストの関係性、女との関係の不可能性、死の病に犯された存在やこのテキストそのものの物語性を非常に明快に論じているので、一読されることを勧める。また、どうも、ポストモダン叢書のシリーズにて、モーリス・ブランショがこの「死の病」について論じているようである。探したがこの本は見つからなかった。

「アガタ」とは近親相姦にあった兄妹の過去の記憶や思いを会話形式にて記述したものである。妹アガタは出発する決心をしている。たぶん、兄はアガタを追っていくだろう。妹はきっと再び出発するだろう、その妹アガタを追って兄はまた立つに違いない。二人は同じなのだから。離れることができないのだから。ここで注目すべき点はアガタという名前である。アガタは場所の名、妹の名、記憶の名、透明な肉体の名などなどによって、名づけられると当時にその名は固有ではなく、汎用でもなく、名前という特権を剥奪された名前である。この「アガタ」は映画化されているようで見てみたいものだ。

デュラスはこの本を出版した翌年に自伝とも言われる「愛人」を出しているようだ。ベストセラーになったこの「愛人」の方が、既に記憶が薄れているが普通の物語であり面白かったような気がする。ただ、「破壊しにと、彼女はいう」でも書いたように、シナリオ・物語として書かれたこの作品ではデュラスの内包する非Aを描き出している。即ち膨大なる非Aの空白が、この非Aが存在に襲いかかるように被さっていて、このために存在は他者との関係性を失い、自己が引き裂かれ、言葉も物語も失われて不毛であり、その中でしか人間の存在は生きられないというのがデュラスの主張である。白いシーツ・紙・裸体なるエロチシズムや破壊、消滅しかかっている言葉と物語、海の音と涙、この辺りの描写は、会話を通じた言葉そのものとともに不毛な存在を理解するための重要な手掛かりなのだろう。そして単調なるが故にデュラスが読者に提供した微かに抒情を含む美しい描写・映像でもあると私は捕えてしまうのである。機会があれば、また違うデュラスの作品を読んでみたい。「廊下に座っている男」などは面白かったはずである。

以上